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2018年9月24日月曜日

北朝鮮観光ファンミーティング 帰国

9月11日。

5時半にホテルをチェックアウトして、大連の空港へ向かう。バスの中で朝食として小さなあんパンとゆで卵2つ、ミネラルウォーターが配られた。

7時に北京行きの中国南方航空機に搭乗。7時半離陸。短い飛行時間だが、機内ではライス・バーガーが出た。赤飯と白飯の間に肉が挟まれている。はじめての味だが、これもなかなかいい。

北京空港に着いたのは9時ごろだっただろうか。搭乗を予定している北京発釜山行きのフライトは18時45分だ。さてどうするか。手っ取り早いところで、北京の繁華街である王府井に出かけよう。目的は、小吃街(スナック・ストリート)で屋台フードを試すこと。

王府井行きのリムジンバスもあるが、本数が少ないうえ、1時間近くかかる。エアポート・エクスプレス+地下鉄で行くことにした。値段もリムジンバスとそう変わらない。

王府井

王府井に着いてまず試みたのは、中国銀行で手持ちの中国元を韓国ウォンに両替すること。ウォンも日本でいくらか用意していたが、釜山で1泊するにはちょっと物足りない。

だが、中国銀行には韓国の通貨の持ち合わせがなかった。大韓航空が乗り入れている北京空港の第2ターミナルの両替所ならこんなこともないだろう。両替は後回しにした。

小吃街を往復してめぼしいスナックを探る。まず購入したのが焼き餃子。5個入っていて20元だった。中国では焼き餃子はめずらしい。次に豚の角煮を細かく刻んでバンに挟んだバーガーを食べる。こちらのほうは10元。どちらもおいしかった。

焼き餃子

地下鉄+エアポート・エクスプレスで北京空港の第2ターミナルへ戻る。予想通り、第2ターミナルの両替所では元をウォンに交換できた。

18時45分発釜山行きの大韓航空機に搭乗する。ここまではよかった。しかし、いつまで経っても飛び立たない。19時を過ぎてから駐機したまま食事が配られる。長くなりそうだ。困った。夜遅く釜山に着いた場合、市内に出る公共交通がなくなるおそれがある。あとでわかったことだが、この遅延の原因は落雷だった。しかも20時半までに飛び立てなければ、夜中の3時まで待たざるをえないという。釜山の金海国際空港は23時から翌日の6時まで閉鎖されるためだ。

20時半のタイムリミットが過ぎる。乗客は飛行機を降り、再びロビーへ戻る。肘掛けが固定されている窮屈な椅子に寝転びながら、ここで3時まで待つ。途中、小さなあんパンとコーラ、ミネラルウォーターが配られた。

夜中の3時に再度搭乗し、飛行機は飛び立った。機内では昨日夜7時過ぎに食べたのと同じ食事が再度出された。

金海空港に着いたのは朝の6時半ごろ(韓国時間)。関空のフライトは13時だが、さすがに疲れており、釜山の街まで出かける気にはなれない。

といっても、せっかく立ち寄った釜山だ。何か韓国らしい思い出がほしい。ということで、お腹は空いていないが、出発ロビーのレストランでロースカツ定食を注文した。ミネラルウォーターと併せて10000ウォン(約1000円)。カツは韓国式の非常に薄い肉。いわゆるトンカスだ。

ロースカツ定食

関空行きは定刻どおり13時に飛び立ち、ファンミーティングの旅は終了した。それにしても最初から最後まで、予定どおりにはいかない旅だった。関空から中部空港への切り替え、ホテルの変更、平壌観光の大幅な短縮、そして帰国便の遅延。

とりわけ応えたのが平壌滞在の1日短縮だ。10日観光で1日削られてもがっかりだが、2日観光のうちの1日のロスは旅行期間の半減に相当する。北朝鮮旅行では予定の変更は織り込み済みとはいえ、ここまでは想定していなかった。

もっともこのことでツアー主催者のJS Toursを責めるのは酷だろう。予定変更を知らされたのもおそらくlast minuteだっただろうし、朝鮮側のKITC(Korea International Travel Company)に交渉しても大枠をひっくり返せるものではない。細部の調整なしにオーバーキャパシティの訪問客を受け入れた、北朝鮮のより一段高いレベルの組織にこそ責任がある。そうしたずさんさのしわ寄せがもっとも力の弱い外国人観光客にくる(もっと力の弱いのはそうした外国人観光客に深夜まで付き合わされた現地のホテルやレストランのスタッフかもしれないが)。KITCもJS Toursもこのどうしようもない状況の中で最善の努力をした....と信じたい。

JS Toursに責めるべき点があるとすれば、当初のツアー募集で「モランボン楽団公演」、「平壌ラーメン店」、「玉流館」などを大々的に謳っていたことだ。これらのいずれも実現されなかった。北朝鮮観光の現実を考えれば、もっと慎重さがあるべきだった。定番観光スポットをほとんど逃してしまったこともあり、はじめての訪朝組からすれば失望が大きく、不満も残るだろう。

時間が短いうえ、50余名という大人数だったため、北朝鮮ガイドとほとんど話す機会がなかったのも残念。張ガイドと拉致問題について少し話したが、米朝会談についてふれる時間はなかった。もちろんガイドから聞けるのは公式見解もしくはその多少のバリエーションだが、米朝関係については公式見解すらはっきりとしていなかったので、ぜひ聞きたいところだった。

余談を2つばかり。

パスポートに丹東入国のスタンプが押されたこともあり、ツアー同行者の多くが帰国時の税関で北朝鮮からの土産物を没収されるのではないかとおそれていた。私のパスポートは入国・出国のスタンプが数多く押されており、どこにどのスタンプがあるか自分でもよくわからない。あまり心配もしていなかったが、中部国際空港の税関審査ではパスポートを開けることすらなく、簡単に通過できた。

9月9日にマスゲームを見た帰りのバスの中で全員にUSBメモリが配られた。マスゲームを紹介する動画が入っているらしい。帰国後、このUSBの内容を見ようとしたが、PCでもスマホでも読み込むことができなかった。

読み込めなかったUSBメモリ

2018年9月22日土曜日

北朝鮮観光ファンミーティング 三日目(平壌、丹東、大連)

9月10日。

7時半に朝食をとり、8時にホテルをチェックアウト。平壌を離れる10時までの短い時間を観光に充てる。まず向かったのが地下鉄。時間もないため、復興駅から栄光駅までの1区間だけを乗車した。

朝食時のコーヒー・サービス(高麗ホテルなどではコーヒーは別料金だったが、ここでは無料。ただしインスタント・コーヒー)

続いて切手博物館に行く。昨年4月にも訪れた場所だ。切手には興味はないが、ここには切手以外の土産品も売られている。昨年はここで北朝鮮の国旗やDPRKのロゴがプリントされた黒いTシャツを購入した。だがLサイズだったため、あまり着る機会がない。今回はちょうどMサイズの白いTシャツがあったので、買い求めた。値段は120中国元。昨年のTシャツは100元だった。値上げかどうかはわからない。北朝鮮では1物1価の経済原則が必ずしも通用せず、場所と時期によって同じものの値段が大きく異なることがあるからだ。恣意的に値段をつけているとしか思えない。ショッピングの最後の機会ということもあり、日本人観光客の爆買いに店員たちはてんてこ舞いで対応していた。

このTシャツを購入

今日平壌を離れるのはツアーメンバー51名中約40人。残り10人ほどは延泊して平壌にとどまる。結果論になるが、丸二日半の観光が丸一日に短縮されたことを考えれば、延泊は正しい選択だったと言えよう。

列車は10時半ごろに丹東に向けて出発した。40人のツアーメンバーは6人掛けのコンパートメントに分散した。欧米の観光客や北朝鮮の住人に加え、中国在住の朝鮮族とおぼしき人たちも同乗している。

スーパーなどで購入したビール、ソジュ(焼酎)、お菓子を分かち合う。私が持ち込んだ饅頭(のようなもの)もなんとかさばけた。

昼食は食堂車でとった。代金はJS Tours(あるいは朝鮮国際旅行社)によって支払い済みだ。ライスとスープ、たくわんと魚肉ソーセージ、ゆで卵という、まさにベーシックな内容だった。

沿線風景

列車はやがて新義州に着く。心配していた出国審査はあっけなくすんだ。私たちのコンパートメントではカバンやスーツケースを開けられることすらなかった。私はJS Toursから送られてきた税関申告書を紛失していた。北朝鮮の係官から申告書もらって記入しようとしたが、名前だけ書いたところで「いいから、いいから」というジェスチャーとともに未記入のまま回収された。このゆるやかさが一般的な傾向なのか、それともこのときの特殊事情なのかは確かでない。

鉄橋を渡って丹東に着いたのは5時前(中国時間)だった。中国の入国検査に手間取り、丹東の駅前に出たときにはすでに空は暗い。丹東駅には日本語をしゃべる中国のガイドが迎えに来ていた。私にとって丹東を訪れるのは4回目だ。

丹東到着

40人が1台のバスに乗り、鴨緑江の岸辺に行く。ほんの少しでも丹東観光をいうことだろう。すっかり暗くなった中、今通ってきたばかりの鉄橋やその隣の破断橋を見物する。

夕食は北朝鮮レストランでいうことだった。以前は鴨緑江の観光スポットの近くに2つの北朝鮮レストランがあったのだが、今は見あたらない。20分近くバスにゆられてたどり着いたのは江都酒店というレストラン。外見からは北朝鮮レストランのように見えない。

数多くの料理が出てくる。朝鮮料理というより中国料理だ。ビールも北朝鮮のものではない。これがそもそもの営業方針なのか、それとも経済制裁をかいくぐるための方策なのかはわからない。

接待員たちが歌と踊りを披露してくれる。こちらはまぎれもなく北朝鮮のもの。最近の北朝鮮レストランは写真撮影禁止のところが多いが、ここでは写真も動画も自由に撮れた。

踊りのパフォーマンス

江都酒店を8時過ぎに出て、バスで大連に向かう。途中、2時間くらいは眠っただろうか。大連に到着し、メルキュール泰達ホテル大連(Teda Hotel Dalian)にチェックインしたのは0時半ごろだった。

JS Toursが北朝鮮から予定変更の知らせを受け取ったのはいつのことだろう。おそらく日本を発つ前と推測されるが、いずれにしてもぎりぎりだっただろう。何しろ50名の大世帯。瀬戸際になってから丹東と大連のガイド、レストラン、ホテルを手配する苦労がしのばれる。仕事とはいえ、ご苦労なことだ。

泰達ホテル大連は見かけは立派だが、トイレの水が流れなかった(正確に言えば水を流すレバーが動かなかった)。

明日は5時半にホテルをチェックアウトして、7時30分発の北京行き中国南方航空機に乗る。5時には起床しなければならない。

2018年9月21日金曜日

北朝鮮観光ファンミーティング 二日目(マスゲーム)

9月9日。

昨夜就寝したのは2時近くだっただろうか。7時のモーニングコールまでぐっすりと寝た。入浴してから、8時過ぎに朝食の会場に行く。朝食はビュッフェ式。リンゴのサラダ、オムレツ、肉団子などに加え、なぜか大福のようなお菓子も。羊角島ホテルや高麗ホテルに比べれば料理のバラエティは若干劣る気もするが、まずは満足できる。

集合時間の8時40分近く、ロビーに出ると、Koryo ToursのSimonがいる。握手をし、今回は日本の北朝鮮観光ファンと一緒に来ていることを告げる。昨日空港で会った英国人女性もいたので、日本語で2、3言葉を交わす。

バス2台に分乗して、最初の行き先である中央動物園に9時過ぎに着いた。動物園を訪れるのははじめてだ。女性の案内員が私たちを迎える。

私たちが訪れたのは水族館と爬虫類館だけだった。肝心の動物園の本体には入らなかった。残念。別に虎やライオンに興味があるわけではない。虎やライオンを目の前にした北朝鮮の人たち、家族連れや子供の反応に興味があったのだ。水族館にも北朝鮮の来園者はいたが、建国記念日ということもあるのか(あるいは時間が早すぎるのか)、数は少なかった。

動物園前の北朝鮮家族

続いて動物園にほど近い遊園地に行く。帰国してから知ったが、大城山遊技場というらしい。凱旋青年公園遊園ほどの規模ではないが、民族衣装の試着や射的、ジェットコースター、観覧車などを楽しめる。ツアーの何名かはジェットコースターに乗ったが、私は遠慮しておく。お菓子やジュースを売っている売店では中国元で支払うことができた。

売店

遊技場をあとにしてスーパー(光復地区商業中心)に向かう。ここを訪れるのは3度目だ。午後1時まで、1時間45分の間たっぷり買い物を楽しめる。両替所があり、外貨を朝鮮ウォンに両替して買い物をする。前回は10ユーロを両替し、鉄道の旅に備えてかなりの食べ物や飲み物を買い込んだ。今回は5ユーロも両替すれば十分だろう。

1時間以上の時間があるので、3階のフードコードで食事することも可能だが、このすぐあとに昼食が待っている。明日の丹東行きの列車で食べる饅頭(のようなもの)と土産用のミルクキャンデー3袋を買うにとどめた。

ホテルに戻り昼食をとる。まだ2時になっていない。しかし、ガイドからは、いったん部屋で休み、4時に正装で集合するよう指示される。ただでさえ短い平壌観光の中でこの2時間の空白は痛い。あとで考えると、市の中心部はブロックされており、短時間で行ける適当な観光地もなかったのだろう。

正装だけではない。所持品をゼロにするようにとの指示も出された。カメラ、スマホはもちろん、財布、キー、その他ポケットには何も入っていないようにとのことだった。バスもこれまで乗っていたのとは別のバスに変更されるという。行き先は聞いていないが、おそらく5年ぶりに再開されるマスゲームだろう。通常のマスゲームなら写真撮影も可能だから、特別なマスゲーム、つまり金正恩委員長がお出ましになるものとみて間違いない。マスゲーム観覧料の100ユーロ(3等席)はすでに支払ってある。

両江ホテルからバスを連ねて到着した先は人民文化宮殿(この建物の名称は帰国後に知った)だった。ここでバスを降り、全員がいったん建物の中に入り、出口でひとりひとりボディチェックを受ける。所持品の有無を調べる検査だ。駐車場には何十台ものバスが並んでいた。バスの中でマスゲームのプログラムとチケットを受け取る。

マスゲームのプログラムとチケット

ボディチェック終了後、バスの群れはマスゲームの行われるメーデースタジアムに向かう。数多くの観光客が列をつくって入場を待つ。隣には香港から来た一行が列をつくっていた。そのうちのひとり、若い女性が日本語で話しかけてきた。旅行関係の仕事をしていて、日常的に日本語を使う機会があるらしい。日本を何回も訪れているということなので、「日本のどこがお気に入りか」と尋ねると、「高知」という答えが返ってきた。

正装という指示に従って、ジーンズをズボンに替え、ネクタイを締めてきたが、欧米観光客の服装はごくカジュアルで、ネクタイなしも多かった。

入場して席につく。チケットには座席番号は書いてなく、一定のゾーンの中で自由に座れる。

8時ちょっと過ぎ、ワァーという歓声とともに観衆が総立ちになる。金正恩の登場らしい。観覧席の中央に目をこらす。黒服が5、6人見えるが、どれが金正恩かわからない。彼をはっきりと識別できたというツアー同行者もいたから、見えなかったのは運転免許更新すれすれの私の視力のせいだろう。

総立ちになった観衆は手を挙げ、拍手をし、歓呼している。周りの外国人観光客も手をたたき、声をあげている。私も拍手した。が、この辺の心境は複雑で、自分でもちゃんと整理がついていない。

昨年4月の平壌の軍事パレードでは心ならずも一種の感動に襲われたものだ。そのときのブログから引用すると「世界からかつてなく孤立し、包囲されている国民が兵士たちに向けて手を振り、兵士たちが応える。この様子に不覚にも一瞬心を動かされた。」

今回のマスゲームではそうした「感動」はなかった。金正恩に向かって「マンセー」を叫ぶ気は毛頭ない。北朝鮮を好んで旅することと金王朝を支持することはまったく別だ。南北関係が融和に向かえばうれしいし、米朝関係の好転も切に望む。金正恩は残忍な独裁者だし、トランプも予測のつかないポピュリストだ。しかし、爆撃で朝鮮の問題を解決できるわけではないし、経済制裁も北朝鮮の一般の人々を苦しめるだけだろう。北朝鮮の側からしても対決姿勢だけでは出口が見えない。米朝関係の進展にしか北朝鮮の未来はないし、北朝鮮の大多数の人もそれを望んでいるだろう。望むらくは、米朝関係の改善が北朝鮮国内の抑圧の緩和につながることだ。

マスゲームの内容はすばらしかった。だが、このすばらしさの背景に平壌の生徒や学生、青年や成人のどれだけの犠牲があるのか。今日から10月の始めまで夜の8時から10時まで連日繰り広げられるマスゲーム。統一のとれた集団のみごとなシンクロナイズ。これほどのレベルに達するまでに要する膨大な練習の時間。マスゲームに参加する人たちはこれを犠牲とは思わず、時間の浪費とも感じず、名誉だと受け止めているのかもしれない。しかし私はいやだ。「集団よりも個」が骨の髄までしみこんでいる私にとっては耐えられない。

今回のマスゲームも為政者の政治的都合を反映したものだった。2010年に見たマスゲームは中国共産党との友好関係を強調したものだった。今回は中国との関係に加え、韓国や米国との関係改善が大きくクローズアップされていた。ICBMや核は登場しない。代わりに韓国の文大統領との会見の様子が映し出され(最初は写真かと思ったが、それほどまでにリアルな人文字だった)、アルファベットによる標語も登場した(私が覚えている限り、これまでのマスゲームにアルファベットは見られなかった)。Maltilateral Foreign Relation(多角的外交関係)やGlobal Independenceという英語が人文字によって表示される。Global Independencの意味が不明だったので、ひょっとしてGlobal Interdepenceだったのかもしれないと思った。しかしGlobal Interdepence(国際的な相互依存関係)が平壌のスローガンとして登場するはずがない。帰国してからグーグルで調べると、Global Independenceは金日成の外交政策として出てくる。その意味するところは....やっぱりよくわからない。

10時過ぎにマスゲームが終了してバスに戻るとき、危うく迷ってしまうところだった。JS Toursの社長がうしろから声をかけてくれたおかげで、やっと自分のバスに戻ることができた。あそこで迷い子になったらと、冷や汗がでる。

すっかり遅くなってしまったが、最後に夕食が待っている。万寿台創作社のレストランに着いたのは夜中の0時半ごろだった。このレストランで食事するのは3回目だ。アヒルの焼肉などの料理が並べられる。午前1時近くになっているにもかかわらず、歌や踊りのパフォーマンスがあった(写真撮影は不可)。

深夜の夕食
ホテルに戻ったときには2時を過ぎていた。明日は8時にホテルを出て、地下鉄と切手博物館を訪れてから、10時に平壌駅から丹東に向けて発つ。

2018年9月18日火曜日

北朝鮮観光ファンミーティング 一日目(平壌到着)

9月8日。

ツアーは11時15分に北京空港の第2ターミナルに集合することになっている。といっても13時発平壌行きの高麗航空定期便にチェックインするわけではない。数日前に送られてきたツアーの行程表によれば、私たちが乗るのは19時発の臨時便。キャパシティを超えた訪朝観光客をさばくために特別に用意された夜行便だ。夜行便で平壌に飛ぶのははじめてなのでそれなりに興味深いのだが、平壌での半日の観光が犠牲にされ、その代わり北京で6時間余り無為に過ごさなければならない。

9時前にHappy Dragon Hostelをチェックアウトして、近くのチェーンレストラン「李先生」で朝食をとる。春雨のスープと中華パンで25元(400円ほど)。

地下鉄とエアポート・エキスプレスを乗り継いで北京首都航空の第2ターミナルに着いたのは10時半ごろ。11時になってから集合地点であるLEI Cafeに行くとすでに数人のツアー同行者が集まっている。さらに待つこと20分ほど、羽田集合のツアー本体が到着した。添乗員として同行しているのはJS Toursの社長だ。

全員が集まったところで、社長が「悪い知らせ」と前置きして、ツアー内容の変更を伝える。なんと平壌滞在が1日短縮されるのだ。11日朝の平壌発北京行きの便を確保できないため、平壌を10日の朝に列車で発ち、丹東を経由して大連で1泊、11日の朝に大連から北京へ飛ぶという。帰路の北京発羽田行きの便を変更することはできないから、これしか方法がないとのこと。そもそも超短期の2日半の平壌観光がたったの1日になってしまう。観光には期待していないとはいうものの、さすがにこれにはがっかりした。

総勢51名。大学生から高齢者まで、年齢層はさまざまだが、総じて若い。女性は10名弱。これほどの大人数は予想していなかった。最初の募集人数が10人、追加の人数が10人、せいぜい20人くらいだと思っていた。

4時40分の再集合までいったん解散となった。再度北京市内に出かけるのもおっくうなので、ターミナル3に移動して食事をとり、ビールを飲んで時間を過ごす。

北京空港ターミナル3で昼食(60元)

夕方5時過ぎにチェックインし、出国審査とセキュリティチェックも無事通過。出国審査の列に並んでいた若い台湾人カップルと少し話す。Koryo Toursのツアーではじめての訪朝とのこと。

高麗航空機は少し遅れて北京空港に到着し、7時20分ごろに平壌に向けて発つ。機内はほぼ全員が観光客のようだ。いつもの通りチキンバーガーとジュースが出た。

平壌に到着したのは夜の10時ごろだった。入国検査は簡単だった。荷物もほとんどノーチェック。電子機器をカバンの外に出しただけだった。機器のスイッチをオンにする必要もなし。

空港ロビー

空港ロビーの小さな売店は私たち日本人の爆買いで大忙しだった。モランボン楽団のDVDなどが飛ぶように売れる。ここらへんはKoryo Toursのグループと大違いだ。私のこれまでの経験によれば、欧米人の北朝鮮での買い物はプロパガンダ・ポスターに集中している。DVDやCDを購入する欧米観光客はほとんどいない。

欧米系の若い女性が私に日本語で話しかけてくる。イギリス人で、日本語は大学で勉強したという。何回目の訪朝かと尋ねると、15回目とのこと。それもそのはず、彼女はKoryo Toursのガイドだった。SarahやVickyがKoryo Toursを去ったあとの新しいガイドらしい。平壌からハサンへの鉄道ツアーに参加したこと、Koryo ToursのSimonを知っていることなどを話す。彼女は以前はYoung Pioneer Toursのガイドをやっていたらしい(あとで両江ホテルで再び会ったときに聞いた)。

4人の日本語ガイドが私たちを迎えに来ていた。2013年に世話になった金ガイドと2010年訪朝時の張ガイドもいる。金ガイドが私を覚えていなかったことに軽いショックを受ける。

ホテルは当初予定されていた羊角島ホテルから両江(リャンガン)ホテルに変更されていた。ホテル変更については出発の数日前に知らされていた。グレードダウンということで不満の声もあったが、羊角島ホテルも高麗ホテルもそれぞれ数回宿泊している私にとっては新しい体験であり、むしろうれしいくらいだ。

25人ずつに分かれて2台のバスに乗り、空港から平壌中心部にある両江ホテルに向かう。この組み分けはこれ以降ずっと固定された。食事のときもおおむねこの組み分けに従ったので、もう一方のバスに乗ったメンバーについては最後まで顔もはっきり識別できなかった。

真夜中の12時近くに両江ホテルに着く。部屋に入る前にまずは夕食。キムチ、ポテトサラダ、メンチカツ(のようなもの)、ジャガイモの揚げ物、野菜の煮物、ライス、スープ、それになぜかドーナツ。ビールとミネラルウォーターも付く。深夜にはあまり食べないほうがよいとわかってはいても、ついつい食べてしまった。12時を過ぎてから給仕しなければならないウェイトレスたちもたいへんだ。

真夜中の夕食

両江ホテルの部屋は悪くなかった。お湯も問題なく出るし、テレビも映る。外を一望できるテラスもある。トイレの水が少量流れ放しで止まらなかったが、音が気になるほどではない。

両江ホテル

明日は8時に昼食で、8時40分に出発とのこと。動物園、遊園地、スーパー(光復地区商業中心)を訪れたあと、いったんホテルに戻り、正装のうえ再度ホテルを出るという。正装してどこへ行くかは明らかにされなかったが、おそらくマスゲームだろう。

2018年9月16日日曜日

北朝鮮観光ファンミーティング in 平壌 北京到着まで

北朝鮮観光ファンクラブなる非公式の団体があり、東京で年に2回ほどファンミーティングと称する集まりを催している。第7回目のファンミーティングを平壌で開催することは昨年の早い段階でアナウンスされていた。

今年の4月にはJS Toursからこのファンミーティングのための平壌ツアーが発表された。JS Toursは主として北朝鮮旅行を手配する旅行会社だ。さっそく申し込むことにした。最近4回の訪朝はすべて英語ガイドによるものだった。久しぶりに(2013年以来)日本語ガイドによる北朝鮮旅行を楽しみたい。もう1つ、「北朝鮮観光ファン」を自称する人たちへの好奇心があった。


9月8日から9月11日までの3泊4日のツアー。平壌だけだから観光の内容に特に興味があったわけではない。モランボン楽団の公演鑑賞も予定されていたが、モランボン楽団に思い入れはない。同じく予定に入っていた日本料理の「たかはし」や冷麺の玉流館での食事もすでに経験済みだ。

9月8日の早朝に羽田集合のツアーだったが、私は7日に関西空港を発ち、8日に北京空港で合流することにした。関空・北京の往復航空券は4月に入手しておいた。

9月4日。心配していた台風21号も過ぎ去りホッとしたのもつかの間、関西空港が水浸しになり、関空と大阪をつなぐ連絡橋にタンカーが衝突とのニュースが飛び込んでくる。

7日の北京行きはどうも飛びそうにない。キャンセルを考えたが、ツアー間近なため代金の50%しか返ってこない。5日になり、急遽中部セントレア国際空港発の航空券をオンラインでチェックして、大韓航空便を見つける。66000円と高いうえ、空港での長い待ち時間、帰路の釜山での1泊と、あまり勝手のいいフライトではない。だが、購入可能な航空券のなかではこれがベストだった。思い切って購入した。中部国際空港9時25分発のフライトだから、空港の近くに前泊する必要がある。常滑市のホテルミラーゴ中部空港も同時に予約した(1泊7000円)。

9月8日。

ホテルのシャトルバスで6時45分ごろに中部国際に着く。はじめて利用する空港だ。関西空港から流れてきた観光客などで時間がかかるかもと少し早めに来たが、特に混雑しているようでもなく、7時までに自動チェックインとユーロ(マスゲームの代金)への両替を済ますことができた。

乗り継ぎの仁川空港では7時間余の待ち時間があった。ソウルの街へ出ることも可能だが、疲れも考慮して、空港にとどまることにした。仁川空港にはnap zone(昼寝ゾーン)や無料のシャワーなども用意されており、ゆっくり休むことができる。フードコートでプルコギ・ビビンバなる一品を食べたが、こちらのほうはいまひとつだった。

仁川空港のプルコギ・ビビンバ

北京に着いたのは夜の8時過ぎ。宿はいつものHappy Dragon HostelをBooking.comで予約してあった。1泊290元。今年の冬には125元だったからずいぶん値が上がっている。9月はハイシーズンなのか。なにはともあれ、台風と関空の機能不全という予想外の出来事のなか、一度はあきらめかけた平壌旅行をなんとか実現できそうだ。

2018年9月3日月曜日

イスラエル中東研修ツアー 十一日目(帰国、まとめ)

8月11日。

ホテルを10時半にチェックアウトして、11時にテルアビブに向けて出発する。ベン・グリオン空港でバスを降りるのはキャセイパシフィック機に乗る3人(私を含む)とイスタンブールへ飛ぶ1人。

残りの参加者は夜遅くの大韓航空便であり、今日1日テルアビブの観光を楽しむことができる。噂によると、昼食は寿司レストランでとるとか。うらやましい。

キャセイパシフィック便の出発時刻は15時15分。イスラエルの出国審査はことのほか厳しく、フライトの3時間前には空港に到着している必要があると言われている。ホテルから空港まで2時間かかるとして、到着は13時になる。フライトまで2時間15分しかない。ちょっと心配だ。

まったくの杞憂だった。空港に着いたのは、12時半すぎ。出国審査もあっけなかった。スタディツアーに参加したと告げただけでOKだった。Galilee Instituteが用意してくれたヘブライ語の研修修了証(?)をカバンから出そうとすると、「その必要はない」と言われた。要した時間は1、2分。出国時もパスポートにはスタンプは押されず、小さな出国カードを渡されるだけ。

セキュリティ・チェックも他の空港と同じで、とりわけ厳しいものではなかった。

使い切れなかったシェケルを米国ドルに両替する。76ドル返ってきた。初日に150ドルをシェケルに替えていたから、74ドル使ったことになる。

出国ロビーのショップで土産物を買う時間もたっぷりあった。フムス(豆のペースト)などを購入した。

香港での乗り継ぎ時間は1時間50分だったが、こちらも余裕で間に合った。予定どおり翌12日の午後1時ごろに無事関空に戻ってきた。関空の入国審査は顔認証になっており、パスポートに帰国スタンプは押されなかった。

エルサレム旧市街

ガイドの説明を聞く(エルサレム)

ベツレヘム

最後に今回の研修ツアーをまとめておこう。

若い学生たちの中でただ1人の年配者。参加には若干の勇気が必要だったが、いつもとはひと味違う、いい旅となった。いい旅となった要因をいくつか挙げておこう。

(1)ともかくイスラエルに行けたこと。
イスラエルは気になる国ではあったが、入国の苦労を思うと、選択肢には入らなかった。そんなときにちょうど見つけたこの研修ツアー。これなら比較的楽に入国できるだろう。この判断は正しく、別室で少し待たされるだけでスムーズにイスラエルの土を踏むことができた。これなら個人旅行でも心配するほどのことはないだろう。

(2)若い人たちとの交流。
学生の中のただ1人の年配者であることから、はたしてうまくやっていけるか一抹の不安があった。だが、みんな暖かく迎えてくれた(と思いたい)。学生の中に溶け込んでその一員となったわけではないし、なるつもりもないが、ぎこちない壁はなかった。彼らを観察し、今時の若者の言葉遣いや振る舞いを知るのも新鮮で、興味深かった。ユダヤやアラブといった異文化に触れるだけではなく、平成末期の若衆文化にも触れることができた。ツアーといっても現地集合で現地解散。航空券の手配や飛行機の乗り継ぎは自力でしなければならない。現地に着いてからは、講義もガイドも英語オンリー。20歳になるかならないかの身で、「危険」とされるイスラエルに赴く、その勇気と行動力に頭が下がる。

(3)イスラエル・パレスチナ紛争への理解。
これもある程度の関心はありながら、きちんと勉強したことがなく、なんとなくモヤモヤしたものがあった。研修参加を決めた6月中旬から出発日の8月1日まで、1か月半の短い期間に泥縄式に詰め込んだだけだが、それでもこの複雑な問題に関する入門レベルの知識は得られたように思う。もちろんすっきりしたわけではない。知れば知るほど混迷が深まるのがこの問題のやっかいなところだ。

紙媒体の資料だけでなく、Youtubeがおおいに役に立った。Youtubeには中東問題に関する講演、ディスカッション、解説などがそれこそ無限と言っていいほどアップロードされている。

特に興味を惹いたのが、Norman Finkelsteinという米国のユダヤ人歴史学者だ。彼の両親はともにワルシャワ・ゲットーとナチスの強制収容所の生き残りだ。にもかかわらず(あるいはそれゆえに)彼はイスラエルの政治、特にそのパレスチナ人の取り扱いに激しく抗議している。Finkelsteinの動画はたくさんYoutubeにアップされているが、そのうちの1つを紹介しておく。ユーモアたっぷりの講演だ。

Norman Finkelstein Illegalilty of Israeli Force Against Gaza Protest

今回のツアーではホテル内の講義が半分近くの時間を占めた。時差ぼけからくる睡眠不足もあり、ついうつらうつらした場面も少なからずある。このせいもあってか、講義内容のかなりの部分が記憶から抜け落ちている。自分が発した質問まで忘れている始末だ。だからといって、覚えていない講義が無駄であったというわけでもないだろう。忘れたようでも、下意識のどこかに残っている可能性もゼロではない。

研修ツアーの性格上やむを得ないが、エルサレムやベツレヘム、あるいはパレスチナ自治区を歩いて探索する機会、地元の人たちとのspontaneousな接触の機会がほとんどなかったことが心残りだ。これはまたの日の個人旅行に期待するしかない。

2018年9月2日日曜日

イスラエル中東研修ツアー 十日目(講義、アラブの村)

8月10日。

研修最後の講義はDr.S. Handelmanによる"The Israel-Palestinian Conflict: Two Complementary Views of Peace-making"であり、9時30分にはじまった。

Dr.S. Handelmanは和平(Peace-making)に向けたTwo Compementary Models(相互補完的な2つのモデル)について語る。1つは「Political Elite(政治的エリート)」のモデルであり、いわば上からのプロセスだ。もう1つは「Public Assembly(大衆の集まり)」のモデルであり、草の根レベルのモデルと言えよう。 Handelman氏はこの草の根の活動に携わり、ユダヤ人とパレスチナ人の交流を促進している。

休憩時間に彼と少し話した。彼自身はイスラエル生まれだが、両親はルーマニアから来たとのこと。イスラエルの歴史学者Ilan Pappéに言及すると、「彼は非常にラディカルだ」と言っていた。これが賞賛なのか批判なのかはわからない。同じくBenny Morisについては「彼は2度も3度も立場を変えている」と言う。Benny MorisもNew historianに分類される学者だ。Pappéと同様1948年のイスラエル建国のプロセスが民族浄化(ethnic cleansing)であったことを認めるが、「米国であれオーストラリアであれどの国家もその成り立ちには胡散臭いものがつきまとう。1948年の時点で民族浄化は必要だった。ベン・グリオン政権の誤りは民族浄化を徹底しなかったことだ」というのが現在のMorisの立場らしい。

昼食後1時間は"Computerised Evaluation"に充てられた。コンピュータによるアンケート調査だ。研修に対する評価や意見を記入していく。私はノートパソコンを持ってきていなかったので、Galilee Instituteのものを借りたが、手持ちのタブレットでも十分可能な調査だった。

匿名とはいえ、この種のアンケートは苦手だ。ほとんどすべてを「満足した」と評価しておいた。

午後3時、最後の現地ツアーに出発する。目的地はJisr az Zarqaという地中海に面したアラブの村。1時間ほどで到着した村ではアラブ人のガイドが待っていた。ガイドのヘブライ語の説明をBorisが通訳する。

アラブの村へ

アラブの村に入っていくのを期待していたが、それはかなわず、村の周辺を歩き、アラブの村とユダヤの村を隔てる土塁の上を歩くだけだった。今日はイスラムの休息日である金曜であり、アラブの村からは結婚式を祝う祝砲が聞こえる。土塁もこうした祝砲の音を遮るためにユダヤ側が構築したものらしい(実際どれほどの防音効果があるかは疑わしい)。

アラブの村は建物が密集しているが、ユダヤの村はゆったりとしている。生活のレベルにも大きな差があるという。

アラブの村(その1)


アラブの村(その2)

アラブの村(その3)

地中海に出ると、アラブ人の家族たちが海水浴などを楽しんでた。女性たちはヒジャブや服を着たまま水につかっていた。

服を着たまま海へ

最後に(Borisの通訳を介して)ガイドに「日本人のツーリストをガイドするのはこれがはじめてか」と尋ねたところ、「以前に一度日本人を案内したことがあるが、2人だけの客だった」とのことだった。

8時過ぎにホテルに戻って夕食。隣のテーブルに10人余りのイタリア人の中高年の団体がいた。トリノの教会教区の団体だという。ほぼ全員がご婦人方の中、1人だけ男性がいる。なんと日本人らしい。「親に5年と言ってイタリアに来たが、もう(在イタリアが)32年になります」とのこと。イタリア人女性と結婚して、トリノに住んでいるもよう。イタリアのポピュリズムや前首相のRenziのことなどを話す。「Renziはお坊ちゃんで世間知らずだった。彼のせいでポピュリズムが幅をきかすようになった」というのがこの日本人男性のRenzi評。「Buona notte」(おやすみ)と言って別れる。

これで研修ツアーのすべてが無事終了した。明日は帰国の途につく。

2018年9月1日土曜日

イスラエル中東研修ツアー 九日目(講義、修了式)

8月9日。

今日は午前と午後の講義に続き、夕方7時にGalilee Instituteの本部での修了式が行われ、締めくくりにレストランで会食することになっている。

朝食後、9時からはじまる講義に先立って1人で昨日の夜とは反対方向にナザレを散策した。坂が多く、道は狭い。車の運転には苦労しそうな街だが、歩行者がいると停車してくれるのに感心した。

朝のナザレ

午前中は"Oslo Accord - Prospective after 25 years"と題するDr. Y. Hirschfeldの講義だ。

Dr. Hirschfeldは1993年のオスロ合意の立案当事者であり、1995年のベイリン・アブマーゼン・プラン(ベイリンはイスラエルの司法相、アブ・マーゼンはPLOのアッバス議長の通称)の草案作成にも携わっている。いわばオスロ合意を内側から見てきた人物だ。

Dr. Hirschfeldはオーストリア生まれであり、戦後のオーストリアで長年首相を務めたブルーノ・クライスキーとも知己の間柄だったらしい。「クライスキーと私は同じような境遇に育った。違いは私がシオニスト(Zionist)であるのに対して彼はそうではなかったことだ」と言う。

オスロ合意に至る非公開の交渉は1980年代にはじまっていた。そこから1993年の合意に至るプロセスが詳しく語られる。オスロ・プロセスの柱となったのは、(1)漸進主義、(2)パレスチナ人に権限を持たせること(empowerment)、(3)政府と民間のあらゆる領域におけるイスラエルとパレスチナの協力、(4)セキュリティに関する協力、(5)より広い中東地域を見据えたイスラエルとパレスチナの相互承認という5つの原則だった。

オスロ合意がなぜ頓挫し、今後の展望がどうなのかについては明確な説明はなかった。いや、あったのかもしれないが、私は講師から遠い最後尾に座っており、途中でよく聞こえなかった場面が多々あったというのが正直なところだ。

アラファトとも交渉したということなので、「アラファトは好ましい(likable)人物か」と尋ねてみた。

即座に「No」という答えが返ってきた。「実際的な(practical)面ではすばらしかった(brilliant)だが、人間としてはまったく信頼できない。今日言ったことが明日には覆る」とのことだった。

アラファトの人物像よりもっと重要なことも質問したはずだが、悲しいことにまったく思い出せない。

講義は11時過ぎに終わり、12時半から昼食となった。私たちグループ以外にホテルで昼食をとる人はほとんどいない。観光客が昼にホテルを空けるのは当然だろう。昼食はほぼ毎回同じ内容だった。まずくはないが、飽きる。

昼食

13時30分からの講義は"Hamas and Fatah: Roots and Orientations"というタイトルだ。講師はDr. Y Fiedman。ユダヤ人だが、アラビア語に精通しているらしく、講義はまずアラビア語の簡単なレッスンからはじまった。

ハマスについてもファタハについてもおおよその流れはあらかじめつかんであったので、私にとって特に目新しい話はなかった。できればハマスの代弁者の口から直接にハマスの主張を聞きたいところだが、イスラエルの地では不可能だろう。

Dr. Y Fiedmanにとってはハマスは交渉相手ではなく、壊滅の対象でしかないようだった。「ベストの解決策はエジプトがガザに侵攻してハマスをつぶしてくれることだ。もっともこうした策が実現する可能性は低い。イスラエルでも受け入れられないだろう」と言う。

他国の軍事力の手を借りてガザを片付けるという、まことに虫のいい方策だ。「軍事解決は解決ではない。より大きな問題、より大きなトラブルの出発点になるにすぎない」と、一応反論らしきものを述べておいた。

講義が終わってから、バスでナザレの西のNahalaにあるGalilee Instituteの事務所に向かう。修了式のためだ。 30分余りで事務所に着く。けっこう広い敷地の平屋の建物だ。夕方7時ごろだったから、中はがらんとしていた。女性3人が残っていて、簡単な挨拶のあと、ひとりひとりに修了証書と小さな蜂蜜の瓶を手渡してくれた。

修了式

近くのレストランで夕食となる。レストランの看板はヘブライ語のみで表記してあったので、名前はわからない。それなりに豪華な食事だったが、アルコールがないのがさびしい。

レストランで夕食

修了式を済ませたが、研修とツアーがこれで終わったわけではない。明日も講義と現地ツアー(イスラエル国内のアラブの村)が予定されている。