3月4日。
羅先は羅津(ラジン)と先鋒(ソンボン)からなる。中心となるのは羅津だ。羅津の北に位置する先鋒は人口も少なく、「村」と呼んだほうがぴったりする。今日はその先鋒を経由して豆満江(トマンガン)駅まで行き、鉄道でロシアに渡る。
8時半にホテルを出発したマイクロバスは1時間ほどで先鋒エリアに入る。まず今も残されている日本家屋と朝鮮家屋を見学する。これは2014年にも訪れた場所だ。女性ガイドの説明を金ガイドが通訳する。2014年にも聞いた内容だが、あのときも今回もまったく頭に残っていない。もっと印象的だったのは、トイレのために立ち寄った近くのホテルとその周りで雪かきをしている人たちだ。こんなところにホテルがあるのかというおどろき。
続いて「朝露親善閣」なる建物に立ち寄る。ここを訪れるのははじめてだ。中に入って女性ガイドの説明を聞く。北朝鮮とソ連・ロシアの偉いさんたちの会談などに関する説明だが、これもまったく記憶に残っていない。同行者たちも私と似たようなもので、バスに戻ってからの話題は暖房のきいていない内部がいかに寒かったか(colder than outside!)、女性ガイドがいかに寒そうにしていたかに終始した。
中国・ロシア・北朝鮮が一望できる小さな丘に着く。2014年にも来た場所だが、そのときと同様、私にはどこまでが中国でどこからがロシアかよく識別できなかった。
豆満江駅までの道のりは興味深かった。雪の残る荒涼とした風景の中に北朝鮮らしい質素な家並みが見える。立派な家々ではないが、それほどひどいものでもない。北朝鮮の平均的な家はこんなものかと勝手に想像してみる。もちろん一介の旅行者に「平均的な北朝鮮」などわかるはずがない。
豆満江駅に着いたのは1時ごろだっただろうか。税関の用意ができるまで駅の前で待機する。1時間以上待ち、やっと税関がオープン。私たちグループ以外には2、3人のロシア人がいるだけ。入国時と同様に電子機器をすべて提出したが、中味はまったくチェックされなかったようだ(スマートフォンやタブレットのPINコードを尋ねられることはなかった)。そもそも10人以上の電子機器をすべてチェックするような時間的余裕はない。
税関を無事通過し、出国手続きも終えて、2人の金ガイドと握手で別れる。
駅には私たちを平壌から羅先まで運んだ「平壌-モスクワ」の車両が待機してる。車内にはすでにおなじみの北朝鮮グループが乗っていた。彼らも羅先に2泊し、これからハバロフスクに向かうのだろう。
列車が発車し、Simonがナムサン・ホテルで用意してくれた昼食の弁当を配る。2014年に食べた羅先の弁当はおいしかったが、今回も期待は外れなかった。朝鮮風海苔巻きのキンパプ(김밥)を主体とした豪華な内容。Nancyeが「Sushi!」と喜びの声を挙げたので、「いや寿司ではない。寿司ならライスに酢が入っていなければならないが、これには酢が入っていない」と余計なひと言。
小一時間ほどして、列車は豆満江の鉄橋を渡り、ロシアに入る。豆満江を渡ればすぐそこはハサン(Khasan)駅。この駅では私たちだけが降りる。北朝鮮グループはそのまま列車に残る。おそらく列車の中かハバロフスクで入国手続きをするのだろう。
ハサン駅での入国手続きはスムーズに進行した。昨年のチェチェン旅行と同様、ロシアのビザは東京のロシアビザセンターに依頼して取得していた。
ハサン駅に着いたのは北朝鮮時間では3時半ごろだが、極東ロシアの時間では5時ごろになる。ここでウラジオストクからやって来るガイドとマイクロバスを待つ。
ハサン駅の周辺には店一つない。駅が人里離れた場所にあるためだろうが、ハサン自体もごく小さな町なのだろう。1938年にソ連軍と日本軍が衝突した張鼓峰事件ではここハサンが戦場となった。Victoriyaの母方の祖父はこの沿海州と呼ばれる地域からウズベキスタンへ強制移住させられた。張鼓峰事件に先立つ1937年のことだ。
6時(ロシア時間)ごろになってマイクロバスが到着した。ガイドはユリアという40代くらいの女性で、Simonとは顔なじみのようだ。
暗闇の中、あまり状態のよくない道を走ることおよそ6時間、ウラジオストクに着いたのは真夜中の12時だった。
夕食に立ち寄るレストランもないので、途中のスーパーでパンやお菓子を購入して夕食代わりとしてバスの中で食べた。スーパーに立ち寄ったのはトイレ休憩のためでもある。ところがトイレ(有料)は閉まっている。中には灯りがついており、おばあさんがいるのだが、開けようとしない。マイクロバスの運転手がロシア語で「開けろ」と怒鳴っても開けない。男性陣は暗闇にまぎれて藪の中でトイレを済ますが、女性陣はたいへんだ。それでも最後の最後になってなんとかオープンしたようだ。
昨年モスクワとチェチェンを旅したときには、10年前に比べてロシアもやっとサービスが並みレベルになったと思ったものだが、ちょっと考え直す必要がありそうだ。
ウラジオストクでチェックインしたのは、市の中心部からほど近いジムチュージナホテル。今日からここに3泊することになる。
羅先は羅津(ラジン)と先鋒(ソンボン)からなる。中心となるのは羅津だ。羅津の北に位置する先鋒は人口も少なく、「村」と呼んだほうがぴったりする。今日はその先鋒を経由して豆満江(トマンガン)駅まで行き、鉄道でロシアに渡る。
8時半にホテルを出発したマイクロバスは1時間ほどで先鋒エリアに入る。まず今も残されている日本家屋と朝鮮家屋を見学する。これは2014年にも訪れた場所だ。女性ガイドの説明を金ガイドが通訳する。2014年にも聞いた内容だが、あのときも今回もまったく頭に残っていない。もっと印象的だったのは、トイレのために立ち寄った近くのホテルとその周りで雪かきをしている人たちだ。こんなところにホテルがあるのかというおどろき。
先鋒
続いて「朝露親善閣」なる建物に立ち寄る。ここを訪れるのははじめてだ。中に入って女性ガイドの説明を聞く。北朝鮮とソ連・ロシアの偉いさんたちの会談などに関する説明だが、これもまったく記憶に残っていない。同行者たちも私と似たようなもので、バスに戻ってからの話題は暖房のきいていない内部がいかに寒かったか(colder than outside!)、女性ガイドがいかに寒そうにしていたかに終始した。
朝露親善閣の女性ガイド
中国・ロシア・北朝鮮が一望できる小さな丘に着く。2014年にも来た場所だが、そのときと同様、私にはどこまでが中国でどこからがロシアかよく識別できなかった。
豆満江駅までの道のりは興味深かった。雪の残る荒涼とした風景の中に北朝鮮らしい質素な家並みが見える。立派な家々ではないが、それほどひどいものでもない。北朝鮮の平均的な家はこんなものかと勝手に想像してみる。もちろん一介の旅行者に「平均的な北朝鮮」などわかるはずがない。
豆満江近くの家1
豆満江近くの家2
豆満江駅に着いたのは1時ごろだっただろうか。税関の用意ができるまで駅の前で待機する。1時間以上待ち、やっと税関がオープン。私たちグループ以外には2、3人のロシア人がいるだけ。入国時と同様に電子機器をすべて提出したが、中味はまったくチェックされなかったようだ(スマートフォンやタブレットのPINコードを尋ねられることはなかった)。そもそも10人以上の電子機器をすべてチェックするような時間的余裕はない。
税関を無事通過し、出国手続きも終えて、2人の金ガイドと握手で別れる。
駅には私たちを平壌から羅先まで運んだ「平壌-モスクワ」の車両が待機してる。車内にはすでにおなじみの北朝鮮グループが乗っていた。彼らも羅先に2泊し、これからハバロフスクに向かうのだろう。
列車が発車し、Simonがナムサン・ホテルで用意してくれた昼食の弁当を配る。2014年に食べた羅先の弁当はおいしかったが、今回も期待は外れなかった。朝鮮風海苔巻きのキンパプ(김밥)を主体とした豪華な内容。Nancyeが「Sushi!」と喜びの声を挙げたので、「いや寿司ではない。寿司ならライスに酢が入っていなければならないが、これには酢が入っていない」と余計なひと言。
昼食の弁当
小一時間ほどして、列車は豆満江の鉄橋を渡り、ロシアに入る。豆満江を渡ればすぐそこはハサン(Khasan)駅。この駅では私たちだけが降りる。北朝鮮グループはそのまま列車に残る。おそらく列車の中かハバロフスクで入国手続きをするのだろう。
朝露国境を列車で渡る
ハサン駅に着く
ハサン駅での入国手続きはスムーズに進行した。昨年のチェチェン旅行と同様、ロシアのビザは東京のロシアビザセンターに依頼して取得していた。
ハサン駅に着いたのは北朝鮮時間では3時半ごろだが、極東ロシアの時間では5時ごろになる。ここでウラジオストクからやって来るガイドとマイクロバスを待つ。
ハサン駅の周辺には店一つない。駅が人里離れた場所にあるためだろうが、ハサン自体もごく小さな町なのだろう。1938年にソ連軍と日本軍が衝突した張鼓峰事件ではここハサンが戦場となった。Victoriyaの母方の祖父はこの沿海州と呼ばれる地域からウズベキスタンへ強制移住させられた。張鼓峰事件に先立つ1937年のことだ。
6時(ロシア時間)ごろになってマイクロバスが到着した。ガイドはユリアという40代くらいの女性で、Simonとは顔なじみのようだ。
暗闇の中、あまり状態のよくない道を走ることおよそ6時間、ウラジオストクに着いたのは真夜中の12時だった。
夕食に立ち寄るレストランもないので、途中のスーパーでパンやお菓子を購入して夕食代わりとしてバスの中で食べた。スーパーに立ち寄ったのはトイレ休憩のためでもある。ところがトイレ(有料)は閉まっている。中には灯りがついており、おばあさんがいるのだが、開けようとしない。マイクロバスの運転手がロシア語で「開けろ」と怒鳴っても開けない。男性陣は暗闇にまぎれて藪の中でトイレを済ますが、女性陣はたいへんだ。それでも最後の最後になってなんとかオープンしたようだ。
スーパーマーケットに立ち寄る
昨年モスクワとチェチェンを旅したときには、10年前に比べてロシアもやっとサービスが並みレベルになったと思ったものだが、ちょっと考え直す必要がありそうだ。
ウラジオストクでチェックインしたのは、市の中心部からほど近いジムチュージナホテル。今日からここに3泊することになる。
9月の訪朝ではお世話になりました。10月に羅先旅行を手配したのでブログを参考にさせていただいているのですが、ハサンからウラジオストクまではバス移動だったのですね。自分はそのまま列車でウスリースク乗り換えでウラジオストクへ向かうのですが、その場合の入国審査は列車に乗ったまま行うのでしょうか?
返信削除お久しぶりです。ハサンからウラジオストクまでは迎えに来たバスで移動しました。ハサンで入国審査を受けたのは我々グループだけ。列車の旅を続ける北朝鮮人グループはそのまま列車に残っていました。おそらく列車内で入国審査があったものと思われます。
削除車内に検査官が乗り込んでくる感じですかね。ロシア側は厳格な荷物検査はないと思われるのでさほど不安もないのですが。
削除列車内に検査官が乗り込んでくるのでしょう、たぶん。ロシア入国時には荷物の検査はなかったように記憶しています。ビザをチラッと見て、スタンプを押すだけ。
削除私も来月に北朝鮮への旅行を計画中です。
返信削除そこで質問なのですが、ロシアの渡航ビザはeビザは利用できなかったのですか?
私は羅先から列車でロシアに向かい、ウスリークス→ウラジオストクから出国予定でビザの取得方法について調べています。
コメントありがとうございます。今スペインを旅行中です。
削除ブログにも書きましたが、ビザはロシアビザセンターで事前に取得しました。eビザが可能かどうかは不明ですが、ウラジオストク入国ではないので、むずかしいかもしれません。ロシアに入国できないとややこしいことになるので、あらかじめちゃんと取得しておくほうが安心かと思います。