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2017年3月14日火曜日

ラオス2017 十日目(帰国)

2月15日。

朝早く6時ごろに目が覚めた。ルアンパラバーンは2度目だが、まだ早朝の托鉢を見ていない。今急いで外に出れば、見ることができるかもしれない。しばしの葛藤。結局楽をしたいという怠け心のほうが勝ち、そのままベッドに横たわる。

今日は帰国日だが、フライトは夕方の19時10分。十分に時間はある。が、体が疲れており、あまり動き回る気になれない。午前10時のチェックアウトタイムぎりぎりまで部屋にとどまった。

チェックアウトし、荷物を宿に預けて、まず伝統芸術民族センターに向かう。自称少数民族研究家としてはどうしても訪れておかなければならない場所だ。入場料は25000キープ(約350円)。フラッシュをたかないことを条件に写真撮影も許されていた。ネットやガイドブックでは評判のよいミュージアムだが、いかんせん小さすぎ、したがって展示物も少ない。結構丹念に読んだ説明も、いまとなっては完全に忘れている(これはまあこちらの責任)。あとから気づいたが、このミュージアムは2年前にも訪れていた。

展示物(モン族の衣装)

次にタラート・ダーラーという市場へ行く。市場というより一種のショッピングモールで、食料品はあまり扱っておらず、日用雑貨や携帯電話を売る店が多く並んでいる。ここも2年前に訪れた。2年前と同様に活気がなかった。

タラート・ダーラーの近くに小さなCDショップがある。2年前にここで何枚かのDVDを購入した覚えがある。今回特に興味があったのはラオス南部サラワン県の音楽だ。あるとき偶然にYoutubeで見かけて以来、この地方の歌と踊りに惹かれていた。サラワン音楽のCDかDVDを買うつもりでショップに入る。

2年前には英語を少ししゃべる男性が店番をしていたが、今回店にいた中年の女性に英語は通じなかった。それでも何とかラム・サラバンのDVDを1枚購入した。10000キープ(約140円という安さ。正規の製品ではないのだろう。

メインストリートに沿って並んでいるフルーツシェイクと軽食の屋台のひとつに入り、昼食をとる。焼きそば(15000キープ)とシェイク(10000キープ)。ここに入るのは3回目。安易な選択だが、あまり考えることなく安く注文できるので、ついつい入ってしまう。

しばらく街を歩いてから、疲れていたこともあり、宿に戻り、外に出ているソファで休む。オーナーの日本人女性としばらく話した。春節のときはルアンプラバーンの宿がどれもいっぱいになり、あぶれた観光客が朝から宿を求めてうろうろしていること、香港や台湾から来た観光客と中国本土から来た観光客にははっきりとした違いが見られることなど。香港や台湾の客は総じて英語も流暢で、部屋をきれいに使ってくれるのに対し、中国本土の客は一方的に中国語で話しかけ、部屋のいたるところにゴミを残したまま出て行くとのことだ。中国本土のみんながそんなわけではないだろうが。

空港に行くためにちょっと早めの5時にタクシーに迎えにきてもらえるよう頼んであった。まだ3時ちょっと過ぎ。体も休まったところで、最後にポーシー市場に行くことにした。ポーシー市場は市の中心から2~3km離れている。歩けない距離ではないし、時間的にもなんとか間に合う。しかし体の疲れを口実にトゥクトゥクで行くことにした(片道10000キープ)。

ポーシーは食料品、雑貨、衣服を扱っている市場だが、それほどの活気はなかった。3時過ぎという時間帯のせいかもしれない。

ポーシー市場

5時前に宿に戻る。タクシーはすぐにやって来た。

飛行機はルアンパラバーンを定刻どおり飛び発った。ハノイの空港で5時間近くの待ち時間を過ごし、早朝に関空に到着して、2度目のライス旅行は終了した。

「ラオス北部の少数民族探訪」をテーマとした今回の旅はまずは満足できるものだった。もちろんこれは自己満足でしかなく、ほんとうに少数民族を探訪し、知ることができたわけではない。いろいろな村を巡ったが、これも運転手やガイドの力を借りて、つまりは他力本願で実現できたにすぎない。

現地の言葉ができないことに加え、知識と勉強の不足が大きい。こうしたいかんともしがたい限界の範囲内で、まあまあ望んでいたとおりラオス北部のモン族やアカ族の村を垣間見ることができた。4日目に米国人のクリスに出会えたのはいい刺激だった。ラオスは何回でも訪れたい国のひとつだ。まだ訪れていない南部にも行ってみたい。サラワン県の音楽もあることだし。

今回の旅で知った小知識を2つ紹介しておう。モン族は中国のミャオ族とつながっている。しかしラオスで「ミャオ」という言葉を使うには注意が必要になる。「ミャオ」はモン族指す蔑称だからだ。私はこのことを知らず、うかつに「ミャオ族とモン族の関係」を質問したりした。

もうひとつ。ベトナム戦争時アメリカ軍に協力した(CIAに操られたというほうが正確かもしれないが)モン族はその後ラオスの政府と軍に迫害され、多くがアメリカに移住した。ここまでは知っていたが、モン族を積極的に受け入れたのがミネソタ州だとういうのは初耳だった。山岳民族のモン族がアメリカの生活に慣れることの困難さは想像に難くない。こうした人々をgood heartのミネソタ州が受け入れたとはクリスの弁。

今回の旅で撮った少数民族の村の写真をスライドショーにまとめた。背景の音楽には、少数民族にはあまり関係ないが同じラオスということで、サラワンの歌(Lum Salavan)を使った。

少数民族の村のスライドショー
 

2017年3月11日土曜日

ラオス2017 九日目(ルアンパラバーン)

2月14日。

今日はモン族の村を訪れる日。トゥクトゥクの運転手が10時に宿まで迎えにくることになっている。8時過ぎに宿を出て、昨日と同じ食堂で朝食を済ませまた宿に戻る。

トゥクトゥクは約束どおり10時にやってきた。私と私が昨日誘ったY夫妻、それに今朝になってもう1人Y氏がツアーに加わる。全員日本人。やはり日本人同士のほうが誘いやすいし、話もまとまりやすい。カルチャー・ゲストハウスを選んだのは、こういう可能性も考えてのことだった。

出発する前に、どこを訪れるかはっきりさせておきたかった。トゥクトゥクの運転手に言葉が通じるかどうか心配だったが、宿のオーナーの男性が我々の日本語を運転手に伝えてくれた。大阪に長く住み、日本人女性と結婚していることから、オーナーは流暢に日本語をしゃべり、書くこともできた。

モン族の村はいくつかあり、近いのもあれば遠いのもあるという。我々は遠いほうの村を望んだ。遠いほうが観光客慣れしていないだろうと考えたからだ。だが、遠くの村に行くにはガソリン代もかさむということで、追加代金を請求された。ここで少しゴタゴタしたが、1人あたりさらに5ドルずつ支払うことで落ち着いた。あとから考えるとこれは払いすぎだったかもしれない。

まず織物の村、続いてカム族の村、最後にモン族の村を訪れるということで合意した。

トゥクトゥクは10時10分ごろに出発。途中で昼食用のサンドイッチを購入した。私が選んだのはチキンと卵焼きのサンドイッチで12000キープ(170円ほど)だった。

最初に訪れるのは織物の村だったはずだが、着いたのはHandicraft Centreという大きな建物。建物の中では織物を販売しているだけで、「織物の村」という感じはまったくしない。ちょっとがっかりしたが、今日のメインの目的は織物の村ではない。

出発してから1時間半ほどしてカム族の村に着いた。一同トゥクトゥクを降りて、村を散策する。ムアンシンやルアンナムターと同様、少数民族といっても、固有の服装を着用しているわけではなく、素人目にはラオスのごく普通の農村と変わらない。

ルアンナムターのカム族の村に比べると、この村は家の造りもしっかりしており、生活も裕福そうだった。「裕福」という表現は適切でないかもしれない。ルアンナムターの村ほどの疲弊と零落が感じられなかったというのがあたっている。子供たちは非常にシャイだった。ムアンシンやルアンナムターとは異なり、我々を見て子供が集まってきたり、「サバイディー」(こんにちは)と声を掛けてきたりする場面は見られなかった。つまりは、ふだん観光客が来るような村ではないということだろう。

カム族の村

子供たち

外でテーブルを囲んでいる4、5人の男が我々を呼ぶ。まだ12時になっていないが、酒を飲んでいるのだ。誘われるまま、我々もご相伴にあずかる。壺の中で何か(米だろうか)を発酵させ、木か竹のストローで飲む不思議な酒だ。口当たりはよいが、強い。ガラスのビンに木の実を発酵させた酒もある。こちらも強い。1杯飲み干せばまた次を勧められ、きりがないので適当に切り上げる。


この村をあとにし、5分も走らないうちにトゥクトゥクはまた停まる。ここもカム族の村らしい。さっきの村より小さい。ここでも車を降りて写真を撮る。こんなことをしていていいのだろうかという気がしないでもない。外国人の観光客が庭先にぬっと現れ、ずけずけと軒下までやって来てパチパチやりだしたらどんな気がするだろうか。日本だったら警察に通報されてもおかしくない。

「遠くのモン族の村」には1時近くに到着した。これは結構大きな村で、小さな店もある。土産物らしき装飾品を並べている家もあったので、観光客もときたまは来るのだろう。村の入口には「Eco Bangalow」と書かれた看板があった。ここではかなり長い時間を費やした。ルアンパラバーンへ引き返す前に、持参したサンドイッチで昼食をとる。

モン族の村

ルアンパラバーンへの帰路、自然植物園ともいうべき観光施設に立ち寄った。入場料20000キープ。韓国人らしい4、5人の観光客が私たちのそばを通り過ぎるとき「こんにちは」と挨拶するので、「アンニョンハセヨ」と返す。

ルアンパラバーンの宿に戻ってきたのは4時ごろだった。6時に一緒に食事に出ようとY氏と取り決め、自分の部屋で休む。

Y氏とともに6時に外に出たときにはすでに暗く、ナイトマーケットが始まっていた。まず昨日行った「グルメ・ストリート」を見る。狭くて混んでおり、ここでは落ち着かない。メコン川沿いの通りに出て、適当な食事の場を探す。野外のビュッフェ式の焼肉の店がおおぜいの客で賑わっている。1当たり60000キープ(840円ほど)とのこと。少し高いが、たまにはいいだろう。こういうところには1人では入りにくいから、ちょうどよい機会でもある。

それぞれビール1本(10000キープ)ずつとり、肉と野菜をたっぷり食べた。Y氏は大阪から来ていた。自由業だが、あまり長期の旅行はむずかしいなど、私と旅のスタイルが共通する。ラオス最後の夜をおいしく食べ、楽しく語り合えたことに感謝したい。

食べ放題の焼肉
 

2017年3月9日木曜日

ラオス2017 八日目(ルアンパラバーン)

2月13日。

Viradesa Guesthouseのチェックアウトは12時。シャワーを浴び、8時過ぎに近くの食堂で朝食をとる。米のヌードルで15000キープ(200円強)。

そのままメインストリートに出て、適当に旅行会社を選び、今日の11時30分に出発するタート・クアンシーの滝へのツアーを申し込む。ツアー代金は7ドル。

この旅行会社で滝のツアーを申し込む

10時過ぎに宿に戻り、チェックアウトして、カルチャー・ゲストハウスに移動する。この宿のオーナーはラオス人男性と日本人女性の夫婦で、看板にはカタカナで「カルチャーゲストハウス」と表記されている。

ルアンパバーンの近郊にもモン族をはじめとする少数民族の村がある。明日はこれらの村を訪れたいと思っていたので、カルチャー・ゲストハウスの日本人女性に相談する。トゥクトゥクを1日チャーターすれば30ドルとのこと。ちょうどそばいた日本人カップルの宿泊客に一緒に行かないかと誘うと、行きたいとの返事。これで1人あたり10ドルの負担になると思ったが、3人でシェアする場合は1人あたり12ドルとのことだった。少し腑に落ちないが、それほどの金額でもないので了解し、明日の10時に出発することにした。

11時半が近づいたので旅行会社に行き、ツアーの車に乗る。同行者はイギリス人のカップルとフランス人のカップル(どちらのカップルも高齢)、韓国人の若者2人組と4人組。韓国人はいずれも男性で学生らしかった。

ラオスの観光地には韓国人が非常に多い。2年前もそうだった。韓国のバラエティー番組で有名女優がラオスを紹介したことから、一種のブームが起きているらしい。2年前のバンビエンでは中高年のグループも多く見かけたが、今年のルアンパラバーンで特に目についたのは大学生くらいの若者だ。韓国の新学期は3月だから、今はちょうど学校の休みなのだろうか。

隣に座ってる2人組の韓国人青年に韓国語で話しかけてみた。蔚山(ウルサン)から来た大学生とのこと。「蔚山アガシ」という歌を知っているかと聞くと、知らないという返事。そこそこ有名な民謡なのだが。

およそ1時間で滝に着いた。入場料は20000キープ(約280円)。3時に再集合だから、2時間以上の自由行動。多くの観光客の中でもとりわけ頻繁に耳に入ってくるのは韓国語だ。

滝のふもとの湖で泳いでいる欧米人がいる。なんと不謹慎なと思ったが、ここでは泳ぎは許されているらしい。許されているというよりむしろ奨励されている。泳げることが売り物の滝だった。

タート・クアンシーの滝

1時をとっくに過ぎていたので、昼食をとることにする。サンドイッチとマンゴージュース。値段は忘れたが、観光客だけを相手にする店だから、高めだったことは確かだ。

ここに2時間余りは長すぎる。あまりやることもなく、3時になったので車に戻り、帰りの途につく。帰りの車の中でも隣の韓国人2人と話す。北朝鮮にも行ったことを告げ、スマートフォンに保存してあった動画を見せる。2人はいたく興味を示し、うち1人は平壌でウエイトレスが歌って踊っている動画再生画面を自分のスマートフォンで撮影していた。

ルアンパラバーンに戻ったときには4時になっていた。しばらくぶらぶらする。メインストリートではナイトマーケットの出店の準備が始まっている。暗くなる前に宿に戻り、体を休める。

7時過ぎ、ナイトマーケットを見物するために宿を出る。食べ物の屋台が集まった脇道があり(勝手に「グルメ・ストリート」と名付けた)、観光客で賑わっている。いくつかの屋台はビュッフェ式になっており、数多くの料理が並べられている。 1つの皿に好きなだけ料理を取って15000キープ(200円)均一。ビールは10000キープ。安いが、野菜、麺、ライスがほとんどで、肉料理は皆無に近い。それでもいかにもおいしそうなのでここで夕食をとることにした。

グルメ・ストリート

長いテーブルは観光客でいっぱい。私の向かいに60歳くらいの夫婦が座る。トゥールーズから来たフランス人だった。フランス語をしゃべるいい機会だ。彼らは年金生活者で、夫人のほうは小学校の先生だったという。クラスに2人の日本人がいたこともあったらしい。"très appliqué"(非常に勤勉な)という形容詞を何回も使い、この日本人の生徒をほめる。「ノートもきちんととるし、フランス人の生徒も彼女らみたいなら楽だったのに」とも。

夫妻とは食事が終わってからもそのままテーブルに座り、小一時間話した。話題はいつかフランスの大統領選挙に。マリーヌ・ルペンが勝ったらどこに亡命するかという話になり、私はカナダを勧めた。カナダ人のすべてがバイリンガルというわけではないにしろ、彼の地ではフランス語がかなり通じるはずだ。この亡命案は夫人によって却下された。「カナダは寒すぎる」との理由で。

私みたいな貧乏性の人間はビュッフェ式だとどうしても食べ過ぎになる。食べ過ぎの腹を抱えて宿に戻る。昨日とは異なり個室だから気は楽だ。

2017年3月6日月曜日

ラオス2017 七日目(ルアンパバーンへ戻る)

2月12日。

ルアンパバーンへ戻る日。バスの切符は一昨日にすでに購入してある。7時半にトゥクトゥク(正確にはソンテウという多人数用の乗り物)が迎えに来る。車にはすでに10人近くが乗っていた。私の向かい側に座っていたのは、ドイツ人のカップル。タイのチェンライへ行くらしい。話題は転々、ドイツの物価がいかに高いかという話になった。私が「ちゃんとした昼食ととるとなると軽く10ユーロを越える」と指摘すると、カップルは「安く食べることもできる」と反論する。たとえばケバブ。彼らによれば、ドナー・ケバブはドイツ発祥の食べ物で、いまやドイツの伝統料理だとのこと。

15分ほどで長距離バスステーションに到着した。ルアンパバーン行きのバスは満席の状態で8時半に出発した。ざっと見たところ、3分の2以上が外国人観光客で、残りが地元の乗客。

バスの車窓から

2時過ぎにバスは少し大きな町(たぶんウドムサイ)に到着し、そこでちょっと遅めの昼食休憩となった。食堂は大勢の客で混んでいた。私はチキン・ヌードルを注文した。これが一番安かったからだ(15000キープ)。

ここからルアンパバーンまで隣の席に座ったのがこれまたドイツ人の青年。彼も数ヶ月かけての旅だ。ルアンナムターではタイダムというゲストハウスに泊まったらしいが、タイダムが少数民族の名前であることを知らなかった。

ルアンパラバーンのバスステーションには予期したより早く4時過ぎに到着した。バスステーションから町の中心までは乗り合いのトゥクトゥクで行く。1人あたり15000キープ(200円強)。

宿はこの日の分だけ予約していた。中心から近いViradesa Guesthouseというドーミトリーで、1泊10米国ドル。朝食はなし。初日に泊まったDown Town Backpackers Hostelが朝食付き(しかもかなり充実した朝食)で7ドルだったのと比べると高い。この日もDown Townに泊まりたかったのだが、すでに予約はいっぱいだった。

Viradesa Guesthouse

Viradesa Guesthouseのよいところは大きな部屋にベッドが4つだけで、2段、3段のベッドがないことだ。他の旅人と知り合うにはドーミトリーのほうがよい。しかし、この歳になると、ルームシェアはちょっときつい。上段のベッドは特にそうだ。

だから明日から帰国するまでの2泊は個室に移動するつもりだった。まだ予約はしていなかったが、「カルチャー・ゲストハウス」なる宿に目星を付けていた。これはネットで見つけた宿で、日本人の女性が経営にかかわっている。

幸いカルチャー・ゲストハウスはViradesa Guesthouseの近くにある。夕食がてらに外に出て、今晩のうちに予約しておこう。

方向感覚のない私のことだからちょっと手間取ったが、それでも10分もかからずにカルチャー・ゲストハウスに到着した。部屋は空いていた。シャワー・トイレ、テレビ付きで22ドルとのこと。朝食なしだから少し高いが、ラオス滞在の最後にこれくらいのささやかな贅沢は許されるだろう。

夕食は当てずっぽうに入ったレストランの炒飯で済ませた。値段は忘れた。

夕食の炒飯

宿に戻ると、日本人の旅行者がいたのでしばらく話す。東京からやって来た青年で、アルメニアなど結構めずらしい国にも行っているが、イギリス、ドイツ、フランスなどの西ヨーロッパはまだ訪れたことがないとのことだった。

9時を過ぎ、ベッドに横になっていると、同室の若い女性が帰ってきた。オランダ人の女性で、彼女も2か月ほどの長期旅行だった。ラオス滞在中、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スペイン、ポルトガルなどの欧米の旅行者10人以上と話す機会があったが、ベトナム在住のクリスを除き、全員が1か月以上の長期旅行者だった。クリスを含め誰もがまだ日本を訪れていなかった。

この夜はあまりよく眠れず、何回も目が覚めた。そのつどトイレに行かないと落ち着かない。ここらへんが個室でないドーミトリーの辛いところだ。

2017年3月4日土曜日

ラオス2017 六日目その2(ルアンナムター)

2月11日(続き)

トゥクトゥクは水田が広がる風景の中を走る。集団で田植えの最中だ。車を停め、運転手と2人で用水路を飛び越え、あぜ道を歩き、若い女性たちが稲の苗をとって束ねている様子を見る。日本の農村では見られなくなった光景だ。運転手は女性たちと何か話している。「ニィーブン」という単語が聞こえる。たぶん私が日本から来たことを説明しているのだろう。彼女たちが何族なのかはわからない。ラオの人たちかもしれない。農作業用の服ではく日常着で働いているのを少し奇異に感じた。

田植え

やがてタイダム(Tai Dam)族のナミヤン村に到着する。この村は一見して先のアカ族より裕福だった。家もしっかりしており、オートバイや自転車も目にする。ある男性が私に英語で話しかけ、タイダムの出自がベトナムであることを教えてくれる。子供たちの服装もきちんとしている。子供たちは鶏と鶏を戦わせて遊んでいた。こうした子供たちによる闘鶏は2年前にもバンビエンで見かけた。

タイダム族の村

このあとビンアム、バンプン、ナノイといういずれもタイダム族の村を訪れる(村の名前は運転手の発音をカタカナで書き取ったものだから、正確でない可能性が高い)。次から次へと多くの村を訪れたため、記憶の整理がつかない。機織りを動画に収めたのはビンアム村だったのだろうか。高床式の家から顔を覗かせた可愛い赤ちゃんの写真はバンプン村で撮ったのか、それともナノイ村だったのだろうか。

機織り

赤ちゃん

タイダム族の村々をあとにし、カム(Khmu)族の村へ行く。ボンピエンという名前の村らしい。この村はタイダム族の村より貧しいように思えたが、なにぶんにも記憶が混乱しているので、この印象はあてにならない。女性たちが竹でざるをつくっていたのはこの村だったと思う。

竹細工

どの村もそれぞれに興味深い。しかし、こんにちほとんどの人が中国から入ってきた安い現代風の衣服を着用しており、少数民族に固有の服装はあまり見られない。家の構造や配置にもそれぞれ特色があるのだろうが、素人の目にはわからない。ガイドを付けていないツアーの限界だ。もっともガイドを付けていたとしても、ガイドの説明を吸収するだけの知識と好奇心がなければ、わからないままに終わってしまうかもしれない。

時刻は12時を過ぎている。運転手はガソリンスタンドのそばにある大きな新しい建物に私を案内する。一瞬食堂かと思ったが、そうではなく運転手の家らしい。失礼だが、トゥクトゥクの運転手には似つかわしくない立派な家だ。若い女性がその子供らしい幼い女の子が寝転んでテレビを見ている。運転手は若い女性と一緒に奥のほうへ行く。私はソファに座って待つ。朝市場で買った食材を調理しているのだろう。

やがて調理された料理が運ばれる。川魚のスープ、ゴーヤの炒め物、肉と野菜の炒め物、そしてライス。これを運転手と一緒に食べる。川魚だから骨が多いが、おいしかった。運転手は私にラオスの焼酎を勧め、自分も飲む。乾杯をしながら3杯飲んだが、それ以上は断った。強い酒だが、口当たりがよく、もっと飲みたくもあった。しかし私に合わせて運転手も飲む。午後もまだ村巡りは続くから、運転手が飲み過ぎることを警戒した。

トゥクトゥクの運転手

運転手の自宅で昼食

運転手の奥さんらしき人が帰ってきた。自分の家というのは嘘ではなさそうだ。さっきの若い女性や小さい女の子と運転手の関係を聞きたかったが、なにしろ英語が通じない。娘と孫と見るのがもっとも自然だろう。

1時半ごろに再度出発。目的地はランタン族のナンビー村ということだったが、ほとんど素通りで(というかほとんど家が見あたらなかった)、山に入って、滝を見物する。2、3組の若いラオス人のグループにも遭遇した。

滝から戻ったところで、黒い(藍色かも)服を着た女性が何かを日干ししていた。紙をつくっているところだという。あとから調べると、女性の黒い服はランタン族に特有のものらしい。

ランタン族の女性

最後に朝とは別の仏塔を訪れる。この仏塔のまわりでは4、5人の子供が遊んでいるだけで閑散としていた。

すべてが終わってルアンナムターに戻ってきたのは4時ごろ。昨日このツアーを申し込むとき、昼食が込みなのかどうかは確認していなかった。昼食代を請求されたら支払う用意はあったが、請求されなかった。運転手と笑顔で握手して別れる。今日一日、気分よく一緒に回れたことを感謝したい。

メインストリートに沿ってフードコートのような広場があり、数多くの屋台が並んでいる。この賑わっている広場で7時ごろに夕食をとる。ライスに肉や野菜をぶっかけた料理。値段は覚えていないが、安くもなく高くもないと感じたから、20000キープ(280円くらいだったのだろう。

夕食

明日はルアンパバーンに戻る。

2017年3月3日金曜日

ラオス2017 六日目その1(ルアンナムター)

2月11日。

朝食をとるために、7時半ごろに外に出る。昨日昼食をとったすぐ近くの食堂へ出向くが、この小さな食堂には中国人(おそらく観光客)の客が10人近く入ろうとしているところだった。時間がかかりそうだ。宿へ引き返し、宿のレストランで朝食をとることにした。パンとオムレツ、コーヒーで27000キープ(370円ほど)。通常の食堂のヌードルの倍近く。宿泊に朝食が付いているかいないかは結構大きい。

約束通り8時半にトゥクトゥク(正確にはソンテウという多人数用の乗り物)の運転手がやってきた。今日一日世話になる運転手だ。好人物そうなので一安心。英語はほとんど通じない。まあ予期していたことだ。

運転手は私を助手席に乗せて、まず近くにある市場に向かう。昨日ルアンナムターを歩いたときにはこの市場に気付かなかった。車を降り、運転手に付いて市場内を歩く。運転手は私に「ランチ?」と尋ねる。「ランチ」と言おうとしているのはわかったが、なぜこの時間にランチなのか。ちょうど他の観光客を引き連れたガイドが通りかかり、通訳してくれた。運転手は私に「ランチを食べる気はあるか」と聞いているのだ。「12時ごろに」と答える。「ベジタリアンか」とも聞かれた。答えはもちろんノー。運転手は野菜と魚1匹を購入した。これを私の昼食としてくれるのだろう。

ルアンナムターの市場

続いて向かったのは近くにある仏塔。この日は何かの催しらしく大勢の人が集まっていた。食事をしている人もいる。そういえば、昨日訪れたムアンシンの寺院でも「明日8時から」と言っていた。8時から何かがあるのだが、その何かはわからなった。なにぶんにも英語が通じない運転手の案内なので、この「何か」は最後までわからなかった。運転手の勧めに従って私も2000キープ(30円弱)で小さな花を買い、靴を脱いで仏塔の周りを一巡して、仏前に捧げた。

仏塔

仏塔にお参りする人たち

さていよいよアカ族の村だ(英語のできない運転手だが、訪れる村の民族の名前だけはしっかりと伝えてくれた)。貧しい身なりの子供たちが迎えてくれる。腕輪などの装飾品を差し出し売ろうとする子供もいるが、あまり商売熱心ではなく、とりあえず差し出してみるといった感じだ。

アカ族の子供たち

アカ族の家並み

集落を一周する。アカ族のシンボルと思われる木の構造物があり、ブランコらしきものがぶら下がっている。ここでブランコ祭りを行うのだろうか。裏手に回ると、黒板と机が並んだ小さな教室が3つある。今日は土曜日なので、生徒は見あたらない。

木の構造物

教室

集落の広場では子供たちが互いに重なり合って遊んでいる。一番下になって泣き出す子。スマホがないのはわかる。しゃれたおもちゃもないのもわかる。しかしただただ積み重なるだけの遊びとは。物がないならないだなりに、かくれんぼうとか、缶蹴りとか、もうちょっと工夫した遊びがあってもよさそうなものだ。

遊ぶ子供たち

わーわー騒ぎならが我々2人をいつまでも追いかけてくる子供たちを振り切って、次の目的地に向かう。