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2015年9月24日木曜日

ソウルの辺境 2015年3月

3月8日から11日にかけて、韓国のソウルへ行った。3泊4日の短い旅だ。目的は韓国語の小説を何冊か購入すること。Amazonが韓国に進出していないこともあり、韓国語の本は現地で直接に購入するのがもっとも手っ取り早い。

私の韓国語学習歴はかなり長い。はじめてNHKのハングル講座を聴いたのは5、6年前、いやもっと前か。だが、いつまで経っても初心者のレベルを出ないのが悲しい。歳のせいもあるが、もともと素質がないからだろう。それでも、翻訳本と照らせ合わせながら、1年以上をかけて小説を1冊読んだ。のちに盗作騒ぎで物議を醸した申京淑(신경숙=シンギョンスク)の외딴방(離れ部屋)だ。おもしろかった。韓国の社会と歴史を知るうえで、韓流ドラマなどよりずっと役に立った。

続いて何か読みたかった。日本語の翻訳が出ている本に限られるから、選択は自ずから限られる。購入候補となる何冊かのリストを用意し、LCCのPeach便で関空からソウルに飛んだ。着いた翌日の3月9日に永豊文庫と教保文庫を巡り、店員の助けを借りながら、目当ての本を5冊購入した。1冊読むのに最低1年はかかるから、当分はこれで十分だ。

翌10日はソウルの「スラム街」の探訪に当てた。ソウルはWi-fiのフリースポットが至るところにあり、ネットで調べるのも楽だ。いろいろと検索した結果、鹿川(ノクチョン)と九龍(クリョン)を探ることにした。幸いに空は雲一つなく晴れており、3月中旬のきりっとした空気が気持ちいい。

まず鹿川(녹천=ノクチョン)。地下鉄1号線でソウル中心部からおよそ30分。鹿川近くになると電車は地上を走る。鹿川駅に入る直前、目指す鹿川マウル(마을=村、町)が車窓から見える。駅を降りて、電車が来た方向に徒歩で引き返すこと約5分、取り壊された家屋、その廃物、まだ残っている人気のない家屋が混在する風景が目に入る。鹿川マウルだ。

鹿川(ノクチョン)マウル

解体用の重機や乗用車が何台か停まっているが、人の姿は見あたらない。動画を撮りながら、路地の中に入っていく。鹿川マウルの取り壊しが進んでいることはネットで調べて知っていた。しかし、取り壊しがどこまで進んでいるかについてはまったく知らなかった。現況がこうだとすると、おそらく1年も経たないうちに完全に更地になってしまうのではなかろうか。


しばらく行くと寺院が見える。寺院の中庭に入る。かすかに読経の声が聞こえる。数人いるようだ。上がり口には脱いだ靴が何足が見える。中にお邪魔しようかとも考えたが、やめておいた。

鹿川マウルのお寺

お寺の外にあった仏像

鹿川マウルをあとにし、続いて九龍(구룡=クリョン)マウルに向かう。九龍は江南(カンナム)区にある。江南はソウルの中でも富裕層が多く住む区域で、高級アパートやしゃれた店が集まっている。九龍マウルはその「セレブ」な江南のただ中にひっそりと埋もれている。

九龍マウルが江南のどこにあるかの情報はまったく持っていなかった。正確な住所も知らなかった。江南エリアに「九龍」という駅があるので、おそらくその辺だろうと見当をつけていただけだ。鹿川から九龍まで、いくつか乗り換えながら、小一時間かけてたどり着く。

駅を降りたがいいが、どっちの方向へ行ったらいいのかわからない。駅の周りは閑散としており、人通りもほとんどない。ともかく道の一方を下っていくことにした。高層アパートらしきところから、若い女性が出てくる。ここは下手な韓国語を使うより英語だ。"Speak English?"と聞くと"Yes"という答え。九龍マウルへのおおよその行き方を教えてくれた。今来た道の反対の方向だ。「歩けば20分くらいかかるから、バスに乗ったほうがよい」とのこと。だが、どのバスに乗って、どこで降りたらいいのか。「いや徒歩で行く」と答え、反対方向に歩き出す。

10分ぐらい歩き、もう一度道を尋ねる。こんどは50歳くらいのアジョシだ。韓国語で尋ねる。かなり近くまで来ているらしい。九龍マウルといういわくありげな場所を外国人、しかも日本人らしき人物が聞くのだから、警戒されたり、いぶかしがられたりするのではないかと思っていたが、さっきのアガシもこのアジョシもごく普通に答えてくれた。「XXX百貨店にどう行くのか」と聞いた場合と同様の答え方だった。

教えられたとおりにしばらく行くと、車が頻繁に行き交うメイン道路の傍らにそれらしき家並みがかいま見える。九龍マウルだ。

細い道を通り抜け、マウルの中に入る。思い描いていたとおりの光景だ。人気はまったくない。九龍マウルの住民は2000人くらいといわれているが、政府やソウル市は住民の立ち退きを進めており、人は減っているらしい。動画を撮りながら、路地から路地へと入っていく。中から話し声が聞こえる家もある、洗濯機や傘など、生活のにおいもする。しかし空き家も多く、周りは異様に静まりかえっている。

九龍(クリョン)マウル

国旗を掲揚している家が何軒かある。消火器も目に付く。家が密集しているだけに火事は大敵だ。実際、何ヶ月か前には火災が発生し、死者まで出ている。


灰になった練炭がところどころで山積みになっている。オンドルや電気ストーブ、石油ストーブではなく、練炭が暖をとる主要な手段となっているのだろう。申京淑の「離れ部屋」にも練炭を買いに行く場面が何回か描写されていた。


教会らしき建物もある。空に目をやると、江南の高層ビルが見える。


韓国にはタルトンネ(달동네)という言葉がある。タル(月)のトンネ(界隈、近所)という意味で、都市の中心に住む場所を持たない貧しい人たちが山の中腹に急ごしらえで建てた家屋の集まりを指す。釜山のタルトンネなどは今や観光スポットとなっている。鹿川マウルや九龍マウルは平地に位置しており、月に届くような山の中腹にあるわけではないから、タルトンネに該当するかどうかは確かでない。

九龍の一風景

リッチな江南のふもとにある九龍マウルは韓国政府やソウル市からすれば目障りだろう。風呂やトイレは共同、暖房や冷房もままらず、火災のリスクも大きい。住んでいる人々の福利からしても望ましくない。この種のトンネを取り壊して、低所得者用の住宅を建てるという政策はその意味では理にかなっている。しかし、住民の意思を無視した強制的な排除には疑問が残る。新宿の西口公園や大阪城公園のブルーシートのテントの排除についても同様だ。厳密に法律を適用すれば違法かもしれず、見た目もよくないとしても、「貧しく住む」という権利も存在するのではなかろうか。そうした多様性を受け入れる余裕がほしい。

2015年9月20日日曜日

北朝鮮旅行2014 まとめ

北朝鮮に何度も行くのはなぜかとよく聞かれる。簡単に言えば好奇心だ。もっと立派な理由がほしいところだが、正直なところ、好奇心と答えるのが一番真実に近い。しかし、単なる好奇心なら、一度か二度行けば満たされるはずだ。5回も行くには、もっと何かがあるのではないか。その「何か」は私にもよくわからない。わからないままに、思いついた理由らしきものをいくつか挙げてみよう。

1つはノスタルジー。人々の服装はおしゃれとは縁遠く、農村では牛が田圃を耕し、都市部でもリヤカーが重要な運搬手段となっている。荷台に多くの人を乗せたバス代わりの古いトラック。ときには木炭車。ランニングシャツ1枚の男たち。移動は歩くか、自転車。水着ではなく下着姿で川で水浴びをしている田舎の子供たち。こうした風景が日本の昭和20年代、30年代に重なり、都市から遠く離れた地方で育った私の幼年時代や少年時代の記憶を呼び覚ます。もっとも、昭和の日本が急速に発展したように、北朝鮮のなつかしい光景も徐々に消えつつあることも否定できない。

ロシア人のAntonが清津とその近郊で撮影した写真を紹介しておこう。最初の写真のハングルの看板には「プリョン薬局」と書かれている。

清津の通り

自転車

川遊びする子供たち

次に北朝鮮の人たちがときおり見せる反応や表情。すべてがコントロールされ、演出されているようにみえても、自然の感情は抑えられるものではない。平壌の高麗ホテルの中、掃除係のおばさんたちが集まっている横を通り過ぎようとすると、そのうちの誰かが私に朝鮮語で話しかける。つたない朝鮮語で答える私とドッと笑う彼女たち。つくられた笑いではなく生の笑いだ。サーカスでピエロの演技に爆笑する子供たちの笑いも本物だ。「共和国にもアルコール依存症は存在するのか」という私の問いに、「そりゃ、人間ですからね」と答えたガイド。道の向こう側から「ハロー、ジャパン」と声をかけてくる2人の少女。他の国ならどうということのない瞬間が北朝鮮ではかけがえのない貴重な瞬間となる。

3つ目は朝鮮の歌舞に対する私の興味だ。新高山(シンゴサン)タリョンやセタリョン、珍島(チンド)アリランといった民謡を知ったのも北朝鮮を通じてだ。カヤグムの音もなぜか韓国のものより北朝鮮のもののほうが心に沁みる。グループツアーでは無理だが、個人で旅行する場合は、こうした音楽を聞ける場所をリクエストすることが多い。コストがそれなりにかかったとしても。

平壌のレストランで(2010年)

最後に北朝鮮の人たちに対するシンパシーがある。北朝鮮に生まれたというだけで、どうしてこれだけ苦しまなければならないのか。たまたま日本に生まれたことがそれほどまでに偉いことなのか。確かに私たちは北朝鮮の人たちの知らないことを知っている。Facebookも知っていればTwitterも知っている。マイケルジャクソンやレディガガも知っている。スマートフォンも持っているし、タブレットやPCを操作することもできる。世界のさまざまな場所に行ったこともある。気をつけなければならないのは、北朝鮮の人たちに接するとき、どうしても(今流行の言葉で言えば)「上から目線」になりがちなことだ。しかし彼らは私たちが知らない多くのことを知っている。彼らに私たちから学ぶことがあるのと同様、私たちの側にも彼らから学ぶことがあるのではなかろうか。北朝鮮の人たちと接することは、彼らの偏見を正す機会となるだけでなく、私たちの偏見を正す機会にもなるのではなかろうか。お互いを「教育」し合う可能性が少しはあるのではなかろうか。

話題を変えて、現在の状況下で北朝鮮を旅行することの是非について。旅行で北朝鮮を訪れることは金王朝の外貨収入を増やすことであり、したがってその存続を長引かせることだとする議論がある。他方で、外国人旅行者の訪朝は一種の情報の流入であり、北朝鮮社会の変化を促す要因となりうるという見方もある。何回も北朝鮮に行っている私としては後者のほうに与したいが、確たる裏付けがあるわけではない。

しかし、ポジティブにしろネガティブにしろ、外国人旅行者が北朝鮮に与える影響は微々たるものではないだろうか。北朝鮮を訪れる外国人旅行者の数は公表されていないが、年間6000人程度と推測されている。2014年に日本を訪れた外国人旅行者の数1341万人と比べてほしい。北朝鮮と人口がほぼ同じの台湾で990万人。外国人旅行者が落とすお金の増減によって北朝鮮の体制が延命したり、逆にゆらいだりするとは考えにくい。同様に、外国人旅行者が北朝鮮社会にもたらす変化もほとんど取るに足りないだろう。外国人旅行者が接触する北朝鮮人民はごく限られているうえ、その接触すら厳しい制約の中での表面的なものにすぎない。情報はもっと別の経路からどんどん入っているし、外国人の旅行者がいようがいまいが、社会は不可避的に変化していく。

私は私の北朝鮮旅行が道義的に正当化されるとは思っていないが、うしろめたい気持ちもない。私の行動が北朝鮮情勢に与える影響は皆無であるうえ、道義的な判断、道徳的な善悪には客観的な尺度がなく、結局は個々人の好悪に還元されるという考えを持っているからだ。

今回のツアーに話を移す。今回の旅ではグループツアーの利点を再確認した。最大の利点は行動の自由度だ。2人のガイドが8人のゲストを率いるわけだから、どうしても目が行き届かなくなる。この結果、地元民に直接に話しかける機会も生まれ、微妙な場所や光景をこっそりと写真に収める可能性も高くなる。1人に2人のガイドが付く個人旅行ではこうはいかない。

ツアーメンバー全員と幼稚園児たち

いろいろな国から来たメンバーと話すことができたのも大きい。中でも興味深かったのは韓国に14年滞在していたアメリカ人Scottの韓国裏話だ。Scottはソウルの弘大(ホンデ=弘益大学校)で英語を教えていただけでなく、朝鮮日報の英語版にコラムを連載し、いくつかの韓国ドラマにも外国人役で登場している。同じ外国人役でも、西欧や米国の出身者に比べロシア人のギャラは安いらしい。低予算のドラマではおうおうにしてロシア人が使われる。ケネディ夫妻役のカップルがロシア訛りの英語をしゃべるということもあったとか。私は「ナンパ」や「プー太郎」を意味する韓国語の俗語を彼から教わった。

コスト面の利点が大きいことは言うまでもない。1人や2人の個人旅行はかなり高くつく。どんなに少人数でもガイド2人にドライバー1人が付くから、これは当然だろう。現在、中外旅行社やセブンオースリー(307)はグループツアーを表だっては募集していない。おそらく経済制裁の余波だろう。したがって、日本の旅行会社を通してグループで行こうとすれば、自分でメンバーを集めるしかない。北朝鮮に行きたいという人がそう多くいるはずもなく、ハードルが高すぎる。欧米系のKoryo ToursやYoung Pioneer Toursが募集しているグループツアーに参加する選択肢もあるが、こちらはこちらで英語というバリアーがある。こと北朝鮮へのグループツアーに関しては残念な状況だ。

この旅のスライドショーを貼り付けておこう。


背景にはカヤグムの音楽を集めた。最初の曲は바다의노래(パダエノレ=海の歌)。上に挙げた平壌のレストランの動画と同じ曲だ。

2015年9月19日土曜日

北朝鮮2014 九日目(8月26日)

朝食は柳京飯店のレストランでとる。私が朝食をとっていると、VesやSebastian、Ernestもやって来た。私に出された朝食には納豆が付いているが、彼らには納豆ではなく卵焼き。特にリクエストしたわけではない。羅先で私だけに寿司が用意されていたのと同じだ。こうした配慮はありがたいような、ありがたくないような。納豆が嫌いな日本人だって少なくないだろうに(私は大丈夫)。Vesに納豆を少しお裾分けする。まずくもなくおいしくもないという感想だった。この朝食をもって今回のツアーは終了。

私が乗る北京行きの飛行機は午後5時ごろに延吉を発つ。柳京飯店のチェックアウト・タイムは12時だが、出発まで部屋を使っていいということになった。それほど客が多くないのだろう。部屋に荷物を残したまま延吉の街をひとりで探訪した。延吉(中国語ではYanji、朝鮮語ではヨンギル)は吉林省朝鮮自治州の州都で、人口は50万近く。中国の都市としてはそれほど大きくない。朝鮮族が人口の半数を占めるバイリンガルの街だ(最近では漢族のほうが多くなっているとも言われている)。

延吉の市場


延吉の2カ国語の看板(献血屋!)

ツアー開始前に2泊しているから、街の地理はだいたい頭に入っている。街の中心部や市場を散策したあと、人民公園に行く。人民公園では平日の午前中だというのに朝鮮族の人々が歌と踊りを楽しんでいる。一昔前の韓国のトロット(韓国風演歌)や民謡が好まれているようだ。動画を貼っておこう(ツアー前日の8月17日に撮影)。曲は이혜리(イヘリ)の당신은 바보야 (タンシヌンパボヤ=あなたはバカね)。20年前くらいのヒット曲か。


人民公園を隅々まで探索。お化け屋敷や爬虫類館、小動物園などがあるが、いずれも閑散としている。動物園にはラクダ、オオカミ、猿などがいた。年老いて、疲れたはてた様子のオオカミが哀れを誘う。

人民公園の爬虫類館

昼食も柳京飯店にした。メニューには寿司や刺身の和食もあったが、ここはやはり朝鮮料理でいきたい。で、注文したのが牛肉のスープ。料理名は失念した。곰탕(コムタン)というのだろうか。もちろん生ビールも忘れてはならない。ビールはアサヒビールのジョッキに入って出てきた。中味までアサヒビールかどうかは定かでない。

牛肉スープと生ビール

レストランには個室もいくつかある。その個室のひとつからカラオケの歌声が聞こえてくる。ウエイトレスに朝鮮語で「南朝鮮(ナムチョソン)の人たちか」と聞くと、「ウリナラ(我が国、つまり北朝鮮)のひとたちだ」との答え。

柳京飯店のウエイトレス

午後も遅くなっていたので、そろそろ空港へ向かわなければならない。部屋を出るとき、朝鮮族らしき掃除係のおばさんが笑顔で、또 만나요(また会いましょう)と声をかけてくれる。

空港にはEarnet、Sebastianと一緒にタクシーで行った。Sebastianは流暢な中国語で運転手と話していた。タクシーの運転手の生活がいかに苦しいかなどについて話していたらしい。

延吉から北京へ向かう飛行機の乗客の大半は韓国からの観光客だった。長白山(白頭山)観光の客だろう。

北京へ着いたのは夕方の7時近く。翌日の関空行きの便は朝8時発なので、今から北京の街に出て早朝に空港に戻ってくるのもめんどうだ。空港の近くにイビス(ibis)ホテルがあることは調べてあった。イビスの無料シャトルバスに乗ってホテルまで行く。空き部屋があるがちょっと高い。結局近くにある別のホテルにして、早朝出発までの短い夜を過ごす。
 

2015年9月17日木曜日

北朝鮮2014 八日目(8月25日)

今日は羅先最後の日、つまりは北朝鮮最後の日。朝食時に聞いたところによると、Scottは昨晩2人の女性従業員とホテルの施設でカラオケを楽しんだらしい。英語の初歩のレッスンもしたという。「将来の夢は何か」と尋ねたScottに対して、従業員の1人は「金正恩元帥につくすことです」と答え、もう1人も「同じです」と蚊の鳴くような声で答えていたとか。そんなことなら、私にも声をかけてくれればよかったのに。

琵琶ホテルのスタッフ

北朝鮮出国は午後遅くの予定なので、観光する時間はまだある。まず訪れたのはエンペラー・ホテル。これは香港資本が設立したホテルで、カジノも備えている。誰かが「いかにもキッチュ(Kitsch)な建物だなあ」と漏らしていてたが、確かに外観も内装もあまり品がない。ホテルの中はがらんとしており、宿泊客らしい姿は見あたらなかった。午前中という時間帯のせいだけではないだろう。ある中国人観光客がこのカジノで全財産をなくすほどすってしまったことから、中国政府がここへの出入りを禁止したという噂をどこかで読んだことがある。ガイドに確かめたわけではないので、この噂の真偽のほどはわからない。

エンペラー・ホテル

我々を乗せた車は先峰エリアと進み、途中で日本式家屋と朝鮮式家屋が建っている場所に立ち寄った。これも何かの史跡らしいが、ガイドの説明はまったく記憶に残っていない。このころから小雨が降り出した。この旅で雨に遭遇したのははじめてだ。いや、2004年の初訪朝以来、5回の北朝鮮旅行を通じてはじめての雨だ。こと天候に関する限り、私の北朝鮮旅行は恵まれている。

日本式家屋

先峰に入り、立派な建物の休憩所で昼食の弁当を食べる。弁当はキムパプ(海苔巻き)と鶏肉などのおかずだった。この休憩所も何かいわれのある建物だったのかもしれない。入ったところには李舜臣将軍の亀甲船の模型があった。この地からは、北朝鮮、中国、ロシアの3カ国を眺望できる。雨は止んでおり、雨上がりの霧の中に中国とロシアが浮かんでいる。

キムパプの弁当

さらに2時間ほどかけ、中朝の国境に着く。これは北朝鮮に入国したときの国境とは異なる。入国時には中国の図們から北朝鮮の南陽に抜けたが、ここは北朝鮮の元汀(ウォンジョン)と中国の琿春市をつなぐ国境だ。この国境は図們の国境よりはるかに忙しい。図們では我々以外の国境通過者を見かけなかった。それとは対照的に、ここ北朝鮮側の元汀税関の前には何台もの車が列をつくり、人もごった返していた。ほとんどが中国人の観光客や商売人だ。カオス状態の税関をくぐり抜けるのに小一時間はかかっただろうか。デジカメやタブレットはすべてチェックのために北朝鮮の係官に預けることになった。ブルガリア人のVesはこの混乱の中で電子機器やその他の持ち物が紛失するのではないかとおそれていた。私も私のタブレットやカメラのゆくえが気がかりだった。チェックや事務処理の手順がきちんとマニュアル化されていないことからくる混乱だろう。

中国の税関

そのときは気づかなかったが、帰国してから点検すると、いくつかの写真や動画が削除されていた。削除されたのは貧しそうな人やみすぼらしい家並みが映っている写真や動画だ。いくつかはファイル修復ソフトを使ってリカバーしたが、修復不可能なものもあった。

中国側の入国手続きは簡単だった。琿春から一路延吉に向かう。延吉では出発時の集合場所だった柳京飯店にチェックインした。この最後の1泊もツアー代金に含まれている。Scottだけは都合でその日のうちに延吉を発った。

柳京飯店のスタッフは北朝鮮から来ているが、清掃やベッドメイキングは地元の朝鮮族の女性たちが受け持っているようだった。フロントの女性は日本語をしゃべった。ところどころ間違いはあるが、十分にコミュニケーションが可能なレベルだ。英語は苦手なようだった。

柳京飯店

柳京飯店にはレストランもあり、夜には北朝鮮の歌や踊りを鑑賞できる。私はこのショーを見たかったのだが、同行者たちがホテル前の焼肉屋に行くというのでそれに従った。アサヒビールでのどをうるおし、焼き肉で腹を満たしながら、この旅の感想をそれぞれ語り合って夜は更けていく。

延吉の焼肉屋で

2015年9月16日水曜日

北朝鮮2014 七日目(8月24日)

いつものようにホテルで朝食。旅も後半になると、朝食に姿を現さないメンバーが多くなった。今日も半数くらいは朝食抜きだ。慣れない食事と旅の疲れでお腹を壊しているのかもしれないが、なんとももったいない。食糧不足の北朝鮮で、出されたものの残すのは「後ろめたい(feel guilty)」と言っていた面々なのだが。

朝食風景

今日の観光は遊覧船でアザラシを見ることからはじまる。これはオプションなので、私、Scott、Antonの3人は遊覧船には乗らず、海辺のテーブルでペットボトルのジュース(中国製だった)を飲みながら一休み。隣のテーブルには中年の中国人観光客が数人座っている。Antonは香港の前には上海に滞在しており、Scottは瀋陽の大学で3年近く英語を教えている。どちらもいわば「中国通」だ。重慶共産党トップの薄熙来のスキャンダルのほとぼりがまだ冷めていない時期だったこともあり、話題は自ずから中国共産党の権力争いに。この権力争いがいかにえげつないかを語りつくしたAntonとScott、隣のテーブルにいる中国人を見て「あのようにでっぷりと太っているのは共産党幹部に違いない。昨夜飲み過ぎたせいで、今日はぐったりしている」と言う。隣のテーブルとの距離は4、5メートル。「おいおい、聞こえるぞ」と注意するが、両人は「英語をわかるはずがない」と平気だった。この席には年上のほうの金ガイドも一緒だった。彼がこの種の話を聞いてどう感じたか、興味のあるところだ。

次に魚介類の販売とレストランを兼ねている施設を訪れ、さらにその近くにある水産物加工工場を見学する。女性たちが立ち姿でイカのはらわたを抜く作業をしていた。重労働ではないが、なかなかきつそうな労働だ。

水産物加工工場

羅先の港には3つの埠頭がある。1つは中国との貿易、もう1つはロシアとの貿易に使われており、残りの1つは使われていないようだ。新潟と北朝鮮を往復していた万景峰号も停泊していた。元山に停泊している万景峰号より1世代前のものだ。国慶節などで中国の観光客がドッと押し寄せるときには、この万景峰号に宿泊するケースもあるとか。

初代万景峰号

港を見物しながら、若いほうの金ガイドに今の北朝鮮でどのような日本人の蔑称が使われているか尋ねてみた。쪽발이(チョッパリ)や왜놈(ウェノム)も使われていないわけではないが、より一般的なのは일본놈(イルボノム)らしい。「日本野郎」とでも訳したらいいだろうか。金ガイドは「祖父の兄弟が日本軍によって殺された」と言っていた。兄と弟を区別する日本語や朝鮮語と違って、英語のbrotherでは兄と弟のどちらかはわからない。

昼食は「海岸館」というレストランでとった。用意されていたのはビビンバだが、私とScott、Vesには犬肉のスープが出された。前日にリクエストしていたからだ。犬肉のスープは韓国では補身湯(보신탕=ポシンタン)と呼ばれているが、北朝鮮では甘肉(단고기=タンコギ)という。私にとってはこれが初めての犬肉だが、特においしいともまずいとも感じなかった。肉は繊維状になっていた。のちにソウルで補身湯を食したが、ソウルの犬肉は通常の塊の形状であり、スープは北朝鮮に比べてずっと辛かった。

犬肉スープ(タンコギ)

食後、金日成花をメインとする花園や美術館を訪れる。北朝鮮では虎の絵を見る機会が多い。この美術館も例外ではなかった。オーストラリア人のJohnは「虎に対するこのobsessionはどこから来るのだろうか」と不思議がっていたが、強くて凶暴な動物に対する一種の崇拝はごく自然のような気がする。ScottとAnton、私の3人は、ガイドの目をかすめる形で街の写真館に入り、ポートレートを撮影してもらった。写真館は結構繁盛しているようで、地元の客もかなりいた。写真をコンピュータ処理していたのが印象に残った。おそらくPhotoshopを使っての処理だろう。ポートレートがいくらしたのかは忘れたが、そう高くはなかった(もちろん元での支払い)。

続いてこの旅最大のハイライトである自由市場の見物。私の知る限り、北朝鮮で外国人が入れる市場はここ羅先の市場だけだ。Koryo Toursのパンフレットではゴールデントライアングル銀行で外貨を北朝鮮ウォンに両替してから市場に行くということだったが、銀行に立ち寄ることはなく、ウォンを手にすることもなかった。それより問題なのは、我々が到着した午後3時ごろには市場がすでに店仕舞いを始めていたことだ。明日何かのイベントがあり、そのために今日は早く市場を閉めるとのことだった。ガイドたちの手配のミスだ。意図的ではなく、ミスだったと信じたい。

それでも市場の雰囲気は十分に味わうことができた。韓国や東南アジアの市場と同様、積極的に声をかけ、売り込もうとする。我々に対しては「ハラショー」と呼びかける。白人を見ればとりあえずロシア人扱いするようだ。実際、3、4人のロシア人を見かけた。Antonは「ルースキー?」と彼らに問いかけていた。

売られているのは、米をはじめとする食料、日用品、衣料。乾燥した葉っぱの状態のタバコも売られていた。日用品や衣料はほとんどが中国製のようだ。北朝鮮ならではのものを求めていた私は、結局何も購入しなかった。

残念ながら市場の写真撮影は禁じられていた。こんなところでこっそり写真を撮っているのを見つかればかなりやっかいなことになりそうだ。同じく写真撮影が禁止されていた清津市内などではこっそりと撮っていたメンバーもいたようだが、ここでは指示に従うほうが無難だ。Scottは「労働者の国家のはずなのに、働いている人々を撮るなというのはどういうわけだ」とこぼしていた。

早めにホテルに帰って夕食。夕食にはカレーライスも出た。メインとしてではない。煮魚、イカのリング、タコの刺身、ピザ、野菜など、たくさんのディッシュの1つとしてつつましく登場していた。

北朝鮮のカレー

今夜は羅先最後の夜、つまりは北朝鮮最後の夜だ。全員マイクロバスに乗って街に繰り出し、初日に訪れた南山広場のローカルバーを再度訪れる。マッサージをリクエストしていたScottだけは別の施設に行き、バーには来なかった。ここではソジュ(焼酎)を注文。Vesも私にならった。マッコリは3元と安かったが、ソジュは高価だった。値段は忘れてしまったが、1本30元くらいだったかもしれない。その代わり、きちんとしたラベルで、品質もばらつきはなさそうだった。小雨が降り始めた中、外からテントを覗き込む1人の中年男性。Antonはこの男性にスマートフォンに保存してある香港の写真を見せていた。defectorを増やす活動の一環だろうか。こうして北朝鮮最後の夜が終わろうとしている。

ローカルバーの調理場
 

2015年9月14日月曜日

北朝鮮2014 六日目(8月23日)

朝食後に向かった先は革命戦跡とされる山。ここの女性ガイドはチマチョゴリではなく、カーキ色の人民服を着用していた。山に登ったのではなく、ふもとまで行っただけだが、ここを訪れた理由が今ひとつわからなった。いや、正直に書こう。この山にどのようなストーリーや逸話があり、女性ガイドがどのような説明をしたのか完全に忘れてしまったのだ。印象に残っているのはガイドの人民服だけという始末。

人民服の現地ガイド

続いて近くにある製靴工場に徒歩で移動した。ここでは靴を購入することもできた。運動靴は一足1000円ちょっとの手頃な価格だった。一足ほしかったが、私のバックパックにはとうてい収まりそうにない(機内持ち込み可能な小さめのバックパックで来ていた)。

工場見学は羅先観光のメインともいえる。靴の次は縫製工場。革命歌が流れる広い仕事場で、女性たちがミシンに向かって黙々と働いている。製品は韓国や中国に輸出される。もちろん韓国に直接に輸出されるわけではない。中国を経由して、中国製品であるかのように梱包されて輸出されるのだ。

縫製工場

12時の時報が鳴ると、女子工員たちは全員中庭に出て整列し、食事前の体操を始めた。かつて日本のテレビなどでも紹介された律動体操だ。有名な律動体操をこの目で見ることができる感動。これがこの工場見学のハイライトとなった。工員たちは、体操が終わると、お互いの肩をたたき合ってから、食堂の中に消えていった。


我々の昼食は在日朝鮮人が経営するレストランだった。ツアーの中に日本人がいるというので選ばれたレストランだ。他のメンバーは朝鮮料理だが、私だけにはにぎり寿司が注文してあった。そのにぎり寿司がなかなか出てこない。他のメンバーの食事が終わるころになってやっと出てきたが、魚介類の冷凍がまだ完全に溶けきっていない感じがした。英語ガイドにとって日本人の観光客は非常にめずらしいこともあり、いろいろと気をつかってもらったようだが、一歩間違うと親切が仇になる。私の場合は寿司は好物だから問題ないが、寿司が嫌い、食べられないという日本人だっているはずだ。「日本人なら寿司」という思い込みにはちょっと疑問が残る。

羅先で食べた寿司

昼食を終えてから、日本海(東海)が見える景勝地に向かう。ここも何かいわれがある場所だったはずだが、記憶からすっぽり抜け落ちている。覚えているのは中国人の観光客がやたらに多かったこと。

経済特別区だけあって羅先は北朝鮮の他の街とちょっと雰囲気が違う。観光やビジネスで多くの中国人が訪れ、ロシア人もちらほら見かける。主としてこうした外国人を目当てにタクシーも多い。おそらく人口あたりの比率からすれば平壌より多いだろう。平壌では10年前にはタクシーは皆無に近く、いまでもそう多くは見かけない。中国の通貨である元が外国人だけでなく、地元民の間でも流通しているのも羅先ならではだ。路上のアイスクリーム屋に1元札を握りしめた子供がかけつけているのを見かけた。

街中にある書店に入る。外国人向けの店らしく、英語やロシア語の本も並べてある。もちろん大半は金日成・金正日親子の「著作」だ。私は朝鮮語の勉強のためにと漫画を5冊購入した。帰国してから目を通してみると、子供向けの漫画本にもかかわらず(あるいはそれだからこそ)、イデオロギーが過剰につめこまれている。金正日に対する賞賛はほとんど常軌を逸し、神がかっている。子供のときからこうした本だけを目にして育つというのはどういうことなのか。北朝鮮といえど、人は人形でもなければ、ロボットでもなく、いつまでも子供ではない。多少なりとも自分で考えるような年齢になれば、このような理性を超えた(あるいは理性に反する)宣伝はかえって逆効果になるではなかろうか。

書店の近の出店でアイスクリームを買う。1個1元。北朝鮮のアイスクリームはバニラや牛乳の純度が高くおいしい。

続いて羅先劇場で子供たちの芸を見る。バスを連ねてやって来た大勢の中国人観光客に交ざっての鑑賞だ。歌、ダンス、バイオリン、カヤグムに加えて、ローラースケートのダンスやコント風の演劇もあった。ローラースケートは数年前から北朝鮮の子供たちの間で流行しており、1年前に見た万景台少年宮殿のパフォーマンスにも登場していた。舞台の上でははつらつとしていた子供たちだが、最後に舞台上で観客と交流して、プレゼントをもらったり、一緒に写真を撮ったりしているときの表情はうつろだった。もっとも「うつろ」というのは私の主観的な判断で、数多くの中国人やその他の外国人と接触するのに慣れておらず、とまどっていただけなのかもしれない。

中国人観光客と記念撮影をする子供たち

次に外国語教育に特に力を入れている中・高等学校を訪問した。我々が到着すると、生徒たちがすでに校庭で待っていた。年齢は12歳から18歳くらい。小グループに分かれ、彼らと英語で会話する。私とAntonは13歳の少女4人を相手に話した。最初は互いにぎこちなかったが、徐々に慣れていく。13歳だからもちろん限界はあるが、コミュニケーションは十分に成立する。日本の平均な13歳ではこうはいかないのではないだろうか。父親の職業を尋ねると、2人が「Officer」、1人が「Immigaration officeの職員」、もう1人が「タクシーの運転手」だった。Officerというのはよくわからないが、軍人だろうか。

動物の話題になり、DPRKに熊はいるかと聞くと、「Yes、白頭山(ペクトサン)にいる」と誇らしげに答える。じゃあ、虎はいるか? 「Yes、白頭山にいる」とさらに誇らしげな答えが全員から返ってくる。

私が韓国を何回も訪れていることを知った彼女たちから「ソウルはどんなところか」と質問される。一瞬答えにつまる。「平壌よりずっと豊かで、ずっと進んでいる」とは答えられない。"Very big city with a lot of peaple"と答えておいた。

少女たちと英語で会話

この学校では英語に加えて中国語も教えている。アメリカ人のScottは教師のひとりに「中国人の観光客ともこうした対話の場を設けているのか」と尋ねたらしい。答えは「No」。「中国人の観光客はrudeだから」というのがその理由。中国語については、医師や弁護士など、特定のグループが来たときだけ、こうした会話の機会を設けるらしい。

街中のレストランで夕食をとってから、夕暮れが迫る海岸公園(해안공원)を訪れた。ここにも大きな電光スクリーンがあり、ローラースケートを楽しむ子供たち、ベンチで涼をとる人など、そこそこ賑わっている。売店もある。私とScottは3、4人が座っているベンチに近づき、それぞれ朝鮮語でアメリカから来たこと、日本から来たことを告げる。つづいてScottが何か話しかけていた。「俺たちは危険だ、注意しろと冗談を言ったが、どうも通じなかったようだ」とのこと。

海岸公園


海岸公園の上にはビアホールがある。このビアホールではチェコのビールを出す。時間も遅いせいか、私たち以外の客はいなかった。ビールを飲みながら談笑して、この日の予定をすべて終了した。

2015年9月13日日曜日

北朝鮮2014 五日目(8月22日)

朝食をすませて外へ出ると、朝鮮族のおばさんたちがホテルの前で踊っている。いつでもどこでも機会があれば、歌い、踊る。これは日本人にはない民族性だ。おばさんたちが歌っているのはたぶん金剛山タリョンという民謡だろう。自分が歌って踊るのはともかく、私はこうした歌を聞き、踊りを見るのが好きだ。何年か前の訪朝時に日本語ガイドが「朝鮮の踊りのポイントは肩の動きにある」と言っていたのを思い出す。

ホテル前で踊る朝鮮族の観光客

鏡城の革命史跡(金正日が幼少期に滞在したことがある別荘)を見たあと、我々を乗せた車は一路清津へ引き返す。清津エリアでの最後の訪問先は幼稚園だ。幼稚園の校庭にはミサイルや戦車を模した遊具が設置されている。校内の壁にもミサイルが描かれている。2012年に発射された은하 삼호(銀河3号)を描いたものだ。




授業も参観した。樹木をテーマとした授業らしい。若い女性の先生が「アカシアの葉っぱはどんか形をしていますか」といった質問をし、子供たちが答える。小さい声で答えると、「もっと大きな声で」と言い直させる。質疑応答のあとは全員で歌を歌う。これはおそらく我々への演出だろう、ミッキーマウスがプリントしてある筆箱を持っている子もいた。1年ほど前にモランボン楽団の公演にぬいぐるみが登場して以来、ミッキーマウスは金正恩のお墨付きをもらったらしく、このほかにもちょくちょく見かけた。



幼稚園訪問は園児たちの芸の披露で締めくくられる。園児たちだけでなく、先生方の芸も披露された。ここでもモランボン楽団の影響は顕著だ。ミニスカート姿でバイオリンを弾く子供たち。先生方の出し物のひとつはモランボン楽団のヒット曲「ペウジャ(学ぼう!)」だった。芸はすべて水準以上。しかし子供たちの表情は疲れている。ブルガリア人のVesに「どうだった?」と感想を聞くと、「あの表情を見ているととても楽しめない」という答えだった。



幼稚園訪問を終えた我々は、3日前にカラオケを楽しんだ(あるいはカラオケで苦しめられた)船員クラブに再度赴き、昼食をとる。清津最後の食事は冷麺だった。平壌の冷麺とは異なり、つゆはあとで自分で注ぎ入れる。最初からつゆが入っている平壌式のほうが私の好みだ。


食後は経済特別区の羅先(ラソン)に向かう。「この歌はぜひ覚えてくれ」ということで、「アリラン」の歌唱練習をしながらのドライブだ。清津を含む咸鏡北道(ハムギョンプクト)と羅先市の境界に着くと、ガイドとドライバーがすべて交代する。咸鏡北道は七宝山国際旅行社、羅先は羅先国際旅行社の管轄となっている(しばらく前に羅先国際旅行社の女性社長が張成沢の愛人だったとの理由で拘束されたとの噂があった)。

清津から羅先までの道行きには七宝山国際旅行社の幹部も同乗した。幹部といってもまだ若く、40歳くらいか。このころ、拉致被害者の再調査を北朝鮮が約束し、これに応じて日本が経済制裁の一部を解除する動きが出ていた。他方で、北朝鮮と中国の関係にはきしみが生じていた。こうした事情から、日朝関係の好転への期待が北朝鮮の人々の間で大きくなっているように感じた。幹部が私に聞く。「朝日関係は今後どう進むと思うか」と。さらに「安倍は北朝鮮にやって来るのか」とまで。日朝関係についての同じような質問はあとで羅先のガイドからも受けた。北朝鮮の公式報道にしか接していない彼らが日朝交渉の現実をどのくらい正確にとらえているかは定かでなかった。拉致問題がからんでいることは知っていても、それが日本側の最優先課題であることは聞かされていなかったのではなかろうか。「両国の関係がよくなることを望むが、あまり大きな期待を持たないほうがよい」と答えておいた。

羅先のガイドは2人とも「金(キム)」という姓で、ドライバーまでが「金」だ。ガイドはひとりが30歳前後、もうひとりは30歳後半から40歳くらい。両人とも英語をしゃべる。若いほうの金ガイドの説明を聞きながら、我々を乗せた車は羅先の中心部に入る。このツアー第2部の始まりだ。


羅先は羅津(ラジン)と先鋒(ソンボン)が合併してできた都市だ。羅津のほうが圧倒的に大きく、羅津が先峰を吸収したと言ったほうが正確かもしれない。羅津の中心には南山(ナムサン)広場がある。広場には大きな電光スクリーンが設置され、朝鮮中央放送のテレビ番組を流している。レストランで夕食をとった我々はこの広場にあるテント張りの「ローカルバー」に出向く。同行者のほとんどはビールを注文したが、あくまでローカル色を追求したい私はマッコリを所望した。Vesも私に従う。マッコリは1本が3中国元(当時のレートで50円くらい)という安さ。しかし、Vesが買ったマッコリのほうが明らかに私のマッコリより濃い色をしている。瓶ごとにばらつきが大きい。どうも品質管理の思想が浸透していないようだ。

南山広場

ローカルバー

宿は中心部から離れた高台にある琵琶ホテルだった。バスタブはなく、シャワーだけだったが、お湯はしっかりと出た。なぜかテレビは映らなかった(他の部屋も同じだったらしい)。できることなら南山広場にある南山ホテル(旧羅津ヤマトホテル)に泊まりたかった。

清津ではホテルの部屋でテレビを見ることができたが、チャンネルは朝鮮中央放送だけ。平壌のホテルでは北朝鮮の放送に加えて、NHKの海外向け放送、BBC、中国CCTVの英語放送、ロシアの放送などを視聴できる。北朝鮮にいながら、世界の動きについていけるわけだ。しかし、ここ東北部では北朝鮮の外で何が進行しているのか、情報から完全に遮断されていた。中国を離れて1週間近く、ロシア人のAntonは「ロシアとウクライナが全面戦争になっていてもわからない」とぼやいていた。

2015年9月11日金曜日

北朝鮮2014 四日目(8月21日)

ホームステイがかなわなかった日本人とアメリカ人の3人組は早朝にホームステイ村に戻り、他のメンバーと合流して朝食をとる。今日はメンバーのひとり、イギリス人Matthewの誕生日だ。朝食のテーブルではMatthewのために特別なディッシュが追加されていた。

エンジン付きのボートで海を巡ってから、今日のメインである七宝山(チルボサン)に向かう。七宝山は北朝鮮有数の景勝地で、中国の瀋陽にはその名を冠した北朝鮮直営の七宝山ホテルがある(ちなみに北朝鮮による米国ソニーへのサイバー攻撃の拠点と噂されたのがこの七宝山ホテルだ)。中国からの観光客が増えているということだったが、この日は中国人観光客には出会わなかった。代わりに出会ったのが地元の清津から来た20人ほどの行楽客。いくつかの家族で連れ立って来ているらしい。添乗員とおぼしき女性もいる。添乗員らしき人を除き、誰も金日成/金正日バッジを付けていない。服装もそれなりにしゃれているうえ、ビデオを回している男性もいる。中国の朝鮮族かとも思ったが、まぎれもなく北朝鮮の地元民だ。清津に対する「貧しい」という印象が少し修正された。

清津から来た一行


我がグループのアンバサダー、Antonがこのグループに請われて集合写真に加わったことから、両グループのしばしの交流が始まった。徐ガイドの指示のもと、彼らが我々のひとりひとりの国籍を当てるというゲームが始まったのだ。私の国籍はすぐに当てられた。男性が「Japanese」と言い、すかさず女性が「イルボン」と続ける。簡単に推測されるのも当然。韓国人は北朝鮮に来られないし、中国人は中国人のグループで来る。したがって選択肢は日本人しかない。米国籍の韓国人や中国人、マレーシアやシンガポールの中国人という可能性もあるが、通常そこまでは想像力が及ばない。この交流を動画で見ておこう。撮影者である私の国籍が当てられる場面はない。


ちょっと解説。ここで活躍しているのは韓国に14年滞在したScott。国籍当てがひととおり終わり、Scottの年齢を当てることになった。誰かが「オーシプ(50)!」と叫ぶ。47歳のScottが기분 나빠요(キブンナッパヨ=気分が悪い)と応じ、北朝鮮グループがドッと笑う。続いて別の誰かが「ユクシップ(60)」と叫ぶと、Scottは「キブントーナッパヨ(気分がもっと悪い)」と返し、さらに笑いを誘っている。

あとでこの動画を見ていて気づいたのは、女性たちが笑うときに手で口元を隠していることだ。こうした仕草は日本女性に特有だと思っていたが、北朝鮮の女性もそうであるとはちょっとした発見。

七宝山には仏教のお寺もある。おそらく外国人向けに「信教の自由」を宣伝するためだろう。私はこれまでに、平壌近郊、妙香山、沙里院、開城と、4つのお寺を訪れたが、北朝鮮の一般の人々が詣でている姿を見たことがない。七宝山のお寺も同様だった。

七宝山のお寺

七宝山の休憩所で昼食の弁当を食べてから、次の目的地である鏡城(キョンソン)郡に向かう。ここは日帝時代からのリゾート地だ。海岸の景勝地で一休みし、向かった先は温泉。温泉といっても日本式とは違い、仕切りで区切られた個室の浴槽につかる仕組み。久しぶりにお湯で髪を洗えたのがうれしい。温泉の外では地元民がバレーボールをやっていたのでしばらく見物。

温泉の入り口


今夜の宿は温泉の近くにある鏡城温泉ホテルだ。ホテルでとった夕食では1人に1匹づつ毛ガニが付いていた。しかしここでも我々の半数あまりは毛ガニに手を出さない。私は隣に座っていたブルガリア人のVesに食べ方を教授しながらおいしくいただいた。

今日はMatthewの誕生日なので、デコレーションケーキが出てきた。これは隣のテーブルにもお裾分け。隣のテーブルは中国から来た朝鮮族の観光客だ。50~80歳代くらいの10人ほどのグループ。私が저는일본에서 왔습니다(私は日本から来ました)と言うと、老人のひとりが握手を求めてきた。

夕食には毛ガニとケーキが

夜、ガイド2人の案内で村を散策した。真っ暗で何も見えないが、北朝鮮の田舎を夜間歩いたという事実で満足しておこう。宿に帰ってから、Scottが徐ガイドに清津で英語教師として働く可能性はないかと尋ねていた。1年契約だったか2年契約だったかは忘れたが、その可能性はあるらしい。徐ガイドが「条件は決してよくない」と強調していたのが印象に残った。この宿でもバスタブはあるが湯は出なかった。

2015年9月9日水曜日

北朝鮮2014 三日目(8月20日)

清津観光旅館での朝食のあと、まずはお決まりの銅像詣で。清津の銅像は金日成だ。ここで別の外国人ツアー・グループに遭遇した。我々とは異なり、男性と女性の混成部隊で、10名以上はいる。カナダの旅行会社を通じて来ているらしい。グループの国籍はオーストラリアをはじめさまざま。うちひとりは、我々のガイドである徐氏と知り合いらしく、再会の挨拶を交わしていた。香港からの旅行者で、たびたびこの地に来ているという。平壌を再訪、再々訪する旅行者はめずらしくないが、北朝鮮東北部に何回も来るケースはそう多くはないだろう。

清津の現地ガイド

続いて清津を離れ、専用車で七宝山のエリアに向かう。車がほとんど通らない道で、ぽつんとひとりでリンゴを売っている中年の女性を見かける。どれくらい売れるのだろうか。せいぜい20個余りのリンゴしか持っていないようだったから、全部売れたとしてもいくばくにもならないだろう。

リンゴ売り(Anton撮影)

山道を歩き、渓谷と滝を見てから、外七宝山の民泊宿所で昼食をとる。食後、付近を散策しながら、ロシア人のAntonが次のような感想を漏らす。
「ロシアにはドイツからの観光客が多数訪れる。年取ったドイツ人観光客も多い。一方、ロシアの老人たちは、わずかな年金で、生きていくのがやっと。外国旅行を楽しむ余裕などとうていない。これが勝ったロシアと敗れたドイツの70年後の現実だ。日本と北朝鮮も同じようなものだ。70年前に敗れた日本と解放された朝鮮。なのに、日本人のお前がこうして北朝鮮の地で休日を楽しんでいる一方、北朝鮮の人たちにとって日本や他の外国を訪れる機会はまずない。」

Antonによれば、数年前まではロシアでのプーチン支持と非支持の割合はどっこいどっこいだったとのこと。しかし、ウクライナ紛争が始まり、西側諸国がロシアに経済制裁を課する中、世論は急速にプーチンに傾き、いまでは国民の85%がプーチン支持だという。残りの15%は1日でも早くロシアを脱出しようとしている。Antonもこの15%の1人で、現在は香港で働いている。

次の目的地は海辺だ。北朝鮮のリゾートビーチ。北朝鮮の8月はかなり涼しく、泳いでいる人は少ない。バレーボール、ダンス、ゲーム、キャンピングなどを楽しんでいる地元民に交じって中国人の観光客もちらほら。私とScott、Antonは清津から来た一家に招かれて、貝の炊き込みご飯とソジュ(焼酎)をごちそうになる。

地元民と 焼酎を片手に


次にホームステイ村に移動。これは外国人観光客をもてなすためにつくられた数十軒の集落だ。バレーボールとシルム(朝鮮相撲)で体を使ったあとは、手作りの麺(じゃがいも麺)と餅を食する。


ホームステイ村にはレストランもある。夕食をとったら、次はキャンプファイアー。ここでは1人ずつ歌うはめに。歌の合間にトウモロコシやジャガイモを火の中に入れる。しかし、麺や餅、レストランの食事で腹一杯になっている我々は、焼き上がっても誰も手を出そうとしない。私は日本人に特有の義務感から、トウモロコシを1本食べる。食物が十分とは言えない北朝鮮で、焼き上がった大量のトウモロコシやジャガイモをそのまま放置するのは忍びない。我が同行者諸君、せめて1個のジャガイモ、1本のトウモロコシくらいを食べるのが礼儀ではないかね。そういうデリカシーはないのか!

キャンプファイアー 歌う北朝鮮女性


日本人とアメリカ人は過去の悪行と現在の悪行のゆえ、ホームステイ村のアクティビティには参加できても、ホームステイはできない決まりになっている。というわけで、キャンプファイアーが終わった夜の9時頃、私と2人のアメリカ人は車で30分以上かけて、昼食をとった外七宝山の宿泊施設にまで戻ることに。International Hotelという立派な名前の宿泊施設だが、ベッド数は10もないだろう。ここも湯は出なかったが、翌朝の6時頃にはバケツに入った湯がドアの前に置かれていた。我々のためにわざわざ沸かしてくれたのだ。

2015年9月8日火曜日

北朝鮮2014 二日目(8月19日)

ホテルで朝食をとったあと、会寧市内の観光に出かける。会寧は金日成の妻にして金正日の母である金正淑(キムジョンスク)の生誕の地として有名。金日成や金正日の銅像に代わって金正淑の銅像があるのはこのためだ。まずこの銅像に詣で、続いてすぐ近くにある金正淑の生家や革命博物館を見学する。

会寧ホテルの朝食

現地のガイドは年の頃4、50歳の上品な女性。抗日パルチザンに参加して、金日成と結婚、金正日をはじめ5人の子を残して32歳の若さで世を去った金正淑を語るとなれば、日帝の支配や日本軍の残虐さへの言及は避けられない。この説明を我々のガイドである徐氏が通訳するわけだが、ことが日本に触れそうになると、私の方を向いて"I'm sorry"と断ってから訳し始める。そこでみんながドッと笑う。私も苦笑いするしかない。

金正淑の生家前で


金正淑の生家で、現地ガイドの女性は説明の最後に「今日は日本人の方もいらっしゃるというので」と、エピソードをひとつ特別に付け加える。敗戦後に朝鮮の地に取り残された日本人の家族の境遇は悲惨だった。朝鮮の家々を巡って食べ物を乞う家族もいたという。金正淑のもとにもこうした家族がやって来た。金正淑は彼らを温かく迎え、食べ物や寝どころを提供したというエピソードだ。家族が日本に帰国したあとも、その家族と金正淑の間には親密な交流があったという。どこまでが史実か確かではないが、聞いていて悪い感じはしなかった。

革命の聖地巡りに続いて、中学校を訪問した。英語やコンピューターの授業を見学。英語のクラスでは、女性教師が英語だけを使って授業を進めていた。最後に我々ツアーの各メンバーが生徒たちに話しかける機会が設けられた。私は2人の男子生徒に話しかけたが、彼らの緊張ぶりはただならなかった。簡単な質問をするたびに、椅子から立ち上がって、直立不動で答える。「立ち上がらなくていいよ。リラックス、リラックス」と言っても、態度は堅いまま。アメリカ人のErnestが"Poor Kids! They were terrified"と漏らしていたが、そのとおりだ。



校庭では男子生徒がサッカー、女子生徒がバスケットボールの練習をしていた。サッカーでは我々のツアーのメンバーも交えた試合形式の練習も行われたが、私は参加しなかった。68歳のJohnが機敏な動きを見せていたのにはびっくり。

バスケットの練習中


この我々の学校訪問はかなり演出されたものだったように思う。英語、コンピューター、サッカーなど、我々の興味を引きそうな授業が都合よく進行してからだ。

昼食後、専用のミニバスで清津(チョンジン)に移動。清津は北朝鮮第三の都市。日本との関係でもしばしば名前が出てくる港町だ。会寧から清津への移動中に目に焼き付いたのは「貧しさ」だった。崩れかかったような農家が続く。私は元山、妙香山、南浦、開城などにも行っているから、平壌以外の地方もほんの少しは知っている。しかし平壌との格差がこれほどはっきりしている光景は初めてだ。こんな事情もあってか、バスの車窓からの写真撮影は禁止され、清津市内での撮影も厳しく制限された。興味深い光景が数多くあっただけにこれは残念。

清津への移動中に見かけた子供たち(Anton撮影)


途中にある食品工場を見学してから、清津の街に入った。街の様子も平壌とははっきりと差がある。街の中心部では道路工事が行われていた。おそらく住民がかり出されてやっているのだろう。機械を使わない手作業だ。赤旗を振り、歌を歌ってこの工事を応援する50人ほどの集団。話には聞いていたが、実際に目にするのは初めてだった。

コンピューターがずらりと並んだ電子図書館(ゲームを楽しんでいるだけの子供も少なからずいた)を見学してから、清津観光旅館に投宿。この宿もバスタブがあるが、湯は出ない。

電子図書館


ホテルでの夕食後、全員で船員クラブに出向く。これは土産物屋、サウナ、レストラン、、バー、カラオケを備えた「総合娯楽施設」といったところ。少し前にアメリカ人の観光客がここのトイレに聖書を置き忘れ、何ヶ月も拘留されるいう事件があった。カラオケでは私も「アリラン」を歌うはめに。北朝鮮のこの種の施設ではどこでもそうだが、店員たちはすばらしい歌や踊りを披露してくれた。