よろしければクリックしてください。
にほんブログ村 旅行ブログ 海外旅行へ
にほんブログ村

2023年5月31日水曜日

イラン2023 アブヤーネ村からカーシャーンへ

 5月1日。

前日に旅行会社に依頼してたタクシーは予定通り午前9時にホテルにやって来た。このタクシーでアブヤーネ村を観光し、カーシャーンまで行くことになる。

運転手は中年の実直そうな男性。英語はまったくできないが、感じは悪くない。

アブヤーネ村に着いたのは12時過ぎ。赤土でできた家が谷の斜面に建ち並ぶ村だ。前日旅行会社に「イランの農村を見たい」と言ったときに意図していたのは「イランの普通の農村の生活を見たい」ということだったが、アブヤーネ村は「普通の農村」ではない。村ではあるが、観光スポットなのだ。観光客の数も少なくない。中国人のグループも見かけた。

運転手といっしょに村を一巡する。農村の生活を見ることはできないが、これはこれでいいだろう。

アブヤーネ村


アブヤーネ村を歩く

ペルセポリスをガイドしてくれたアリと同様、この運転手もコーヒーとお菓子を用意していた。しかも、お湯をその場で沸かす本格的なコーヒーだ。

運転手といっしょに


アブヤーネ村の観光を終え、今日宿泊することになるカーシャーンへ向かう。

カーシャーンへは1時間ほどで着いたが、宿を探す必要がある。運転手がスマホで探してくれる。満室のところが多く、かなり時間がかかった。結局、Sabbaghian Boutique Hotelという小さな伝統的なホテルに投宿した。朝食付きで1泊1300トマン(約26ドル)。運転手とはここで別れる。

一休みしてから、外へ出て、ホテルの付近を散策する。表通りを歩いていると、一眼レフのカメラの抱えた若い女性が向こうからやってくる。キャノンのカメラを見せながら、ペルシャ語で私に何か話しかけてくる。シャッターを押してくれと言っているのだろうか。そうではない。私の写真を撮りたいと言っているらしい。

もちろん断る理由はない。代わりに彼女の写真も撮らせてもらった。

カメラを持つ女性

5月2日

Sabbaghian Boutique Hotelの朝食はまずまずの内容。高級ホテルとは比べるべくもないが、それなり凝った食べ物が用意されていた。

朝食の席で中年の中国人観光客と30分ほど話す。上海から来たというこの中国人男性は中国政府に対してかなり距離を置いた見方をしていた。中国人の多くはCCTVなどのマスコミからのみ情報を得ており、考えに偏りがあると言う。

ホテルのスタッフに頼まれ、この中国人と私はホテルの宣伝用の動画の作成に協力することになった。英語でそれぞれ約1分、カーシャーンとホテルを称賛する内容をしゃべった。中国人はこの日にカーシャーンを離れ、中国に帰国するとのことだった。

カーシャーンにはかつての商人や有力者が住んでいた邸宅がいくつか残っている。これらの邸宅巡りがカーシャーンの観光の目玉らしい。

朝食のあと、30分以上歩いて、これらの邸宅を見に行く。観光客はほとんどいない。こうしたひっそりした通りをぶらぶらするのも悪くない。

私の前を行く若い3人の女性のうちのひとりが私のほうに引き返してくる。飲料水となる水道が道ばたにあり、その飲み方を教えてくれるためだ。外国人の私に対するこうした好意はイラン滞在中いろいろな場面で経験した。

カーシャーンの静かな一画

途中で小ぎれいなアイスクリーム屋に立ち寄ったりしながら、ホテルまで帰る。カーシャーンには特にこれといった観光スポットがない。バザールはあるが、さびれた感じだ。「見なければならない」といった名所や旧跡がないのは、強迫感から解放されて落ち着く(ちょっぴり負け惜しみかな)。

夕食はホテルの近くの食堂のホットドッグで済ませた。例によって2食分のボリュームだ。昼食を抜いていたこともあり、おいしく完食できた。セブンアップと併せて90トマン(2ドル弱)。

ホットドッグとセブンアップで夕食

2023年5月30日火曜日

イラン2023 エスファハーン(その2)

 4月30日

朝食時、中国人らしい若い男性を見かけたの声をかける。仕事関係だろうと思っていたが、観光客だった。6人のグループらしい。男性のそばで食事をしていたイラン人は彼らの運転手とのこと。昨日訪れたHeritage Hostelにもたくさんの中国人旅行者がいた。中国人はビザなしでイランに入国できる。イランを訪れる外国人観光客のうち、おそらく半数以上は中国人だろう。

10時ごろにホテルを出て、エマーム広場へ行く。いくばくかの入場料を払って、She-le-Kh Lutfullahモスクの中へ入る。入口の屋根の内側が独特で印象的だ。多くの子供たちを含むイラン人に加え、中国人の団体客が目立った。

モスクの天井


モスクの中


中国の婦人たちは写真を撮るのに熱心。人気の被写体はイランの子供たちのようだ。

写真撮影中の中国人観光客

広場から少し離れた店で欧米人の観光客数人がお茶を飲んでいる。耳をすますと、どうもアメリカ人のようだ。声をかけてみる。やはりアメリカ人のグループだった。ただし私が声をかけた相手はイラン人で、彼らのガイドだった。ガイドはバスケット・チームの一員として訪日したことがあり、高輪プリンス・ホテルに長期滞在したと言っていた。

アメリカ人は(おそらくイギリス人も)イランを個人で旅することはできない。ガイド付きのグループ旅行しか許されていないのだ。

昨日100ドルを両替したが、もっと現地通貨がほしい。と思っていたところ、ちょうど両替所が目に入った。しかもレートは1ドル=530,000リアル。これまでの最高のレートだ。100ドルのつもりが、200ドルも両替してしまった。これで心置きなくイラン・リアル(トマン)を使える。

エマーム広場をあとにして、ザーヤンデ川を目指す。歩いて行くつもりが、見知らぬ経路をたどったため、結局タクシーでたどり着くはめになった。代金は60トマン(1ドルちょっと)。

ホテルへ歩いて帰る途中、Kentuckyというバーガー店で遅めの昼食をとった。店名はケンタッキーだが、フライドチキンよりもハンバーガーやホットドッグがメインのようだ。入店すると同時に、英語ができる女店員が助けてくれた。この助けなしでは注文はむずかしかっただろう。注文だけはない。注文した品ができあがると、放送で番号を呼ばれるシステムだ。レシートの文字もペルシャ文字だけ。放送ももちろんペルシャ語だから、呼ばれてもわからない。私の場合は、できあがった品を店員がもってきてくれた。

注文したのはハンバーガー(ダブルバーガー?)とシュガーなしのコーラ。値段は覚えていないが、イランにしては高かったように思う。ボリュームもあり、おいしかったが、食べにくい。ぶざまな食べ方しかできなかった。

Kentucky(客の9割は女性)

ハンバーガーとコーラ

ホテルで一休みしてから、バザールへと出かける。長いバザールをずっと歩いていくと、エマーム広場を囲む商店に出た。バザールはエマーム広場につながっているのだ。夕食用のスナックと飲み物を買ってホテルへ戻る。

明日はアブヤーネ村を経由してカーシャーンに向かう。

Pirozy Hotelは旅行会社を併設している。今朝、この旅行会社に立ち寄り、「エスファハーンのあと、コムかカーシャーンへ行きたいがどちらがいいだろうか」と尋ねると、即座に「カーシャーン」との答が返ってきた。

さらに「イランの農村の生活(village life)を見たい」という私の要望を伝えたところ、 アブヤーネ村を紹介された。アブヤーネ村からカーシャーンへ行くのが便利とのことで、そのための運転手を斡旋してくれた。料金は1400トマン(30ドル弱)。

2023年5月29日月曜日

イラン2023 エスファハーン(その1)

 4月28日

Farhang Hotelの朝食はYazdan Hostelと大差なく、ベーシックなものだった。少しおどろいたのは、午前8時という時間帯にもかかわらず、朝食の場には私ひとりしかいなかったことだ。まさか客は私だけか。ごく普通のホテルで、特に悪いところもないようなのだが。

Farhang Hotelの朝食

11時のエスファハーン行きのバスのバスに乗るために、配車アプリのSnappを使ってバスターミナルへ行く。同じバスを待っている東洋人風の女性がいたので声をかける。日本人だった。この旅ではじめて出会う日本人。世界一周中とのことだった。

エスファハーンに着いたのは午後3時過ぎ。グーグル・マップで目星を付けておいたホステルへSnappタクシーで向かう。タクシーを降りてホステルを探すが見つからない。見つからないはずだ。当のホステルは取り壊し中で、青いビニールのシートで覆われていた。

付近のホステルやホテルに当たってみるが、いずれも満室だった。しばらく歩くと、Pirozy Hotelという立派なホテルが目に付いた。四つ星ホテルで、1泊1500トマンということ。ここに3泊することにした。受付の女性はドル払いにすれば1泊38ドルと言っていたが、実勢からすると30ドルちょっとだ。

バスで出会った日本人女性と夕食を共にする約束をしていた。彼女が宿泊しているのはHeritage Hostel。Pirozy Hotelからは歩いて20分ほど。7時過ぎにHeritage Hostelで落ち合い、日の暮れたエスファハーンをレストランを探しながら歩く。結局、エマーム広場近くのレストランに落ち着く。注文したのは羊肉の煮込みと一種のピラフ(焼き飯)。飲み物としてビールを注文してみた。もちろんノンアルコールだ。ビールの風味は皆無で、ただの甘い清涼飲料水だった。

このレストランはペルシャ音楽をライブで演奏していた。この種の音楽に関心がある私としては、これはうれしい。

ライブ演奏


エマーム広場を横切り、歩いてホテルへ帰ったときには9時を過ぎていた。

4月29日

四つ星ホテルだけあって、Pirozy Hotelの朝食は充実していた。客の中にはちらほら中国人らしい姿も見かけた。

ホテル代をイラン・リアル出払ったこともあり、両替の必要を感じていた。ホテルの前の両替所に行くが、「キャッシュがない」という理由で断られた。これはよくあることらしい。仕方なく路上で声をかけてきた男と100ドルを両替する。私が差し出したのは旧10ドル紙幣10枚だったので、1ドル=480,000リアルのレートだった。

お金の心配もなくなったところで、ザーヤンデ川まで歩く。ホテルからは30分近くかかる。この川にかかるいつかの橋も観光スポットになっている。私がたどり着いたのはスィー・オ・セ橋だった。

スィー・オ・セ橋

歩いてホテルまで帰る。ホテルの近くで昼食としてピロシキ(という説明だった)とコーラを購入。このとき助けてくれた男性はアフガニスタン人だった。アフガニスタンを訪れたことなどを話す。

5時過ぎに再び外へ出て、エスファハーン観光の中心であるエマーム広場へ行く。かなりの人出だ。モスクのドームが噴水と美しく調和していた。観光用の馬車が広場の周りを駈ける。

エマーム広場

やがて日が暮れてきた。日暮れになっても、多くの人が広場の美しい夜景を楽しんでいる。

夜のエマーム広場

ホテルに帰り、スナックとジュースで夕食代わりとして、一日を終えた。

2023年5月28日日曜日

イラン2023 ヤズド(その2)

 4月27日。

Yazdan Hostelをチェックアウトし、今日泊まるFarhang Hotelまで20分の道を歩く。

Farhang Hotel


沈黙の塔(Tower of Silence)まで連れて行ってくれるガイドとはFarhang Hotelの前で10時に落ち合うことにしていた。

ガイドの名前はムハマッド。彼の車で沈黙の塔へ向かう。沈黙の塔とはゾロアスター教徒の遺体を葬る鳥葬(風葬)の場として使われていた小高い丘の上の塔のことだ。鳥葬は1930年代に禁止され、今は墓場としての機能を失っている。

30分余りで沈黙の塔に着く。広大な赤土の上に塔が見える。訪問者もちらほらいるが、平日ということもあり、数はそう多くない。

沈黙の塔


丘の上の塔へ登る。ムハマッドは下で待っているだけ。ガイドというより「英語をしゃべる運転手」と言ったほうが適切だろう。もっとも私にとってはそのほうが気楽ではある。

丘の上からはヤズドを見渡せる。塔の中央には直径1.5mほどの丸い穴が空いている。鳥葬のあとの遺骨を入れる穴だたったらしい。

遺骨を入れる穴

沈黙の塔に続き、ムハマッドの提案を受け、ドウラト・アーバード庭園を訪れた。18世紀中葉につくられたこの庭園はバードギール(風採り塔)という高い塔で有名だ。

バードギール

半日観光はこれで終わりとし、最後にバスターミナルに立ち寄ってもらった。明日のエスファハーン行きのバスのチケットを購入するためだ。テヘランの地下鉄と同様、バスのチケットはマシンから購入するようになっている。支払いはカードのみだ。マシンの表記もペルシャ語だけ。ムハマッドのカードで明日11時のエスファハーン行きチケットを購入した。ムハマッドがいなければかなり購入に苦労していたことだろう。

ムハマッドによると、「イランはそもそも安全な国だが、ヤズドはそのイランの中でももっとも安全な町だ」とのこと。ヒジャブ(スカーフ)について尋ねてみた。「着用するかどうかは個人の自由ではないか」と言う私に対し、ムハマッドは反論する。「イランはイスラムの国だ。だから女性はヒジャブを着用すべきだ。どこの国でも守るべき一定の規範がある。たとえばいくら自由な西側の国でも裸で通りを歩くことはできないだろう。それと同じだ。」

日本でモロッコ人の男性から同じ理屈を聞いたことがある。だがヒジャブと衣服一般を同列に論ずるのには無理がある。ヒジャブを着用したくない女性は多いだろうが、裸で歩きたいという女性(あるいは男性)はほぼ皆無だろう。

ムハマッドにいくら支払ったのか覚えていない。安くはないが、特別の高い額でもなかったように思う。ムハマッドは年のころ30代半ば。彼のような保守的な人間もいることを目の当たりにしたのは貴重だった。

ホテルで一休みしてから、再度外へ出る。目指したのバザール。だがバザールは閑散としており、テヘランやシラーズのバザールのような賑わいはなかった。

あてどなく歩いていると、伝統的な構えのレストランを見つけた。そういえば昼食をまだ食べていなかった。時刻は5時近い。レストランに入ってみる。歓迎はされたが、英語はまったく通じない。時刻が時刻だけに、客は私ひとり。なんとか200トマン(約4ドル)という値段だけ確かめ、中庭の座に着く。少し雨が降ってきたので、屋内に移動。

レストランの屋内の席

出てきたのはケバブとライス。イランの典型的な料理だ。紅茶はもちろん、食後にはお菓子も出てきた。

ケバブとコーラ

値段は最初に確認したとおり200トマンで、まずは満足。

2023年5月27日土曜日

イラン2023 ヤズド(その1)

 4月25日

ヤズド行きのバスは午後1時半に出発し、途中の休憩をはさんで、午後8時前にヤズドのバスターミナルに到着した。VIPバスということで、座席はゆったりしており、乗り心地は悪くなかった。

宿については予約していないだけでなく、情報も皆無だった。ヤズドのバスターミナルにはタクシーの窓口がある。日も暮れているので、自分で宿を探すのはむずかしい。タクシーの運転手に頼るしかないだろう。手頃な値段のホテルまで連れて行ってくれるように頼む。

そこで連れて行かれたのがYazdan Hostelという小さなホステルだ。朝食付きで1泊25ドル。このホステルで25ドルは高すぎるが、夜も遅いこともあり、そのまま受け入れてしまった。母親と息子の2人でやっているホステルらしい。どちらも実直そうだった。

昼食はバスの中での林檎1つとビスケットだけだったので、腹が減っている。ホステルの近くには食堂がなく、10分ほど歩いてたどりついたファーストフード店でハンバーガーを食べた。空腹も手伝っておいしかった。

Yazdan Hostel(翌朝撮影)


4月26日

Yazdan Hostelの朝食はこれまでの中・高級ホテルでの朝食とは異なり、ベーシックなものだが、卵料理は母親の手作りだった。

Yazdan Hostelの朝食

ヤズドには3泊する予定だが、このホステルは2泊だけにしている。残り1日の宿を決める必要がある。加えてもうひとつ。ヤズドの観光の目玉である「沈黙の塔」(Tower of Silence)は、ヤズドの中心からは車で30分以上かかる。「沈黙の塔」を含めた観光スポットを訪れるためのガイドも見つけたい。

ホステルから20分ほど歩き、ヤズドの中心とおぼしきところに出る。

ヤズドの中心部

小さな旅行会社が見つかったので、「沈黙の塔」へのガイドを依頼する。ガイドの男性と直接にスマホで話し、どこで落ち合うかなどは後ほど連絡することにした。

次に明日のホテル。ガイドブックに載っていたDad Hotelに行ってみたが、高すぎる。Dad Hotelの近くにあるFarhang Hotelに決めた。値段は忘れたが、Yazdan Hostelの25ドルより安かったはずだ。

スーパーで夕食を買ってからホステルに戻り、ホステル近辺の裏通りの動画を撮った。英語で話しかけられる。声をかけてきたのは54歳の男性で、英語の教師ということだった。イラン・イラク戦争のベテランでもあった。17歳のときにイラク軍の捕虜となり、24歳で解放されるまでイラクで捕虜生活を送ったとのこと。解放されてからテヘランの大学で英語を学び、故郷のヤズドで教師になったという。今回の旅ではじめて出会ったイラン・イラク戦争の体験者。

ヤズドの裏通り

2023年5月25日木曜日

イラン2023 シーラーズの夜道で転ぶ

 4月24日

シーラーズ最後の日。このあとどこへ向かうか。38年前の思い出の地バンダレ・ホメイニイを再訪するにはまずアフヴァーズに行く必要がある。シーラーズからアフヴァーズへ行く手段はバスしかなさそうだ。ガイドブックによると「バスで10時間」とある。10時間はきつい。それに砂漠の中のバンダレ・ホメイニイは灼熱の暑さだろう。アフヴァーズをあっさりあきらめ、つまりバンダレ・ホメイニイをあきらめ、次の目的地をゾロアスター教生誕の地ヤズド(Yazd)に定めた。ヤズドならバスで7時間だ。

明日のヤズド行きのバスのチケットを購入するために、Karandish Bus Terminalまでホテルから歩いて向かった。城砦とショハダー広場を通り抜け、ホシュク川に沿って40分近く歩く。バスのチケットの値段は忘れたが、そう高くはなかったはずだ。「忘れた」というようり、このときに至ってもイランの通貨の価値を正確に把握できず、いくらだったかをちゃんと意識していなかったと言うほうが正しい。

川に沿って歩く

ホテルに戻る途中、このところの旅行の恒例となっている「現地での散髪」を実行した。代金は200トマン(200万リアル)。400円ちょっとだ。

ホテルで一休みしてからバザールへ行く。バザールはシーラーズ到着の日にも訪れているが、ちゃんと見るのはこれがはじめてだ。バザールは北と南に分かれている。どちらも現地の買い物客で賑わっていた。

バザールの入口

バザールの中(1)


バザールの中(2)

アイスクリーム屋があったので、ミックスのアイスクリームを買い求めた。値段は忘れたが、おいしかった。12年ほど前にシリアのダマスカスのスーク(市場)で買ったアイスクリームを思い出した。あのアイスクリームもおいしかったなあ。

アイスクリーム

バザールを出るとすでに日は暮れていた。夜になっても賑やかなショハダー広場を抜け、暗い夜道を歩いてホテルをめざす。足元は真っ暗だ。

夜のショハダー広場

突然衝撃を受けて前のめりに倒れた。段差があるのに気がつかなかったのだ。かなりの勢いで両手が地面につく。眼鏡が外れ地面に落ちそうになる。足にはかすり傷。倒れた体を支えた右手の親指が痛む。かなりの痛さだ。

指を曲げることができない。骨折していないか、あるいた骨にひびが入っていないか心配になる。ただの捻挫ならいいのだが。明日はヤズドへ移動する日だからむずかしいが、明後日にでも病院で診てもらったほうがいいだろう。

後日談だが、明後日になると、痛みはかなりやわらいでいたので、病院には行かなかった。帰国後のレントゲン写真でも骨には特に異常はなかった。眼鏡が割れなかったことに加え、軽傷ですんだのは、不幸中の幸いだった。

2023年5月24日水曜日

イラン2023 ペルセポリスの遺跡

 4月23日

ペルセポリス観光の日。前日に旅行会社を通じて依頼しておいた英語ガイドと午前8時に旅行会社の前で落ち合う。できればツアーに参加したかったのだが、ツアーが成立するほどの外国人観光客はいないらしく、個人でガイドを頼む形になった。8時から4時ごろまでのフルツアー(ランチを含む)で、私のほかにひとりでも客がいれば料金は25ユーロ、私だけの場合は10ユーロ追加して35ユーロということだった。25ユーロは前日に旅行会社に支払い済みだった。

予想どおり、私以外の客はいなかった。フルツアーだから、ペルセポリスのほかにナクシェ・ロスタムとパサルガダエも見学することになる。ナクシェ・ロスタムとパサルガダエがどんなところか、まったく知らなかった。正直に言えば、ペルセポリスすら名前を聞いたことがあるだけで、知識はゼロに近かった。紀元前520年にアケメネス朝ペルシャのダリウス1世が建造した都であること、アレクサンダー大王によって破壊されたことは直前に目を通したガイドブックから得た知識だ。

ガイドの名前はアリ。年のころは40歳くらいか。立派な髭とシャツの合間から見える胸毛に圧倒されるが、温厚で話しやすそうだ。ペルセポリスまでは車で2時間余りだった。

アリが入場のチケットを買ってくれる。値段はわからないが、ここでもみんなカードで支払っているようだ。少し暑い春の太陽のもと、ペルセポリスの遺跡が広がる。

ペルセポリスの入口


ペルセポリス(1)

ペルセポリス(2)

ペルセポリス(3)

日曜日ということもあり、訪れている人の数は多い。ほとんどがイラン人のようだ。

遺跡を一巡りしたあと、自動車を木陰にとめてしばし休憩する。アリはコーヒーと紅茶、菓子類を用意していた。このことを含め、アリの気配りに感心する場面は多々あった。

木陰で一休み(ガイドのアリ)

次の目的地のナクシェ・ロスタムはペルセポリスから車で5分ほどの距離。ナクシェ・ロスタムとは、ダリウス1世などのアケメネス朝の王様4人の墓が並んで収められている岩山を指す。規模は小さいが、岩山に彫り込まれた墓はヨルダンのペトラ遺跡を思い起こさせる。

ナクシェ・ロスタム

次ぎにパサルガダエに向かう。車で2時間近くの道のり。途中、アリは「10分ほど休ませてくれ」と車を脇道に止め、睡眠をとる。ちょうど10分後に再出発。道は平坦でストレート。睡魔に襲われやすい。ちょっとでも休んでもらったほうがこちらも安心だ。

パサルガダエに向かう道

パサルガダエは紀元前546年にキュロス大王が建造したアケメネス朝の最初の首都だ。ペルセポリスのようにたくさんの石像や柱が残っているわけではないが、その広さはペルセポリスに匹敵する。かなりの距離を歩いた。

パサルガダエ

アリと並んで

ここでは中国人のツアーグループと遭遇した。上海から来た一行とのこと。

これで観光は終了。シーラーズへ向けて引き返す前に、近くにある伝統的なレストランに入る。アフガニスタンや中央アジアで経験したチャイハナに似た造りのレストランだ。時刻は4時を過ぎており、かなり遅めのランチになる。まずスープと調理済みのライスともう1品。ナツメヤシなどの果物と紅茶も出る。料理名はわからないが、今回の旅ではじめてのイランらしい食べ物だ。かなりのボリュームで、2人でも食べきれなかった。

遅めのランチ

レストランのオーナーと客あるいは客同士が自然に会話しているのが印象的だった。私もいくつかの質問を受けた。

シーラーズへの帰路、アリは再び車を停めて10分間の睡眠をとり、お茶とお菓子で休憩をとった。

シーラーズに戻ったのは7時過ぎで、すでに暗くなり始めていた。単独客であったことから、支払い済みの25ユーロに加えて10ユーロを支払う約束だったが、アリにはチップを含めて20ユーロを渡しておいた。4時頃までの予定が7時になったこともあるが、それよりも、イランに関していろいろと興味深い話を聞けたのがありがたかった。

アリはウクライナやロシア、東南アジア、アフリカ(タンザニア、ルワンダなど)広く旅行しており、私と話がよく合った。平均的なイラン人にとって外国旅行は私たちには想像できない困難がある。お金の問題もあるし、ビザの入手も容易でない。ヨーロッパならほぼどの国へでもビザなしで入国できる日本人とは大違いだ。エジプトやヨルダンには渡航できないこともアリから知った。

レストランで見知らぬ客同士が交流しているのを見たことなどから、「イランはいろいろな問題と困難を抱えてはいるが、人々はそれぞれ自分たちの生活を楽しんでいるように見える」という感想を最後にアリに伝えておいた。

ペルシャ王朝やダリウス大王についてはほとんど頭に残っていないが、貴重な一日ではあった。

2023年5月21日日曜日

イラン2023 シーラーズ到着

4月22日

早朝5時にテヘランのホテルからタクシー(200万リアル)でメフラーバード空港に向かう。若干の遅延はあったものの、午前10時前にはシーラーズ空港へ到着した。空港から市内までは地下鉄で行くことができるという。

1時間40分のフライトでも軽食と飲み物が出た

空港から1kmほどまっすぐに歩き、地下鉄の駅に着いた。ガイドブックによると、Rudaki Streetあたりにホテル密集しているらしい。Rudaki Streetとはどのあたりで、どの駅で降りればよいのか。駅の床に座り込んでスマホやガイドブックを覗き込んで調べる。

すると地下鉄の職員らしき男性が2、3人やって来て、「どこへ行きたいのか」と聞く。Rudaki Streetと答えると、「ああそれならXXX駅だ」と私を駅の構内に案内する。「チケットが...」という言う私に対し、そんなことはどうでもいいといわんばかりだった。テヘランに続き、シーラーズでも職員の好意で地下鉄にただ乗りしたわけだ。いかに地下鉄の料金が安いとはいえ、ルールに厳しい日本ではありえないだろう。

Rudaki Street沿いのホテルをいくつかあたってみたが、満室のものもある。結局、Aryo Barzan Hotelに3泊することにした。朝食付きで1泊25ドル。イラン通貨にすれば1000万リアルとのこと。これはかなりドルに不利なレートであり、実勢ベースでは25ドル=1200万リアルといったところだ。リアルで支払うことにした。テヘランの空港で手にした4つの札束のうち3つ(3000万リアル)が消えてしまった。リアルの手持ちも一挙に少なくなった。

大通りにあるPars Touristという旅行会社で明日のペルセポリスのガイドを依頼しておく。8時から4時までのフルツアー(ランチを含む)で、客が私1人だったら35ユーロ、ほかにも客が見つかれば25ユーロという料金だった。とりあえず25ユーロを支払っておく。

大通りには両替を呼びかける男たちがたむろしている。路上で両替しても特に問題はないだろうが、ちゃんとした店舗で両替した。レートは1ドル=490,000リアルだが、私が差し出した旧10ドル札10枚は値引きされ、480,000リアルだった。

通りを歩いていると、中年の男が英語で話しかけてきた。シーラーズの観光スポットに言及し、そのうちの1つであるKoranic School (コーラン学校)に案内すると言う。案内を断っても男は「すぐそこだから」と私の先を歩く。

すぐそこではなかった。キャリーム・ハーン城砦とショハダー広場を抜け、さらにバザールを通過し、20分くらいはかかっただろうか。Koranic Schoolに着くと、「入場のチケットは100トマン(2~3ドル)だ」と男。

「中には入らない」という私に対し、男は突然怒り出し、”You speak too much”、”Go away, poor tourist"と悪態をついて、立ち去ってしまった。私は男の質問に答えていたくらいで、特に多くしゃべったわけではないし、中に入るか入らないかは私の自由だ。そもそも男に案内を頼んだわけではない。男はKoranic Schoolは土曜日しかオープンしていないと言っていたが、どうも嘘くさい。入場料で一儲けするもくろみだったのだろう。この男のおかげで、シーラーズの中心街をひととおり見ることができたので、1~2ドルのチップは与えてもいいと思っていたのだが。

夕方、昼間通過したキャリーム・ハーン城砦とショハダー広場に再び出かけた。シーラーズは人口100万の大きな街だ。夕方の広場は賑わっていた。

夕方の城砦(citadel)

シーラーズを歩く

38年前の記憶から「イランの南部は暑い」という思い込みがあり、シーラーズでは暑さを覚悟していた。だが、シーラーズは標高1500mということもあり、テヘランよりちょっと暑いくらいで、汗をかくほどでもない。気持ちのよい夕暮れの散歩だった。

この日も昼食と夕食は小さな店からの持ち帰りですませた。羊肉のケバブをパンにはさんだ夕食は、はじめてのイランらしい食事だった。

ケバブで夕食


2023年5月19日金曜日

イラン2023 テヘラン(4月18~22日)その2

 7月20日。22日早朝のシーラーズへのフライトの予行練習としてメフラーバード空港まで行ってみた。メフラーバードは主として国内線が発着する空港で、イマーム・ホメイニイ国際空港とは異なり、地下鉄でアクセスできる。

地下鉄のハサン・アバド駅まで行き、窓口で切符を求める。だが、窓口の女性は切符を売ってくれず、英語をしゃべる男性の職員を呼んでくる。男性職員によると、テヘランの地下鉄の切符はすべてカードで購入する決まりになっているとのこと。そう言いながらも、ハサン・アバド駅からメフラーバード空港ターミナル2駅までの行き方を紙に書いて丁寧に説明してくれる。2回の乗り換えが必要になるとのことだ。しかし肝心の切符がない。「チケットは...」と言うと、「あなたはゲストだから、チケットは必要ない」との返事。「銀行でカードを作成すればいいだろう」というヒントとともに。

テヘランの地下鉄


ただ乗りで無事メフラーバード空港までたどり着き、明日のシーラーズ行きのフライトが飛び立つターミナル2を確認してから、カード作成のために空港前の銀行に入るが、ろくに対応してくれず、すべてに「ノー」の返事。

その近くにある小さな窓口(2人の男性がいるだけ)に行くと、英語で丁寧に対応してくれた。「イランで使えるデビットカードをつくってほしい」と言う私に対し、「デビットカードをつくるには登録などのややこしい手続きが必要になる。地下鉄に乗るためだったら、簡単なギフトカードをつくったらどうか」と勧めてくれる。勧めにしたがって、100万リアルのギフトカードを作成した。100万リアルはその日のレートにもよるがおよそ2~3ドルだろう。イラン滞在中、このギフトカードで10回くらい地下鉄に乗車したが、リミットにまでは達しなかった。

窓口の男性は5分ほど離れている地下鉄駅まで私に同行し、カードでの切符の買い方を教えてくれた。切符販売のマシンはすべてペルシャ語で表示されているから、この案内がなかったら、もう一度誰かの助けが必要になっただろう。

当初のテヘラン滞在の4日間、イマーム・ホメイニイ広場をうろつくだけで、観光はほとんどしなかった。ホテルから歩いてバザールまで出かけ、動画を撮ったのくらいか。帰国前にもう一度テヘランに戻ってくるから、観光はそのときでいいだろう。バザールで私に英語で話しかけてきた男は、「ダルビッシュ有の父親を知っている。父親もこのバザールで店を出していた」と言っていた。前歯が数本欠けているこの男の言うことの真偽のほどはわからない。

バザール


私がイランを訪れたのは4月18日。4月20日までの2日間はラマダンだった。しかし、テヘランの街中でラマダンの影響を感じることはほとんどなかった。昼間の街角でパンをかじっている男も見かけた。オープンしているレストランも多かった。ギフトカードを作ってくれた男性も「私はあまり宗教的ではないから、ラマダンは守っていない」と語っていた。

レストランが開いているにもかかわらず、また20日にはラマダンがあけたにもかかわらず、ちゃんとしたイラン料理は口にしなかった。ホテルの朝食で腹一杯になったこともあり、昼食と夕食はファーストフードの類いで済ませてしまった。「ファーストフードの類い」と書いたが、あなどるなかれ、そのボリュームは半端なく大きい。夕食に購入した100円ちょっとのサンドイッチを食べきれず、翌日の昼食や夕食でやっと片付けたこともある。

Ferdowsi Grand Hotelの朝食

ソーセージのサンドイッチ(半分食べたところ)

イマーム・ホメイニイ広場の近くには賑やかな屋台通りがある。食指をそそる各種の料理を提供しているが、これも一度しか利用できなかった。

ホメイニイ広場近くの屋台街

私がイランを訪れる半年ほど前には、女性のヒジャブ(スカーフ)着用を巡って大規模な抗議運動が各地で展開されていた。この運動は弾圧され、すでに影も形もなくなっていたが、テヘランではヒジャブを着用していない女性をちらほら見かけた。10%まではいかないが、数パーセントの女性(特に若い女性)は髪を露出していた。道徳警察(Moralty Police)による規制はすでに空洞化しているように見えた。

経済の状態に対する不満も一度ならず耳にした。ホテルで私を助けてくれたコンシェルジュの女性も「月給は100ドルほどなのに、月々の出費はこれを上回る」「石油で得た利益は国民にはほとんど還元されない」と不満を口にしていた。

宗教にそれほど熱心ではなく、YouTubeやFacebook、Instagramなどで世界の情報に接している若い世代が増えるにつれ、イランの今後の変容は不可避であるように感じた。

2023年5月18日木曜日

イラン2023 テヘラン(4月18~22日)その1

関空を発ったのは4月17日の朝9時55分だが、クアラルンプールで11時間ほどの待ち時間(ターミナル2のカプセルホテルで過ごした)、さらにドーハで3時間半の待ち時間があったので、テヘランのイマーム・ホメイニイ国際空港に着いたのは翌18日の正午近くだった。

イランはこれまでの旅行とかなり様相が異なる。まず西側で発行されたVISAなどのクレジットカードを使用できない。したがって現地ではすべて現金で支払うことになる。クレジット・カードという打ち出の小槌がないことから、かなりの額の現金(米国ドルかユーロ)を帯同する必要がある。

さらにBooking.comなどのホテル予約サイトも使えない。つまりホテルもすべて現金払いとなる。ただしTrip.com(Tripadviser)だけは例外で、日本からイランのホテルを予約し、クレジットカードで支払うことができる(選択できるのは中級ないし高級のホテルのみ)。

私はTripadviserを通してテヘランの最初の3泊を予約していた。Ferdowsi International Grand Hote。朝食付き1泊46ドルだ。日本のビジネスホテル並の値段だが、イランでは高級ホテルに分類される。このホテルを選んだのは立地による。テヘランは高級住宅地の北部と庶民的な商業地域の南部に分かれる。Ferdowsi Grand Hotelは南部にある数少ない高級ホテルのひとつで、バザールまで歩いて30分で行ける。38年余り前には北部の旧ヒルトン・ホテルに滞在したが、周りには商店も少なく、寂しかったのを覚えている。

テヘランの空港にまずやったことは2つ。まずは両替。空港の両替所で100ドルをイランの通貨リアルに両替した。ネットで調べると、1ドルは42,145リアル。100ドルを両替した4,214,500リアルになるはずだが手にしたのは100,000万リアル紙幣100枚の札束4つと20枚余りの100,000万リアル紙幣。ボリュームもずいぶんあり、とても財布には収まらない。

100ドルを両替した結果


つまり手にしたのは42,145,000リアルだ。両替の担当者が桁数を勘違いしたのだろうか。もちろんそんなことはない。ネットの情報はイランの公式のレートであり、実際にはこれに0をもう1つ追加する必要がある。1ドル=421,450リアルは空港でのレートであり、市内で両替すれば1ドル=480,000~500,000リアルになることは後で知った。インフレが激しいイランではレートは日々変動し、しかも実際の売買はトマン(10,000リアル)という単位で行われることが多い。これ以降、お金の単位についてはイランを離れる日まで悩まされた。

次にSIMカードを購入する必要がある。1ヶ月で128MB(音声通話付き)のカードを購入した。値段ははっきりしない。担当の女性が笑いながら、両替したばかりの100,000リアル紙幣を何枚か抜き取った。2~3ドルといったところだろう。

15ドルの白タクでホテルまで向かう。運転手は途中で「混雑しているから20ドルにしろ」と言ってきたが、断固として拒否した。5ドルくらいどうということはないが、最初に合意した値段を途中で変更するという不合理を受け入れるようでは、今後のイラン旅行全体がcompromiseされるように思ったからだ。そもそも15ドルは高すぎる。10ドルでも高い。5ドルくらいが相場だろう。

Ferdowsi International Grand Hotel

ホテルの室内

Ferdowsi International Grand Hotelではコンシェルジュの若い女性に助けられた。まずネット関係。日本でインストールしておいたVPNアプリは全滅状態。アプリではなく、IPアドレスを購入するやり方が有効とのことで、規制なしでネットにアクセスできるデバイスをタブレットPCにした。1ヶ月で7ドル。SIMカードを挿しているスマホは街歩きと写真撮影にしか使わない。幸いVPNなしでもグーグル・マップににはアクセスできる。

といってもやはりスマホでも自由にネットにアクセスしたい。翌日、ホテルから歩いて10分足らずのところにあるモバイル・モールという、スマホのショップが集まったモールに行き、店員に相談したところ、無料のVPNアプリをインストールしてくれた。これでタブレットPCとスマホの両方でネットに自由にアクセスできるようになった。ただし、満足からはほど遠い。有料のほうも無料のほうも頻繁に切れるのだ。そのつど再接続が必要になる。

コンシェルジュの女性にはシーラーズ行きの航空券も購入してもらった。4月22日7時35分にテヘランのメフラーバード空港を発ち、1時間40分の飛行でシーラーズに着くATA航空の便だ。航空券の代金は36ドル。4月22日発だから、テヘラン滞在をもう1日延長する必要がある。引き続きFerdowsi Grand Hotelに宿泊することにした。もっと安い宿もたくさんあるが、なにぶんにも早朝のチェックアウトになるので、大きいホテルのほうが安心だ。延泊の料金は36ドルだった。

勝手のわからないテヘランで私を助けてくれたコンシェルジュの女性は「私の夢は日本に住むことだ」と言う。「アメリカはどうも好きになれない」とも。彼女の夢がかなうとよいが、道はそう平坦ではない。

4月22日までのテヘラン滞在を1つにまとめようとしたが、長くなりすぎるので、続きは次回に回す。

テヘランの街(バザール近く)