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2018年3月31日土曜日

平壌からウラジオストクへ2018 四日目(羅先到着)

3月2日。

6時過ぎに寝台から起き上がる。夜中に2回目が覚めたが、予想に反してまずはよく眠れた。

昨日よりいっそう深く積もった雪が朝日に輝いている。まさに鮮やかな朝だ。

同行者の多くにとって、朝に飲む1杯の紅茶、1杯のコーヒーは格別らしい。用意も万端で、紅茶のセットやコーヒーメーカーまで持参している者もいる。紅茶やコーヒーの習慣のない私は、平壌で購入した中国の乳飲料で朝の渇きをいやす。

9時過ぎに朝食としては遅めだがカップヌードルを食べた。これ以降夕食までちゃんとした食事をしなかったので、このあまりおいしくない中国製カップヌードルがブランチとなった。

10時を過ぎると海が現れる。日本海(東海)だ。

車窓から1

車窓から2

車窓から3

車窓から4

清津に近づく

さらに2時間ほど走り、12時過ぎに列車は清津(チョンジン)に着く。ガイドの金と安はここで列車を降りる。列車がしばらく停車する間、2人のガイドと一緒に写真に収まる。なぜ羅先まで同行しないのか、その理由は聞きそびれた。2人はバスで平壌まで帰るとのこと。帰路の交通手段の関係で清津で下車したのかもしれない。

清津に着く

羅先に向かって再出発した列車は海岸線に沿って進む。海岸線のためか、雪は今朝方より浅くなっている。

羅先に向かって1

羅先に向かって2

列車の廊下でVictoriyaと北朝鮮グループの1人がロシア語で話している。Victoriyaはウズベキスタン出身だが、両親はロシア人(母親は朝鮮人とのハーフ)で、母国語はロシア語だ。Victoriyaだけでなく英国人のTomもロシア語で話している。これはちょっとうらやましかった。私も旅行程度のロシア語ならなんとかなるが、ちょっと込み入った話となると歯が立たない。朝鮮語はロシア語よりはましだが、これも複雑なことを話すレベルにはほど遠い。もっともTomと北朝鮮男性も特に「込み入った」ことを話していたわけではなく、シベリアの気候の厳しさなどが話題になっていたようだ。

清津を出てから4時間近く、午後4時過ぎに羅先に到着する。私にとっては2014年の夏以来、2度目の羅先だ。北朝鮮グループもここで下車し、羅先で2泊しててからハバロフスクに向かう。北朝鮮からロシアへの列車は週に2本だが、平壌からそのままロシアのハサンに直行するのではなく、羅先で2日間の余裕がもたせてある。北朝鮮の列車の大幅な遅延に備えての措置だ。私たちが利用したディーゼル車の場合はあまり問題ないが、北朝鮮の電気事情からして電車は大幅に遅れることもまれではないらしい。

ハバロフスクへ向かう北朝鮮グループ

駅のホームには2人のガイドと専用車の運転手が迎えに来ている。羅先のガイドの1人は予想どおり2年半前と同じ金(キム)という30代の男性。羅先のガイドはそう多くなく、金はいわば英語ガイドの第一人者だから、意外なことではない。金は2年半前に出会った私を覚えていないようで、特に私に話しかけてくることはなかった。もう1人のガイドの名前も金。こちらの金は40代くらいか。もう一方の金の上司にあたるのだろう。穏やかそうな人物だが、英語はあまり達者でないもよう。

羅先での宿泊先は南山広場に面した南山(ナムサン)ホテル。これは日帝時代の羅津ヤマトホテルだ。もちろん大幅に改装されている。2014年夏に泊まったのは琵琶ホテルだったから、この旧ヤマトホテルを体験できるのはうれしい。

まずはホテルにチェックインし、しばらく体を休めることになった。金ガイドが各自にカードキーを渡す。このとき、2014年に来たことを告げると、金ガイドも思い出したようで、笑顔で握手を求めてきた。

夕食の時間となり、南山広場を挟んでホテルの向かいにあるレストランに歩いて向かう。6時を過ぎたばかりだが、外は暗い。暗闇の中、雪で凍った広場をおそるおそる歩いて行く。

円卓を囲んでの夕食はサラダ、ジャガイモ、肉、海藻、チャプチェ、キムチなどバラエティーに富み、なかなか豪華だった。前回同様、羅先での食事は質量ともに充実している。

夕食

食後、一同で近くのバーに立ち寄る。みんながビールを注文する中、私を含め2、3人はマッコリを注文した。マッコリは甘すぎて、あまりおいしくなかった。まるで甘酒を飲んでいるようだ。若いカップルなど、地元の客も3、4組来ていた。

暗闇の中、滑らないように慎重に一歩一歩踏みしめてホテルまで帰る。羅先は確かに寒いが、震えるほどの寒さ、凍てつくような寒さではなく、恐れていたほどではなかった。

2018年3月28日水曜日

平壌からウラジオストクへ2018 三日目その2(列車は進む)

3月1日(その2)。

平壌から清津まではガイドとして金(キム)と安(アン)の2人が私たちに付き添っていた。列車の中では彼らとも話す機会があった。

金(キム)は私たちが平壌空港に到着した初日からのガイド。彼からは「サムライとは何か」という質問を受けた。「ancient warriorだ」と答えたうえ、サムライが人口に占める割合は10%にも満たなかったこと、平和が長く続いた江戸時代にはworrierというよりbureaucratだったことなどを付け加えた。

安(アン)は昨年ガイドになったばかりの青年。音楽家(ドラマー)になりたかったがかなわず、英語ガイドに転進したとのこと。北朝鮮歌謡の話題は私から仕掛けた。今年に入ってから亡くなった歌手、金光淑のことなどを話しているうち、安が「日本の歌をひとつ知っている」と言って歌い出した。「上野発の夜行列車降りたときから~」。津軽海峡冬景色だ。この歌が北朝鮮で歌われていることは知っていたが、まさか20代の英語ガイドが日本語で歌うとは。ちょっとびっくり。安は森村誠一の小説も読んだことがあるとのことだった。森村誠一が朝鮮語に翻訳されていることも知らなかった。

小説といえば、ブラジル人のEdgarはポルトガル語に翻訳された村上春樹の本を列車の中で読んでいた(タイトルまでは確かめなかった)。

列車は進み、美しい雪景色は続く。

車窓から1

車窓から2

車窓から3

列車は進む

隣のコンパートメントの北朝鮮グループから冷凍の柿をもらう。暖かい列車の中で食べる冷たい柿はおいしかった。

陽が暮れかかる6時ごろ、夕食をとることにした。私はそれほど腹が減っていなかったので、昼の残りのイカ天と肉団子、それにチジミだけにとどめた。Corrie夫妻から赤ワインのお裾分けに与る。

夕食も終わり、あれやこれやするうち、私たちグループの何人かが隣室の北朝鮮グループに酒を持ち込み、一緒に乾杯する展開となった。タミール人のAyeshaがワイン、オーストラリア人のCorrieがウォッカを持ち込む。おそらく平壌の光復地区商業センターで調達したものだろう。私はソジュ(焼酎)を「贈り物だ」と言って北朝鮮グループに手渡す。

一緒に乾杯1

一緒に乾杯2

こうした成り行きになったのは、Ayeshaがicebreakerとして活躍してくれたからだ。南インドの裕福な家庭に育った彼女、およそ人見知りすることがなく、すべてにポジティブ。訪朝は5回目で、平壌マラソンにも参加している。彼女曰く。「平壌マラソンは私の人生の中でも最高の一日に数えられる。沿道からの拍手の中、スターになったような気分だった。」我がグループ内の誰かが「Ayeshaのように感謝してくれれば(appreciative)、北朝鮮の側もやりがいがあるだろう」との感想を漏らしていた。

車窓の外はもうすっかり暗くなっている。

今日はちょうど英国人のTomの誕生日だった。大きなケーキが私たちのコンパートメントに持ち込まれ(たぶん羊角島ホテルで用意してくれたものだろう)、Happy birthdayの歌の中、Tomがカットする。カットされたケーキは北朝鮮グループにも配られた。

誕生ケーキ

ベッドに横たわって休んでいると、バイオリンの音が聞こえる。アリランの旋律だが、あまりうまくない。北朝鮮労働者の誰かが演奏しているのかと思ったが、どうもそうではないらしい。ベッドから起きて確かめると、廊下で小さな男の子がバイオリンを奏でている。6歳とのこと。途中の咸興(ハムン)で母親と2人連れで乗務員用のコンパートメントNo.1に乗り込んだらしい。羅先在住の母子だという。本来なら前方の一般車両に乗るべきところだが、なぜか「国際車両」に乗り合わせていた。

少年とバイオリン

特に話し合ったわけでもないが、私とNancyeは下段のベッドに寝ることになった。上段のベッドによじ登るのはちょっとした作業だったから、これはありがたかった。私は我がコンパートメントの中では最初に、10時ごろには寝入ってしまったようだ。

2018年3月24日土曜日

平壌からウラジオストクへ2018 三日目その1(列車出発)

3月1日(その1)。

朝7時に羊角島ホテルをチェックアウトして、平壌駅に向かう。朝食を食べる時間はなかったが、列車に持ち込む簡単なサンドイッチをホテルが準備してくれていた。

駅には羅先行きの列車が待機している。10両ほどの車両からなる列車だが、我々が乗るのは最後尾の「国際車両」で、朝鮮語とロシア語で書かれた「平壌ーモスクワ」というプレートがかかっている。

平壌ーモスクワのプレート

金(女性)ガイドとはここでお別れ。金(男性)ガイドは清津まで我々と同行する。さらに安(アン)という若い男性ガイドが加わり、我々と列車の旅をともにする。

出発を前に全員の集合写真

8時ごろに列車は出発する。最後尾の「国際車両」は全部で7つのコンパートメントからなる。コンパートメントにはそれぞれ2段ベッドが2つ、つまり4人が入れるようになっている。Koryo Toursのグループは北朝鮮ガイドを含めて12人であり、No.2、No.3、No.4の3つのコンパートメントが割り当てられた。私はオーストラリア人夫妻のCorrieとNancye、それに英国人のTomと一緒にNo.4のコンパートメントに入った。

コンパートメントの中

No.1のコンパートメントは乗務員用であり、No.5から7のコンパートメントは北朝鮮の男性たちで占められていた。彼らの行き先はハバロフスク。極東ロシアの建設現場などで働くのだろう。Nancyeと私の間でslave labour(奴隷労働)という言葉が思わず口から出てしまった。

国家にピンハネされ、おそらくは一定期間(たとえば3年)勝手に辞めることができないなど、確かに奴隷に共通する要素はある。問題はこうした仕事場をみずからの意思で選んだのかどうかだ。その選択に強制の要素があるのかどうか。ここらへんのことを聞き出すのは不可能だ。当方の言語能力の問題以前に、北朝鮮の列車の中は本音を聞き出せるような環境ではない。

我々の「国際車両」から前方の通常の車両への通路はブロックされていた。これにはがっかりした。北朝鮮の人たちがどのように列車を利用しているか、どんな人がどこからどこへ移動するために、また何の目的で列車を利用しているのか。こうした日常生活の一端を垣間見ることこそ、私が今回のツアーに参加した最大の理由だったからだ。

ハバロフスクへ向かう男性たちは普段着の北朝鮮人民ではない。こうした「海外へ働きに出る人々」との交わりなら、2013年の訪朝の際に平壌から中国の丹東の列車の中ですでに経験している。商売で中国に行く北朝鮮男性たちと同じコンパートメントの中で、食べ物やソジュ(焼酎)をともにしたのだ。

平壌を出た列車はいくつかの駅で停車しながら西へ進む。車窓から見えるのは私にとってはじめての北朝鮮の雪景色。

車窓から1


車窓から2

12時を過ぎ、昼食をとることにした。車両に付設されているサモワールのお湯を北京で調達したカップヌードルに注ぎ、平壌で調達したイカ天や肉団子をおかずにしてしばしのグルメタイム。イカ天や肉団子は同室のオーストラリア人夫妻にもお裾分けした。

この60代のオーストラリア人夫妻は2度目の訪朝だ。日本にも2回来たことがある。1度目は1978年、日本からナホトカに渡り、シベリア鉄道でモスクワまで行ったとのこと。2度目はオーストラリア在住の日本人女性の案内でかなり広く日本を探訪したもよう。

隣のコンパートメントには82歳のパキスタン系英国人Afzalがいた。パキスタンのパンジャブの出身で、1967年にロンドンに渡ってから51年になる。パンジャブ出身だが、シーク教徒ではなく、モスレムだ(同じパンジャブでもインド側はシークだが、パキスタン側はモスレムとのこと)。

Afzalは北朝鮮ガイドの間では「ハラボジ(おじいさん)」と呼ばれ、列車移動中もコンパートメントの中で横になっていることが多かった。だがその旅行歴はなかなかのもの。日本を旅行したときには、下関から釜山までフェリーで渡ったとか。私が昨年訪れたチェチェンとダゲスタンには2011年に足を踏み入れている。今回も、ウラジオストクで解散後、ひとりでハバロフスクまで列車で行き、さらにプリヤート共和国の首都ウラン・ウデにまで足をのばし、モスクワ経由でロンドンに帰る予定だ。

列車がガタゴトと雪景色を走る中、このハラボジとなぜか日本軍のマレー侵攻の話になった。英国軍に編入されていたインド兵の中には寝返って日本軍についた者もいたが、Afzalによると、こうした寝返りを促すために「日本軍は戦略的にイギリス兵の捕虜よりもインド兵の捕虜を優遇した」とのことだった。その中心となったのが「フジワラ」だと言う。シンガポールでのフジワラの行動は第一次大戦でのアラビアのロレンスに似ているとのこと。インド人の目の前でイギリス人が惨めな姿をさらすことにより大英帝国は崩壊した。「The fall of Singapore was the end of the British Empire」という結論だ。

私は「フジワラ」なる人物を知らなかった(どこかで読んだことがあるかもしれないが、忘れていた)。帰国してから調べると、藤原岩市少佐のことで、藤原機関(F機関)の組織者だった。

平地から山あいに入るにつれ、雪も深くなっていく。陽も暮れかかるころになると、隣のコンパートメントの北朝鮮グループとの接触が徐々に始まる。(この稿続く)

2018年3月21日水曜日

平壌からウラジオストクへ2018 二日目(平壌)

2月28日。

宿泊客が少ないため、朝食は大ホールでのビュッフェ形式ではなく、「虹の間」と呼ばれる小さな部屋でウェートレスが個別にサービスする形だった。パンとオムレツ、サラダ、ミルク、コーヒー。我々以外にも4、5人の客の姿が見られた。

8時にホテルを出てまず向かったのは万寿台の金親子の銅像。冬の平壌の朝は寒いが、恐れていたほどではない。零下2、3度といったところか。途中で花束を購入し、Simonが代表で銅像の前に捧げる。そして一同銅像に向かって頭を下げる。

花売り娘

続いて祖国解放戦争勝利記念館と米国の「スパイ船」プエブロ号の見学。すでに何回も訪れた場所だ。銅像の前でもそうだが、ここでも展示物やガイドの説明よりも、ここを訪れている北朝鮮人民の様子のほうかが興味深い。特に目に付いたのが若い兵士たちの集団だ。若い。若すぎる。北朝鮮の兵役は17歳からだが、彼らは14、5歳に見える。異様とも思えるほどに小柄なのだ。だからといって見くびることはできない。私が「Don't underestimate them」と言うと、横にいた英国人女性のPollyが「Exactly!」と同意する。

戦争勝利記念館を見学に来ていた女性兵士たち

同じく少年兵たち

この日、なにかの機会に金(女性)ガイドに北朝鮮の徴兵制について尋ねてみた。「男子は10年の兵役につくのか」という私の問いに、「共和国には徴兵制はない。すべて志願だ」との意外な返事。「現に私は兵役についたことがない」と言う。「それは女性だからで、男性の場合は...」とつぶやいたが、特に返答はなかった。

後日Koryo ToursのSimonから得た情報によれば、確かに形の上では志願制となっているらしい。つまり金(女性)ガイドが言ったことは嘘ではない。しかし実質的には(特に地方の男子などは)17歳で学校を卒業をすると10年間の兵役につくしか選択肢がない。といっても、8年のケースもあれば、平壌などではまったく兵役につかないケースもあるという。

人生でもっとも貴重な10年間を兵役に奪われることは個々人にとっての損失であるだけでなく、国にとっても人的資源の大きな無駄遣いではなかろうか。そのうえ、一部に兵役につかない特権階級が存在するとは。まさに格差社会であり、はけ口のない不満がマグマのように溜まってしまうのではないだろうか。

観光がぎっしりと詰まっているのは北朝鮮ツアーの常。そのうえ我々の平壌滞在は実質1日ちょっとしかない。急がなければならない。外国語書店に立ち寄ってから、恒例の地下鉄乗車体験。以前は1区間しか乗れなかった地下鉄も今は全線が外国観光客に開放されている。今回は復興駅で乗車し、途中で1度下車して、凱旋駅まで乗った。かなり混んでいた車内で3人連れの女の子に声をかけ、写真を撮らせてもらう。

地下鉄車内の女の子

1時過ぎに昼食をとる。円卓を囲み、チキン、ナムル、キムチ、チジミ、天ぷらなどの料理が次から次へと出てくる。締めくくりはライスとスープだ。ライスは半分以上残した。

昼食後、光復(クァンボク)地区商業センターに向かう。ここを訪れるのは3度目だが、1回目はただ見るだけで終わり、昨年4月の2回目はタブレットPCの購入にほぼすべての時間を費やしてしまった。明日の列車の旅に備えて食料を調達する目的もあり、今回は約1時間の余裕で買い物を楽しむことができる。10ユーロをウォンに両替し、食料品売り場で肉団子、イカの天ぷら、チジミ、カッパえびせん(らしきもの)、ソジュ(焼酎)、ジュース、水などを購入する。両替したお金の約半分を使った。残ったウォンは米国ドルに再両替する。

この商業施設は中国との合弁を解消し、できるだけ国産品を増やそうとしているとのことだったが、まだ結構な数の中国の商品が並んでおり、日本の化粧品などもちらほらと見られる。昼食の直後ということもあり、以前から試してみたかった3階のフードコートは今回も見送り。いつかは平壌市民と肩を並べてビールを飲んでみたい。

ショッピングセンターをあとにし、万寿台創作社に向かう。絵画や彫刻、銅像を集団で制作している現場だ。まるで写真のようなスーパーリアルな絵画にちょっと惹かれた。

スーパーリアルな絵

続いて主体(チュチェ)塔。タワーの英語ガイドが我々を迎える。この眼鏡をかけた女性ガイド、私を見たとたんにぱっと顔が輝き、笑顔になる。「あなたを覚えている。以前にも来たでしょう」と言う。そう言われれば見覚えがあるようにも思われるが、確かではない。たぶん昨年4月にカナダ人のマイケルらと訪れたときのガイドだろう。ツアー仲間からは「(顔を覚えられるような)どんな行儀の悪い(naughtyな)ことをしたのか」とからかわれる。

今日はぎっしりと日程がつまっている。次に駆け足で党創立記念塔を見学し、ボーリング場に向かう。ボーリング場ははじめてではないが、隣接しているカフェははじめてだった。本格的なコーヒーを提供するために最近オープンしたらしい。注文したカプチーノは確かにおいしかった。カウンターのケースには「柿の種」などの日本のお菓子が収まっていた。

カプチーノ

日本のお菓子も売られている

7時も過ぎ、夕食タイム。焼肉。牛、アヒル、それに豚だったか羊だったか、忘れてしまった。

夕食後、希望者だけで未来科学者通り(ミレコリ)を散策することになった。金正恩の肝いりで大同江沿いに建てられた高級住宅・商業エリアだ。その名が示すとおり、主として科学者や大学教授が居住しているという。これも急速な格差社会化の一端と見ることができる。

未来科学者通り

羊角島ホテルに戻ったときには9時半近くだった。部屋に入ってから、光復地区商業センターで購入した食料品を並べてみた。2本の乳飲料は中国産だが、残りはすべて北朝鮮産と思われる。北京で調達したカップヌードルやお菓子と併せ、36時間の列車の旅には十分すぎるだろう。

平壌で購入した食料品

光復地区商業センターや夜の未来科学者通りには活気があった。これらの光景だけを切り取れば、東欧や南欧、東南アジアの一角と比肩できる。自動車(特にタクシー)の増加もそうだが、こうした「発展と繁栄」をどう評価するかは難しいところだ。「単なるショーケース」として否定できる現実ではない。しかし北朝鮮の現実はこれだけではない。明日からの列車の旅でまた別の北朝鮮を見ることができるかどうか。

2018年3月17日土曜日

平壌からウラジオストクへ2018 一日目(平壌到着)

2月27日。

8時過ぎに宿をチェックアウトし、チェーンレストラン「李先生」で朝食をとる。ワンタンのスープと揚げパンで19元(約320円)。

チェーンレストラン「李先生」で朝食

Koryo Toursの事務所に9時半ごろに到着した。直接に空港に向かうパキスタン系英国人のAfzalを除く総勢9人(ガイドのSimonを含む)が10時前に事務所に集合、空港行きのバスに乗り込む。私を含め数人はスーパーで調達したカップヌードルなどを入れたプラスチックバックをぶら下げている。平壌から羅先への列車の旅に備えた食料だ。

チェックインと搭乗を問題なく終え、Air Koryo機は定刻通り13時5分に北京を飛び立った。ほぼ満席の機内は80%が北朝鮮の人たち、残り20%が我々外国人といったところ。隣席の北朝鮮男性に朝鮮語で「中国で仕事をしていたのか」と尋ねたところ、「クウェート帰り」との返事だった。同乗の北朝鮮男性の大半がそうだとのこと。クウェートの建設現場で働いていたのだろう。

機内食としてチキンバーガーとジュースが出され(ずっと以前にはちゃんとトレイに入った機内食だったものだが)、1時間半ほどで平壌国際空港(順安空港)に着く。イミグレを通過後、税関で電子機器と書籍をすべて提出する(係官は私に日本語で「携帯は?」と求めてきた)。書籍は北京とシベリアのガイドブックしか持ち込んでいなかった。タブレットとスマートフォンには北朝鮮関連の動画やKidleのEブックが数多く保存されていたが、詳しいチェックはなかった。

税関をクリアして到着ロビーに出ると、見覚えのある顔が見える。向こうも私に気付いたようだ。2015年秋の鉄道の旅に見習いガイドとして付き添っていたシン(深)ガイドだった。あれから2年半、この金日成総合大学出身の女性ガイドは一段ときれいになっていた。

彼女はYoung Pioneer Toursの個人旅行者を迎えにきたところだった。鉄道の旅を共にしたJonathanとOksanaが訪日し私が大阪を案内したこと、米国籍のMarkとBobが訪朝できなくなったことなどを話す。

私たちのガイドは両方ともキム(金)。30歳代の男性と20歳代の女性だ。ガイドともどもKITC(朝鮮国際旅行社)のバスに乗り込み、空港を出たときには4時近くになっていた。今日から2泊することになる羊角島ホテルにチェックインする前にまず金日成広場に向かう。空はどんより曇っている。中国の大気汚染の影響ではないかとも思ったが、ただの曇天ということだった。

広場の近くで新婚カップルに遭遇し、「チュッカハムニダ(お祝いします)」と声をかけながら、しばしの記念写真タイム。北朝鮮の新婚カップルの聖地詣と我々の観光ルートは重なっているから、こうした場面が生じるのはめずらしくない。

新婚カップル

続いて大同江ビール工場直営のビアホールを訪れる。こうしたビアホールがあることは知っていたが、訪れるのははじめてだ。

時刻は6時半ごろ。立ち飲み席だけのホールは混んでいた。ほとんどが男性だが、女性の姿もちらほら見える。日本の居酒屋のように食べて飲むのではなく、イギリスのパブ風にひたすら飲むだけだが、タラの干物をつまんでいる人も少数いる。麦100%、麦70%・米30%、麦50%・米50%、麦30%・米70%、米100%、チョコレート・フレーバー、コーヒー・フレーバーの6種類のビールが提供されている。瓶で売られている大同江ビールは大麦70%・米30%だとか。私は大麦100%を注文した。ビールの味についてあれこれ言えるほどの舌も知識も持っていないが、おいしく飲めた。オーストラリア人のNancyeが注文したチョコレート・フレーバーのビールも一口飲ましてもらったが、こちらもなかなかのもの。ほんのりと甘く、口当たりがよい。

平壌のビアホール

隣のテーブルの北朝鮮男性たちと「会話」が始まる。といっても、我がグループに朝鮮語の堪能な者はいない。訪朝170回のSimonは中国語こそ達者だが、朝鮮語となるといくつかの単語や表現を知っている程度。4分の1朝鮮の血が混じっており、朝鮮族の中央アジア移住を研究テーマとしているVikoriyaも、タシケントとニューヨークで朝鮮語を学んだというが、しゃべれるレベルにまでは到達していない。タミール人のAyeshaは韓国語を学習するためにソウルに移住してから7か月になるが、韓国語/朝鮮語万年初級レベルの私とどっこいどっこいといったところ。

ちゃんと理解できたかどうかは疑わしいが、北朝鮮男性がまず発したのは「美帝(米帝)をやっつける」という言葉。「日帝」という言葉も聞かれた。続けて「国民は」という単語が耳に入った。アメリカも日本も悪いのは政府で、国民は別だというのだろう。英語を話せるかと尋ねると、「朝鮮語最高!」と返ってくる。「朝鮮民族最高!」、「朝鮮は1つ!」というのも聞いた気がするが、確かでない。なんのとも愛国的だ。北朝鮮男性の誰かがおごってくれたのか、いつのまにか私の前に2杯目のジョッキが置かれている。

夕食は朝鮮風の豚肉のしゃぶしゃぶだった(英語ではhot potと説明された)。平壌初日の食事はしゃぶしゃぶ、最終日の食事はアヒルの焼肉というのはよくあるパターンだ。

しゃぶしゃぶで夕食

8時過ぎに羊角島ホテルにチェックイン。オフシーズンなのだろう。我々以外の宿泊客は見あたらず、ホテルは閑散としていた。1階のショップや地下の娯楽施設もクローズしているに違いない。早々に部屋に引きこもって明日に備える。

2018年3月12日月曜日

平壌からウラジオストクへ2018 北京での事前説明会

2018年2月25日、26日。

2015年の10月、北朝鮮を鉄道で巡るツアーに参加し、列車で移動しながら平壌、妙香山、咸興、清津、元山を訪れた。しかしこれは、我々14名のツアー客のために特別に用意された専用列車を利用しての旅だった。列車の中で北朝鮮の人たちとふれあう機会は最初から奪われていた。

2015年秋の鉄道の旅

できれば普通の列車で普段着の北朝鮮の人たちに交じって旅をしたい。北京を拠点とする英国系の旅行会社Koryo Toursが企画するPyongyang to Vladivostok Train Tourはこうした想いに応えるものだった。2月27日に北京から平壌に飛び、平壌で2泊、列車で36時間かけて羅先に向かう。羅先に2泊したあと、列車でロシアのハサン(Khasan)に渡り、ハサンからバスでウラジオストクに移動、ウラジオストクで3泊する行程のツアーだ。ツアーの目玉は北朝鮮で通常に運行されている列車で平壌から羅先まで移動することにある。一も二もなくこのツアーに申し込むことにした。

Koryo Toursのツアーに参加するのは今回で3度目だ。安心感もあるし、手順にも慣れている。

前日の26日の4時からKoryo Toursの北京事務所で説明会があるで、関空から北京への片道券(ソウル経由)とウラジオストクから関空への片道券(同じくソウル経由)を購入し、25日に北京に入ることにした。片道の航空券で中国に入国するときには注意が必要になる。チェックイン時に中国を出国する証拠書類を求められるからだ。案の定、関空のアシアナ航空のチェックインカウンターで中国をどのように出国するのか尋ねられた。ウラジオストクから関空へのEチケットを見せ、北京からウラジオストクへはハルピン経由で陸路で移動すると伝えたが、どうも納得していない様子。空路であれ、バスであれ、列車であれ、中国を出るという確たる証拠がほしいようだ。仕方ない。「実は」と切り出し、Koryo Toursから事前に送ってもらっていた平壌行きのAir Koryoのチケットと北朝鮮ビザの写しを提示した。「北朝鮮」を持ち出すことで話がややこしくなるのではと心配していたが、杞憂に終わり、無事に北京行きの搭乗券を手に入れることができた。

経由地のソウルの仁川国際空港でも同様のことが発生した。搭乗口に呼び出され、中国出国の証拠を求められたのだ。このときもハルピン経由で陸路で出国するという説明では納得してもらえず、結局平壌行きの書類を提出するはめになった。アシアナ航空の女性スタッフは「北朝鮮に行く人を扱うのははじめてだ」とびっくりしていた。

北京行きの往復航空券を買っておけば、こうしたややこしい問題は回避できる。しかも、なぜか往復航空券のほうが片道航空券より安い。だが、帰路の航空券を意図的に放棄することの是非について確かでなかったこともあり、みずからいらぬ苦労を招いてしまった。

25日の午後4時過ぎに北京の首都国際空港に到着。Airport Expressと地下鉄を利用し、booking.comで予約しておいたHappy Dragon Hostelに向かう。地下鉄東四駅近くのこの宿を利用するのも3度目だ。シャワー・トイレ・テレビ付きの個室で、今回は1泊125元(約2100円)。同じ条件の部屋が2015年に168元、昨年春に200元だった。値段がかなり下がっている。オフシーズンの冬期だからか、それとも何か別の理由があるのか。

宿に着いたころには暗くなっていた。近くのスーパーで買ったお菓子(きな粉餅)を夕食代わりとして、早々に就寝することにした。ともかくフライトのキャンセルや遅延もなく、事前説明会に間に合うように北京に入れたことに満足。

翌26日。

説明会は午後4時からなので、北京観光の時間はたっぷりある。が、いずれも1泊か2泊かという短期滞在ながら、すでに10回近く来ている北京だ。まだ行ったことのない南鑼鼓巷を散策するのににとどめた。宿から南鑼鼓巷までは徒歩で20分ほど。運動のために歩いて出かける。古い北京の面影をとどめているといわれる南鑼鼓巷だが、観光客が群がり、土産物屋や食べ物屋が軒を連ねる今風の街路で特に感慨もない。古い家並みの胡同には人力車が駆け抜ける。正午近くの時間帯ながら、川面に氷が張っていた。

南鑼鼓巷


胡同

宿に戻って休んでから、東四駅近くのチェーンレストラン「李先生」で遅めの昼食をとる。豚の角煮とスープ、ライスで34元(570円ほど)。まずは満足できる味だった。

豚の角煮定食

事前説明会が行われるKoryo Toursの事務所は地下鉄東十条から徒歩で15分余り。2015年の秋に一度訪れているにもかかわらず、持ち前の方向感覚のなさから、少し迷ってしまった。

それでも3時半頃には事務所に到着。旅行代金の残額をユーロの現金で支払ってから、今回のツアーのガイドとなるイギリス人男性Simonの説明を聞く。Simonは在北京18年、訪朝歴170回のベテラン。Koryo Toursのオーナーではないが、ボス的存在(general manager)だ。

ツアー参加者は9名(当初は10人だったが、1人が直前でキャンセルした)。以下、簡単に紹介しておこう。

CorrieとNancyeの夫妻。
オーストラリアのメルボルンに住んでいる。訪朝は2回目。

Polly(女性)
イギリスのロンドンから。広告代理店勤務。初の訪朝。

Ayesha(女性)
インド出身(タミール人)。香港在住だが、現在はソウルで韓国語を学習中。Pollyの友人。5度目の訪朝。

Vikoriya(女性)
中国在住6年近くのウズベク人。母国語はロシア語。沿海州からウズベキスタンに移住してきた朝鮮人を祖父とする。姓がKimなのはそのため。初の訪朝。

Tom(男性)
ベルリン在住のイギリス人。5度目の訪朝。

Afzal(男性)
今回のツアーの最年長で、82歳。パキスタンのパンジャブ地方の出身だが、ロンドンに移住して51年になる。2度目の訪朝。

Edgar(男性)
ブラジル人。サンパウロ在住。初の訪朝。

性別、国籍、訪朝歴と、すべてにバランスのとれたグループといえよう。

Simonの説明に特に目新しい点はなかった。ただひとつ、平壌から羅先までの36時間の列車の旅では食堂車もなく、食事も提供されないとのこと。食料は平壌の光復商業センター(スーパー)で買い込むことができるが、北京で用意して持ち込んだほうがよいとのアドバイスがあった。

説明会も終わり、宿がある東四駅に戻る。駅近くのはやっていそうな食堂で夕食。24元の牛肉麺。私にはちょっと辛すぎた。食後、スーパーに立ち寄り、Simonのアドバイスに従ってカップヌードル4個と若干のお菓子を買い込んでおく。

明朝は10時にKoryo Toursの事務所に集合して、バスで空港に向かうことになる。直接空港に行くほうが楽なのだが、運動のために私も事務所まで出向くことにした。