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2023年6月6日火曜日

イラン2023 ドーハとクアラルンプールを経由して帰国

 5月7日。

空港行きのタクシーは午前8時にやってきた。代金は450トマン(900円ほど)。このタクシーもマニュアル車だ。イラン滞在中、おそらく20台くらいの乗用車に乗ったが、すべてマニュアル車だった。オートマ車は1台も見かけなかった。経済制裁の結果かなとも思ったが、イランには自動車産業があり(年間80万台以上の製造数)、もちろんオートマ車も製造している。どうしてマニュアル車しか見なかったのか。謎が残る。

イラン・リアルが少し残っているので、空港の免税店でお菓子を買った。免税店の女店員は、私が日本人だとわかると、「私の叔父は日本で働いたことがある。日本人の女性と結婚していっしょにテヘランに住んでいる」と言っていた。

12時ごろにテヘランを飛び立ったカタール航空便は1時間半のフライトの後ドーハ空港に着陸した。クアラルンプール行きの便は翌日の午前1時50分。12時間余りの待ち時間になる。もっと短い待ち時間を選択することもできたのだが、たった1時間半の待ち時間では短すぎる。

カタール航空は長い待ち時間の乗客に対して市内のホテルでの休憩を無料で提供している。ホテルまでの往復も無料だ。2017年のチェチェン旅行の際にこのサービスを利用したことがある。

空港内のトランジット・カウンターで問い合わせてみる。残念ながら無料ホテルの恩恵に与ることはできなかった。短い待ち時間の乗り継ぎがあるにもかかわらず、わざわざ長い待ち時間を選択したのがその理由。

長椅子を並べたQuiet Roomで少し休んだあと、空港内をぶらつく。City Tourと銘打ったデスクが目に入った。3時間のドーハ見学ツアーだ。2時間ごとに出発するらしく、次回の出発時間は6時だ。値段も29ドルと、そう高くはない。6時出発なら9時過ぎには空港に帰ってくる。参加しない手はない。

20人ほどのをトランジット客を乗せたバスは陽の暮れかかったドーハの街に入る。私がドーハに入るのは3度目だが、いずれも乗り継ぎ時の数時間の滞在だ。ツアー参加者の国籍や行き先はさまざま。インドを旅行して帰国の途にあるスウェーデン人、米国のIT企業で働くインド人の青年、スペインに向かう韓国系米国人の女性、そしてかなりの数の中国人観光客など。北京帰りのアゼルバイジャンの男性2人もいた。

ドーハの夜景を見るのは初めてだ。ドバイ同様、光に輝くモダンな高層ビル群が目の前に展開される。ラクダが休んでいる場所も通過した。ガイドの説明もあったが、よく聞き取れなかった。

ラクダ


最後はこのツアーのハイライトであるスーク(市場)に立ち寄る。ここで30分ほどの自由時間。8時過ぎのスークはカタールの地元民や外国人観光客で賑わっていた。

ドーハのスーク


ちょうど9時に空港に戻る。いい時間つぶしになった。といっても搭乗時間の午前1時50分まではまだかなり時間がある。

クアラルンプールに着いたのは現地時間で午後3時近く。ここでも待ち時間が8時間ほどある。空港内のSama Sama Express Hotelで体をやすめることにした。6時間で87ドル。マレーシアにいったん入国してターミナル2まで移動すれば、6時間40ドルほどのホテルがあるが、もう精も根も尽き果てている。40ドル余り余分に支払って楽をとった。

関空出発のカタール航空便を選んだのは失敗だった。ドーハまではマレーシア航空との共同運行便(実質的にはマレーシア航空便)で、クアラルンプールとドーハを経由しなければならない。これに対し、成田からドーハまでのカタール航空便は正真正銘のカタール航空便で、直接にドーハまで飛ぶ。新幹線を使ってでも成田から出発したほうが、ずっと楽だっただろう。

関空には翌日の早朝に着いた。20日近くのイランへの旅はこうして終わった。

イランでは、ぼられたれたり、詐欺まがいの行為に遭遇したり、ぶっきらぼうに対応されたりしたことももちろんあった。だが、年老いた一介の外国人旅行者である私に対して示された好意、ときにはおせっかいなまでの親切、笑顔の数々は、そうしたネガティブな体験を圧倒して印象に残っている。ルーマニア、ミャンマー、パキスタンなどと並んで、イランもmy favorite countriesのひとつになった。

2023年6月5日月曜日

イラン2023 テヘラン探訪(Tajrish Bazaar)

 5月6日。

イラン最後の日。ホテルの前でSnappタクシーを呼ぶ。テヘラン北部にあるTajrish Bazaarへ行くためだ。

ホテルの前ではスムーズにSnappタクシーとドッキングできる。30分以上かけてTajrish Bazaarに着く。 料金は71トマン(約1.5ドル)。

バザールとその付近はかなりの賑わいだった。動画や写真を撮りながらバザールを一巡し、土産用のお菓子を購入する。

Tajrish Bazaar(1)


Tajrish Bazaar(2)

バザールの外へ出る。モスクの前では無料の食事を配っていた。小さなプラスチックの包みも配っている。好奇心から私もひとつもらったが、塩だった(不要なので返した)。

モスクの入口


商店が並んだ通りの動画を撮っていたときのことだ。地下鉄の入口が見えたので、これも動画に収めようとしていたら、入口にたむろしていた3、4人の警察官から動画の撮影を遮られた。動画の撮影にストップをかけただけで、撮影の中身はチェックされず、削除も求められなかった。動画の撮影一般がダメだったのか、それとも地下鉄の撮影がダメだったのか。おそらく後者だろう。

 地下鉄の存在を知ったからには、帰りはもちろん地下鉄だ。電車の中で、隣に座った中年の男性が話しかけてくる。英語ではないので、理解不可能だ。なんとか彼がアゼルバイジャンの出身であることだけはわかった。アゼルバイジャンならロシア語が通じるだろうと思い、ロシア語で話しかけたが、要領の得る答は返ってこなかった。

昨日もショッピング・モールの外で2人の若者から声をかけられたが、彼らもアーザリー人だった。このあと、帰国途上のドーハ空港でも2人のアゼルバイジャン人に遭遇することになる。イランにかなりの数がいるはずのクルド人とは出会っていないが、なぜかアーザリー人との出会いが多い旅だった。

地下鉄はエマーム・ホメイニイ駅まで行ったが、途中のSaadi駅のほうがホテルに近いことに気づき、再度地下鉄に乗って引き返す。

夕食は例の通りファーストフード店のホットドッグで済ませた。

明日は午前11時50分発のカタール便でドーハとクアラルンプールを経由して帰国の途につく。

空港までのタクシーをホテルに依頼しておく。Snappを利用したほうがずっと安いだろうが、最後の最後でへまをしたくないので、安全策をとった。

イラン・リアルがかなり残りそうなので、ホテルでドルに両替してもらった。両替で手にしたのは35ドル。

2023年6月4日日曜日

イラン2023 テヘラン探訪(Milad TowerとKourosh Mall)

 5月5日

10時半ごろにホテルの前でSnappで車を呼ぶ。ホテルの前ならちゃんと見つけてくれるはずだ。行き先はMilad Tower。2008年にオープンしたこのタワーはイランでもっとも高い建造物だ(435m)。

Snappタクシーはすぐにやってきた。なんと運転手は中年の女性だ。女性がハンドルを握っている場面は何回か目撃していたので、驚くには当たらない。だが配車サービスにまで女性が進出しているのは予想外だった。

助手席に乗り込み、女性運転手と並んで座る。彼女はマレーシアなどに旅行したこともあり、少し英語がしゃべれた。私が日本人だと告げると、彼女はclean、hard working、earthquakeに言及した。いずれも日本認識として間違いではない。

Milad Towerまでの料金は53万リアルだったが、チップを含めて100万リアル(約2ドル)を渡しておいた。

Milad Towerの展望台に登るには15ドルかかる。これは外国人価格であり、料金は英語で表記してあった。

展望台からはテヘランの街を一望できる。遠くの山々は雪で覆われている。38年前の11月に見た光景と同じだ。

Milad Tower


展望台からの眺望


Milad TowerからSnappタクシーでKourosh Mallへ向かう(チップ込みで50万リアル=50トマン)。Kourosh Mallはテヘランの富裕層に人気のショッピング・モールだ。

Kourosh Mall

Kourosh Mallの中

他の国の大型ショッピング・モールとあまり変わらないが、外国ブランドのショップがほとんどないのが特徴だ。ただ外国ブランドをまねた店はある。

Subwayのテヘラン版(?)

このモールのフードコートでかなり遅めの昼食をとった。注文したのはビーフ(羊)のホットドッグだが、肉をパンにはさむのではなく、プレートに載せる形にした。コーラと併せて175トマン(4ドル近く)。街の食堂よりちょっと高い。例よってボリューム満点だったが、ほぼ完食した。

ほぼ満席のフードコート


遅め(午後3時過ぎ)の昼食


地下のスーパーで夕食代わりのお菓子と飲料を購入してモールを出た。

モールの入口でSnappを呼ぶが運転手とドッキングできない。モールから少し離れた場所で試みるがやはりうまくいかない。問題は相手からかかってくるペルシャ語の電話に対応できないことにある。

やむをえず、流しのタクシーを拾ってホテルまで帰る。料金は120トマン。おそらくSnappタクシーの倍近い値段だ。

2023年6月3日土曜日

イラン2023 テヘラン探訪(ホテルを替わる)

 5月4日。

Asia Hotelはアーザリー人の親子で経営している。「アーザリー人」とは主としてイラン北部に住む民族で、ペルシャ語ではなくトルコ語系のアーザリー語を話す。帰国までの残り3日をずっとこのホテルに滞在してもよかったのだが、ひとつ問題があった。このホテルではWifiには接続できるのが、インターネットにはつながらないのだ。そこでホテルを替えることにした。後で考えると、このときネットにつながらなったのは、Asia Hotelの問題ではなく、あの時点でテヘラン全域がそうであったのかもしれない。

選んだのはMarkazi Hotel。Asia Hotelから歩いて20分ほどの距離にある。Asia Hotelよりちょっと格上の二つ星ホテルで、1泊25ドル。手持ちのイラン・リアルは有り余るほどなので、リアルで支払った。

Markazi Hotel

Markazi Hotelにチェックインし、少し休んでから、バザールまで歩き、さらにそこらタクシーでAzadi Towerまで行った。タクシー代は200トマン(約4ドル)。ぼられたと言ってもいい値段だ。配車アプリのSnappを使えばこうした事態は避けられるのが、バザールのような場所ではSnappタクシーと落ち合うのはむずかしい。

Azadi Towerは1971年に建造されたタワーで、その大きさからテヘランのランドマークのひとつとなっている。

Azadi Tower


Azadi Towerの見学を早々に切り上げ、エマーム・ホメイニイ駅に向かおうとするが、タクシーがあまり通っていない。Snappで呼び出すが、どうもうまく行かない。スマホを見ながらうろうろしていると、3人連れの若者(女性2人に男性1人)が「どこへ行きたいのか」と尋ねてくる。英語はできないらしく、スマホの翻訳場面を見せながらだ。

再度Snappで車を呼び出す。しばらくすると、スマホの画面に車が到着したと表示される。しかしそれらしい車は見つからない。運転手から電話がかかってくるが、ペルシャ語だからコミュニケーションがとれない。

するとこの様子を見ていた若い男性2人が電話を替わってくれた。運転手と彼らの何回かのやりとりの末、やっと車と遭遇することができた。若者2人は地方からの観光客だった。

Azadi Towerそのものはとりたて感想を述べるほどのものでもなかったが、イランの若者たちの親切心は強く印象に残った。

エマーム・ホメイニイ駅からホテルまで20分ほどの道のりを歩いて帰った。

テヘランの中心から近いということで選んだMarkazi Hotelだが、周りは照明器具を販売するショップばかりで、食堂やスーパーらしきものがまったくない。10分以上歩いてようやくファーストフード店を見つけ、夕食のホットドッグを買った。

2023年6月2日金曜日

イラン2023 テヘランへ戻る

 5月3日

テヘランへ戻る日。バスのチケットは前日にホテルに頼んであった。バスターミナルまでのタクシーとテヘランまでのバスのチケットと併せて220トマン(4ドル余り)とのことだった。カーシャーンからテヘランまでバスで3時間以上かかる。いまだにイランの通貨と物価に慣れていないこともあり、タクシーと3時間のバスで500円程度とはさすがに安すぎるのではないかと思ったが、よくよく考えてみれば妥当な値段だった(テヘランまでタクシーで行くには20ドルが相場らしい)。

いったんバスターミナルまで行き、それからまた移動して路上でバスを待つという変則的な形であったが、ともかく9時半発のバスに乗車できた。

テヘランのバスターミナルについたのは午後1時過ぎ。ここでやっかいなことが発生した。SIMカードが容量のリミットに達し、使えなくなってしまったのだ。確か128GBのSIMカードだったはずだ。イランに20日間滞在するには十分な容量なはずだ。ひょっとすると購入時に聞き間違えたのかもしれない。

バスターミナル内でSIMカードを販売しているところを探すが見つからない。

SIMカードがなければ配車アプリは使えず、グーグル・マップも無力だ(実はオフラインで使用できるMaps.meアプリをインストールしており、イランの地図もダウンロードしていたのだが、このときはまったく頭に浮かばなかった)。

やむなく普通のタクシーで宿探しすることにした。大きなバスターミナルにもかかわらず、タクシーもなかなか見つからない。路肩で休んでいるタクシーをやっと見つけたが、高齢の運転手はごく基本的な英単語すら理解しない。30年前に日本で働いたとのことだったが、知っている日本語は「ニホン」と「オウジ(東京都の王子のことか)」だけだった。

Heritage Hostelへ行きたかったのだが、運転手の知らないホステルであり、グーグル・マップで場所を示すこともできない。仕方なく、ガイドブックに住所が載っているAsia Hotelへ向かうことにした。このホテルは先にテヘランに滞在したときに下見しており、値段も確認済みだった(1泊15ドル)。

Asia Hotelに到着し、とりあえず1日だけ泊まることにした。

Asia Hotel(Webより借用)

ホテルのオーナーに尋ねると、SIMカードは地下鉄のエマーム・ホメイニイ駅で入手できるとのことだった。駅まで10分ほどの距離を歩き、Irancellのオフィスで残量ゼロの手持ちのSIMカードをリチャージしてもらう。値段は忘れたが、容量は確か15GBだった。イランには残り4日の滞在だから、これで十分だろう。

ホテルへの帰り道、車が次から次へとやってくる道路を渡るのに躊躇していたら、高齢の男性が無言で私の腕をとり、向かい側まで導いてくれた。忘れがたい好意。

ホテルに戻る。エスファハーンで食事を共にした日本人女性から電話があり、今日の晩に再度いっしょに食事することになった。

女性の宿泊先はHeritage Hostelで、Asia Hotelからは歩いて10分余り。6時ごろにHeritage Hostelに向かう。もしHeritage Hostelにホテルに個室の空きがあれば、明日以降の宿にするつもりだった。テヘランのHeritage Hostelはエスファハーンの同名のホステルと同じ系列で、イラン随一のバックパッカー向けのように思えた。

残念ながら、個室は1日しか空いていなかった。値段は24ユーロとのことだった。

エスファハーン同様、Heritage Hostelの中庭には大勢の外国人旅行者がたむろしていた。といっても大半は中国人旅行者だ。自転車で長期旅行している中年のドイツ人旅行者もいたが、西欧人や日本人は総じて少数派だ。

私と日本人の女性、それに中国人女性ひとりを加え、夜のテヘランでレストランを探す。ちょっと大きめのごく普通のレストランに入る。チキン、魚、ビーフ(羊?)のケバブと小サラダを注文、3人でシェアすることにした。

ケバブで夕食

食事を終えて、レストランを出たのが9時過ぎ。Asia Hotelまでの帰り道、迷いはしなかったが、漆黒の中、人通りの少ない道路を渡るときには恐怖を感じた。かなりのスピードで向かってくる車の群れををかいかぐるのは、命をかけた冒険だ。シーラーズの夜道で転んだことともあわせ、イランの危険は夜の道にあることを思い知らされた。

2023年5月31日水曜日

イラン2023 アブヤーネ村からカーシャーンへ

 5月1日。

前日に旅行会社に依頼してたタクシーは予定通り午前9時にホテルにやって来た。このタクシーでアブヤーネ村を観光し、カーシャーンまで行くことになる。

運転手は中年の実直そうな男性。英語はまったくできないが、感じは悪くない。

アブヤーネ村に着いたのは12時過ぎ。赤土でできた家が谷の斜面に建ち並ぶ村だ。前日旅行会社に「イランの農村を見たい」と言ったときに意図していたのは「イランの普通の農村の生活を見たい」ということだったが、アブヤーネ村は「普通の農村」ではない。村ではあるが、観光スポットなのだ。観光客の数も少なくない。中国人のグループも見かけた。

運転手といっしょに村を一巡する。農村の生活を見ることはできないが、これはこれでいいだろう。

アブヤーネ村


アブヤーネ村を歩く

ペルセポリスをガイドしてくれたアリと同様、この運転手もコーヒーとお菓子を用意していた。しかも、お湯をその場で沸かす本格的なコーヒーだ。

運転手といっしょに


アブヤーネ村の観光を終え、今日宿泊することになるカーシャーンへ向かう。

カーシャーンへは1時間ほどで着いたが、宿を探す必要がある。運転手がスマホで探してくれる。満室のところが多く、かなり時間がかかった。結局、Sabbaghian Boutique Hotelという小さな伝統的なホテルに投宿した。朝食付きで1泊1300トマン(約26ドル)。運転手とはここで別れる。

一休みしてから、外へ出て、ホテルの付近を散策する。表通りを歩いていると、一眼レフのカメラの抱えた若い女性が向こうからやってくる。キャノンのカメラを見せながら、ペルシャ語で私に何か話しかけてくる。シャッターを押してくれと言っているのだろうか。そうではない。私の写真を撮りたいと言っているらしい。

もちろん断る理由はない。代わりに彼女の写真も撮らせてもらった。

カメラを持つ女性

5月2日

Sabbaghian Boutique Hotelの朝食はまずまずの内容。高級ホテルとは比べるべくもないが、それなり凝った食べ物が用意されていた。

朝食の席で中年の中国人観光客と30分ほど話す。上海から来たというこの中国人男性は中国政府に対してかなり距離を置いた見方をしていた。中国人の多くはCCTVなどのマスコミからのみ情報を得ており、考えに偏りがあると言う。

ホテルのスタッフに頼まれ、この中国人と私はホテルの宣伝用の動画の作成に協力することになった。英語でそれぞれ約1分、カーシャーンとホテルを称賛する内容をしゃべった。中国人はこの日にカーシャーンを離れ、中国に帰国するとのことだった。

カーシャーンにはかつての商人や有力者が住んでいた邸宅がいくつか残っている。これらの邸宅巡りがカーシャーンの観光の目玉らしい。

朝食のあと、30分以上歩いて、これらの邸宅を見に行く。観光客はほとんどいない。こうしたひっそりした通りをぶらぶらするのも悪くない。

私の前を行く若い3人の女性のうちのひとりが私のほうに引き返してくる。飲料水となる水道が道ばたにあり、その飲み方を教えてくれるためだ。外国人の私に対するこうした好意はイラン滞在中いろいろな場面で経験した。

カーシャーンの静かな一画

途中で小ぎれいなアイスクリーム屋に立ち寄ったりしながら、ホテルまで帰る。カーシャーンには特にこれといった観光スポットがない。バザールはあるが、さびれた感じだ。「見なければならない」といった名所や旧跡がないのは、強迫感から解放されて落ち着く(ちょっぴり負け惜しみかな)。

夕食はホテルの近くの食堂のホットドッグで済ませた。例によって2食分のボリュームだ。昼食を抜いていたこともあり、おいしく完食できた。セブンアップと併せて90トマン(2ドル弱)。

ホットドッグとセブンアップで夕食

2023年5月30日火曜日

イラン2023 エスファハーン(その2)

 4月30日

朝食時、中国人らしい若い男性を見かけたの声をかける。仕事関係だろうと思っていたが、観光客だった。6人のグループらしい。男性のそばで食事をしていたイラン人は彼らの運転手とのこと。昨日訪れたHeritage Hostelにもたくさんの中国人旅行者がいた。中国人はビザなしでイランに入国できる。イランを訪れる外国人観光客のうち、おそらく半数以上は中国人だろう。

10時ごろにホテルを出て、エマーム広場へ行く。いくばくかの入場料を払って、She-le-Kh Lutfullahモスクの中へ入る。入口の屋根の内側が独特で印象的だ。多くの子供たちを含むイラン人に加え、中国人の団体客が目立った。

モスクの天井


モスクの中


中国の婦人たちは写真を撮るのに熱心。人気の被写体はイランの子供たちのようだ。

写真撮影中の中国人観光客

広場から少し離れた店で欧米人の観光客数人がお茶を飲んでいる。耳をすますと、どうもアメリカ人のようだ。声をかけてみる。やはりアメリカ人のグループだった。ただし私が声をかけた相手はイラン人で、彼らのガイドだった。ガイドはバスケット・チームの一員として訪日したことがあり、高輪プリンス・ホテルに長期滞在したと言っていた。

アメリカ人は(おそらくイギリス人も)イランを個人で旅することはできない。ガイド付きのグループ旅行しか許されていないのだ。

昨日100ドルを両替したが、もっと現地通貨がほしい。と思っていたところ、ちょうど両替所が目に入った。しかもレートは1ドル=530,000リアル。これまでの最高のレートだ。100ドルのつもりが、200ドルも両替してしまった。これで心置きなくイラン・リアル(トマン)を使える。

エマーム広場をあとにして、ザーヤンデ川を目指す。歩いて行くつもりが、見知らぬ経路をたどったため、結局タクシーでたどり着くはめになった。代金は60トマン(1ドルちょっと)。

ホテルへ歩いて帰る途中、Kentuckyというバーガー店で遅めの昼食をとった。店名はケンタッキーだが、フライドチキンよりもハンバーガーやホットドッグがメインのようだ。入店すると同時に、英語ができる女店員が助けてくれた。この助けなしでは注文はむずかしかっただろう。注文だけはない。注文した品ができあがると、放送で番号を呼ばれるシステムだ。レシートの文字もペルシャ文字だけ。放送ももちろんペルシャ語だから、呼ばれてもわからない。私の場合は、できあがった品を店員がもってきてくれた。

注文したのはハンバーガー(ダブルバーガー?)とシュガーなしのコーラ。値段は覚えていないが、イランにしては高かったように思う。ボリュームもあり、おいしかったが、食べにくい。ぶざまな食べ方しかできなかった。

Kentucky(客の9割は女性)

ハンバーガーとコーラ

ホテルで一休みしてから、バザールへと出かける。長いバザールをずっと歩いていくと、エマーム広場を囲む商店に出た。バザールはエマーム広場につながっているのだ。夕食用のスナックと飲み物を買ってホテルへ戻る。

明日はアブヤーネ村を経由してカーシャーンに向かう。

Pirozy Hotelは旅行会社を併設している。今朝、この旅行会社に立ち寄り、「エスファハーンのあと、コムかカーシャーンへ行きたいがどちらがいいだろうか」と尋ねると、即座に「カーシャーン」との答が返ってきた。

さらに「イランの農村の生活(village life)を見たい」という私の要望を伝えたところ、 アブヤーネ村を紹介された。アブヤーネ村からカーシャーンへ行くのが便利とのことで、そのための運転手を斡旋してくれた。料金は1400トマン(30ドル弱)。

2023年5月29日月曜日

イラン2023 エスファハーン(その1)

 4月28日

Farhang Hotelの朝食はYazdan Hostelと大差なく、ベーシックなものだった。少しおどろいたのは、午前8時という時間帯にもかかわらず、朝食の場には私ひとりしかいなかったことだ。まさか客は私だけか。ごく普通のホテルで、特に悪いところもないようなのだが。

Farhang Hotelの朝食

11時のエスファハーン行きのバスのバスに乗るために、配車アプリのSnappを使ってバスターミナルへ行く。同じバスを待っている東洋人風の女性がいたので声をかける。日本人だった。この旅ではじめて出会う日本人。世界一周中とのことだった。

エスファハーンに着いたのは午後3時過ぎ。グーグル・マップで目星を付けておいたホステルへSnappタクシーで向かう。タクシーを降りてホステルを探すが見つからない。見つからないはずだ。当のホステルは取り壊し中で、青いビニールのシートで覆われていた。

付近のホステルやホテルに当たってみるが、いずれも満室だった。しばらく歩くと、Pirozy Hotelという立派なホテルが目に付いた。四つ星ホテルで、1泊1500トマンということ。ここに3泊することにした。受付の女性はドル払いにすれば1泊38ドルと言っていたが、実勢からすると30ドルちょっとだ。

バスで出会った日本人女性と夕食を共にする約束をしていた。彼女が宿泊しているのはHeritage Hostel。Pirozy Hotelからは歩いて20分ほど。7時過ぎにHeritage Hostelで落ち合い、日の暮れたエスファハーンをレストランを探しながら歩く。結局、エマーム広場近くのレストランに落ち着く。注文したのは羊肉の煮込みと一種のピラフ(焼き飯)。飲み物としてビールを注文してみた。もちろんノンアルコールだ。ビールの風味は皆無で、ただの甘い清涼飲料水だった。

このレストランはペルシャ音楽をライブで演奏していた。この種の音楽に関心がある私としては、これはうれしい。

ライブ演奏


エマーム広場を横切り、歩いてホテルへ帰ったときには9時を過ぎていた。

4月29日

四つ星ホテルだけあって、Pirozy Hotelの朝食は充実していた。客の中にはちらほら中国人らしい姿も見かけた。

ホテル代をイラン・リアル出払ったこともあり、両替の必要を感じていた。ホテルの前の両替所に行くが、「キャッシュがない」という理由で断られた。これはよくあることらしい。仕方なく路上で声をかけてきた男と100ドルを両替する。私が差し出したのは旧10ドル紙幣10枚だったので、1ドル=480,000リアルのレートだった。

お金の心配もなくなったところで、ザーヤンデ川まで歩く。ホテルからは30分近くかかる。この川にかかるいつかの橋も観光スポットになっている。私がたどり着いたのはスィー・オ・セ橋だった。

スィー・オ・セ橋

歩いてホテルまで帰る。ホテルの近くで昼食としてピロシキ(という説明だった)とコーラを購入。このとき助けてくれた男性はアフガニスタン人だった。アフガニスタンを訪れたことなどを話す。

5時過ぎに再び外へ出て、エスファハーン観光の中心であるエマーム広場へ行く。かなりの人出だ。モスクのドームが噴水と美しく調和していた。観光用の馬車が広場の周りを駈ける。

エマーム広場

やがて日が暮れてきた。日暮れになっても、多くの人が広場の美しい夜景を楽しんでいる。

夜のエマーム広場

ホテルに帰り、スナックとジュースで夕食代わりとして、一日を終えた。

2023年5月28日日曜日

イラン2023 ヤズド(その2)

 4月27日。

Yazdan Hostelをチェックアウトし、今日泊まるFarhang Hotelまで20分の道を歩く。

Farhang Hotel


沈黙の塔(Tower of Silence)まで連れて行ってくれるガイドとはFarhang Hotelの前で10時に落ち合うことにしていた。

ガイドの名前はムハマッド。彼の車で沈黙の塔へ向かう。沈黙の塔とはゾロアスター教徒の遺体を葬る鳥葬(風葬)の場として使われていた小高い丘の上の塔のことだ。鳥葬は1930年代に禁止され、今は墓場としての機能を失っている。

30分余りで沈黙の塔に着く。広大な赤土の上に塔が見える。訪問者もちらほらいるが、平日ということもあり、数はそう多くない。

沈黙の塔


丘の上の塔へ登る。ムハマッドは下で待っているだけ。ガイドというより「英語をしゃべる運転手」と言ったほうが適切だろう。もっとも私にとってはそのほうが気楽ではある。

丘の上からはヤズドを見渡せる。塔の中央には直径1.5mほどの丸い穴が空いている。鳥葬のあとの遺骨を入れる穴だたったらしい。

遺骨を入れる穴

沈黙の塔に続き、ムハマッドの提案を受け、ドウラト・アーバード庭園を訪れた。18世紀中葉につくられたこの庭園はバードギール(風採り塔)という高い塔で有名だ。

バードギール

半日観光はこれで終わりとし、最後にバスターミナルに立ち寄ってもらった。明日のエスファハーン行きのバスのチケットを購入するためだ。テヘランの地下鉄と同様、バスのチケットはマシンから購入するようになっている。支払いはカードのみだ。マシンの表記もペルシャ語だけ。ムハマッドのカードで明日11時のエスファハーン行きチケットを購入した。ムハマッドがいなければかなり購入に苦労していたことだろう。

ムハマッドによると、「イランはそもそも安全な国だが、ヤズドはそのイランの中でももっとも安全な町だ」とのこと。ヒジャブ(スカーフ)について尋ねてみた。「着用するかどうかは個人の自由ではないか」と言う私に対し、ムハマッドは反論する。「イランはイスラムの国だ。だから女性はヒジャブを着用すべきだ。どこの国でも守るべき一定の規範がある。たとえばいくら自由な西側の国でも裸で通りを歩くことはできないだろう。それと同じだ。」

日本でモロッコ人の男性から同じ理屈を聞いたことがある。だがヒジャブと衣服一般を同列に論ずるのには無理がある。ヒジャブを着用したくない女性は多いだろうが、裸で歩きたいという女性(あるいは男性)はほぼ皆無だろう。

ムハマッドにいくら支払ったのか覚えていない。安くはないが、特別の高い額でもなかったように思う。ムハマッドは年のころ30代半ば。彼のような保守的な人間もいることを目の当たりにしたのは貴重だった。

ホテルで一休みしてから、再度外へ出る。目指したのバザール。だがバザールは閑散としており、テヘランやシラーズのバザールのような賑わいはなかった。

あてどなく歩いていると、伝統的な構えのレストランを見つけた。そういえば昼食をまだ食べていなかった。時刻は5時近い。レストランに入ってみる。歓迎はされたが、英語はまったく通じない。時刻が時刻だけに、客は私ひとり。なんとか200トマン(約4ドル)という値段だけ確かめ、中庭の座に着く。少し雨が降ってきたので、屋内に移動。

レストランの屋内の席

出てきたのはケバブとライス。イランの典型的な料理だ。紅茶はもちろん、食後にはお菓子も出てきた。

ケバブとコーラ

値段は最初に確認したとおり200トマンで、まずは満足。

2023年5月27日土曜日

イラン2023 ヤズド(その1)

 4月25日

ヤズド行きのバスは午後1時半に出発し、途中の休憩をはさんで、午後8時前にヤズドのバスターミナルに到着した。VIPバスということで、座席はゆったりしており、乗り心地は悪くなかった。

宿については予約していないだけでなく、情報も皆無だった。ヤズドのバスターミナルにはタクシーの窓口がある。日も暮れているので、自分で宿を探すのはむずかしい。タクシーの運転手に頼るしかないだろう。手頃な値段のホテルまで連れて行ってくれるように頼む。

そこで連れて行かれたのがYazdan Hostelという小さなホステルだ。朝食付きで1泊25ドル。このホステルで25ドルは高すぎるが、夜も遅いこともあり、そのまま受け入れてしまった。母親と息子の2人でやっているホステルらしい。どちらも実直そうだった。

昼食はバスの中での林檎1つとビスケットだけだったので、腹が減っている。ホステルの近くには食堂がなく、10分ほど歩いてたどりついたファーストフード店でハンバーガーを食べた。空腹も手伝っておいしかった。

Yazdan Hostel(翌朝撮影)


4月26日

Yazdan Hostelの朝食はこれまでの中・高級ホテルでの朝食とは異なり、ベーシックなものだが、卵料理は母親の手作りだった。

Yazdan Hostelの朝食

ヤズドには3泊する予定だが、このホステルは2泊だけにしている。残り1日の宿を決める必要がある。加えてもうひとつ。ヤズドの観光の目玉である「沈黙の塔」(Tower of Silence)は、ヤズドの中心からは車で30分以上かかる。「沈黙の塔」を含めた観光スポットを訪れるためのガイドも見つけたい。

ホステルから20分ほど歩き、ヤズドの中心とおぼしきところに出る。

ヤズドの中心部

小さな旅行会社が見つかったので、「沈黙の塔」へのガイドを依頼する。ガイドの男性と直接にスマホで話し、どこで落ち合うかなどは後ほど連絡することにした。

次に明日のホテル。ガイドブックに載っていたDad Hotelに行ってみたが、高すぎる。Dad Hotelの近くにあるFarhang Hotelに決めた。値段は忘れたが、Yazdan Hostelの25ドルより安かったはずだ。

スーパーで夕食を買ってからホステルに戻り、ホステル近辺の裏通りの動画を撮った。英語で話しかけられる。声をかけてきたのは54歳の男性で、英語の教師ということだった。イラン・イラク戦争のベテランでもあった。17歳のときにイラク軍の捕虜となり、24歳で解放されるまでイラクで捕虜生活を送ったとのこと。解放されてからテヘランの大学で英語を学び、故郷のヤズドで教師になったという。今回の旅ではじめて出会ったイラン・イラク戦争の体験者。

ヤズドの裏通り

2023年5月25日木曜日

イラン2023 シーラーズの夜道で転ぶ

 4月24日

シーラーズ最後の日。このあとどこへ向かうか。38年前の思い出の地バンダレ・ホメイニイを再訪するにはまずアフヴァーズに行く必要がある。シーラーズからアフヴァーズへ行く手段はバスしかなさそうだ。ガイドブックによると「バスで10時間」とある。10時間はきつい。それに砂漠の中のバンダレ・ホメイニイは灼熱の暑さだろう。アフヴァーズをあっさりあきらめ、つまりバンダレ・ホメイニイをあきらめ、次の目的地をゾロアスター教生誕の地ヤズド(Yazd)に定めた。ヤズドならバスで7時間だ。

明日のヤズド行きのバスのチケットを購入するために、Karandish Bus Terminalまでホテルから歩いて向かった。城砦とショハダー広場を通り抜け、ホシュク川に沿って40分近く歩く。バスのチケットの値段は忘れたが、そう高くはなかったはずだ。「忘れた」というようり、このときに至ってもイランの通貨の価値を正確に把握できず、いくらだったかをちゃんと意識していなかったと言うほうが正しい。

川に沿って歩く

ホテルに戻る途中、このところの旅行の恒例となっている「現地での散髪」を実行した。代金は200トマン(200万リアル)。400円ちょっとだ。

ホテルで一休みしてからバザールへ行く。バザールはシーラーズ到着の日にも訪れているが、ちゃんと見るのはこれがはじめてだ。バザールは北と南に分かれている。どちらも現地の買い物客で賑わっていた。

バザールの入口

バザールの中(1)


バザールの中(2)

アイスクリーム屋があったので、ミックスのアイスクリームを買い求めた。値段は忘れたが、おいしかった。12年ほど前にシリアのダマスカスのスーク(市場)で買ったアイスクリームを思い出した。あのアイスクリームもおいしかったなあ。

アイスクリーム

バザールを出るとすでに日は暮れていた。夜になっても賑やかなショハダー広場を抜け、暗い夜道を歩いてホテルをめざす。足元は真っ暗だ。

夜のショハダー広場

突然衝撃を受けて前のめりに倒れた。段差があるのに気がつかなかったのだ。かなりの勢いで両手が地面につく。眼鏡が外れ地面に落ちそうになる。足にはかすり傷。倒れた体を支えた右手の親指が痛む。かなりの痛さだ。

指を曲げることができない。骨折していないか、あるいた骨にひびが入っていないか心配になる。ただの捻挫ならいいのだが。明日はヤズドへ移動する日だからむずかしいが、明後日にでも病院で診てもらったほうがいいだろう。

後日談だが、明後日になると、痛みはかなりやわらいでいたので、病院には行かなかった。帰国後のレントゲン写真でも骨には特に異常はなかった。眼鏡が割れなかったことに加え、軽傷ですんだのは、不幸中の幸いだった。

2023年5月24日水曜日

イラン2023 ペルセポリスの遺跡

 4月23日

ペルセポリス観光の日。前日に旅行会社を通じて依頼しておいた英語ガイドと午前8時に旅行会社の前で落ち合う。できればツアーに参加したかったのだが、ツアーが成立するほどの外国人観光客はいないらしく、個人でガイドを頼む形になった。8時から4時ごろまでのフルツアー(ランチを含む)で、私のほかにひとりでも客がいれば料金は25ユーロ、私だけの場合は10ユーロ追加して35ユーロということだった。25ユーロは前日に旅行会社に支払い済みだった。

予想どおり、私以外の客はいなかった。フルツアーだから、ペルセポリスのほかにナクシェ・ロスタムとパサルガダエも見学することになる。ナクシェ・ロスタムとパサルガダエがどんなところか、まったく知らなかった。正直に言えば、ペルセポリスすら名前を聞いたことがあるだけで、知識はゼロに近かった。紀元前520年にアケメネス朝ペルシャのダリウス1世が建造した都であること、アレクサンダー大王によって破壊されたことは直前に目を通したガイドブックから得た知識だ。

ガイドの名前はアリ。年のころは40歳くらいか。立派な髭とシャツの合間から見える胸毛に圧倒されるが、温厚で話しやすそうだ。ペルセポリスまでは車で2時間余りだった。

アリが入場のチケットを買ってくれる。値段はわからないが、ここでもみんなカードで支払っているようだ。少し暑い春の太陽のもと、ペルセポリスの遺跡が広がる。

ペルセポリスの入口


ペルセポリス(1)

ペルセポリス(2)

ペルセポリス(3)

日曜日ということもあり、訪れている人の数は多い。ほとんどがイラン人のようだ。

遺跡を一巡りしたあと、自動車を木陰にとめてしばし休憩する。アリはコーヒーと紅茶、菓子類を用意していた。このことを含め、アリの気配りに感心する場面は多々あった。

木陰で一休み(ガイドのアリ)

次の目的地のナクシェ・ロスタムはペルセポリスから車で5分ほどの距離。ナクシェ・ロスタムとは、ダリウス1世などのアケメネス朝の王様4人の墓が並んで収められている岩山を指す。規模は小さいが、岩山に彫り込まれた墓はヨルダンのペトラ遺跡を思い起こさせる。

ナクシェ・ロスタム

次ぎにパサルガダエに向かう。車で2時間近くの道のり。途中、アリは「10分ほど休ませてくれ」と車を脇道に止め、睡眠をとる。ちょうど10分後に再出発。道は平坦でストレート。睡魔に襲われやすい。ちょっとでも休んでもらったほうがこちらも安心だ。

パサルガダエに向かう道

パサルガダエは紀元前546年にキュロス大王が建造したアケメネス朝の最初の首都だ。ペルセポリスのようにたくさんの石像や柱が残っているわけではないが、その広さはペルセポリスに匹敵する。かなりの距離を歩いた。

パサルガダエ

アリと並んで

ここでは中国人のツアーグループと遭遇した。上海から来た一行とのこと。

これで観光は終了。シーラーズへ向けて引き返す前に、近くにある伝統的なレストランに入る。アフガニスタンや中央アジアで経験したチャイハナに似た造りのレストランだ。時刻は4時を過ぎており、かなり遅めのランチになる。まずスープと調理済みのライスともう1品。ナツメヤシなどの果物と紅茶も出る。料理名はわからないが、今回の旅ではじめてのイランらしい食べ物だ。かなりのボリュームで、2人でも食べきれなかった。

遅めのランチ

レストランのオーナーと客あるいは客同士が自然に会話しているのが印象的だった。私もいくつかの質問を受けた。

シーラーズへの帰路、アリは再び車を停めて10分間の睡眠をとり、お茶とお菓子で休憩をとった。

シーラーズに戻ったのは7時過ぎで、すでに暗くなり始めていた。単独客であったことから、支払い済みの25ユーロに加えて10ユーロを支払う約束だったが、アリにはチップを含めて20ユーロを渡しておいた。4時頃までの予定が7時になったこともあるが、それよりも、イランに関していろいろと興味深い話を聞けたのがありがたかった。

アリはウクライナやロシア、東南アジア、アフリカ(タンザニア、ルワンダなど)広く旅行しており、私と話がよく合った。平均的なイラン人にとって外国旅行は私たちには想像できない困難がある。お金の問題もあるし、ビザの入手も容易でない。ヨーロッパならほぼどの国へでもビザなしで入国できる日本人とは大違いだ。エジプトやヨルダンには渡航できないこともアリから知った。

レストランで見知らぬ客同士が交流しているのを見たことなどから、「イランはいろいろな問題と困難を抱えてはいるが、人々はそれぞれ自分たちの生活を楽しんでいるように見える」という感想を最後にアリに伝えておいた。

ペルシャ王朝やダリウス大王についてはほとんど頭に残っていないが、貴重な一日ではあった。