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2017年1月26日木曜日

ネパール2016 六日目(成都を経て帰国)

12月28日。

8時ごろに宿で朝食をとり、宿に手配してもらったタクシーで空港に向かう。カトマンズの渋滞を恐れていたが、宿のスタッフによれば「カトマンズのオフィスアワーは10時からなので早朝なら渋滞はない」とのことだった。実際、30分余りで空港に着いた。タクシーの値段は失念したが、来るときの700ルピーより安かったと思う。

中国国際航空の成都行きのチェックインカウンターには大勢のチベット人がいた。彼らはカウンターの前に群がり、列をつくろうとしない。中国国際航空のスタッフがロープをつかって何とか列をつくらせようとするものの徒労に終わる。

チベット人の団体客

チェックインしようとしている人のほとんどがチベット人の中、小柄な東洋人の女性がいたので声をかける。韓国人の女性で、NGOのボランティアとしてネパールに2ヶ月間滞在していたのこと。韓国語の学習中であることを告げ、英語と韓国語を交えて話す。ちょっと複雑な話題になると、「ソルミョニオリョオヨ(説明が難しい)」で逃げ、英語に切り替えた(たとえば韓国に対して日本人はどう考えているのかと聞かれたときなど)。

チェックインカウンターが混乱する中、私と韓国人女性はいつまでたっても前に進めない。これを見かねたのか、航空会社のスタッフが我々2人を別のカウンターに案内してくれ、やっとのことでチェックインを済ませた。

中国国際航空機は例によって1時間ほど遅れてカトマンズの空港を飛び立った。私が座るはずの席にはチベット人のおばさんがすでに座っていた。抗議するほどのことでもないので、その横に空いていた通路側の席に座る。韓国人女性ははるか前方の席に座っており、私はチベット人の集団の中の唯一の外国人だった。食事を配る男性の客室乗務員は私のことを「チベット人だと思っていた」と言う。

チベット人の団体に圧倒された感のフライトだったが、彼らはマナーが悪いというより、ただ慣れていなかっただけだろう。個人個人は素朴で、親切そうだった。ヒマラヤ山脈の上空を通過するときにはこぞって窓に近づいて眺めていた。

予約していた成都の宿(老宋国際青年旅舎)に着いたのは夜の8時ごろだった。今さら街中へ出る気もしない。宿で食事をとり、ちょうど居合わせた日本人の旅行者と少し話してから自分の部屋に入った。

翌日12時5分成都発の直行便で関空に戻り、はじめてのネバールへの旅を終えた。

「ネパールの農村を見たい」という思いで出かけたネパールだが、農村をほとんど見ることなく終わってしまった。もともと6泊7日の短い旅が乗り継ぎのフライトのキャンセルで5泊6日になってしまったうえ、準備もろくにしていなかったから、これはやむをえないところだ。

12月のネパールは寒いのではないかという心配は杞憂に終わった。確かにカトマンズの朝方は寒かったが、日本の太平洋側の冬と同程度であり、震え上がるようなことはない。カトマンズもポカラも昼間は暖かいを通り越して暑いと感じることすらあった。12月は宿も比較的空いており、旅行しやすかった。3月や4月のハイシーズンよりもいいかもしれない。ぜひもう一度訪れたい。今度はもっと準備をし、時間もたっぷりとって、ネパールの農村の生活を見るために。

2017年1月24日火曜日

ネパール2016 五日目(カトマンズへ)

12月27日。

約束どおり朝7時に迎えに来たタクシーでカトマンズ行きのバスパークに行く。バスパークには何台ものツーリストバスが並んでいた。すべてがカトマンズ行きだ。私のバスはWorld Touchという名前だった。

カトマンズ行きのツーリストバス

まだ朝食を食べていなかったので、物売りの男からアップルパイを買う。100ルピーというので500ルピー札を渡し、お釣りを貰ってバスに戻ろうすることで気がついた。男からお釣りとして渡されたのは50ルピー札2枚だけ。なんということだ。急いで男のところに引き返すと、ニヤッと笑って残りの300ルピーをよこす。油断も隙もない。

バスはほぼ満席だった。ほとんどが地元客のマイクロバスとは異なり、乗客の半数くらいは外国人旅行者だった。私の隣には香港から来た女性が座った。10月のルーマニア旅行で列車の中で一緒になったのも香港の女性だった。

ルーマニアで出会った香港女性もいろいろなところに旅行していたが、この女性も相当なもの。北朝鮮も訪れたことがあるという。中国人のグループに交じって行ったらしい。日本も何回か訪れている。人々が親切で礼儀正しいと日本を褒めていた。女性のリュックには布製の大きな人形がぶら下がっている。「これは香港のキャラクターか」と問う私に、女性はあきれたように答える。「これはちびまる子ちゃんの友達だ。知らないのか。」ちびまる子なる漫画の主人公は知っていたが、その友達や家族までは知らなかった。

女性は弁護士(lawer)とのことで(私はわざわざqualified lawerかと聞いてしまった)、他の香港人2人(カップルだった)と一緒にガイドを雇ってトレッキングをしてきたところだった。ネパールでは日本食のレストランを利用することが多いというので、カトマンズの「絆」を紹介しておいた。

12時ごろに昼食のための休憩があった。カトマンズ行きの何台ものツーリストバスがここでほぼ同時に休憩をとるので、ビュッフェ式の大きな食堂の中はいっぱいだった。食べ放題のビュフェは380ルピー(約380円)。ネパールにしてはちょっと高めだが、サービスエリアでの食事が高いのはどの国も同じか。

ビュッフェ式の昼食

ネパール人の男が手招きするので、その向かい側に座った。男はトレッキング・ガイドだった。日本人の客を案内することもあるという。「最近は日本人よりも中国人の旅行者が多いのでは」という私の問いに、「確かに中国人が増えているが、彼らはあまりトレッキングをしない。観光スポットをバスで移動するだけだ」と答える。この中国式スタイルははからずも今回の私の旅にもあてはまる。

香港グループに付いていたトレッキング・ガイドと同様、このガイドも陽に焼けて精悍で、しかも物腰は柔らかく、いかにもプロフェッショナルで信頼できそうな雰囲気を漂わせていた。もちろん英語も達者だ。

ポカラからカトマンズまではバスで8時間くらいということだったが、カトマンズの交通渋滞のために宿に着いたときには6時近くになっていた。すでに暗くなり始めている。

宿は初日と同じTraveller's Houseを予約していた。今日がネパール最後の日。カトマンズの観光はほとんどしていない。せめて街の中心のダルバール広場を見ておこうと思ったが、外は暗くなりかけている。宿のあるタメル地区から広場までリクシャーで行くことにした。料金は100ルピーと安いが、道が舗装されていないため、乗り心地はひどく悪い。

暗がりにもかかわらず、ダルバール広場には大勢の人がいた。ここの王宮や寺院は2015年の地震で壊滅状態になったということだが、その傷跡はあまり目に付かなかった。暗くて見えなかっただけかもしれない。

ダルバール広場

ダルバール広場からタメル地区に歩いて戻り、初日と同様、日本食堂「絆」で夕食をとる。注文したのは天丼(350ルピー)。少し甘すぎる感じもしたが、質量ともに満足できる内容だった。

「絆」食堂の天丼

明日は午前11時45発の便で成都に向けて発つ。

2017年1月22日日曜日

ネパール2016 四日目その2(ポカラ)

12月26日(続き)。

メインストリートから離れた静かな通りをあてもなく歩く。小さな店の前のテーブルに座っている男から日本語で声が掛かる。誘いに応じて私もテーブルにつき、日本語での会話が始まった。

50歳くらいのこの男は大阪の旭区でネパール料理店を経営していたという。おいおいわかってきたことだが、男は話を若干盛る傾向がある。だから経営していたのではなく、ただ働いていただけかもしれない。しかし日本語の流暢さからして、日本に住んでいたことはほんとうだろう。使っているスマートフォンもドコモのものだった。

ドコモのスマートフォンを見せる男

男の勧めに従って、ロクシーと呼ばれる焼酎に類する酒を飲む。くせがなく、飲みやすい。「あまり強くないですね」と言う私に対し、男はにやりと笑い、「あとになって効くよ」とのたまう。だがあとになってもあまり効いてこなかった。コップ1杯で100ルピー(約100円)。男のおごりかと思っていたが、そうではなかった。

途中近所の別の男も加わったので、日本語から英語に切り替える。ネパールとインドの関係、ネパールの領土がかつてはもっと広かったこと、ゴルカとはネパール人全体を指すことなどを話す。機嫌よくなった男は「大きな栗の木の下で」と日本語で歌い出した。インド人がこの歌を歌っている動画をYoutubeで見たことがある。インドやネパールで誰かがこの歌を広めたのだろうか。

1時間ほど経って私が宿へ戻ろうとすると、男も付いていくる。ちょっと厄介だなと思ったが、「もうひとりで帰るから」と言うと、あっさりと別れてくれた。

宿に戻って一休みし、7時半ごろにレイクサイドのメインストリートに出る。歌と踊りのライブをやっているレストランで夕食をとるためだ。メインストリートにはこの種のレストランがいくつかある。

そのうちのひとつに入る。野外ガーデン式のレストランで、中央前面に舞台がある。ショーはすでに始まっていた。ビールとダルバート(ネパール定食)を注文する。ダルバートはゴルカの宿で食べたことがあるが、値段が安かったせいか、あまり感心しなかった。いつかちゃんとしたダルバートを試したいと思っていたところだ。ここのダルバートは500ルピー以上。肉(チキン)のボウルもあり、量も質もゴルカのものを上回っている。しかしおいしいと思ったのは最初の数口だけで、あとはただ腹を膨らませるために食べた。豆を煮込んだダルと呼ばれるスープがあまり口に合わなかったせいかもしれない。

ダルバート

肝心の歌と踊りも期待外れだった。変に現代風にアレンジされており、authenticyと素朴さに欠ける。パフォーマンスはまだ続いていたが、1時間余りで切り上げ、会計をしてもらった。

レストランのライブ

ただひとつ救いは、私に付いたウエイターが非常にフレンドリーで感じがよかったこと。ビールも含め1000ルピーを上回る支出だったが、これもひとつの経験。後悔はない。

宿に戻り、明日のカトマンズ行きのツーリストバスの切符を購入する。700ルピー。これまでの移動はすべてマイクロバスだったので、一度はツーリストバスも経験しておきたかった。バスは朝の7時半に出る。7時にタクシーに宿まで迎えに来てくれるよう依頼しておいた。宿からバスステーションまでは200ルピーとのこと。

2017年1月19日木曜日

ネパール2016 四日目その1(ポカラ)

12月26日。

The Cherry Gardenの朝食は8時から。ミルクティー、トースト、オムレツといったベーシックな内容。
今日はポカラで一日のんびりできる日だ。朝食後ホテルの部屋で休みながら、どこを探訪するか検討する。レイクサイドから5、6km離れたところにチベット人の居住地があるらしい。よし、これだと決め、10時ごろに宿を出る。

メインストリートに行くと、さっそくタクシーの運転手が声を掛けてくる。チベット人居住地(タシンリン・チベット村)まで片道500ルピーということで話がまとまりかけた。が、運転手は「タシンリンよりもっと大きなチベット人居住地がある」と言う。結局タシバルケルというそちら居住地に行くことにした。行き帰りと見物中の待機をひっくるめて1500ルピー(約1500円)。

30分余りでチベット居住地に着いた。1950年代に難民として中国から逃れてきたチベット人たちがつくりあげた小さな村だ。中国を出てから半世紀以上経つ今、おそらく住民の大半はネパール生まれのチベット人だろう。

タクシーを降りるとすぐ70歳くらいの女性が英語で話しかけてくる。土産物屋への誘いだ。村の入口からチベット寺院に向かう20メートルほどの道筋にはチベットのスーベニアを売る店がいくつか並んでいる。「店」というのはおおげさで、古びた机の上にくすんだような品物が無造作に置かれているだけ。5、6人の「店主」はほとんどが老人で、「見るだけね」と日本語で声を掛けてくる老婆もいる。

チベット寺院の隣には学校がある。ちょうど下校中らしく、制服姿の学童が次から次へと出てくる。小学生から中学生くらいの年齢だ。

チベット寺院

寺院を見物してから、集落に入り、細い路地をたどっていく。定住して長いせいか、「難民キャンプ」という趣きはなく、それなりにちゃんとした家が続いている。ところどころに5色の旗がひらめいているのがチベットらしい。寺院の裏側に回ると、くずれかかった石垣の上にに粗末な家が10軒ほど並んでいた。

チベット居住地を歩く

チベット居住地の風景1

チベット居住地の風景2

チベット居住地の風景3

さらに散策を続けていると、50歳くらいの男が英語で話しかけてきた。自分の部屋を見せるというので付いていく。男が案内したのは6畳くらいの小さな部屋。妻と2人で住んでいるというこの部屋には、家財道具に交じってチベット教の祭壇もあった。男はいろいろなチベット教関連の小物を取り出してくる。買わないかというのだ。「ポカラの街で売っているのはレプリカだが、これらはすべて本物だ」とのことだが、私にはそのありがたみがわからない。向こうも強く勧めてくることはなかった。

チベット人の部屋

約束の1時間が過ぎたので、待機しているタクシーに戻った。レイクサイドに戻る車の中、運転手はJapanese Templeに行かないかと誘う。ポカラの郊外に日本山妙法寺があることは知っていた。もう昼近くになるが、この後なんの予定もないから、誘いに乗ってみることにする。妙法寺までの往復は見物中の待機時間を含めて1400ルピー。帰国後にネットを調べてわかったことだが、チベット村への1500ルピーもこの1400ルピーも高すぎる。事前チェックをしなかった私のミスだ。

道すがら、運転手は自分の生活の苦しさを訴える。両親はネパールの山間地に暮らしているが、自分と妻、それに2人の幼い子供はレイクサイドの1部屋に住んでいる。家賃が高くてやっていけないとこぼす。ポカラの街を走るタクシーの数の多さだけからでも、運転手の生活が苦しいのは容易に推察できる。

日本山妙法寺は山頂にあるので、坂道と石段を登っていかなければならない。といってもそれほど長い道のりではなく、ゴルカの旧王宮に登ったときのような苦しさは経験せずにすんだ。山頂からはポカラの街を一望でき、観光客の数も多い。ネパール人もいれば外国人もいる。インドのバラナシの近くのサルナートにある日本山妙法寺も訪れたことがあるが、これほどのにぎわいはなかった。

日本山妙法寺

レイクサイドに戻ったときには午後2時を過ぎていた。どこで昼食をとるか、いろいろ迷ったすえ、昨日の昼食と同じホテルの食堂に入った。注文したのはチキン・トゥクパ(Thukpa)。これはチベット式のヌードルで、125ルピーだった。

チキン・トゥクパ

昼食後、レイクサイドの人通りの少ないエリアを散策する。
(続く)

2017年1月15日日曜日

ネパール2016 三日目(ポカラへ)

12月25日。

朝7時過ぎに宿を出て、すぐ近くのバスターミナルに向かう。ポカラ行きのマイクロバスはすぐに見つかり、あまり待たずに出発できた。ポカラについたのは昼の12時前。ホテルが密集しているレイクサイドまでタクシーで行く(300ルピー)。

目星を付けていたThe Cherry Gardenというホテルに行く。朝食付きの個室で18ドルとということだったが、「高い」と言って別のホテルに向かおうとすると15ドルまでにディスカウントされた。他を探すのも面倒だし、ここに2泊することにした。レイクサイドはツーリストが集まる場所で、ホテルやレストランもカトマンズよりも若干高いと聞いていた。

この日朝食はとっていなかった。チェックイン後にさっそく外に出て、近くの別のホテルのレストランで昼食をとる。注文したのはチキン・チョウメン。チョウメンとはチベット風の焼きそばのことだ。代金は170ルピー(約170円)。特にまずいわけではないが、ぱさぱさしていて、おいしいとは言いがたい。中国やミャンマーの焼きそばのリッチな味には及ばない。

チキン・チョウメン

レイク(フェワ湖)の埠頭などを見物したあと、タクシーでオールド・バザールに行く。ニュー・バザールまで300ルピーでということでタクシーに乗車したのだが、ニュー・バザールに着くと運転手が「今日はクリスマスでニュー・バザールは閉まっている」と言うではないか。オールド・バザールならやっているが、それにはさらに100ルピーを追加する必要があるとのこと。ニュー・バザールが閉まっているなら、最初からそう告げてくれるべきだった。ちょっとぼられた気がした。

オールド・バザールは市場というより小規模な商店街という感じだった。小規模といってもそれなりに賑わっており、盲人らしき3人が路上で音楽を演じたりしていた。物乞いも見られた。ネパールで物乞いを見たのはこれが最初で最後。いたるところで物乞いに遭遇するインドやバングラデシュとは違う。

ポカラのオールド・バザール

物乞い

レイクサイドまで歩いて帰ろうかとも思っていたが、ちょうどレイクサイド行きの路線バスが通りかかったので、これを利用することにした。20ルピーだった。公共交通を利用すればこれほどに安く移動できるのだが、どうも安易にタクシーを利用する癖がついてしまった。

レイクサイドのメインストリートには理髪店が何軒かある。どれも間口一間のひとり営業の店だ。そのうちの一軒が声を掛けてきたので、散髪をすることにした。300ルピー。眉毛や口ひげまでトリムしてくれるていねいな仕事だった。

ここで髪をカットする

レイクサイドをずっと北に向かってかなり歩いたが特に見るべきものはなかった。夕食はレイクサイドの小さな食堂でとった。ゴルカの宿で食べたのと同じチキン・モモ。値段はゴルカよりも少し高かったが、味は同じようなものだった。

今まで移動続きのせわしない旅だったが、明日は丸一日ポカラで過ごせる。

2017年1月11日水曜日

ネパール2016 二日目(ゴルカ)

12月24日。

Travelers Homeの朝食は7時からとのことだった。7時ちょっと過ぎに朝食の場である屋上に向かうが、まだ準備はできていなかった。しばらく待ち、7時半頃にミルクティー、ジュース、果物、オムレツ、トースト、ジャガイモ料理からなる朝食が運ばれてきた。私のほかに日本人の旅行者が5人ほどいた。

今日はゴルカ(Gorkha)に行く日だ。ゴルカを選んだのは、カトマンズとポカラのちょうど中間に位置していることと、英国の傭兵として勇名を馳せている「グルカ兵」からなじみのある名前だったからにすぎない。まったく安易な選択だ。ゴルカがネパール地震の震源地であったことも昨日宿のスタッフから聞いてはじめて知る始末。ゴルカに1泊してからポカラを訪れる予定だ。

ホテルの前にたむろしていたタクシーに乗車してゴルカ行きバスの乗り場まで向かう。運転手は「ビッグバスで行くのか、それともマイクロバスにするのか」と尋ねてくる。ビッグバスとはいわいるツーリストバスのことだろう。「どちらがベターか」と問い返すと、「マイクロバスのほうがいい」との答え。どちらも似たようなものだろうが、ここはひとつ運転手を信用してマイクロバスで行くことにした。
ゴルカまでのマイクロバスは285ルピーだった。ガイドブックによるとゴルカ行きのツーリストバスは290~375ルピーとのことだから、マイクロバスのほうが若干安い。その分多少の窮屈さを我慢しなければならない。

9時半ごろにカトマンズを出発したマイクロバスは午後3時前にゴルカに着いた。バスターミナルの近くのHotel Pradiseに投宿する。シャワー・トイレ付きの個室で800ルピー(約800円)。かなり安いがシャワーはお湯が出なかった。ゴルカに来る途中で昼食のための休憩もあったのだが、あまり腹が空いていなかったことに加え、昼過ぎには到着するだろうとふんでいたので、何も食べなかった。今はまず腹ごしらえする必要がある。Hotel Pradiseはレストランも兼ねているようなので、手早くここで食べることにした。注文したのはチキン・モモ。これはチベット・ネパールの食べ物で、蒸し餃子に似ている。昨晩はカツ丼だったから、はじめて口にするネパールの料理。だが、モモはグルジアでヒンカリ、中央アジアでマントゥ、中国でチャオズ、韓国でマンドゥと呼ばれている「肉や野菜を小麦粉の皮で包んで蒸した」食べ物であり、特に目新しさはなかった。値段は120ルピー。あとで判明したことだが、カトマンズやポカラに比べてかなり安い。

チキン・モモ

腹もくちくなったところで街に出る。まず山の上にあるゴルカ王宮(Gorkha Durbor)を目指す。ガイドブックによると、この王宮は「現在はカーリー女神を祀る寺院として人々の参詣を集めている」とある。途中で道を尋ねながら、坂道と階段を登っていく。ふもとから歩いて40分ほどとのことだったが、頂上の王宮(寺院)にたどり着くまでゆうに1時間はかかった。

坂道を登る

沿道には土産物や飲料を売る店が点在しており、私以外にも結構な数の人が頂上を目指している。5、6人のネパール人(と思われる)家族と抜きつ抜かれつ歩みを進める。私がいかにも苦しげななのを見かねたのか、家族の中の若い娘さんがペットボトルの水をそっと差しのべてくれる。

途中のベンチでこの家族と一緒に休み、20歳代の息子らしき若者と話す。家族はもともとはネパール人だが今はインドに住んでいる。父母の代にインドに移住したらしい。若者は言う。「自分はインドで生まれ、育ち、インドに住んでいる。これからもインドに住むだろう。だが、心(heart)はいつもネパールにある。」「ネパールは貧しい国なので海外に出て働くしかない。インドの経済もあまりよくなく、サウジアラビアなどに出稼ぎに行く人が増えている。」

私が「ネパールの人たちはcalmでquietだが、インド人はloudでnoisyだ」と言うと、若者は「(インド人は)そのうえagrressivだ」と続ける。

頂上の寺院からはゴルカを一望できる。風景もさながら、私にはカーリー女神を詣でるネパール人たちの立ち振る舞いがが興味深かった。インドのコルカタの寺院でも見かけた光景だ。

カーリー女神参詣

しばらく体を休めてから帰路につく。「上りに比べてやはり下りは楽だな」と思ったのもつかの間、10分くらい経つと下りも手強いことを思い知らされる。よたよたとふらつきながら一段一段と石段を下っていく。「膝が笑う」という言葉がある。膝ががくがくし、コントロールが難しくなる状態を指す。私の場合は「膝が笑う」というより「腿が笑う」という感じで、太腿をしっかりとコントロールするのが難しくなった。

この石段を下っていくのが辛い

途中道を間違えたりして、くたくたの状態でふもとに着いたときには6時を過ぎており、すでに真っ暗だった。このあとゴルカの商店街を見物する予定だったが、その気力も体力もない。そのうえいくつかの店は早々に店仕舞いを始めている。宿に帰るしかない。

夕食もHotel Pradiseでとることにした。3時に昼食をとったので、腹は減っていない。夜の8時に夕食をつくってくれるように宿のスタッフに頼んで、部屋で体を休めた。

8時少し前に宿の主人が食事を部屋まで持ってきてくれた。頼んでおいたのはダルバート。インドのターリーに似たネパール定食だ。ついでにビール(フィリピンのサンミゲル)も頼む。ダルバートが170ルピーで、ビールが300ルピー。ビールが高いなと感じたが、これもカトマンズやポカラに比べれば安いほうだった。主人と一緒に食事を運んできたティーンエイジャーらしき娘さん2人がニコニコと満面の笑みだったのが印象に残った。肝心のダルバードのほうはというと、正直なところあまり印象に残るものではなかった。もっとちゃんとしたところで、もっと高いお金を払えばまた別かもしれない。

ダルバート

ゴルカは2015年4月のネパール地震の震源地ということだったが、その影響は表面からはうかがい知れなかった。崩れかけた道や粗末な家屋もときおり見かけたが、地震の結果なのか、もともとそういう状態なのか、判断できない。王宮(寺院)も一部工事中だったが、これも地震よる損壊を補修しているのかどうかはわからない。王宮の建物自体は無傷のように見えた。

明日は早々にポカラに向かう。せめてもう1日ゴルカで過ごしたいところだが、ただでさえ短いネパールの旅が上海で無駄に1泊したためさらに短縮されたことから、のんびりはできない。

2017年1月9日月曜日

ネパール2016 カトマンズ到着まで(12月21ー23日)

ネパールの農村を見たいとずっと思っていた。Youtubeにアップされていたいくつかの動画がきっかけだ。しかし2016年の暮れにネパール行きを決めたは突然であり、なんらかの目当てがあったわけではなく、準備をしていたわけでもない。

ネパール行きを決めたのが12月15日。さっそく12月21日関空発の中国国際航空(Air China)のカトマンズ行き往復航空券を購入した。帰国は29日関空着。この航空券が一番安く、全部ひっくるめて6万円弱だった。だが安いのには裏がある。往きは関空ー上海ー成都ーカトマンズと乗り継ぐ。帰りはカトマンズー成都ー関空と乗り継ぎは1つだが、成都で1泊する必要がある。このため、21日から29日の旅行期間中、ネパールの滞在期間は6泊7日、往きに成都の空港で1泊し、帰りには成都の街で1泊することになる。なるはずだった。

往きには成都の空港で夜を明かし22日の昼にはカトマンズに到着するはずだったのだが、なんと上海から成都までの便が悪天候でキャンセル。「悪天候」とは実は大気汚染のこと。この日、北京空港でも数多くの航空便がキャンセルされていた。代わりにあてがわれた中国東方航空の便もすでに満席だったため、上海で無駄に1泊することになった。翌日は朝の便で成都に早く到着するため、成都でも1泊する。つまりカトマンズに到着する前に中国で2泊するはめになったのだ。

まあこれもひとつの経験とあきらめるしかない。中国の航空会社にはこれまで何回か苦い思いをしている。何年か前、関空からパリに飛んだときには、経由地の北京で10時間以上の遅延に遭遇した。このときも中国国際航空だった。中国東方航空の国内便でも何回も遅延を経験している。中国国内ならともかく第3国へ行くときにはできるだけ中国系は避けようと思うのだが、それでもつい選択してしまうのは格安ともいえる値段のためだ。

上海では中国国際航空の割り当てられたホテルに宿泊した。もちろんホテル代は航空会社持ち。インスタントラーメンなどの夜食も支給された。このホテルの部屋にはなんと麻雀卓が用意されていた。

上海のホテルの部屋にあった麻雀卓

翌日成都のゲストハウス(老宋国際青年旅舎)に1泊し、予定より1日遅れの23日の朝9時半にカトマンズに向けて飛んだ。成都空港でのチェックイン時、若いネパール人女性と少し言葉を交わした。彼女は多くの荷物を抱えており、私に荷物を1個預かってくれないかと頼んでくる。私が機内預け入れ荷物なしであることを見込んでのことだ。これはもちろん断った。犯罪にからんでいるような女性には見えなかったが、見知らぬ他人の荷物を預かるのはトラブルのもとだ。はじめてネパールを訪問する私に対し、女性は「ネパールは旅行しやすいはずだ。ここ(成都)と違って、多くの人が英語をしゃべるから」と言っていた。私たち日本人は漢字が読めるから、中国の旅をそれほど困難だと思わないが、中国語をまったく解さない外国人にとって英語があまり通じない中国はかなりの難関かもしれない。

12月23日、現地時間の午前11時過ぎ(日本との時差は3時間15分)にカトマンズ空港に着く。まずアライバルビザを取得する必要がある。これはタッチパネル式の機械に必要情報を入力し、25ドル(15日間の観光ビザの場合)を支払えばよい。写真が必要かと思って持参してていたが、機械が撮ってくれるので不要だった。とりあえず100ドルをネパールルピーに両替したうえで、イミグレを通過する。

イミグレを通過したところにプリペイド・タクシーのデスクがあった。市内のホテルまで700ルピー(約700円)とのことで、これを利用することにした。タクシーの車窓を通して見るはじめてのカトマンズに心が躍る。なんとなくバングラデシュに似た雰囲気だが、リクシャがいない分だけバングラデシュよりも落ち着いている。空港から市内までは順調にいけば30分程度とのことだったが、悪名高いカトマンズの渋滞に巻き込まれ、1時間ほどかかった。

ホテルはツーリストでにぎわうタメル地区あるTravelers Homeを予約していた。トイレ・シャワー付きの個室が1泊13.6ドル。カトマンズにしてはちょっと高いが、これはいわば日本人宿で、日本人にだけ朝食が付くという。受付の若い女性2人は非常にフレンドリーだった。

部屋で少し休んでから街に出る。まずタメル地区を歩き、だいたいの土地勘をつかむ。続いて、カトマンズの中心ともいうべきダルバール広場に徒歩で向かったが、路地の市場の見物などに時間を費やしているうえちに陽が暮れてきたのでタメル地区に引き返した。

カトマンズを歩く

夕食は7時ごろにタメル地区の日本食堂「絆」でとった。路地のつきあたりに6つのテーブルを並べただけの小さな食堂で、ネパール人の夫婦がやっている。カツ丼を注文する。お茶、味噌汁、漬け物が付いて300ルピー(約300円)。予想通りおいしい。日本で食べるカツ丼に勝るとも劣らない。「予想通り」というのは、10年以上も前にネパールを旅行したドイツ人から「カトマンズのカツ丼はすばらしい」と聞いていたからだ。ドイツ人が食べたカツ丼と「絆」のカツ丼が同じかどうかは確かでないが、カトマンズの日本食のレベルが今もずっと維持されていることに間違いはない。

「絆」のカツ丼

明日はバスでゴルカに向かう。ゴルカはカトマンズとポカラの中間にある小さな町で、2015年4月のネパール地震の震源地だった。