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2019年11月20日水曜日

スペイン・ポルトガル2019 マドリード、帰国

10月21日(マドリード到着)

この旅の最後の滞在地となるマドリードでの3泊はHostal Arbol del Japonに予約しておいた。名前のとおり、これは日本人夫婦が経営するいわゆる「日本人宿」だ。この宿を選んだのは、日本人と交流したいということもあるが、トイレ・シャワー共同の個室で1泊29ユーロという安さにひかれたからだ。

グラナダ発マドリード行きのバスは定刻通り午前10時に出発し、午後3時に南バスターミナルに到着した(途中サービスエリアでドーナツとミルクコーヒーをとる)。バスターミナルから地下鉄を乗り継いでHostal Arbolに着いたのは4時前だった。

アパートの2階にあるHostal Arbolのドアを開けると、60代の日本人男性が迎えてくれる。この宿のオーナーだ。この男性の最初の言葉にびっくりした。なんと私が住んでいるところの隣町の出身だと言うではないか(私の住所は予約時に知らせてあった)。共通の知人もいる。マドリードまで来て隣近所が話題になるとは想像もしていなかった。

数年前、アルバニアのティラナのドミトリーで同郷の女性と同じ部屋になったとき以来の奇跡的な偶然だった。

Hostal Arbolは安いだけではなく、立地もよかった。最寄りの地下鉄の駅までは歩いて5分足らず、マドリードの中心ともいうべきフェルタ・デル・ソル広場までは10分ほど。宿のすぐ近くには大きなスーパーが2つあることも、レストランでの外食をできるだけ控えている私にとってはありがたい。

体を少し休めてから外に出て散策。マヨール広場まで足をのばし、宿に引き返す途中のレストランでスパニッシュ・オムレツのサンドイッチ、クロケッタ(クリームコロッケ)、ビールを注文する。私の前方のテーブルでは日本人らしき中年のカップルがパエリアを食べている。声をかけると、やはり日本人だった。6時からプラド美術館が無料になるので食事をしてから見に行くとのこと。

マヨール広場

10月22日(トレド)。

マドリード観光の目的は2つに絞っていた。ひとつは中世の面影が残るトレドを訪ねること。もうひとつはプラド美術館で名画を鑑賞することだ。旅も終盤、体も疲れているのであまり欲張らないほうがいいだろう。

今日と明日の天気予報はあまりかんばしくない。どちらも雨模様だ。今日のほうが雨の確率も低そうなので、まずトレドを訪れ、プラド美術館は明日に回すことにした。

エリプティカ広場のバスターミナルから1時間ちょっとかけてトレドに到着。快晴というわけにはいかないが、幸い雨は降っていない。

1561年に首都がマドリードに移るまで、政治・経済の中心だったトレド。旧市街はタホ川と城壁に囲まれている。

トレドもコルドバと同様、ユダヤやイスラムの影響を色濃く残しているとのことだ。小さな通りが網の目のように入り組んでいることもコルドバと同じで、グーグル・マップを使ってもどこを歩いているのか判然としない。もちろん旧市街の面積はコルドバの旧市街よりずっと小さい。

トレド

トレドの裏道

欧米の観光客に交じって東洋人の数が多いのもスペインの他の観光スポットと同じ。10人ほどの中年の東洋人のグループがトレドの風景を写生している。話し声からすると日本人らしい。尋ねてみると、大阪の絵画同好会の写生ツアーだとのこと。ただの物見遊山ではなく、写生ツアーとは文化度が高い。

13時発のバスでマドリードに帰る。バスに乗ったとたんに雨が降り出し、マドリードに到着すると止んでいた。

雨が止んだ中、午後はプレルタ・デル・ソレやサン・ミゲル市場をぶらぶらと見て回った。

10月23日(プラド美術館)

10時過ぎにプラド美術館に着いたとき雨が降り出した。チケットの購入窓口には長い行列ができている。傘をさして待つことおよそ30分、ようやくチケットを購入できた。料金は15ユーロだが、シニアシティズンである私はその半額で済んだ。

入場券購入の列(館内は写真禁止)

プラド美術館は大きい。全体の配置が頭に入るまでにかなりの時間がかかった。

エル・グレコ、ベラスケス、ゴヤなどの作品が数多く展示されている。スペインには関係なさそうなブリューゲルやボッシュの絵画もある。ゴヤにしろ、ベラスケスにしろ、よくこれだけの作品を描く時間があったものだと感心する。美術に素養のない私がこれ以上の感想を述べるのはやぼだろう。

11時ごろから3時過ぎまで4時間ほどをプラド美術館で過ごした。昼食は館内のビュフェ式のレストランでとるつもりだったが、長い列ができており、空いているテーブルもなかったのであきらめた。美術館を出ると雨は止んでいた。美術館に近いアトーチャ駅のカフェでサンドイッチとミルクコーヒーを注文し、昼食というより夕食に近い食事をとる。

スーパーで夜食用の寿司と野菜サラダを購入して宿に戻る。宿には日本の書籍や漫画を数多く収めている部屋がある。ここで同宿の男性2人と1時間ほど話す。2人とも私と同世代だ。話題はもっぱら旅行について。スペイン旅行に加え、なぜか中国旅行にも話が及ぶ。

3人とも明日チェックアウトする。宿の奥さんが3人の部屋を回っておにぎり1個を差し入れてくれた。「朝食にでも」ということだったが、作りたてで温かく、おいしそうだったので、夜食を食べたあとだったにもかかわらずすぐに食べてしまった。塩昆布とゴマを入れたおにぎりは予期したとおりおいしかった。

10月24日(帰国)。

Hostal Arbolのチェックアウトは11時で、帰国便のフライトは16時45分発。朝のうちにスーパーまで出かけて土産物を買い、11時ぎりぎりまで部屋の中で休む。

チェックアウトしてからプレルタ・デル・ソレに向かうとデモに遭遇した。コルドバのデモと同様に、打楽器を先頭とする陽気なデモだが、何を求める(あるいは何に抗議する)デモなのかよくわからなかった。「我々は不可視(invisible)ではない」とか「我々は人間であり、カタツムリではない」などのプラカードが見られたがら、おそらく貧困がテーマだったのだろうと推測している。

マドリードのデモ

マドリード→ドーハ→羽田→伊丹という帰りのフライトはけっこう体にこたえた。ドーハで5時間以上待ち、羽田で一夜を明かすという、試練のフライトだった。羽田空港は心配していたほど寒くはなかったが、ほとんど眠れなかった。ともあれ、体をこわすことなく帰国できたことを幸いとしよう。

ほじめてのスペインとはじめてのポルトガル。いくつか気付いたことを挙げておこう。

まず思ったより英語が通じなかったこと。ひとびとは概して親切だったが、道を尋ねても答えはスペイン語で返ってくることが多かった。ホテルやインフォメーションで英語が通じないこともあった。

もっとも複雑な話をするわけではないから、コミュニケーションに困った覚えはない。スペイン行きを決めてから1か月ほどあわててスペイン語を学習したこともまったく無駄というわけではなかった。

次に治安。ネットで調べると、マドリードやバルセロナ、リスボンではスリや置き引きなどの被害が頻繁に報告されている。マドリードの日本人宿の主人も「貴重品は持って出ないほがよい。できれば何も持たずに身一つで出かけることをお勧めする」と言っていた。帰りのマドリードからドーハへの飛行機で隣席だったスペイン人男性も同様の意見で、「バルセロナやマドリードは危ない」と言う。

しかし私が体験した限り、そうしたあやしい雰囲気、危険な気配はまったく感じなかった。もちろんこれはたかだか2週間余りを旅した一介の貧乏旅行者の限られた体験だから、長年現地に住んでいる人の感覚のほうがリアリティがあるだろう。最低限の注意が必要なのはそのとおりだ。しかし、物騒な情報がスペイン行き、ポルトガル行きを引き留めるようなことにはなってほしくない。

もうひとつ。外国人訪問者の日本の印象は「人は礼儀正しく、街はクリーン、電車や電車の中はすごく静か」というのが一般的なようだ。スペイン・ポルトガルについてはどうだろうか。スペインやポルトガルの街を「汚い」と思ったことは一度もなかった。路上のゴミもほとんど見かけなかった。唯一目に障ったのはスプレーでの落書きだ。この点を除けば、日本の街もスペイン・ポルトガルの街もそう変わりはない。電車や列車の中が静かなのはスペインやポルトガルでも同様だった。高速列車、地下鉄、バスの中の中はいつもシーンとしていた。

礼儀正しさはどうだろうか。レストランのウエイター/ウエイトレス、ショップの店員、バスや電車の窓口は確かに日本ほどていねいではないし、笑顔も少ない。しかしこれは必ずしも親切でないということを意味するわけではない。親切かどうか、フレンドリーかどうかは国籍ではなく個人に依存する。

辺境の探訪ではなく、観光に徹するわけでもなく、なんとも中途半端な旅だったが、大きな波乱もなく終わったことに感謝したい。

2019年11月17日日曜日

スペイン・ポルトガル2019 サフラ、セビリア、コルドバ、グラナダ

10月14日(サフラ)。

エルヴァスからバスでスペインのバダホス(Badajoz)に入る。30分もかからなかった。シェンゲン協定のおかげで、入出国審査もなければパスポートのチェックもない。どこが国境だったのかも定かでなかった。スペインからポルトガルへ空路で入国するときもノーチェックだった。

バダホスで2時間ほど待って、サフラ(Zafra)という町に向かう。セビリアまで直行する選択肢もあるが、あまり有名でないスペインの町も見ておきたいので途中のサフラで1泊することにした。

「あまり有名でない」といっても、サフラも「地球の歩き方」に1ページが割かれている、それなりに由緒のある町だ。アンダルシアに近いが、アンダルシアには属していない。

バスターミナルから町の中心までは15分ほど。「地球の歩き方」に載っているHotel Victoriaを目指す。予約はしていないが、部屋は空いていた。バス・トイレ付きで25ユーロ。バスタブもあるホテルとしては破格の値段だ。受付は英語をしゃべれなかったが、1泊するだけの交渉だから問題はない。

宿で体を休めてから5時ごろに外に出ると、雨が降り出した。今回の旅ではじめての雨。それほど強い雨ではないが、傘は必要だった。雨のせいもあるが、サフラの印象はくすんでいる。ガイドブックには「アンダルシア地方に近づいてきたことがはっきりわかる」とあるが、バルセロナしか知らない身としては何とも言えない。覚えているのは、パラドールが立派だったっこと。夕食のパンと飲み物を求めて立ち寄ってミニマーケットがいずれも中国人の経営だったこと。バーに立ち寄って「コミーダ(食事)」を求めたが、「コミーダはもっと遅くなってからだ」と言われたことくらいか。観光客らしき姿はほとんど見かけなかった。雨は夜になってやんだ。

サフラ

10月15~16日(セビリア)

いよいよアンダルシアに入る。サフラからバスで2時間ほどのセビリアは、アンダルシアの州都であり、アンダルシア最大の都市でもある。フラメンコや闘牛、イスラム文化の影響などでも有名だが、私の知識はかろうじて「セビリア」という名前に馴染みがある程度。

昼ごろにかなり大きいバス・ステーションに着き、街の中心であるカテドラルの方向に歩く。「地球の歩き方」に掲載されているHotel Nuevo Suizoに行くためだ。ここも予約はしていなかったが、部屋は空いていた。2泊で136ユーロ。朝食付きだが、これまででいちばん高い部屋だ。紅茶とコーヒーは無料。キッチンにある冷蔵庫も利用できる。

宿からカテドラルは歩いて10分ほど。カテドラルの近くのバーで遅めの昼食をとる。生ヒールとタパス(つまみ)3品で20ユーロほどと、観光地値段だった。

カテドラルから少し離れたところにある闘牛場に通りかかる。闘牛をやっている時間帯ではない。場内に入るにも入場料がかかる。そのまま素通りした。

フラメンコのライブを見られるレストランも数多くあるようだが、ファドと同様、開演時間が遅すぎた。フラメンコ舞踏博物館のフラメンコショーは夜の7時開演だが、今日の公演はすべて売り切れになっていた。ファドと事情は似ている。「遅くなるから見ない」というのは、要するにフラメンコに対する私の関心がそれほど強くなかったということだろう。ストリートパフォーマンスでフラメンコを踊っているのを見て満足してしまった。

路上のフラメンコ

フラメンコや闘牛にもふれず、アンダルシア料理を味わうこともない。セビリアというアンダルシア随一の観光スポットを訪れたにもかかわらず、観光にも徹することができない。なんとも中途半端だ。今回の私のスペイン・ポルトガル旅行を象徴するような流れだった。

セビリアのカテドラル

16日にはホテルで毛布を1枚追加してもらった。前日の明け方かなり寒い思いをしたからだ。7日にバルセロナに着いたときには、宿に戻るとすぐにエアコンをオンにするほどの暑さだった。いつの間にかスペインでも秋が深まっていた。

10月17~18日(コルドバ)

セルビアからバスでおよそ2時間かけコルドバへ向かう。セルビアほど大きくはないが、コルドバもよく知られた観光地だ。「コルドバはレコンキスタと縁が深く、メスキータ(スペイン語でモスクを意味する)とその北に広がる旧ユダヤ人街が観光の中心となっている」とはあとから得た知識で、セルビア同様、耳に馴染みのある名前だから訪れたというのが正直なところだ。

コルドバではドミトリーに宿泊するつもりだった。本来私は、通常のホテルよりもドミトリー形式のホステルのほうが好みだ。宿泊費の節約はもとより、ホステルなら他の旅行者とふれあい、情報を交換することができる。通常のホテルではこうした機会はまず与えられない。

ホステルの難点はプライバシーが大きく制限されること。若いころならともかく、年齢を重ねた今となっては体力的にも厳しい。上段のベッドの場合は特にそうだ。

ともあれコルドバで1度ドミトリーを試してみよう。そのメリットとデメリットを秤に掛け、メリットが上回りそうなら次の目的地のグラナダでもドミトリーを選びたい。

ということでHostel Osioというドミトリーに2泊した。旧ユダヤ人街の近く(というよりその一角)にある宿だ。2泊で36ユーロだっただろうか、確かでない。

6つのベッドがある部屋。17日は私のほかにはペルー人の若いカップル。18日にはこれにイタリアのジェノバから来た男性が加わる。ペルー人カップルはマドリードに留学中で、週末にスペイン各地を旅行しているとのことだった。

チェックインして体を休めているとき、ちょうどチェックアウトして出て行こうしている東洋人風の若い男性を見かけた。香港から来た学生だ。彼も私も時間に余裕があったので、中庭に座って小一時間話す。

話題はおのずから香港の民主化運動に。彼は運動には参加していないが、支持はしているという。彼の中国批判に応えて、心ならずも私が中国を擁護するはめになる。「多くの問題を抱えていることは確かだが、この50年の間に中国が進歩し、豊かになったことは否定できない。50年前には50歳だった平均寿命が今では80歳にまで延びた」と言う私に対し、「しかし今の中国は昔の中国より不幸だ。幸福な50年の人生を送るのと、不幸な状態で80歳まで生きるのとどちらがよいか」と切り返してくる。

あえて反論はしなかった。豊かさには客観的な指標があるが、幸不幸を測る物差しはない。それに大躍進や文化大革命の時代の中国が今の中国より幸福かどうかについては疑問が残る。

このほか、香港の英語教育、彼の大阪・京都旅行、四川省の観光スポットなどに話が及び、楽しい時間を過ごすことができた。

17日と18日の両日でコルドバをあますことなく探訪した...とはいかず、ただぶらぶらと歩いただけだった。見る人が見れば、ユダヤ人街の痕跡をたどり、イスラム文化の影響に気付くこともあるのだろうが、私には無縁だった。昨年イスラエルを訪れ、スペインを追われ東欧に逃れたユダヤ人の末裔であるエリアス・カネッティの作品を読んでいる私にとってレコンキスタは無縁であるはずがないのだが、もったいないことだ。

コルドバ

どちらの日も昼食だけをレストランでとり、朝食と夕食はスーパーで購入したパンや総菜、飲み物でまかなった。節約のためだ。ホステルにはキッチンがあり、食器や冷蔵庫を利用できるのはありがたかった。

17日の昼食はレストランのセットメニューで12.5ユーロ、18日は8ユーロのハンバーガーと1.5ユーロのコーラ。このハンバーガーが感動的においしかった。「こんなうまいものがあったのか」という思い。ハンバーガーの味に感動するとは、みずからの食生活の貧しさの証ではないか。少し恥ずかしい。

感動のハンバーガー

さてドミトリーの泊まり心地はどうだっただろうか。正直なところ、リラックスからはほど遠かった。同部屋だったペルー人のカップルもイタリア人もいたって行儀がよく、フレンドリーだったが、それでも気を遣う。女性がいる場合は特にそうだ。次のグラナダでは無理をせずにホテルを選ぶことにする。

10月19日~20日(グラナダ)

グラナダまではスペインの高速鉄道AVEで行った。バスのほうがはるかに安いのだが、スペインの新幹線を体験したかったからだ。

8時ごろにホステルを出て駅へ向かうが、外はまだ暗い。この時期のスペインは日が明けるが8時半ごろ、日が暮れるのも遅く夜の8時過ぎだった。不思議だったが、何のことはない。まだ夏時間だったのだ。10月の最終土曜日に冬時間に切り替わるらしい。

9時17分発のグラナダ行きのAVEは少し遅れて出発した。1時間40分ほどかけてグラナダに到着。

スペインの高速列車(AVE)

グラナダ駅で日本人の男性と遭遇する。マドリードからの日帰り旅行でグラナダにやって来たところ。一緒に街の中心まで歩く。彼はそのままアルハンブラ宮殿に向かい、私はカテドラルの近くで宿を探す。

最初にあたったペンションはフルだった。そのあとも、またそのあとも同様。今日は土曜日だ。予約していないとこういうことも起こりうる。

フルだった3軒目の宿で「近くにPension Sevillaというのがあるから行ってみたらどうか」と教えられた。

このPension Sevillaでやっと空き部屋が見つかった。シャワー・トイレ共同の個室が2泊で70ユーロ。まだ部屋のクリーニングが終わっていないということで、バックパックを部屋に置いていったん街に出る。

カテドラルからメインストリートを散策し、昼食をすます。2、3時間たったところで宿に戻ろうとしたのはよいが、ここだと思った場所にPension Sevillaがない。両隣の通りや近辺をあたってみるが見つからない。宿を出るときに位置をちゃんと確かめておかなかった失敗。幸いペンションの名前は覚えていたのでグーグル・マップで検索するが出てこない。あれこれ1時間以上探し回った。さすがに焦った。お金は支払っていないが、荷物は宿に置いてあるから、別の宿にすることもできない。

やむなく近辺のちょっと大きめのホテルに入り、恥を忍んで「道に迷っている。Pension Sevillaはどこだろうか」と尋ねて事なきを得た。Pension Sevillaにたどり着いたときには心底ホッとしたものだ。

アルハンブラ宮殿に行ったのは次の日だ。チケットを購入していないから、外から見たのにとどまる。チケットはかなり前からオンラインで予約していない限り入手できないようだ。

アルハンブラ宮殿

19日の昼食はアルハンブラ宮殿のふもとのレストランでとった。パエリアとサングリア(フルーツ入りの赤ワイン)で19ユーロ。パエリアはポルトガルや西サハラで食べたことはあるが、本場スペインでははじめてだ。味のほうは「まあ一度食べればいいか」という程度。サングリアも同様だった。

メインストリートでデモを目撃した。結構数が多い。千人くらいはいただろうか。MalagaやSevilliaと書いたプラカードも見られたので、おそらくアンダルシア一帯から集結しているのだろう。先頭の隊列は打楽器を奏でている。派手で陽気なデモだ。道行く人に聞いて見ると、医療問題への抗議(?)のデモらしい。

デモに遭遇

明日はマドリードに向かう。列車は1日に4本しかなく、朝の7時すぎを逃すと、午後3時になってしまう。

バスなら本数も多く、値段も安い。バスの時刻表とバスターミナルの位置を知るためにツーリスト・オフィスに入った。予期したとおりマドリード行きのバスは何本もある。10時発のバスで行くことにした。5時間かかる。バスで5時間なら高速列車なら1~2時間で行けそうなはずだが、4時間もかかる。ツーリスト・オフィスの男性職員の説明によると、マドリード行きの高速列車はセビリアのほうに迂回するためだという。時間がそう変わらず、値段が何倍もするなら、列車という選択肢はない。

2019年11月10日日曜日

スペイン・ポルトガル2019 リスボン、エヴォラ、エルヴァス

10月9~11日(リスボン)。

バルセロナから一挙にリスボンまで飛んだのは、航空運賃が940円と安かったからだ。ただし、この安さは見かけで、燃費サーチャージ、税金、手数料などを加算すると、9000円強になった。

10時25分発のTAPポルトガル航空機は11時20分にリスボン空港に到着した。1時間にも満たないフライト時間...ではない。スペインとポルトガルの間には1時間の時差があり、実際のフライト時間は2時間ほど。機内では簡単なサンドイッチも提供された。

まず空港にあるVodafoneのショップでSimカードを入手した。通話機能なしのデータ通信のみのカード。30日間有効で通信量は5GB、値段は40ユーロ。5GBは多すぎた。節約しながら使ったこともあるが、2週間後の帰国日の時点で消費したのは1GBにも満たなかった。

次にインフォメーションでリスボンの地図を入手し、72時間有効のリスボン・カードを購入した。地下鉄、市電、バス、ケーブルカー、エレベーター(!)などが乗り放題になるカードで40ユーロ。私の観光は「歩く」が基本だから、3日間の滞在で40ユーロを回収するほどに利用したかどうかは疑問だが、いちいち料金を支払う手間を省けたからよしとしておこう。

リスボンには3泊する予定で、Lisbon Styleというゲストハウスを予約していた。3泊で170ユーロ。シャワー・トイレ・テレビ付きだが、バルセロナの宿と同様、非常に狭かった。

リスボンは坂が多い。その坂を路面電車やケーブルカーが往き来する。旅心をそそる風景だが、細い道が網の目のように入り組んでいる中を効率よく回るのは容易でない。地下鉄ロシオ駅から海辺のコルメシロオ広場に抜けるいくつかの通りや海岸沿いの道路はわかりやすいが、そこから少しはずれると、どこを歩いているのか判然としなくなる。もっとも、グーグル・マップに頼っても道に迷ってしまう私の方向感覚のなさのほうが問題かもしれないが。

リスボン

リスボンの裏通り

10月9日から11日にかけ、サン・ジュルジェ城、カテドラル、サンタ・ジュスタ展望台、リベイラ市場などをめざし、リスボンの中心部を歩く。バルセロナ同様、どこも観光客であふれている。中国人、韓国人、日本人が目につくのも同じ。

ロシオ駅とコルメシロオ広場をつなぐアウグスタ通りの観光客向けのレストランで、中国人らしきウエイトレスに声をかけられ昼食をとったときのこと。ウエイトレスに「中国から来たのか」と尋ねると、「インド」との返事。「よく中国人と間違われるが、インドのだダージリン出身だ」と言う。色が白く、インド人には見えない。ダージリンにはこうした我々に似た人々が住んでいるのだろうか。

サンタ・ジュスタ展望台に上がるエレベーターの前には長い行列ができていた。私のうしろには中年の東洋人男性。かぶっているキャップの横にnissanのロゴが見える。しかし日本人ではなく台湾人だった。生かじりの中国語を試してみる。「台湾には2度行ったことがある」と中国語で伝えたところ問題なく通じる。ちょっとうれしい。が、そのあと中国語で会話を続けられてさっぱり理解できなかったことであえなく馬脚を現した。男性は今度は日本語で「ひとりで旅行しているのですか」と聞いてくる。あきらかに彼の日本語のほうが私の中国語よりも上だった。

ポルトガルの音楽といえばファドだ。「ポルトガルの演歌」ともいわれるファドを聞かせる劇場やレストランはリスボンに数多くある。しかしそのほとんどが夜遅くの開演。早くても19時半から21時まで。夜の9時といえば私がもう就寝している時間。そんななか、ロシオ駅の近くに夕方5時から6時までファドのライブをやるレストランを見つけた。

このレストランでファドを鑑賞した。ドリンクとつまみ付きで19ユーロ。少し年期の入った男女の歌手が美声を聞かせてくれた。もともとファドは私の好きなジャンルの音楽ではないが、本場のポルトガルで生で体験できたのはありがたい。

ファドを聴く

リスボンのあとでどこを目指すかで少し迷った。これはスペインをメインにするかポルトガルをメインにするかの迷いだ。ポルトガルをメインにするなら北上してナザレ、コインブラを経由してポルトに至り、ポルトからマドリードに抜けるルートになる。

スペインに重点を置くなら、リスボンから東に進み、スペインを南下してアンダルシアを巡ってからマドリードに行くルートになる。

ポルトガルも捨てがたいが、今回の旅の動機のひとつはアンダルシアへの関心だった。リスボンの東、バスで1時間半のエヴォラで1泊し、さらにスペインとの国境に近いエルヴァスで1泊してスペインに入ることにした。

10月12日(エヴォラ)。

リスボンからバスで11時過ぎにエヴォラに着いた。宿は前日にBooking.comでゲストハウス予約していた。レビューの評価がよかったからだ。ところが、エヴォラ行きのバスの中でBooking.com経由で送られてきたゲストハウスのメッセージを見て驚いた。「チェックインは4時から。それまで荷物はツーリスト・オフィスにあずけておくことができる」とのこと。予約する時点でそういう注意書きがあったのかもしれないが、私は気付かなかった。

宿で体を休めてから街歩きしたいところだが、しかたがない。ツーリスト・オフィスにバックパックを預けてから街を一回り、昼食をとり、カフェで休み、ようやく4時になったのでチェックインした。これ以降、最後のマドリードでの3泊を除き、宿はそのつど現地に着いてから探すことにした。私のように行き当たりばったりの旅をしている場合、事前の予約は自由の制約にしかならない。宿を予約していなければいつでも予定を変更できる。

エヴォラは歴史のある町で、古くは日本の天正遣欧少年使節も訪れたことがあるらしい。バルセロナやリスボン同様、観光客が多い。正直なところ「教会や広場を中心とする旧市街」を多くの観光客に交じってぞろぞろと歩くのにはあきていた。ほんとうに見たいのはポルトガルの日常の生活であり、農村の風景だ。

エヴォラ

エヴォラの裏道

今後の行程を考える。ここからスペインに入るには、国境の町エルヴァスでバスを乗り換えればいい。かかる時間もせいぜい2、3時間だろう。ひょっとすればエヴォラから直接にスペインに行くバスが出ているかもしれない。しかしたった4泊でポルトガルを去るのも心残りだ。エルヴァスで1泊してからスペインを目指そう。

10月13日(エルヴァス)。

エヴォラからエルヴァスまではバスで1時間半ほど。昼過ぎにエルヴァスに着く。エルヴァスは城壁に囲まれた町だ。バスの停留所は城壁の外にある。停留所から城壁までは歩いて10分ほど。

まず宿を探す必要がある。「どこへ行きたいのか」と声をかけてくれた男性に「ホテル」と答える。男性が指さす方向に少し歩くとホテルが見つかった。相手はすべてスペイン語だが、単純なことなので十分にコミュニケーションは可能だ。

Hotel São João de Deus。トイレ・バス・テレビ・朝食付きで1泊50ユーロ。修道院を改修してつくられたいいホテルだった。バスタブがあり、朝食も充実していた。Booking.comでは同じ部屋が55ユーロとなっている。予約サイトを利用しないことのメリットのひとつが値段だ。

エルヴァスは観光客も少なく、落ち着いていた。惜しむらくは日曜日ということもあり、多くの店が閉まっていたこと。もう1泊してじっくりと探索すべきだったかもしれない。夕食はホテル近くの小さなスーバーで購入したパンと牛乳で済ませた。
明日は再度のスペイン入りだ。

エルヴァス

エルヴァスの裏道


2019年11月5日火曜日

スペイン・ポルトガル2019 バルセロナ

10月6日から26日にかけスペインとポルトガルを訪れた。20泊の長旅だが、このうち3泊は機中泊と空港泊だから、実質的には17泊と18日だ。それでも私としてはかなり長い行程の旅になる。

スペインとポルトガルを選んだのは、いずれもまだ訪れていない国という単純な理由からだ。それに加え、数年前にロンドンで遭遇したアンダルシア出身のスペイン女性が「アンダルシアはスペインの中でもっとも貧しく、失業率もいちばん高い。しかし人々の心の温かさでは随一だ」と語っていたことが心に残り、アンダルシアに興味があったこと。また、世界を旅していてもっとも気楽に接することのできるのが、スペイン人や中南米人だったことも大きい。せっかく高い航空運賃を出してスペインへ行くなら、そのすぐ隣のポルトガルまで足をのばしたい。

今回の旅は「辺境」への旅とは言いがたい。もちろんスペインやポルトガルにも辺境もあれば秘境もあるだろうが、私のたどったのは名の知れた観光地に限られる。そのうえ18日間の旅を思い出しながら一日一日記録するのはめんどうだ。といってブログに記録しておかなければ、記憶の中からも消え去ってしまいかねない。ということで、これまでの形式から外れ、ともかく旅の概略だけを記述しておき、備忘録としたい。

10月6~7日。

6日19時半に伊丹空港を発ったカタール航空機は羽田とドーハを経由して翌日7日の午後2時過ぎにバルセロナ国際空港に到着した。鉄道と地下鉄を乗り継ぎ、予約していた宿(Hostal Delfos)までたどり着いた。2泊で90ユーロ。シャワー・トイレ・テレビ付きだが、部屋はシングルベッド1つで非常に狭い。チェックインのとき受付に座っていたおばさんはムツッとしており第一印象はよくなかったが、あとあと顔を合わせるたびに笑顔で接してくれた。

ひとつ予想外のことが発生した。スペインやポルトガルをはじめヨーロッパの多くの国で使えるSimカードをアマゾンで購入し、日本でセットアップしておいたのだが、スペインに到着してからネットにつながらない。「あなたのクレジットはすでにすべて使われている」という英文のメッセージが出るだけ。日本ではセットアップしただけで、当該のスマホはずっとオフにしていたので納得はいかない。しかし1000円のカード(データ通信量1G)でジタバタするのも時間と労力の無駄だ。バルセロナでは宿やレストランののWifiを利用し、路上の道案内はMap.meのアプリにまかせることにした。

宿で体を休めてから、街に出る。宿から中心部のカタルーニャ広場までは歩いて10分ほど。6時ごろにバーのテラス席でタパス(スナック)3品と生ビールで夕食代わりとした。タパスは生ハム、ムール貝、ポテト。これで20ユーロほどと安くはない。おいしかったが、このおいしさの実体は味の「濃さ」、特に塩味にあるように感じた。

スペインではじめての食事

伊丹→羽田→ドーハ→バルセロナと26時間に及ぶ移動でこの日はともかく疲れていた。夜の8時ごろには寝入っていただろう。

10月8日。

9時過ぎに宿を出て小一時間歩き、サクラダファミリアに行く。途中カフェに立ち寄りパンとコーヒーで朝食。予想通りサクラダファミリアの前は観光客でいっぱいだった。欧米の観光客が多数派だが、中国、日本、韓国からの観光客も負けてはいない。チケット売り場もあったが、中に入る気ははじめからなかった。外から見たその偉容(異様?)だけで十分だ。

サクラダファミリアの前の観光客

ぶらぶらと歩いてカタルーニャ広場まで戻る。広場の近くにあるスーパーのカルフールで昼食用の寿司(14ユーロ強)と夕食用の菓子パン、生ハム、チーズ、牛乳を仕入れ、宿に帰る。

寿司はまずまずだったが、粘り気のないぱさぱさしたライスが悔やまれる。これは外国の寿司に共通の弱点だ。

午後はカタルーニャ広場からコロンブスの塔がある海岸まで、ランプラス通りを散策した。途中で立ち寄ったサン・ジュセップ市場は人であふれ、活気に満ちていた。カウンター席の食事処もたくさんあり、新鮮なエビやタコ、カキを味わうことができる。値は結構張りそうだ。

サン・ジュセップ市場

正確な時刻は覚えていないが、この日もかなり早く寝入ってしまった。
はじめのスペイン。バルセロナでの実質1日半の観光。このおよそ一週間後にはカタルーニャ独立の活動家に対する実刑判決をきっかけに激しい抗議デモが展開され、バルセロナは麻痺状態になる。ただの1ツーリストの目にはこれを予測させるような兆候は皆無だった。カタルーニャのdistinctiv identityを示唆したのは、バルセロナ空港のサインがスペイン語と英語に加え、カタルーニャ語でも表記されていたことくらいだ。

明日は朝10時25分発のTAPポルトガル航空便で一挙にポルトガルのリスボンへ飛ぶ。

2019年8月11日日曜日

沖縄戦跡巡り2019 七日目(旅の終わり)

7月22日。

9時過ぎにホテルをチェックアウトし、県庁前駅から那覇空港駅に向かう。

セキュリティ・チェックを通過して、出発ロビーで11時50分発の関空行きを待つ。隣の搭乗ゲートからは11時55分発の成田行きが出る。

隣に座っていた高齢で髭面の男性が私に何か質問してきた。飛行機の運航に関する質問だったが、どんな内容かは忘れてしまった。

ともあれ、それがきっかけで男性と少し話す。成田から神奈川へ行くのだが、息子と会うために成田空港で8時間待たなければならないとのこと。話がよく飲み込めなかったので、少し立ち入って尋ねてみると、息子はアルゼンチンからやって来ることが判明した。息子はアルゼンチンで生まれ育っているが、アルゼンチンでは仕事がなく、働くために来日するらしい。男性自身は沖縄生まれらしく、つまりはアルゼンチンの日系1世ということになる。

アルゼンチンの経済状況はかんばしくなく、そのため治安も悪化しているという。男性の知り合いの家では2度泥棒に入られたとか。

ずっと以前にあるアルゼンチン人から「日系にはクリーニング業が多い」と聞いたことがあるが、これはもう過去のことらしい。

搭乗の時間になった。私の周囲の席は7、8人の外国人で占められていた。中南米風の一団だ。隣に座っている若い男性に「ブラジル?」と尋ねると、「ペルー」との返事。滋賀県守山市の工場で働いてるらしい。

男性は小学4年まで日本で過ごし、その後ペルーに帰って5年、再度日本に来たという。もちろん日本語はしゃべれるし、顔つきも日本の血が混じっているようだった。その横の若い女性は100%中南米で日本語も話せなかった。台風にもかかわらず「沖縄はすごくよかった」とのことでなによりだ。

沖縄戦跡巡りはこのようにして終わった。

米軍上陸から戦後までを時系列的に巡ったわけではないし、重要な戦跡を網羅できたわけでもない。明確な視点や計画もなしに、目に付いた戦跡、アクセスしやすい場所をランダムに訪れたにすぎない。せっかく訪れた戦跡についても、深く探ることなく、多くを見落としている。前田高地とシュガーローフをカバーしたものの、嘉数高地は抜けている。伊江島に行けなかったことも大きい。

しかし、はじめての沖縄で、しかも台風の影響を受けたことも考慮すると、満点からはほど遠いにしろ、自分なりに合格点は得られたように思う。もとより1回の旅で戦跡巡りが完結するわけではない。今回の旅は出発点にすぎない。ある程度の土地勘を得た今、もっと深くもっと広く戦跡を探る旅を実現したい。

この記事のタイトルを考えていたとき、すぐ頭に浮かんだのは「帰国」という言葉だった。このほうが座りがよいこともあるが、沖縄旅行は半分くらい海外旅行だった。航空機による旅ということがひとつ。未知の土地というファクターもある。

もうひとつ、外国人の多さだ。たとえば中国人観光客。実際には日本人観光客よりはるかに少ない数だろうが、その存在感は日本人を圧倒する。コンビニ、ホテル、レストランの従業員にも外国人が多かった。東京や大阪も同じような状態かもしれないが、地方都市としては際だった外国人比率だ。若い白人男性がレストランの呼び込みをやっているのにはびっくりした。

次は沖縄本島だけでなく、伊江島、久米島、慶良間諸島にまで足をのばしたい。台風のシーズンは避けたほうが無難だろう。

国際通り

2019年8月10日土曜日

沖縄戦跡巡り2019 六日目(海軍司令壕、対馬丸記念館、首里城)

7月21日。

沖縄最後の1日。午前中に海軍司令部壕を訪問し、午後には首里城の中を見学することにした。時間があったら、対馬丸記念館にも行ってみたい。

海軍司令部壕はゆいレールの奥武山(おうのやま)駅と小録(ころく)駅のどちらからでも徒歩で30分程度で行くことができる。沖縄戦でよく名前の出てるのは小録のほうだが、今回は奥武山公園からのルートを選んだ。このほうが若干近いからだ。

9時過ぎにホテルを出て、県庁前駅でゆいレールに乗り、奥武山公園駅で降りる。昨日までとは異なり、今日は青空が見える。奥武山公園は運動公園であり、陸上競技場、サッカーやテニスの施設、球技場などがある。今日は何かの大会があるのだろうか。駅には「混雑が予想されますので、帰りの切符は今のうちに買っておいてください」という掲示があった。

駅前の小広場には「島田叡氏顕彰碑」なるモニュメントがある。島田氏は戦争当時の沖縄県知事だ。戦火の中、住民保護に力をつくし、「生きろ」という言葉を残して亡くなった(遺体は発見されていない)島田知事は沖縄県民から今も慕われている。昨日のタクシー運転手も島田知事に対しては好意的だった。

島田叡氏顕彰碑

駅から海軍壕公園に向かって歩く。奥武山は那覇市だが、海軍壕公園は豊見城市になる。汗が少しにじむほどよい暑さの中、30分ほどで到着。内部をまったく見ることができない第32軍司令部壕とは対照的に、海軍司令部壕は1970年に復元され、一般に公開されている。

入場料は440円。沖縄戦の写真が展示されている部屋を出発点に壕の中に入っていく。日曜ということもあるのか、見学者もそこそこ多い。大田少将以下6名が6月13日に自決した部屋が生々しい。自決に使った手榴弾の跡がいくつも壁に残っている。大田少将は自決にあたり海軍次官充てに「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という電報を送っている。

海軍司令部壕

大田少将自決の部屋

さらに司令官室や作戦室などを見て回り、壕の中で30分あまりを過ごす。

司令官室

壕の外へ出る。まだ11時にもなっていない。このまま対馬丸記念館に行こう。対馬丸記念館は県庁前駅から10数分歩く。海軍壕公園から奥武山駅まで30分、さらに県庁前駅から対馬丸記念館まで10数分。これは歩くよりタクシーだ。奥武山駅の方向に歩きながらタクシーを拾おうとするが、なかなかやって来ない。結局駅まで歩いた。

県庁前駅でゆいレールを降り、対馬丸記念館に向かう。途中、「福州園」なる中国風の建物が目に入る。あとで調べると、那覇市と福州市の友好都市10周年を記念して1992年に開園した中国庭園らしい。入口付近には何人かの中国人観光客が写真を撮っていた。

福州園

福州園からさらに少し歩いて対馬丸記念館に着く。対馬丸は沖縄から九州に向けて疎開する学童を乗せて航行中に米海軍の攻撃を受けて沈没した。米軍が沖縄に上陸する前年の1944年8月22日のこと。1484名が犠牲になり、そのうち780名が児童だった。

対馬丸記念館

500円の入館料を払って中へ入る。建物自体が大きくなく、展示も小規模だ。戦中の小学校の教科書、制服、子供用の防空頭巾、対馬丸船内の2段ベッドのレプリカなど。壁面には犠牲者の写真と氏名が貼り出されている。幼子を抱えた若い母親も何組か。館内の写真は自由だが、犠牲者の写真は遠慮してくれとのことだった。

復元された2段ベッド

小学生の国民服

小さな記念館だが、定期的に会報を出すなど、各種の活動を精力的に続けているようだ。スケジュールが合えば、生存者・関係者(語り部)の話を聴く機会もある。

対馬丸記念館からホテルまで徒歩で帰った。途中、ファミリーマートでで弁当(ゴーヤチャンプルー)を購入。ここの男性店員もネパール人のようだったが、話しかけることはしなかった。

1時から3時過ぎまでホテルの部屋で休んでから、ゆいレールで首里に向かう。初日に外から見た首里城の中を見学するためだ。820円でチケットを購入し、脱いだ靴をプラスチック袋に入れて城内に入る。外も内も朱色を基調とした城だ。

首里城

琉球国は1429年から1879年の琉球処分まで存続した王国だ。正直なところ琉球国に対する私の興味は薄く、知識もほとんどない。中国と日本に挟まれたこの小国の歴史にまで興味が出てくれば、今後の沖縄訪問にも一段の深みが加わるはずだ。城内の絵巻物やその他の展示物を見ると、琉球の外交に歌舞が大きくかかわっているように思えた。軍事では隣の両大国に対抗できないことの結果なのか、それとも琉球の文化の核に歌舞があったのか。

第32軍司令部壕を再度目に収めてから首里城を後にした。

首里駅からゆいレールに乗り、牧志駅で降りる。牧志から国際通りに入ったところにある居酒屋に立ち寄るためだ。昨日確かめておいた居酒屋だ。ねらいはラフテー。ラフテーとは豚の角煮の沖縄バージョンをいう。2日目にバスターミナル付近で食べた沖縄そばにのっていた豚の角煮のとろけるような味が忘れられない。たぶんラフテーだったのだろう。もう一度食べたいと思いながら、最終日の今日になってしまった。

まだ6時ということあり、私が店に入ったときには他に客はいなかった。生ビールの中にラフテー、フーチャンプルー、ミニタコライスを注文する。沖縄の味の勢揃いだ。総額2000円ちょっと。

沖縄最後の夕食

ラフテーはもちろん、フーチャンプルーも予想外においしかった。フーとは麩のことである。タコライスは期待外れ。私には辛すぎた。タコライスのタコとは蛸のことだと誤解していたのだ。蛸ではなくタコスのことだった。

昨日同様、国際通りから美栄橋駅に出て、ホテルに戻る。明日は那覇空港11時50分発のJetstar便で沖縄を離れる。


 

2019年8月7日水曜日

沖縄戦跡巡り2019 五日目(前田高地、シュガーローフ)

7月20日。

今日はまず前田高地を見ることにしていた。1945年4月22日から5月7日にかけての激戦の現場だ。前田高地の陥落によって米軍はさらに一歩首里に近づいた。

前田高地は浦添城跡にある。前田高地とは浦添城跡のことであると言ってもいいかもしれない。那覇バスターミナルから浦添城跡へ行くルートをネットで調べると、浅野浦というバス停から徒歩で13分とあった(実際には浦添城跡にもっと近いバス停があるのだが、見逃していた)。

那覇バスターミナルから路線バスに乗っておよそ30分、浅野浦に着いた。例によって右往左往し、13分よりはるかに長い時間をかけ、小高い丘にある浦添城跡にたどり着いた。

前田高地は2017年のアメリカ映画「ハクソー・リッジ(Hacksaw Ridge)」の舞台になった。このため、外国人観光客なども訪れるスポットとなっているとのことだった。だが、土曜日の朝11時ごろの浦添城跡には私以外の観光客はいなかった。ときおり網を持つ2、3人の子供たちや親子連れに出会う。蝉を捕っているのだろう。

ところどころに城の石垣の跡が残っている。浦添の町を一望できる崖の上に「ハクソー・リッジ」の立て看板があり、日本語と英語で前田高地を説明している。米軍はこの急な崖を登って日本軍と戦った。

城壁の跡

ハクソー・リッジ

木々の中を入り、小さな階段を降りると、前田高地平和之碑が鎮座している。「北海道知事 堂垣内尚弘 書」とある。ここで戦った志村大隊には北海道出身者が多かったためだ。石壁には戦死者の氏名が刻まれている。

前田高地平和之碑

前田高地のランドマークともいえるのがにょきっと立つ為朝岩だが、このときはその存在を知らなかった。米軍からはニードルロックと呼ばれたこの岩、きっと目には入っていたのだろうけど、意識にはまったく入っていなかった。

城跡の近くに浦添ようどれがある。琉球王国の墓らしい。入口は閉まっており、立入禁止となっている。

浦添ようどれ

那覇へ戻るために、丘を降り、バス停を探す。雨が降り出してきた。小雨だが、屋根のない停留場でバスを待つのはやっかいだ。やっと見つけたバス停。時刻板に書いてある時間になってもバスは来ない。10分待っても20分待っても来ない。雨は続く。

しかたなくタクシーで帰ることにした。乗車してしばらくすると、「お客さんは内地からですか」と運転手が声をかけてくる(「本土」ではなく「内地」だっと思うが、100%確かではない)。

「そうだ」と答え、戦跡巡りをしていること、前田高地を見た帰りであることを告げる。これをきっかけに運転手と沖縄戦についてしばし話す。

運転手は5、60代。南風原町の出身とのこと。歴史に興味があり、彼自身ツアーなどに参加して戦争の跡をたどっているという。話題は渡嘉敷島(とかしきじま)での赤松大尉、久米島での鹿山兵曹長の所業に及ぶ。鹿山が戦後みずからの行為を正当化して、のうのうと生きていた(徳島で農協の役員となったということだ)ことなども。沖縄で3人の米軍捕虜を殺害した日本軍兵士は戦犯として処刑されている。しかし、20人を超える鹿山の犠牲者は米国人ではないので、米国によって裁かれることはなく、日本からのお咎めも受けていない。不合理このうえない。

浦添からホテルブライオンまで、20分余りの道のりで、代金は1810円だった。2000円を支払ってタクシーを降り、コンビニで昼食を購入してからホテルに戻った。2時近くになっていた。

午後の目的地はシュガーローフ。5月12日から18日にかけてのシュガーローフの戦いが日本軍の首里撤退を決定的にした。シュガーローフとは米国側の呼称で、日本的には安里52高地だ。

たっぷり休息をとり、4時近くになってからホテルを出た。シュガーローフは那覇の新都心「おもろまち」にある。美栄橋駅からゆいレールに乗り、3駅先のおもろまち駅で降りる。

おもろまちは高いビルが建ち並ぶファッショナブルな街だ。大通りを少し行くと、交差点で参議院選挙のキャンペーンに遭遇した。そういえば明日は投票日だ。「最後のお願い」のためにある候補者の陣営が総結集している。運動員は多いが、足を止める有権者はそう多くない。

選挙戦最終日

シュガーローフは駅から歩いて5分もかからない。すぐに見つかった。小さな丘の石段を上がる。シュガーローフの戦いを日本語と英語で説明する石盤と塔婆が2本。これ以外に何も見あたらない。1週間の間に11回も攻守が逆転した激戦の地にしては実にあっけない。

シュガーローフへの階段

シュガーローフの記念碑

おもろまちからホテルまでゆいレールを利用せずに歩いて帰った。おもろまちから安里、安里から牧志に出て、国際通りに入る。ドンキホーテに立ち寄って土産物のお菓子を購入し、美栄橋を経由してホテルに至る。1時間以上はかかっただろう。

夕食はホテルの近くの弁当屋で調達した。豚肉ののせた弁当で490円。明日は午前中に海軍司令部の壕を訪れ、午後は首里城を再訪する予定だ。
 

2019年8月5日月曜日

沖縄戦跡巡り2019 四日目(バスツアー)

7月19日。

7時前にホテルの朝食をとる。Booking.comのレビューを見ると、ホテルブライオンの朝食の評判はかんばしくなかった。「(朝食が)付いていないほうがいい」という厳しい評価もあった。そんなことから期待していなかった朝食だが、私にとっては十分に満足できる内容だった。おにぎりと各種のパン、サラダ、ゆで卵、みそ汁、ポタージュ、ジュース、コーヒーに紅茶。もちろん2万円、3万円クラスのホテルの朝食バイキングとは比ぶべくもないが、5千円強のホテルにこれ以上を望むのは酷だろう。

「おきなわワールドと南部戦跡巡り」ツアーは8時15分に沖縄バスの本社に集合となっている。本社はゆいレールの県庁前駅と旭橋駅のちょうど中間にある。7時半ごろにホテルを出て、歩いていくことにした。

8時過ぎに集合場所に着き、ツアー代金の4900円を支払う。8時半から15時半ごろまで、約7時間の昼食込みのツアーだから、高い値段ではない。今日のツアーの参加者は私を含めて4名。残り3名は東京から来た若夫婦とその夫のほうの父親。若夫婦の2歳の息子も一緒だが、これは員数に入っていない。ツアーは毎日催行している。参加者が1名でも催行するとのこと。

女性ガイド付きのミニバスに乗り込み、定刻通りにツアーは出発した。空はどんよりと曇っているが、雨は降っていない。

バスは最初の観光スポットであるニライカナイ橋を通り抜ける。地上高く、ぐねぐねと蛇行する橋が壮大な眺望を提供する。

ニライカナイ橋を渡る

9時半過ぎに「おきなわワールド」に到着。これは地下の鍾乳洞と地上の沖縄ミニテーマパークを組み合わせた観光アトラクションだ。入園料はツアー代金に含まれている。

地下に入り鍾乳洞の通路を歩く。かなりの湿気だ。地上に出るとホッとする。熱帯フルーツ園、琉球ガラスの工房、ハブや白蛇、ハブ酒や泡盛の製造所を巡り、沖縄の伝統芸能であるエイサーのショーが催されるエイサー広場に至る。10時半からはじまったエイサーのショーは11時ごろに終わった。盆の時期に地区を練り歩くのが本来のエイサーであり、ここでのエイサーはショー化された創作エイサーだ。エイサー上演中の写真撮影は禁止だった。

鍾乳洞

エイサー終了後に客を交えて踊る

エイサーの終了とともにバスに戻る。おきなわワールドの類いは私の趣味には合わないが、この種のアトラクションも沖縄の伝統や自然を垣間見る助けにはなるかもしれない。

おきなわワールドを後にして、バスは摩文仁(まぶに)の平和祈念公園に向かう。米軍の進撃により首里の放棄を余儀なくされた第32軍司令部は1945年5月27日から30日にかけてここ摩文仁に撤退した。6月22日(あるいは23日)には牛島満軍司令官と長勇参謀長が摩文仁の壕で自決、23日に沖縄戦は一応終結した。しかし、牛島司令官が自決にあたって「最後まで敢戦」するよう部下に命じたこともあり、戦闘は8月15日の終戦まで、さらに終戦以降も続いた。

公園に入るとすぐ左手に韓国人慰霊塔がある。韓国政府が設立し、管理している塔だ。日本語、英語、ハングルの説明板がある。

韓国人慰霊塔

右手には数多くの赤い屋根が目に付く。平和祈念資料館。公園での滞在時間は1時間ほどなので、残念ながらこの有料の資料館に入る余裕はない。

資料館のすぐ裏に平和の礎(沖縄の言葉では「いしじ」と読む)が広がる。平和祈念公園のメインのモニュメントといえよう。24万人を超える沖縄戦の全戦没者の氏名が放射線状に配置された数多くの石板に刻まれている。氏名は沖縄の各市町村、沖縄以外の都道府県、外国(米国、韓国、北朝鮮、台湾)ごとにまとめて刻まれている。1995年に建設された礎だが、毎年何名からの氏名が追加されている。

平和の礎その1

平和の礎その2

平和の礎その3(台湾と北朝鮮)

平和の礎を少し離れ、摩文仁の丘から海を眺める。曇っていた空がつかの間晴れ、海はあくまで穏やかだ。

時刻は12時過ぎ。次の目的地のひめゆりの塔に向かう。平和祈念公園からひめゆりの塔までは車で10分ちょっとの距離だ。1945年5月末に南風原陸軍病院を撤退したひめゆり学徒隊は南部各地に分散する。ゆめりの塔は沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に建てられている。壕入口の横に立つ塔は想像していたよりはるかに小さく、せいぜい1メートルくらいしかない。1946年に建てられ、いまではかなり風化している。

ひめゆりの塔

1975年に当時の皇太子夫妻がひめゆりの塔を訪れたとき、火炎瓶を投げられる事件があった。昭和天皇は戦前・戦後一度も沖縄を訪れていない。

ツアーガイドの女性に「(戦後は)とても天皇が沖縄を訪問できるような状況ではなかったでしょうね」と言うと、そのとおりとのこと。ガイドは復帰後の生まれだが、日本の国旗や国歌に対するアレルギーが非常に強かった時代を知っているという。

塔を見たあと、近くの土産物屋兼食堂でランチとなる。4900円のツアー代金に含まれているランチだから、多くは期待できない。

 ツアーの昼食

昼食後の休憩時間はたっぷりあったので、ひめゆり資料館を見学した(入館料310円)。沖縄戦で亡くなった200余名のひめゆり学徒の氏名と写真が壁にかかっている。「ノブコ・マーチン」という名前が目に付いた。マーチン。西欧の姓ではないか。写真は日本人のように見えるが、2世なのだろうか。あとで調べてみたが、手がかりは得られなかった。

これで戦跡巡り(戦跡碑巡りといったほうが正確かもしれない)は終了。最後にアウトレットモール(あしびなー)に立ち寄る。ブランド品のショップやレストランが集まったかなりの規模のモールだ。アウトレットに立ち寄るくらいなら、平和祈念資料館を見る時間を割いてほしいところだ。だが、ここらへんには格安ツアーの事情があるのだろう。今日の参加者は4名。収入は2万円にも満たない。おそらく赤字だ。

ショッピングする気はないので、カフェに入ってコーヒーとケーキで時間を過ごす。ここも中国人観光客が多い。

バスが沖縄バスの本社に戻ったのは3時半過だった。帰り道、ガイドが沖縄の歌を披露してくれたが、恰好の子守歌となり、うとうととした。

平和の礎もひめゆりの塔も自力で行くことができだろう。そのほうが安上がりのうえ、平和資料館もじっくり見学できたはずだ。とはいえ、ツアー参加を悔やんでいるわけではない。こうしたツアーも沖縄の現実の一面だ。

沖縄バスの本社から徒歩で県庁前に出て、そこからさらに国際通りまで足をのばし、大きく回り道してホテルに戻った。

途中、ローソンで夕食のカツ丼と缶チューハイを購入。ローソンの女店員はネパール人だった。

昨日のファミリーマートの女店員もネパール人だった。名札を見て「インドネシア?」と尋ねると「ネパール」との答え。2年前にネパールに行ったことを話す。話していると、もうひとりの女店員が近づいてきて「ベトナムに行ったことはあるか」と聞いてくる。私が訪れたのはホーチミンシティだけだが、彼女はハノイ出身だった。

沖縄にはまだ2日滞在できる。台風の影響は小さく、明日も明後日も曇りの予報だ。行き損なった伊江島に日帰りで行くことも可能だが、早朝に那覇を出発しなければならない。無理をせずに、残り2日も那覇またはその周辺で過ごすことにした。明日はまず浦添市にある前田高地に行こう。

2019年8月2日金曜日

沖縄戦跡巡り2019 三日目(南風原陸軍病院壕)

7月18日。

台風5号が接近しているため今日は暴風雨の予報だが、目が覚めたときには雨は降っていなかった。念のために伊江島行きフェリーの運行状況をネットで調べるが、全便欠航に変わりはない。万一運行していたとしても、島に渡って帰れなくなったらたいへんだ。那覇に戻るしかない。

那覇行きのバスは7時57分に座喜味の停留所に来る。オーナーは不在だから、鍵を部屋に残したままゲストハウスを出る。外は風は強いが、雨は降っていない。

伊江島行きをあきらめたため、今日から那覇で4泊することになる。宿は那覇の松山にあるホテルブライオンを予約した。初日に泊まったホテルランタナと同様、最寄りの駅は美栄橋だが、国際通りとは逆の側にある。

那覇バスターミナルに着いたのは9時過ぎ。台風の予報にもかからず、曇天のもと雨はまだ降っていない。ホテルにチェックインするには早すぎる。南風原(はえばる)町にある陸軍病院の跡を訪れることにした。南風原陸軍病院壕は一般に公開されており、ガイドの案内で内部を見学できる。都合よく南風原町行きのバスはこのターミナルから出る。

南風原に行く前にやっておきたいことがある。バスターミナルから歩いて5分ほどの沖縄バスの本社に立ち寄り、「おきなわワールドと南部戦跡巡り」ツアーの予約を変更することだ。明後日の20日にこのツアーを予約していたのだが、1日早く那覇に帰ってきたことから、これを明日のツアーに変更したい。

沖縄バスのツアー予約を変更し、ターミナルからバスに乗り20分余り、陸軍病院壕のある南風原町役場前に11時ごろに到着した。到着直前からバスの窓を雨だれがポツリポツリと叩きはじめた。バスを降りたとたん、雨脚が突然強くなった。風も強い。台風の風だ。広げた傘の骨がたちまち折れてしまう。

「役場前」というからには役場があるはずだ。雨に濡れながら大急ぎで大きな建物を目指すが、役場ではなく小学校だった。なにはともあれ、小学校の軒下でリュックからビニールの雨ガッパを取り出す。

役場は道路を挟んで小学校の向かいにあった。陸軍病院壕の情報を得るために役場に入った。役場の中は結構広い空間だが、フロントのデスクに1名の女性、その奥に1名の男性、2人しかいない。どちらも沖縄風のアロハシャツ(?)を着用している。

陸軍病院壕は南風原文化センターの管理下にあることは知っていた。 文化センターは役場から200メートルほど離れているとのこと。雨の中、文化センターに向かって役場を出る。「雨が止むまでここで待っていたらどうですか」の声がかかったが、いつ止むかわからないものを待つわけにはいかない。

雨ガッパの効果もなくびしょ濡れなりながら、文化センターにたどり着く。受付の女性が陸軍病院壕に電話で連絡してくれた(本来なら予約が必要)。

「飯上げの道」(ふもとの炊事場で調理された食料を病院まで運ぶ道)をたどり、7、8分かけて小金森と呼ばれる丘を越えれば陸軍病院壕20号だ。いくつもある壕のうちこの20号が一般に公開されている。

飯上げの道

壕の入口には男性1名と女性2名が詰めていた。男性は管理人で、女性はガイドらしい。入場料の300円を払い、ヘルメットと懐中電灯を渡される。女性ガイド1名の案内で壕に入る。天井は低く、床には水が溜まっている。この壕は自然のガマを利用したものではなく、ツルハシやシャベルを使って人の手で掘ったものだ。

壕の中には多くの傷病兵が詰め込まれ、医薬品が不足する中、麻酔なしで手術が行われたという。米軍の空からの攻撃にさらされながら「飯上げの道」を往復し、看護にあたっていたのは沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高女の教師・生徒からなるひめゆり学徒隊だ。

壕の入口

壕の中

壕の中を探索したのは10分余り。入口に戻ると、お茶とお菓子が用意されている。しばしの雑談。「訪問者の大半は私のような年配者ですか」の問いに、「いや、結構若い人も来ますよ」とのことだった。

文化センターに戻る。幸い雨は小降りになっている。文化センターでは沖縄戦や南風原町の歴史に関する資料を展示している。こちらも入場料は300円。飯上げのレプリカから始まり、沖縄の戦後の様子で終わる展示だ。南風原からの移民や南風原の戦没者に関する資料もあり、なかなか見応えがあった。

飯上げの再現

壕内での手術

南風原と沖縄戦

移民

小雨の中、文化センターをあとにし、那覇行きのバスを待った。バスの本数は多くない。30分以上待ったうえ、ようやく旭橋のバスターミナルに戻ってきた。

ゆいレールで旭橋から美栄橋に移動し、ホテルブライオン那覇にチェックインする。朝食付きで4泊21600円。1泊5000円強。値段の割には立派なホテルだ。

ホテルブライオン那覇

部屋で一休みし、外に出たときにはすでに4時を過ぎていた。幸い雨は止んでいる。美栄橋の食堂に入り、遅めの昼食(というか早めの夕食)をとった。沖縄にいるときはできるだけその土地特有の料理を食べたい。ということで豆腐チャンプルーを選んだ。680円。まずくはないが、まあ値段相応か。

豆腐チャンプルー

食後しばらくぶらぶら散策し、コンビニで若干の食料を買い込んで宿に戻る。雨に濡れた体をゆっくり休めたい。明日のツアーは8時30分発。8時15分に沖縄バスの本社に集合することになっている。