よろしければクリックしてください。
にほんブログ村 旅行ブログ 海外旅行へ
にほんブログ村

2024年7月27日土曜日

アゼルバイジャン2024 四日目(クバへ)

 7月8日

朝食後、9時過ぎにMadinah Hotelをチェックアウト。チェックアウト時、受付の男性がBooking.comの私の予約ページを開くように求めてくる。指示どおりにMadinah Hotelを評価するページを開く。ホテルを評価してほしいらしい。スタッフを目の前にして悪い評価は付けられない。9をクリックしておいた。Booking.comでこのホテルの評価が9.2と高い裏にはこうしたからくりがあったのか。

ただし、9は私の実際の評価に近い。スタッフの対応、清潔さ、朝食などは十分に満足できるものだった。難点を挙げるとすれば、旧市街まで遠いこと、室内のWifiの信号が弱かったことくらいだ。

Cuba(クバ)行きのバスが出るオートバクザール(バス・ターミナル)へは配車アプリのBoltを使って行った。30分近くの乗車で7マナト(700円弱)。

クバ行きの小型バスは10時半ごろに出発した。バスは2時間半かけて(途中トイレ休憩あり)、クバのオートバクザールへ到着した。オートバクザールは新しく外観は立派だが、あまり人を見かけなかった。停車しているバスの数もそう多くない。バスの同乗者も大半が手前の駅で降車している。空白の中にぽつんと建っているようなターミナルだ。

クバ行きのバスの中

クバのオートバクザール


グーグル・マップで確かめると、ホテルやショップはかなり離れている。目を付けているXinaliqu Hotelを目指し(予約はしていない)、バックパックを背負って歩く。歩いても歩いて目に入ってくるのは住宅だけだ。日差しも強い。「こんなに何もない地にどうしてやってきたのだろう」との後悔が頭をよぎる。

40分以上歩いて、やっと店やホテルが見えてきた。Xinaliqu Hotelはすぐに見つかった。1泊15マナト(1500円弱)。2泊することにした。Xinaliqu(日本語ではフナルッグと記されていることが多い)とは、クバ近郊の小さな山村を指す。標高2500メートルの孤立した村で、住民は独自の言語を話すという。いわば秘境だ。明日はこの秘境を目指す。

Xinaliqu Hotelは値段相応の質だった。Wifiが飛んでいないのはともかく、エアコンと冷蔵庫がないのはつらい。シャワーもチョロチョロしか出ない。立地はよい。バザールに面しており、スーパーや食堂には事欠かない。

Xinaliqu Hotel

スーパーで多少の飲食物を購入したあと、5時半ごろに小さな食堂で昼食兼夕食をとった。注文したのはビーフのケバブを薄いパンで包んだ料理(シャオルマ?)とコーラ。6.4マナト(600円ほど)だった。

シャオルマ?

明日のXinaliqu村行きをホテルの前にたむろしていたタクシー運転手に依頼しておく。運転手はホテルのオーナーとは顔なじみのようだ。村までの往復で60マナト(6000円弱)。ちょっとぼられたかもしれないが、相場を知らないのでなんとも言えない。

2024年7月26日金曜日

アゼルバイジャン2024 三日目(バクー続き)

 7月7日

9時前に朝食をとったあと、配車アプリのBoltを使って旧市街のMaiden Tower(乙女の塔)まで行く。料金は失念したが、500円くらいだっただろうか。Maiden Towerの前には旅行代理店の客引きが何人もたむろし、観光客を各種ツアーに勧誘している。若い女性の客引きが話しかけてくる。ツアーには興味があるから、話を聞き、パンフレットをもらう。

Maiden Tower


明日はバクーを発つ予定なので、ツアーに参加するのは再度バクーに帰ってきてからになる。明日私が向かおうとしていたのは北部のQuba(クバ)だ。ダゲスタンに比較的近いことから、この地を次の目的地として選んだ。問題はどのバス・ターミナルからクバ行きのバスが出ているかだ。客引きの女性に尋ねると「オートバクザール」という返事だった。ここでロシア語の知識が少し役立った。「オート」は「オートブス」、つまりバスのことだろう。バグザールはロシア語で「駅」。クバまではバスで2時間ちょっとの距離。バスは頻繁に出ている。「オートバクザール」は「International Bus Terminal」とも呼ばれているらしい。

昨日バザールへ行けなかったこともあり、今日はVasil Bazarという青果市場を訪れることにした。旧市街に最寄りの駅から地下鉄に乗り、Vasil Bazarに近くの駅まで行き、そこから歩く。初日にバスと地下鉄を混同し、プラットフォームまで行ったことはあるが、実際に乗るのは今日がはじめてだ。

バクーの地下鉄はRed LineとGreen Lineという2本の路線から構成されており、単純ではあるが、カバーする範囲は広くなく、駅も少ないため、交通手段としてあまり便利ではない。

地下鉄

旧市街を出てVasil Bazarにたどり着くまで1時間近くはかかっただろうか。途中小雨が降りだしたがすぐに止んだ。

Vasil Bazarは青果を中心とした食品と雑貨の市場で、外国人の私が通りかかると、売り込みの声がかかる。

Vasil Bazar

地下鉄を利用して旧市街まで戻り、そのままカスピ海に出て、昨日と同様にDeniz Mall (Waterfront mall)に入る。今日も昼食は抜いている。5時半ごろに夕食をとることにし、フードコートでアゼルらしい料理と思って注文する。が、出てきたのはピザの上に挽肉とジャガイモを載せた1品だった。コーラと併せて7.4マナト(700円ほど)。

夕食

7時過ぎにはホテルに戻る。旧市街やNesami Street、Vasil Bazarまでの道と、バクーの中を歩き回る一日だった。

2024年7月25日木曜日

アゼルバイジャン2024 二日目(バクー)

 7月6日

Madinah Hotelの昼食は8時から10時まで。8時過ぎに6階の朝食会場に行く。ビュッフェ式の朝食は1泊5000円という値段にしては充実していた。中年の女性2人と若い男性1人のグループと少し会話する。女性1人と男性はトルコ人で、もう1人の女性は彼らの友人のアゼルバイジャン人とのこと。トルコ語とアゼルバイジャン語は互いに意思疎通が可能らしい。

朝食

11時半にホテルを出る。このホテルはカスピ海には近いが、バクーの中心である旧市街やFountain Squareには徒歩で30分以上かかる。バクーを知るためにも、カスピ海沿いに北方に向かい、街の中心まで歩いてみた。日差しは強いが、汗をかくほどではなく、快適な散歩になった。観覧車やシドニーのオペラハウスを想起させる大きな建物が目に入る。この建物はDeniz Mall (Waterfront Mall)というショッピング・モールだ。

観覧車とショッピング・モール


カスピ海

カスピ海沿いの公園のベンチで休んでいると、50~60代くらいの男性が「イポーニア(日本)?」とロシア語で声をかけてきた。ニイハオと挨拶されることはよくあるが、日本人かと尋ねられることは珍しい(実際、今回の旅では日本人を誰一人見かけなかった)。男性はロシアのダゲスタンから来ているという。ダゲスタンは一度足を踏み入れたこともあり、再訪したいと思っている場所でもあったので、男の話につたないロシア語で対応した。男は服装こそ普通だが、物乞いだった。「食べるものを買いたいのでお金をくれ」と言う。これには、「ウミニャー ニエット ジェーニク」(私はお金を持っていない)と文法的にも正確な(ちゃんと否定生格を使っている)完璧なロシア語で答えた。男は無言で去って行った。

旧市街を通り抜け、Fountain SquareからNesami Streetへ出る。両替所があったので、昨日空港で拒否されたカナダドルを交換する。旧紙幣ということで通常より低いレートでの交換だったが、200マナト(2万円あまり)の現金を入手できた。

お金もできたところで、Taza basar(タザ・バザール)を目指す。グーグル・マップに従って歩くこと30分以上、バザールのあるべき場所に達したがなにも見当たらない(Taza Basarは移転していたことを後日知る)。

再び長い距離を歩いてカスピ海沿いに戻り、ベンチで休む。目の前を6、7人の家族連れが通りかかる。女性陣の服装(全員が黒いアバヤ、目だけを露出したニカブを着用している女性もいる)から判断して、おそらくアラブ圏からの観光客だろう。一行は私のベンチの前に立ち止まり、家長らしい男性が私に「Japan?」と聞いてきた。

案の定、彼らはサウジアラビアからの観光客だった。男性が私に声をかけたのは日本への興味かららしい。16歳の息子は大の日本びいきとのこと。本人も日本へ旅行経験があり、「街はきれいで、人は親切」とべた褒めだった。別に私が褒められたわけではないが、聞いて悪い気はしない。私も数年前のサウジ旅行について話した。この時期(7月)のサウジは気温が50度を超え、車の中ではエアコンも効かないほどだという。彼らにとってアゼルバイジャン旅行は避暑をかねている。

朝食をたっぷり食べたこともあり、昼食は抜いていた。少し早めだが、午後6時ごろにDeniz Mallのフードコートで夕食をとることした。フードコートにはマクドナルドやKFCもあるが、アゼルバイジャンまで来て米国のファストフードはないだろう。パンの上にケバブが載った料理とコーラを注文した。値段は10マナト強(約1000円)。

フードコートで夕食

夕食後、ぶらぶら歩きながらホテルへ戻った。今日は一日よく歩いた。隣のスーパーでヨーグルトを買ってから部屋に入る。

カスピ海沿いを歩く

2024年7月23日火曜日

アゼルバイジャン2024 一日目(バクー到着)

7月5日

アゼルバイジャン行きを思い立ったのは、アルメニアやモンゴルの場合と同様、「まだ訪れていない国だから」という、いわば消極的な理由からだった。正直なところ、石油と天然ガスで潤うアゼルバイジャン、「ミニ・ドバイ」とも称されるその首都バクーに対する興味はそれほど強くなかった。だが、南コーカサスでまだ足を踏み入れていないただひとつの国をこのまま残しておきたくはない。加えて、エミレーツ航空の関空・バクー往復便が15万円ちょっとと比較的安かったことが背中を押した。

かくて7月4日23時35分に関空を発ち、中継地のドバイで9時間待ち(3時間待ちの便もあったのだが、値段が4万円アップする)、翌日5日の午後4時半にドバイ空港に着いた。入国に必要なアライバル・ビザは無料で、マシンで取得できた(実際には女性係官がすべてやってくれたのでマシンに触る必要もなかった)。入国審査では「なぜアルメニアを訪れたのか」と聞かれた。これは私のパスポートにアルメニアのスタンプが押されていたためだ。「Just for tourism」と答えたら、それ以上聞かれることはなかった。

いつもながら、入国してすぐにやるべきことは多い。まずは両替。円安になる前から蓄えていたいくばくかの外貨のうち、110ユーロをアゼルバイジャンの通貨(マナト)に交換する。英国のボンドも両替したかったが、「紙幣が古い」という理由で拒否された(後日、市内では割引レートながら古いポンド紙幣の両替は可能だった)。

続いてSIMカード。15日間15GBのカードを30マナト(2800円ほど)で購入。後に得た情報では空港でSIMカードを購入するのは得策ではないとのこと。市内のほうが安く入手できるらしい。

最後に地下鉄やバスに使用する交通カード(バクー・カード)を購入する必要がある。カードは空港を出たところにあるマシンから入手できる。そばにいた男性の助けをかりながらなんとかカードを手に入れる。カード代は2マナト(200円弱)。10マナト札をマシンに挿入したため、8マナトがチャージされる形になった(マシンはおつりを出してくれない)。

ホテルはBooking.comを通じて予約済みだった。朝食付きで1泊5000円ほどのMadinah Hotelだ。

空港を出たところにAirport Expressというバスが目に入る。このバスで市内まで出て、ホテルに向かうことにする。買ったばかりのバクー・カードでバスに乗車し、終点の28 Mayという地下鉄駅まで行く。グーグル・マップを見てホテルまでの経路を調べる。ここでマップに表示された地下鉄とバスのアイコンを勘違いし、てっきり地下鉄で行くものと誤解した。地下鉄のホームに降り立つが、ホテルに至近の駅が表示されていない。グーグル・マップで指示されているのはバスの停留所だから当然だ。

周りの人にグーグル・マップを見せて聞き回り、やっと私の乗るべきなのが125という路線のバスであることが判明した。

バクーの人たちは優しかった。私の要領を得ない英語での質問に親切に対応してくれる。最終的に、英語を話す初老の男性が(彼自身も通行人に尋ねながら)私を125のバスの停留所まで連れて行ってくれた。停留所には125の番号は表示されておらず、私一人ならとうていたどり着けなかっただろう。

なんとかホテルの至近の停留所で降車できた。幸い、そこから100メートルくらい離れたところにあるホテルはすぐに見つかった。チェックインしたときの時刻はすでに9時を過ぎていた。ここにはとりあえず3泊することになる。ホテルの隣にあるスーパーで菓子パン、イワシの缶詰(これを開けるのに苦労した)、フルーツジュースなどを購入して夕食代わりとし、あたふたとしたバクー初日は終わった。

Madinah Hotel(翌日撮影)


ホテルの室内

2024年6月29日土曜日

メキシコ2024 メキシコシティへ戻る、帰国

 4月16日

トゥクストラ・グテイエーレスの空港を午後1時半に飛び立ったアエロメヒコ機は3時過ぎにメキシコシティに到着した。Uberタクシーで日本人宿のペンション・アミーゴまで行く。個室は空いておらず、ドミトリーに宿泊することになる。朝食付きで1泊180ペソ(約1800円)。5つのベッドがある部屋だが、22日(正確には23日の0時25分)の帰国日まで合計6泊したうち、後半の3日は私ひとりで使っていた。

夜中にトイレに起きることもあり、しかも下痢状態だから、個室を希望していた。だが、あまり同宿者を気にせずに過ごすことができ、しかも後半は私以外のベッドは空いていた。結果的には個室がフルだったことが幸いした。

ペンション・アミーゴに着いたこの日は日本人旅行者2人と夕食をともにした。2人とも30歳代(1人はひょっとすると20歳代)で私よりずっと若いが、こと中南米にかけては私より経験も知識も豊富だった。宿からかなり歩いた食堂に落ち着き、私は豚肉料理とビールを注文した。腹の調子もあり、料理もビールも少し残してしまった。しかし、この時点では、こうした料理を注文するだけの食欲はあり、夜中に吐くこともなかった。

豚肉とビール


4月17日~22日

これ以降、下痢と食欲不振に悩まされ、思うように観光できない日が続いた。宿の朝食はなんと受け入れるものの、昼食や夕食は食べる気にもなれず、食べても吐いてしまう日が4日くらいあった。このため、長い間歩くと極端に疲労した。

この期間を日時を追って記述してもあまり意味がないので、いくつかのエピソードと感想を挙げておくのにとどめたい。

(1)ペンション・アミーゴを選んだのは幸いだった。通常のホテルなら、部屋にこもってYouTubeでも見ながら過ごすしかなかったところ、この日本人宿では中南米を旅行する数々の旅行者に出会え、それなりに楽しい時を過ごすことができた。特に印象に残っているのは、同じ部屋で3日間を共有したO君だった。30代中半の彼は帰国子女だ。といっても米国や欧州からの帰国子女ではなく、トルコ生まれでトルコ育ちという珍しい経歴の持ち主。両親ともに日本人で、文化人類学者である父親の関係でトルコに住むことになったという。中学校まではアンカラの日本人学校に通い、高校と大学は現地の学校。アンカラ大学で考古学を専攻し、現在は考古学関係の職に就いている。

O君からはトルコに関して学ぶことが多かった。トルコ語は現在ではアルファベットで表記されるが、かつてはアラビア文字を使っていたとのこと。したがってトルコの歴史文献を解読するにはアラビア文字の習得が必須になる。ヒジャブを着用するかどうか、着用するにしてもどのように着用するか、男性の場合ならどのような髭をたくわえているかによって、その人の思想的政治的な傾向を推測できるという。

このほかカナダでワーキングホリディを終えて中南米を旅行しているカップルなど、毎日なんらかの刺激があった。

ペンション・アミーゴの壁画


(2)メキシコの人たちは総じて親切だった。宿の近くにある革命塔の展望台に登ったとき、街の眺望を背景に私の写真を撮ってくれたのは鼻の両脇にピアスをした若い女性だった。キューバへの便のチェックアウト時にオンライン申請を助けてくれたのも若い女性だった。どちらもこちから依頼したわけではない。

サンクリストバルはともかく、メキシコシティでも必ずしも英語が通じるわけではないのは意外だった。これまで海外で遭遇したメキシコ人はほぼ全員が流暢な英語をしゃべっていただけに。

メキシコのWork cultureは日本よりずっとリラックスしている。リラックスし過ぎの感もある。街の中では警官の姿をよく見かけたが、彼らがスマホをいじっている場面に何回も遭遇した。仕事上必要なスマホとはとうてい思えない。レストランの店員なども同じ。スマホの浸透の功罪を考えさせられる一幕だ。

(3)辛めのメキシコ料理に対する食欲がどうしても出てこないことから、和食を食べたくなった。メキシコシティは和食レストランに事欠かない。ふっくらとした白米と温かい味噌汁なら胃に優しく、力もつくのではないかと思い、ネットで評判のいいWanWanという和食レストランまでUberタクシーを飛ばした。で、注文したのがトンカツ定食とアサヒビールの小瓶。ところが期待とは逆に、トンカツの肉もご飯も固い。普通なのは味噌汁だけ。なんとか完食したが、宿へ帰ってすべて吐いてしまった。帰りのUberタクシーの中で吐かなかったのは幸いか。

トンカツ定食(約3000円)

(4)観光をまったくしなかったわけではない。21日にはUberタクシーで「トロツキーの家」を訪れた。かなり広い敷地の中、トロツキーが実際に使っていた書斎や寝室を見ることができる。入場料は70ペソ(約700円)。こんなところを訪れる人などほとんどいないだろうという予想に反し、かなりの数の訪問者を見かけた。子供の姿もちらほら。

トロツキーの家の入口

トロツキーの家の書斎

(6)最終日の22日になっても下痢は続いていたが、やっと何かを食べようという気になってきた。メトロポリタン・カテドラルへ行く途中のカフェでトマト・スープとビールを注文。このトマト・スープはほんとうにおいしいと感じた。そのあとで食べた屋台料理(名前は不明)もしっかりと胃の中に収まった。

トマト・スープとビール

(7)成田への帰国便は23日の0時25分発。14時間半に及ぶ長距離飛行だ。下痢が完治しておらず不安だったが、無事持ちこたえ、なんとか旅を終えることができた。ただし、下痢は帰国後も1週間くらい続き、旅行前に比べて体重は5キロほど減った。

メキシコ旅行のつもりが、後半の9日間の体調不良のために、キューバのほうが印象に残る結果となってしまった。まあこれも運だし、ひとつの経験として思い出に残しておこう。

2024年6月26日水曜日

メキシコ2024 サンクリストバル観光

 4月14日

下痢はまだ治っていない。せっかくの朝食もコーヒーとパンだけで済ます。時間を勘違いし(スマホの現地時間表示が間違っていたことが原因)、約束の9時15分より1時間早く集合場所に着いた。昨日の客引きの女性がいたので、「お腹の調子が悪いから、今日のツアーはキャンセルして、明日にしたい」と伝えたが、キャンセルするためには医師の証明が必要という。下痢といっても、それほどひどい症状ではないので、思い切って予定どおり今日参加することにした。翌日にも症状は改善どころかより悪くなっていたから、結果的にはこの選択は正しかった。

総勢12名のツアー客を中年男性のガイドが率いる。ガイドには「下痢ぎみだから、トイレがあったら教えてくれ」と伝えておいた。ほとんどがメキシコ人のツアー客のなか、ニュージーランドから来た高齢の女性2人も混じっていた。英語の説明が必要なのが私だけではないことにほっとする。

マイクロバスで30分(時間は確かでない)ほどかけ、最初の訪問地であるチャムラ村に到着する。日曜ということもあり、教会の前の広場には市が開かれ、おおぜいの人が集まっていた。興味深い風景だが、ガイドからは「写真や動画の撮影は控えるように」と釘をさされていた。特に教会の中での撮影は絶対に不可とのこと。教会は一応カソリックらしいが、これまで見たどの教会とも異なる。失礼を顧みずに言えば、「異様」ともいうべき光景だった。広い教会の内部では、乾燥した草の上に50組以上の家族がそれぞれに輪を作って座り、床に立てた無数の蝋燭がそれを照らし出す。動画に撮れなかったのが残念だ。

教会


ツアー客のひとり、チワワ州出身で現在は米国のテキサス州に住む女性と少し話す。米国とメキシコの二重国籍者である彼女は英語も堪能だ。チワワはメキシコ最大の州で、林檎の産地だとか。

テキサス在住のメキシコ人女性とツーショット

ツアーは続いてシナカンタン村へ向かう。これは先住民の織物の村だ。が、ガイドの説明は悲しいものだった。「手間暇をかけてつくりあげていくこうした伝統的な織物が大量生産の時代に生き残れる可能性は低い。このなりわいもやがては消えていくだろう。」

織物の実演

工房に入って織物の実演を見学。陳列されている織物を購入することも可能だ。地元の酒の試飲やタコスの試食などもあり、ツアーは終了、2時過ぎにサンクリストバルに戻ってきた。ツアー中、2度トイレを利用したが、腹の調子はそう悪くはない。このまま回復するといいのだが。

と思ったのは甘かった。その夜も下痢の症状に苦しめられた。

4月15日

メキシコシティへは明日16日に帰ることとし、Trip.comを通じて帰路の航空券を購入した。便利な時間帯を選んだため、3万2千円と高額だった。下痢はまだ続いている。もっともそう頻繁にトイレに駆け込む必要はなく、町を歩き回るには支障がない。日本人がやっている豆腐屋があるというので訪れたかったが、グーグル・マップで調べるとこの日は休業だった。代わりに市場などをぶらついた。かなり暑く疲れたので、スターバックスで休憩した。

市場

観光にあまり支障がないとはいえ、腹の調子はいまひとつ。昼に食べたものを路上で吐いてしまった。幸い、すでに日が暮れており、人通りも少なかったため、人目に付くことはなかった。あとで考えると、このときに絶食していれば、下痢の状態をあとあとまで引きずることなく回復していたかもしれない。

旅行代理店に立ち寄り、明日サンクリストバルからトゥクストラ・グテイエーレスの空港へ行くための乗り合いタクシー(Taxi collectivo)を予約しておく。タクシーは宿まで迎えに来てくれる。代金は250ペソ。

2024年6月24日月曜日

メキシコ2024 サンクリストバル・デ・ラスカサス到着

 4月12日

サンクリストバル・デ・ラスカサスはメキシコ南部のチアパス州にある観光地だ。チアパス州は私が以前から知っている数少ないメキシコの地名のひとつであり、少なからぬ好奇心があった。メキシコでもっとも貧しい州とされるチアパスではZapatista(サパチスタ)と呼ばれるゲリラ組織が活動し、一時メディアを賑わせていた。サパチスタの中心になっているのは先住民であるマヤ人(インディオ)だ。サパチスタの支配地域は今も存続しているらしい。

チアパス州の州都はトゥクストラ・グテイエーレスだが、観光地としてはサンクリストバルのほうが圧倒的に有名。サンクリストバルを目的地として決め、メキシコシティからトゥクストラ・グテイエーレスまでの片道航空券をTrip.comを通じて購入した。アエロメヒコの便で片道約2万4千円。この半額くらいの安い便もあるが、時間帯などを考慮して、あえてこの便にした。加齢とともに「金で楽を買う」が旅のスタイルになってしまった。

13時30分発のアエロメヒコ便は1時間遅れで離陸し、2時間近くのフライトでトゥクストラ・グテイエーレスの空港に着陸した。空港から1時間半ほど小型バスにゆられてサンクリストバルに着く。宿は予約していない。バスを降りたところにほど近いHotel Tres Mariasに投宿した。朝食付きで1泊450ペソ(約4500円)。

Hotel Tres Marias

ホテルから歩いて5分ほどの小さな食堂で夕食をとる。英語はまったく通じないが、なんとかBisteck a la Mexという牛肉(?)料理とコーラを注文。確か100ペソ(約1000円)だった。ここでも物価は高い(というより円が安すぎる)。

Bisteck a la Mex

4月13日

Hotel Tres Mariasの朝食はまずまずだった。女性の従業員が3、4人いたが、全員マヤ人だった。メキシコシティのホテルではほとんどが白人もしくは混血だったのとは対照的だ。

Hotel Tres Mariasの朝食

サンクリストバルの中心はカテドラルのあるソカロという地区だ。Hotel Tres Mariasは悪くないホテルだが、難点はこの中心地まで遠いこと。歩いて20分以上かかる。サンクリストバルの観光の目玉はチャムラ、シナカンタンといった先住民の村を訪れるツアーだ。ソカロに到着し、まず旅行代理店を探す。ハバナとは異なり、ソカロには旅行代理店が軒を連ねている。代理店に入る前に、路上で客引きをしている中年の女性につかまり、彼女の店で明日のチャムラ・シナカンタン巡りのツアーを予約することになった。4時間ほどのツアーで代金は250ペソ。明日9時15分にカフェの前に集合とのこと。

カテドラルの前の広場を出発点としてあてもなく散策し、街並みを見る。サンクリストバルはまっすぐな道が碁盤目状に交差するこぢんまりとした町だ。目に付くのはマヤ(インディオ)の人たち。メキシコシティとはひと味違い、これがほんとうのメキシコかもしれない、ここまで足をのばしてよかったと思う。

カテドラルとその前の広場

賑やかな通り

マヤ系の人たち

いったん宿に戻り、一休みしてから、夕食を求めて外に出る。ホテルから15分くらい離れたところにある小ぎれいなレストランに入り、豚肉料理とビールを注文する。合計で300ペソ(3000円ほど)と、メキシコでこれまで食べたなかで最高の価格だ。客が少ないにもかかわらず、忘れられたせいか、かなり待たされた。

豚肉料理

この料理がくせものだった。宿へ帰ったあと、すべて吐いてしまい、下痢になってしまった。肉にはちゃんと火が通っていたから、生野菜が悪かったのだろうか。明日のツアーが心配だ。