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2026年5月3日日曜日

パラオ2026 三日目(コロール)

4月24日

8時半に起床。昨夜はよく眠れた。昨日買ったパンと缶詰で朝食をとったあと、11時ごろにホテルを出た。今日は目的を定めずにコロールの街中を散策するつもりだが、その前にSimカードを購入しておきたい。Palau Hotel近くのPNCC(パラオの国営通信会社)のオフィスへ行き、8GBで10ドルのSimカードを入手した。

パラオの滞在は残り1日半。Wifi接続はホテルやレストランで可能だ。Simカードの用途は路上でグーグル・マップを参照するくらいに限られる。しかも、グーグル・マップはオフラインでも使用できるように地図をダウンロードしてあるから、Simカードなしでもやっていける。なのにあえてSimカードを買ったのは、ホテルのWifiの信号が弱く、動画をまともに見ることができなかったからだ。モバイル通信のほうがまだましだろう。ネットでの情報を見ると、Wifiが弱いのはDW Motelだけではなく、もっと大きなホテルでも同様らしい。

コロールには「繁華街」はない。Palau HotelやPNCCの界隈が「中心」と言ってもいいかもしれない。その界隈には比較的大きなWCTCショッピング・モールがある。1階の食料品スーパーに入ってみる。日本からの輸入食品が多い。インスタント・ラーメン、酒や焼酎、お菓子類など。

WCTCショッピング・センター


ラーメン

「街」の探索はこれで尽きたので、海の方向を目指し、「ポイントD」という地点に至る。海以外に特に見るべきものはない。動画を撮っていた2人連れに声をかけられる。現地人ではなくバングラデシュから来た2人組だった。「ブロガー」であり「Youtuber」でもあるとのこと。彼らから30秒ほどのインタビューを受けた。「バングラデシュは人が親切で、すばらしい場所だ」という主旨のことをしゃべり、その内容を動画に撮られた。

バングラデシュのブロガーと

時刻は2時を過ぎている。メインストリートに戻り、Canoe Houseというカフェ・レストランに入る。地ビールの生とフィッシュ・アンド・チップスを注文。21ドルだった。

フィッシュ・アンド・チップスと地ビール

メインストリートをさらにぶらぶらし、4時過ぎにホテルに戻った。少し休んでから、夕食のために外に出るつもりだったが、ちょうど雨が降りだした。しかもかなり強い雨脚だ。外に出ることはあきらめ、ベッドに寝転んで、動画を見ながら、怠惰な時間を過ごした。

朝の残りのパン、ツナ缶、スパム缶を夕食とする。これで十分に満腹だった。

2026年5月2日土曜日

パラオ2026 二日目(ペリリュー島戦跡ツアー)

 4月23日

DW Motelには朝食はついていない。ホテルから徒歩3分ほどの距離にあるメインストリート沿いの小さなショップに出かけ、コーヒー飲料とパンを購入して朝食とした。

8時半過ぎにツアー会社からの迎えがあり、ペリリュー島戦跡ツアーの出発点となる桟橋へ向かう。

ツアーの申込先は日系ツアー会社のベラウツアー社だが、ツアーを主催するのはロックアイランド・ツアーカンパニーという会社らしい。

桟橋に着き、ツアー代金の146ドルと上陸許可代金(州税)25ドルを支払う。ツアー代金はクレジットカードでよかったが、州税は現金のみ可だった。

参加者は日本人7人。これを日本人女性のガイドが率いる。ペリリュー島へはスピードボートで1時間余り。海が美しい。上陸すると、日本語と英語の看板が迎えてくれる。

ペリリュー島へ


船内


ペリリュー島上陸

まず上陸地点のすぐ近くにある1000人洞窟に入る。バンザイ突撃で壊滅したサイパン島とは異なり、ペリリュー島では洞窟をはりめぐらし、持久戦の方針がとられていた。フィリピンや日本本土への侵攻を1日でも遅らせるためだ。米軍4万人に対して日本軍1万人。最初から勝つ見込みはない。1日でも長く米軍を食い止め、1人でも多く米兵士を殺すことが目的の戦い。これは後日の硫黄島の戦いでも同じだった。

1000人洞窟はその名のとおり、1000年を収容できる人工の洞窟だ。手にライトを持ち、腰をかがめて洞窟の中へ入る。ビールの空瓶などが今も残存しており生々しい。

1000人洞窟の入口とガイド


ビールの空き瓶

洞窟を出てから向かったのはペリリュー戦争記念博物館。部屋ひとつの小さな博物館だ。日本軍の遺品と米軍の遺品が混在して展示されている。受付のパラオ人女性と少し言葉を交わす。「パラオという小さな国に16もの州があり、16人もの知事がいる」と笑う女性。パラオの観光客のなかでもっとも多いのは中国人らしい。パラオは台湾と国交を結んでおり、中国との外交関係はないにもかかわらず。

戦争記念博物館

続いて日本軍戦死者の慰霊碑(みたま)を訪問。ここでは各自が線香を一本たむけた。

慰霊碑

慰霊碑をあとにし、日本軍の燃料貯蔵庫や日本軍戦車を見て、1944年9月15日に米軍が上陸したオレンジ・ビーチ(この水際での戦いでは日米ともに多数の犠牲者が出た)に至る。

日本軍の燃料貯蔵庫


日本軍の戦車

零戦の残骸を見たあとで休憩所での昼食となった。昼食にはチキンの弁当が用意されていた。味は可もなく不可もないといったところ。

弁当

昼食後、まず平和記念公園を訪れる。2015年に天皇夫妻が供花・礼拝した場所でもあり、そのときの記念碑も建っている。

平和記念公園

次に、高台にある200mm砲を見に行く。砲を見るにはかなりの階段を登らなければならないので、私は下にとどまった。高齢になると、坂や階段には慎重になる。上るのはともかく、怖いのは下りだ。眼もよくないから、踏み外す心配がある。

階段を降りてきた数名の欧米人の団体に遭遇した。米国人の団体だった。こちらが日本人であることを告げると、高齢の女性が突然私をハグしてきた。力の入ったハグで、ちょっとびっくりした。女性はハグしながら、「戦争はよくない。戦うべきではない」といった主旨のことを言っていた。

続いてペリリュー神社に向かう。ペリリュー神社は1934年に建立された南興神社を起源とし、1982年に再建されたものだ。

ペリリュー神社

ツアーの締めくくりは、1944年11月下旬に最後の戦闘が行われた山頂の見学。山の上をかなりの時間歩くということだったので、ここでも私は参加を見合わせた。

戦跡ツアーを終え、再び海を渡ってコロールの桟橋へ戻ったのは午後4時過ぎだった。いったん宿へ帰り、日が暮れてから、メインストリートへ出る。10分ほど歩いて、スーパー(Payless Market)を見つけ、明日の朝食用にパン2個、ツナの缶詰(日本製)、スパムの缶詰、牛乳を購入。さらにその近くの「B's居酒屋 夢」という和食レストランに入る。

「B's居酒屋 夢」の2人のウェイトレスはフィリピン人だった。刺身とポテトチップス、Asahiの缶ビールを注文。白身魚の刺身はまずまずの味。ポテトチップスの量が多すぎ、半分ほどを持ち帰りにした。料金は合計で23.65ドル。クレジットカードで支払った。

夕食

2026年5月1日金曜日

パラオ2026 一日目(コロール到着)

歯の治療の合間を縫って海外へ飛んだ。行き先は南太平洋の小国パラオ。パラオについての知識はゼロに近かった。ただ、太平洋戦争の激戦地の1つ、ペリリュー島がパラオに属していることをどこかで知った。パラオへの旅は沖縄、フィリピンに次ぐ戦跡巡りの旅になる。小さな国だから、短期の旅行にも適している。

ネットでパラオを調べ、2つの事実を知った。1つはパラオの人口が1万8千人ほどであること。小国だとは思っていたが、これほどまでに小さいとは想定していなかった。もう1つはパラオが第一次大戦後の1919年から(実質的には1914年から)1945年まで日本の委任統治領(実質的には植民地)であったこと。ここらへんの認識は漠然としてはあったが、正確には知らなかった。いずれにしても、これらはパラオへの興味を失わせる要因でない。

4月22日成田発パラオ(コロール空港)に向けて発ち、26日に成田に帰ってくるユナイテッド航空の直行便の航空券を購入した。代金は13万円。経由便を利用すれば8万円台で済むが、ここは楽をお金で買うことにした。成田発だから東京に前泊することになる。

日本語ガイドによるペリリュー島戦跡ツアーも離陸前日に予約できた。

4月22日

16時50分ごろに成田を飛び立ったユナイテッド航空の便は4時間ちょっとのフライトで21時過ぎにコロール空港に着陸した。日本との時差はない。入国カードと税関申告書はオンラインで事前(入国72時間以内に)に済ませており、その際に発行されたQRコードを提示すればよい。パスポートに押印された入国スタンプ(パラオの自然環境を守るという宣誓)は日本語だった。

パスポートの押印


宿はBooking.comを通じて予約してある。コロール市の中心に近いDW Motelというホテルで、4泊で408ドル(パラオの通貨は米国ドル)。朝食はつかない。1泊100ドル以上だから結構な値段だが、Booking.comの中ではここが一番安かった。

パラオの空港にはSimカードの売り場もなければ両替所もない。ATMがあったかどうかは定かでないが、いくばくかのドルは東京で入手していた。

パラオにはUberのような配車サービスはなく、空港にはタクシーも待っていない。コロールの中心までは約10km。予約したホテルが斡旋する送迎サービスを利用するしかない。空港には送迎バスが迎えに来ていた。いろいろなホテルの予約客16人が乗り込む。DW Motelの客は2人だけだった。代金は「迎」または「送」だけなら25ドル、送迎なら45ドル。バスでこれだけの値段はちょっと取り過ぎだろう。

30分近くかけてDW Motelに到着。小さなホテルだ。受付は日本人の中年男性だった。値段で選んだこの宿だが、オーナーは日本人だった。

DW Motel(翌日撮影)

部屋に入って一息ついたのは12時近く。明日はペリリュー島戦跡ツアーの日だ。8時50分に宿まで迎えが来る。

2026年3月6日金曜日

Schachnovelle(チェスの話)

 




著者:Stefan Zweig

刊行:1942

評価:★★★★★

Kindle版(165円

2026年1月12日読了

Stefan Zweigの中編小説「Schachnovelle(チェスの話)」は傑作として名高いが、今まで手が出なかった。というのも、チェスの知識が乏しいことから(何十年も前にルールブックに目を通しただけで、実戦経験はゼロ)、敷居が高そうに思えたからだ。

杞憂だった。チェスのルールは将棋のルールとほぼ同じであること、c3やc4といった記号は盤上の駒の位置を示すことくらいがわかっていれば十分だ。この小説のテーマはチェスではない。チェスにとりつかれた男が主人公であり、どうしてとりつかれるようになったかの経緯がストーリーの軸だ。

ニューヨークからブエノスアイレスへ向かう大型客船の中。ここにたまたまチェスの世界チャンピオンが乗り合わせていた。成金の同船者が語り手である「私」のほか数人を誘って、チャンピオンに大金をはたき、一対多で対戦することになる。結果はチャンピオンの大勝ち。成金はさらにお金をつんで、第2戦がはじまる。

2局目も「私」たちの思い通りには進まない中、たまたま通りかかった中年の男性が「私」たちに助言しはじめる。これで戦局ががらりと変わり、結果は引き分けになる。

世界チャンピオンに対抗しうるチェスの指し手であるこの男性はいかなる人物か。男性と同国人(オーストリア人)であることから、「私」がこの男性の身の上話を聞き出すことになる。

オーストリアの貴族や僧院の財産を管理を生業としていた男性は、オーストリアがナチス・ドイツに併合された際に、財産をナチスから秘匿する動きにも関与していた。このため、ゲシュタポに逮捕され、ホテルの一室に監禁されて尋問を受ける。ホテルの部屋には何もない(無=Nichts)。簡素な家具のほかには、本棚はもちろん、装飾などは一切なく、筆記道具も与えられず、毎日同じような食事と尋問が繰り返される。変化のない「無」の生活。

「何もない」に苦しめられ、ゲシュタポに屈服しそうになる男性。これを救ったのが、ナチス兵士の外套のポケットからたまたま盗み出した一冊の本だ。といっても、これはただの本ではなく、チェスの数々の名勝負の駒の動きを忠実に記録しているだけの内容だった。

男性はこれらをすべて記憶するほどに繰り返して読み、やがて自分でチェスの対戦を組み立てるようになる。「自分」対「自分」のチェスの試合を頭の中で組み立てるのだ。

この過程とその描写がおもしろい。フロイトの影響下にあったZweigが得意とするobsession(強迫観念)の描写だ。狂気に近づいていくobsession。ここらへんはZweigの独壇場だろう。ナチスを時代背景とした一種の心理小説。チェスはその格好の素材となる。

物語の終末が船上での世界チャンピオンと男性の一対一の対決となるのは必然だ。この結果についてふれるのは野暮だろう。

脇役にとどまるが、世界チャンピオンも興味深い人物だ。身寄りのない貧しい農民の子供で、チェスには並外れた才能を示すが、頭脳明晰からはほど遠い。というよりも、その対極で、計算もまともにできず、読み書きもあやしい。「極端」好きのZweigらしい人物造形といえる。

2026年2月14日土曜日

James (ジェイムズ)

 



著者:Percival Everett

刊行:2024

評価:★★★★★

Kindle版(2062円

2025年12月18日読了

2024年度の全米図書賞やピュリツァー賞を受賞した米国の黒人作家Percival Everettの話題作。マーク・トウェインの「ハックルベリー・フィンの冒険」をベースとし、これをハックと同行する逃亡奴隷のJimことJamesの視点から再構成した小説だ。

私は子供向けに編集された「トム・ソーヤーの冒険」を読んだ覚えはあるが、「ハックルベリー・フィンの冒険」(以下「冒険」と略する)は読んでいない(はずだ)。「James」の登場人物は「ハックルベリー・フィンの冒険」のそれと重なるから、「冒険」を知っていたほうがわかりやすいかもしれないが、読んでいなくても特に理解に支障が出るわけではない。

「冒険」の中のJimとは異なり、Jamesは仲間内では(つまり黒人奴隷同士では)標準の英語を話す。Jamesは読み書きができるうえ、司祭の図書館でさまざまな本を盗み読みしたことから、教養の程度も並大抵ではない(彼の夢の中にはヴォルテールやジョン・ロックが現れる)。

ただし、白人に対するときには間違いだらけの「奴隷の言葉」をしゃべる。たとえば、主人であるMss. Watsonから「眠っていたのか(Was you 'sleep?」と尋ねられたときには、

No, ma’am. I is a might tired, but I ain’t been ’sleep.”(疲れてはいたけど、眠ってはいません)

と、無茶苦茶な文法で答える。

Jamesはこうした「奴隷の言葉」を自分の娘のLizzieにも教える。このレッスンの場面が秀逸だ。

“But what are you going to say when she asks you about it?” I asked. Lizzie cleared her throat. “Miss Watson, dat sum conebread lak I neva before et.”

” “Try ‘dat be,’” I said. “That would be the correct incorrect grammar.” 

“Dat be sum of conebread lak neva I et,” she said. “Very good,” I said.

つまり、ただ間違えればいいというわけではない。(奴隷としての)「正しい間違え方(correct incorrect grammar)」があるのだ。ここらへんは邦訳が不可能に近い。

白人を相手としたときの「奴隷語」を別とすれば、非常に読みやすい小説だ。ストーリーも、どこまでが「冒険」と一致しているのかはわからないが、起伏に富んでおり、おもしろい。

詳細に立ち入ることは控えるが、興味深いのは、当時の奴隷が置かれていた状況がこの小説の展開を通じても浮き彫りになっていることだ。たとえば、黒人はひとりで旅をすることはできない。逃亡奴隷とみなされるからだ。少年のハックとの同行もリスキーだ。したがって、彼らの移動は主として夜間に限られ、昼間は無人島に籠る生活にならざるをえない。ここらへんの事情は「冒険」でも同じだろう。

Percival Everettにはこのほかにも、「Erasure」や「The Trees」などのおもしろそうな作品が数多くある。読み続けていきたい作家のひとりだ。

2026年1月5日月曜日

ベトナム2025 十四日目(帰国)

 12月15日

関空行きのVietJet機がハノイ空港を発つのは16日の午前1時40分。つまり、今日(15日)の夜までハノイを楽しむことができる。

9時過ぎにホテルを出て、旧市街に向かう。目的はドンスワン市場の動画を撮ること。ハノイに限らず、ベトナムの市場では遠慮なく動画を撮影できる。売り場のひとたちは写真や動画に寛容で、笑顔で応えてくれる。

旧市街


ドンスワン市場

いったんホテルに戻る。Rising Dragon Hotelのチェックアウトは12時まで。これを夜まで延ばしてもらえれば、部屋の中で体を休めることができる。しかし、4時まで延ばすには半日分(1600円弱)、4時以降は1日分の宿泊料がかかるとのことだった。それなら、もっと安いドーミトリーで休もう。Booking.comで調べ、Rising Dragon Hotelから歩いて7、8分のところにあるPanda Backpackers Hostelに移動することにした。12時ちょうどにRising Dragon Hotelをチェックアウトし、バックパックを背負ってPanda Backpackers Hostelまで歩く。1泊90Kドン。日本円で540円。これで夜までのベッドを確保できた。

Panda Backpacker Hostelのベッド

12時半にPanda Backpackers Hostelを出て、統一公園へ向かう。徒歩で30分以上かかるが、時間はたっぷりある。

途中の小さな食堂でMixed Fried Riceとグラス・ビールで昼食をとる。80kドン(480円)。ホステルの1泊分の料金とあまり変わらない。

Mixed Fried Riceとビール

統一公園は特に見るべきものもなく、人もそれほど多くなかった。アイスクリームを食べただけで帰路についた。

統一公園

一昨日飲んだエッグ・コーヒーをもう一度味わいたく、Rising Dragon Hotelのすぐ近くにある小ぎれいなカフェに入る。出てきたエッグ・コーヒーは一昨日のものとは異なり、ホイップクリームが大量にのっている。これはこれでおいしいのだが、ちょっとがっかり。70Kドン(420円)。

これもエッグ・コーヒー


5時ごろにホステルへ戻り、9時までベッドに横たわる。眠ることはかなわなかったが、夜間飛行に備えた休息にはなった。

空港までのタクシーはホステルに手配してもらった。350Kドン(2100円)とかなり高めだ。この選択は失敗。時間はたっぷりあるのだから、バスにすればよかった。

空港までは車で40分強。午後10時ごろに到着した。3年前にお世話になった女性に再会できるかもとMSBの両替カウンターへ行くが、目指す女性はいなかった。まあ当然だろう。カウンターでスマホの写真を見せて、「この人を知らないか」と尋ねるが、無駄だった(そもそも話がよく通じなかった)。使い残したいくばくかのベトナム・ドンを米国ドルに再両替する。20ドル返ってきた。

両替カウンターの前にある食堂で夕食とする。注文したのは和牛フォーとコーラ。和牛(Wagyu)フォーは150Kドン(900円)と高かった。和牛だから高ったのか、空港だから高かったのか。おそらくその両方だろう。和牛ということだったが、通常の牛肉との違いは私にはわからなかった。

和牛フォーとコーラ

向かいの席の若い女性が日本語で話しかけてきた。弟が日本で働いてるというこの女性、日本語はかなり前に勉強したとのことのことで、即席の日本語講座が始まる。大学では英語を専攻していることから、会話はおのずから英語に移行した。彼女はホーチミンシティに住んでおり、ラオスのルアンパバーンを旅行して、ハノイ経由で自宅に帰るところだった。ベトナム旅行の最後の最後で、またひとついい思い出ができた。

ホーチミンシティの女性

VietJet機はほぼ定刻通り、朝の7時半に関空に到着し、約2週間のベトナム縦断旅行を無事に終えることができた。

15年前のホーチミンシティへの旅行も悪くはなかったが、2回ほどぼられた思い出が棘のように心に刺さっていた。タクシーとコーラ1本での体験で、金額は取るに足らないものだ。せいぜい数百円だろう。だが、問題は金額ではない。タイ、カンボジア、ラオスなどで一切なかったことがベトナムで発生したのだ。

そのとき以来、ベトナムにほんのわずかのネガティブな感情がつきまとうようになった。3年前のハノイ空港でのプラスの体験もこれを払拭させるまでには至らなかった。

しかし、今回のベトナム旅行はこうしたネガティブなイメージを一掃し、完全にポジティブなイメージへと転換させてくれた。何のひっかりもなく「好きな国」と呼べるようになった。

ホーチミンシティに到着した初日、私の足をとり、手をとりとりしてバイクタクシーにまたがせてくれ、ヘルメットの装着を助けてくれたおばさんたち。ベトナム語だけをしゃべりながら。ホテルのスタッフたちもおしなべて親切だった。

もっとも、裏返して言えば、こうした助けを必然にするほどに、手を差し伸べざるをえないほどに私の老化と体力の劣化が進行しているのかもしれない。


2026年1月4日日曜日

ベトナム2025 十三日目(ハノイのシティ・ツアー)

 12月14日

今日はシティ・ツアーの日。天候は快晴とはいかないが、雨が降る気配はない。

8時過ぎに中年の女性がホテルまで迎えに来てくれた。今日のツアーの英語ガイドだ。

小型バスに乗り込んでツアー開始。ベルギーから来た4人の家族連れと私以外の6人はすべてインド人という顔ぶれだ。

まずホーチミン廟を目指す。ここは午前中のみのオープンだから、どのツアーでも真っ先に訪れる。廟は大きな敷地の中にある。今日は日曜日で、来訪者の数も多い。廟そのものよりも、制服姿の学生をはじめとするベトナム人来訪者の振舞いのほうに興味があった。革命指導者の遺体を保存する慣例はレーニン廟から始まる。私にとっては金日成・金正日の遺体に次いで2番目の体験だが、こうした個人崇拝に意味を見出すのは困難だ。革命の自己否定にしか思えない。廟内の写真撮影は禁止されていた。

ホーチミン廟を訪れた子供たち


ホーチミン廟を背景に

ホーチミンが独立後に住んでいた部屋などを見たあと、廟を出る。続いて向かったのはEthnic Museum(民族博物館)。ベトナムには54の民族がある。最多数はキン族で80%を占める。写真、模型、民具などが展示されている博物館だが、足早に見て回ったため、ガイドの説明もよく頭に入らなかった。

これで午前の部は終わりらしく、ランチの席に残ったのはインド人の3人連れとベルギー人の4人家族、それに私の8人だけだった。私はベルギー人家族と同じテーブルについた。彼らはフラマン語をしゃべっていた。フランス語も学校で必修らしいので、女の子にフランス語で話しかける。小学校に入ったばかりなので、フランス語はまだまだだった。この子には箸の使い方も教授しようとしたが、即席にマスターするのは難しい。料理はまずまず。ツアーならこんなものか。

ツアーのランチ

午後、さらに2人のインド人が加わり、ツアーの再開。まずタイ湖のほとりにあるチャンクオック寺(鎮国寺)を訪れる。何百年も前の仏教寺だから、漢字が多く使われている。

鎮国寺

続いて文廟。これは1070年に建てられた孔子廟で、ベトナム最古の大学があった場所でもある。以来、ここは学問のシンボルとなっているらしい。この日(日曜日)も、特別な制服を着用した大学生、高校生、中学生の団体が数多く訪れていた。彼らは概して外国人観光客に興味津々で、我々に「ハロー」と声をかけてくる場面が何度もあった。

文廟

記念撮影をする学生たち

午後の部の最後はホアロー収容所。これは旧刑務所だ。フランス軍がベトナム人捕虜を収容する場所だったが、ディエンビエンフーでのフランス軍敗北以降、ベトナム軍がフランス人軍捕虜を収容する場に変容した。ベトナム戦争での米軍捕虜が囚われていたのもここだ。米軍の被収容者はここを「ハノイ・ヒルトン」と呼んでいたらしい。

ホアロー収容所(トイレ)

ベトナム人捕虜

シティ・ツアーは4時半に終了した。インド人が多いツアーだった。我々のグループだけでなく、ほかのグループでも多くのインド人を見かけた。インド人の観光客の多さは数年前から気づいていた。インドの経済成長に伴い、余裕のある中産階級が増えていることの証だろう。ちょうど50年前の日本、30年前の韓国、20年前の中国がそうであったように。同行のインド人たちも同じ見方だった。

いったんホテルへ戻り、6時40分に再び外へ出る。旧市街の方向に向かい、小さな食堂に入る。牛肉のフォーとハノイ・ビール(併せて480円)を注文する。

客でいっぱいの食堂の中、相席になった30歳台くらいのカップルがドイツ語をしゃべっている。ドイツ語で声をかける。フランクフルトから来たカップだった。話題はいつしか極右政党のAfDや移民問題に移る。

彼ら自身が移民だった。男性はドイツ生まれのイラン人、女性は12年前にドイツに移住したロシア人。男性は医師で、女性も同じ病院で働いているという。彼らによると、今やドイツの多数派はAfDだとのこと。世論調査やインタビューでAfD支持を公然と表明することはなくても、心の奥でAfDにシンパシーを感じている人は多い。女性もそのうちのひとりだった。

女性によると、移民の問題は、ドイツに溶け込もうとせず、働かないことだ。20年も30年も働かず、ドイツ国民の税金で食べている移民も少なくないとか。そんなことが可能なのが現在のドイツだという。

意見の違いはともかく、こうした会話をほぼドイツ語だけでやってのけることができた。今回のベトナム旅行でもっとも印象に残る触れ合いだった。

コンビニ(サークルK)で買い物をし、9時前にホテルに戻った。