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2021年7月2日金曜日

Emile Zola: L'Assommoir(居酒屋)

著者:Emile Zola

刊行:1876年

評価:★★★★★

Kindle版(無料)

2021年6月27日読了

タイトルのL'Assommoirは仏和辞書によると「【古・俗】(安酒を飲ませる)酒場.居酒屋」という意味だが、この小説では主人公夫婦行きつけのパリの安レストラン兼酒場の屋号を指す。つまり固有名詞だ。日本では「居酒屋」という表題が定着している本書だが、今時の感覚からするとちょっとそぐわない。言葉が内包する意味は時代とともに変わる。izakayaとして外国に紹介され、少なからぬチェーン店も存在する平成や令和の「居酒屋」は本書の内容や雰囲気とはかけ離れている。昔風の「酒場」としたほうがしっくりと来る。

苦労しながら読んだ。ストーリーが複雑なわけでもなく、内容が難解なわけでもない。未知の単語が多すぎるのだ。その多くが古い表現や俗語で、辞書を引いても載っていない。写実主義のゾラらしく、洗濯屋、ブリキ工、鍛冶屋などの労働現場、結婚式をはじめとする祝いの場での飲み食いとどんちゃん騒ぎ、安アパートの内部が事細かく描写されるが、その半分も理解できず、ただ単語を目で追うだけというありさまだった。本書より10年以上前に刊行されたレ・ミゼラブルのほうがはるかに読みやすかった。したがって「読了」と言うにははばかられるが、あえて仏語で読むことで、邦訳や英訳にはない生々しい雰囲気を感じられた(と強弁しておこう)。

主人公はジェルヴェーズ (Gervaise) という女性。息子2人を連れて愛人(ランティエ)と一緒にプロバンスからパリにやって来たが、ランティエは彼女を捨てて別の女のもとに走る。幸い、ブリキ工として働く実直な男(クーポー)に求婚され、新しい世帯を設けて、娘(ナナ)も生まれる。

しかし幸せは長くは続かない。クーポーが仕事中に屋根から転落して働けなくなったのだ。怠け癖がついたクーポーは傷が癒えたあとも仕事には行ったり行かなかったり。酒浸りになり、妻や娘に暴力を振るうようにもなる。おまけにクーポーはこともあろうにジェルヴェーズの元愛人のランティエを自分たちの住居に連れ込み、ともに住むことを許してしまうしまつだ。

そんな中でもジェルヴェーズは洗濯屋を開き、何人かを雇って懸命に働く。このころが彼女の絶頂期だったかもしれない。だが夫の怠け癖と酒癖は直らず、洗濯業も傾きはじめる。仕事をおろそかにするようになったジェルヴェーズは、夫を探しにでかけた飲み屋で勧められるままに酒を飲み、その味を覚えてしまう。

あとは転落の一途だ。夫のクーポーは精神病院に入院させられ、そこで狂い死にする(この狂い方の描写もすさまじい)。その後を追うように、ジェルヴェーズもひっそりと息を引き取る。

救いのないストーリーだ。こうした悲劇はジェルヴェーズだけのものではない。その隣人や知人の多くも同じような問題を抱え、同じような悲劇に巻き込まれていく。酒と暴力と貧困。これらが互いに因となり果となり、悪循環を繰り返す。この風景が19世紀中葉のバリをどこまで忠実に写しているのかはわからない。しかし150年後の現代、フランスのみならず世界各地で同様の悲劇が形を変えて繰り返されていることを思えば、絵空事ではないことだけは確かだ。

いくつか忘れられない場面がある。ジェルヴェーズと同じアパートに住む幼い少女ラリー(Lalie)は妹と弟の面倒を見ながら、酒乱で乱暴な父親と一緒に暮らしている。ジェルヴェーズはなにかとラリーを気にかけ、少女に暴力をふるう父親に体を張って抗議する。しかし、ラリーは父親をかばい、擁護する。そのけなげさが痛ましい(最後には父親の暴力がもとで死ぬことになる)。ある晩、酒に酔って帰ってきたジェルヴェーズは廊下でラリーに出会う。泥酔状態のジェルヴェーズを無言のまま見つめるラリーの目。失望なのか、憐憫なのか、軽蔑なのか、複雑な眼差しだ。

もうひとつ。ジェルヴェーズの娘のナナは幼いときから我が強く、近所のガキ大将といったところだった。やがて思春期に達したナナは近所の同年代の少女たちを引き連れてパリを練り歩く。この様子が「失われた時を求めて」の第2篇「花咲く乙女たちのかげに」でジルベルトたちの一団が登場する場面を想起させた。一方は「不良少女たち」と言ってもいい労働者階級の娘たちであり、他方は豊かな中産階級の娘たちだという違いはあるが、どちらも颯爽としており、華やかで、絵になる。ナナはゾラの後の作品「ナナ」では高級娼婦として登場する。

実はL'Assommoirの前に、同じくゾラのGerminal(ジェルミナール)を読むつもりだった。だが4、50ページほど読んだところで挫折してしまった。鉱山での労働の様子がまったく頭に入らなかったからだ。L'Assommoirがこれほどおもしろいなら、Germinalもおもしろいに違いない。傍らに英訳を用意してでも、もう一度挑戦したい。

2021年6月22日火曜日

Elias Canetti: Die Fackel im Ohr


著者:Elias Canetti

刊行:1980年

評価:★★★★☆

2021年6月9日読了

1981年にノーベル文学賞を受賞したElias Canetti(エリアス・カネッティ)による自伝3部作中の第2部。タイトルのDie Fackel im Ohrは英訳ではThe Torch in My Ear、邦訳では「耳の中の炬火」となっている。

第1部のDie Gerette Zunge(救われた舌)を読んだのはいつだっただろうか。20年くらい前になるかもしれない。おもしろかったいう印象は残っているが、内容はほとんど忘れている。第2部の本書は当然第1部に続くものであり、第1部が前提となる。したがって、Die Gerette Zungeを読んでいないと(あるいは私のように忘れてしまっていると)不可解な部分も若干出てくる。といっても、本書のコアの部分は第1部の知識がなくても十分に理解でき、楽しめるだろう。

Elias Canettiはスペイン系ユダヤ人としてブルガリアのルセに生まれた。母語はラディーノ語(古いスペイン語)だが、幼いころイギリスに移住し、フランスやオーストリア、スイスにも滞在経験があることから、英語とフランス語、ドイツ語にも通じていた。小説をはじめとする作品はすべてドイツ語で書かれている。ユダヤ人ではあるが、その意識はあまり強くない。あえてアイデンティティを求めるなら、「ヨーロッパ人」というのが一番ぴったりとするだろう。この点、同じくユダヤ人ではあるが、ヨーロッパを強く意識していたシュテファン・ツヴァイクと共通する。

本書がカバーするのは1921年から1931年までで、著者の16歳から26歳にかけての10年間だ。場所はフランクフルトとウィーン、それに旅行で訪れたベルリン。なかでも大学時代を過ごしたウィーンが中心となる。大学では化学を専攻するが、これは「実学」を望む母親に妥協した選択であり、著者の関心は「社会」(とりわけMasse=大衆、民衆)と「文学」にある。

母親との確執は本書の柱のひとつだ。父親は早くして亡くなっており、病弱な母と息子3人(著者と2人の弟)で第一次大戦後のフランクフルトとウィーンを生きる。母子家庭ではあるが、父親の遺産もあり、生活にゆとりがないわけではない(ここらへんのことはDie Gerette Zungeに記述されていたのであろうが、私の記憶からは飛んでいる)。母親は相当の教養人で、エリアスに大きな影響を与えていた。エリアスにドイツ語を徹底的に叩き込んだのも母親だ。しかし、第一次大戦後のインフレの中、ドイツやオーストリアでの生活はそう容易ではない。母はお金を気にするようになり、子供たちも節約を求められる。精神生活よりその日の暮らしが重要になってくるのだ。

著者はこれに強く反発する。ときには母親に怒りをぶつけ、ときには母親を欺しながら、母親からの独立を実現していくのがこの時代の著者だ。時代環境、家庭環境を考えれば、お金にせちがらくなった母親を責めるのは酷なことだ。もっとも母親を客観視し、距離とシンパシーをもって見ることができないのも若さの証かもしれない。

両次大戦間のウィーンは私にとってもっとも興味のある時代のひとつだ。1910年から1930年頃までのウィーンは私にとってはマーラーの音楽であり、ウィトゲンシュタインやウィーン学団(カルナップなど)の哲学であり、私の20代の精神世界そのものだった。

著者は哲学にも興味を示しているが、ウィーン学団は素通りされている。代わって著者を支配したのはカール・クラウスだ。本書のタイトル「Die Fackel im Ohr」もクラウスが創刊した雑誌「Die Fackel」(炬火)からきている。カール・クラウスの影響力がどれほど大きかったかは、この時代について書かれた多くの本に証言されている。文筆でもさることながら、特にウィーン人を魅了したのは彼の講演だったらしい。

カール・クラウスは今日ではあまり読まれていない。私もまったく読んだことがなく、彼についての評価は控えるしかない。

本書は処女作「Die Blendung」(眩暈)の構想が徐々に固まり、カネッティが小説家としてスタートする前夜で終わっている。Die BlendungはDie Gerette Zungeよりももっと前に読んだが、内容はほとんど覚えていない。

本書はそうすらすらと読める本ではない。ところどころでひっかかり、二度、三度を読み返すことが必要になる(読み返してもわからないケースも少なくない)。もちろん私のドイツ語能力の問題だが、それだけではなく、内容自体がむずかしいこともある。それでも、若き著者が出会う有名無名のさまざまな人々、第一次大戦後のドイツとオーストラリアの混乱などが生き生きと描かれてる本書は、多少の難しさに直面しても、最後まで興味深く読み進めることができた。