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2019年8月11日日曜日

沖縄戦跡巡り2019 七日目(旅の終わり)

7月22日。

9時過ぎにホテルをチェックアウトし、県庁前駅から那覇空港駅に向かう。

セキュリティ・チェックを通過して、出発ロビーで11時50分発の関空行きを待つ。隣の搭乗ゲートからは11時55分発の成田行きが出る。

隣に座っていた高齢で髭面の男性が私に何か質問してきた。飛行機の運航に関する質問だったが、どんな内容かは忘れてしまった。

ともあれ、それがきっかけで男性と少し話す。成田から神奈川へ行くのだが、息子と会うために成田空港で8時間待たなければならないとのこと。話がよく飲み込めなかったので、少し立ち入って尋ねてみると、息子はアルゼンチンからやって来ることが判明した。息子はアルゼンチンで生まれ育っているが、アルゼンチンでは仕事がなく、働くために来日するらしい。男性自身は沖縄生まれらしく、つまりはアルゼンチンの日系1世ということになる。

アルゼンチンの経済状況はかんばしくなく、そのため治安も悪化しているという。男性の知り合いの家では2度泥棒に入られたとか。

ずっと以前にあるアルゼンチン人から「日系にはクリーニング業が多い」と聞いたことがあるが、これはもう過去のことらしい。

搭乗の時間になった。私の周囲の席は7、8人の外国人で占められていた。中南米風の一団だ。隣に座っている若い男性に「ブラジル?」と尋ねると、「ペルー」との返事。滋賀県守山市の工場で働いてるらしい。

男性は小学4年まで日本で過ごし、その後ペルーに帰って5年、再度日本に来たという。もちろん日本語はしゃべれるし、顔つきも日本の血が混じっているようだった。その横の若い女性は100%中南米で日本語も話せなかった。台風にもかかわらず「沖縄はすごくよかった」とのことでなによりだ。

沖縄戦跡巡りはこのようにして終わった。

米軍上陸から戦後までを時系列的に巡ったわけではないし、重要な戦跡を網羅できたわけでもない。明確な視点や計画もなしに、目に付いた戦跡、アクセスしやすい場所をランダムに訪れたにすぎない。せっかく訪れた戦跡についても、深く探ることなく、多くを見落としている。前田高地とシュガーローフをカバーしたものの、嘉数高地は抜けている。伊江島に行けなかったことも大きい。

しかし、はじめての沖縄で、しかも台風の影響を受けたことも考慮すると、満点からはほど遠いにしろ、自分なりに合格点は得られたように思う。もとより1回の旅で戦跡巡りが完結するわけではない。今回の旅は出発点にすぎない。ある程度の土地勘を得た今、もっと深くもっと広く戦跡を探る旅を実現したい。

この記事のタイトルを考えていたとき、すぐ頭に浮かんだのは「帰国」という言葉だった。このほうが座りがよいこともあるが、沖縄旅行は半分くらい海外旅行だった。航空機による旅ということがひとつ。未知の土地というファクターもある。

もうひとつ、外国人の多さだ。たとえば中国人観光客。実際には日本人観光客よりはるかに少ない数だろうが、その存在感は日本人を圧倒する。コンビニ、ホテル、レストランの従業員にも外国人が多かった。東京や大阪も同じような状態かもしれないが、地方都市としては際だった外国人比率だ。若い白人男性がレストランの呼び込みをやっているのにはびっくりした。

次は沖縄本島だけでなく、伊江島、久米島、慶良間諸島にまで足をのばしたい。台風のシーズンは避けたほうが無難だろう。

国際通り

2019年8月10日土曜日

沖縄戦跡巡り2019 六日目(海軍司令壕、対馬丸記念館、首里城)

7月21日。

沖縄最後の1日。午前中に海軍司令部壕を訪問し、午後には首里城の中を見学することにした。時間があったら、対馬丸記念館にも行ってみたい。

海軍司令部壕はゆいレールの奥武山(おうのやま)駅と小録(ころく)駅のどちらからでも徒歩で30分程度で行くことができる。沖縄戦でよく名前の出てるのは小録のほうだが、今回は奥武山公園からのルートを選んだ。このほうが若干近いからだ。

9時過ぎにホテルを出て、県庁前駅でゆいレールに乗り、奥武山公園駅で降りる。昨日までとは異なり、今日は青空が見える。奥武山公園は運動公園であり、陸上競技場、サッカーやテニスの施設、球技場などがある。今日は何かの大会があるのだろうか。駅には「混雑が予想されますので、帰りの切符は今のうちに買っておいてください」という掲示があった。

駅前の小広場には「島田叡氏顕彰碑」なるモニュメントがある。島田氏は戦争当時の沖縄県知事だ。戦火の中、住民保護に力をつくし、「生きろ」という言葉を残して亡くなった(遺体は発見されていない)島田知事は沖縄県民から今も慕われている。昨日のタクシー運転手も島田知事に対しては好意的だった。

島田叡氏顕彰碑

駅から海軍壕公園に向かって歩く。奥武山は那覇市だが、海軍壕公園は豊見城市になる。汗が少しにじむほどよい暑さの中、30分ほどで到着。内部をまったく見ることができない第32軍司令部壕とは対照的に、海軍司令部壕は1970年に復元され、一般に公開されている。

入場料は440円。沖縄戦の写真が展示されている部屋を出発点に壕の中に入っていく。日曜ということもあるのか、見学者もそこそこ多い。大田少将以下6名が6月13日に自決した部屋が生々しい。自決に使った手榴弾の跡がいくつも壁に残っている。大田少将は自決にあたり海軍次官充てに「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という電報を送っている。

海軍司令部壕

大田少将自決の部屋

さらに司令官室や作戦室などを見て回り、壕の中で30分あまりを過ごす。

司令官室

壕の外へ出る。まだ11時にもなっていない。このまま対馬丸記念館に行こう。対馬丸記念館は県庁前駅から10数分歩く。海軍壕公園から奥武山駅まで30分、さらに県庁前駅から対馬丸記念館まで10数分。これは歩くよりタクシーだ。奥武山駅の方向に歩きながらタクシーを拾おうとするが、なかなかやって来ない。結局駅まで歩いた。

県庁前駅でゆいレールを降り、対馬丸記念館に向かう。途中、「福州園」なる中国風の建物が目に入る。あとで調べると、那覇市と福州市の友好都市10周年を記念して1992年に開園した中国庭園らしい。入口付近には何人かの中国人観光客が写真を撮っていた。

福州園

福州園からさらに少し歩いて対馬丸記念館に着く。対馬丸は沖縄から九州に向けて疎開する学童を乗せて航行中に米海軍の攻撃を受けて沈没した。米軍が沖縄に上陸する前年の1944年8月22日のこと。1484名が犠牲になり、そのうち780名が児童だった。

対馬丸記念館

500円の入館料を払って中へ入る。建物自体が大きくなく、展示も小規模だ。戦中の小学校の教科書、制服、子供用の防空頭巾、対馬丸船内の2段ベッドのレプリカなど。壁面には犠牲者の写真と氏名が貼り出されている。幼子を抱えた若い母親も何組か。館内の写真は自由だが、犠牲者の写真は遠慮してくれとのことだった。

復元された2段ベッド

小学生の国民服

小さな記念館だが、定期的に会報を出すなど、各種の活動を精力的に続けているようだ。スケジュールが合えば、生存者・関係者(語り部)の話を聴く機会もある。

対馬丸記念館からホテルまで徒歩で帰った。途中、ファミリーマートでで弁当(ゴーヤチャンプルー)を購入。ここの男性店員もネパール人のようだったが、話しかけることはしなかった。

1時から3時過ぎまでホテルの部屋で休んでから、ゆいレールで首里に向かう。初日に外から見た首里城の中を見学するためだ。820円でチケットを購入し、脱いだ靴をプラスチック袋に入れて城内に入る。外も内も朱色を基調とした城だ。

首里城

琉球国は1429年から1879年の琉球処分まで存続した王国だ。正直なところ琉球国に対する私の興味は薄く、知識もほとんどない。中国と日本に挟まれたこの小国の歴史にまで興味が出てくれば、今後の沖縄訪問にも一段の深みが加わるはずだ。城内の絵巻物やその他の展示物を見ると、琉球の外交に歌舞が大きくかかわっているように思えた。軍事では隣の両大国に対抗できないことの結果なのか、それとも琉球の文化の核に歌舞があったのか。

第32軍司令部壕を再度目に収めてから首里城を後にした。

首里駅からゆいレールに乗り、牧志駅で降りる。牧志から国際通りに入ったところにある居酒屋に立ち寄るためだ。昨日確かめておいた居酒屋だ。ねらいはラフテー。ラフテーとは豚の角煮の沖縄バージョンをいう。2日目にバスターミナル付近で食べた沖縄そばにのっていた豚の角煮のとろけるような味が忘れられない。たぶんラフテーだったのだろう。もう一度食べたいと思いながら、最終日の今日になってしまった。

まだ6時ということあり、私が店に入ったときには他に客はいなかった。生ビールの中にラフテー、フーチャンプルー、ミニタコライスを注文する。沖縄の味の勢揃いだ。総額2000円ちょっと。

沖縄最後の夕食

ラフテーはもちろん、フーチャンプルーも予想外においしかった。フーとは麩のことである。タコライスは期待外れ。私には辛すぎた。タコライスのタコとは蛸のことだと誤解していたのだ。蛸ではなくタコスのことだった。

昨日同様、国際通りから美栄橋駅に出て、ホテルに戻る。明日は那覇空港11時50分発のJetstar便で沖縄を離れる。


 

2019年8月7日水曜日

沖縄戦跡巡り2019 五日目(前田高地、シュガーローフ)

7月20日。

今日はまず前田高地を見ることにしていた。1945年4月22日から5月7日にかけての激戦の現場だ。前田高地の陥落によって米軍はさらに一歩首里に近づいた。

前田高地は浦添城跡にある。前田高地とは浦添城跡のことであると言ってもいいかもしれない。那覇バスターミナルから浦添城跡へ行くルートをネットで調べると、浅野浦というバス停から徒歩で13分とあった(実際には浦添城跡にもっと近いバス停があるのだが、見逃していた)。

那覇バスターミナルから路線バスに乗っておよそ30分、浅野浦に着いた。例によって右往左往し、13分よりはるかに長い時間をかけ、小高い丘にある浦添城跡にたどり着いた。

前田高地は2017年のアメリカ映画「ハクソー・リッジ(Hacksaw Ridge)」の舞台になった。このため、外国人観光客なども訪れるスポットとなっているとのことだった。だが、土曜日の朝11時ごろの浦添城跡には私以外の観光客はいなかった。ときおり網を持つ2、3人の子供たちや親子連れに出会う。蝉を捕っているのだろう。

ところどころに城の石垣の跡が残っている。浦添の町を一望できる崖の上に「ハクソー・リッジ」の立て看板があり、日本語と英語で前田高地を説明している。米軍はこの急な崖を登って日本軍と戦った。

城壁の跡

ハクソー・リッジ

木々の中を入り、小さな階段を降りると、前田高地平和之碑が鎮座している。「北海道知事 堂垣内尚弘 書」とある。ここで戦った志村大隊には北海道出身者が多かったためだ。石壁には戦死者の氏名が刻まれている。

前田高地平和之碑

前田高地のランドマークともいえるのがにょきっと立つ為朝岩だが、このときはその存在を知らなかった。米軍からはニードルロックと呼ばれたこの岩、きっと目には入っていたのだろうけど、意識にはまったく入っていなかった。

城跡の近くに浦添ようどれがある。琉球王国の墓らしい。入口は閉まっており、立入禁止となっている。

浦添ようどれ

那覇へ戻るために、丘を降り、バス停を探す。雨が降り出してきた。小雨だが、屋根のない停留場でバスを待つのはやっかいだ。やっと見つけたバス停。時刻板に書いてある時間になってもバスは来ない。10分待っても20分待っても来ない。雨は続く。

しかたなくタクシーで帰ることにした。乗車してしばらくすると、「お客さんは内地からですか」と運転手が声をかけてくる(「本土」ではなく「内地」だっと思うが、100%確かではない)。

「そうだ」と答え、戦跡巡りをしていること、前田高地を見た帰りであることを告げる。これをきっかけに運転手と沖縄戦についてしばし話す。

運転手は5、60代。南風原町の出身とのこと。歴史に興味があり、彼自身ツアーなどに参加して戦争の跡をたどっているという。話題は渡嘉敷島(とかしきじま)での赤松大尉、久米島での鹿山兵曹長の所業に及ぶ。鹿山が戦後みずからの行為を正当化して、のうのうと生きていた(徳島で農協の役員となったということだ)ことなども。沖縄で3人の米軍捕虜を殺害した日本軍兵士は戦犯として処刑されている。しかし、20人を超える鹿山の犠牲者は米国人ではないので、米国によって裁かれることはなく、日本からのお咎めも受けていない。不合理このうえない。

浦添からホテルブライオンまで、20分余りの道のりで、代金は1810円だった。2000円を支払ってタクシーを降り、コンビニで昼食を購入してからホテルに戻った。2時近くになっていた。

午後の目的地はシュガーローフ。5月12日から18日にかけてのシュガーローフの戦いが日本軍の首里撤退を決定的にした。シュガーローフとは米国側の呼称で、日本的には安里52高地だ。

たっぷり休息をとり、4時近くになってからホテルを出た。シュガーローフは那覇の新都心「おもろまち」にある。美栄橋駅からゆいレールに乗り、3駅先のおもろまち駅で降りる。

おもろまちは高いビルが建ち並ぶファッショナブルな街だ。大通りを少し行くと、交差点で参議院選挙のキャンペーンに遭遇した。そういえば明日は投票日だ。「最後のお願い」のためにある候補者の陣営が総結集している。運動員は多いが、足を止める有権者はそう多くない。

選挙戦最終日

シュガーローフは駅から歩いて5分もかからない。すぐに見つかった。小さな丘の石段を上がる。シュガーローフの戦いを日本語と英語で説明する石盤と塔婆が2本。これ以外に何も見あたらない。1週間の間に11回も攻守が逆転した激戦の地にしては実にあっけない。

シュガーローフへの階段

シュガーローフの記念碑

おもろまちからホテルまでゆいレールを利用せずに歩いて帰った。おもろまちから安里、安里から牧志に出て、国際通りに入る。ドンキホーテに立ち寄って土産物のお菓子を購入し、美栄橋を経由してホテルに至る。1時間以上はかかっただろう。

夕食はホテルの近くの弁当屋で調達した。豚肉ののせた弁当で490円。明日は午前中に海軍司令部の壕を訪れ、午後は首里城を再訪する予定だ。
 

2019年8月5日月曜日

沖縄戦跡巡り2019 四日目(バスツアー)

7月19日。

7時前にホテルの朝食をとる。Booking.comのレビューを見ると、ホテルブライオンの朝食の評判はかんばしくなかった。「(朝食が)付いていないほうがいい」という厳しい評価もあった。そんなことから期待していなかった朝食だが、私にとっては十分に満足できる内容だった。おにぎりと各種のパン、サラダ、ゆで卵、みそ汁、ポタージュ、ジュース、コーヒーに紅茶。もちろん2万円、3万円クラスのホテルの朝食バイキングとは比ぶべくもないが、5千円強のホテルにこれ以上を望むのは酷だろう。

「おきなわワールドと南部戦跡巡り」ツアーは8時15分に沖縄バスの本社に集合となっている。本社はゆいレールの県庁前駅と旭橋駅のちょうど中間にある。7時半ごろにホテルを出て、歩いていくことにした。

8時過ぎに集合場所に着き、ツアー代金の4900円を支払う。8時半から15時半ごろまで、約7時間の昼食込みのツアーだから、高い値段ではない。今日のツアーの参加者は私を含めて4名。残り3名は東京から来た若夫婦とその夫のほうの父親。若夫婦の2歳の息子も一緒だが、これは員数に入っていない。ツアーは毎日催行している。参加者が1名でも催行するとのこと。

女性ガイド付きのミニバスに乗り込み、定刻通りにツアーは出発した。空はどんよりと曇っているが、雨は降っていない。

バスは最初の観光スポットであるニライカナイ橋を通り抜ける。地上高く、ぐねぐねと蛇行する橋が壮大な眺望を提供する。

ニライカナイ橋を渡る

9時半過ぎに「おきなわワールド」に到着。これは地下の鍾乳洞と地上の沖縄ミニテーマパークを組み合わせた観光アトラクションだ。入園料はツアー代金に含まれている。

地下に入り鍾乳洞の通路を歩く。かなりの湿気だ。地上に出るとホッとする。熱帯フルーツ園、琉球ガラスの工房、ハブや白蛇、ハブ酒や泡盛の製造所を巡り、沖縄の伝統芸能であるエイサーのショーが催されるエイサー広場に至る。10時半からはじまったエイサーのショーは11時ごろに終わった。盆の時期に地区を練り歩くのが本来のエイサーであり、ここでのエイサーはショー化された創作エイサーだ。エイサー上演中の写真撮影は禁止だった。

鍾乳洞

エイサー終了後に客を交えて踊る

エイサーの終了とともにバスに戻る。おきなわワールドの類いは私の趣味には合わないが、この種のアトラクションも沖縄の伝統や自然を垣間見る助けにはなるかもしれない。

おきなわワールドを後にして、バスは摩文仁(まぶに)の平和祈念公園に向かう。米軍の進撃により首里の放棄を余儀なくされた第32軍司令部は1945年5月27日から30日にかけてここ摩文仁に撤退した。6月22日(あるいは23日)には牛島満軍司令官と長勇参謀長が摩文仁の壕で自決、23日に沖縄戦は一応終結した。しかし、牛島司令官が自決にあたって「最後まで敢戦」するよう部下に命じたこともあり、戦闘は8月15日の終戦まで、さらに終戦以降も続いた。

公園に入るとすぐ左手に韓国人慰霊塔がある。韓国政府が設立し、管理している塔だ。日本語、英語、ハングルの説明板がある。

韓国人慰霊塔

右手には数多くの赤い屋根が目に付く。平和祈念資料館。公園での滞在時間は1時間ほどなので、残念ながらこの有料の資料館に入る余裕はない。

資料館のすぐ裏に平和の礎(沖縄の言葉では「いしじ」と読む)が広がる。平和祈念公園のメインのモニュメントといえよう。24万人を超える沖縄戦の全戦没者の氏名が放射線状に配置された数多くの石板に刻まれている。氏名は沖縄の各市町村、沖縄以外の都道府県、外国(米国、韓国、北朝鮮、台湾)ごとにまとめて刻まれている。1995年に建設された礎だが、毎年何名からの氏名が追加されている。

平和の礎その1

平和の礎その2

平和の礎その3(台湾と北朝鮮)

平和の礎を少し離れ、摩文仁の丘から海を眺める。曇っていた空がつかの間晴れ、海はあくまで穏やかだ。

時刻は12時過ぎ。次の目的地のひめゆりの塔に向かう。平和祈念公園からひめゆりの塔までは車で10分ちょっとの距離だ。1945年5月末に南風原陸軍病院を撤退したひめゆり学徒隊は南部各地に分散する。ゆめりの塔は沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に建てられている。壕入口の横に立つ塔は想像していたよりはるかに小さく、せいぜい1メートルくらいしかない。1946年に建てられ、いまではかなり風化している。

ひめゆりの塔

1975年に当時の皇太子夫妻がひめゆりの塔を訪れたとき、火炎瓶を投げられる事件があった。昭和天皇は戦前・戦後一度も沖縄を訪れていない。

ツアーガイドの女性に「(戦後は)とても天皇が沖縄を訪問できるような状況ではなかったでしょうね」と言うと、そのとおりとのこと。ガイドは復帰後の生まれだが、日本の国旗や国歌に対するアレルギーが非常に強かった時代を知っているという。

塔を見たあと、近くの土産物屋兼食堂でランチとなる。4900円のツアー代金に含まれているランチだから、多くは期待できない。

 ツアーの昼食

昼食後の休憩時間はたっぷりあったので、ひめゆり資料館を見学した(入館料310円)。沖縄戦で亡くなった200余名のひめゆり学徒の氏名と写真が壁にかかっている。「ノブコ・マーチン」という名前が目に付いた。マーチン。西欧の姓ではないか。写真は日本人のように見えるが、2世なのだろうか。あとで調べてみたが、手がかりは得られなかった。

これで戦跡巡り(戦跡碑巡りといったほうが正確かもしれない)は終了。最後にアウトレットモール(あしびなー)に立ち寄る。ブランド品のショップやレストランが集まったかなりの規模のモールだ。アウトレットに立ち寄るくらいなら、平和祈念資料館を見る時間を割いてほしいところだ。だが、ここらへんには格安ツアーの事情があるのだろう。今日の参加者は4名。収入は2万円にも満たない。おそらく赤字だ。

ショッピングする気はないので、カフェに入ってコーヒーとケーキで時間を過ごす。ここも中国人観光客が多い。

バスが沖縄バスの本社に戻ったのは3時半過だった。帰り道、ガイドが沖縄の歌を披露してくれたが、恰好の子守歌となり、うとうととした。

平和の礎もひめゆりの塔も自力で行くことができだろう。そのほうが安上がりのうえ、平和資料館もじっくり見学できたはずだ。とはいえ、ツアー参加を悔やんでいるわけではない。こうしたツアーも沖縄の現実の一面だ。

沖縄バスの本社から徒歩で県庁前に出て、そこからさらに国際通りまで足をのばし、大きく回り道してホテルに戻った。

途中、ローソンで夕食のカツ丼と缶チューハイを購入。ローソンの女店員はネパール人だった。

昨日のファミリーマートの女店員もネパール人だった。名札を見て「インドネシア?」と尋ねると「ネパール」との答え。2年前にネパールに行ったことを話す。話していると、もうひとりの女店員が近づいてきて「ベトナムに行ったことはあるか」と聞いてくる。私が訪れたのはホーチミンシティだけだが、彼女はハノイ出身だった。

沖縄にはまだ2日滞在できる。台風の影響は小さく、明日も明後日も曇りの予報だ。行き損なった伊江島に日帰りで行くことも可能だが、早朝に那覇を出発しなければならない。無理をせずに、残り2日も那覇またはその周辺で過ごすことにした。明日はまず浦添市にある前田高地に行こう。

2019年8月2日金曜日

沖縄戦跡巡り2019 三日目(南風原陸軍病院壕)

7月18日。

台風5号が接近しているため今日は暴風雨の予報だが、目が覚めたときには雨は降っていなかった。念のために伊江島行きフェリーの運行状況をネットで調べるが、全便欠航に変わりはない。万一運行していたとしても、島に渡って帰れなくなったらたいへんだ。那覇に戻るしかない。

那覇行きのバスは7時57分に座喜味の停留所に来る。オーナーは不在だから、鍵を部屋に残したままゲストハウスを出る。外は風は強いが、雨は降っていない。

伊江島行きをあきらめたため、今日から那覇で4泊することになる。宿は那覇の松山にあるホテルブライオンを予約した。初日に泊まったホテルランタナと同様、最寄りの駅は美栄橋だが、国際通りとは逆の側にある。

那覇バスターミナルに着いたのは9時過ぎ。台風の予報にもかからず、曇天のもと雨はまだ降っていない。ホテルにチェックインするには早すぎる。南風原(はえばる)町にある陸軍病院の跡を訪れることにした。南風原陸軍病院壕は一般に公開されており、ガイドの案内で内部を見学できる。都合よく南風原町行きのバスはこのターミナルから出る。

南風原に行く前にやっておきたいことがある。バスターミナルから歩いて5分ほどの沖縄バスの本社に立ち寄り、「おきなわワールドと南部戦跡巡り」ツアーの予約を変更することだ。明後日の20日にこのツアーを予約していたのだが、1日早く那覇に帰ってきたことから、これを明日のツアーに変更したい。

沖縄バスのツアー予約を変更し、ターミナルからバスに乗り20分余り、陸軍病院壕のある南風原町役場前に11時ごろに到着した。到着直前からバスの窓を雨だれがポツリポツリと叩きはじめた。バスを降りたとたん、雨脚が突然強くなった。風も強い。台風の風だ。広げた傘の骨がたちまち折れてしまう。

「役場前」というからには役場があるはずだ。雨に濡れながら大急ぎで大きな建物を目指すが、役場ではなく小学校だった。なにはともあれ、小学校の軒下でリュックからビニールの雨ガッパを取り出す。

役場は道路を挟んで小学校の向かいにあった。陸軍病院壕の情報を得るために役場に入った。役場の中は結構広い空間だが、フロントのデスクに1名の女性、その奥に1名の男性、2人しかいない。どちらも沖縄風のアロハシャツ(?)を着用している。

陸軍病院壕は南風原文化センターの管理下にあることは知っていた。 文化センターは役場から200メートルほど離れているとのこと。雨の中、文化センターに向かって役場を出る。「雨が止むまでここで待っていたらどうですか」の声がかかったが、いつ止むかわからないものを待つわけにはいかない。

雨ガッパの効果もなくびしょ濡れなりながら、文化センターにたどり着く。受付の女性が陸軍病院壕に電話で連絡してくれた(本来なら予約が必要)。

「飯上げの道」(ふもとの炊事場で調理された食料を病院まで運ぶ道)をたどり、7、8分かけて小金森と呼ばれる丘を越えれば陸軍病院壕20号だ。いくつもある壕のうちこの20号が一般に公開されている。

飯上げの道

壕の入口には男性1名と女性2名が詰めていた。男性は管理人で、女性はガイドらしい。入場料の300円を払い、ヘルメットと懐中電灯を渡される。女性ガイド1名の案内で壕に入る。天井は低く、床には水が溜まっている。この壕は自然のガマを利用したものではなく、ツルハシやシャベルを使って人の手で掘ったものだ。

壕の中には多くの傷病兵が詰め込まれ、医薬品が不足する中、麻酔なしで手術が行われたという。米軍の空からの攻撃にさらされながら「飯上げの道」を往復し、看護にあたっていたのは沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高女の教師・生徒からなるひめゆり学徒隊だ。

壕の入口

壕の中

壕の中を探索したのは10分余り。入口に戻ると、お茶とお菓子が用意されている。しばしの雑談。「訪問者の大半は私のような年配者ですか」の問いに、「いや、結構若い人も来ますよ」とのことだった。

文化センターに戻る。幸い雨は小降りになっている。文化センターでは沖縄戦や南風原町の歴史に関する資料を展示している。こちらも入場料は300円。飯上げのレプリカから始まり、沖縄の戦後の様子で終わる展示だ。南風原からの移民や南風原の戦没者に関する資料もあり、なかなか見応えがあった。

飯上げの再現

壕内での手術

南風原と沖縄戦

移民

小雨の中、文化センターをあとにし、那覇行きのバスを待った。バスの本数は多くない。30分以上待ったうえ、ようやく旭橋のバスターミナルに戻ってきた。

ゆいレールで旭橋から美栄橋に移動し、ホテルブライオン那覇にチェックインする。朝食付きで4泊21600円。1泊5000円強。値段の割には立派なホテルだ。

ホテルブライオン那覇

部屋で一休みし、外に出たときにはすでに4時を過ぎていた。幸い雨は止んでいる。美栄橋の食堂に入り、遅めの昼食(というか早めの夕食)をとった。沖縄にいるときはできるだけその土地特有の料理を食べたい。ということで豆腐チャンプルーを選んだ。680円。まずくはないが、まあ値段相応か。

豆腐チャンプルー

食後しばらくぶらぶら散策し、コンビニで若干の食料を買い込んで宿に戻る。雨に濡れた体をゆっくり休めたい。明日のツアーは8時30分発。8時15分に沖縄バスの本社に集合することになっている。