よろしければクリックしてください。
にほんブログ村 旅行ブログ 海外旅行へ
にほんブログ村

2015年10月31日土曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 六日目(10月7日)

清津観光旅館にはショップも併設されているが、朝は閉まっていた。残念。昨年このショップを訪れたときに出会った2人の若い女性店員に再会したかったからだ。北朝鮮の人、とりわけ女性はこちらから何か話しかけても必要最小限の返事しかしないことが多い。彼女たちは違っていた。私が少し朝鮮語を理解すると知るや、積極的に話しかけ、いろいろ質問してきた。だが、私の朝鮮語の力不足から話がほとんど進展せず、お互いにじれったい思いをした。あれから1年、私の朝鮮語になにほどかの進歩があったわけではないが、それでももう一度試してみたかった。和製英語でいう「リベンジ」だ。

朝食をとったあと、旅館をチェックアウトして、清津の観光に出る。
Koryo Toursのパンフレットによれば清津の観光には食品工場見学が含まれていたが、これはなくなり、代わりにトロリーバスの試乗が用意されていた。食品工場は昨年訪れているから、このほうがありがたい。残念ながら一般のトロリーバスに市民と混じって乗るのではなく、我々専用にチャーターされたものだ。車窓から眺める風景には興味深いものがあったが、写真撮影は禁止されていた。30分以上は乗っただろうか。

トロリーバスを背景に集合写真

乗車風景

続いて市の中央にある金親子の銅像に赴く。昨年訪れたときにこの場所に立っていたのは金日成の単独の銅像であり、前の広場や道路は工事中だった。清津に金親子の銅像が建ったことは朝鮮中央放送のテレビニュースで見た気がする。銅像を説明するガイドも去年とは別の女性だった。

こっそり撮った清津の一風景

次に訪れた電子図書館(咸鏡北道図書館)も私にとっては2度目。子供たちがコンピュータを使って勉強したり、遊んだり。タイピングの練習をしている子もいる。OSはWindows XPが多いようだ。

電子図書館

昼食時間も近づき、船員クラブに向かう。「北朝鮮2014」のブログで私は船員クラブについて「これは土産物屋、サウナ、レストラン、、バー、カラオケを備えた総合娯楽施設といったところ」と書いたが、「サウナ」というのは間違いだった。今回実際に利用してみてわかったが、ただの大衆浴場だ。しかも浴槽はなく(正確には浴槽はあったが、お湯でなく水が入っていたため浸かることはできなかった)、並んで座って蛇口とシャワーから出るお湯で体や髪を洗うだけだ。それでもお湯で頭を洗えるのはありがたかった。風呂はオプションで有料(いくらだったかは忘れた)。去年は確か1人か2人しか利用しなかったが、今回は私も含めツアー同行者のほぼ全員が利用した。

風呂からあがった我々はビールで一休み。徐ガイドが私に「日本語を勉強したいのだが、数ヶ月でしゃべれるようになるか」と聞く。日本人の観光客も案内したいらしい。「一所懸命やれば可能だろう」と答えておいた。日本語と朝鮮語の類似性に加え、中国語も知っている徐ガイドなら漢字もそう苦にならないだろうから、あながちでまかせの返答ではない。

船員クラブには理髪室もあり、JeremyとMarkは顔を剃ってもらっていた。
昨年船員クラブで昼食をとったときには冷麺だったが、今回は一般的な朝鮮料理だった。昼だからカラオケはない。カラオケとダンスこそが船員クラブの真価なのだが。

船員クラブの理髪室

昼食後は幼稚園訪問。昨年と同じ幼稚園で、昨年と同じ園長に案内される。前回とは異なり、算数の授業の見学(前回は植物の授業だった)。楽器練習の様子を見たあと、園児たちのパフォーマンスを鑑賞する。今回はミニスカートのバイオリン演奏もなく、先生たちの「ペウジャ」の歌唱もなく、モランボン楽団の影響は影を潜めていたが、別に意図的なものではないだろう。


子供たちのパフォーマンスになにかと懐疑的だった昨年のツアー同行者に比べ、今年は素直に感心している面々が多かった。Nickは確か「blown」(吹き飛ばされた)という表現を使っていたように思う。Oksanaも「(あの子たちの演技を目にすると)自分がuselessだと思ってしまう」と言っていた。Nickは海千山千のところがあるからどこまで本気かわからないが、Oksanaの感想は正直なところだろう。


JeremyとMonishaのカップルが私に「どう思うか」と聞く。「強制されているとは言わない。しかし、あのパフォーマンスにはいろいろな要因がからんでおり、そのすべてがポジティブであるわけではない。ネガティブな側面はさておき、彼らが達成したもの、彼らの努力は正当に評価すべきだろう」と答えておいた。なんとも回りくどく、中途半端な感想だ。

彼らが私たちを迎えて最初に歌ったのは定番の「パンガプスニダ」。「(お会いできて)うれしいです」という意味の歌で、これはまあいい。しかし次に全員で歌ったのは「김정은원수님 고맙습니다(キムジョンウンオォンスニム コマプスムニダ=金正恩元帥ありがとうございます)」という内容の歌だった。3歳から5歳の幼児にこうした歌を歌わせることの残酷さ。もちろん日本や欧米の子供たちも両親や社会環境、メディアなどによって知らず知らずに「洗脳」されているわけで、ありのままの素直な心で世の中を見ているわけではない。だが、北朝鮮のような直接的で露骨なイデオロギーの注入とは質的な差があるように思う。


幼稚園をあとにしたのは午後4時過ぎ。清津駅に向かい、元山行きの列車に乗り込む。はじめての夜行列車だ。寝台車のコンパートメントには4つのベッドが用意されいるが、2人で1つのコンパートメントを利用できる。私はNickと同じコンパートメントに入った。

予定外のことだが、ここで10数人のオランダ人のグループが元山まで我々と同行することになった。清津から平壌まで飛行機で帰るはずだったところ、飛行機の席がすべて埋まっていたらしい。次のフライトは3日後。そこで我々に便乗して、列車で元山に向かい、元山からそのままバスで平壌に戻ることになったらしい。中高年が主体のこのグループはオランダにある小さな旅行会社の世話で訪朝していた。

この日は列車に乗っている時間は長いが、その大半は夜なので、沿線の風景写真はあまり多くない。

沿線の風景 1

沿線の風景 2

沿線の風景 3

2015年10月29日木曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 ツアー同行者

ここでちょっと一休み。

昨年のツアーと同様、今回のツアーも北朝鮮を知ると同時にツアー同行者を知る旅でもあった。
旅も終盤になってイギリス人のNickが言う。「グループ旅行となるとたいてい1人や2人はイヤな人物がいるものだが、今回は1人もそういったメンバーがいない」と。私は「いやいや、まだ最後になるまでわからないぞ」と応じたが、終始和気あいあいと旅を続けることができた。同じくNickが言っていたように、これには「(我々のグループには)極右も極左もおらず、誰もがバランスのとれた見方をしていた」ことも大きかったかもしれない。

添乗員も含めれば15人の団体だから、全員と均等に接することは不可能だ。ここでは特に親しくなったメンバー、興味深かった人物を何人か紹介しておこう。

Mark
まずロシア系アメリカ人のMark。彼がいなければ、このツアーも重要な薬味を欠いたことになっただろう。これは私以外の多くの同行者も認めるところ。まずその太った体型とロシア語訛りの英語からして異彩を放つ。二重あごに浮かべる笑みが実にチャーミングだった。

「インテリゲンチャ」の家系の母親と「シンプル」な軍人である父親のもとにサンクトペテルブルク(当時はレニングラード)に育ったMarkは15歳ごろからBBCやVoice of Americaのロシア語放送を聞き、共産主義体制への疑問を持つようになった。彼が反政府活動を理由に国外追放されたのは、ソ連が崩壊する直前の1988年。しばらくイタリアに滞在したのち、アメリカに渡り、市民権を得る。在米は25年に及ぶ。

Markはアメリカ人に門戸が開かれた2005年に初めて訪朝し、以後今回で5回目の訪朝となる。どういう経緯でそうなったのかは聞き逃したが、彼はいわば北朝鮮オタクで、本業のプログラマーのかたわら、北朝鮮旅行の斡旋も手がけている。脱走して北朝鮮に渡った米兵の情報については特に詳しく、ジェンキンス氏の本も読んでいた(「おもしろくなかった」という感想だった)。日本にも何回か来たことがある(彼と最初に交わした会話は安部公房についてだった)。

Markには自分のソ連時代の経験から北朝鮮の生活の機微を類推しがちなところがあった。誰かから「お前は反政府活動で国外追放になったが、北朝鮮なら国の外には出してもらえないのでは」と指摘されていた。
Mark(見習いガイドの深と一緒に)

Lloyd
続いて中国人のLloyd。生まれも育ちも北京で、現在は上海に住んでいるが、パスポートは香港。香港に7年間住んでいたことから取得できたらしい。若く見えるがすでに50代で、23歳の息子がいる。北京のインターナショナル・スクールを出た息子は日本が好きで何回も来日しているらしい。Lloyd自身も日本に何回か来ている。

抗日ゲリラから共産党の役人となった父親と外交官の母親を持つLloydは中国の典型的なエリートだ。小学校時代の4、5年をイギリスで過ごしたのち、北京の大学を卒業して、外務省に入る。外務省時代にはニューヨークの国連に10年間勤務し、同時通訳も務めていた。

外務省を退職したあと、ビジネスの世界に飛び込み、上海をベースとしてドイツ車の輸入などを手がけている。細かいところにまで気を配り、人当たりもよいLloydはビジネスの世界でもうまくやっているようだ。

「中国はもっと未来を見なければならないが、日本も過去を否定してはならない」という意見のLloydに尖閣諸島について聞くと、「ridiculousだ」と即答した。あんな小さな問題で争うのはどちらの得にもならない。日中の協力にこそ未来はあるというわけだ。ただし、「日本が尖閣諸島を国有化したのはまずかった。国有化となれば中国政府としては反応せざるをえない」と言う。「いや、あれは石原知事の動きを封じるためのpreemttive measureで、やむを得なかった」と反論しておいた。Lloydはそこらへんの事情もよく知っているようだった。

彼は「私の息子は日本が好きで、日本人の友達も多い。韓国の友人もいるようだ。若い世代の時代になれば、東アジアも変わるのではないか」との希望的観測を述べていた。日本での嫌中国、嫌韓国のムードがむしろ若い世代のほうに強いと感じている私はそこまで楽観的にはなれない。

毛沢東の評価についてはどうだろうか。Lloydによれば「(毛沢東の)70%はright、30%はwrong」というのがofficial lineらしい。彼自身も、「中国を諸外国の干渉から解放し、統一したのは毛沢東の功績であり、全否定すべきではない」という見方だった。

Lloyd(中央)

JonathanとOksana
Jonathan(Johnny)とOksanaは新婚旅行の一環としてこのツアーに参加した。9月18日にトルコのイスタンブールから始まった彼らの新婚旅行は、ジョージア(グルジア)、中国と続き、このツアーに至る。

Jonathanはイギリス人、Oksanaはラトビア人(リガ出身)だが、現在はベルリンに住んでいる。2人のなれそめは10年前、Oksanaがまだ17歳のときにラトビアの教会の前でJonathanから声をかけられたことから始まったらしい。

Jonathanの仕事はドイツへの投資の斡旋らしいが、詳しい話は聞いていない。Oksanaはフェラガモのショップで店員として働いていた。どちらも非常に気さくで、ツアー中もよく私に声をかけてくれた。

Jonathanは「ほぼ完璧な」(Oksanaの弁)ドイツ語に加え、ロシア語、フランス語もしゃべる。ネイティブの英語話者にしてはめずらしい。旅行歴も相当ありそうだ。私が日帰りしただけの沿ドニエストル共和国には仕事で1週間ほど滞在したことがあるという。南米のガイアナでは身ぐるみはがされたとか(Oksanaもベルリンの自宅前で強盗に襲われ、無我夢中で抵抗した経験を持つ)。

彼らはこのツアーのあとで、北京と上海を経由して、最後の目的地である日本に来た。私は彼らと大阪で再会し、飛田新地を案内することになる。

JonathanとOksana(妙香山で)

このほか、中国雲南省からミャンマーに密入国してカレン族の村に行ったソウル在住のGeoff、8月6日に広島、9日に長崎を訪れたJeremyとMonishaのカップル、セガの欧州総支配人を勤めていたNickなど、紹介したい人物は多いが、今後のブログの中でおいおいふれていこう。

全員の集合写真(平壌で)


2015年10月27日火曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 五日目(10月6日)

早朝、麻田ゲストハウスのベランダから日本海(東海)に昇る太陽を見る。そういえば咸興は海に面していた。
咸興の日の出

今日、列車は日本海に沿って咸興から清津に向けて走る。北朝鮮鉄道の旅のハイライトともいえよう。ゲストハウスで朝食をとり、駅に向かう。我々を駅まで運ぶのは朴運転手。平壌からはるばるここまで空のバスを運転してきたのだ。ただし、朴運転手は清津には行かず、その次の目的地である元山に向かう。清津では地元のガイドと運転手が我々を迎えることになっている。


列車の車窓からは海辺の村々の興味深い風景が展開される。昨年会寧(ヘリョン)から清津に車で移動したときに見た貧しい家並みとは異なり、それなりにきちんとした家々が続く。予想した「貧しさ」が見られない。この地方が実際に会寧・清津より豊かなのか、それとも私の感じ方の変化なのかよくわからない。つまりどこまでが客観で、どこからか主観か、自分でも区別できない。平壌の高層アパートで北朝鮮を判断するのが危険であるのと同様、「北朝鮮は貧しい、貧しいはずだ」という思い込みにも注意しなければならない。「ありのままに見る」とはことほどさように難しい。

沿線の風景 1

沿線の風景 2

沿線の風景 3

沿線の風景 4

沿線の風景 5

沿線の風景 6

沿線の風景 7

沿線の風景 8

沿線の風景 9

沿線の風景 10

沿線の風景 11

咸興と清津の間にはトンネルがやたらと多く、動画を撮り始めるとすぐにトンネルといった場面が少なからずあった。昼食と夕食を食堂車でとり、列車は夜の9時すぎに清津(청진=チョンジン)の駅に到着する。我々を迎えたのは清津・七宝山エリアの現地ガイドである徐(ソ)氏。昨年の北朝鮮東北部のツアーでお馴染みのガイドだ。向こうも私の名前を覚えていた。

ホテルは清津観光旅館。これも昨年と同じ。この旅館のオーナーは日本からの帰国者である姜(カン)氏だと聞いていた。旅館の入口にいた70過ぎの陽に焼けた老人に朝鮮語で「姜さんはいるか」と尋ねてみる。今中国に行っていて留守だとのこと。以下おおよそ次のような短い会話を交わした。

私「姜氏はここの社長(サジャンニム)か」
老人「いや支配人(チベイン)です」
私「姜氏は日本からの帰国者か」
老人「そうです。私も日本からの帰国者です」
ここで朝鮮語から日本語に切り替える。
私「日本のどこですか」
老人「東京です。62年前に帰国しました」
私「私はXXX県の出身です」
老人「雪の多いところですね」(これは最初朝鮮語で言って、続いて日本語に言い換えた)

もっと詳しい話を聞きたかったが、残念ながら時間がなかった。咸興同様、清津でも写真撮影は厳しく制限され、旅館の窓から外部を撮ることも禁止された。

清津観光旅館

2015年10月26日月曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 四日目(10月5日)

早朝5時45分に羊角島ホテルをチェックアウト、6時に平壌駅に着いた。駅前でしばらく写真撮影したあと、列車に乗り込む。列車の座席は特に決められているわけではなく、どのコンパートメントのどの席に座っても自由なのだが、旅が進むにつれて同じコンパートメントに集まるメンバーが固定化されてくる。私は、ボストンから来たBob、ロシア系アメリカ人のMark、香港のパスポートを持つLloydと同じコンパートメントになることが多かったが、この日はJames、Jane、Nickというイギリス人グループと一緒のコンパートメントに入った。

Janeは現在はシドニーに住んでいるが、もともとはイギリス出身で、パスポートもオーストラリアとイギリスの両方を持っている。2児の母。子供たちは普段はオーストラリア訛りの英語をしゃべるが、母親に対してはイギリス訛りの英語をしゃべる「バイリンガル」だとか。Jamesはイングランドのチェッカハム(ネットでサーチしたが出てこないので聞き間違えかもしれない)、Nickはロンドンに住む。英国系の3人が話すローカルな話題についていくのはむずかしいが、ときどき彼らが私に地名などを解説してくれる。

これから向かう咸興(함흥=ハムン)は北朝鮮第2の都市。私にとってははじめての訪問で、いやがおうでも期待が高まる。

朝食と昼食は食堂車でとる。朝食もまずまず充実していた。ふわふわの薄いパンが思いのほかおいしく、何枚も食べた。
食堂車での朝食

車窓からの風景が興味深い。写真撮影については「景色はいいが、人は撮るな」というのが一応のガイドラインらしいが、どこまで適用されるのかあいまいだった。少し遠慮しながら、かなり自由に撮ったというのが真相だ。


沿線の風景 1

沿線の風景 2

沿線の風景 3

沿線の風景 4
   
沿線の風景 5
 
沿線の風景 6

沿線の風景 7

沿線の風景 8

朝6時過ぎに平壌を出た列車は午後3時半ごろに咸興に着く。平壌と異なり、咸興では写真撮影は厳しく制限される。基本的にガイドが「撮ってよい」と明示的に指示した場所でしか撮れないらしい。平壌と並んで以前から外国人に開放されていた開城、妙香山、元山などでは比較的自由に写真を撮れるのだが、開かれてからあまり間がない咸興や清津では当局もかなり神経をとがらせているようだ。

神経をとがらせるには理由がある。咸興や清津は、平壌はもちろん開城や元山に比べてもはっきりと貧しいからだ。いいところを宣伝し、遅れたところ、貧しいところを隠したいのはどこの国でも同じだが、北朝鮮ではこれが極端な形で現れる。しかし、貧しい風景、つまり古くからの朝鮮が残っている風景のほうに惹かれるのは私だけではないだろう。平壌の高層アパートやしゃれたレストランよりも、清津の崩れかかったような家、舗装していない道、人々の質素な身なりのほうが被写体としてずっとおもしろい。これはなにも北朝鮮に限ったことではない。

ズームを利用して咸興の人々の生の姿をとらえようと試みたが、私の安物のカメラではおのずから限界がある。
咸興市内

咸興では訪問場所も限られていた。到着した当日に大劇場の前、金親子の銅像、そして肥料工場を訪れただけで、明朝には清津に向けて発つことになる。Youtubeには咸興の街の様子や子供たちの出会いの動画もかなりアップされているのだが、そうした偶然の出会いや交流もなかった。
 
肥料工場 1

肥料工場 2

宿泊したのは麻田(マジョン)ゲストハウス。私を含め数人は少し離れている別棟の部屋を割り当てられた。麻田ゲストハウスは新しく立派な建物だが、お湯は出なかった。夕食はゲストハウスでとった。

2015年10月25日日曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 三日目(10月4日)

午前中に妙香山を観光し、午後に平壌に戻るのが今日の予定だ。まずは国際親善展覧館へ。ここには世界各国の政治家や友好団体から金親子に贈られた物品が展示してある。前回にここを訪れたのは2005年だから、10年ぶりの再訪となる。10年前には靴にビニール袋をかぶせてから入館となったが、今回はマットの上で靴をぬぐうだけでよかった。写真は禁止で、入館時にカメラを預けるのは10年前と同じ。

スターリンや金丸信、小泉純一郎などからの数多くの贈呈品を駆け足で見たあと、高麗時代に建造された普賢寺に向かう。ここでは見習いガイドの深が現地ガイドを通訳した。寺内には小さな土産物屋があり、ツアー同行者たちはTシャツやバッジなどの記念品を結構買っていた。この種のものに興味がない私としては不思議な感じがする。

妙香山での移動は朴運転手が平壌から運転してきた専用バスによる。妙香山駅に移動し、駅や列車の写真を撮ってから出発進行。ちょっと遅めの昼食を食堂車でとる。このときはカレーライスが出た。朴運転手は列車と並行し、空のバスを平壌に向けて運転しているはずだ。

妙香山駅

列車を背景に集合写真

2人のウェイトレスがコーヒーのポットをカップを持って各コンパートメントを回ってくる。無料だと思って頼んだが、有料だった。一杯1ユーロ。中国元では8元。ユーロのほうが若干有利だ。コーヒーはもちろんインスタント。沿線から見た風景は、10年前にバスの車窓から見た風景とちょっと異なるようだ。列車の車窓からのほうが生活をより身近に感じられる気がする。

沿線の風景 1

沿線の風景 2

沿線の風景 3

沿線の風景 4


沿線の風景 5

沿線の風景 6


夜の7時ごろに平壌到着。朝鮮国際旅行社(KITC)直営のレストランでビビンバをメインとした夕食をとる。
明日は咸興(ハムン)行きだ。早朝の5時45分に羊角島ホテルをチェックアウトとのこと。咸興のホテル(麻田ホテル)ではお湯が期待できないから、今夜しっかりとお湯を利用しておくようにとのアドバイスが添乗員のSarahから出される。

北朝鮮鉄道の旅2015 二日目(10月3日)

ホテルで朝食をとったあと、恒例の平壌市内観光。まず金親子の銅像に花束を捧げて一礼。平壌市民の礼拝の様子を見たかったのだが、草むしりと清掃にかり出されている数十人以外に地元の人の姿はなかった。

続いて朝鮮戦争博物館(祖国解放戦争勝利記念館)の見学。訪朝6回目、平壌を訪れるのも5回目の私だが、ここを見学するのははじめてだ。軍服を着た女性が英語で案内する。朝鮮戦争に使われた戦闘機、車輌、武器などが展示してある。私はこの手のものにはほとんど興味がない。最後に見た360°のパノラマもすごいといえばすごいが、お金のかけどころが違うのではとの感想しか持てなかった。
同じガイドで大同江に停泊しているプエブロ号も見学する。これは私にとっては2度目だ。1938年生まれのBob(ボストン出身のアメリカ人)はプエブロのニュースをリアルタイムで知っていた。


朝鮮戦争博物館のガイド

次に3Dアートの展示会を見る。会場にはいると青と赤のセルロイドの眼鏡を渡され、展示してある写真作品の3D効果を鑑賞するものらしいが、子供だましという感を否めない。それより感心したのは、会場にいた関係者の女性がみごとなイギリス英語をしゃべったことだ。聞けばイギリスに何ヶ月か語学留学したという。たった数ヶ月でこれほどまでにうまくイギリス訛りを習得できるものなのだろうか。

昼食は市内のレストランで朝鮮風しゃぶしゃぶ(英語でhot potという説明だった)。いつもなら平壌に着いた最初の夕食で出される定番料理だ。

朝鮮風しゃぶしゃぶ(Hot pot)

昼食後、ホテルに立ち寄って荷物をまとめ、いよいよ北朝鮮鉄道の旅のはじまりだ。最初の行き先は妙香山。3時過ぎに平壌駅に着き、6人掛けのコンパートメントにそれぞれ乗り込む。これから数日間我々の主要な移動手段となる列車で、食堂車や寝台車を備えている。疲れたときには、寝台車で休めばよい。料理人やウエイトレス、車掌など、ガイドを除いても10人以上の北朝鮮スタッフが同乗しているようだ。

ツアー専用列車

私にとっては2度目の妙香山だが、列車の車窓からの眺めはまた格別。食堂車でとるはじめての夕食。ビールやミネラルウォーターが付き、なかなかに豪勢だ。


車内でのはじめての夕食 

4時過ぎに平壌を出発した列車は5時間弱で妙香山に着く。すでに夜はふけており、そのままホテルにチェックイン。Chongchon Hotelということだが、漢字でどう書くかは不明。120ユーロ出せば、改装したばかりの香山ホテルにアップグレードできる。例の三角形のホテルだ。5、6人がアップグレードを選択したもよう。

2015年10月23日金曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 一日目(10月2日)

地下鉄とエアポート・エキスプレスを利用して午前9時過ぎに北京首都空港の第2ターミナルに到着した。平壌行きのフライトは12時ちょうど。チェックイン・カウンターまでたどり着いたが、航空券もビザも持っていないから、添乗員のSarahの一行を待つしかない。

10時ちょっと過ぎにSarahとツアー同行者の一行が到着し、ビザを渡される。チェックインと搭乗はとどこおりなく進んだ。機内に入り、写真を撮ろうとすると、客室乗務員から朝鮮語で「撮るな」注意される。これはまあ予想していたことだ。あとでこっそりと写真や動画を撮ろうと試みたが、うまくいかなかった。

機内では昼食としてハンバーガーが出される。飛行機を利用して北朝鮮に入るのは5年ぶりだが、以前にはトレイに載せた昼食が出されたことを覚えている。ハンバーガーは平壌から北京への帰路に出た。見てくれはあまりよくないが、味はそこそこいける。

2時間余りのフライトで平壌に到着。オープン間もない新しいターミナルビルは、そこだけとってみれば北京空港や関西空港と見間違えるほどだ。

空港には5人の北朝鮮スタッフが我々を待っていた。メインのガイドの李、その上司とおぼしきもうひとりの李。どちらも北朝鮮にしては上背がある。加えて、若手のガイドの韓(ハン)とスタッフの中の唯一の女性であるガイド見習いの深(シン)。「シン」と聞いたときには「申」ではないかと思ったが、あとで「深」だと判明した。珍しい姓だ。さらに運転手の朴(パク)。我々が列車で移動する際、朴も空のバスで列車に並行して移動し、着いた先でわれわれのドライバーをつとめる(ただし清津は除く)。

朴が運転する専用のミニバスで空港のある順安から平壌の市内に入る。訪朝経験があるのは4人だから、残りの10人にとってはさぞかし感慨深い風景だろう。

街で見かけた婦人交通警官

ホテルにチェックインする前に立ち寄ったのは凱旋門。見習いガイドの深が英語で説明する。ちょっと緊張していたようだが、無事にこなした。私にとっては特に目新しい内容はない。金日成の凱旋を記念して建てられたこと、パリの凱旋門より10メートル高いことなど。深にとって今回が3回目のガイド経験。あとで聞いたところによると、彼女は北朝鮮随一のエリート大学金日成総合大学の出身だ。父親は文部省、母親は外務省の勤務らしい。名前は失念したが平壌のメインの通りのどこかに住んでいたとき、隣家は日本からの帰国者だったという。

凱旋門を説明する見習いガイドの深

Koryo Toursのパンフレットでは宿泊先は高麗ホテルとなっていたが、高麗ホテルはいっぱいで、中州にある羊角島ホテルに変更になっていた。これについては前日の説明会で聞いていた。

ホテルでの夕食のあと、ホテル内の本屋や土産物屋、地下のカジノなどを覗き、ミネラルウォーター1本を2中国元で購入して、29階にある自分の部屋に入った。このあと平壌には日をおいてさらに4泊することになるが、いつも同じ部屋を割り当てられた。

羊角島ホテル地下のスロットマシーン