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2015年8月30日日曜日

アフガニスタン2015 心残りと後日譚

今回は全行程ガイド付きの旅だった。先にも書いたが、アフガニスタンに知人か友人でもいない限り、ガイドなしの自由旅行で観光ビザを入手する手立てはない。2年前にはタジキスタンのホーログで簡単にビザを取得できたが、現在はその道も閉ざされている。EUのパスポート保持者ならドバイですぐにビザを入手できるが、日本人や韓国人には難しい。アフガニスタンが我々を差別しているのではなく、それぞれの国の政府の意向だ。

ガイドに従う旅は楽だが、楽なだけに、その土地に実際に足を踏み入れたという感覚が希薄になる。迷いながら宿を探し、部屋を見て、値段を確かめ、気に入らなければ別の宿にする。移動のためのバスやタクシーを見つけ、必要ならば交渉する。レストランで何が出てくるかわからないような料理を注文する。ときにはぼられることもあろう。宿やバスがなかなか見つからなくて多くの時間を無駄にすることもあるかもしれない。しかし、こうした苦労と無駄を通じて、その街を自分の足で歩き、少しは知ったという気になる。

もちろんガイド付きの旅には利点も多い。観光ポイントを効率的に廻れるのもそのひとつ。アフガニスタン旅行のためのガイドブックは少ない。私の知る限りでは、Lonely PlanetのCentral Asiaに収録されているAfghanistanのchapterくらいだ。Lonely PlanetはChapterごとに5ドル弱でPDFファイルを購入できるので便利だ。しかしこのChapterは古い。出版の日付が明記されていないのでよくわからないが、記載されているのはせいぜい2009年ごろまでの情報だ。ガイドがいなければバーミヤンのDragon Valleyなどは完全に見逃していたかもしれない。

バーミヤンの子供たち

もっと重要なのは、ガイドなしでカブールをうろつくことの危険性だ。ひとりで空港に降り立ち、信頼できるかどうか定かでないタクシーに乗るのはいいが、どこへ行けばいいのか。最新の宿情報などどこにもない。中級のゲストハウスなどはセキュリティの関係から看板すら出していない。ガイドによると、撮ってはいけない建物に向かってカメラを構えていた外国人旅行者が警察に捕まり、5、6日ほど拘留されたあと国外追放になったこともあるという。

カブールではガイド付き、比較的安全なバーミヤンでは自由旅行という組み合わせ形がベストかもしれないが、「自由旅行」といっても結局のところは車やドライバーを誰かに依頼しなければちょっと離れた場所の観光は不可能だ。

アフガニスタンが直面する問題の深さはいまさら言うまでもない。治安と貧困と麻薬。これらが互いに因となり果となって絡み合っている。2年前に訪れたアフガニスタンのイシュカシム。のんびりした農山村だ。マザーリシャリーフから来た男は「ここはアフガニスタンでも最も貧しい地域だ。見ればわかるだろう」と言っていたが、アフガンがはじめての私には他の地域と比べようもない。多少は知っているエチオピアやマリ、バングラデシュと比較すれば、まずまずの暮らしぶりで、極度の貧困や荒廃は感じられなかった。

イシュカシムの子供たち(2年前)


しかし、イシュカシムから帰国し、ネットで調べているうち、イシュカシムにおける麻薬汚染の深刻さを取り上げた記事を発見した。日系米人の写真家によるその記事は「イシュカシムの成人の半分以上は中毒者」と伝えていた。アフガニスタンでは、機織りなどの過酷な労働を原因とする痛みを和らげるためにアヘンは古くから広く使われていた。だが、内戦が続き、経済が行き詰まる中、そのアヘンやさらにはヘロインが社会の深部にまで度を超して浸透しているのだ。いまやアフガニスタンは世界最大のアヘンやヘロインの生産国であるだけでなく、その最大の消費国でもある。

たった3日間の滞在であるとはいえ、私はいったい何を見ていたのだろう。イシュカシムの牧歌的な風景の裏側にあるもの、平和なたたずまいのすぐ下に潜んでいるものはまったく見えていなかった。今回のカブールとバーミヤンへの旅でも同じことが言える。

今回の旅行のガイドたちも麻薬や貧困の問題の深刻さを認めていた。しかしカブールで見かけたのはひとりの中毒者が路上に横たわっていたのと、ブルカ姿の2人の物乞いくらいだ。これもガイドに従うだけの街歩きの限界だろうか。中毒者が集うカブール川の岸辺にでも行けば、また違った光景が見られたかもしれない。そうした場所に赴くのが賢明かどうかは別にして。

もとよりジャーナリストでもなく、現地の言葉を何一つ知らない私がたった6日間の滞在で、見て、知って、理解できることには自ずから限りがある。しかし、表面の観察にとどまらず、もう少し何かつかみたかったという悔いは残る。

Untamed BordersのJamesやKausarには「私の写真やビデオは自由に使ってもらって結構」と伝えてあった。Untamed BordersのWebサイトにはさっそく「first Japanese Guest」の短いニュースがアップされ、そのFacebookには何枚かの写真も紹介されている。
http://www.untamedborders.com/untamed-borders-guides-its-first-japanese-guest-in-afghanistan/

私自身も20本余りの動画を作成し、Youtubeにアップした。たとえば


 

2015年8月28日金曜日

アフガニスタン2015 気がついたことなど

今回の旅でいくつか気がついたこと、予想外だったことなど。

まず女性のブルカ着用率の低さだ。もちろん街の中でブルカを見かけないというわけではない。見方によっては多いとも言える。しかし、2年前にタジキスタンと国境を接するイシュカシムへ行ったときには、バザールなどに外出する女性はほぼ全員がブルカを着用していた。これに対し、カブールでもバーミヤンでもブルカ姿の女性はあきらかに少数派だった。タリバンの影響が皆無に近い北部のイシュカシムでああなのだから、カブールなどでは女性の顔などほとんど見ることもできないのではないかと思っていたが、みごとに予想はずれ。タリバンの影響が強いカンダハールなどではまた別かもしれない。
カブールの女性


バーミヤンの女性

髭を生やしていない男性が多かったのも予想外だった。2年前のイシュカシムで、マザーリシャリーフから来た男と会い、少し話したことがある。当時のカルザイ政権を「very good government」と称えていた石油エンジニアの彼の顔はきれいに剃ってあった。これを鮮明に覚えているのは、他の男たちがほとんど髭面だったからだ。だが、カブールやバーミヤンではclean shavenはごく当たり前で、特に印象に残るようなことではなかった。場所が変わったからそうなのか、2年という歳月の社会的変化がそうさせたのかは定かでないが、おそらく前者だろう。私が直接にかかわったガイドやドライバーたちも1人を除いて全員clean shavenだった。バーミヤンで同宿だったAliも同様。ガイドのKausarやAliと宿で食事をとっているときにそのことを指摘すると、Aliは「我々はprogressiveだから」と答えていた。

こうした相違はイスラムのイデオロギーの濃淡というより、田舎(僻地と言ってもいいかもしれない)で保守的なイシュカシムと相対的に開けたカブールやバーミヤンの違いなのかもしれない。

2年前のイシュカシムの光景 その1
 
2年前のイシュカシムの光景 その2
 
もうひとつ。カブールにはマクドナルドもなければスターバックもない。しかし、KFCはある。Kentucky Fried Chickenではなく、Kabul Fried Chickenだが。

2015年8月26日水曜日

アフガニスタン2015 治安

アフガン旅行でもっとも気になるのが治安だ。タリバンに加え、イスラム国(IS)がアフガンへ触手を伸ばしている今、状況は決して楽観できない。政府とタリバンの交渉の兆しも見えるが、交渉を有利に進めるためにタリバンが攻勢を強める可能性もある。実際、私が発った3日後の8月7日にはカブールで連続テロが発生し、少なくとも50人が死亡している。

私もUntamed Bordersのサポートがなければたぶん踏み切れなかっただろう。いずれにしても我々日本人には、アフガニスタンに知人か友人でもいない限り、Untamed Bordersに頼るしか観光ビザを取得する手立てがない。いうまでもないが、Untamed Bordersでは客の安全に細心の注意を払っている。ひとりでも死者が出ればend of businessであることは十分に承知しているようだ。現地にさまざまな情報のネットワークを持ち、ここで詳細を書くことは控えるが、ゲストハウスの選択、飛行機がキャンセルされた場合の移動手段などについても二重三重の策を考えている。

だからといって安全が100%保証されるわけではない。行くか行かないかは最終的には個人の決断になる。アフガニスタンに限らず、現在の状況下のエジプトやトルコへ行く場合でも同様だろう。誰かが安全だと言ったとしても、それを全面的に信頼して旅を組み立てるわけにはいかない。逆にどこそこが危険だという情報に過度に左右されていれば、世界広しといえど、ほとんど行くところがなくなってしまう。いろいろな情報を集めることはもちろん必要だ。しかし、そのうえで決断するのは自分しかない。他人があなたに代わって判断してくれるわけではない。

カブールは今まで訪れたどの場所よりも警戒が厳重だった。カブール空港に着陸したときには、何機もの軍用機や軍用ヘリコプターを見かけた。街に出れば、空にはヘリコプターが頻繁に飛んでいる。街の状況を偵察するためのヘリコプターかと思ったが、ガイドのGullに聞くと、大使館員たちが移動に使うヘリコプターらしい。Gullは「カブールは渋滞しているので」と説明していたが、渋滞よりもセキュリティが理由だろう。ちょっとした建物には有刺鉄線が張られ、ゲートは武装した警備員で守られている。だが、これでは泥棒ぐらいは防げるかもしれないが、死を覚悟した組織的な攻撃にはひとたまりもない。
ゲストハウスの前で

狙われやすいのはバザールやモスクなど人がたくさん集まる場所、それに外国人が多い高級ホテルやレストランなどだ。おかげで高級ホテルはがらがら。宿泊費を下げるしかない。逆にあまり目立たない中級ホテルのほうの宿代は上がる。この結果、中級ホテルのほうが高級ホテルより高いという逆転現象が一部で発生しているという。

こんなカブールだが、街を歩いていて、レストランで食事をしていて、あるいは観光サイトで写真を撮っていて、危険を感じるようなことはなく、特に緊張することもない。ガイドと一緒ということもあろうが、これはまあ当たり前で、危険を感じるようなことがあれば、それはもう何かが発生しているときだ。どんな状況でも日常生活は続く、続けざるを得ない。

バーミヤンはカブールに比べてずっとリラックスしているが、それでもホテルシルクロードやその隣の高級ホテルには有刺鉄線があり、武装警備員が配置されていた。一見平和なだけに、この平和がどこまで続くか危惧と不安が強くなる。

現在のところ、おおよそ安全といえるのはカブール、バーミヤン、ヘラート、マザーリシャリーフ、イシュカシムくらいか。ジャラーラーバードは微妙だが、イスラム国の影響が強まっているらしい(今年4月に発生した銀行襲撃のテロはISによるものと言われている)。Untamed Bordersによると、陸路で安全なのはカブールとマザーリシャリーフをつなぐ道路だけ。他は空路になる。

2015年8月25日火曜日

アフガニスタン2015 七日目(8月4日)

カブールからドバイへのフライトは13時30分発だが、Gullには早めに迎えに来てもらい、午前10時前に宿を出る。カブールは渋滞が激しいうえ、空港に入るまでに何回もセキュリティ・チェックがあるので十分に余裕をもって出たほうが安心だ。

途中、渋滞で車が止まると、男の子の物乞いが近づいてくる。11、2歳か。身なりはわりときちんとしており、ストリートチルドレンといった感じではない。少し迷ったが、残っていた140アフガニのうち40アフガニ(約80円)を手渡す。わずかなアフガニスタン通貨を日本に持って帰っても仕方がない。さらに残った100アフガニは空港の売店でポテトチップを買うのに使った。

チェックインも搭乗もスムーズに進行し、ほぼ予定の時刻にカブールを発つ。

カブール空港のチェックイン・カウンター前


2時間半ほどの飛行でドバイに着いたときには、「これでやっとアフガニスタンから無事に帰還できた」とホッとしたのも事実。夜中3時の関空発の便まで10時間近くも待ち時間がある。ドバイの街に出ようかとも考えていたが、飛行機を降りたとたんのムッとした暑気にその気も萎えた。ドバイの街はすでに訪れたことがあるうえ、暑さを避けてショッピングモールやレストランで時間を過ごすくらいなら、空港内で時間をつぶすのと大差ないだろう。出発ロビー内にはホテルがある。ここで休むという手がある。しかし値段を聞いてあきらめた。6時間パックでも200ドルを超える。エミレーツ・エアから提供されたミール・バウチャーで空腹を凌ぎ、空港内でただただ待つ。

飛行機は午前3時にドバイを発ち、8月5日の夕方6時半ごろに関空に着いた。暑い。ドバイと同じくらい、ひょっとするとドバイ以上の暑さだ。
これまでに最も印象に残る旅はこれで終了。

アフガニスタン2015 六日目(8月3日)

この日はカブールへ戻る日。KausarはUntamed Bordersの別の旅行者を迎えるためにバーミヤンに残り、私は1人でカブールに飛ぶ。カブールでは別のガイドが待っているはずだ。

バーミヤンとカブールの間では週に二便、月曜日と木曜日にEast Horizonの飛行機が往復している。

朝8時ごろ、バーミヤン空港でKausarはカブールから飛んできたイギリス人のセバスチャンを迎える。飛行機を降り立ったセバスチャン、私が日本から来たと告げると「日本人の婦人が3人同じ飛行機に乗っていた」と言うではないか。慌てて周りを見渡す。日本人女性らしき3人が見える。ホテルシルクロードのオーナーのHさんとその妹さん、妹さんの友人の3人連れだ。Kausarも交え、ここで短い会話をする。ホテルで和食を食べたこと、日本の外務省の意向でアフガニスタンへのビザがとりにくくなっていることなど。
バーミヤン空港

単独でのカブール行きとはいえ、同宿だったAliも同じ便でカブールへ帰るので心強い。Aliは10年ほど前、オーストラリアに難民申請をした経歴の持ち主。パキスタンから空路でインドネシアに飛び、そこの難民センターで1か月ほど過ごしたあと、ナウル共和国に送られた。ナウルの難民センター(detention center)で1年半もの間オーストラリア政府の審査を待ったが、結果はNo。オーストラリア亡命を許されたのは20%くらいだったという。難民センター全体のうちの20%なのかアフガニスタン人の亡命希望者のうちの20%なのかは聞きそびれた。

1時間足らずの飛行のあと、カブール空港の外ではガイドのGullが待っていた。Aliとは知り合いらしく、挨拶を交わしていた。Gullはハザーラだが、生まれも育ちもカブールという。
初日と同じゲストハウスに再度チェックイン。しばらく休んでからカブールの観光に出る。まず地雷博物館。地雷だけではなくさまざまな武器が展示してある。博物館を出るときに記帳を求められたので、日本語で「日本製の地雷がなかったのは幸い」と書いておく。
続いて国立博物館(ナショナル・ミュージアム)。内戦で破壊されたあとで再建された博物館だ。

昼食はレストランで。このとき、かつて私がYoutubeで見たBBCのアフガン関係の番組に登場していたのがGullであることに気がついた。カナダ人の女性ジャーナリストのインタビューを受け、Gullは「ツーリスト・カンパニーを立ち上げるのが夢」と語っていた。GullはUntamed Bordersに雇用されているのではなく、自分のオフィスを持っていること、Untamed Bordersとは協力関係にあることを知った。ツーリスト・カンパニーを立ち上げるという夢を実現しているわけだ。実現の途上にあると言ったほうが正確かもしれないが。


カブールを一望できる丘や廃墟となった宮殿を訪れたあと、私の腹具合が悪くなり、宿に戻る。宿で一休みしたおかげで、カブールを見て回る時間はもうあまりない。チキン・ストリートやフラワー・ストリートをGullと散策し、カフェでマンゴ・ジュース(おいしかった)を飲みながら、雑談。これでカブールの全日程、つまりアフガン旅行の全日程は終了だ。ゲストハウスでビュフェ式の夕食をとったあと、外出し、近くのスーパーで日本への土産物を物色。アフガニスタンでつくられたお菓子を探したが、どうもないようだ。代わりにイラン製の砂糖菓子を購入した。宿に戻って明日のフライトの準備。
 

2015年8月24日月曜日

アフガニスタン2015 五日目(8月2日)

バーミヤン最後の日。この日はまずBuddhist Cavesを訪れ、続いて車で10分ほどかかるDragon Valleyに向かった。Dragon Valleyは広大な岩山が2つに裂けたような谷間となっている景勝地だ。5、6人の子供を含む家族が遊びに来ている以外、風の音しか聞こえない静かな地で、さまざまな形の岩が果てしなく広がっている。この家族からは昼食をごちそうになった。顔立ちからからしてたぶんハザーラだろう。


午後2時近くにバーミヤンに戻り、初日、二日目とは別のチャイハナに寄る。すでにアフガンの家族から昼食をごちそうになっているので腹はいっぱい。ナンは抜きにしてケバブの肉だけを食べる。隣の席からターバンに髭、するどい目つきの男がじっと私のほうを見ている。典型的なタリバンにも見えなくはない男からじっと見つめられるのはあまり気持ちのよいものではない。やがてその男とガイドのKausarが会話。あとでKausarに聞くと、私が目立ったのは英語で話していたからで、外国人と思われたからではないという。「5歳のときにアフガンを離れて欧州に移ったため、現地の言葉をしゃべれないのだ」というKausarの虚偽の説明に男は納得したという。しかし、街を歩いていたとき、突然「ありがとう」と声をかけられたこともあり、私には見かけからしてもアフガニスタン人ではない何かがあったのだろう。

午後は特にすることもなく、インターネットカフェに立ち寄ったあと(宿ではWifiにはつながったのだが、おそらくプロバイダの側の不調でネットにはつながらなかった)、若干のCDとDVDを購入して宿に戻った。

宿の中庭でお茶を飲みながらガイドのKausarと話す。毎回の食事どきをはじめ、彼とはずいぶん話した。アフガニスタンに関する私の情報はもっぱらBBCやEconomistの西側の報道によるもので、Kausarとの食い違いが少なからずあった。たとえば、前回の大統領選。「本来ならアブドラ・アブドラが勝っていた選挙だが、ガニーが勝利したことになったため、混乱を防ぐうえでやむなく二頭体制になった」という私の認識に対して、Kausarは「勝ったのはガニーだが、アブドラが武力衝突で脅かしために二頭体制になった」という見方だった。Kausarの強い反米レトリックには驚いたが、こうした反米感情がアフガニスタン人の間でどれほど一般的は確かでない。
タリバンによるハザーラの迫害についても、Kausarは「確かにタリバンはハザーラを迫害して、子供や老人、女性までも殺した。しかし同じような迫害はマスードも行っている。タリバンだけを取り上げ、マスードによるハザーラの迫害に言及しないのはおかしい。それにバーミヤンではハザーラのミリシャがパシュトゥンやタジクを追い出すという過去もあった」と言う。
マスードによるハザーラの迫害、ハザーラによるパシュトゥンやタジクの迫害は事実かもしれないが、規模や広がり、残酷さにおいてタリバンによるハザーラの迫害とは比較できないのではないだろうか。これはちゃんと調べてみないとわからない。
Kausarはパシュトゥンだから、そのバイアスもあるのかもしれない。

アフガン政府とタリバンとの交渉の行く末に「a glimmer of hope」が見られるかと聞いたところ、Kausarは即座に「見られない」と答えた。「タリバンは交渉のテーブルにつく前提条件として米軍をはじめとする外国軍の完全な撤退を要求している。しかし外国軍が完全に撤退してしまえば、タリバンは交渉などしなくてもやすやすとアフガン全土を制圧できるから交渉の意味はない」というのが彼の見解だ。

2015年8月23日日曜日

アフガニスタン2015 四日目(8月1日)

四日目は晴れ。雲一つない快晴とはいかないが、バンデ・アミールの湖への観光には支障がない。
バーミヤンから車で1時間半ほど。壮大な岩山に囲まれた深い青色の湖群。写真で何回も見た風景だが、写真で見るより美しい。これだけの観光資源が人知れず眠っているのはなんとももったいないが、世界中からドッと観光客が押し寄せるような状態になるのがいいかどうか。


昼食はバンデ・アミールのチャイハナでとった。どこでもチャイハナのメニューは限られており、ビーフ・ケバブ、ラム・ケバブ、ライスくらい。これにスープとナン、生サラダが付く。スープ、ナン、生サラダは食べ放題のようだ。このチャイハナの外では鉈や包丁を使って羊の肉を切り分けているところだった。Kausarは「フレッシュな肉が食べられる」と喜んでいた。確かにフレッシュには違いないが。

バンデ・アミールからの帰路、荒涼とした土地にいくつかのテントが見える。Kausarによると「遊牧のジプシー」だとのこと。ちょっと立ち寄ることにした。子供たちの写真を撮る。身なりがいかにも貧しい。電気も水もない生活(水は近くの川から汲んでいるようだ)。アフガンにジプシーがいるとは知らなかった。しかし、彼らはnormadicではあっても、ロマやシンティと呼ばれる欧州のジプシーとは出自や歴史が異なるのではないかと思えた。帰国してから調べると、Koochi(Kuchi)と呼ばれてる集団らしいが、詳しいことはわからない。現大統領のガニーもKoochi出身という。


バーミヤンに戻り、夕暮れが迫る中、旧ソ連軍の戦車の残骸をカメラに収める。
夕食は宿で。チキンとマントゥ。ジョージアでヒンカリと呼ばれ、中央アジアでマントゥ、ネパールでモモ、中国でチャオズ、韓国ではマンドゥ、日本では餃子と呼ばれるこの食べ物は私の大好物だ。
 

アフガニスタン2015 三日目(7月31日)

この日、バーミヤンの空は曇っている。同宿のAliは米国国務省が設立した組織で働いており、女性の起業を支援するためにカブールから当地にやってきた。しかし今日は金曜日で休日。バンデ・アミールの湖を一緒に見に行こうと我々に提案した。だが「曇った空のもとでは湖のブルーがクリアでなく、時間がたっぷりある我々としては後日に訪れたほうがベター」と判断したのはガイドのKausar。結果的にこの判断は正しかった。夕方帰ってきたAliは「バンデ・アミールはとても寒かった」とこぼしていた。一方、我々は翌日の晴れた空のもとで最良のコンディションの湖を見ることになる。

バンデ・アミール行きを後日に引き延ばした我々の今日の活動の中心はバーミヤン石窟の探索。石窟は宿から100メートルの距離にある。ここで若い女性を中心とする10人ほどのグループに遭遇した。彼らも石窟を見学中だ。なかのひとりが英語をしゃべるというので、しばしの交流となった。カーブルから来た一団かと思ったが、地元のバーミヤンからだという。ハザーラだ。日本から来たことを告げたあと、「Do I look like Hazara?」と問いかけると、いっせいに「Yes!」という答えが返ってくる。「We are in the same group, same familiy」と笑い合う。日本人とハザーラの人々とのつかの間の連帯。


昨日と同じチャイハナで昼食をとったあと、シャーレ・ゾハークとシャーレ・ゴルゴラという砦の跡を訪れる。どちらもごつごつした岩を登ることになるので、標高2500メートルのもとではどうしても息切れがしてしまう。しかし頂上からの景観はすばらしい。


夕食は宿ではなく、ホテルシルクロードでとった。これは私の提案で、私がKausarとドライバーを招待する形だ。シルクロードはアフガニスタン人と結婚した日本人女性のHさんが夫とともに経営しているホテルで、和食も提供している。もちろん通常のレストランよりちょっと値がはるが、「バーミヤンにお金を落とす」ことにためらいない。なにはともあれ、アフガニスタンの奥深く、巻き寿司や天ぷらを食べられるのは貴重だ。この日、Hさんはカブールに行っていて不在だったが、二日後にバーミヤン空港で遭遇し、短い会話を交わすことになる。

 

アフガニスタン2015 二日目(7月30日)

この日はEast Horizonの早朝のフライトでバーミヤンに飛ぶ。5時ごろにKausarがホテルに迎えに来た。国内空港は国際空港に隣接している。それなりに厳しいチェックを受けてから搭乗した。7時出発のはずが、実際に飛び立ったのは8時過ぎ。45分の飛行。小さなパックのジュースと菓子パンが出された。

バーミヤン空港には現地のドライバーが迎えに来ていた。バーミヤンの石窟を一望できる丘に立ち寄ってから、石窟のすぐふもとにあるゲストハウスに到着。バーミヤンには電気が通じていないので、発電は太陽光。このゲストハウスでは太陽光で蓄電したゼネレーターを使って夜の7時ごろ11時ごろに限って電気が供給される。ゲストハウスにはほとんど客がいない。観光客を迎えるのは、Kausarが前回に旅行者を案内して以来3か月ぶりだという。仕事などで来るアフガニスタン人の客はときたまいるようだ。「これほどまでに客が少ない中、メンテナンスが行き届いていないのも無理はない。ずっと空っぽの部屋を掃除して何になるのか」とKausar。他のホテルやゲストハウスも似たような状況らしい。

 
しばらく休んでから早速バザールの見物に出る。街は思っていたより大きい。肉屋、パン屋、鍛冶屋などで動画を撮影。昼食はチャイハナでとった。チャイハナでは無料で宿泊も提供しているらしいが、外国人は泊まれないという。
                      パン(ナン)の製造

食後もバザールの散策を続ける。夕方には宿に2人の楽士を呼んでもらって、ハザーラの伝統音楽を聞く。30分ほどの演奏で3000円ほどと、アフガニスタンにしては高いが、今回の旅行では「現地にできるだけお金を落とす」ことも目的のひとつなので、悔いはない。すべて即興で、私のことを歌っている部分もあったらしいが、意味はわからない。なかなかいい音楽だった。


夕食は宿でとる。私とガイド、それにカブールから来た35歳のAli、この3人がこの日の(そしてそれ以降3日間)のこの宿の全ゲストだ。初日はベジタリアン料理ということだったが、最後にチキンが出た。

アフガニスタン2015 一日目(7月29日)

7月28日23時30分発のエミレーツ便に搭乗、ドバイに向かう。エミレーツでは飛行中に機内でWifiを利用してネットにつながることがができた。ただし有料。500MBのデータ通信で1ドルだ。クレジットカードで簡単に手続きできる。中国上空ではネット接続不可、それにスピードが遅いから動画を見るようなこともない。私が使ったのは50MB以下だった。

本来ならドバイで5時間待ちだったが、フライトが早められ、3時間待ちになった。しかもビジネスシートに格上げ。ここ5年ほどの間にエミレーツでビジネスシートに格上げされたのは今回で3回目。さい先がよい。

カブールには11時過ぎに到着。イミグレーションはごく簡単に通過、続いてForeigner's Resistration Cardを作成することになる。これにはパスポートサイズの写真が2枚必要だ。同じ便で来た2人の中国人は写真を用意していなく、近くに写真を撮るような設備もないため、途方にくれていた。宿泊するゲストハウスの名前はUntamed Bordersから聞いておらず「アフガンでの滞在先」の項目は空白にしておいたが、問題なかった。

カブール空港には搭乗者以外は入れない。したがって、待ち合わせ場所にたどり着くには空港の外に出てから数百メートル歩かねばならない。道を尋ねながらなんとかたどり着くと、こちらから探すまでもなく、誰かが近づいてくる。ガイドのKausarだ。Untamed Bordersの共同設立者。30歳代といったところ。さっそく車に乗り、ゲストハウスに向かう。

途中米国大使館の前を通過。ものものしい警戒はもちろんだが、大使館付近では携帯電話も通じないという。携帯電話を利用した時限爆弾を防ぐためだろう。アフガン北部の実力者、現在は副大統領のドスタムの邸宅は厚いコンクリート壁で囲まれている。こういうところにカメラを向けると問答無用で射殺されるおそれがあるという。ドラッグで大もうけしている「マフィアのボス」の邸宅前も通過した。

看板も何もない目立たないゲストハウスに到着。銃を携えた警備員によるボディチェックと荷物検査のあとチェックインした。扇風機しかないが、標高1800メートルのカブールは7月末でもそう暑くはない。シャワー・トイレとテレビ、Wifi付き。朝食と夕食を込みで50ドルらしい。

簡単なブリーフィングのあと、2時間ほど部屋の中で休憩。エミレーツのビジネスクラスでたっぷり食べているので昼食は抜き。ブリーフィングで念を押されたのは、誰かと話すような機会があっても、どこに宿泊しているかは明かすなということだった。今後の予定についても同様で、口外は禁物とのことだった。写真については、軍隊、警察、女性は撮るなと釘を刺される。軍隊と警察はともかく、女性の写真が不可なのは痛い。

2時間後にKausarが迎えに来て、カブール観光に出る。外出するときはKausarが用意してくれていたアフガンの服を着用した。「これで立派なアフガニスタン人だ」とはKausarの弁。アフガニスタンの人口の10%を占めるモンゴロイド系のハザーラとして十分に通用するというわけだ。最初に訪れたのはBritish Cemetery。受付の管理人が私を怪訝そうに見る。あとで聞くと、私をアフガニスタン人と思い込み、「ローカルの人間がどうしてこんなところに見学に来るのだろう」と思ったそうだ。

その後、ブッシュマーケット(米軍の横流し品を中心としたマーケット、以前はゴルバチョフマーケットと呼ばれていた)、モスク、Babur's Garden、廃墟と化した旧宮殿などを見物し、夕食。夕食はゲストハウスで提供されるのだが、この日はKausarが案内するレストランでとった。チキンの煮込み、スープ、ライスなどだ。おいしいのだが、なにしろ量が多い。この後、アフガン料理の量の多さにいつも驚かされることになる。
カブール市内のドライブ

明日は早朝にバーミヤンに向けて飛ぶ。睡眠不足のはずだが、夜中に何回も目が覚めた。

アフガニスタン2015 準備・ビザ(6月~7月上旬)

2013年9月にタジキスタンのホーログ経由でアフガニスタンのイシュカシムを訪れて以来、かの国に対する興味は多少の波はあっても途切れることはなかった。とりわけ惹かれたのがバーミヤンだ。石窟や湖の景観もさることながら、なによりもそこに住むハザーラ(Hazara)の人々が気になった。モンゴロイドの血を受け継いでいることへの親近感もあれば、民族的宗教的(シーア)な少数派としての迫害と差別の歴史への関心もあった。

しかしアフガニスタン旅行となると、そうそう気軽に踏み切れるものではない。2014年末のISAFの撤退を経て、2015年も半ば。治安状況は悪くなることはあっても、よくなる気配はない。ほとんどあきらめかけていたときに、たまたまイギリス人とアフガニスタン人が共同で立ち上げたUntamed Bordersの存在を知った。

http://www.untamedborders.com/

アフガン旅行を手配してくれるというではないか。実績もそれなりにありそうだ。さっそくメールで問い合わせると、すぐに返事が返ってくる。当初は6月下旬から7月上旬にかけての旅行を計画していたが、ラマダンと重なるということで、7月下旬から8月上旬に変更した。また、カブールの出迎えと宿の手配、バーミヤンまでの航空券の入手だけを希望したのだが、「whole tripに責任を持ちたい」というUntamed Bordersの意向から、全行程にガイドを付けることにした。最終的に決定した旅程は次のとおり。

29th July (Wed.): Arrival at Kabul (via Dubai)
30th July (Thurs.): Flight to Bamian
31st July to 2nd August (Fri. - Sun.): Stay in Bamian
3rd August (Mon.): Return flight to Kabul
4th August (Tues.): End of trip (Flight to Dubai)


問題はビザ。ドバイで簡単にビザを取れると考えていたのだが、どうもそうではないらしい。Untamed Bordersのメールによると、"Japanese and Korean visitors to Afghanistan do find it harder to obtain a visa than other nationalities"というではないか。Untamed Bordersの勧めにしたがってドバイのアフガン領事館に電話で問い合わせると、ビザ申請のためにはletter from your countryが必要とのこと。

この時点でふたたびあきらめモードに。ドバイの日本領事館がそのような手紙を出してくれる可能性はゼロに近く、東京のアフガン大使館へビザ申請がむなしいことは2年前にすでに経験している。しかしまあ後悔しないようにやれることはすべてやっておこうと6月上旬に郵送で駐日アフガン大使館にビザを申請しておいた。ほとんど期待していなかったが、郵送してから10日ほどして、アフガン大使館から自宅に電話があった。

大使館員「アフガニスタンに知り合いはいるのか」
私「いない」
大使館員「本国ではアフガン滞在中のあなたのセキュリティを心配している」
私「今回の旅行はすべてUntamed Bordersのガイド付きとなっているから、大丈夫だ」
大使館館員「ではそれを証明するような文書を送って貰えないないだろうか」

ここでビザはOKとの感触を得た。さっさくUntamed BordersにLetter of Invitationを送ってもらい、アフガン大使館に転送。数日後に大使館から再度電話があり「ビザを発行できるので、料金の80ドルを振り込んでくれ」とのことだった。

80ドルを振り込み、関空発ドバイ経由カブール行きエミレーツ便の航空券を購入、7月上旬には出発を待つばかりとなった。