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2017年2月28日火曜日

ラオス2017 五日目(ルアンナムター)

2月10日。

今日はルアンナムターへ移動する日。昨日お寺でもらった「ちまき」がまだ3つ残っていたので、朝食代わりとする。8時過ぎに宿をチェックアウト。ルアンナムター行きのマイクロバスの時刻は前日に調べてあった。8時、9時10分、11時、それに確か午後にも1本あった。私が乗ろうとしていたのは9時10分のバスだが、切符が売りきれることもありうるので、少し早めに宿を出た。

切符は無事購入でき、助手席も含めて満席のバスはほぼ定刻に出発した。外国人旅行者は私だけのようだ。隣の若者が私に英語で話しかけてくる。ビエンチャンでホンダのオートバイのディラーをやっており、ムアンシンには仕事で来たとのこと。もともとはルアンパバーンの近郊の出身であり、両親は今でもそこに住んでいる。両親のもとで1泊してからビエンチャンに戻るところという。話が少数民族に及ぶと、青年は自分はモン族だと名乗った。外見だけからはラオなのかモンなのか、あるいは別の少数民族なのか、私にはまったく区別がつかない。青年は小柄で色白だったが、これがモン族の一般的な特徴というわけでもなかろう。

バスがルアンナムターに着いたのは2時間後の午前11時ごろ。この近距離用のバスステーションはルアンナムターのほぼ中心に位置しており、ほんの少し歩けばメインストリートに出る。メインストリート沿いのManychan Guesthouseに宿をとり(予約はしていなかった)、2泊することにする。トイレ・シャワー、テレビ付きの部屋で1泊70000キープ(1000円近く)。朝食は付いていない。このゲストハウスは1階が大きな食堂になっており、欧米の旅行者が数名たむろしていた。

Manychan Guesthouse

チェックインして外へ出たときにはすでに12時。まともな朝食をとっていなかったから、まずは腹ごしらえだ。宿の並びの小さな食堂に入り、炒飯(らしきもの)を注文。スープ付きで20000キープ(280円)とちょっと高め。味はまあまあ。

ルアンナムターはムアンシンよりも大きく観光客も多いものの、とりわけ特徴もないひなびた町で、端から端まで歩いても20分もかからない。ムアンシン同様、看板の多くには中国語が併記されている。ところどころで少数民族の服を着た女性を見かけたが、観光客向けの物売りのようだった。

民族衣装の女性たち

明日はルアンナムター付近の少数民族の村を回る予定だ。旅行会社に相談するのがもっとも手っ取り早いだろう。メインストリートには各種チケット、ツアー、トレッキングを扱う旅行会社が数多く並んでいる。旅行会社やゲストハウスの多さからしても、ルアンナムターがいかに観光に依存しているかがわかる。

宿泊しているゲストハウスの隣の隣にある小さな旅行会社に入り、近郊の村を巡りたい旨を告げる。ひとりの場合、ガイドなしのツアー(つまりトゥクトゥクの運転手だけのツアー)で1日75米国ドルとのこと。高すぎると言うと、すぐに50ドルまで下がった。もう1押し、40ドルまでと粘ったが、これはだめだった。50ドルは本来2人参加の場合の値段だからこれで妥協することにした。明日8時半にトゥクトゥクの運転手が宿まで迎えに来てくれる。

ついでに明後日のルアンパバーンのバスの切符も購入した。長距離用のバスステーションは町の中心から遠い。宿からのピックアップサービスも含めて120000キープ(1700円近く)。夜行バスにはこりているから、朝8時30分発のバスにした。明後日7時30分に宿に迎えに来てくれるとのこと。

メインストリートにMinority Restaurantという看板を見かけたので、夕食はここでとることにした。ラオスの伝統料理(名前は失念した)を注文。ボイルされた野菜を細かく刻んだマッシュルームや茄子に浸して食べるのだが、私の口には合わなかった。小さな竹駕籠に入れたもち米(カオ・ニャオというらしい)も付いている。粘りのある米がほんのりと甘く、こちらのほうはおいしく食べられた。正確な値段は覚えていないが、かなり高かったように思う。飲み物も含めて1000円近くだったかもしれない。

夕食は伝統料理で

ともかく腹はいっぱいになり、宿に戻る。テレビは映りが悪かったが、久しぶりに熱いシャワーを浴びることができた。

2017年2月26日日曜日

ラオス2017 四日目(ムアンシン)

2月9日。

7時前に目が覚める。いっこうに熱くならないお湯でシャワーを浴びてから、朝食用に買っておいた中国風の菓子をたべる。まずい。とうてい全部はたべきれない。ツアーがスタートする9時までには1時間以上あるので、バスステーションの近くの市場にもう一度出かける。市場は朝のほうが活気があると思ったからだ。

ムアンシンの市場            

市場で写真や動画を撮り、9時少し前に宿に戻る。宿には旅行者らしい欧米系の中年男性が来ており、私に「自分もツアーに参加させてくれないかだろうか」と頼んできた。費用は折半でということだった。私に異議のあるはずがない。1万円近かったツアー代金が5千円以下になる。

かくて米国ボストン出身で52歳のクリスがこの日の私のツアー同行者となった。これは私には僥倖だった。費用が半減しただけではなく、彼から多くのことを学ぶことになったからだ。

アイルランド系アメリカ人であるクリスは大学で中国語を専攻し、中国の上海やその他の都市に1年近く住む。以来東南アジア在住30年。現在はベトナムのホーチミンシティでベトナム参入を希望する欧米企業向けのコンサルティングを行っている。この30年の間、米国へ帰ったのは3、4回とか。

ラオスにも数回訪れており、ムアンシンに来たのもはじめてではない。彼は少数民族の織物や服装に興味を持っている。織物の特徴から少数民族の歴史や相互関係を解読できるのではないかというのだ。彼とガイドの会話には、モン族やアカ族はもちろん、タイルー、タイヌア、タイダム、ロロといった民族の名前が頻繁に登場し、ついていくのが難しかった。

ラオスの少数民族といえばモン族とアカ族だけしか知らなかった私。それもただ名前を知っているだけで、それぞれがどうつながり、その織物や服装にはどのような特徴があるのかなどはまったく知らない。よくぞ「少数民族に興味がある」などと言えたものだ。

もちろんクリスもしょせんは素人であり、その知識の大半は自分の足で集めたものではなく、書物から得たにすぎないのかもしれない(Textleなんとかというタイトルの大冊を持参していた)。しかし、私のような付け焼き刃とは大違いだ。

この違いは「観光」や「旅行」に対する態度にも表れている。クリスは北京の紫禁城に6日連続で通ったという。カンボジアのアンコールワットも同様に何日もかけてじっくり見学したらしい。紫禁城やアンコールワットは私も訪れた。しかしいずれも数時間ぼんやりと見て回っただけであり、知的好奇心をそそられるようなことは皆無だった。知的好奇心をそそられるには、それなりの知識と関心が前提となる。「世界遺産などには興味がない」とうそぶき、それがあたかも本物の旅であるかのように錯覚していただけだ。

クリスと一緒のこの日のツアーでは、昼食をはさんで、タイヌア、モン、タイダム、ロロ、アカの村を訪れた。集落だけでなく、学校や仏塔にも立ち寄った。矢継ぎ早にいろいろな村を見たので、私の記憶も混乱しているが、いくつかの印象的な場面を書き留めておこう。

タイダムの村だっただろうか。機織りの場に遭遇した。高校生ぐらいの少女が我々に装飾の入ったショールを勧めてくる。自分で織ったとのこと。クリスは2枚のショールを買った。1枚が確か50000キープ(約700円)だった。クリスは言う。「相場より高いことはわかっている。しかしこの少女が今後も機織りを続ける励みになれば(encourage her to continue weaving)と思って買った。」

機織りの少女

クリスは少数民族の服装のコレクターでもあり、ロロ(Lolo)族の女性の服を買いたがっていた。自分の部屋の壁に飾っておくというのだ。クリスのほしいのは観光客に売られている真新しい服ではない。女性が普段身につけているその民族固有の服だ。「古ければ古いほどよい、穴が開いているようならなおよい」と言う。

ロロ族は中国雲南省から下ってきた民族で、ラオスのほかベトナムにもいるが、その数はモン族やアカ族に比べればかなり少ない。彼らの村は今でも中国の影響が顕著で、戸口には中国風の春節の飾りらしきものが見られた。中国語を話す人もいるようだ。クリスはまず老婆と中国語で話そうとしたが、「雲南なまりが強すぎて、何を言っているのかわからない」とのことだった。

続いて訪れた家の男性とはちゃんと中国語で会話ができ、クリスは古着を購入したい旨を説明する。私もクリスの意図はわかっているから、中国語で何を言っているかおおよそ判断できた。男性は近くの別の家に我々を連れて行き、そこの家族の古着を買うことになった。上下の服に加え、帯や頭部に巻く布などを含めた一式だ。値段を決める段になって、双方に一瞬躊躇が生じた。なにしろ値段があってないような代物、いくらくらいが適当か見当が付かない。クリスは自分から進んで400000万キープ(5500円ほど)払った。ロロ族の家族は二束三文の古着が思わぬ大金になって喜んでいた。

ロロ族の古着を買う

村巡りの途中で仏塔にも立ち寄った。この仏塔には僧侶がひとりで暮らしているという。60歳くらいのこの僧侶は「こんにちは」と日本語で挨拶し、ちょっと聞き取りにくい日本語で「あなたの名前は何ですか」と尋ねてきた。

昼食は田圃の中の東屋でとった。ゲストハウスが用意した弁当で、大きな植物の葉で包まれていた。ライス、鶏肉、卵料理、野菜など。ゴマをまぶした焼き海苔や茄子の煮物がおいしかった。食事をしながら、なぜか話題はトランプ大統領に。クリスは「トランプはガキ(child)だ」と言う。これを受けて、私も「トランプのゴーストライターによると、彼のspan of attention(注意持続力)は5分ということだ」と続ける。一党独裁体制のもとにあるラオス人のガイドがこうした会話をどう受け止めたかは定かでない。

本来ならヤオ族の村も訪れるのだが、この日とその翌日はなにかの理由で外部の者は村に入れなかった。村の入口には一本の縄が張られ、何かを記した紙がぶら下がっていた。ガイド付きツアーの利点はこうした点にもある。ガイドがいなければ、村に迷い込み、トラブルを引き起こしていたかもしれない。

最後に訪れたのはアカ族の村。ここでは「お金をくれ」と手を差し出す子供が2、3人いた。しかし全体としてはのんびりとなかなか風情のある村だった。

アカ族の村

ツアーを終えてゲストハウスに戻ってきたのは午後4時過ぎ。クリスと一緒にさらに近くのお寺を見物し(お寺ではちまきに似た食べ物をもらった)、しばらく自分の部屋で休む。クリスは別のゲストハウスに宿泊していた。

お寺でもらったちまきのような食べ物

クリスとは7時に一緒に食事をすることにしていた。向かったのはメインストリートにあるCoffee Shopという看板の店。前日クリスがここで食事をして、なかなかよかったという。クリスが前日食べたのと同じ料理を頼んだが、正直なところあまりおいしくなかった。客は我々ふたりだけだった。

ビールを飲みながら、閉店の9時までクリスと話す。東南アジアの少数民族の話題から始まり、日本や中国のこと(アジア在住30年にもかからわず、クリスはまだ訪日していなかった)、米国のイラク侵攻、アラブの春に至るさまざまな話題。

クリスと出会えたことは幸運だった。自分の知識不足、底の浅さを思い知らされた。前々日、真夜中にバスから放り出され、夜行バスを利用したことを後悔したものだ。しかし、夜行バスを避けて翌日の昼のバスにしていたら、ムアンシン到着も1日遅れ、クリスと会うこともなかっただろう。まったくなにが幸いするかわからない。

2017年2月25日土曜日

ラオス2017 三日目(ムアンシン)

2月8日。

よく眠れないままうつらうつらしていると、バスが突然停まり、車内がざわざわしてくる。「ルアンナムター」という声がする。外はまだ真っ暗だが、ルアンナムターに着いたらしい。急いで身支度してバスを降りる。

時計を見ると2時半。これは計算が違う。5時ごろに着いて、しばらくバスステーションで時間を過ごし、夜明けとともにルアンナムターの街に出るつもりだったのだ。この長距離用のバスステーションはルアンナムターの中心から10kmほど離れている。トゥクトゥクが1台待機しており、ルアンナムターへと誘うが、今の時刻に街に出たところでチェックインできる宿があるとは思えない。バスステーションが開いていれば、椅子に座って休むことができるのだが、ドアはロックされている。2月の始めの真夜中。ラオスとはいえ、寒さが身にしみる。

バスを降りたのは私を含めて6人。外国人旅行者ばかりだ。そのうちのひとり、スペイン語を話す女性旅行者はバスのトランクから自分のバックパックを取り出すのを忘れ、途方に暮れていた。バスは彼女のバックパックを載せたまま、タイのチェンライへと走り去った。夜中の3時近くではバス会社に連絡するすべもない。もっとも貴重品は身に付けるか手荷物に入れているだろうから、最悪バックパックが戻ってこなくても旅は続けられるだろう。

そうこうするうち、バスステーションの真向かいにあるホテルに明かりがともる。おそらく毎晩繰り返されるこうした場面を当て込み、我々に宿を提供しようというのだろう。6人全員がともかくホテルに入る。シングルの部屋は1泊70000キープ(1000円近く)。夜行バスを利用すれば1泊分浮くと考えていた面々だが、この際、他に選択肢はない(あとから考えると、ルアンナムター行きの夜行バスの切符を購入するときに、このへんの事情を旅行会社が忠告してくれるべきだった)。

私はシングルの部屋をとった。シャワー・トイレ、テレビ付きの清潔な部屋だった。昨日の昼から何も食べていないので空腹だったが、4時ごろから8時ごろまで4時間ほど眠ることができた。

今日のうちにムアンシンまで行くつもりだったので、8時過ぎに宿をチェックアウトしたあと、トゥクトゥクを捕まえ、ルアンナムターの中心にある近距離用のバスステーションに向かった。ムアンシンはルアンナムターの北西に位置し、バスでおよそ2時間かかる。中国との国境に近い小さな町だ。ルアンナムターよりさらに田舎だが、その分だけ少数民族に出会える可能性が高いように思えた。

ルアンナムターの中心にある近距離用バスステーションに着いたのは午前9時半過ぎ。9時半のムアンシン行きのマイクロバスは出たところだったが、幸いまだ11時の便があった(ムアンシン行きのバスは午前中の3本だけだった)。昨日12時の昼食以来21時間ぶりの食事をとる余裕もあり、ちょうどよい。付近の小さな食堂に入って麺を注文する。たぶんカオ・ソーイと呼ばれるラオス北部に特有の麺だろう。10000キープ(約140円)という安さにもかかわらず、空腹も手伝ってことのほかおいしかった。

バス乗り場の近くで麺を食べる

ムアンシンまでのバス代は25000キープ(約350円)。定刻どおりに出発し、2時間たらずにムアンシンに着いた。ムアンシンのバスステーションは町の中心にほど近く、私が目指していたプーイーウ・ゲストハウス2までは歩いても行けそうだ。しかし疲れていたこともあり、トゥクトゥクを利用した。

プーイーウ・ゲストハウス2を選んだのは、ツアーオフィスも備えていると聞いていたからだ。予約はしていなかったが、部屋は空いていた。トイレ・シャワー付きのバンガローの部屋で、80000キープ(約1100円)。朝食は付いていない。

ゲストハウスの部屋

さっそく明日の少数民族巡りのツアー(といっても参加者は私だけだが)を申し込む。運転手とガイド付き、昼食も含めて700000キープ(1万円近く)とのこと。高い。高いが、このために来たのだから、やむをえない。

部屋で休み、ムアンシンの町に出たときには2時を過ぎていた。メインストリート(というほどの賑わいのある通りではないが)に四川飯店という看板の食堂があったので入る。メニューはない。店の若い女性がスマートフォンの画面を見せる。漢語から日語への翻訳の画面で、「炒肉」という文字が表示されている。まあこれでいいだろう。炒肉(豚肉とニンニクの茎の炒め物だった)とビール(ラオビア)を注文する。久しぶりにしっかりした食事だ。お代わり自由のライスも付けて40000キープ(550円ほど)。女性に中国語で「中国人か」と聞くと、そうだとの答え。私が日本人であることは名乗らずともわかっていたらしい。

四川飯店で昼食

ムアンシンは中国との国境に近いため、宿や食堂のほとんどの看板にはラオス語と中国語が併記されている。「超市」という看板の中国のスーパーがあったので、明日の朝食代わりに菓子類を購入しておく。

続いてバスステーションに隣接しているマーケットを見物する。少数民族らしい女性も見かけるが、何族かはわからない。

ムアンシンの市場

まだ日は暮れていないが、昨日の夜行バス以来のドタバタで疲れていたうえ、特に見るべきものもないので、宿に戻ることにする。昼食をとったのが3時ごろであり、腹は減っていないが、いったん宿に戻って夜また外出するのも面倒だ。ちょうど道端にLao Pizzaなる屋台を見つけた。これを持ち帰り、宿で食べることにする。確か20000キープ(300円近く)だったような。宿に戻り、せめて8時ごろまで待って食べようと思っていたが、待ちきれず7時ごろに食べてしまった。まずまずの味。

明日のツアーは9時にスタートする。今夜はしっかり寝ておこう。
 

2017年2月24日金曜日

ラオス2017 二日目(ルアンパバーン)

2月7日。

Down Town Backpackers Hostelの朝食は7時からということなので、7時少し過ぎに階下に降りるが、まだ準備はできていなかった。昨晩は夜遅く到着し、まだこの宿の場所がよくわかっていない。外に出てみよう。宿に面している小さな路地は朝市で賑わっていた。野菜や衣服、肉に加え、メコン川で獲れた大きな魚が売られているのが興味深い。

朝市

7時半ごろに宿に戻ると、同室の中国人青年も降りてきており、朝食をとるところだった。朝食はフルーツと飲み物に加え9種類の中から選べる。私はヌードルを選択し、青年はパンとバター、ジャムというもっともベーシックな食事を選択した(オムレツやスクランブルエッグ、ハムなどを添えることができるにもかかわらず)。

ヌードルはインスタントのようだったが、肉、野菜、卵が入っており、スープはおいしかった。中国人青年が私に何か尋ねてくる。「吃」(チー)という音が聞き取れたので、おいしいかと聞かれたのかと思い、「好吃」(ハオチー) と答える。

ところが青年が知りたいのはそうではないらしい。スマホを取り出して質問を文章で見せてくる。这个怎么吃、つまりどうやって食べるのか聞いているのだ。

ラオスはフランスの植民地だったこともあり、パンはトーストではなくフランスパン。ナイフとフォーク、バター、半分に切ったフランスパンを前にして、青年はどうして食べていいかわからず固まっていたのだ。

 私が質問を聞き取れなかったのも無理はない。予想だにしない質問だった。ナイフとフォークを使ってフランスパンに挑もうとしていたのだろうか。

ナイフの腹にバターをのせてパンにつけることを実演し、さらにパンをナイフで縦に切り裂いてそこにバターやジャムをつければいいことを示す。この青年、ラオスの次はタイに行くとのことだったが、無事に旅を続けられただろうか。

朝食のヌードル

ルアンパバーンは2年前にも2泊したので、多少の土地勘はある。まず明日のルアンナムター行きのバスの切符を購入するため、メインストリートに数多くある旅行会社のひとつにいわば当てずっぽうで入る。2年前の経験から、どの旅行会社を選んでも大差ないだろうと判断したからだ。

ルアンナムター行きのバスは朝出発のものに加え、夕方7時に出発する夜行もあった。ガイドブックによれば、ルアンパバーンからルアンナムターまではバスで10時間近くかかる。夕方7時に出発すれば到着は早朝の5時ごろ。今回も日程が限られているから、ルアンナムターにはなるべく早く到着したい。ルアンナムターの先にあるムアンシンという町にも行きたいと思っていたからなおさらだ。しかも今日の夜行バスは寝台バスという。今夜7時にルアンパバーンを発とう。今夜の分も宿を予約していたから1泊の代金が無駄になるが、やむをえない。

バス代は宿からバスステーションまでのピックアップサービス込みで150,000キープ(2000円ほど)だった。昼間のバスより若干高い。6時に宿に迎えにきてくれるとのこと。

ルアンナムターまでの足も確保できたところで、2年前を思い出しながら、ルアンパバーンを散策した。メインストリートに面してジュースや軽食を提供するストールが並んでいる一角がある。2年前と同様、今回もここでマンゴシェイクを注文する。10000キープ(140円ほど)。昼近くになっていたので、ついでにツナのサンドイッチもとった。こちらも10000キープ。

午後もルアンパバーンぶらり歩き。メコン川の支流のナムカーン川に沿って歩く。人通りも少なく、静かで落ち着いている。プーシーの丘にも登った。頂上まで登るには2000キープの入場料が必要。頂上からはルアンパバーンの街を一望できる。

ナムカーン川

4時過ぎにカフェに入り、ビールを飲む。このとき食事も勧められたが、夕食には早すぎるので断る。これは失敗だった。7時出発の夜行バスには夜食のための休憩はなく、結局夕食抜きになってしまったからだ。

宿に戻り、チェックアウトを済まし、6時のピックアップを待つ。ピックアップのトゥクトゥクはほぼ6時かっきりにやってきた。トゥクトゥクには先客がいた。テキサス州のオースティンから来た米国人女性だ。2か月ほどかけて東南アジアを旅しているところで、これからタイのチェンマイに行くという。2年前に私がたどったのと逆のコースだ。私の日程を聞かれたので、「私はヨーロッパ人ではなく、日本人だ。ヨーロッパの人のように5週間、6週間といった休暇は不可能だから、10日ほどでめまぐるしく回るしかない」と答えた。彼女によると、米国も日本と似ており、ある程度長期の旅行をするには会社を辞めるしかないとのことだった。

街の中心からバスステーションまでは15分くらいだが、何カ所もの宿に立ち寄って旅行者をピックアップしていたため、到着したのは7時10分前だった。

私の乗ったのはタイのチェンライ行きのバスだった。途中でルアンナムターに立ち寄るのだろう。2人掛けの寝台が並んだ車内は満席状態。外国人旅行者と現地の人たちがほぼ半々というところか。私はラオス人の男性と同じ寝台になった。通路を隔てた隣の寝台には中国人のカップルがいた。男性のほうが少し日本語を話す。上海の富士ゼロックスで働いているとのことだった。彼らの行き先はチェンライだった。

暗闇の中をバスは進む。トイレ(といっても野外トイレだが)休憩はあるが、夕食のための休憩はない。予期していた通り、あまりよく眠れない。

2017年2月21日火曜日

ラオス2017 一日目(ルアンパバーン)

はじめてラオスを訪れたのは今から2年前の2015年1月。タイのチェンマイから入りラオスのビエンチャンを出るタイ航空の航空券を購入し、チェンマイ、ファイサイ、ルアンパバーン、バンビエン、ビエンチャンというルートをバスでたどった。観光地を点から点へと巡る旅といえよう。日程が限られていたこと、例によって準備作業が不足していたことなどから、これはいたしかたなかった。

そのとき以降、ライス再訪はいつも心に引っかかっていた。今度こそもう少し深く踏み込み、ラオスを実感したい。

そして2017年の2月6日、再びラオスに向けて旅立った。今回は北方のモン族やアカ族の村を探訪するつもりだったので、ルアンパバーンを拠点にすることにし、関空からルアンパバーンまでのベトナム航空の往復航空券を購入した(およそ7万5千円)。2月6日から15日までの9泊10日の旅となる。

朝10時に関空を飛び立ち、ハノイのノイバイ国際空港でルアンパバーン行きの便を5時間近く待つ。何をするでもなくのんびりと待っていると、40人ほどの団体がやってきた。空港には似つかわしくない集団だった。なんとも田舎じみているのだ。風貌、服装、物腰のどれをとっても、そこらあたりの農村からそのまま空港にやってきたような人々(私自身が田舎の出身であり、この描写に侮蔑の意図はない)。彼らはお互いにスナックをやりとりして、ずっと何か口にしていた。なかでも数人は飛行機の発着に興味津々で、幼稚園児や小学生がそうするように、椅子に後ろ向きに座り、身を乗り出して窓の外を見ている。どうも中国人らしいこの集団を見て思う。「ああ、こうした素朴な人たちが暮らすありのままの農村を見ることこそ、私の旅の目的なのだ。」

中国人乗客(ハノイの空港)

やがて近くのAirAsiaのゲートが開くと、彼らはいっせいに搭乗を開始した。どこへ行く飛行機に乗るのだろうか。電光ボードを見ると"Guiyang"とある。貴州省の州都貴陽ではないか。貴州省なら2回訪れたことがある。ミャオ族の村に泊まったこともあれば、トン族の歓迎を受けたこともある。貴州省は少数民族の宝庫だ。空港で見かけた集団の中にもミャオ族やトン族の人たちが混じっていたかもしれない。「こうした素朴な人々の住む村へ行ってみたい」という私の願いはすでに叶えられた願いだった。

ルアンパバーンには定刻通り、夜の8時近くに着いた。小さな空港には市内までのタクシーを斡旋するデスクがあった。料金は50万キープ(700円近く)。両替もこのデスクで行っており、とりあえず100ドル両替した。

初日と2日目の宿はbooking.comを通じて予約していた。ルアンパバーンの中心にあるDown Town Backpackers Hostelのドーミトリーで、1泊7ドル(朝食付き)。タクシーの運転手がこのホステルを知っているかどうか不安だったが、その点は問題なかった。比較的新しいホステルだが、結構よく知られているようだ。ただし、タクシーはホステルに横付けしてくれたわけではない。細い路地に面したホステルなので、車は入り込めない。タクシーを降り、5分近く歩いてたどり着いた。

Down Town Backpackers Hostel

ネットでの評判通りにフレンドリーなスタッフに案内されたのは6つのベッドを収納した部屋。幸い私には下段のベッドが割り当てられた。夜も9時を過ぎており、外に出るのはおっくうだ。ハノイからルアンパバーンへのフライトで出た小さなバーガーをカバンにしのばせていたので、夕食代わりとする。

私の隣のベッドには中国人の青年がいる。英語はしゃべれないとこのことなので、私の初心者レベル以下の中国語に筆談を交え、1時間ほど「会話」する。

青年は漢族だが、現在はチベット自治州のラサに住んでいる。仕事を辞め、数ヶ月がかりの東南アジアの旅に出たらしい。中国ではFacebookやYoutubeなどへのアクセスがブロックされいるが、VPNを利用することでこのブロックをかいくぐることができる。青年に「VPNを使っているか」と尋ねたが、VPNが何かを理解させるのが難しく手間取る。やっと理解した青年は自分のスマートフォンの画面を見せる。そこにはYoutubeのアイコンが表示されていた。

私のベッドの上段には私とほぼ同時刻にチェックインしたポルトガル人の若い女性がいた。数ヶ月の日程でカンボジア、ベトナム、ラオスなどの東南アジアを旅しているとのこと。アジアがことのほか気に入っているようだ。ヨーロッパに比べ、人の温かさを感じるらしい。「チェコに1年間暮らしたが、人々はcoldだった」と言う。「ドイツはworstだ」とも。

さて、今度の旅のテーマはラオス北部の少数民族探訪と決めている。明日は北部の町ルアンナムターへのバスを予約しなければならない。

2017年2月1日水曜日

Stephen King: Doctor Sleep

2017年1月14日読了
著者:Stephen King
評価:★★★★☆
刊行:2013年
Kindle版

キングの作品は読みやすく、あまり外れがない。だから、さしあたって読みたい本が見あたらないときなど、つい手にとることが多い。おそらく今までに15冊くらいは読んでいるだろう。しかし、キングは多作であり、その作品の数はゆうに50を超える。したがってせいぜい4分の1くらいしか読んでいないことになる。まだまだ楽しみが残っているとも言えるが、正直なところ少し飽きてきた感じもしないではない。本書も期待に違わずおもしろかった。だがThe Green MileやUnder the Doomを読んだときのようなわくわく感は得られなかった。

本書はThe Shining(1977年)の続編である。Shiningは私がはじめて読んだキングの小説だが、20年以上前のことであり、内容はほとんど覚えていない。このため細部ではところどころ理解困難なところがあったが、読み進めていくうえで大きな障害にはならかった。ただThe Shiningをまったく読んでいない読者にとってはちょっとつらいかもしれない。

The Shiningのとき少年だったDanny(Dan)も今や中年。少年時の事件のトラウマもあり、その人生は順調とは言い難い。病院のorderly(用務員)として米国内を放浪する中で、アルコールにおぼれていく。かつて父親がたどった道を繰り返そうとしているのだ。

そのDanが断酒を決意して、ニューハンプシャー州のホスピスに職を得る。そして、彼と同様に、彼よりももっと強力なShining(一種の超能力)を有する少女と力を合わせてTrue Knotと呼ばれる邪悪な集団と戦う。

以上がストーリーの要旨だが、ここではTrue Knotに焦点を合わせたい。せいぜい2~30人のこの小さな集団は、外見的には普通のアメリカ人となんら変わるところがない。だがその実体は人間というよりゾンビや亡霊に近い集団で、何百年もヨーロッパやアメリカを流浪している。Shiningの能力を持つ子供を拷問して殺害し、その際に生じるsteam(「生気」とでも訳したらよいだろうか)を吸うことによって若返り、いつまでも生きることができるのだ。

したがって人間の側からすれば彼らと戦うことは「悪」と戦うことにほかならない。これほどはっきりした「正義」と「悪」の対立はない。

しかしちょっと視点を変えることはできないだろうか。True Knotの側から見たらどうだろうか。生き延びるために人間の子供の殺害が必須だとすれば、その行為を「悪」ときめつけるのはむずかしくなる。人間が生きるために植物や動物を犠牲にしているのと同じになってしまうからだ。

True Knotにはなぜか子供のメンバーがいない。これはちょっと不自然だ。子供がいると、彼らをすっきりとやっつけてしまうことが困難になる。

True Knotはキャンピングカーで米国の各地を流浪している。これはキャラバンで欧州を流浪するジプシー(ロマ)のイメージに重なる。True Knotとはある種のジプシーなのか。True Knotが子供を誘拐し、拷問し、殺害するのと同様、ジプシーには「子供を誘拐する」という噂がつきまとっている。昔の話ではない。ギリシャやアイルランドでジプシーの金髪の子供が実子ではないとして警察に「保護」されたのほんの数年前のことだ。

もちろんキングにこうした意図があると言いたいわけではない。人間中心主義から少し距離を置けば、このように意地の悪い裏読みも可能ではないかとふと思っただけのこと。