2008年12月25~28日。
翌日マサワを発ってアスマラへ戻ることにした。帰国日は28日だから、マサワにもう1泊する余裕は十分にあったのだが、昨日の経験からアスマラまでの足がなくなることを心配したのだ。いつも短期の旅行ということもあり、こと行程に関する限り、私は過剰に慎重になる傾向がある。もっとも、これまで大きなトラブルに遭遇していないのは、この慎重さのおかげだとも言える。
朝の9時過ぎに宿を出て、道を尋ねながら、バス乗り場とおぼしきところへ向かう。冬の朝だというのにマサワはすでに30℃を超えており、じっとりと汗が出てくる。マサワは世界でもっとも暑い場所のひとつということだった。
エチオピア軍の戦車の残骸が展示してある場所を通り過ぎる。残骸は5、6台はあっただろうか。さらにしばらく行くと、小さな路上マーケットに遭遇した。女性たちが並んで野菜や果物を売っている。女性たちの服装はカラフルだが、売られている人参、玉葱、トマトなどはあまり育ちがよくなく、小さかった。
バス乗り場の近くにさしかったとき、私を呼ぶ声がする。昨日のタクシーの運転手だ。彼もマサワで1泊して今からアスマラへ帰るところだった。帰りは安くするのでと言うので、このタクシーでアスマラに戻ることにした。料金は忘れたが、たぶん500円以下だっただろう。運転手としては昨日ですでに元はとっているから、どんな値段でも空車で帰るよりはましと思ったのだろう。
途中、小さな村で休憩する。生きた鶏を抱えた13、4歳の少女が私に近づいてきて、鶏を食べるしぐさをする。買わないかということらしい。おいおい私は観光客だよ。生きた鶏を買ってどうしろというのか。
タクシーはここでさらにエリトリア人の女性3人の乗客を拾い、アスマラに戻った。アスマラではKhartoum Hotelに再度投宿した。予約はしていなかったが、部屋はいくつも空いているようだった。
この日から帰国まで3日間をアスマラで過ごした。この滞在中の出来事や印象をいくつか記しておこう。
エリトリアは貧しい。これといった天然資源も産業もないうえ、エチオピアとの戦争で極限まで疲弊している。軍事支出は今でもGDPの20%を超える。これで貧しくないとすればそちらのほうが不思議だろう。だが、街並みはきれいで、道路にはほゴミがほとんど落ちていない。物乞いはいるが、アグレッシブではない。ストリートチルドレンは1組見かけただけだ。児童の就学率もそれほど低くはなさそうだ(アスマラでは数多くの制服姿をみかけた)。一見したところ「世界最貧国のひとつ」とは思えない。
貧しさの中でのこうした規律と秩序は「エリトリア人の矜恃」によって説明されることが多い。俗に言う「武士は食わねど高楊枝」だ。マサワへ行くときに出会ったイタリア人のカップルも同意見だった。アフリカのいくつかの国での滞在経験がある彼らは「(エリトリア人は)アフリカの中でもベストだ」と言う。誇りが高く、我慢するすべを知っており、勉強にも熱心らしい。
だが、1991年の独立以来一党独裁が続く抑圧的な体制がエリトリア社会の規律や秩序と関係していると見ることはできないだろうか。北朝鮮の街にゴミが落ちていないのと同じ理屈だ。エリトリアはしばしば北朝鮮と比較される。報道の自由に関しては世界最下位、北朝鮮より下にランクされたこともある。
といっても、北朝鮮に比べればエリトリアは「普通の国」だ。地方に出かけるには許可がいるものの、自由に歩き回り、行きたいところに行くことができる。現地の人と話すのに何の支障もない。タクシーに乗ったとき、「アスマラにはタクシーと写真屋が非常に多いが、どうしてだ」と運転手に尋ねたことがある。運転手は「ほかに仕事がないからだ」と自嘲気味に答えた。こうした不満の表出は北朝鮮では考えられない。タクシーの運転手とカジュアルに話すこと自体が不可能だ。
エリトリアでは英語が比較的よく通じた。この点はのちに訪れたエチオピアやソマリランドと似ている。
アスマラで印象に残ったのは金属類のリサイクル・マーケットだ。鍋や釜、工具、自動車や自転車の部品などが山のように積まれ、リサイクルのために再加工されている。過酷な環境の中、小学生くらいの子供も働いていた。
アスマラにある唯一の中華料理店にも行ってみた。何年か前には中国人のシェフもいたが、今は現地人だけでやっているとのこと。卵スープ、チャーハン、酢豚を注文したが、中華とば別の代物だった。見かけさえ似ていない。店のマネージャーに話しかけられる。以前はアディスアベバのホテルで働いていたらしい。「日本人の客も多く泊まっていた」とのことだった。
子供たちの写真もたくさん撮った。向こうから近づいきて、写真を撮ってくれと言う。写真を撮ると「Thank you」というお礼の言葉が返ってくる。
12月28日、アスマラ空港を飛び立ち帰国の途についた。行きと同様、サウジアラビアのジェッダを経由してフランクフルトまで飛び、フランクフルトで関空行きに乗り継ぐルートだ。行きとは異なり、フランクフルトで1泊する必要はなかった。
アスマラ空港の出国審査ではちょっとしたトラブルに遭遇した。入国時に申請した現金、アスマラで両替した額、残りの手持ちの現金が整合しなかったのだ。これは入国時の申請がいい加減だったからだが、まさか出国時にここまで厳しくチェックされるとは予想していなかった。幸いなこに、30分ほど留め置かれ、「今度入国するときにはこのようなことがないように」とのお叱りを受けただけで済んだ。あとでネットで調べると、同種のトラブルで2時間くらい留め置かれたケースもあるようだ。
何枚かの音楽CDを土産に、はじめてのアフリカ旅行はこのようにして終わった。心残りは、マサワをあまりにも早く切り上げたこと。じっくりとマサワを見るにはもう1泊が必要だった。
翌日マサワを発ってアスマラへ戻ることにした。帰国日は28日だから、マサワにもう1泊する余裕は十分にあったのだが、昨日の経験からアスマラまでの足がなくなることを心配したのだ。いつも短期の旅行ということもあり、こと行程に関する限り、私は過剰に慎重になる傾向がある。もっとも、これまで大きなトラブルに遭遇していないのは、この慎重さのおかげだとも言える。
朝の9時過ぎに宿を出て、道を尋ねながら、バス乗り場とおぼしきところへ向かう。冬の朝だというのにマサワはすでに30℃を超えており、じっとりと汗が出てくる。マサワは世界でもっとも暑い場所のひとつということだった。
エチオピア軍の戦車の残骸が展示してある場所を通り過ぎる。残骸は5、6台はあっただろうか。さらにしばらく行くと、小さな路上マーケットに遭遇した。女性たちが並んで野菜や果物を売っている。女性たちの服装はカラフルだが、売られている人参、玉葱、トマトなどはあまり育ちがよくなく、小さかった。
戦車の残骸
路上マーケット
バス乗り場の近くにさしかったとき、私を呼ぶ声がする。昨日のタクシーの運転手だ。彼もマサワで1泊して今からアスマラへ帰るところだった。帰りは安くするのでと言うので、このタクシーでアスマラに戻ることにした。料金は忘れたが、たぶん500円以下だっただろう。運転手としては昨日ですでに元はとっているから、どんな値段でも空車で帰るよりはましと思ったのだろう。
途中、小さな村で休憩する。生きた鶏を抱えた13、4歳の少女が私に近づいてきて、鶏を食べるしぐさをする。買わないかということらしい。おいおい私は観光客だよ。生きた鶏を買ってどうしろというのか。
小さな村で休憩
タクシーはここでさらにエリトリア人の女性3人の乗客を拾い、アスマラに戻った。アスマラではKhartoum Hotelに再度投宿した。予約はしていなかったが、部屋はいくつも空いているようだった。
この日から帰国まで3日間をアスマラで過ごした。この滞在中の出来事や印象をいくつか記しておこう。
エリトリアは貧しい。これといった天然資源も産業もないうえ、エチオピアとの戦争で極限まで疲弊している。軍事支出は今でもGDPの20%を超える。これで貧しくないとすればそちらのほうが不思議だろう。だが、街並みはきれいで、道路にはほゴミがほとんど落ちていない。物乞いはいるが、アグレッシブではない。ストリートチルドレンは1組見かけただけだ。児童の就学率もそれほど低くはなさそうだ(アスマラでは数多くの制服姿をみかけた)。一見したところ「世界最貧国のひとつ」とは思えない。
貧しさの中でのこうした規律と秩序は「エリトリア人の矜恃」によって説明されることが多い。俗に言う「武士は食わねど高楊枝」だ。マサワへ行くときに出会ったイタリア人のカップルも同意見だった。アフリカのいくつかの国での滞在経験がある彼らは「(エリトリア人は)アフリカの中でもベストだ」と言う。誇りが高く、我慢するすべを知っており、勉強にも熱心らしい。
だが、1991年の独立以来一党独裁が続く抑圧的な体制がエリトリア社会の規律や秩序と関係していると見ることはできないだろうか。北朝鮮の街にゴミが落ちていないのと同じ理屈だ。エリトリアはしばしば北朝鮮と比較される。報道の自由に関しては世界最下位、北朝鮮より下にランクされたこともある。
といっても、北朝鮮に比べればエリトリアは「普通の国」だ。地方に出かけるには許可がいるものの、自由に歩き回り、行きたいところに行くことができる。現地の人と話すのに何の支障もない。タクシーに乗ったとき、「アスマラにはタクシーと写真屋が非常に多いが、どうしてだ」と運転手に尋ねたことがある。運転手は「ほかに仕事がないからだ」と自嘲気味に答えた。こうした不満の表出は北朝鮮では考えられない。タクシーの運転手とカジュアルに話すこと自体が不可能だ。
エリトリアでは英語が比較的よく通じた。この点はのちに訪れたエチオピアやソマリランドと似ている。
アスマラで印象に残ったのは金属類のリサイクル・マーケットだ。鍋や釜、工具、自動車や自転車の部品などが山のように積まれ、リサイクルのために再加工されている。過酷な環境の中、小学生くらいの子供も働いていた。
金属のリサイクル
アスマラにある唯一の中華料理店にも行ってみた。何年か前には中国人のシェフもいたが、今は現地人だけでやっているとのこと。卵スープ、チャーハン、酢豚を注文したが、中華とば別の代物だった。見かけさえ似ていない。店のマネージャーに話しかけられる。以前はアディスアベバのホテルで働いていたらしい。「日本人の客も多く泊まっていた」とのことだった。
子供たちの写真もたくさん撮った。向こうから近づいきて、写真を撮ってくれと言う。写真を撮ると「Thank you」というお礼の言葉が返ってくる。
子供1
子供2
子供3
12月28日、アスマラ空港を飛び立ち帰国の途についた。行きと同様、サウジアラビアのジェッダを経由してフランクフルトまで飛び、フランクフルトで関空行きに乗り継ぐルートだ。行きとは異なり、フランクフルトで1泊する必要はなかった。
アスマラ空港の出国審査ではちょっとしたトラブルに遭遇した。入国時に申請した現金、アスマラで両替した額、残りの手持ちの現金が整合しなかったのだ。これは入国時の申請がいい加減だったからだが、まさか出国時にここまで厳しくチェックされるとは予想していなかった。幸いなこに、30分ほど留め置かれ、「今度入国するときにはこのようなことがないように」とのお叱りを受けただけで済んだ。あとでネットで調べると、同種のトラブルで2時間くらい留め置かれたケースもあるようだ。
何枚かの音楽CDを土産に、はじめてのアフリカ旅行はこのようにして終わった。心残りは、マサワをあまりにも早く切り上げたこと。じっくりとマサワを見るにはもう1泊が必要だった。
エリトリア旅行の動画