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2018年3月24日土曜日

平壌からウラジオストクへ2018 三日目その1(列車出発)

3月1日(その1)。

朝7時に羊角島ホテルをチェックアウトして、平壌駅に向かう。朝食を食べる時間はなかったが、列車に持ち込む簡単なサンドイッチをホテルが準備してくれていた。

駅には羅先行きの列車が待機している。10両ほどの車両からなる列車だが、我々が乗るのは最後尾の「国際車両」で、朝鮮語とロシア語で書かれた「平壌ーモスクワ」というプレートがかかっている。

平壌ーモスクワのプレート

金(女性)ガイドとはここでお別れ。金(男性)ガイドは清津まで我々と同行する。さらに安(アン)という若い男性ガイドが加わり、我々と列車の旅をともにする。

出発を前に全員の集合写真

8時ごろに列車は出発する。最後尾の「国際車両」は全部で7つのコンパートメントからなる。コンパートメントにはそれぞれ2段ベッドが2つ、つまり4人が入れるようになっている。Koryo Toursのグループは北朝鮮ガイドを含めて12人であり、No.2、No.3、No.4の3つのコンパートメントが割り当てられた。私はオーストラリア人夫妻のCorrieとNancye、それに英国人のTomと一緒にNo.4のコンパートメントに入った。

コンパートメントの中

No.1のコンパートメントは乗務員用であり、No.5から7のコンパートメントは北朝鮮の男性たちで占められていた。彼らの行き先はハバロフスク。極東ロシアの建設現場などで働くのだろう。Nancyeと私の間でslave labour(奴隷労働)という言葉が思わず口から出てしまった。

国家にピンハネされ、おそらくは一定期間(たとえば3年)勝手に辞めることができないなど、確かに奴隷に共通する要素はある。問題はこうした仕事場をみずからの意思で選んだのかどうかだ。その選択に強制の要素があるのかどうか。ここらへんのことを聞き出すのは不可能だ。当方の言語能力の問題以前に、北朝鮮の列車の中は本音を聞き出せるような環境ではない。

我々の「国際車両」から前方の通常の車両への通路はブロックされていた。これにはがっかりした。北朝鮮の人たちがどのように列車を利用しているか、どんな人がどこからどこへ移動するために、また何の目的で列車を利用しているのか。こうした日常生活の一端を垣間見ることこそ、私が今回のツアーに参加した最大の理由だったからだ。

ハバロフスクへ向かう男性たちは普段着の北朝鮮人民ではない。こうした「海外へ働きに出る人々」との交わりなら、2013年の訪朝の際に平壌から中国の丹東の列車の中ですでに経験している。商売で中国に行く北朝鮮男性たちと同じコンパートメントの中で、食べ物やソジュ(焼酎)をともにしたのだ。

平壌を出た列車はいくつかの駅で停車しながら西へ進む。車窓から見えるのは私にとってはじめての北朝鮮の雪景色。

車窓から1


車窓から2

12時を過ぎ、昼食をとることにした。車両に付設されているサモワールのお湯を北京で調達したカップヌードルに注ぎ、平壌で調達したイカ天や肉団子をおかずにしてしばしのグルメタイム。イカ天や肉団子は同室のオーストラリア人夫妻にもお裾分けした。

この60代のオーストラリア人夫妻は2度目の訪朝だ。日本にも2回来たことがある。1度目は1978年、日本からナホトカに渡り、シベリア鉄道でモスクワまで行ったとのこと。2度目はオーストラリア在住の日本人女性の案内でかなり広く日本を探訪したもよう。

隣のコンパートメントには82歳のパキスタン系英国人Afzalがいた。パキスタンのパンジャブの出身で、1967年にロンドンに渡ってから51年になる。パンジャブ出身だが、シーク教徒ではなく、モスレムだ(同じパンジャブでもインド側はシークだが、パキスタン側はモスレムとのこと)。

Afzalは北朝鮮ガイドの間では「ハラボジ(おじいさん)」と呼ばれ、列車移動中もコンパートメントの中で横になっていることが多かった。だがその旅行歴はなかなかのもの。日本を旅行したときには、下関から釜山までフェリーで渡ったとか。私が昨年訪れたチェチェンとダゲスタンには2011年に足を踏み入れている。今回も、ウラジオストクで解散後、ひとりでハバロフスクまで列車で行き、さらにプリヤート共和国の首都ウラン・ウデにまで足をのばし、モスクワ経由でロンドンに帰る予定だ。

列車がガタゴトと雪景色を走る中、このハラボジとなぜか日本軍のマレー侵攻の話になった。英国軍に編入されていたインド兵の中には寝返って日本軍についた者もいたが、Afzalによると、こうした寝返りを促すために「日本軍は戦略的にイギリス兵の捕虜よりもインド兵の捕虜を優遇した」とのことだった。その中心となったのが「フジワラ」だと言う。シンガポールでのフジワラの行動は第一次大戦でのアラビアのロレンスに似ているとのこと。インド人の目の前でイギリス人が惨めな姿をさらすことにより大英帝国は崩壊した。「The fall of Singapore was the end of the British Empire」という結論だ。

私は「フジワラ」なる人物を知らなかった(どこかで読んだことがあるかもしれないが、忘れていた)。帰国してから調べると、藤原岩市少佐のことで、藤原機関(F機関)の組織者だった。

平地から山あいに入るにつれ、雪も深くなっていく。陽も暮れかかるころになると、隣のコンパートメントの北朝鮮グループとの接触が徐々に始まる。(この稿続く)

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