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2021年7月2日金曜日

Emile Zola: L'Assommoir(居酒屋)

著者:Emile Zola

刊行:1876年

評価:★★★★★

Kindle版(無料)

2021年6月27日読了

タイトルのL'Assommoirは仏和辞書によると「【古・俗】(安酒を飲ませる)酒場.居酒屋」という意味だが、この小説では主人公夫婦行きつけのパリの安レストラン兼酒場の屋号を指す。つまり固有名詞だ。日本では「居酒屋」という表題が定着している本書だが、今時の感覚からするとちょっとそぐわない。言葉が内包する意味は時代とともに変わる。izakayaとして外国に紹介され、少なからぬチェーン店も存在する平成や令和の「居酒屋」は本書の内容や雰囲気とはかけ離れている。昔風の「酒場」としたほうがしっくりと来る。

苦労しながら読んだ。ストーリーが複雑なわけでもなく、内容が難解なわけでもない。未知の単語が多すぎるのだ。その多くが古い表現や俗語で、辞書を引いても載っていない。写実主義のゾラらしく、洗濯屋、ブリキ工、鍛冶屋などの労働現場、結婚式をはじめとする祝いの場での飲み食いとどんちゃん騒ぎ、安アパートの内部が事細かく描写されるが、その半分も理解できず、ただ単語を目で追うだけというありさまだった。本書より10年以上前に刊行されたレ・ミゼラブルのほうがはるかに読みやすかった。したがって「読了」と言うにははばかられるが、あえて仏語で読むことで、邦訳や英訳にはない生々しい雰囲気を感じられた(と強弁しておこう)。

主人公はジェルヴェーズ (Gervaise) という女性。息子2人を連れて愛人(ランティエ)と一緒にプロバンスからパリにやって来たが、ランティエは彼女を捨てて別の女のもとに走る。幸い、ブリキ工として働く実直な男(クーポー)に求婚され、新しい世帯を設けて、娘(ナナ)も生まれる。

しかし幸せは長くは続かない。クーポーが仕事中に屋根から転落して働けなくなったのだ。怠け癖がついたクーポーは傷が癒えたあとも仕事には行ったり行かなかったり。酒浸りになり、妻や娘に暴力を振るうようにもなる。おまけにクーポーはこともあろうにジェルヴェーズの元愛人のランティエを自分たちの住居に連れ込み、ともに住むことを許してしまうしまつだ。

そんな中でもジェルヴェーズは洗濯屋を開き、何人かを雇って懸命に働く。このころが彼女の絶頂期だったかもしれない。だが夫の怠け癖と酒癖は直らず、洗濯業も傾きはじめる。仕事をおろそかにするようになったジェルヴェーズは、夫を探しにでかけた飲み屋で勧められるままに酒を飲み、その味を覚えてしまう。

あとは転落の一途だ。夫のクーポーは精神病院に入院させられ、そこで狂い死にする(この狂い方の描写もすさまじい)。その後を追うように、ジェルヴェーズもひっそりと息を引き取る。

救いのないストーリーだ。こうした悲劇はジェルヴェーズだけのものではない。その隣人や知人の多くも同じような問題を抱え、同じような悲劇に巻き込まれていく。酒と暴力と貧困。これらが互いに因となり果となり、悪循環を繰り返す。この風景が19世紀中葉のバリをどこまで忠実に写しているのかはわからない。しかし150年後の現代、フランスのみならず世界各地で同様の悲劇が形を変えて繰り返されていることを思えば、絵空事ではないことだけは確かだ。

いくつか忘れられない場面がある。ジェルヴェーズと同じアパートに住む幼い少女ラリー(Lalie)は妹と弟の面倒を見ながら、酒乱で乱暴な父親と一緒に暮らしている。ジェルヴェーズはなにかとラリーを気にかけ、少女に暴力をふるう父親に体を張って抗議する。しかし、ラリーは父親をかばい、擁護する。そのけなげさが痛ましい(最後には父親の暴力がもとで死ぬことになる)。ある晩、酒に酔って帰ってきたジェルヴェーズは廊下でラリーに出会う。泥酔状態のジェルヴェーズを無言のまま見つめるラリーの目。失望なのか、憐憫なのか、軽蔑なのか、複雑な眼差しだ。

もうひとつ。ジェルヴェーズの娘のナナは幼いときから我が強く、近所のガキ大将といったところだった。やがて思春期に達したナナは近所の同年代の少女たちを引き連れてパリを練り歩く。この様子が「失われた時を求めて」の第2篇「花咲く乙女たちのかげに」でジルベルトたちの一団が登場する場面を想起させた。一方は「不良少女たち」と言ってもいい労働者階級の娘たちであり、他方は豊かな中産階級の娘たちだという違いはあるが、どちらも颯爽としており、華やかで、絵になる。ナナはゾラの後の作品「ナナ」では高級娼婦として登場する。

実はL'Assommoirの前に、同じくゾラのGerminal(ジェルミナール)を読むつもりだった。だが4、50ページほど読んだところで挫折してしまった。鉱山での労働の様子がまったく頭に入らなかったからだ。L'Assommoirがこれほどおもしろいなら、Germinalもおもしろいに違いない。傍らに英訳を用意してでも、もう一度挑戦したい。

2021年6月22日火曜日

Elias Canetti: Die Fackel im Ohr


著者:Elias Canetti

刊行:1980年

評価:★★★★☆

2021年6月9日読了

1981年にノーベル文学賞を受賞したElias Canetti(エリアス・カネッティ)による自伝3部作中の第2部。タイトルのDie Fackel im Ohrは英訳ではThe Torch in My Ear、邦訳では「耳の中の炬火」となっている。

第1部のDie Gerette Zunge(救われた舌)を読んだのはいつだっただろうか。20年くらい前になるかもしれない。おもしろかったいう印象は残っているが、内容はほとんど忘れている。第2部の本書は当然第1部に続くものであり、第1部が前提となる。したがって、Die Gerette Zungeを読んでいないと(あるいは私のように忘れてしまっていると)不可解な部分も若干出てくる。といっても、本書のコアの部分は第1部の知識がなくても十分に理解でき、楽しめるだろう。

Elias Canettiはスペイン系ユダヤ人としてブルガリアのルセに生まれた。母語はラディーノ語(古いスペイン語)だが、幼いころイギリスに移住し、フランスやオーストリア、スイスにも滞在経験があることから、英語とフランス語、ドイツ語にも通じていた。小説をはじめとする作品はすべてドイツ語で書かれている。ユダヤ人ではあるが、その意識はあまり強くない。あえてアイデンティティを求めるなら、「ヨーロッパ人」というのが一番ぴったりとするだろう。この点、同じくユダヤ人ではあるが、ヨーロッパを強く意識していたシュテファン・ツヴァイクと共通する。

本書がカバーするのは1921年から1931年までで、著者の16歳から26歳にかけての10年間だ。場所はフランクフルトとウィーン、それに旅行で訪れたベルリン。なかでも大学時代を過ごしたウィーンが中心となる。大学では化学を専攻するが、これは「実学」を望む母親に妥協した選択であり、著者の関心は「社会」(とりわけMasse=大衆、民衆)と「文学」にある。

母親との確執は本書の柱のひとつだ。父親は早くして亡くなっており、病弱な母と息子3人(著者と2人の弟)で第一次大戦後のフランクフルトとウィーンを生きる。母子家庭ではあるが、父親の遺産もあり、生活にゆとりがないわけではない(ここらへんのことはDie Gerette Zungeに記述されていたのであろうが、私の記憶からは飛んでいる)。母親は相当の教養人で、エリアスに大きな影響を与えていた。エリアスにドイツ語を徹底的に叩き込んだのも母親だ。しかし、第一次大戦後のインフレの中、ドイツやオーストリアでの生活はそう容易ではない。母はお金を気にするようになり、子供たちも節約を求められる。精神生活よりその日の暮らしが重要になってくるのだ。

著者はこれに強く反発する。ときには母親に怒りをぶつけ、ときには母親を欺しながら、母親からの独立を実現していくのがこの時代の著者だ。時代環境、家庭環境を考えれば、お金にせちがらくなった母親を責めるのは酷なことだ。もっとも母親を客観視し、距離とシンパシーをもって見ることができないのも若さの証かもしれない。

両次大戦間のウィーンは私にとってもっとも興味のある時代のひとつだ。1910年から1930年頃までのウィーンは私にとってはマーラーの音楽であり、ウィトゲンシュタインやウィーン学団(カルナップなど)の哲学であり、私の20代の精神世界そのものだった。

著者は哲学にも興味を示しているが、ウィーン学団は素通りされている。代わって著者を支配したのはカール・クラウスだ。本書のタイトル「Die Fackel im Ohr」もクラウスが創刊した雑誌「Die Fackel」(炬火)からきている。カール・クラウスの影響力がどれほど大きかったかは、この時代について書かれた多くの本に証言されている。文筆でもさることながら、特にウィーン人を魅了したのは彼の講演だったらしい。

カール・クラウスは今日ではあまり読まれていない。私もまったく読んだことがなく、彼についての評価は控えるしかない。

本書は処女作「Die Blendung」(眩暈)の構想が徐々に固まり、カネッティが小説家としてスタートする前夜で終わっている。Die BlendungはDie Gerette Zungeよりももっと前に読んだが、内容はほとんど覚えていない。

本書はそうすらすらと読める本ではない。ところどころでひっかかり、二度、三度を読み返すことが必要になる(読み返してもわからないケースも少なくない)。もちろん私のドイツ語能力の問題だが、それだけではなく、内容自体がむずかしいこともある。それでも、若き著者が出会う有名無名のさまざまな人々、第一次大戦後のドイツとオーストラリアの混乱などが生き生きと描かれてる本書は、多少の難しさに直面しても、最後まで興味深く読み進めることができた。

2020年11月24日火曜日

Édouard Louis: Qui a tué mon père

2020年11月23日読了

著者:Édouard Louis

刊行:2018年

評価:★★★★★

1992年生まれの若手フランス人作家Édouard LouisによるQui a tué mon père(誰が私の父を殺したか)は、En finir avec Eddy Bellegueule(エディに別れを告げて)とHistoire de la violence(暴力譚)に続く彼の3つ目の作品だ。第1作も第2作もそれほど長くはないが、この3作目は80ページ余と、ことのほか短く、Romanと呼ぶのに躊躇するほどである。なにぶんにもフランス語だから、私が読了するには数日かかったが、ネイティブのフランス人なら2、3時間で読み終わるだろう。

内容は処女作のEn finir avec Eddy Bellegueuleにつながる。続編というわけではない。処女作を補完する補遺といったところか。叙述のほとんどはTu(「あなた」の親称)を使って父親に語りかける形式になっている。

作者が生まれ育ったのは北フランス工業地帯の小さな町(作品ではvillage、つまり村となっている)である。住民の多くは地元の工場で働いている。作者の父親はリセ(高校)を終えてからの5年間を南フランスで過ごす。「現実を忘れる権利」を享受する期間を「青春(jeunesse)」と呼ぶなら、南フランスでの5年間はまさにその青春を引き延ばすためのあがきでもあった。

父親は結局生まれ故郷の村に戻り、地元の工場に勤める。しかし工場で事故に遭い、背中を傷める。その後遺症も癒えない中、不景気の煽りを喰い、工場を辞める。ままならない身体のまま、やっとありついたのは道路掃除の仕事だ。毎日腰をかがめて、長時間、道路を掃いている。

久しぶりに帰郷した作者が見た父親に昔の面影はない。歩くのもやっとの疲れ切った姿。50歳になったばかりだというのに。

父親やその周辺を支配しているのはmasculinité(男らしさ)という価値観だ。男にはなによりもマッチョであることが求められる。ゲイである作者がこうした環境に別れを告げ、高等教育を受けるまでのプロセスが処女作En finir avec Eddy Bellegueuleの主題だった。

本書は父親にまつわるランダムな思い出やエピソードからなる。たとえば2004年の次のようなエピソードを紹介しておこう。

中学校で冷戦とベルリンの壁について学んだ作者。ベルリンが壁で分断されていたという事実に衝撃を受け、好奇心をおおいにかきたてられる。ヨーロッパが2つに分かれてたなんて。道の真ん中に壁が建てられ、行き来が不可能になるとは。

作者は急いで家に帰る。父親なら壁が崩壊したときには成人になっており、もっと詳しい情報が得られるはずだ。「壁を実際に見た人を知っているか、実際に壁に触った人に会ったことはあるか」などの数多くの質問を抱えて家に急ぐ。

父親の回答は漠然としていた。「そんなことがあったね。テレビで報道されているのを見た」。しつこく質問すると、父親は怒り出して怒鳴る。怒鳴るのはいつものことだが、このときの怒鳴り方はいつもとは違っていた。怒鳴り声の中に「恥辱(honte)」が混じっていたのだ。無知であることの屈辱。学校で教える歴史と父親の歴史は重ならない。

「マッチョであること」の中には学校や教師に対する反抗も含まれ、勉強は軽蔑される。教師に平手打ちを喰らわせた作者の従兄弟は、そのことでみんなから賞賛される始末だ。かくて社会的な階段を上がることをみずから拒否し、貧困が再生産される。

物語も終わりに近づいたころ、「政治」が登場してくる。シラク、サルコジ、オランド、マクロンといった歴代の大統領の名前が挙げられ、彼らの行った社会保障の減額や労働時間の延長とった政策が糾弾される。「私の父を殺した」(実際に死んでいるわけではないが)のはこうした政治家とその政策であり、社会のシステムだ。「持てる者、支配する者」にとっては政治とは「美学の問題」であり、「世界観の問題」でしかない。しかし「持たざる者、支配される者」にとっては政治は生活に直接影響する「生きるか、死ぬか」の問題なのだ。

短い小説だが、無駄な行は一行もなく、濃密な内容がぎっしりと詰まっている。ここ数年に読んだ本の中では出色、まぎれもなくナンバーワンだ。英訳や独訳は出ているが、残念ながら日本語には訳されていない。

作者のÉdouard Louisが本書について語っている動画がいくつかYoutubeにアップされている。たとえば次の動画ではLouisが英語でインタビューに答えている。

Édouard Louis and Kerry Hudson: Who Killed My Father?


フランス語でのインタビューは次の動画。

« Qui a tué mon père », le nouveau livre d'Édouard Louis





2020年9月30日水曜日

Victor Hugo: Les Misérables

2020年9月28日読了

著者:Victor Hugo

刊行:1862年

評価:★★★★☆

Kindle版(110円)

1年以上かけてようやく読み終えた。「読み終えた」というのは必ずしも正確ではない。ざっと目を通したという部分も少なからずあるからだ。ユーゴーの小説のご多分に漏れず、この作品にも本筋には直接関係しない脱線が多い。たとえば、ワーテルローの戦いの推移、フランスの隠語や俗語についての考察、パリの下水道の歴史など。しかもそれぞれ長い。ワーテルローの戦いの章の最後の数ページだけは話の展開に大きく関係してくるが、その他の脱線は字義通り脱線であり、読んでも読まなくて本書の理解には影響しない。

こうした脱線にも一応は目を通した。ただし、大部分は活字を目で追っていただけで、頭にはほとんど入らなかった。なにぶんにも古い言葉や専門用語が頻出し、いちいち調べて理解しようとすると、たいへんな手間だ。

これに反し、本筋のストーリーは非常にわかりやすい文章で書かれている。波乱に富んだ物語なので、おもしろくすいすいと読める。

波乱に富んではいるが、偶然と偶然が重なる展開で、劇画風と言えなくもない。

しかし、ユーゴーの小説の魅力は破天荒なストーリーだけでなく、登場人物の造形の見事さにもある。「93年」や「ノートルダム寺院」と同様、感情の振幅が激しい人物たちが極端から極端へと駆け抜ける。

たとえば、異常な情熱でジャン・バルジャンを追うジャベール(Javert)警部。ジャベールは「悪漢」ではない。彼独自の「法律」という論理に操られているだけだ。この論理が破綻しそうになるとき、彼自身も破綻する。

最初から最後まで小悪党として暗躍するテナルディエ(Thénardier)も重要な役を担っている。この貧弱な小男は、もともとは宿屋兼食堂の主だった。ケチで小狡くはあるが、客に愛想よく、曲がりなりの学もある。大柄で乱暴なテナルディエの妻も心に残る人物で、その図体にもかかわらず夫に盲目的に従う。この二人の悪党の間に生まれた子供たちも、それぞれの個性で際立つ。なかでも、歌を歌いながら暴動に加わる陽気なガヴローシュ (Gavroche)少年は、パリのストリートチルドレンの代名詞となっているくらいだ。

もちろん美男と美女のマリウスとコゼットも欠かせないが、正直なところ、彼らに対しては悪漢や性格破綻者などのどぎつい人物に対するような興味を覚えなかった。

レ・ミゼラブルにはじめてふれたのは小学生のころ。岩波少年文庫に収められている豊島与志雄訳を読んだ(「レ・ミゼラブル」ではなく、「ジャン・バルジャン物語」というタイトルだったかもしれない)。そのあとで映画も見た。したがって、おぼろげながらストーリーは知っているつもりだった。しかし、今回曲がりなりにもフランス語で全編を読み、少年のころの記憶や印象の訂正を余儀なくされた。私の記憶では、マリウスとコゼットが結ばれたところで話しは終わっていた。また、ジャン・バルジャンとジャベールの追跡劇が話の軸となっており、テナルディエ一家についてはほとんど覚えていなかった。

岩波少年文庫のほうは豊島与志雄の訳だから、大幅な省略はあったとしても、肝心なポイントは外していないはずだ。要するに私が覚えていなかっただけだろう。記憶といい印象といい、かくまでに頼りない。

1832年の暴動についてフランス革命の一幕と受け取っていたが、小学生という年齢を考えれば、これはやむを得ないだろう。

ともかくこの有名な長編を最後のページまで読んだことで、ホッとし、満足している。期待通りのおもしろさではあったが、ユーゴーの作品としては、3つの個性がドラマティックに衝突し絡み合う、コンパクトにまとまった「93年」のほうに軍配を上げる。

乗りかかった船だ。もうしばらくユーゴーに付き合おう。次はKindleから無料で入手できるLe Dernier jour d'un condamné(死刑囚最後の日)だ。

 

2020年9月19日土曜日

Vasily Grossman: Life and Fate


2020年9月16日読了
著者:Vasily Grossman
刊行(完成):1960年
評価:★★★★☆
Kindle版(1158円)
ロシアの作家Vasily Grossman(1905 ー 1964)の代表作Жизнь и судьбаの英訳版。邦訳もされており、「人生と運命」というタイトルで出版されている。しかし、この日本語版は全3冊からなり、合計で2万円近くする。ここは1000円ちょっとの英語版を選びたい。Kindleの電子ブックというのも英語版の利点だ。ロシア語の小説にありがちだが、登場人物の名前が長く複雑で、途中で誰のことなのかわからなくなることもまれではない。電子ブックの検索機能がありがたい所以だ。

Life and Fateは1942年から1943年にかけてのスターリングラード攻防を背景にした長編小説(Kindle版で870ページ)で、トルストイの「戦争と平和」にも比せられる。

1960年に完成したこの作品がロシアで出版されたのは1988年のこと。スターリン批判以降のソ連もこの作品を許容するほど寛容で自由な社会ではなかった。このことは逆にこの作品が秘めている力の証かもしれない。

物語はモスクワからカザンに疎開しているユダヤ系の物理学者一家を中心に展開される。主人公の母親はドイツ軍占領下のウクライナでユダヤ人狩りの犠牲となり、知人の女医も収容所に送られ、ガス室で絶命する。

理不尽な力はナチス・ドイツだけから迫ってくるのではない。ナチス・ドイツと戦うソ連の社会や軍の中でも国家の理不尽な力が個人を押し潰そうとする。スターリンとベリアの体制のもと、人々はたえず密告におびえ、粛清の危険にさらされる。ばりばりの旧ボリシェビキがある日突然逮捕される。ユダヤ人に対する隠微な攻撃も姿を現してくる。反ユダヤ主義はナチスだけの専売特許ではない。

物理学者の一家とその親族、同僚を語り手として場面は転変し、物語は多面的な広がりを見せる。ソ連の物理研究機関、スターリングラードの戦闘、ドイツ軍の捕虜収容所、ユダヤ人収容所、ソ連の政治犯収容所などのほか、包囲されたドイツ第6軍の司令官のPaulusの視点からの描写もある。ヒトラーやスターリンも姿を見せる。

このようにスターリングラードの攻防と当時のソ連社会を重層的に描こうとする作品ではあるが、私には若干の不満が残る。登場人物が概して立派すぎるのだ。知的レベルも高く、良心の葛藤に苦しみこそすれ、根っからの悪人は少ない。「彼女はバルザックとフロベールの違いすら知らない」と誰かが誰かを揶揄する場面があるが、当時のソ連社会でこうした会話が交わされるのはかなり例外的な家族だろう。

ポーランド、ドイツ、満州への侵攻時に略奪や陵辱の当事者となったソ連軍兵士もいるはずだ。こうした普通の兵士たちの苦しみと狂気をもくみ上げてこそ、戦争を総合的にとらえることができるのではなかろうか。

本書を読む前提知識を得るために、「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」(岩波新書・大木毅)に目を通した。これはこれでおもしろかったが、Life and Fateを読み進めるうえで、スターリングラード攻防に関する詳細な知識は必ずしも必要ではない(もちろんあるにこしたことはない)。他方、1937年のモスクワ裁判(スターリンによる粛清)や農業集団化とクラーク(富農)への攻撃、ユダヤ人医師団陰謀事件など、ソ連の歴史に関するおおよその知識は本書の理解に不可欠と言えよう。

2020年3月17日火曜日

フィリピン戦跡巡り 十三日目(帰国、若干の感想)

2月26日。

関空行きのエアアジア便は8時35分にマニラ空港のターミナル3を発つ。5時半にホテルをチェックアウトして、Victoria Linerのバス・ターミナルに向かう。6時にこのターミナルから空港行きのシャトル・バスが出る。

時間には余裕があるはずだったが、6時過ぎのマニラはすでに渋滞気味で、しかもターミナル3は最後の停留所だったため、少し焦った。ターミナル3でバスから降りたときには、7時を過ぎていた。

しかしエアアジアのチェックイン・カウンターにはほとんど誰も並んでおらず、ほっとする。行きの関空のカウンターが長い行列だったのといい対照だ。これもコロナウィルスの影響だろうか。

ペソがいくらか残っていたので、土産物を購入し、ホットドッグで朝食をとる。

機内は半分も埋まっていなかった(行きはほぼ満席だった)。関空には13時過ぎに到着。この時間帯にもかかわらず、空港の中は閑散としていた。

フィリピン戦跡巡りの旅はこのようにしてコロナ騒ぎがパニックの様相を呈する直前に終わった。

この旅で感じたこと、思ったことをいくつか挙げておこう。

戦跡巡りとは銘打ってみたものの、訪れたのはレイテ島、マニラ、バギオだけであり、しかもそれぞれ2、3箇所を見たにとどまる。文字通り「見た」だけであり、「足を踏み入れた」だけだ。もちろんこれは私の準備不足の結果であり、宿題をせずに出かけたツケと言えよう。

マッカーサー・レイテ上陸の像(タクロバン)

サンチャゴ要塞の門(マニラ)

といってもフィリピンの戦跡をくまなく巡るのはそう簡単ではない。沖縄に比べれば、空間的にはるかに広く、時間的にも倍以上に長く戦闘が展開された。しかもルソン島の戦いは山の中で戦われた。今でもアクセスが容易でない。タクシーをチャーターするしかないケースも多々あるだろう。事前勉強に加え、時間とお金をたっぷり用意しなければならない。

不十分とはいえ、今回の戦跡巡りが無意味だったわけではない。これまでフィリピン戦についてはほとんど何も知らなかった。100万人のフィリピン人が犠牲になり、日本軍の死者も中国大陸のそれを上回る50万近くだったという基本的な知識すらなかった。今回の旅は少しは調べてみようというきっかけをつくってくれた。おかげでフィリピン戦のおおよその流れを知ることができた。

戦跡から離れ、フィリピンについて感じたことをランダムに挙げてみる。

まずショッピングモールの多さ。大型のショッピングモールがマニラのいたるところにあり、バギオにもあった。タクロバンでもかなり大きなスーパーマーケットを見かけた。それぞれ立派なフードコートを備え、どれも賑わっていた。

フィリピン人の平均月収は3万円程度とどこかで読んだ。フードコードで食べれば1食200ペソ(420円くらい)はする。ショッピングモールを訪れるフィリピン人は一部の富裕層というわけではない。バギオで会った日本人女性は「フィリピンでも中間層が増えた」と言っていた。他方、貧富の差か拡大する一方という報道もある。フィリピンにはバナナやマンゴーなどの農産物を除き輸出産業が見当たらない。中東などで働くフィリピン人の送金があれだけの規模、あれだけの数のショッピングモールを支えているとは思えない。このへんの事情は謎のまま残った。

フィリピンの人たちが親切でフレンドリーであることは旅のブログや動画で多くの人が報告している。今回の旅ではこの点もみずからの体験を通じて確かめることができた。フィリピンはぜひまた訪問したい国のひとつになった。

その一方で、フィリピンといえば「危ない」というイメージもつきまとっている。スリや置き引き、睡眠薬強盗、両替のごまかし等々。銃社会という一面もある。

10日程度の旅行で軽々の判断はできないが、こと今回の旅行に関する限り、治安上の不安を感じたことはない。夜中にひとりで人気のない場所に出かけたりはしていないという条件付きだが。

一度だけ欺されそうになったことがある。マニラに滞在して2日目か3日目のこと、あるショッピングモール(SM Mall of Asiaだったかもしれない)をぶらぶらしていたとき、40歳くらいの男が日本語で話しかけてきた。ホテルの警備員をしており、私を知っていると言う。そのときはSogo Hotelに滞在していたので、「Sogo Hotelか」と訊くと、そうだとの答え。日本語は日本で働いていたときに覚えたと言う。

相手の言うことになんの疑いももたなかった私は、奇遇を喜び握手を求める。男は「今日は非番だ。妻と子供は向こうにいる」と遠くを指すが、誰が妻で誰が子供かは判別つかない。そのまま別れようとしたが、男は私に付いてきて「今日は子供の誕生日だ。ケーキを買ってやりたいが、給料が少なくて買ってやれない。子供のために100ペソくれないか」と言う。

この段になっても私はまだ男を疑っていなかった。「100ペソくらいなら都合してやってもいいか」とチラッと考えたくらいだ。しかし男に金を渡すことはしなかった。男を信用しなかったというより、お金を恵むという行為そのものが心にひっかかったからだ。

この話のうさんくささに気が付いたのは宿に戻ってからだ。お金を与えていたところで被害は100ペソ(210円ほど)だけだから、どうということはないが、気分は悪くなっていただろう。

ホテルの警備員を自称していたこの男、翌日もまたその翌日もSogo Hotelで顔を合わせることはなかった。あとで読んだ本によると、フィリピンでは「誕生日」という言葉に注意が必要とのことだった。

警備員といえば、その数が多いことも今回気付いたことのひとつだ。ホテル、ショッピングモール、レストラン、駅の入口、バス・ターミナルと、ちょっとしたした公共の場には必ず警備員が配置されている。大多数は男性だが、女性の警備員もいる。

警備員はフィリピンの雇用にかなり大きな割合を占めているようだ。長い労働時間に低賃金で、労働条件は劣悪と言われている。生産的な仕事ではないが、フィリピンの治安の安定化には貢献しているのかもしれない。

最後に今回の12泊の旅行に要した費用をまとめておこう。

まずエアアジアの関空・マニラ往復便航空券が3万2千円。空港到着日に5万円を両替し、さらにマニラの街中で100ドルを替えた。両替総額は約61000円になる。両替したペソはほぼ使い切った。これらに加え、マニラ・タクロバンの往復航空券(11000円)、コレヒドール島ツアーの代金(約6000円)、Grabの代金(約900円)をクレジットカードで支払った。すべて合計すると、11万900円になる。10泊のサウジアラビア旅行の約半額だ。妥当なところか。ちょっと後悔しているのは、食事を節約しすぎたこと。大半の食事をファーストフードやセブンイレブンで済ませてしまった。お金はかかっても、もう少しちゃんとしたものを食べるべきだった。


2020年3月16日月曜日

フィリピン戦跡巡り 十一、二日目(マニラ)

2月24日。

Victoria LinerのFirst Classバスは11時10分にバギオのターミナルを出発し、4時過ぎにマニラに着いた(マニラからバギオへの代金は800ペソだったが、バギオからマニラまではなぜか680ペソだった)。

バギオを出る

帰国日の26日までの2泊はOYO 501 Yuj Inn Pasayを予約していた。Victoria Linerのターミナルから歩いて10分もかからないこと、空港までも相対的に近いこと、そしてなによりシャワー・トイレ付きの個室が1080ペソ(2200円ほど)と安いことが決め手になった。

先日宿泊したSogo Hotelとも近い。部屋は狭いが、Sogo Hotelより安く、Sogo Hotelより快適だった。

OYO 501 Yuj Inn Pasayの狭い部屋

チェックイン後にホテルのまわりをぶらぶらして1日を終えた。夕食はちょっと大きめのトロトロ(ローカル食堂)で済ませた。

2月25日。

フィリピン最後の日。今日1日は特に目的を決めず、マニラをゆっくりと見て回るつもりだ。

Edsa駅に向かう途中、大通りにつながる裏道に足を踏み入れてみた。雑然とした細い路地が長く続いている。細い路地の一方の側には小さな「店」がいくつも出ており、衣服を並べたり、食べ物を売ったりしている。もう一方の側はトライシクル(3輪タクシー)の列だ。客を待っているトライシクルではなく、ただ置いてある。おそらくここのここの住民の多くがトライシクルの運転手なのだろう。

路地に入る

スラムではないが、豊かではない。「豊かではない」などという遠回しな言い方はやめよう。かなり貧しいエリアだ。マニラの貧しい人たちの日常生活に興味を惹かれ、動画に収めながら歩く。

生活がそのまま表に出ているこんな風景を撮影してひんしゅくを買うのでないか。罵倒されるのではないか、石を投げられるのではないかと、遠慮しながら撮影を開始したが、反応は逆だった。「ハロー」と声をかけてくる子供たち。ピースサインをしたり、手を振ってくれるおばさんたち。

パサイの裏通り

路上で遊んでいる子供たちの中を通ったとき、背後から「コロナウィルス」という言葉が聞こえた。明らかに私に投げかけられたものだ。ちょっと説教してやろうと、振りかえったが誰が発したのか見当がつかなかった。まあそれほど悪意があったとも思われない。

ギターと歌声が聞こえる。上半身裸の中年の男性3、4人、ビールを飲みながらギターをかき鳴らし、放吟しているのだ。。私にもビールを勧めてくる。プラスチックのコップに一杯、ぐっと飲み干した。

うちの1人が日本語をしゃべる。日本で働いていたとこのこと。日本語に切り替え、どこで働いていたのか尋ねる。名古屋や群馬など、いろいろ回っていたらしい。「どんな仕事をしていたのか」との問いには「ゲンバ」との答え。「現場」のことだ。この言葉が妙なリアリティを持っていた。それこそ日本の現場でしか学べない語彙だ。

今日は平日の火曜日。元気で陽気なのはいいが、朝の10時半から路上で宴会はどうなのか。

裏通りの子供

路上の宴会

Edsa駅近くの裏道を歩いていたつもりだったが、いつのまにかEdsa駅の隣のBaclaran駅に出ていた。

Baclaran駅界隈

Baclaran駅から高架鉄道に乗り、Pedro Gil駅で下車。近くのPaco Park & Cemetry(パコ公園・墓地)に立ち寄ってから、北に向かって半時間ほど歩き、SMショッピングモールに着く。

時刻は1時半を過ぎている。フードコートのTokyoというレストランに入り、Tonkatsu Bentoを注文する。スタンダードとアップグレードの2種類があり、アップグレードを選択。どこがアップグレードなのかよくわからなかったが、おそらくみそ汁とデザートが付いていたことがそれだろう。値段は250ペソ(520円ほど)。味は値段相応。弁当ボックスに入ってはいたが、あくまでフィリピン風の豚カツだった。

豚カツ弁当

昼食後、エルミタに向かい、マビニ通りを歩く。この界隈はマニラ随一の歓楽街のはずだが、昼間はその面影はなく、ひっそりしている。日本語の看板もちらほら。カラオケバーだろうか、「おんな」という大きな看板があるのには笑ってしまった。

「おんな」の看板

Robinsonsショッピングモールに立ち寄ってからPerdo Gil駅に向かい、宿に戻る。夕食はセブンイレブンで調達。明日のフライトは8時35分。早朝にチェックアウトしなければならない。