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2016年9月21日水曜日

アフガニスタン 最近のビザ事情(2016年9月)

このブログに記録しているように、私はアフガニスタンを2回訪れた。2013年にタジキスタン経由でイシュカシムという小さな村に入ったのが1回目。そのおよそ2年後、2015年の7月にガイド付きでカブールとバーミヤンを訪れた。

1回目のビザはタジキスタンのホーログで簡単に取得できた。2回目のビザは東京のアフガニスタン大使館に申請し、ガイドを提供してくれた旅行会社(Untamed Borders)のLetter of Invitationを提出することによって入手できた。

それからさらに1年以上経過した今(2016年9月)、このどちらの方法でもビザの取得が難しくなっている。

ホーログでのビザ取得は2015年以降実質的に不可能になった。ドゥシャンベの日本大使館からのレターがないとビザを発行してもらえなくなったのだ。日本大使館がアフガン行きを推薦するレターを発行する可能性はゼロに近い。

他方、東京のアフガニスタン大使館に申請した場合も状況は厳しい。

下記はドバイ在住の若い日本人女性のブログであり、ドバイのアフガニスタン領事館にビザを申請した顛末が記されている。

http://seiwanishida.com/archives/2611

このブログによると、「ビザを申請した際に、他にも2名の日本人の名前が載ったリスト(彼らもまたUntamed Bordersを通じて申請していたらしい)を見たが、彼らもまたビザを取ることができなかったとUntamed Bordersの代表から連絡をもらった」とのことだ。つまりUntamed Bordersの保証があってもビザは貰えないのだ。

ビザを出さないというのはアフガニスタン政府の意向ではない。日本政府がアフガニスタン政府に日本人向けのビザを出さないように要請していることの反映にほかならない。日本の外務省としてはともかくめんどうな事態を避けたいということなのだろう。しかしアフガニスタンにはごく少数ながら観光で生計を立てようとしている人もいる。またどこもかしこもが一律に危険なわけではない。危ないから兵隊だけを送っておけばいいという考えには納得できない。

いずれにしても現時点では、特別なコネでもない限り観光目的でのアフガニスタン訪問はほぼ完全に閉ざされている。比較的最近イラン北方のマシュハドにあるアフガン領事館で日本政府のレターなしでビザを取得してヘラートを訪れたというブログをどこかで見かけたこともあるが、確かではない。

アフガニスタンの最近の治安はどうだろうか。残念なことに私が訪れた1年前に比べて改善のきざしは見えていない。悪くなっているということは言えても、よくなったとはとうてい言えない。最近ではハザラ人の集会を狙った自爆テロが発生し、80人以上が死亡している。この事件はタリバンではなくISによる犯行らしい。

これまで旅行者がターゲットとなるテロは比較的少なかったが、今年の7月末にはヘラート付近をバスで移動中の欧米人のグループが襲撃され多数の負傷者を出している。

Foreign tourists attacked in western Afghanistan
https://www.theguardian.com/world/2016/aug/04/foreign-tourists-attacked-in-western-afghanistan-says-officials

記事からするとこれはちょっと無謀なツアーだっとように思える。まずヘラート付近を陸路で移動することの危険性。次にイギリス人、アメリカ人など、合計12人のグループというのも問題だ。

私がお世話になったUntamed BordersのJamesがこの記事の中でコメントしているように、アフガニスタン国内での移動は原則空路にし、やむをえず(たとえばフライトがキャンセルされたような場合)陸路にするときには二重、三重の措置をとるのが普通だろう。12人のグループというのも大きすぎ、目立ちすぎる。Untamed Bordersでは最大3、4名に抑えているとのことだった。

アフガニスタンは深刻な問題を多く抱えながらも、景色はすばらしく、親切な人も多い。何年待てば、あるいは何十年待てば、普通に旅行できるようになるのだろうか。

2016年9月12日月曜日

アフガニスタン2013 タジキスタンへ戻る

9月23日。

今日はタジキスタンへ戻る日だ。朝8時ごろに朝食を済まし、タジクとの国境へ向かう。宿にタクシーを頼むと20ドルとのこと。来るときは2ドルだったから、これは明らかに高すぎる。20ドルはオフィシャルな価格だ。値切るか、または徒歩で行くという選択肢もあったが、ここは言い値のままタクシーを利用することにした。アフガンに入ってから朝夕食付きの2泊の宿代60ドル以外は一銭も使っていない。アフガン貨幣への両替さえしていない。アフガニスタンのような国を旅行者として訪れたなら、多少はお金を落とすのが礼儀だろう。

写真を撮って貰いたい女の子と撮られたくない女の子

タクシーは8時半頃に国境に到着した。アフガン側の入出国事務所は開いているが、タジク側がまだ開いていないので30分ほど待つ。ここにはアフガンの兵士が30、40名駐屯しており、行進(の練習?)をしているが、どことなく締まりがない。偏見かもしれないが、北朝鮮の中高生のほうがもっとしっかりした行進をするように感じた。

やがてタジク側の入出国事務所もオープンしたので、アフガンを出国してタジクに再入国する手続きを済ます。このときも国境を通過するのは私ひとりだった。アフガン側では例のインターポールの男2人が私の荷物をひとつひとつ調べる。今回は私の許可もなく勝手に私の飴玉を口に入れていた。

タジキスタンへの再入国も問題なかった。タジクの兵士の中にひとり、モンゴロイド系の若者がいたのが目についた。タジク人はほとんどがペルシャ系統だから、こうした東洋系はめずらしい。おそらくタジキスタンには少数のキルギス人も住んでいるのだろう。この若者は私に向かって何か言っていたが、どんなことを言っていたのか忘れてしまった。

タジク側のイシュカシムとホーログをつなぐ道路に出て、10分くらい待つとマルシェルートカがやって来たので、手を挙げて乗車する。途中立ち寄った食堂では同乗の男たちがウォッカを注文し、私もお裾分けに預かった。おそらく彼らもイスラム教徒だろうが、アルコールには抵抗がないらしい。以前フランスで出会ったカザフスタンの女性(司法省の役人とのことだった)との会話が思い出される。モスレムかと聞くとそうだというので、「じゃあ豚肉は食べてないのか」と尋ねる。食べないとの返事だった。さらに「ではアルコールは?」とたたみかけるとと、笑ったまま答えなかった。

この日はホーログに1泊。ひょんなことから民宿に泊まることになった。宿の若い女性とゲストのキルギス人の青年がタジク語でもキルギス語でもなく、ロシア語で話していたのが印象に残っている。

民宿の夕食(ホーログ)

翌朝マルシェルートでカドゥシャンベに向かった。途中、運転手の出身地である村で休憩をとったり、食堂で昼食をとったりしながら、夜遅くドゥシャンベに到着し、運転手に案内されたホテルに投宿した。翌日まる1日をドゥシャンベの観光に費やしてから、イスタンブール経由で帰路につき、このはじめてのアフガニスタン旅行は終了した。

運転手の村でいちじくを食べる

ネットにはイシュカシム滞在時に発生するいろいろなトラブルが報告されている。国境で賄賂を要求された、現地の警察に登録するよう求められた、警察へ出向くもたらい回しにされてなかかか登録できなかった、結構な額の登録料をとられたなどなど。幸い、私はその種のやっかい事には遭遇しなかった。アフガンのイミグレで没収された飴玉4粒の被害で済んだのは運がよかったというべきか。

以下はすでに「アフガニスタン2015 心残りと後日譚」に記載した内容であるが、ここに再掲して結びとしておこう。

イシュカシムから帰国し、ネットで調べているうち、イシュカシムにおける麻薬汚染の深刻さを取り上げた記事を発見した。日系米人の写真家によるその記事は「イシュカシムの成人の半分以上は中毒者」と伝えていた。アフガニスタンでは、機織りなどの過酷な労働を原因とする痛みを和らげるためにアヘンは古くから広く使われていた。だが、内戦が続き、経済が行き詰まる中、そのアヘンやさらにはヘロインが社会の深部にまで度を超して浸透しているのだ。いまやアフガニスタンは世界最大のアヘンやヘロインの生産国であるだけでなく、その最大の消費国でもある。
たった3日間の滞在であるとはいえ、私はいったい何を見ていたのだろう。イシュカシムの牧歌的な風景の裏側にあるもの、平和なたたずまいのすぐ下に潜んでいるものはまったく見えていなかった。

イシュカシムのメインストリート

2016年9月6日火曜日

アフガニスタン2013 イシュカシム二日目

9月22日。

宿でボリュームのある朝食をとったあと、イシュカシムの村の探訪に出る。イシュカシムは標高3000メートルと高地にあるため、空気は澄んでいるが、坂道を歩くと息が切れる。

遙か遠くの山々を背景に小麦を刈り入れている男たちや牛や羊の世話をする女性たち。働いている女性たちはブルカではなく、スカーフで頭を覆うだけ。平和な光景が広がるすがすがしい朝だ。

小麦の刈り入れ

羊の放牧

メインストリートで見かける女性のほとんどがブルカを着用している中、スカーフだけの女性がいたので写真を撮らせてもらう。

スカーフの女性

前日にアフガン・バザールで購入したサモサと夕食に出たリンゴで昼食の代わりとする。朝食をたっぷりとったので腹が減っていない。

午後、村のはずれまで行くと、若い男に声をかけられ、家に招待される。男はカブール在住で、最近この家の女性と結婚したばかりだという。つまりはカブールから妻の実家を訪れたわけだ。家に入り、この家の父親(あるいは祖父)とおぼしき男性、もうひとりの男性と2、3歳の子供を交え、お菓子とお茶をいただく。女性も見かけたが座には加わらなかった。

お茶に招かれる

子供(男の子だとのこと)

英語を話せるのは私に声をかけてきた男性だけらしく、会話はもっぱら彼との間で進行した。

イシュカシムはタジキスタンに隣接していることもあり、住民の大半がタジク人だ。カブール在住の男性もタジク人で、もともとはこの村の出らしい。彼が英語を話せるのは、カラチ(パキスタン)のアガ・カーンの大学で学んだからだという。アガ・カーンはイスラム教イスマイリ派のリーダーだ。アガ・カーンの信奉者はインドやパキスタン、中央アジアに多い。タリバンの攻撃を数回受けたカブールのSerena Hotelはアガ・カーン財団が建てた高級ホテルだ

男性にアフガニスタンの治安を尋ねる。北部でもクンドゥーズは「パシュトゥーンが入り込んでいるので危ない」とのことだった。パシュトゥーンとはタリバンを指す。タリバンにパシュトゥーン人が多いことは確かだが、タリバンがすべてパシュトゥーンというわけではなく、パシュトーンがすべてタリバンというわけでもない。現にカルザイ前大統領もパシュトゥーンだ。

男性からカブールの住所やメールアドレスを教えてもらったが、帰国後にどこかで紛失してしまった。このため2年後にカブールを訪れたときに連絡をとることはかなわなかった。

村の子供たちの写真をとりながら、メインストリートに戻る。子供たちの多くは学校に通っているようだ。10年生用の英語の教科書を見せてもらった。「I am a journalist. I graduated from the Kabul University.」といった文から始まる内容だった。

学童

10年生用の英語の教科書

おもしろいのは女の子たち。「(写真に)撮られるのはこわいけど、撮ってほしい」というジレンマがみえみえだ。カメラを向けると一目散に逃げていくが、やがてまたじりじりとこちらのほうに歩み寄り、結局写真を撮るはめに。あとで撮った写真を見ると、遠くにブルカ姿の女性が2人歩いている。この子たちが大きくなったときには、ブルカなど着用しなくてよい世の中になっていることを願う。

女の子たち

メインストリートのある店で、この地にはめずらしく髭をたくわえていない中年の男性から声をかけられ、お茶を飲みながら話す。マザーリシャリーフから来た石油エンジニアとのこと。中国と共同で石油の探索を行っているという。「ここらあたりはアフガニスタンでももっとも貧しい地域だ。見ればわかるだろう」と言うが、ここ以外のアフガニスタンを知らない私にとっては判断のしようがない。子供や大人の物乞いであふれているバングラデシュやエチオピアに比べれば、そうひどい状態だとは思えない。

当時のカルザイ政権を「Very good government」と評価する男性は、「来年4月の大統領選挙が心配だ」と言う。その後の経緯を見れば、この男性の心配は的中したとも言えるが、ともかく武力衝突という最悪の結果が避けられたことでよしとするしかないだろう。

クンドゥーズの情勢については「まったく問題ない」と断言していた。カブール在住の男性と正反対の見解だが、その後の展開は残念ながらカブール在住の男性のほうに軍配をあげている。

ゲストハウスの夕食はこの日もたっぷりあり、すべて平らげることは不可能だった。鍵かかっていない無防備の部屋でたったひとり、アフガン二日目、そして最後の夜を過ごす。