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2026年9月26日土曜日

Edouard Louisの2作品 Monique s'évadeとL'effondrement

著者:Edouard Louis DEEE

刊行:2024年

評価:★★★★★

Kindle版(1320円)

2026年9月1日読了






著者:Edouard Louis DEEE

刊行:2024年

評価:★★★★★

Kindle版(1320円)

2026年9月23日読了

Edourard Louisの小説はそのほとんど(すべて?)が自らの体験に基づく「私小説」だ。2024年に刊行されたMonique s'évade(モニック、逃げる)とL'effondrement(瓦解)も同様で、前者は母親(Monique)の自立と自由への脱出、後者は兄の死を題材としている。

前作のQui a tué mon père(誰が父を殺したか)は自身の父親、Combats et métamorphoses d'une femme(ある女性の戦いと変身)は母親を扱っている。私はこれらのすべてを読んでいる。

Edourard Louisの小説の熱心な読者である理由は、なによりもまずその読みやすさにある。いづれも100ページ余りと長くなく、平明なフランス語で書かれている。私のフランス語力をもってしても、ほぼ辞書を参照することなく、どんどん読み進めることができる。

今回読んだMonique s'évadeは、2021年に発表されたCombats et métamorphoses d'une femmeの続編であり、著者の父親を追い出して「変身」した母親(Monique)がパリで一緒に住み始めた男から逃げる話しだ。この男もまた時間の経緯とともに酒と暴力で女性を苦しめる本性を露わにした。著者とその姉は母親を助け、小さな町に移住させる。50代になってはじめてひとりで住み始めた母親。ひとりになったことで自立と自由を実現できるかどうか、そもそも息子や娘に依存している生活がほんとうの意味で自立かどうかは疑問が残る。

「本性を露わにした」と書いてしまったが、男と一瞬邂逅した著者はその男の弱々しい姿に驚き、「この男もまた社会の構造の犠牲者ではないか」と述懐している。

L'effondrementは著者の兄の死を巡る物語だ。アルコール依存症の末、38歳で死亡した兄。兄は母親の初婚時の子供であり、著者とは父親が異なる。年齢も10歳ほどの差がある。

著者は兄とは10年近く会っておらず、死の知らせを受けたときにも、悲しみはもとより、何の感情も沸き上がらない。

にもかかわらず、兄がどんな存在だったのかを探るべく、兄と関係のあった女性たちとオンラインで連絡をとる。そこから浮かび上がってくる兄は、普段は”gentil”(優しい)だが、酒が入ると暴力的になり、手に負えなくなるという像だ。しかもいったん飲みだすとやめることができない。実の父親から会うことを拒否され、「誰からも愛されていない」と思い込むに至った兄。こうした思い込みが兄をアルコールに走らせたのか、それともアルコールがこうした思い込みを生み出したのか。

著者は最後に、まだ自分には知られていない兄の一面があるのではないかという疑念を述べてこの作品を終わる。

どちらの作品とも、わかりやすい叙述の流れの中に鋭い考察が組み込まれており、読み応えがあった。


2026年3月6日金曜日

Schachnovelle(チェスの話)

 




著者:Stefan Zweig

刊行:1942 年

評価:★★★★★

Kindle版(165円)

2026年1月12日読了

Stefan Zweigの中編小説「Schachnovelle(チェスの話)」は傑作として名高いが、今まで手が出なかった。というのも、チェスの知識が乏しいことから(何十年も前にルールブックに目を通しただけで、実戦経験はゼロ)、敷居が高そうに思えたからだ。

杞憂だった。チェスのルールは将棋のルールとほぼ同じであること、c3やc4といった記号は盤上の駒の位置を示すことくらいがわかっていれば十分だ。この小説のテーマはチェスではない。チェスにとりつかれた男が主人公であり、どうしてとりつかれるようになったかの経緯がストーリーの軸だ。

ニューヨークからブエノスアイレスへ向かう大型客船の中。ここにたまたまチェスの世界チャンピオンが乗り合わせていた。成金の同船者が語り手である「私」のほか数人を誘って、チャンピオンに大金をはたき、一対多で対戦することになる。結果はチャンピオンの大勝ち。成金はさらにお金をつんで、第2戦がはじまる。

2局目も「私」たちの思い通りには進まない中、たまたま通りかかった中年の男性が「私」たちに助言しはじめる。これで戦局ががらりと変わり、結果は引き分けになる。

世界チャンピオンに対抗しうるチェスの指し手であるこの男性はいかなる人物か。男性と同国人(オーストリア人)であることから、「私」がこの男性の身の上話を聞き出すことになる。

オーストリアの貴族や僧院の財産を管理を生業としていた男性は、オーストリアがナチス・ドイツに併合された際に、財産をナチスから秘匿する動きにも関与していた。このため、ゲシュタポに逮捕され、ホテルの一室に監禁されて尋問を受ける。ホテルの部屋には何もない(無=Nichts)。簡素な家具のほかには、本棚はもちろん、装飾などは一切なく、筆記道具も与えられず、毎日同じような食事と尋問が繰り返される。変化のない「無」の生活。

「何もない」に苦しめられ、ゲシュタポに屈服しそうになる男性。これを救ったのが、ナチス兵士の外套のポケットからたまたま盗み出した一冊の本だ。といっても、これはただの本ではなく、チェスの数々の名勝負の駒の動きを忠実に記録しているだけの内容だった。

男性はこれらをすべて記憶するほどに繰り返して読み、やがて自分でチェスの対戦を組み立てるようになる。「自分」対「自分」のチェスの試合を頭の中で組み立てるのだ。

この過程とその描写がおもしろい。フロイトの影響下にあったZweigが得意とするobsession(強迫観念)の描写だ。狂気に近づいていくobsession。ここらへんはZweigの独壇場だろう。ナチスを時代背景とした一種の心理小説。チェスはその格好の素材となる。

物語の終末が船上での世界チャンピオンと男性の一対一の対決となるのは必然だ。この結果についてふれるのは野暮だろう。

脇役にとどまるが、世界チャンピオンも興味深い人物だ。身寄りのない貧しい農民の子供で、チェスには並外れた才能を示すが、頭脳明晰からはほど遠い。というよりも、その対極で、計算もまともにできず、読み書きもあやしい。「極端」好きのZweigらしい人物造形といえる。

2026年2月14日土曜日

James (ジェイムズ)

 



著者:Percival Everett

刊行:2024年

評価:★★★★★

Kindle版(2062円)

2025年12月18日読了

2024年度の全米図書賞やピュリツァー賞を受賞した米国の黒人作家Percival Everettの話題作。マーク・トウェインの「ハックルベリー・フィンの冒険」をベースとし、これをハックと同行する逃亡奴隷のJimことJamesの視点から再構成した小説だ。

私は子供向けに編集された「トム・ソーヤーの冒険」を読んだ覚えはあるが、「ハックルベリー・フィンの冒険」(以下「冒険」と略する)は読んでいない(はずだ)。「James」の登場人物は「ハックルベリー・フィンの冒険」のそれと重なるから、「冒険」を知っていたほうがわかりやすいかもしれないが、読んでいなくても特に理解に支障が出るわけではない。

「冒険」の中のJimとは異なり、Jamesは仲間内では(つまり黒人奴隷同士では)標準の英語を話す。Jamesは読み書きができるうえ、司祭の図書館でさまざまな本を盗み読みしたことから、教養の程度も並大抵ではない(彼の夢の中にはヴォルテールやジョン・ロックが現れる)。

ただし、白人に対するときには間違いだらけの「奴隷の言葉」をしゃべる。たとえば、主人であるMss. Watsonから「眠っていたのか(Was you 'sleep?」と尋ねられたときには、

No, ma’am. I is a might tired, but I ain’t been ’sleep.”(疲れてはいたけど、眠ってはいません)

と、無茶苦茶な文法で答える。

Jamesはこうした「奴隷の言葉」を自分の娘のLizzieにも教える。このレッスンの場面が秀逸だ。

“But what are you going to say when she asks you about it?” I asked. Lizzie cleared her throat. “Miss Watson, dat sum conebread lak I neva before et.”

” “Try ‘dat be,’” I said. “That would be the correct incorrect grammar.” 

“Dat be sum of conebread lak neva I et,” she said. “Very good,” I said.

つまり、ただ間違えればいいというわけではない。(奴隷としての)「正しい間違え方(correct incorrect grammar)」があるのだ。ここらへんは邦訳が不可能に近い。

白人を相手としたときの「奴隷語」を別とすれば、非常に読みやすい小説だ。ストーリーも、どこまでが「冒険」と一致しているのかはわからないが、起伏に富んでおり、おもしろい。

詳細に立ち入ることは控えるが、興味深いのは、当時の奴隷が置かれていた状況がこの小説の展開を通じても浮き彫りになっていることだ。たとえば、黒人はひとりで旅をすることはできない。逃亡奴隷とみなされるからだ。少年のハックとの同行もリスキーだ。したがって、彼らの移動は主として夜間に限られ、昼間は無人島に籠る生活にならざるをえない。ここらへんの事情は「冒険」でも同じだろう。

Percival Everettにはこのほかにも、「Erasure」や「The Trees」などのおもしろそうな作品が数多くある。読み続けていきたい作家のひとりだ。

2025年10月18日土曜日

Le Comte de Monte-Cristo (モンテ・クリスト伯)


著者:Alexandre Dumas

刊行:1844 - 46年

評価:★★★★★

Kindle版(無料)

2025年9月24日読了

Le Comte de Monte Cristoは長編である。1844年から1846年にかけて新聞に連載され、18巻本として出版された。Kindle版はそれぞれ300~400ページの4巻(Tome I - IV)からなる。読了にかなりの時間を費やした。1年以上はかかったように思う。だがこの長丁場、途中で飽きたり、いやになったことはなく、毎日ページをめくるのが楽しみだった。新聞連載ということもあり、長いストーリーが多様に枝分かれしており、サスペンスの連続、山場がいくつも用意されている。

読むのが楽しみだったことは事実だが、なにぶんにも180年前のフランス語、読みやすかったわけではない。おそらく理解できたのは3分の2くらいで、残りの3分の1はただ活字を目で追っただけ。ストーリーの展開は基本的には非常に平易な文章で描かれているが、ちょっと込み入った場面になると、私のフランス語の能力では太刀打ちできなくなる。理解の妨げになったのは語学の能力だけではない。19世紀中葉のフランス社会の仕組みや慣習に対する知識の欠如も大きかった。特に、復讐相手のひとりが銀行家であることから生じるお金の貸し借り、投資などの場面になるとほぼお手上げだった。

獄中14年、さらにモンテクリスト伯として3人の復讐相手の前に登場するまでに9年。23年の歳月を経て恨みの3人と再会する主人公のエドモンド・ダンテス。3人はモンテクリストがエドモン・ダンテスであることにまったく気づかない。今時のリアリズムからすればひっかかるところだ。

復讐の的となった3人はそれぞれ出世し、相当な社会的地位を得ているが、その過程で悪行を重ねている。つまりは根っからの悪人だ。善人と悪人の区別ははっきりしており、善人が悪の側面を示したり、悪人が善の方向に踏み出すといった場面はほとんどない。

バルザックの「ゴリオ爺さん」は1835年、ビクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」は1862年にそれぞれ発表されている。ゾラの「居酒屋」は1876年だ。「モンテクリスト伯」とは10年から30年の時間差がある。この間に、フランスの小説がデュマ流の単純明快な勧善懲悪から自然主義、リアリズムの方向へどのように歩んでいったのか、探ってみたいところではある。

2024年9月16日月曜日

Guy de Maupassant: Une Vie(女の一生)


 著者:Guy de Maupassant

刊行:1883年

評価:★★★★★

Kindle版(無料)

2024年7月24日読了

モーパッサンは高校時代にいくつかの短編を読んだことがある。もちろん翻訳でだ。内容はほとんど覚えていないが、わかりやすくおもしろかった。その後、フランス文学に相当入れ込んだにもかかわらず、モーパッサンには手を出していなかった。なぜだかはよくわからない。だが、「わかりやすくおもしろい」から「軽い」という印象が生まれ、ことさら重厚で難解なものをありがたがる若者にありがちな虚栄心が働いていたのかもしれない。

しかし、電子本の普及のおかげで、モーパッサンの原書をほとんどすべてを無料で読める時代になった。約60年ぶりに彼の作品に手を出したのはこうした事情からだ。Boule de suif(脂肪の塊)、La folle(狂女)、La parure(首飾り)などに続き、モーパッサンの作品のなかでももっとも世に知られているUne Vie(女の一生)へと読み進めた。

邦題は「女の一生」だが、原題はUne Vie、すなわち「ある生涯」で、「女」は入っていない。

物語は17歳の主人公Jeanneが修道院から両親のもとへ戻ったときから始まり、晩年を迎えるまで続く。主人公は没落したとはいえ貴族の身分であり、労働の経験もなければ社会も知らない。ほぼ同時代のエミール・ゾラの小説の主人公たちが貧困のなかであえいでいるのとは対照的だ。

ストーリー・テラーのモーパッサンだけあり、世間知らずのJeanneの人生も山あり谷あり(谷あり、さらにもっと深い谷ありと言ったほうが正確か)で、夫の度重なる不倫をはじめとし、それなりに波乱に富んでいる。が、彼女は最初から最後まで他人依存だ。父親に頼り、父亡き後は一人息子のPaulを生きがいとする。

Paulはフランスを離れ、母親からも離れ、お金が必要なときだけ手紙を送ってくる。土地も財産も売ってしまった晩年の彼女にはそれでも因縁あさからぬ乳姉妹であり下女でもあるRosalieが付き添っている。

それほど苦労せずおもしろく読めた。ゾラの「居酒屋」やバルザックの「ゴリオ爺さん」を読むのに四苦八苦したのとは大違いだ。この違いはどこにあるのだろうか。ひとつは描写の濃密度の違いだ。ゾラやバルザックの緻密さに比べ、モーパッサンは比較的あっさりしている。このためか、ゾラやバルザックのほうが、ずっしりとした重みを感じる。

だからとってモーパッサンのほうが劣っているわけではない。文学作品のおもしろさは、ストーリーに加え、どれだけ人間が描かれ、社会が反映されているかにある。他者に依存するしかない没落貴族の娘もその時代の反映であり、その悲しさは十分に伝わる。偏狭な新任司祭に敢然と立ち向かう父親、没落した女主人を支えるRosalieなど、登場人物も十分に魅力的で印象に残る。

2023年11月25日土曜日

Édouard Louis: Changer: Méthode


 2023年11月11日読了

著者:Édouard Louis

刊行:2021年

Kindle: 1478円

評価:★★★★☆

1992年生まれの若手フランス人作家Édouard Louisがこれまでに発表した作品は5つ。私はこれらすべてを読んでおり、本書を含めてそのうち3つをこのブログで取り上げている。これまでと同様、本書も非常に読みやすかった。おそらく辞書なしでも読めただろう。文章が平明なだけではない。息をもつかないような独白の流れがおもしろく、ほとんどつまずくこともなく読み進められた。本書と並行して読んでいた泉鏡花の「高野聖」と「婦系図」のほうが未知の単語も多く、一筋縄ではいかなかった。

Changer: Méthode(変わる:方法)は作者の処女作であるEn finir avec Eddy Bellegueule(エディに別れを告げて)の続編だ。「エディに別れを告げて」は、著者が地元(villageと表現されているが、これを「村」と訳するのは正確ではない。確かに田舎ではあるが、「地元」はフランス北部の工業地帯にあり、農業とは無縁。small townといったほうがぴったりする)を離れ、小都市Amiensのリセ(高校)へ入学するところで終わっている。村を出るとは、貧困と暴力が連鎖する環境、テレビと酒だけが娯楽である生活から逃れることを意味している。村を支配するmachismo(マッチョ)も同性愛的傾向持つ著者を苦しめた大きな要因だ。

Changer: Méthodeは、アミアンの高校に入った著者が周囲に合わせて必死に自分を変えようとするところから始まる。その触媒となったのがElenaという同級生の女性とその家族だ。クラシック音楽や観劇、それに読書を趣味とするElenaやその母親を模倣する著者、「変わる」こと、「(これまでの環境から)逃げる」ことに取りつかれた生活がいろいろなエピソードを通じて描かれる。

だが、やがてアミアンからも逃れ、パリに出ることが新しいobsessionとなる。そのきっかけは社会学者のDidier Eribonだ。彼の講演を聴き、その後知己を得たことから、「彼のようになりたい」という思いから逃れられなくなる。同性愛者であること、田舎の貧しさから逃れてきたことなど、両者の境遇は重なるところが多い。

筆者の逃亡願望、地元を捨て、アミアンをも捨て、別の誰かとして存在したいという想いは、エリート校であるパリのÉcole normale supérieure(高等師範学校)に入学することで現実のものとなる。

それだけにとどまらない。やがて処女作のEn finir avec Eddy Bellegueuleを発表。この作品は高い評価を受け、英語をはじめ多くの言語に翻訳されている。ここに至る過程で、同性愛者としてさまざまな階層の男性と知り合い、富豪や貴族の世界をも垣間見ることになる。30歳にも満たない身で、あまりにも多くのことを見て、経験してきたのだ。

もちろん本書は一介の青年の成功譚ではない。こうした青年を生み出したフランス社会の構造を浮き彫りにした本ともいえる。作者は自らのアイデンティティの核とも言える貧困と無知の出発点にいつも立ち返っている。しかし、その立ち返りが不十分だという感がしないでもない。本書の評価を5つ星ではなく4つ星にした理由はここにある。

2021年7月2日金曜日

Emile Zola: L'Assommoir(居酒屋)

著者:Emile Zola

刊行:1876年

評価:★★★★★

Kindle版(無料)

2021年6月27日読了

タイトルのL'Assommoirは仏和辞書によると「【古・俗】(安酒を飲ませる)酒場.居酒屋」という意味だが、この小説では主人公夫婦行きつけのパリの安レストラン兼酒場の屋号を指す。つまり固有名詞だ。日本では「居酒屋」という表題が定着している本書だが、今時の感覚からするとちょっとそぐわない。言葉が内包する意味は時代とともに変わる。izakayaとして外国に紹介され、少なからぬチェーン店も存在する平成や令和の「居酒屋」は本書の内容や雰囲気とはかけ離れている。昔風の「酒場」としたほうがしっくりと来る。

苦労しながら読んだ。ストーリーが複雑なわけでもなく、内容が難解なわけでもない。未知の単語が多すぎるのだ。その多くが古い表現や俗語で、辞書を引いても載っていない。写実主義のゾラらしく、洗濯屋、ブリキ工、鍛冶屋などの労働現場、結婚式をはじめとする祝いの場での飲み食いとどんちゃん騒ぎ、安アパートの内部が事細かく描写されるが、その半分も理解できず、ただ単語を目で追うだけというありさまだった。本書より10年以上前に刊行されたレ・ミゼラブルのほうがはるかに読みやすかった。したがって「読了」と言うにははばかられるが、あえて仏語で読むことで、邦訳や英訳にはない生々しい雰囲気を感じられた(と強弁しておこう)。

主人公はジェルヴェーズ (Gervaise) という女性。息子2人を連れて愛人(ランティエ)と一緒にプロバンスからパリにやって来たが、ランティエは彼女を捨てて別の女のもとに走る。幸い、ブリキ工として働く実直な男(クーポー)に求婚され、新しい世帯を設けて、娘(ナナ)も生まれる。

しかし幸せは長くは続かない。クーポーが仕事中に屋根から転落して働けなくなったのだ。怠け癖がついたクーポーは傷が癒えたあとも仕事には行ったり行かなかったり。酒浸りになり、妻や娘に暴力を振るうようにもなる。おまけにクーポーはこともあろうにジェルヴェーズの元愛人のランティエを自分たちの住居に連れ込み、ともに住むことを許してしまうしまつだ。

そんな中でもジェルヴェーズは洗濯屋を開き、何人かを雇って懸命に働く。このころが彼女の絶頂期だったかもしれない。だが夫の怠け癖と酒癖は直らず、洗濯業も傾きはじめる。仕事をおろそかにするようになったジェルヴェーズは、夫を探しにでかけた飲み屋で勧められるままに酒を飲み、その味を覚えてしまう。

あとは転落の一途だ。夫のクーポーは精神病院に入院させられ、そこで狂い死にする(この狂い方の描写もすさまじい)。その後を追うように、ジェルヴェーズもひっそりと息を引き取る。

救いのないストーリーだ。こうした悲劇はジェルヴェーズだけのものではない。その隣人や知人の多くも同じような問題を抱え、同じような悲劇に巻き込まれていく。酒と暴力と貧困。これらが互いに因となり果となり、悪循環を繰り返す。この風景が19世紀中葉のバリをどこまで忠実に写しているのかはわからない。しかし150年後の現代、フランスのみならず世界各地で同様の悲劇が形を変えて繰り返されていることを思えば、絵空事ではないことだけは確かだ。

いくつか忘れられない場面がある。ジェルヴェーズと同じアパートに住む幼い少女ラリー(Lalie)は妹と弟の面倒を見ながら、酒乱で乱暴な父親と一緒に暮らしている。ジェルヴェーズはなにかとラリーを気にかけ、少女に暴力をふるう父親に体を張って抗議する。しかし、ラリーは父親をかばい、擁護する。そのけなげさが痛ましい(最後には父親の暴力がもとで死ぬことになる)。ある晩、酒に酔って帰ってきたジェルヴェーズは廊下でラリーに出会う。泥酔状態のジェルヴェーズを無言のまま見つめるラリーの目。失望なのか、憐憫なのか、軽蔑なのか、複雑な眼差しだ。

もうひとつ。ジェルヴェーズの娘のナナは幼いときから我が強く、近所のガキ大将といったところだった。やがて思春期に達したナナは近所の同年代の少女たちを引き連れてパリを練り歩く。この様子が「失われた時を求めて」の第2篇「花咲く乙女たちのかげに」でジルベルトたちの一団が登場する場面を想起させた。一方は「不良少女たち」と言ってもいい労働者階級の娘たちであり、他方は豊かな中産階級の娘たちだという違いはあるが、どちらも颯爽としており、華やかで、絵になる。ナナはゾラの後の作品「ナナ」では高級娼婦として登場する。

実はL'Assommoirの前に、同じくゾラのGerminal(ジェルミナール)を読むつもりだった。だが4、50ページほど読んだところで挫折してしまった。鉱山での労働の様子がまったく頭に入らなかったからだ。L'Assommoirがこれほどおもしろいなら、Germinalもおもしろいに違いない。傍らに英訳を用意してでも、もう一度挑戦したい。

2021年6月22日火曜日

Elias Canetti: Die Fackel im Ohr


著者:Elias Canetti

刊行:1980年

評価:★★★★☆

2021年6月9日読了

1981年にノーベル文学賞を受賞したElias Canetti(エリアス・カネッティ)による自伝3部作中の第2部。タイトルのDie Fackel im Ohrは英訳ではThe Torch in My Ear、邦訳では「耳の中の炬火」となっている。

第1部のDie Gerette Zunge(救われた舌)を読んだのはいつだっただろうか。20年くらい前になるかもしれない。おもしろかったいう印象は残っているが、内容はほとんど忘れている。第2部の本書は当然第1部に続くものであり、第1部が前提となる。したがって、Die Gerette Zungeを読んでいないと(あるいは私のように忘れてしまっていると)不可解な部分も若干出てくる。といっても、本書のコアの部分は第1部の知識がなくても十分に理解でき、楽しめるだろう。

Elias Canettiはスペイン系ユダヤ人としてブルガリアのルセに生まれた。母語はラディーノ語(古いスペイン語)だが、幼いころイギリスに移住し、フランスやオーストリア、スイスにも滞在経験があることから、英語とフランス語、ドイツ語にも通じていた。小説をはじめとする作品はすべてドイツ語で書かれている。ユダヤ人ではあるが、その意識はあまり強くない。あえてアイデンティティを求めるなら、「ヨーロッパ人」というのが一番ぴったりとするだろう。この点、同じくユダヤ人ではあるが、ヨーロッパを強く意識していたシュテファン・ツヴァイクと共通する。

本書がカバーするのは1921年から1931年までで、著者の16歳から26歳にかけての10年間だ。場所はフランクフルトとウィーン、それに旅行で訪れたベルリン。なかでも大学時代を過ごしたウィーンが中心となる。大学では化学を専攻するが、これは「実学」を望む母親に妥協した選択であり、著者の関心は「社会」(とりわけMasse=大衆、民衆)と「文学」にある。

母親との確執は本書の柱のひとつだ。父親は早くして亡くなっており、病弱な母と息子3人(著者と2人の弟)で第一次大戦後のフランクフルトとウィーンを生きる。母子家庭ではあるが、父親の遺産もあり、生活にゆとりがないわけではない(ここらへんのことはDie Gerette Zungeに記述されていたのであろうが、私の記憶からは飛んでいる)。母親は相当の教養人で、エリアスに大きな影響を与えていた。エリアスにドイツ語を徹底的に叩き込んだのも母親だ。しかし、第一次大戦後のインフレの中、ドイツやオーストリアでの生活はそう容易ではない。母はお金を気にするようになり、子供たちも節約を求められる。精神生活よりその日の暮らしが重要になってくるのだ。

著者はこれに強く反発する。ときには母親に怒りをぶつけ、ときには母親を欺しながら、母親からの独立を実現していくのがこの時代の著者だ。時代環境、家庭環境を考えれば、お金にせちがらくなった母親を責めるのは酷なことだ。もっとも母親を客観視し、距離とシンパシーをもって見ることができないのも若さの証かもしれない。

両次大戦間のウィーンは私にとってもっとも興味のある時代のひとつだ。1910年から1930年頃までのウィーンは私にとってはマーラーの音楽であり、ウィトゲンシュタインやウィーン学団(カルナップなど)の哲学であり、私の20代の精神世界そのものだった。

著者は哲学にも興味を示しているが、ウィーン学団は素通りされている。代わって著者を支配したのはカール・クラウスだ。本書のタイトル「Die Fackel im Ohr」もクラウスが創刊した雑誌「Die Fackel」(炬火)からきている。カール・クラウスの影響力がどれほど大きかったかは、この時代について書かれた多くの本に証言されている。文筆でもさることながら、特にウィーン人を魅了したのは彼の講演だったらしい。

カール・クラウスは今日ではあまり読まれていない。私もまったく読んだことがなく、彼についての評価は控えるしかない。

本書は処女作「Die Blendung」(眩暈)の構想が徐々に固まり、カネッティが小説家としてスタートする前夜で終わっている。Die BlendungはDie Gerette Zungeよりももっと前に読んだが、内容はほとんど覚えていない。

本書はそうすらすらと読める本ではない。ところどころでひっかかり、二度、三度を読み返すことが必要になる(読み返してもわからないケースも少なくない)。もちろん私のドイツ語能力の問題だが、それだけではなく、内容自体がむずかしいこともある。それでも、若き著者が出会う有名無名のさまざまな人々、第一次大戦後のドイツとオーストラリアの混乱などが生き生きと描かれてる本書は、多少の難しさに直面しても、最後まで興味深く読み進めることができた。

2020年11月24日火曜日

Édouard Louis: Qui a tué mon père

2020年11月23日読了

著者:Édouard Louis

刊行:2018年

評価:★★★★★

1992年生まれの若手フランス人作家Édouard LouisによるQui a tué mon père(誰が私の父を殺したか)は、En finir avec Eddy Bellegueule(エディに別れを告げて)とHistoire de la violence(暴力譚)に続く彼の3つ目の作品だ。第1作も第2作もそれほど長くはないが、この3作目は80ページ余と、ことのほか短く、Romanと呼ぶのに躊躇するほどである。なにぶんにもフランス語だから、私が読了するには数日かかったが、ネイティブのフランス人なら2、3時間で読み終わるだろう。

内容は処女作のEn finir avec Eddy Bellegueuleにつながる。続編というわけではない。処女作を補完する補遺といったところか。叙述のほとんどはTu(「あなた」の親称)を使って父親に語りかける形式になっている。

作者が生まれ育ったのは北フランス工業地帯の小さな町(作品ではvillage、つまり村となっている)である。住民の多くは地元の工場で働いている。作者の父親はリセ(高校)を終えてからの5年間を南フランスで過ごす。「現実を忘れる権利」を享受する期間を「青春(jeunesse)」と呼ぶなら、南フランスでの5年間はまさにその青春を引き延ばすためのあがきでもあった。

父親は結局生まれ故郷の村に戻り、地元の工場に勤める。しかし工場で事故に遭い、背中を傷める。その後遺症も癒えない中、不景気の煽りを喰い、工場を辞める。ままならない身体のまま、やっとありついたのは道路掃除の仕事だ。毎日腰をかがめて、長時間、道路を掃いている。

久しぶりに帰郷した作者が見た父親に昔の面影はない。歩くのもやっとの疲れ切った姿。50歳になったばかりだというのに。

父親やその周辺を支配しているのはmasculinité(男らしさ)という価値観だ。男にはなによりもマッチョであることが求められる。ゲイである作者がこうした環境に別れを告げ、高等教育を受けるまでのプロセスが処女作En finir avec Eddy Bellegueuleの主題だった。

本書は父親にまつわるランダムな思い出やエピソードからなる。たとえば2004年の次のようなエピソードを紹介しておこう。

中学校で冷戦とベルリンの壁について学んだ作者。ベルリンが壁で分断されていたという事実に衝撃を受け、好奇心をおおいにかきたてられる。ヨーロッパが2つに分かれてたなんて。道の真ん中に壁が建てられ、行き来が不可能になるとは。

作者は急いで家に帰る。父親なら壁が崩壊したときには成人になっており、もっと詳しい情報が得られるはずだ。「壁を実際に見た人を知っているか、実際に壁に触った人に会ったことはあるか」などの数多くの質問を抱えて家に急ぐ。

父親の回答は漠然としていた。「そんなことがあったね。テレビで報道されているのを見た」。しつこく質問すると、父親は怒り出して怒鳴る。怒鳴るのはいつものことだが、このときの怒鳴り方はいつもとは違っていた。怒鳴り声の中に「恥辱(honte)」が混じっていたのだ。無知であることの屈辱。学校で教える歴史と父親の歴史は重ならない。

「マッチョであること」の中には学校や教師に対する反抗も含まれ、勉強は軽蔑される。教師に平手打ちを喰らわせた作者の従兄弟は、そのことでみんなから賞賛される始末だ。かくて社会的な階段を上がることをみずから拒否し、貧困が再生産される。

物語も終わりに近づいたころ、「政治」が登場してくる。シラク、サルコジ、オランド、マクロンといった歴代の大統領の名前が挙げられ、彼らの行った社会保障の減額や労働時間の延長とった政策が糾弾される。「私の父を殺した」(実際に死んでいるわけではないが)のはこうした政治家とその政策であり、社会のシステムだ。「持てる者、支配する者」にとっては政治とは「美学の問題」であり、「世界観の問題」でしかない。しかし「持たざる者、支配される者」にとっては政治は生活に直接影響する「生きるか、死ぬか」の問題なのだ。

短い小説だが、無駄な行は一行もなく、濃密な内容がぎっしりと詰まっている。ここ数年に読んだ本の中では出色、まぎれもなくナンバーワンだ。英訳や独訳は出ているが、残念ながら日本語には訳されていない。

作者のÉdouard Louisが本書について語っている動画がいくつかYoutubeにアップされている。たとえば次の動画ではLouisが英語でインタビューに答えている。

Édouard Louis and Kerry Hudson: Who Killed My Father?


フランス語でのインタビューは次の動画。

« Qui a tué mon père », le nouveau livre d'Édouard Louis





2020年9月30日水曜日

Victor Hugo: Les Misérables

2020年9月28日読了

著者:Victor Hugo

刊行:1862年

評価:★★★★☆

Kindle版(110円)

1年以上かけてようやく読み終えた。「読み終えた」というのは必ずしも正確ではない。ざっと目を通したという部分も少なからずあるからだ。ユーゴーの小説のご多分に漏れず、この作品にも本筋には直接関係しない脱線が多い。たとえば、ワーテルローの戦いの推移、フランスの隠語や俗語についての考察、パリの下水道の歴史など。しかもそれぞれ長い。ワーテルローの戦いの章の最後の数ページだけは話の展開に大きく関係してくるが、その他の脱線は字義通り脱線であり、読んでも読まなくて本書の理解には影響しない。

こうした脱線にも一応は目を通した。ただし、大部分は活字を目で追っていただけで、頭にはほとんど入らなかった。なにぶんにも古い言葉や専門用語が頻出し、いちいち調べて理解しようとすると、たいへんな手間だ。

これに反し、本筋のストーリーは非常にわかりやすい文章で書かれている。波乱に富んだ物語なので、おもしろくすいすいと読める。

波乱に富んではいるが、偶然と偶然が重なる展開で、劇画風と言えなくもない。

しかし、ユーゴーの小説の魅力は破天荒なストーリーだけでなく、登場人物の造形の見事さにもある。「93年」や「ノートルダム寺院」と同様、感情の振幅が激しい人物たちが極端から極端へと駆け抜ける。

たとえば、異常な情熱でジャン・バルジャンを追うジャベール(Javert)警部。ジャベールは「悪漢」ではない。彼独自の「法律」という論理に操られているだけだ。この論理が破綻しそうになるとき、彼自身も破綻する。

最初から最後まで小悪党として暗躍するテナルディエ(Thénardier)も重要な役を担っている。この貧弱な小男は、もともとは宿屋兼食堂の主だった。ケチで小狡くはあるが、客に愛想よく、曲がりなりの学もある。大柄で乱暴なテナルディエの妻も心に残る人物で、その図体にもかかわらず夫に盲目的に従う。この二人の悪党の間に生まれた子供たちも、それぞれの個性で際立つ。なかでも、歌を歌いながら暴動に加わる陽気なガヴローシュ (Gavroche)少年は、パリのストリートチルドレンの代名詞となっているくらいだ。

もちろん美男と美女のマリウスとコゼットも欠かせないが、正直なところ、彼らに対しては悪漢や性格破綻者などのどぎつい人物に対するような興味を覚えなかった。

レ・ミゼラブルにはじめてふれたのは小学生のころ。岩波少年文庫に収められている豊島与志雄訳を読んだ(「レ・ミゼラブル」ではなく、「ジャン・バルジャン物語」というタイトルだったかもしれない)。そのあとで映画も見た。したがって、おぼろげながらストーリーは知っているつもりだった。しかし、今回曲がりなりにもフランス語で全編を読み、少年のころの記憶や印象の訂正を余儀なくされた。私の記憶では、マリウスとコゼットが結ばれたところで話しは終わっていた。また、ジャン・バルジャンとジャベールの追跡劇が話の軸となっており、テナルディエ一家についてはほとんど覚えていなかった。

岩波少年文庫のほうは豊島与志雄の訳だから、大幅な省略はあったとしても、肝心なポイントは外していないはずだ。要するに私が覚えていなかっただけだろう。記憶といい印象といい、かくまでに頼りない。

1832年の暴動についてフランス革命の一幕と受け取っていたが、小学生という年齢を考えれば、これはやむを得ないだろう。

ともかくこの有名な長編を最後のページまで読んだことで、ホッとし、満足している。期待通りのおもしろさではあったが、ユーゴーの作品としては、3つの個性がドラマティックに衝突し絡み合う、コンパクトにまとまった「93年」のほうに軍配を上げる。

乗りかかった船だ。もうしばらくユーゴーに付き合おう。次はKindleから無料で入手できるLe Dernier jour d'un condamné(死刑囚最後の日)だ。

 

2020年9月19日土曜日

Vasily Grossman: Life and Fate


2020年9月16日読了
著者:Vasily Grossman
刊行(完成):1960年
評価:★★★★☆
Kindle版(1158円)
ロシアの作家Vasily Grossman(1905 ー 1964)の代表作Жизнь и судьбаの英訳版。邦訳もされており、「人生と運命」というタイトルで出版されている。しかし、この日本語版は全3冊からなり、合計で2万円近くする。ここは1000円ちょっとの英語版を選びたい。Kindleの電子ブックというのも英語版の利点だ。ロシア語の小説にありがちだが、登場人物の名前が長く複雑で、途中で誰のことなのかわからなくなることもまれではない。電子ブックの検索機能がありがたい所以だ。

Life and Fateは1942年から1943年にかけてのスターリングラード攻防を背景にした長編小説(Kindle版で870ページ)で、トルストイの「戦争と平和」にも比せられる。

1960年に完成したこの作品がロシアで出版されたのは1988年のこと。スターリン批判以降のソ連もこの作品を許容するほど寛容で自由な社会ではなかった。このことは逆にこの作品が秘めている力の証かもしれない。

物語はモスクワからカザンに疎開しているユダヤ系の物理学者一家を中心に展開される。主人公の母親はドイツ軍占領下のウクライナでユダヤ人狩りの犠牲となり、知人の女医も収容所に送られ、ガス室で絶命する。

理不尽な力はナチス・ドイツだけから迫ってくるのではない。ナチス・ドイツと戦うソ連の社会や軍の中でも国家の理不尽な力が個人を押し潰そうとする。スターリンとベリアの体制のもと、人々はたえず密告におびえ、粛清の危険にさらされる。ばりばりの旧ボリシェビキがある日突然逮捕される。ユダヤ人に対する隠微な攻撃も姿を現してくる。反ユダヤ主義はナチスだけの専売特許ではない。

物理学者の一家とその親族、同僚を語り手として場面は転変し、物語は多面的な広がりを見せる。ソ連の物理研究機関、スターリングラードの戦闘、ドイツ軍の捕虜収容所、ユダヤ人収容所、ソ連の政治犯収容所などのほか、包囲されたドイツ第6軍の司令官のPaulusの視点からの描写もある。ヒトラーやスターリンも姿を見せる。

このようにスターリングラードの攻防と当時のソ連社会を重層的に描こうとする作品ではあるが、私には若干の不満が残る。登場人物が概して立派すぎるのだ。知的レベルも高く、良心の葛藤に苦しみこそすれ、根っからの悪人は少ない。「彼女はバルザックとフロベールの違いすら知らない」と誰かが誰かを揶揄する場面があるが、当時のソ連社会でこうした会話が交わされるのはかなり例外的な家族だろう。

ポーランド、ドイツ、満州への侵攻時に略奪や陵辱の当事者となったソ連軍兵士もいるはずだ。こうした普通の兵士たちの苦しみと狂気をもくみ上げてこそ、戦争を総合的にとらえることができるのではなかろうか。

本書を読む前提知識を得るために、「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」(岩波新書・大木毅)に目を通した。これはこれでおもしろかったが、Life and Fateを読み進めるうえで、スターリングラード攻防に関する詳細な知識は必ずしも必要ではない(もちろんあるにこしたことはない)。他方、1937年のモスクワ裁判(スターリンによる粛清)や農業集団化とクラーク(富農)への攻撃、ユダヤ人医師団陰謀事件など、ソ連の歴史に関するおおよその知識は本書の理解に不可欠と言えよう。

2019年4月24日水曜日

Victor Hugo: Quatrevingt-Treize

2019年4月15日読了
著者:Victor Hugo
刊行:1874年
評価:★★★★★
Kindle版(無料)

Quatrevingt-Treizeは「93」という意味だが、この場合にはフランス革命が頂点に達した1793年を指す。邦題は「93年」。昨年ツヴァイクのジョセフ・フーシェとマリー・アントワネットの伝記を読んだこともあり、この小説の背景となっているフランス革命やヴァンデの反乱に関するおおよその知識はあった。

だが、この小説はフランス革命の叙述ではなく、ヴァンデの反乱の帰趨を描くものでもないから、特別な歴史的知識がなくても十分に楽しめる。実際、ヴァンデの反乱など聞いたこともない子供のころ(たぶん小学六年生ごろ)、少年少女向きに簡略化された「93年」を読んで非常におもしろかったことを覚えている。おもしろかったという感想は頭に残っているが、どのようなストーリーだったかはすっぽり記憶から脱け、登場人物も誰一人として覚えていなかった。

数十年の歳月を経て、あらためてオリジナルのフランス語で読み、子供のころの感動を追体験できるかどうか。期待と不安を交えながら読み始めた。

19世紀の作品だから、すらすらと読めるわけではない。辞書に出てこない単語も少なくない。だが、予期していたよりずっと読みやすい。細部ではわからないところが多々あるが、ストーリーの流れを追い、主要な登場人物の性格や思想を把握するうえで支障はない。

ユーゴーの作品を原文で読むのはNotre-Dame de Parisに続いて2冊目だ。Quatrevingt-TreizeはNotre-Dame de Parisよりも近づきやすかった。Notre-Dame de Parisではパリとノードルダム寺院の説明にそれぞれ1章が割かれている。いずれもストーリーには関係のない内容で、実はこれらの章はスキップしてしまった。

Quatrevingt-treizeでもストーリーとは無関係にConvention(国民公会)を説明する章が挿入されている。こちらのほうはちゃんと読んだ。途中でいやになることもなく、次の章につなげることができた。

Quatrevingt-Treizeは3人の人物を中心に展開する。ヴァンデの反乱を指揮する王党派(白)のLantenac、反乱鎮圧の任を負う革命軍(青)を率いる青年将校のGauvain、そしてGauvainを監視するために公安委員会から派遣されたCimourdain。この三者の間には浅からぬ因縁がある。LantenacとGauvainはブルゴーニュの貴族の出で、LautenacはGauvainの大叔父にあたる。CimourdainがGauvainを監視するのはこうした事情からだ。ところが元僧侶のCimourdainは革命前にGauvainの家庭教師であり、Gauvainに深い影響を与えるともに、彼に対して自分の息子のような愛着を抱いている(CimourdainをGauvainの監視役とした公安委員会はこの事実を知らない)。

LantenacとCimourdainはどちらも原理主義者だ。前者は王党派、後者は革命派という違いはあるが、常に非妥協を貫き、敵に対して徹頭徹尾無慈悲であるという点では共通する。彼らとは対照的に、若きGauvainはclémence(寛大さ、慈悲)をもって知られている。公安委員会が彼を監視しようとしたのは、Lantenacとの血のつながりに加え、このclémenceを危惧したためでもある。Gauvainは革命派ではあるが、revolutionよりもhumanité(人間性)を上位に置く。おそらくこれはユーゴーの立場でもあるのだろう。

商船を装ったイギリス製の軍艦に乗船したLantenacがブルゴーニュへの上陸を目指すところから物語は始まる。あるはずみで砲台のたががはずれ、くびきからはずれた大砲が船の揺れに乗じて甲板の上を暴れまくる。破壊への意志を持つ盲目の猛獣のように。この大砲の動きの描写がすばらしい。大砲が制御されたあとのLantenacの措置も意表を突く。冒頭から一気に物語りに引き込まれた。

子供のころあらすじを読んだとはいえ、すべて忘れ去っているから、新しい本を読むの同じだ。最初の数ページから最後の1ページまで、いや最後の数行に至るまで予測のつかない展開に心を躍らせた。

もちろんストーリーのおもしろさだけではない。ユーゴーの小説の魅力は、登場人物の情熱が「半端ない」ことである。LantenacとCimourdainの過激さは、Notre-Dame de ParisにおけるClaude Frolloの暗い情熱に通じるところがある。彼らの情熱(passion)は往々にして強迫観念(obsession)へと転化する。

英語版のWikipediaによれば、グルジアの神学生であったDzhugashviliは牢獄の中で「93年」を読み、Cimourdainに深く感銘したとのことだ。Dzhugashviliとはのちのスターリンにほかならない。考えてみれば、LantenacとCimourdainはその非情さにおいてスターリン主義者と言えなくもない。

同じく英語版Wikipediaによると、スターリン主義と対極にある米国の作家Ayn Randも「93年」の熱心なファンらしい。彼女の小説The Fountainheadの主人公Howard Roarkの一徹ぶりもLantenacやCimourdainを連想させる。

久しぶりに小説らしい小説を読んだ感激にしばらくは浸っていたい。そして次はいよいよLes Misérablesだ。こちらもKindleストアから無料でダウンロードできる。

2018年5月21日月曜日

J.P Manchetteの2作品

J.P Manchette: La position du tireur couché
2018年4月23日読了
著者:Jean-Patrick Manchette
刊行:1981年
評価:★★★







J.P Manchette: Le petit bleu la côte Ouest
2018年5月21日読了
著者:Jean-Patrick Manchette
刊行:1976年
評価:★★★







手元にJean-Patrick ManchetteのLivre de Poche(文庫本)が4冊ある。7、8年前にパリで購入したものだ。どうして彼の本を4冊も購入したのか。今となってはまったく思い出せない。おそらくどこかの書評を読んで興味を引かれたのだろう。買ったのはよいが、何年間もずっと積ん読状態だった。

今回まずLa position du tireur couchéを取り出して読んでみた。1冊だけで評価するのも性急と思い、続いてLe petit bleu la côte Ouestを手に取った。前者は「眠りなき狙撃者」、後者は「殺しの挽歌」というタイトルで邦訳されている。いずれも原題に忠実なタイトルではない(原題に忠実なタイトルにするのはむずかしい)。

Manchetteはハードボイルド作家ということだ。しかしこの2作に関する限り、私がイメージするようなハードボイルドではない。La position du tireur couchéの主人公は殺し屋、Le petit bleu la côte Ouestの主人公はビジネスマンだが、冷徹でもクールでもなく、どこか滑稽感が漂う。無謀かつ無造作に死地に飛び込んでいくが、肝心なとこで抜けている。いわゆるハードボイルドにありがちな気の利いたセリフや気障な描写がないのはいい。

ストーリーはひと言で表せば「マンガ」だ。およそリアリティに欠けた展開が続く。このままでは星2つの評価なのだが、どちらの作品でも最後の数ページにある種の「ひねり」がある。La position du tireur couchéのほうは物悲しさが残り、Le petit bleu la côte Ouestの最後にもちょっとした仕掛けがある。こうした「ひねり」を考慮して星を1つ増やし、3つとした。

まだ2冊未読のManchetteが残っているが、とりあえずはこれら2つの作品で十分だろう。

2017年12月11日月曜日

Stefan Zweig: Joseph Fouché

2017年10月21日読了
著者:Stefan Zweig
評価:★★★★★
刊行:1929年
Kindle版


1942年に亡命先のブラジルで自死したオーストリアの作家Stefan Zweigによるナポレオン体制下の警察大臣Joseph Fouchéの伝記。Zweigはウィーンのユダヤ系富豪の家に生まれたオーストリア人だが、その関心や教養、言語能力からしてヨーロッパ人あるいはコスモポリタンと呼ばれるにふさわしい。

Joseph Fouchéは日本ではそれほど馴染みのある名前ではないが、フランスではそれなりに名の知れた歴史的人物で、バルザックの小説などにも登場する。僧職の身でフランス革命に身を投じ、無神論の過激派としてリヨンの虐殺などに荷担しながらも、テルミドールの反動でロベスピエールを裏切って生き残り、その後の統領政府とナポレオン帝政のもとで警察大臣を務めた。かつてルイ16世の処刑に賛成票を投じたにもかかわらず、ナポレオン失脚後の王政復古に力を貸し、ルイ18世のもとでも警察大臣になる(ただしこれは短期間に終わる)。

カトリックから無神論へ転向し、無神論からカトリックへ再転向、革命期には貴族制度を全否定しながら、のちには自ら爵位を受けるに至る。私有財産を攻撃したのは過去のこと、後年には莫大な富を蓄える。右から左、左から右へと揺れ動く激動の時代を乗り切った歴史上希有の人物といえよう。原理原則は無く、節操もない。カメレオン的変身がこうした処世を可能にした。ZweigはFouché流の裏切りと陰謀、変節と虚言こそが政治家の本質であると見ている。この伝記の副題が"Bildnis eines politischen Menschen"(ある政治的人間の肖像)となっている所以である。

Fouchéは警察大臣としてフランス全土に諜報の網の目を張り巡らせ、政敵はもちろん、網の目にひっかかるあらゆる人物のあらゆる秘密やスキャンダルを収集する。ナポレオンの妻のジョゼフィーヌもFouchéへの通報者だった。情報の重要性を理解し、情報を武器とするなど、まことに現代的ではある。

おもしろかった。良心の呵責や羞恥とは無縁にくねくねと時代を泳いでいくFouchéの軌跡そのものがおもしろいこともあるが、それだけではない。Zweigの叙述のうまさ、洞察や分析の鋭さ、皮肉や諧謔の巧みさこそがこの伝記の真髄といえる。つまり「おもしろくてためになる」のである。

Zweigの自伝である"Die Welt von Gestern"(昨日の世界)を読んだのは10年以上前になる。Fouchéの伝記は私にとっては2冊目のZweig作品である。私のタブレットPCには200円ほどでダウンロードしたZweigの全作品が保存されている。次はマリー・アントワネットの伝記だ。もちろんいつの日にかには彼の小説にも手をのばしたい。

2017年9月25日月曜日

Édouard Louis: En finir avec Eddy Bellegueule

2017年4月7月読了
著者:Édouard Louis
評価:★★★★★
刊行:2014年

Eddy Bellegueuleという本名に別れを告げたÉdouard Louisが若干21歳で発表した自伝的要素の色濃い作品。フランスでベストセラーとなり、英語や日本語などにも翻訳されている(邦題は「エディに別れを告げて」)

"De mon enfance je n'ai aucun souvenir heureux."(子供時代の幸せな思い出は何一つない)という衝撃的な文章から始まり、子供時代(主にcollege、つまり中学時代)の辛い体験がつづられていく。辛さの原因はいじめと貧困だ。

北フランスの荒廃した工業地帯。貧しい労働者の家に育ったEddy。暴力や荒っぽさが肯定され、「dur」(タフ)であることが最上の価値となる環境で、Eddyは幼いころから際だって女性的だった。仕草や言葉遣いも女性的なら、精神のあり方もそうだ。このため、中学校でひどいいじめに遭い、家庭でも疎外される。

そのEddyが「逃げる」ことを選択し、地元の学校とはひと味違うリセ(高校)に進学して、本来の自分を見いだそうとするところで物語りは終わる。

現在のフランス社会の一断面が生き生きと描かれ、幼い主人公のつらさが伝わってくる。日本ならEddyももう少し楽に生きられたのではと、ふと思った。日本の男の子にはこの本に描かれたほど「男らしさ」が求められないからだ。女性的な男、なよなよした男が一定の存在価値を持っているのが日本だ。もっとも日本にはフランスにはない「集団からのいじめ」があるから、どちらが生きやすいかはそれほど簡単ではない。

Édouard Louisは2016年にHistoire de la violence(暴力の歴史)というタイトルの第2作を発表している。これも是非読んでみたい。

追記:London Review Bookshopが主催したÉdouard LouisのロングインタビューがYoutubeにアップロードされている。英語による1時間を超えるインタービューで、聞き手はマレーシア出身の作家Tash Aw。Louisが描いた暴力や貧困、偏見のauthentity(信憑性)がフランスでも話題になったこと、フランスやフランス人のイメージからはLouisの両親が属する労働者階級が排除されていることなど、興味深い内容が語られる。

Edouard Louis talks to Tash Aw about 'The End of Eddy'
https://www.youtube.com/watch?v=4X3HJnueE5E&t=1064s

 

2017年2月1日水曜日

Stephen King: Doctor Sleep

2017年1月14日読了
著者:Stephen King
評価:★★★★☆
刊行:2013年
Kindle版

キングの作品は読みやすく、あまり外れがない。だから、さしあたって読みたい本が見あたらないときなど、つい手にとることが多い。おそらく今までに15冊くらいは読んでいるだろう。しかし、キングは多作であり、その作品の数はゆうに50を超える。したがってせいぜい4分の1くらいしか読んでいないことになる。まだまだ楽しみが残っているとも言えるが、正直なところ少し飽きてきた感じもしないではない。本書も期待に違わずおもしろかった。だがThe Green MileやUnder the Doomを読んだときのようなわくわく感は得られなかった。

本書はThe Shining(1977年)の続編である。Shiningは私がはじめて読んだキングの小説だが、20年以上前のことであり、内容はほとんど覚えていない。このため細部ではところどころ理解困難なところがあったが、読み進めていくうえで大きな障害にはならかった。ただThe Shiningをまったく読んでいない読者にとってはちょっとつらいかもしれない。

The Shiningのとき少年だったDanny(Dan)も今や中年。少年時の事件のトラウマもあり、その人生は順調とは言い難い。病院のorderly(用務員)として米国内を放浪する中で、アルコールにおぼれていく。かつて父親がたどった道を繰り返そうとしているのだ。

そのDanが断酒を決意して、ニューハンプシャー州のホスピスに職を得る。そして、彼と同様に、彼よりももっと強力なShining(一種の超能力)を有する少女と力を合わせてTrue Knotと呼ばれる邪悪な集団と戦う。

以上がストーリーの要旨だが、ここではTrue Knotに焦点を合わせたい。せいぜい2~30人のこの小さな集団は、外見的には普通のアメリカ人となんら変わるところがない。だがその実体は人間というよりゾンビや亡霊に近い集団で、何百年もヨーロッパやアメリカを流浪している。Shiningの能力を持つ子供を拷問して殺害し、その際に生じるsteam(「生気」とでも訳したらよいだろうか)を吸うことによって若返り、いつまでも生きることができるのだ。

したがって人間の側からすれば彼らと戦うことは「悪」と戦うことにほかならない。これほどはっきりした「正義」と「悪」の対立はない。

しかしちょっと視点を変えることはできないだろうか。True Knotの側から見たらどうだろうか。生き延びるために人間の子供の殺害が必須だとすれば、その行為を「悪」ときめつけるのはむずかしくなる。人間が生きるために植物や動物を犠牲にしているのと同じになってしまうからだ。

True Knotにはなぜか子供のメンバーがいない。これはちょっと不自然だ。子供がいると、彼らをすっきりとやっつけてしまうことが困難になる。

True Knotはキャンピングカーで米国の各地を流浪している。これはキャラバンで欧州を流浪するジプシー(ロマ)のイメージに重なる。True Knotとはある種のジプシーなのか。True Knotが子供を誘拐し、拷問し、殺害するのと同様、ジプシーには「子供を誘拐する」という噂がつきまとっている。昔の話ではない。ギリシャやアイルランドでジプシーの金髪の子供が実子ではないとして警察に「保護」されたのほんの数年前のことだ。

もちろんキングにこうした意図があると言いたいわけではない。人間中心主義から少し距離を置けば、このように意地の悪い裏読みも可能ではないかとふと思っただけのこと。

2016年10月7日金曜日

Simone de Beauvoir: Tout compte fait


2016年9月23日読了
著者:Simone de Beauvoir
評価:★★★★☆
刊行:1972年

Mémoires d'une jeune fille rangéeから始まるシモーヌ・ド・ボーボワールの一連の自伝の最終巻。このあとにもサルトルの死を扱ったLa Cérémonie des adieuxが1981年に刊行されており、これも自伝の一部とみなすことができる。しかし、母親の死を扱ったUne mort très douceと並び、La Cérémonie des adieuxはいわば外伝であり、正式な自伝は Tout compte faitをもって締めくくられる。 表題どおり「すべて語り終えた」わけだ(日本語版のタイトルは『決算のとき』)。外伝も含め、これで彼女の自伝を全巻読んだ。

本書は前作のLa Force des chosesをふまえ、1963年ごろから1971年ごろまでを扱う。つまりはサルトルとボーボワールの人気が最高潮に達し、彼らの影響力が最大になった時期だ。叙述は時系列ではなく、テーマ別になっている。この間の自身の著作、読んだ本、観た演劇や映画、聴いた音楽、国内や国外の旅行、アルジェリア、ソ連、中国、チェコ、中東、ベトナム(米国の戦争犯罪を裁くラッセルの国際法廷への参加を含む)などの海外の出来事、フェミニズム、国内政治、とりわけ68年の学生運動などがそれぞれ章別に語られる。

海外旅行に関してはサルトルに同行した1966年秋の日本への旅行にも一章が割かれており、興味深い。これは日本の出版社と慶応大学に招待された講演旅行で、東京、京都、広島、長崎などを訪れている。京都にはかなり多くのページが費やされているのに対し、大阪はNous avon passé un après-midi à Osaka. Nous y avons vu un quartier populeau où beaucoup de visages nous ont semblé moroses.(私たちは大阪で午後を過ごした。人通りの多い界隈に出かけたが、そこでの人々の表情は陰鬱そうだった)とたった2行でかたづけられている。この観察は大阪にとってちょっと酷ではなかろうか。

歌舞伎にはあまり関心を示していない一方、能と文楽を高く評価している。能や文楽が創り出す「別世界」(autre monde)で表現される感情の深さとリアリティがその理由だ。「本当に死体であるような死体を劇場で見たのは初めてだ」という感想もある。

ボーボワールは旅行に先立ち、行き先となる国を徹底的に調べている。日本についても同様で、フランス語と英語で書かれた膨大な量の資料にあたっている。そうしたなかから谷崎潤一郎にも関心を持ち、京都に住んでいる谷崎未亡人と会ったりもしている。こうした徹底した勉強は優等生の彼女らしいところといえよう。ネットで2、3時間だけざっと調べてから未知の国に旅立つ私とは大きな違いだ。比較にもならない。

サルトルとボーボワールのカップルはソ連とは徐々に距離置くようになる。1968年のソ連軍のチェコ侵入はその乖離を決定的にする。他方、中国への関心は増し、文化大革命への共感も示されている。ボーボワールの名誉のために加えておくと、この共感は没批判的で全面的なものではなく、深いところでの懐疑と危惧も表明されている。

60年代後半に発生した学生反乱には、サルトルもボーボワールも積極的にコミットしていき、非合法化された彼らの機関誌の販売を助ける活動もしている。

文化大革命も学生運動もあの当時の「時の流れ」だった。「存在非拘束性」というのは確かサルトルの言葉だったように思う。「自由」は実存主義の真髄だが、その自由も社会や歴史の条件から拘束された存在としての自由であり、そうした条件に立ち向かう自由でしかない。自立と自由をなによりも重んじていた彼らも、時の流れから完全に解き放たれていたわけではななかった。ソ連の崩壊、中国の国家資本主義化の今日まで彼らが生きていたら、どう考え、どう反応するだろうか。

この最終巻は前作のような「理論的」な部分が少なく、比較的読みやすかった。随所に鋭い観察や興味深い記述もあり、ページを読み進めていくのが楽しみだった。

時代にもまれつつも、最後まで自分で考え、自分の意志で生きようとした女性の人生は今でも色あせない。

2016年5月19日木曜日

Hanya Yanagihara: A Little Life

2016年5月15日読了。
著者:Hanya Yanagihara
評価:★★★☆☆
Kindle版
刊行:2015年

著者はハワイ生まれの日系の米国人女性。ニューヨークを舞台とするこの小説に日本は出てこない。主人公たちはしばしばsushi restrauntで食事をするが、これは現在のニューヨークの日常の一風景であり、日本が意識されているわけではない。721ページの長い小説であるうえ、児童虐待や自傷行為といった暗いテーマにもかかわらず、2015年に米国でベストセラーとなった。

カレッジ時代に友人となった4人の若者のその後の人生が描かれている。4人が均等に描かれているわけではなく、実質的な主人公は孤児院に育ったJude。彼の子供時代の体験とそのトラウマが徐々に明らかになる形で物語りが進む。

読みやすい英語で書かれている。英語は私にとっては外国語だからノンストップで読めるというわけではないが、途中で挫折する心配なしに最後まで読めた。Judeが金持ちの息子の家庭教師をするエピソードがある。物語の本筋には関係のないエピソードだが、この部分を読むだけでYanagiharaのなみなみならぬ技量がわかる。

評価が星三つと厳しいのは、逆境の中でJudeが習得した並外れた知識や技能にリアリティが感じられなかったのに加え、彼を取り巻く人物の多くがtoo good to be trueであることへの違和感があったからだ。4人の友人がそろってそれぞれの分野で成功していることについても同様だ。the most depressing book I've ever readという書評も見かけたが、私にはほんとうの地獄はもっと別のところにあるように思える。

主人公と自分を一体化することはかなわなかったが、すぐに忘れ去るような作品ではない。久しぶりに小説らしい小説、どっしりと重いものを読んだ気がする。