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2026年6月12日金曜日

ブルネイ2026 一日目(ブルネイ到着)

 5月24日から6月7日までの約2週間、ブルネイとインドネシアを旅した。ブルネイに3泊、残りはインドネシアという行程だ。ブルネイはまだ行っていない国だから、インドネシアも首都ジャカルタを含むジャワ島には足を踏み入れていないからという理由の選択である。それにブルネイやジャワ島は春と夏は乾期で旅行に適している。

5月24日にブルネイの首都バンダ・スリ・ブガワンに入り、6月7日にインドネシアのジャカルタから出る往復の航空券をTrip.comで購入した。同時にブルネイからジャカルタへの5月27日の片道航空券も入手した。前者は90290円、後者は34850円だった。

5月24日

ブルネイ行きは、成田発のRoyal Bruneiの直行便。前日に東横INN成田空港本館に宿泊した。

ブルネイの通貨はドル。これはシンガポールのドルとリンクしており、レートも1対1で固定されている。ブルネイ国内ではシンガポール・ドルをそのまま使用できるらしい。そこで、いくばくかのシンガポール・ドル(確か6千円分だったかな)を成田空港で入手しておいた。

Royal Brunei便は定刻の11時45分に成田を飛び立ち、4時40分にブルネイに到着した。時差が1時間だから、約6時間のフライト。入国カードは事前にオンラインで登録する仕組みになっている。

オンラインの登録時にいくつかミスをしたこともあり、ちょっと心配だった入国審査も問題なく通り抜け、空港でSimカードを購入した。30GBで15ドル(約1900円)。電話番号も付いている。

宿はBooking.comを通じて市内中心部に近いJubilee Plazaを予約しておいた。空港送迎の無料サービス付きだ。バンダ・スリ・ブガワンの空港にはバスもなく、タクシーも待機していないから、ホテルの送迎がないと、市内までの足の確保がむずかしい(ここらへんはパラオと似ている)。3泊で15000円(朝食なし)とブルネイでは比較的安いホテルだが、残念なのはWifiの信号が弱いこと。パラオのDWモーテルも同様だった。

Jubilee Plaza


ホテルの部屋で体を休めてから、7時前に外出。歩いて5分ほどすると派手な寺院が目に入る。あとで知ったが、仏教ではなく、道教の寺院だ。日曜ということもあり、この寺院ではなにかのイベントがあり、無料の夕食と豆乳が提供されていた。うろうろするうち、私もご相伴に与った。中華風の料理は予想外においしかった。

道教寺院

中庭のこの会場で

ご相伴に与る

ホテル横のミニマート(コンビニ)でチキンの缶詰、お菓子、スプライト、ミルクティーを購入し、明日の朝食に備える。6ドル強(750円ほど)。

2026年5月4日月曜日

パラオ2026 四、五日目(コロール、帰国)

 4月25日

ダイビングやシュノーケルといったアクティビティを除けば、パラオの観光はごく限られている。今回の旅の主な目的はペリリュー島の戦跡巡りであり、これを2日前に終えた今、特にすることはない。パラオの歴史を知るために、博物館にでも行ってみるか。

11時ごろにホテルを出て、ベラウ国立博物館を目指す(「ベラウ」はパラオを意味する現地語)。博物館はメインストリートから外れており、少し迷った。迷っていると、大きな家の中庭にいた2人の中年のパラオ人男性から「ダイジョーブ?」という声がかかる。博物館へ行きたいことを伝える。「ミギ」、「ヒダリ」といった日本語を交え、英語で行き方を説明してくれる。「カキ」に沿って行けばいいとのこと。「カキ」とはfenceの意味らしい。彼らは日本語の単語を知っているだけで、日本語がしゃべるわけではない。

「カキ」に沿って行き、博物館にたどり着いた。入場料の15ドルを払って中へ入る。パラオの歴史が時系列的に展示されている。私にとって興味があるのは、日本統治時代のパラオだ。統治時代のパラオ住民の手記もいくつか展示されており、そのなかには「日本の軍人に理由なく殴られた」というものもあった。「親日国」だけでは済まされないパラオの歴史の一部だ。

ベラウ国立博物館


昼食はメインストリート沿いの中華料理店でとった。炒飯、豚肉、トマトと卵の炒め物、セブンアップで13ドル。物価高のパラオにしては安いが、おいしさはいまひとつ。こんなことなら、博物館に付設されていたカフェ・レストランにすればよかったと後悔。

中華で昼食

ホテルへ帰って一休みしてから、6時ごろ再度外出。メインストリートをPalau Hotelとは逆の方向に足をのばす。日没の海を見ながら橋まで行き、引き返す。

日没の海

ここらあたりには高級レストランもあるが、私にとっては選択外。小ぎれいな台湾料理の店を見つけて入る。「美人魚餐廳という名前のレストランだ。円卓が多く、ひとりで食事するにはあまり向いていそうになかったが、ともかく炒飯と台湾ビールを注文した。炒飯のボリュームにびっくりした。ゆうに3人分の量だ。半分以上は平らげたが、残りは持ち帰りにした。合計で21ドル。クレジットカードは使えなかった。

炒飯とビール

4月25日

昨日持ち帰った炒飯を朝食とする。今日は帰国日。10時50分発のユナイテッド航空の直行便で成田に帰る。7時45分に小型バスが宿まで迎えに来てくれる。

パラオ国際空港

出国とフライトはスムーズに進行し、定刻より早めの15時過ぎに無事成田に到着した。

若干の感想

今回の旅を一口で要約すれば、「国内旅行の延長」だ。空港、ホテル、レストランでは英語よりも日本語を使う機会が多かった。旅の主要な目的であったペリリュー島戦跡ツアーは日本語ツアーであり、参加者も全員が日本人だった。

「国内旅行の延長」とは現地の人たちとの接触が限られていたということにほかならない。パラオ人は概してフレンドリーで、向こうから「ハロー」と声をかけてくることも多かったが、じっくりと長く話す機会には恵まれなかった。レストランのウェイトレス、ツアーの受付とは多少言葉を言葉を交わしたが、彼女たちはすべてフィリピン人だった。

ペリリューという名前だけは知っていたが、第二次大戦におけるその位置や背景、経緯についてはまったく知らなかった(パラオ入国の直前に文春新書の「ペリリュー玉砕」を読んだくらい)。戦跡ツアーはペリリュー島の戦いを知るいいきっかけとなった。ツアーに参加できたのはラッキーといえる。早めに申し込んだとしても、催行人数に達しないケースもある。確実にツアーに参加するには、日本の旅行会社のパッケージ・ツアーに申し込むのがベストかもしれない。値段も個人旅行とそう変わらない。

南太平洋にはパラオのほかに、ツバル、ニウエ、ナウル、キリバスなどの小国がある。これらの国への興味もないわけではないが、アクセスの難しさやコストを考えると、当面は行けそうにはない。パラオに行ったことで満足しておこう。メインストリートから外れたところで撮った動画をひとつアップしてこの稿を終えたい。

パラオを歩く

2026年5月3日日曜日

パラオ2026 三日目(コロール)

4月24日

8時半に起床。昨夜はよく眠れた。昨日買ったパンと缶詰で朝食をとったあと、11時ごろにホテルを出た。今日は目的を定めずにコロールの街中を散策するつもりだが、その前にSimカードを購入しておきたい。Palau Hotel近くのPNCC(パラオの国営通信会社)のオフィスへ行き、8GBで10ドルのSimカードを入手した。

パラオの滞在は残り1日半。Wifi接続はホテルやレストランで可能だ。Simカードの用途は路上でグーグル・マップを参照するくらいに限られる。しかも、グーグル・マップはオフラインでも使用できるように地図をダウンロードしてあるから、Simカードなしでもやっていける。なのにあえてSimカードを買ったのは、ホテルのWifiの信号が弱く、動画をまともに見ることができなかったからだ。モバイル通信のほうがまだましだろう。ネットでの情報を見ると、Wifiが弱いのはDW Motelだけではなく、もっと大きなホテルでも同様らしい。

コロールには「繁華街」はない。Palau HotelやPNCCの界隈が「中心」と言ってもいいかもしれない。その界隈には比較的大きなWCTCショッピング・モールがある。1階の食料品スーパーに入ってみる。日本からの輸入食品が多い。インスタント・ラーメン、酒や焼酎、お菓子類など。

WCTCショッピング・センター


ラーメン

「街」の探索はこれで尽きたので、海の方向を目指し、「ポイントD」という地点に至る。海以外に特に見るべきものはない。動画を撮っていた2人連れに声をかけられる。現地人ではなくバングラデシュから来た2人組だった。「ブロガー」であり「Youtuber」でもあるとのこと。彼らから30秒ほどのインタビューを受けた。「バングラデシュは人が親切で、すばらしい場所だ」という主旨のことをしゃべり、その内容を動画に撮られた。

バングラデシュのブロガーと

時刻は2時を過ぎている。メインストリートに戻り、Canoe Houseというカフェ・レストランに入る。地ビールの生とフィッシュ・アンド・チップスを注文。21ドルだった。

フィッシュ・アンド・チップスと地ビール

メインストリートをさらにぶらぶらし、4時過ぎにホテルに戻った。少し休んでから、夕食のために外に出るつもりだったが、ちょうど雨が降りだした。しかもかなり強い雨脚だ。外に出ることはあきらめ、ベッドに寝転んで、動画を見ながら、怠惰な時間を過ごした。

朝の残りのパン、ツナ缶、スパム缶を夕食とする。これで十分に満腹だった。

2026年5月2日土曜日

パラオ2026 二日目(ペリリュー島戦跡ツアー)

 4月23日

DW Motelには朝食はついていない。ホテルから徒歩3分ほどの距離にあるメインストリート沿いの小さなショップに出かけ、コーヒー飲料とパンを購入して朝食とした。

8時半過ぎにツアー会社からの迎えがあり、ペリリュー島戦跡ツアーの出発点となる桟橋へ向かう。

ツアーの申込先は日系ツアー会社のベラウツアー社だが、ツアーを主催するのはロックアイランド・ツアーカンパニーという会社らしい。

桟橋に着き、ツアー代金の146ドルと上陸許可代金(州税)25ドルを支払う。ツアー代金はクレジットカードでよかったが、州税は現金のみ可だった。

参加者は日本人7人。これを日本人の女性ガイドが率いる。ペリリュー島へはスピードボートで1時間余り。海が美しい。上陸すると、日本語と英語の看板が迎えてくれる。

ペリリュー島へ


船内


ペリリュー島上陸

まず上陸地点のすぐ近くにある1000人洞窟に入る。バンザイ突撃で壊滅したサイパン島とは異なり、ペリリュー島では洞窟をはりめぐらし、持久戦の方針がとられていた。フィリピンや日本本土への侵攻を1日でも遅らせるためだ。米軍4万人に対して日本軍1万人。最初から勝つ見込みはない。1日でも長く米軍を食い止め、1人でも多く米兵士を殺すことが目的の戦い。これは後日の硫黄島の戦いでも同じだった。

1000人洞窟はその名のとおり、1000年を収容できる人工の洞窟だ。手にライトを持ち、腰をかがめて洞窟の中へ入る。ビールの空瓶などが今も残存しており生々しい。

1000人洞窟の入口とガイド


ビールの空き瓶

洞窟を出てから向かったのはペリリュー戦争記念博物館。部屋ひとつの小さな博物館だ。日本軍の遺品と米軍の遺品が混在して展示されている。受付のパラオ人女性と少し言葉を交わす。「パラオという小さな国に16もの州があり、16人もの知事がいる」と笑う女性。パラオの観光客のなかでもっとも多いのは中国人らしい。パラオは台湾と国交を結んでおり、中国との外交関係はないにもかかわらず。

戦争記念博物館

続いて日本軍戦死者の慰霊碑(みたま)を訪問。ここでは各自が線香を一本たむけた。

慰霊碑

慰霊碑をあとにし、日本軍の燃料貯蔵庫や日本軍戦車を見て、1944年9月15日に米軍が上陸したオレンジ・ビーチ(この水際での戦いでは日米ともに多数の犠牲者が出た)に至る。

日本軍の燃料貯蔵庫


日本軍の戦車

零戦の残骸を見たあとで休憩所での昼食となった。昼食にはチキンの弁当が用意されていた。味は可もなく不可もないといったところ。

弁当

昼食後、まず平和記念公園を訪れる。2015年に天皇夫妻が供花・礼拝した場所でもあり、そのときの記念碑も建っている。

平和記念公園

次に、高台にある200mm砲を見に行く。砲を見るにはかなりの階段を登らなければならないので、私は下にとどまった。高齢になると、坂や階段には慎重になる。上るのはともかく、怖いのは下りだ。眼もよくないから、踏み外す心配がある。

階段を降りてきた数名の欧米人の団体に遭遇した。米国人の団体だった。こちらが日本人であることを告げると、高齢の女性が突然私をハグしてきた。力の入ったハグで、ちょっとびっくりした。女性はハグしながら、「戦争はよくない。戦うべきではない」といった主旨のことを言っていた。

続いてペリリュー神社に向かう。ペリリュー神社は1934年に建立された南興神社を起源とし、1982年に再建されたものだ。

ペリリュー神社

ツアーの締めくくりは、1944年11月下旬に最後の戦闘が行われた山頂の見学。山の上をかなりの時間歩くということだったので、ここでも私は参加を見合わせた。

戦跡ツアーを終え、再び海を渡ってコロールの桟橋へ戻ったのは午後4時過ぎだった。いったん宿へ帰り、日が暮れてから、メインストリートへ出る。10分ほど歩いて、スーパー(Payless Market)を見つけ、明日の朝食用にパン2個、ツナの缶詰(日本製)、スパムの缶詰、牛乳を購入。さらにその近くの「B's居酒屋 夢」という和食レストランに入る。

「B's居酒屋 夢」の2人のウェイトレスはフィリピン人だった。刺身とポテトチップス、Asahiの缶ビールを注文。白身魚の刺身はまずまずの味。ポテトチップスの量が多すぎ、半分ほどを持ち帰りにした。料金は合計で23.65ドル。クレジットカードで支払った。

夕食

2026年5月1日金曜日

パラオ2026 一日目(コロール到着)

歯の治療の合間を縫って海外へ飛んだ。行き先は南太平洋の小国パラオ。パラオについての知識はゼロに近かった。ただ、太平洋戦争の激戦地の1つ、ペリリュー島がパラオに属していることをどこかで知った。パラオへの旅は沖縄、フィリピンに次ぐ戦跡巡りの旅になる。小さな国だから、短期の旅行にも適している。

ネットでパラオを調べ、2つの事実を知った。1つはパラオの人口が1万8千人ほどであること。小国だとは思っていたが、これほどまでに小さいとは想定していなかった。もう1つはパラオが第一次大戦後の1919年から(実質的には1914年から)1945年まで日本の委任統治領(実質的には植民地)であったこと。ここらへんの認識は漠然としてはあったが、正確には知らなかった。いずれにしても、これらはパラオへの興味を失わせる要因でない。

4月22日成田発パラオ(コロール空港)に向けて発ち、26日に成田に帰ってくるユナイテッド航空の直行便の航空券を購入した。代金は13万円。経由便を利用すれば8万円台で済むが、ここは楽をお金で買うことにした。成田発だから東京に前泊することになる。

日本語ガイドによるペリリュー島戦跡ツアーも離陸前日に予約できた。

4月22日

16時50分ごろに成田を飛び立ったユナイテッド航空の便は4時間ちょっとのフライトで21時過ぎにコロール空港に着陸した。日本との時差はない。入国カードと税関申告書はオンラインで事前(入国前72時間以内に)に済ませており、その際に発行されたQRコードを提示すればよい。パスポートに押印された入国スタンプ(パラオの自然環境を守るという宣誓)は日本語だった。

パスポートの押印


宿はBooking.comを通じて予約してある。コロール市の中心に近いDW Motelというホテルで、4泊で408ドル(パラオの通貨は米国ドル)。朝食はつかない。1泊100ドル以上だから結構な値段だが、Booking.comの中ではここが一番安かった。

パラオの空港にはSimカードの売り場もなければ両替所もない。ATMがあったかどうかは定かでないが、いくばくかのドルは東京で入手していた。

パラオにはUberのような配車サービスはなく、空港にはタクシーも待っていない。コロールの中心までは約10km。予約したホテルが斡旋する送迎サービスを利用するしかない。空港には送迎バスが迎えに来ていた。いろいろなホテルの予約客16人が乗り込む。DW Motelの客は2人だけだった。代金は「迎」または「送」だけなら25ドル、送迎なら45ドル。バスでこれだけの値段はちょっと取り過ぎだろう。

30分近くかけてDW Motelに到着。小さなホテルだ。受付は日本人の中年男性だった。値段で選んだこの宿だが、オーナーは日本人だった。

DW Motel(翌日撮影)

部屋に入って一息ついたのは12時近く。明日はペリリュー島戦跡ツアーの日だ。8時50分に宿まで迎えが来る。

2026年3月6日金曜日

Schachnovelle(チェスの話)

 




著者:Stefan Zweig

刊行:1942

評価:★★★★★

Kindle版(165円

2026年1月12日読了

Stefan Zweigの中編小説「Schachnovelle(チェスの話)」は傑作として名高いが、今まで手が出なかった。というのも、チェスの知識が乏しいことから(何十年も前にルールブックに目を通しただけで、実戦経験はゼロ)、敷居が高そうに思えたからだ。

杞憂だった。チェスのルールは将棋のルールとほぼ同じであること、c3やc4といった記号は盤上の駒の位置を示すことくらいがわかっていれば十分だ。この小説のテーマはチェスではない。チェスにとりつかれた男が主人公であり、どうしてとりつかれるようになったかの経緯がストーリーの軸だ。

ニューヨークからブエノスアイレスへ向かう大型客船の中。ここにたまたまチェスの世界チャンピオンが乗り合わせていた。成金の同船者が語り手である「私」のほか数人を誘って、チャンピオンに大金をはたき、一対多で対戦することになる。結果はチャンピオンの大勝ち。成金はさらにお金をつんで、第2戦がはじまる。

2局目も「私」たちの思い通りには進まない中、たまたま通りかかった中年の男性が「私」たちに助言しはじめる。これで戦局ががらりと変わり、結果は引き分けになる。

世界チャンピオンに対抗しうるチェスの指し手であるこの男性はいかなる人物か。男性と同国人(オーストリア人)であることから、「私」がこの男性の身の上話を聞き出すことになる。

オーストリアの貴族や僧院の財産を管理を生業としていた男性は、オーストリアがナチス・ドイツに併合された際に、財産をナチスから秘匿する動きにも関与していた。このため、ゲシュタポに逮捕され、ホテルの一室に監禁されて尋問を受ける。ホテルの部屋には何もない(無=Nichts)。簡素な家具のほかには、本棚はもちろん、装飾などは一切なく、筆記道具も与えられず、毎日同じような食事と尋問が繰り返される。変化のない「無」の生活。

「何もない」に苦しめられ、ゲシュタポに屈服しそうになる男性。これを救ったのが、ナチス兵士の外套のポケットからたまたま盗み出した一冊の本だ。といっても、これはただの本ではなく、チェスの数々の名勝負の駒の動きを忠実に記録しているだけの内容だった。

男性はこれらをすべて記憶するほどに繰り返して読み、やがて自分でチェスの対戦を組み立てるようになる。「自分」対「自分」のチェスの試合を頭の中で組み立てるのだ。

この過程とその描写がおもしろい。フロイトの影響下にあったZweigが得意とするobsession(強迫観念)の描写だ。狂気に近づいていくobsession。ここらへんはZweigの独壇場だろう。ナチスを時代背景とした一種の心理小説。チェスはその格好の素材となる。

物語の終末が船上での世界チャンピオンと男性の一対一の対決となるのは必然だ。この結果についてふれるのは野暮だろう。

脇役にとどまるが、世界チャンピオンも興味深い人物だ。身寄りのない貧しい農民の子供で、チェスには並外れた才能を示すが、頭脳明晰からはほど遠い。というよりも、その対極で、計算もまともにできず、読み書きもあやしい。「極端」好きのZweigらしい人物造形といえる。

2026年2月14日土曜日

James (ジェイムズ)

 



著者:Percival Everett

刊行:2024

評価:★★★★★

Kindle版(2062円

2025年12月18日読了

2024年度の全米図書賞やピュリツァー賞を受賞した米国の黒人作家Percival Everettの話題作。マーク・トウェインの「ハックルベリー・フィンの冒険」をベースとし、これをハックと同行する逃亡奴隷のJimことJamesの視点から再構成した小説だ。

私は子供向けに編集された「トム・ソーヤーの冒険」を読んだ覚えはあるが、「ハックルベリー・フィンの冒険」(以下「冒険」と略する)は読んでいない(はずだ)。「James」の登場人物は「ハックルベリー・フィンの冒険」のそれと重なるから、「冒険」を知っていたほうがわかりやすいかもしれないが、読んでいなくても特に理解に支障が出るわけではない。

「冒険」の中のJimとは異なり、Jamesは仲間内では(つまり黒人奴隷同士では)標準の英語を話す。Jamesは読み書きができるうえ、司祭の図書館でさまざまな本を盗み読みしたことから、教養の程度も並大抵ではない(彼の夢の中にはヴォルテールやジョン・ロックが現れる)。

ただし、白人に対するときには間違いだらけの「奴隷の言葉」をしゃべる。たとえば、主人であるMss. Watsonから「眠っていたのか(Was you 'sleep?」と尋ねられたときには、

No, ma’am. I is a might tired, but I ain’t been ’sleep.”(疲れてはいたけど、眠ってはいません)

と、無茶苦茶な文法で答える。

Jamesはこうした「奴隷の言葉」を自分の娘のLizzieにも教える。このレッスンの場面が秀逸だ。

“But what are you going to say when she asks you about it?” I asked. Lizzie cleared her throat. “Miss Watson, dat sum conebread lak I neva before et.”

” “Try ‘dat be,’” I said. “That would be the correct incorrect grammar.” 

“Dat be sum of conebread lak neva I et,” she said. “Very good,” I said.

つまり、ただ間違えればいいというわけではない。(奴隷としての)「正しい間違え方(correct incorrect grammar)」があるのだ。ここらへんは邦訳が不可能に近い。

白人を相手としたときの「奴隷語」を別とすれば、非常に読みやすい小説だ。ストーリーも、どこまでが「冒険」と一致しているのかはわからないが、起伏に富んでおり、おもしろい。

詳細に立ち入ることは控えるが、興味深いのは、当時の奴隷が置かれていた状況がこの小説の展開を通じても浮き彫りになっていることだ。たとえば、黒人はひとりで旅をすることはできない。逃亡奴隷とみなされるからだ。少年のハックとの同行もリスキーだ。したがって、彼らの移動は主として夜間に限られ、昼間は無人島に籠る生活にならざるをえない。ここらへんの事情は「冒険」でも同じだろう。

Percival Everettにはこのほかにも、「Erasure」や「The Trees」などのおもしろそうな作品が数多くある。読み続けていきたい作家のひとりだ。