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2019年4月24日水曜日

Victor Hugo: Quatrevingt-Treize

2019年4月15日読了
著者:Victor Hugo
刊行:1874年
評価:★★★★★
Kindle版(無料)

Quatrevingt-Treizeは「93」という意味だが、この場合にはフランス革命が頂点に達した1793年を指す。邦題は「93年」。昨年ツヴァイクのジョセフ・フーシェとマリー・アントワネットの伝記を読んだこともあり、この小説の背景となっているフランス革命やヴァンデの反乱に関するおおよその知識はあった。

だが、この小説はフランス革命の叙述ではなく、ヴァンデの反乱の帰趨を描くものでもないから、特別な歴史的知識がなくても十分に楽しめる。実際、ヴァンデの反乱など聞いたこともない子供のころ(たぶん小学六年生ごろ)、少年少女向きに簡略化された「93年」を読んで非常におもしろかったことを覚えている。おもしろかったという感想は頭に残っているが、どのようなストーリーだったかはすっぽり記憶から脱け、登場人物も誰一人として覚えていなかった。

数十年の歳月を経て、あらためてオリジナルのフランス語で読み、子供のころの感動を追体験できるかどうか。期待と不安を交えながら読み始めた。

19世紀の作品だから、すらすらと読めるわけではない。辞書に出てこない単語も少なくない。だが、予期していたよりずっと読みやすい。細部ではわからないところが多々あるが、ストーリーの流れを追い、主要な登場人物の性格や思想を把握するうえで支障はない。

ユーゴーの作品を原文で読むのはNotre-Dame de Parisに続いて2冊目だ。Quatrevingt-TreizeはNotre-Dame de Parisよりも近づきやすかった。Notre-Dame de Parisではパリとノードルダム寺院の説明にそれぞれ1章が割かれている。いずれもストーリーには関係のない内容で、実はこれらの章はスキップしてしまった。

Quatrevingt-treizeでもストーリーとは無関係にConvention(国民公会)を説明する章が挿入されている。こちらのほうはちゃんと読んだ。途中でいやになることもなく、次の章につなげることができた。

Quatrevingt-Treizeは3人の人物を中心に展開する。ヴァンデの反乱を指揮する王党派(白)のLantenac、反乱鎮圧の任を負う革命軍(青)を率いる青年将校のGauvain、そしてGauvainを監視するために公安委員会から派遣されたCimourdain。この三者の間には浅からぬ因縁がある。LantenacとGauvainはブルゴーニュの貴族の出で、LautenacはGauvainの大叔父にあたる。CimourdainがGauvainを監視するのはこうした事情からだ。ところが元僧侶のCimourdainは革命前にGauvainの家庭教師であり、Gauvainに深い影響を与えるともに、彼に対して自分の息子のような愛着を抱いている(CimourdainをGauvainの監視役とした公安委員会はこの事実を知らない)。

LantenacとCimourdainはどちらも原理主義者だ。前者は王党派、後者は革命派という違いはあるが、常に非妥協を貫き、敵に対して徹頭徹尾無慈悲であるという点では共通する。彼らとは対照的に、若きGauvainはclémence(寛大さ、慈悲)をもって知られている。公安委員会が彼を監視しようとしたのは、Lantenacとの血のつながりに加え、このclémenceを危惧したためでもある。Gauvainは革命派ではあるが、revolutionよりもhumanité(人間性)を上位に置く。おそらくこれはユーゴーの立場でもあるのだろう。

商船を装ったイギリス製の軍艦に乗船したLantenacがブルゴーニュへの上陸を目指すところから物語は始まる。あるはずみで砲台のたががはずれ、くびきからはずれた大砲が船の揺れに乗じて甲板の上を暴れまくる。破壊への意志を持つ盲目の猛獣のように。この大砲の動きの描写がすばらしい。大砲が制御されたあとのLantenacの措置も意表を突く。冒頭から一気に物語りに引き込まれた。

子供のころあらすじを読んだとはいえ、すべて忘れ去っているから、新しい本を読むの同じだ。最初の数ページから最後の1ページまで、いや最後の数行に至るまで予測のつかない展開に心を躍らせた。

もちろんストーリーのおもしろさだけではない。ユーゴーの小説の魅力は、登場人物の情熱が「半端ない」ことである。LantenacとCimourdainの過激さは、Notre-Dame de ParisにおけるClaude Frolloの暗い情熱に通じるところがある。彼らの情熱(passion)は往々にして強迫観念(obsession)へと転化する。

英語版のWikipediaによれば、グルジアの神学生であったDzhugashviliは牢獄の中で「93年」を読み、Cimourdainに深く感銘したとのことだ。Dzhugashviliとはのちのスターリンにほかならない。考えてみれば、LantenacとCimourdainはその非情さにおいてスターリン主義者と言えなくもない。

同じく英語版Wikipediaによると、スターリン主義と対極にある米国の作家Ayn Randも「93年」の熱心なファンらしい。彼女の小説The Fountainheadの主人公Howard Roarkの一徹ぶりもLantenacやCimourdainを連想させる。

久しぶりに小説らしい小説を読んだ感激にしばらくは浸っていたい。そして次はいよいよLes Misérablesだ。こちらもKidleストアから無料でダウンロードできる。

2019年3月8日金曜日

ミャンマー・シャン州 九日目(帰国)

2月13日。

今日は帰国日だが、フライトは18時55分だから時間はたっぷりある。

8時少し前に朝食をとる。Beauty Land 2ホテルの朝食はトースト、卵、フルーツなどだが、前日にリクエストしておけばモヒンガーにすることもできる。モヒンガーはミャンマー特有の麺で、そうめんに似ている。3年前と同様、この日もモヒンガーを朝食とした。

モヒンガーで朝食

ホテルのチェックアウト・タイムは12時。荷物を部屋に残したまま外へ出る。ホテルから歩いて10分ほどのヤンゴン中央駅の東側一帯を探索するためだ。昨日訪れたダラ地区と同様、この地域も貧しい。

ダラ地区と似ていなくもないが、ダラ地区のような広がりはない。いくつかの細い道路から構成された小さな地域だ。

ダラ地区とは異なり、ここでは好奇心だけで訪れた外国人を笑顔と挨拶で迎えてくれるようなことはない(これはまあ当たり前のことだ)。だからといって敵意を示すこともない。要するに無関心なのだ。ずうずうしいことこのうえないが、無遠慮に写真や動画を撮りながら散策する。一度だけ、路上でサイコロ賭博に熱中している人たちを撮ったときには、身振りで「撮るな」と注意された。

中央駅東側(その1)

中央駅東側(その2)

中央駅東側(その3)

中央駅東側(その4)

中央駅東側(その5)

中央駅東側を歩く

この地域を抜け出し、さらに歩くと、大音響の音楽が聞こえてきた。音につられて坂道を登っていく。お寺だ。レコードだと思っていたのはミャンマーの民族楽器を使ったライブだった。歌い手もいる。音楽を背景に中年の女性が踊っている。手の動きに特徴があるミャンマーの踊りだ。胸にはチップらしき紙幣が数枚留めてある。

お寺での踊り

座って見ていると、男性が英語で話しかけてきた。年に4回ほどこうした行事が行われているとのこと。どこから来たのかと聞かれたので、「Japan」と答える。「私の兄弟は日本で働いたことがあるので、日本語をしゃべれる。話してみるか」とスマートフォンを渡される。日本語で二言、三言話そうとしたが、音楽のせいで相手の言うことがまったく聞こえない。

男性によると、このあとみんなで会食するらしい。私も誘われたが、これからホテルに戻って12時にチェックアウトしなければならない。残念ながら断った。ミャンマーに触れるもうひとつのチャンスを失ってしまった。

ホテルに戻り、12時ぎりぎりにチェックアウトする。空港行きのタクシーを依頼しておく。時間は2時半にした。例によって早すぎるが、遅すぎるよりいいだろう。

再び外出する前に、階上の共有スペースに行き、タブレットPCをネットにつなぐ(私の部屋ではWifiが弱すぎてつながらなかった)。

共有スペースに年配の日本人男性がいたので、少し話す。東京(神奈川だったかな)から来たSさんで、若いころからちょくちょく海外を旅しているらしい。フィリピン人結婚していたこともあるとか。昼食をとりに外に出ようとすると、Sさんが「私も付いていっていいですか」と言うので、一緒に行くことにした。

手持ちのチャットが余っていることもあり、ちょっと贅沢をして日本食をと考えていたのだが、Sさんと一緒となるとそうもいかない。

結局、昨日昼食をとった食堂に再び入ることにした。英語のメニューに「エビのてんぷら」とあるので注文したが、「できない」との返事。代わりにShan fried riceと紅茶にした。シャン州を訪れたにもかかわらず、Shan fried riceなるものを食べていなかったからだ。これは失敗だった。辛すぎるのだ。注文した料理を残すということがめったにない私だが、このときは3分の1くらい残してしまった。

ホテルへの帰り道、Sさんへの案内かたがた、Ruby Martへ立ち寄り、土産としてミャンマーのお茶を購入した。

タクシーは予定どおり2時半に迎えに来た(10000チャット)。1時間ほどで空港に到着。やはり早すぎた。カフェに入ってコーヒーフラッペを注文する。

余っているチャットがたくさんあるので、すべて米国ドルに再両替する。77ドル返ってきた。8泊9日の今回の旅行。現地で使ったのが715ドル。関空からヤンゴンまでの往復航空券が約6万7千円。合計でおよそ14万5千円。国内航空の代金とガイド代で現地支出の半分以上を占める。

ハノイ航空機は定刻どおりヤンゴンを飛び立ち(隣席はマンダレーから来た若いミャンマー人カップルだった)、ハノイ経由(乗り継ぎ時間は4時間近く)で無事関空に戻ってきた。

3年ぶりの2度目のミャンマー旅行。3年前の旅行と同様に十分に満足できるものだった。Beauty Land 2とBeauty Land(Bo Cho)を混同して予約してしまったこと、何回か食事の選択を誤ったこと、チャイントォンでの最後の1日を無為に過ごしてしまったことなど、小さな失敗はいろいろあったが、全体としては大過なく旅を終え、いろいろな場面でミャンマーの人たちの温かさに触れることができた。私の中にはミャンマーの人たちに対する一種の愛着のようなようなものが育っている。機会があれば、ぜひまた訪れたい。第1候補はチン州だが、パゴー、バガン、インレー湖などミャンマーの定番の観光地も見てみたい。

2019年3月6日水曜日

ミャンマー・シャン州 八日目(ヤンゴンへ戻る)

2月12日。

夜も明けきらない6時にチェックアウトする。昨夜タクシーを6時にと頼んでおいたが、チェックアウトと同時に電話しているようだった。心配することはない。ホテルから空港までは20分たらず。ヤンゴンと違って渋滞はありえない。しかも国内便だからフライトの1時間前に到着しても間に合うはずだ。

やって来たのはバイクタクシーだった。その分値段も安く2000チャット(160円ほど)。

案の定、私が出発ロビーに入ったときには他の搭乗者はまだ誰もいなかった。ミャンマーエアー便は予定より少し遅れて飛び立った。ホッとした。一番恐れていたのはこの日の便がキャンセルになることだった。ミャンマーの国内便があてにならないことは3年前に経験している。しかも明日は帰国日だ。

ヤンゴンには10時ごろに着いた。今日の宿はBeauty Land 2を予約していた。ヤンゴンの中心部にあるホテルで、3年前にも宿泊した。1泊20ドル。

空港からホテルまではタクシーで10000チャット(800円ほど)。途中、初老の運転手が私に小冊子を渡す。軍人の古い写真が表紙になっている小冊子だ。アウンサン将軍かと尋ねると、その通りとの返事。今日はUnion Day(連邦記念日)で明日はアウンサン将軍の誕生日だ。将軍の人気は今でもかなり高いようだ。

Beauty Land 2ホテルには11時ごろに着いたが、チェックインは2時からとのこと。今日はヤンゴン川の向こうにあるダラ地区に行くことにしていたので、バックパックを預けて外へ出た。

今日は朝から機内食の菓子パンしか食べていない。ちょっと早いが、ダラ地区に行くに先立って、ホテルの近くで昼食をとることにした。名前と値段は忘れたが、焼きうどんのような感じの麺を注文した。おいしかったが、量は少なかった。

ダラ地区に行くにはフェリーでヤンゴン川を渡る。フェリーが出ているパンソンダン埠頭までは歩いて行った。

フェリーは日本の援助によって就航しているもので、日本のパスポートを見せれば無料で乗船できる(日本人以外の外国人は片道2000チャット)。待合室に入ると、フェリーの関係者らしき男が「日本人はガイドが必要だ」と言い、「ガイド」と称する男を紹介してきたが、無視した。この手のトラブルについてはネットで情報を得ていたからだ。男もしつこくは追ってこなかった。

フェリーは10分ほどで対岸のダラ地区に着いた。フェリーの乗客はほとんどがミャンマー人だが、私のような外国人観光客もちらほらいるようだ。40代とおぼしき東洋人の女性と目が合ったので、英語で「日本人か」と尋ねたところ、中国人との返事。彼女の誘いに乗って一緒にダラを探索することにした。

ダラに到着

ダラはスマトラ島沖地震による津波の被災者が住み着いた地区で、「スラム」と呼ばれることもあるが、ちょっと当たっていないように思う。貧しいことは確かだが、スラムという言葉から連想する混沌はない。ちゃんと働いている人が多い。アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(National League for Democracy)の看板も見られる。

サイカー(横に座席を付けた自転車)の誘いを断りながら、中国人女性と2人で歩いて行く。中国人女性がiphoneのマップを見ながら道案内役になってくれる。

ダラを歩いていてひときわ印象に残ったのは住民の人のよさだ。底抜けの人のよさと言ってもいい。カメラを構えた異邦人の2人を笑顔で迎えてくれる。にわか作りの質素な家が多いから、外からでも家の中が丸見えだ。そんなところを赤の他人がずかずかと通り抜け、写真や動画を遠慮なく撮る。我ながら失礼きわまりない。それでも住民は怒らない。怒らないどころか、笑顔や挨拶で迎えてくれる。

ダラ地区(その1)

ダラ地区(その2)

ダラ地区(その3)

ダラ地区(その4)

ダラ地区を歩く

僧院があったので入ってみる。青年(僧の服装ではなかった)が英語で中を案内してくれる。ここではタウンジーから来た子供たちが仏教の勉強をしているとのことだった。タウンジーといえば、私が訪れたばかりのシャン州の州都だ。がらんとした本堂で寝転んで勉強している子供いれば、テレビで中国ドラマを見ている子供たちもいる。

勉強する少年僧

汗が出るほどではないが、日中だからそれなりに暑い。食堂に入り、お茶を飲むことにした。2人とも紅茶を注文したが、予想どおり甘かった。練乳が入っているのだ。普段紅茶には砂糖を入れない私だが、たまにはこうした甘い紅茶も悪くない。

中国人女性(名前すら聞いていない)は現在は上海に住んでいるが、遼寧省の鞍山など中国のいろいろなところで働いたことがあるらしい。日本語ができる娘さんと一緒に日本を旅行したこともあるとか。娘さんはアニメや漫画を通じて日本語を覚えたという。

ダラを一緒に探索した中国人女性

私がこれまで接した中国人の多くと同様、彼女も中国共産党と中国政府に対してきわめて批判的だった。中国ではFacebookやTwitter、Youtubeなどへのアクセスがブロックされていることを指摘すると、「党や政府の幹部は自分たちの子供を米国や欧州に留学させている。これらの子供たちはネットの情報に自由にアクセスできる。なのに、国内の若者にはその自由を許さない」と言う。まことにそのとおりだ。「今の中国の若者は政府や党の言うこと、あるいは自分たちが受けてきた教育をそのまま信じている」とこぼす。私がこれまでの旅で出会った中国人の多くは「政府や党の言うことをそのまま信じている」ようには見えなかったが、これは英語をしゃべる中国人とのみ話をしているからなのかもしれない。

彼女の今回の旅はタイから始まり、ミャンマーを経てタイへ戻り、タイからラオスへ脱けて中国雲南省の昆明に向かう長丁場だ。昆明まではすべて陸路だが、昆明から上海までの最後の行程だけは飛行機を使うとのこと。

ミャンマーではドミトリーに宿泊している。それほど若くもない中国人の女性がひとりでドミトリーを利用しているのはちょっとした驚きだった。そのたたずまいや服装からして、てっきり私よりいいホテルに泊まっているものと思っていた。

7、8年前には中国人旅行者といえばほとんどがグループ旅行で、単独で海外を旅している中国人に出会うのはまれだった。今では中国人の海外旅行も多様化し、欧米型あるいは日本型に近くなっているのかもしれない。もっとも中国人にとって個人旅行はそう簡単ではない。日本人ならミャンマー、タイ、ラオスは航空券さえ入手すればすぐに行ける。中国人の場合、これらすべての国でビザが必要なはずだ。ウルムチのゲストハウスで出会った中国の青年はまだ未使用のパスポートを私に見せ、「uselessだ」と言っていた。パスポートだけではどこへも行けないということなのだろう。カシュガルで知り合った中国人女性は「香港へ行くのでさえ手続きが必要だ」とこぼしていた。

彼女とは帰りのフェリーの中で別れた。3時間あまりダラ地区を一緒に歩いてくれたことに感謝。

パンソンダン埠頭からBeauty Land 2ホテルまで歩いて戻る。途中、Ruby Martに立ち寄って、切り売りの「ういろう」のようなお菓子を2切れ買う。チェックインを済ませたときには5時近くになっていた。現地通貨をたくさん抱えているにもかかわらず米国ドルで宿代(20)ドルを支払ってしまったのは失敗。

部屋で休んでから、夕食のためにホテルを出る。3年前に韓国帰りのミャンマー人と遭遇した小さな食堂に入る。焼きそばと缶のミャンマー・ビールを注文する。3年前に注文したものとまったくと同じだ。3年前にはミャンマー人が代金を支払ってくれたため、いくらだったかわからない。今回は3000チャット(240円ほど)。おそらく3年前と同じ値段だろうが、インフレのおかげで日本円に換算すれば安くなっている。

焼きそばと缶ビールで夕食

明日は帰国日だが、フライトは18時55分だから、あわてて早起きする必要はない。

2019年3月3日日曜日

ミャンマー・シャン州 六日、七日目(チャイントォン)

2月10日。

7時半ごろ朝食をとる。一昨日、昨日と閑散としていた朝食会場だが、今日は20人近くの宿泊客で混んでいた。ふと隣のテーブルから日本語が聞こえる。

退職後にタイのチェンマイに移住した男性とその妻、そしてその友人(あるいは親戚)らしきもう1人の男性。さらに彼らをガイドしているミャンマー人の女性が日本語で話している。

夫妻は広島出身で、ミャンマー人女性は彼らの友人とのこと。ミャンマー人(ビルマ人ということだった)が広島に留学していたときに知り合ったらしい。仕事の関係でシャン州に住んでいる彼女の案内でタイからチャイントォンまでやって来たという。シャン州で日本人に遭遇するとは思っていなかった。向こうも同様で、ちょっと驚いていたようだ。

朝、ホテルを出たところで見かけた少年僧

朝食後にまず向かったのが中央市場。この市場にはすでに2回来ていたが、いずれもガイドのJosephに案内されて食料を調達しただけで、ちゃんと足を踏み入れるのははじめてだ。

3日前にチャイントォンに着いたときの印象は「眠ったような小さな町」だったが、中央市場を見てこの印象は少し修正を余儀なくされた。市場は予想以上に大きく、活気があったからだ。何軒もの食堂からは白い湯気が上がり、いずれも客で賑わっている。民族衣装の女性もかいま見られる。

中央市場(その1)

中央市場(その2)

中央市場(その3) なぜか韓服を売っている

中央市場(動画)

市場の雰囲気はタイ、ラオス、カンボジアなどと似ている。これら東南アジアの市場あるいは中国の市場と同様、写真や動画を撮っていても、誰からも文句を言われない。ただ、2、3歳の着飾った女の子がいたので、母親に断ったうえ写真を撮ったときには泣かれてしまった。

この子に泣かれてしまった

たっぷり時間をかけて市場を見たあと、ノントゥン湖へ行く。中央市場からは歩いて10分もかからない。湖に沿って歩いていると、ひとりの青年が「Speak English?」と話しかけてきた。

ノントゥン湖

ミャンマー西部のチン州からシャン州に来て、Amazing Kyaing Tong Resortというホテルで働いている青年だった。チン州から遠く離れたシャン州まで来たのは、姉夫婦を頼ってのことで、今は彼らと同居中の身(姉夫婦がシャン州に来たのは夫が転勤になったからだ)。仕事は今日はナイトシフトとのこと(ホテルの給料は安く、とても家族を養えるようなレベルではないとこぼしていた)。

Amazing Kyaing Tong Resortはチャイントォンでは最高級のホテルだ。数日前にBooking.comでチャイントォンのホテルを探したところ、Amazing Resortは満室だった。それもそのはず、2、3日前にアウンサンスーチーがチャイントォンを訪問し、Amazing Resortに宿泊したとのこと。随行者や報道関係者でいっぱいになってしまったのだ。普段は満室になることはめったにないらしい。

立ち話は疲れるので、湖畔のカフェに入ってさらに話を続ける。青年はスマートフォンに保存されているチン州やチン族の写真を見せてくれる。今度はぜひチン州に来いとのお誘いだ。私にも十分その気はある。今回もシャン州に来られなかった場合の代替候補の1つとしてチン州を検討したくらいだ。チン州には飛行場がないので、マンダレー経由のかなり長い行程になるだろうが。

チン州から来た青年

話題はロヒンギャの問題に移る。青年はアウンサンスーチーを支持している(スマホには彼女の写真もたくさん保存されていた)。アウンサンスーチーはロヒンギャへの対処を巡って西側から批判されている。しかし、と青年は続ける。アウンサンスーチーには憲法上軍隊をコントロールする力が与えられていない。しかも、議会の一定数の議席はあらかじめ軍隊に割り当てられている。彼女を批判する人たちはそこのところを理解してほしいと。

青年は湖の近くの丘の上にある大木まで案内してくれた。1115年に植えられたとされる樹齢2000年超のこの高い木の周りは一種の観光スポットらしく、何組かの若者のグループやカップルに遭遇した。

Golden World Hotel近くまで送ってきてくれた青年と別れたときには1時半になっていた。10時半ごろから今まで3時間近く、辛抱強く付き合ってくれてありがとう。おかげで、ミャンマーをほんの少しは深く知ることができ、チン州への旅がさらに一歩現実味を帯びてきた。

遅めの昼食は初日と同じ食堂(息子が英語で対応してくれた食堂)でとった。2000チャット(160円ほど)の酢豚ライス。可もなく不可もなし。息子がお茶をサービスしてくれた。

午後はチャイントォンの町をひたすら歩いた。シャン族、つまりクン族は仏教徒であり、町にはパゴダ(お寺)が至るところにある。パゴダの中には自由に入れる。少年僧が勉強をしている場面も目撃した。仏教の勉強より科学や語学を勉強をしたほうが役に立つのにと思うのは部外者の勝手な感想か。

学習中の少年僧

町のかなり外れのほうまで歩いてみたが、とりわけ興味を惹かれる光景には出会わなかった。

Golden World Hotelの数軒先にCafe 21というしゃれたカフェがある。夕食はここでとった。野菜と豚肉が入ったSteamed riceとミャンマービールの大瓶。料理が2800チャッでビールが3500チャット、それに税金が付加されて6600チャット。チップ込みで7000チャットを支払った。高いだけあってSteamed riceはおいしかった。若い女性だけのスタッフも感じがよい。ビールですっかりいい気分になってホテルへ戻る。

2月11日。

これは余分の1日だ。本来は今日ヤンゴンに戻りたかったのだが、航空券がとれず、やむなく滞在を1日延ばしただけの日(モンラーに行けていたら、また話は別だっただろうが)。

結局、昨日同様、中央市場に出かけ、湖畔を歩き、チャイントォンをぶらぶら探索するだけに終わった。新しい出会いもなかった。バイクタクシーでもチャーターしてどこか遠出すればよかったと反省したのは帰国してからのこと。

夕食は失敗した。銀紙で包んだ川魚(たぶん鮒)を買ったのだが、おいしくなかった。大きいのはいいが、骨が多いうえ、味付けが辛すぎた。3000チャット(240円ほど)と結構な値段だった。

明日のヤンゴン行きのフライトは8時15分。朝6時半ごろにホテルを出れば十分間に合うはずだが、ホテルの受付がMNA(Myanmar National Airlines)に電話してくれ、6時に出発することを勧める。早すぎる気もするが、6時のタクシーを頼んでおいた。

2019年2月28日木曜日

ミャンマー・シャン州 五日目(少数民族の村を巡る2)

2月9日。

トレッキング・ツアー2日目。ガイドのJosephは昨日と同様9時ちょうどにホテルにやって来た。

今日はJesephの出身地であるアク(Akhu)族の村、シャン族の村、Kabaeyeパゴダを訪れ、さらに昨日とは別のエン(Enn)族の村に立ち寄り、時間が余ったらチャイントォンのダウンタウンを見学するという予定だ。

Josephは自分の村をアキ(Akhi)族と説明していたが、ネットで調べてもAkhiは出てこない。ネットに出ているのはAkhu族で、ほぼ間違いなくJosephのAkhiはAkhuを指すものと思われる。また、シャン(Shan)族とは実際にはシャン州の多数民族であるクン(Khun)族を指す。

昨日と同様、中央市場ででランチ用の黒い餅米のおにぎり(今回は1個だけ)、ソーセージ、チキンを購入する。さらに子供たちに配るスナック菓子(昨日は飴だった)も入手する。

スクーターで走ること1時間近く、アク族の村に到着する。ガイドのJosephが生まれ、育った村だ。彼は現在はチャイントゥン市内にガールフレンドと一緒に住んでいる(ガールフレンドはアク族ではなくアカ族だという)。

村の入口に教会がある。プロテスタントのバプテスト(Baptist)教会だ。

女性たち(その多くが老婆)と子供たちが集まってくる。男性たちは農作業で外に出ているのだろう。老婆のひとりはアク族の特徴であるキセルを口にくわえている。Josephの母親と祖母も交じっている。

アク族の老女たち

アク族の家屋

Josephはスナック菓子を子供たちに配る。1人1個が原則だが、7、8歳のある男の子には3つ、4つと与えていた。家庭が非常に貧しく、腹一杯食べることのできない子だとのこと。父親は麻薬中毒で働いておらず、母親も頭(brain)がおかしいという。「頭がおかしい」が精神障害を意味するのか知的障害を意味するのかはわからない。

Josephの生家の庭に腰掛け、煎った落花生を食べながら話す。ガイドの仕事のことやミャンマーの政治情勢、彼の別のビジネスのことなど。

Josephはミャンマー西部のイスラム系(ベンガル系)住民であるロヒンギャの問題がミャンマーの観光業に影を落としていると言う。この問題が浮上し、アウンサンスーチーが国際社会から批判されるようになって以来ミャンマーを訪れる外国人観光客が減ってきているとのことだ。外国人観光客の減少がどれだけ統計的に裏付けられているかはわからない。軍事政権時代には政治的な理由からミャンマー訪問を控える観光客がかなりいたようだが(アウンサンスーチー自身が「ミャンマーに来ないように」と呼びかけていた)、ロヒンギャの影響が(ゼロではないにしろ)どれほど大きいものなのか、確かでない。

Josephはチャイントゥン市内でプリント・サービスのショップを開いている。コーヒーカップやTシャツ、グリーティング・カードなどにプリントする商売だ。こちらが本業で、ガイドはいわば副業らしい。チャイントゥンを訪れる旅行者の数は限られており、ガイドだけでは生計が立てられないということでもあろう。

Josephの家でだいぶ長居をしたあと、シャン族の村へ向かう。シャン族とはすなわちクン族のことだ。高床式の家には複数の開き戸式の窓がある。Josephはこれを「ロマンチック・ウィンドウ」と説明した。親に許されぬ若い2人がこの窓を通じて愛をささやいたという。

ロマンチック・ウィンドウ

階段を上がり、ある家にお邪魔する。女性と男性がそれぞれ3、4人ずつ丸くなって座り、談笑している。男性陣は酒を飲んでいる。酒を誘われたが、遠慮しておいた。

床は竹でできている。床が抜けて数メートル下の地面に落ちやしないかと心配しながら、家の中を探索させてもらった。

シャン族の家の中

シャン族の村をあとにし、川で行われている網を使った漁などを見物しながら、パゴダに到着した。アカ族やアク族などの山岳民族はキリスト教だが、シャン州の多数派であるシャン(クン)族は仏教徒だ。これもシャン族のパゴダなのだろう。

パゴダの中

時刻は12時半ごろ。このパゴダの一角で昼食をとる。中央市場で調達した黒い餅米のおにぎりにソーセージとチキン。黒い餅米のおいしさは昨日と同じ。2匹の猫が食料を狙ってしつこくまとわりつく。

パゴダをひととおり見学したあと、再びスクーターを走らせて、エン族の村へ行く。昨日を訪れたエン族の村とは別の村だ。

昨日と同様、ここでもシャーマンの家を訪れた。昨日のシャーマンは手作りのギターを弾き英語の単語もいくつか知っていたが、ここのシャーマンはかなりの高齢で体の動きも年相応だ。

エン族の村

シャーマン

シャーマンとその妻は2人ともお歯黒をしていた。お歯黒用の葉っぱと植物の実を私に見せ、噛んでみないかと勧めるが、お断りした。1度噛んだくらいで歯が黒くなるわけではないだろうが、あまり食指をそそりそうな代物ではなかった。

このあと少年たちが仏教を学んでいる僧院(monastery)を見学し、チャイントゥンへの帰路についた。

僧院

ツアー2日目の最後は「時間が余ったらダウンタウンの見物」ということだったが、代わりにJosephのプリント・ショップを訪れることにした。ダウンタウンの探訪には明日と明後日たっぷり時間がある。

間口3~4mくらいの小さなショップには若い女性が2人いた。ひとりはJosephのガールフレンドで、もうひとりは従業員だろう。2人とも私たちの訪問を予期していなかったらしく、びっくりしていた。

Josephとそのガールフレンド(左端)

となりのカフェからコーヒーをとり、しばらく話す。このショップは昨年の10月にオープンしたらしい。プリントのノウハウはインターネットで独学したという。立派なコピー機やプリント用のマシンが用意されている。ショップの賃貸料も払わなければならない。チャイントォンにはこの種のサービスを提供するショップはほかにはないとのことだが、Josephのこのビジネスが今後軌道に乗ることを祈るばかりだ。

ちょうど4時にGolden World Hotelに戻ってきた。Josephに2日分のガイド料80ドルを支払う。チップとして10000チャット(800円ほど)を上乗せした(少なかったかな)。

2日目のツアーは1日目に比べて内容が希薄だった。多くの時間がガイドとの会話に費やされた。これはこれで興味がなかったわけではないが、アカ族、アク族、エン族、シャン(クン)族にほかにももっと多くの少数民族の生活を見たかった。エン族はワ族に近いという。ワ族の村も訪れたかったが、チャイントォンからは遠すぎるのかもしれない。1日目が90点、2日目が70点、2日通じて80点と評価しておこう。まずは合格点だ。

Golden World Hotelの受付で、「明日チェックアウトし、別のホテルに移動する」と伝える。「Golden World Hotelに不満があるわけではない。あなたがたのサービスには十分に満足している。ただ5泊同じホテルでは飽きるので、変化がほしい」と付け加えた。これはリップサービスではない。受付の3人の女性(ビルマ人もいればクン族もいる)は私と顔を合わせるたびはじけるような笑顔で迎えてくれた。昼間に停電になることがあったが、これはこのホテルだけでなく、チャイントォンの他のホテルも同じだろう。

少し休んでから、再び外へ出かけようとしたとき、受付の女性の1人(クン族だが、中国の血も混じっている)が私に「question」があるという。日本のことでも尋ねられるのかと思ったが、questionというようよりsuggestionであり、ホテル代を20%引きにするからあとの2泊もここで泊まらないかという誘いであった。

私が明日移動する予定のLaw Yee Chaing Hotelは1泊25ドルだ。30ドルの20%引きなら24ドル。わざわざ移動する必要はない。誘いに乗ることにした。

夕食は昨日と同じ場所の屋台の1つでとった。注文したのは麺(1000チャット)。おいしいのだが、私にとっては辛すぎた。肉まんを1つ買ってホテルへ戻る(500チャット)。この肉まんが口内に残っている辛さをほどよく緩和してくれた。

夕食の麺

さてLaw Yee Chaing Hotelに明日からの宿泊のキャンセルを伝えるかどうか。予約したとはいえ、ただの口約束で、私の名前さえ伝えていない。このまま放っておいても問題ないだろうが、このままではモヤモヤしたものが残る。再びホテルを抜け出し、夜道を10分近く歩いてLaw Yee Chaing Hotelに行き、明日からの宿泊を取りやめることを知らせておいた。これですっきりと眠れる。

 

2019年2月25日月曜日

ミャンマー・シャン州2019 四日目(少数民族の村を巡る1)

2月8日。

7時半ごろに朝食をとる。ヤンゴンのBeauty Land Hotelより劣るが、まずは満足できる内容だ。お粥が用意されているのは中国の影響か。

ガイドは9時ちょうどにホテルにやって来た。Josephという名前のアク(ZAkhu)族の青年だ。出発に先立ち、今日と明日の行程を簡単に打ち合わせる。今日はアカ(Akha)族とEnn族の村を訪れるとのこと。

まず中央市場に立ち寄り、ランチ用の食料を買い出す。葉っぱに包まれた黒い米のおにぎり2つとソーセージ。村の子供たちに配る飴も2袋購入した。

スクーターのうしろにつかまりながら1時間近く、舗装も途切れた山道を行く。最初にアカ族でもエン族でもない小さな村(何族の村かは忘れた)を訪れた。7、8人の女性たちが外で並んで刺繍をしていた。その横を水牛が首に付けた鈴を鳴らしながら通り過ぎる。

次にアカ族の村に行く。アカ族はもともとは中国から来た人々で、ミャンマーのほか、タイやラオスにも居住している。私は2年前にラオス北部のアカ族の村を訪れたことがある。ミャンマーのアカ族とラオスのアカ族がどれほどに同じで、どれほどに異なるのか、興味深いところだ。同じ言葉をしゃべっているのかどうかは私には判断できない。服装や生活様式については多少の違いがありそうだ。ラオスのアカ族の村では伝統衣装を着用している女性をほとんど見かけなかったのに対し、ミャンマーのアカ族では多くの女性が今でも日常的に伝統衣装を身につけているようだった。ラオスでは中国から安価な洋服が大量に輸入され、伝統的な装飾や服装を放逐してしまったとのことだった。

高床式の家屋、放し飼いされている黒豚。教会も見える。村には男性の姿はあまり見あたらない。農作業に出かけているのだろう。女性たちは手作りの袋や装飾品を私に売りつけてくる。これは困る。しつこい売り込みではないが、いちいち断るのが後ろめたい。たとえ必要なくとも、謝礼の意味でいくばくかの買い物をする用意はある。しかし、訪れるのはこの村だけではない。勧められるままに買うわけにはいかない。

ある家に立ち寄り、しばしの休憩。ガイドにとってもはじめて訪れる家らしい。近所の女性も2、3人集まってくる。ヒマワリの種をつまみながら、よもやま話。ガイドの通訳でときどき私も会話に加わる。ガイドはアク族だが、アカ族とアク族は似ており、アク族はアカ族の言葉を解する(その逆は必ずしも真ではないらしい)。

この家ではトイレを借りた。そのお礼というわけではないが、小さな手作りの袋を購入した。5000チャット(400円ほど)。

この家の女性はお歯黒をしてした。日本のお歯黒とは異なり、既婚女性が歯を黒く染めるわけではない。動物、特に犬の歯は白い。アカ族やエン族のお歯黒は「犬ではなく人間だ」という意思表示であり、既婚と未婚あるいは男と女の別を問わない。ある植物の実と葉を何ヶ月もあるいは何年も噛むことによって歯が黒くなる。いったん黒くなった歯は白には戻らないという。アフリカ東部のチャットと同様、この植物には一種の常用癖、依存性を引き起こす効果があるのかもしれない。

お歯黒をしたアカ族の女性

アカ族の子供たち

アカ族の村をあとにして、エン族の村へ向かう。ガイドはEnn peopleと説明したが、帰国後にネットで調べてもEnnはほとんど出てこない。代わりに見つかったのがAnn peopleだ。EnnとAnnは同じ人々を指す可能性が高い。

丘から見下ろしたところに小さな建物がある。学校ということだ。中に入ると、30人ほどの児童と2人の女性教師がふざけあっている。休み時間なのだろうか。用意していた飴を子供たちに配る。教師2人はビルマ人とのこと。ビルマ語を教えるためだろう。

山の斜面に散在する高床式の住居が興味深い。黒豚が放し飼いされているのはアカ族と同じだ。

エン族の子供たち

ビルマ人の教師

エン族の住居

エン族の村

ガイドに案内されてシャーマンの家を訪れる。少数民族の村ではキリスト教の進出が著しいが、アニミズムの伝統は簡単に消えないのだろう。シャーマンは世襲制の村長のような役割を担っているのかもしれない。

50がらみのシャーマンは床に敷く竹のカーペットを製作中だった。根気のいる仕事だ。

ここで用意していた昼食をとった。ガイドもランチボックスを持参していたが、中味は白いご飯だけだった。中央市場で買った黒い餅米のおにぎりはおいしかった。これだけあればおかずはいらない。ただ2個は多すぎたので、1個は持ち帰ることにした。

昼食後、シャーマンが手作りの弦楽器を持ち出し、3曲ほど披露してくれた。エン族やシャン族(クン族)の調べ。すばらしかった。たった2弦の手作りの楽器でこれだけのメロディーを創り出せるこの男、だてにシャーマンをやっているのではなさそうだ。

シャーマンの演奏

シャーマンの家の土間を見学する。神事に使う太鼓もある。よそ者がこの太鼓に触るのは厳禁とのこと。広い土間にはテレビが1台。テレビの前には10人ほどの村の子供が集まり、放映中のインド映画を見ていた。おそらくこの村ではシャーマンの家だけがテレビを所有しているのだろう。

テレビの前の子供たち

シャーマンにチップとして5000チャット(400円ほど)を渡し、エン族の村を去る。

次に訪れたのはもうひとつのアカ族の村。ガイドの顔見知りという女性の家に上がる(高床式だから文字通り「上がる」わけだ)。煎った落花生でもてなされる。ここでも近所の女性や子供たちが数人集まってきた。

この家で休む

これで今日の予定はおおよそ終了した。ホテルへの帰路、米から酒を醸造している現場に立ち寄る。近づくにつれ、麹の匂いが強くなる。試飲したところ、かなり強い酒だった。

ホテルに帰るとちょうど4時ごろだった。舗装していないでこぼこの山道をスクーターのうしろにしがみついて廻ったわけだから、結構疲れた。しかし、古くからの生活様式がまだ生きているさまざまな光景を垣間見ることができ、十二分に満足できるツアーだった。エン族の学校訪問とシャーマンの手作りギター演奏が今日のハイライトと言えようか。

夕暮れになるといくつかの屋台がオープンする一角がホテルの近くにある。夕食はここでとった。豚肉のカレーで1000チャット(80円ほど)。安くておいしかったが、なにぶんにも量が少ない。幸い、黒い餅米のおにぎりを持ち帰っていたので、空腹のまま眠るはめにはならなかった。

屋台で夕食
 

2019年2月22日金曜日

ミャンマー・シャン州2019 三日目(チャイントォン到着)

2月7日。

6時半にホテルをチェックアウトし、頼んでいたタクシーでヤンゴン国内空港に向かう。チャイントォン行きのフライトは10時15分だから、7時からのホテルの朝食をとってからでも十分間に合うが、慎重を期して早めに出ることにした。

空港には7時半ごろに到着した。空港内のカフェでコーヒーとドーナッツを注文して朝食代わりとする。合計で170チャット(130円ほど)だったように記憶しているが、確かでない。

フライトは1時間近く遅延した。3年前のミッチーナー行きが数時間遅れたことを考えれば、1時間以内の遅れは上々だ。

ヤンゴンからチャイントォンまでのフライト時間はおよそ1時間半。機内では菓子パンと飲み物が出された。

チャイントォンに到着

カチン州のミッチーナーと同様、シャン州のチャイントォンの空港にもイミグレーションがあり、入国検査がある。ミャンマー人はIDカードを提示するだけだが、外国人の私はパスポートを提示し、それを係官がノートに記録する。係官は最後に「アリガトウ」と日本語でひと言。

ホテルは最初の1泊だけGolden World Hotelを予約していた(1泊30ドル)。ホテルまでタクシーで500チャット(400円ほど)。700チャットという言い値を500チャットまで負けさせたが、空港から市内までは20分もかからないから、相場はもっと安いかもしれない。

ホテルの予約を初日だけにしたのは、シャン州での5日間をどう過ごすか決めていなかったからだ。チャイントォンだけに滞在するのは避けたい。中国との国境に近いモンラー(Mong La)に行くのがいいだろう。

モンラーはミャンマー国内にありながら、中国人がギャンブルや売春などのために訪れるsin city(歓楽の街)だった。「だった」と過去形にしたのは、中国当局の規制により、カジノも売春女性も姿を消してしまったとの報道を目にしたからだ。だが、少し離れた場所にカジノが再度出現しているといううわさもある。

賭博にも売春にも興味はないが、ミャンマーでありながら、通用する貨幣はもっぱら中国元、言葉も中国語がメインという特異な町の雰囲気を感じてみたい。問題は、外国人がモンラーへ行けるかどうか確かでないこと。ネットを調べると、行ったという体験記もあれば、行けなかったという報告もある。

Golden World Hotelに着くと、受付の3人の女性が満面の笑みで迎えてくれる。なぜか「シャン州では英語は通じない」という先入観があったため、「明天我想去~」と初心者以下の中国語で「明日はモンラーへ行きたい」と伝える。どれだけ伝わったかはわからないが、英語で「外国人はモンラーへ行けない」という答えが返ってきた。

うーん、困った。チャイントォンでの5日間をどう過ごすか。周辺の村々へのトレッキングはガイド付きなら可能ということなので、明日と明後日の2日間のガイドの手配を依頼しておく。

Golden World Hotel

部屋でしばらく休んでから、外へ出る。チャイントォンは眠ったような小さな町だ。人も車も多くない。すでに2時を過ぎているので、小さな食堂に入って遅めの昼食をとることにした。店の息子らしき青年が英語でメニューを説明してくれる。ライスと豚肉で2000チャット(150円ほど)。

チャイントォン

チャイントォンの特徴ある瓦屋根

「外国人はモンラーに行けない」と聞いたが、ひょっとしたら誤解の可能性もあるので、食堂の近くにあるPrincess Hotelに立ち寄り、念のために確かめてみた。やはりだめだとのこと。Princess Hotelは1泊45ドルだった。

Maps.meを頼りに中央市場へ行くが、予期したとおり午後は閉まっていた。中央市場の近くにLaw Yee Chaing Hotelというホテルがある。中に入って値段を尋ねてみる。1泊25ドル。Golden World Hotelより5ドル安い。ガイド付きのトレッキングを依頼した関係から最初の3泊はGolden World Hotelにするとして、残りの2日はLaw Yee Chaing Hotelにしよう。口約束ながら10日と11日の宿泊を予約しておく。ここでも英語で問題なく意思疎通できた。

宿に戻り、3泊する旨を告げて代金を先払いしておく。ガイドとはまだコンタクトがとれないとのことなので部屋で待つ。

6時近くになってガイドがホテルにやって来た。スクーターに同乗してのツアーで1日(9時から4時ごろまで)40ドルとのこと。スクーターで山道を行くのはつらいが、車なら70ドルから80ドルかかるという(Princess Hotelでも同様の情報を得ていた)。やむをえない。スクーターで「トレッキング」することにした。

夕食はホテルの近くの店で購入した中国製のインスタントラーメンと乳飲料で済ませた。この店でも英語で値段を告げられた。「シャン州で英語が通じない」などという失礼な思い込みは完全に瓦解した。

インスタントラーメン用のお湯はホテルに常備してあった。

モンラーに行けないのは残念だが、何はともあれシャン州にたどり着けた。最悪のシナリオは回避できたわけだ。