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2015年12月30日水曜日

ブルキナファソ2015 12月15日(ワガドゥグ到着)

14日の夜7時30分に伊丹空港を発ち、羽田、パリを経由して、ブルキナファソの首都ワガドゥグの空港に降り立ったのが12月15日夜の7時過ぎ。入国審査は特に質問もなく、指紋の採取だけで終了。到着ロビーでとりあえず100ユーロだけを両替する。西アフリカの旧フランス植民地国はなべてCFAという通貨単位を採用している。「セーファ」と発音するが、現地では「フラン」という呼称が一般的だ。1ユーロが655CFAと固定されており、どこで両替しても大差はない。

空港の外に出るとすでに暗くなっていた。発展途上国の空港では飛行機から降りてきた客にタクシーの客引きが群がるケースが多いのだが、ここでは外に出ても客引きもタクシーも見あたらない(到着ロビーには客引きが数人いたようだ)。空港の職員らしき人に頼んで、タクシーの運転手を呼んできてもらう。

泊まるところはカテドラル内にあるミッション・カトリックに決めていた。ネットで探索して見つけ出した宿で、予約はしていない。Lonely Planetに記載されている宿は最安のホステルでもシャワー・トイレ共用のシングルで8000CFA(1600円)と高すぎる。ミッション・カトリックの場所はカテドラルの敷地内ということもあり、タクシー運転手はもちろん、ワガドゥグの住人なら誰でも知っているようだ。ブルキナファソのタクシーはメーター制ではなく、乗る際に値段を交渉する。ミッション・カトリックまでの料金を聞くと、3000CFA(600円)とのこと。Lonely Planetに書いてあった空港から市内までのタクシー料金と同じだ。

タクシーは20分もかからずにミッション・カトリックに到着した。シャワー・トイレが外にあるツインの部屋で1泊4000CFA(800円)。Lonely Planetに記載されているホステルの半額だ。朝食はオプションで1000CFA(200円)と高めだが、ついでに申し込んでおいた。2泊と2朝食分の合計10000CFAを支払う。Wifiは通じているが、利用には300CFAのcontributionを支払う必要があった。部屋の中ではWifiはつながったり、つながらなかったり。ちゃんと利用するには中庭に出る必要があった。中庭に出ても速度はままならず、Economistのnew issueをダウンロードすることはできない。動画を見るのもつらい。まあこのくらいがちょうどいいかもしれない。海外に出てまでネット三昧の生活というものどんなものか。メールをチェックできれば十分だろう。しかし、地元の人たちにとってはフラストレーションのたまる環境だ。

宿泊した部屋

蚊帳はあったが、蚊はいなかった。2万円も出して購入したマラリア予防薬の出番もなさそうだが、念のために飲んでおく。疲れていたのだろう。9時過ぎには寝入っていたようだ。

2015年12月29日火曜日

ブルキナファソ2015 経緯と準備

2009年12月にマリを旅行した。例によって9泊10日の短い旅で、まずバマコ、セグ、ジェンネを訪れた。次の訪問先はモプティを起点とするドゴン地域となるのが自然な流れで、そのための時間的余裕もあったのだが、あえてモプティには行かなかった。代わりに、いったんバマコに戻り、バマコから西にバスで5、6時間ほどのキタ(Kita)という観光とは無縁の町に行った。バマコ、セグ、ジェンネでの自称ガイドの攻勢に辟易していたからだ。おそらくモプティやドゴンでも同じようなうっとうしい思いをするに違いない。

特に見どころもないキタへ行ったのはこうした事情からだが、この選択は正しかったように思う。キタは、バマコ、セグ、ジェンネとはまるで異なる国だった。道行く人々の半数くらいが私に「Bon jour」と挨拶してくる。物を売るためにではない。どこかを「ガイド」するためでもない。ただの挨拶であり、裏には何もない。たまたま入った食堂で働いていた少年は私に「フランス語の勉強を助けてほしい」と言う。「なんとかフランス語でやっていける(se debrouller)が、学校へ行っていないからまだまだ勉強する必要がある。助けてほしい」というわけだ。もとより私には彼を助けるほどのフランス語の能力があるわけではないが、日本の住所を書いたノートを渡しておいた。帰国してかなり経ってから彼から写真入りの手紙が来た。話せても字は書けないはずだから、おそらく誰かに代筆してもらったのだろう。「助けてもらいたい」と言われたときには、お金でもせびられるのかと思ったが、その種のリクエストは一切なかった。

キタに行かなければ、マリという国を誤解していたかもしれない。喧噪と商魂だけでマリを判断していたかもしれない。

マリのKita(2009年12月)

さて、ブルキナファソだが、私には国全体がキタのような場所という勝手な思い込みがあった。「ブルキナファソはマリの田舎」というイメージを勝手につくりあげていたのだ。ブルキナファソに関するLonely Planetの次のような記述もこの思い込みに力を貸していた。

”the country has few iconic calling cards. So why does it invarariably win the hearts of travellers? the people. The Burinabe are the country's greatest asset. They're disarmingly charming and easy going. Wherever you go, you'll be greeted with a memorable bonne arrivee (welcome). It's this genuine welcome that makes travel in Burukina Faso such a delight."

「観光カードは少ないが、人がいい。」まさにキタのような場所ではないか。

こうした事情から、マリ旅行以来、いつかはブルキナファソを訪れたいという希望が宿った。ネックとなったのは旅費だ。現地の滞在費はしれている。しかし、西アフリカとなると航空運賃がかさむ。ブルキナファソまでの航空運賃をおりにふれてネットでチェックしていたが、いつも25万円を下ることはなかった。

11月の中旬、ソマリアのモガディシオ行きをコスト高(2泊3日で30万円)で断念し、冬場の旅行先として長年心に引っかかっていたブルキナファソへの航空運賃を改めて調べてみた。するとエールフランスで大阪から18万円ちょっとのチケットがある。さっそくエールフランスのサイトからチケットを購入した。

大阪発といっても行きは伊丹→羽田→パリ→ワガドゥグ(ブルキナの首都)、帰りはワガドゥグ→パリ→成田→羽田→伊丹という、入り組んだルート。だが、パリや成田で1泊する必要もなく、効率はそう悪くない。

あとはビザ。ビザはアライバルでも取れるかもしれないが、日本であらかじめ取得しておいたほうが無難だ。招待状やら宿の予約が不要なので、ブルキナファソのビザは難しくない。郵送でも可だから、ビザ代行会社に依頼する必要もない。ちょっとやっかいなのはブルキナまでの航空券のコピーか必要なこと。ほんとうはビザが確定してから航空券を購入したいところだが、やむをえない。ビザの代金は9000円だった。

11月の終わりに申請したビザは1週間足らずで受け取ることができた。こうして12月14日19時30分伊丹発の羽田行きのJAL便を待つばかりになった。羽田では翌日0時30分発のパリ行きエールフランス便に搭乗することになる。

「ブルキナファソはマリの田舎」という私の思い込みがどこまで通じ、どこで砕けるか、おいおいわかってくるだろう。

2015年12月13日日曜日

東チベット2015 5月12ー15日(再び成都へ)

昨晩泊まった宿。外国人を宿泊させる許可を得ているはずもなく、泊まる際にパスポートの提示も求められなかった。デポジット(押金)もなし。したがってチェックアウトの手続きもなく(宿の女主人は別の建物に住んでいるようだった)、誰とも会わずに、ただ鍵を置いて宿から出た。バスターミナル近くの昨晩と同じ安食堂で朝食をとり、9時発のバスを待つ。

バスはほぼ定刻どおりに出発し、雪をかぶった壮大な山々の間をくねくねと曲がりながら成都に向かう。今日も道は悪いが景色はいい。途中、昼食のために休憩。麺にスープをかけただけの素朴な食事だが、意外においしい。

丹巴から成都へ

バスで東チベットを行く

成都に着いたのは夕方の6時ごろ。丹巴から9時間かかったわけだ。初日と同じ成都老栄国際青年旅舎に宿をとる。予約はしていなかった。夜遅く着くわけではなく、ドーミトリーならフルということもないだろうとふんでいたからだ。4ベッドのドーミトリーは1泊50元、8ベッドは40元。4ベッドのほうを選び、3泊することにした。ドーミトリーだが、12日と13日は私ひとりで、他の3つのベッドは空いていた。

老栄国際青年旅舎(英語名はHello Chengdu International Youth Hostel )はもともとシンガポール人男性と日本人女性のカップルが立ち上げたゲストハウスだ。オーナーはすでに変わっているが、現在も日本語をしゃべるスタッフがいて、日本人の宿泊客も多い。といっても日本人が大半を占めているわけではない。客のなかで一番多いのはなんといっても中国の若者たち。Lonely Planetで推薦されていることから、欧米人も少なくない。私が宿泊したときには日本人は7、8人いたようだった。彼らとは食事を一緒にする機会もあった。

12日の夜から帰国日(15日)の朝まで、成都でのんびりと過ごした。東チベットへの旅は終了しているので、特に何をしたいというわけでもない。暇つぶしにパンダ繁殖研究基地、錦里、人民公園などを訪れた。人民公園ではさまざまな集団が歌と踊りを披露していた。ちょっとした規模の公園なら中国のどこでも見られる光景だ。やっているのも見ているのも主として中高年で、若者にはあまり人気がない。以前ウルムチのドーミトリーで同室だった中国人の青年は「あんなもののどこがおもしろいのか」と言っていた。私はこうした素人芸のファンだから、それなりにおもしろかった。だが、成都のそれは、スケール、スキル、バラエティにおいてウルムチのものより劣っているように感じた。

パンダ繁殖研究基地

錦里

人民公園のパフォーマンス

最後の14日の夜も4ベッドのドーミトリーの中は最初は私ひとりだった。ところが夜も10時を過ぎ、消灯して寝ようとしていると、ドアをノックする音がする。ドアを開けると、中国の青年が入ってきた。この青年がなかなかおもしろかった。英語もしゃべれる。ベッドの端に座って小一時間話した。四川省の北川市から来た銀行員とのこと(北川は2008年の四川大地震の震源地に近い)。「中国銀行か、それともABC(中国農業銀行)か」という私の問いに、「どうしてそういう大きいところばかり挙げるのか。もっと小さい銀行だ」と言う。

中国はGreat Fire Wallを張り巡らせてネットをコントロールしている。ネットに接続してもGoogle、Facebook、Twitter、Youtubeなどにはアクセスできない。FC2もだめ。Yahoo、朝日新聞、読売新聞などにはなんとかアクセスできる。このファイアウォールはVPNを利用すれば簡単にかいくぐることができた。「できた」と過去形にしたのは、今年に入ってからVPNの利用が難しくなったからだ。

だが、北川市から来た青年のスマートフォンはこの規制を回避し、どこにでもアクセスできるようになっていた。青年によると「ちょっとしたテクニックが必要」とのことだが、どんなテクニックかは聞いていない。青年のスマートフォンを使って、Youtubeの私のチャンネルを紹介したり、「蒼井そら」なるAV女優のTwitterを見たりした。蒼井そらのツイートを翻訳してくれと頼まれたが、「お好み焼きは関西ではなく大阪のもの」といった、翻訳不可能な内容だった。宗教ではなく科学を信じるというこの青年、ファイルの保管やアルバム、メールなどにすべてGoogleのサービスを利用しているという。

私「それは危険だ。いつかGoogleにコントロールされてしまうぞ。」
青年「Googleにコントロールされるほうが、政府にコントロールされるよりましだ。」

翌日15日、仕事で成都に来ていた青年は私より早く部屋を出た。
私も朝のうちにチェックアウトして、ゲストハウスに手配してもらったタクシーで成都空港に向かう。11時30分発南京経由の関空行きの便を待つ間、関西へ観光旅行に出かける一家と知り合った。若い夫婦と3歳くらいの息子、奥さんのほうの母親の4人連れだ。夫婦はどちらも英語をしゃべれたが、どちらかというと奥さんのほうが上手なようだった。飛行機の出発が遅れたこともあり(中国ではよくあることだ)、この夫婦とはかなり長い間話した。「中国と日本の関係がよくないにもかかわらず、四川省の人たちは親切だった」という私に対し、「悪いのは軍隊で、一般の人々は悪くない」と言う奥さん。軍隊というのが中国の軍隊なのか日本の軍隊なのかよくわからなかったが、過去の日本の軍隊と解するのがもっとも自然だろう。

一家の行き先は京都、奈良、白浜とのこと(関空から京都に直行するらしい)。「白浜」は中国語では「シラハマ」ではなく「パイピン」と発音する。「キョウト」と「ナラ」は大丈夫だったが、「シラハマ」の発音がちょっとあやしかったので、しばらく発音を指導する。白浜にはパンダが飼われていることを彼らから聞いてはじめて知った。パンダの本場の成都からわざわざパンダを見に行くのもなんだかなあ(もちろん温泉が目的で、パンダは付録だろうが)。

遅れて出発した飛行機だが、関空には定刻どおりに着いた。入国審査の前で成都の一家と別れた。ちゃんと京都の宿までたどり着いたかな。

2015年12月9日水曜日

東チベット2015 5月11日(丹巴)

朝6時30分のバスで丹巴(ダンバ)に向かう。マルコムから色達ほどではないにしろ、甘孜から丹巴へ向かう道も相当の悪路だった。ところどころで土砂がずり落ちたり、ずり落ちそうになっている。しかし車窓からの風景はすばらしかった。壮大な山々と点在するチベットの旗や家屋。見ていて飽きない。

景色はよいが

悪路

丹巴には2時半頃に到着した。バスを降りて歩き始めると、中年の女性が「ハロー」と追いかけてくる(英語はこの最初の一言だけだった)。「住宿」の誘いだ。1泊60元とのこと。誘いに乗ることにした。宿はバスターミナルのすぐ近くにあった。看板もないただのビルの二階。しかし部屋はツインでかなり大きく、シャワーとトイレ、テレビも付いている。Wifiはない。

丹巴には1泊だけして、明日は成都へ戻るつもりだ。まずバスターミナルで明日の成都行きのバスの切符を買う。成都までは何本もバスがありそうだ。初発のバスは満席だったので、次の朝9時のバスにした(108元)。

午後3時を過ぎたかなり遅めの昼食をチベット料理店でとる。肉料理とビール。肉料理は「不辣」(辛くない)でお願いした。久しぶりのビールだったが、残念ながら冷えていなかった。

丹巴で1泊にとどめたのは、ラルンガルコンパを見たことで今回の旅行の目的は達したと感じていたからだ。丹巴はいわば付録のようなもので、街の様子をちょっと見ればいいと思っていた。これは失敗だった。時間的には余裕があったのに(このあと成都で3泊もすることになる)、もったいないことをした。帰国後に調べてわかったことだが、丹巴はギャロン・チベット族の中心で、近郊の村にこそ見どころがある。美人谷などにも簡単に行けたはず(若い美人は成都や北京といった大都会に出てしまっており、高齢者しか残されていないともいわれているが)。ちゃんと調べておけば、チャン族の桃坪村にも行けたかもしれない。

ともあれ丹巴の街を散策する。丹巴は標高1800メートルほどとのことで、坂道を歩いても息が切れるようなことはない。ギャロン・チベット族のものか他のチベット族のものかは私は判別できないが、女性の多くは民族衣装を着用している。チベットらしい帽子をかぶっている男性も少なくない。川沿いに広がる街は小さく、小一時間で端から端まで歩ける。

丹巴

民族衣装1

民族衣装2

民族衣装3

丹巴のメインストリート

やがて日が暮れてきたので、バスターミナルの近くの安食堂で安い夕食をとり、宿に戻った。

2015年12月8日火曜日

東チベット2015 5月10日(甘孜2)

成都を出てからあまりよく眠れない日が続く。高山病の症状には不眠もあるらしい。吐き気や頭痛といった症状はまったくないが、坂道で息切れがしたことと併せて、ひょっとしたら軽い高山病にかかっていたのかもしれない。

しかし今日は移動する必要もなければ、特にこれを見るという予定もない。ゆっくりとベッドから抜けだし、街に出る。軽い朝食をすませ、まずは丘の頂上にある甘孜寺を目指す。家具の製造・販売をしている店が建ち並ぶ通りを抜けて丘のふもとまで着いた。はるか上にお寺は見えるが、どこから上がっていいのかわからない。近くにいる人に聞くと、お寺に通じる細道まで連れて行ってくれた。

甘孜寺を目指す

お寺は長い長い石段の上にあった。何段あっただろうか。100段や200段はゆうに超えていたように思う。ラルンガルゴンバに比べれば体はずいぶん楽になっていたが、それでも標高3400メートルの高地でこの長い石段を登るのは容易ではない。ハアハアと息切れがする。休みたくなる。上からトントンと段を降りてくる少女がこちらに笑いかけ、「累吗?」(疲れる?)と聞く。「累了」(疲れた)と答え、さらに上を目指す。

寺院に通じる長い石段

やっと着いた。4、5人の若いチベット僧がたむろしている。中学生か高校生くらいの年齢だ。そのうちのひとりが私に英語で「What is your name?」と聞くので、名前を名乗って英語で会話を続けようとしたが、どうもこちらの言うことが理解できないようだ。「What is your name?」で行き詰まりって後が続かないという経験は他の国でもあった。これが学校で最初に教えてもらうフレーズなのだろうか。

若い僧1

 若い僧2

丘の上から甘孜の街を見渡す。街を取り囲む山々の頂上は雪をかぶっている。寺の中に足を踏み入れると、僧が何かを説明してくれるが、残念ながら中国語なので理解できない。観光客らしき姿はほとんど見あたらなかった。

甘孜寺

甘孜を見渡す

丘を降りて再び甘孜の街に出る。のんびりとした通りの様子を動画に収めながら、ぶらぶらと歩く。あとでこの動画を見ると、7、8歳の少女が道端でズボンを下ろして用を足しているシーンまで映っていた。

そうそう、明日のバスの切符を購入しておく必要がある。次の目的地は丹巴(ダンバ)に決めていた。街中にあるバスターミナルを訪れ、朝6時半発の丹巴行きの切符を購入(104元)。

昼食は宿(ヒマラヤ賓館)の近くにあるチベット料理店でとった。昨日から目を付けていた料理店だ。昼時だというのには私以外に客は誰もいない。ヌードルと肉の炒め物を注文した。私にとっては量が多すぎた。味ももうひとつだった。客がいないのもこのためか。値段は忘れたが、高くもなく安くもなくというところだった。

チベット料理

午後も街の散策を続ける。街の中にも小さなチベット寺院があり、その周りで子供たちが遊んでいた。川沿いには小さな露店が並んでいる。川床は捨てられたゴミでひどい状態になっていた。
メインストリートに理髪店があったので、散髪をすることにした。洗髪も含めて30元。カットをどのようにするかと聞かれたが、私の入門レベルの中国語では返答がむずかしい。なんとか「一点儿」(ちょっと)という言葉が出てきた。

甘孜

ゴミが目に付く川床

夕食は餃子にした。もちろん水餃子だ。いつもなら大(たとえば15個)、中(12個)、小(9個)のいずれかを選択して注文すれば終わりなのだが、このときはスープを入れるかどうか聞かれた。スープを入れるとはどういうことなのか。興味もあり、入れてもらった。醤油と香辛料だけよりこのほうがおいしい。料金は壁のメニューに書いてあるとおりで、入れない場合と同じだった。

スープに入った水餃子

宿に戻り、「明日は早朝5時45分にチェックアウトする」との旨を筆談で伝えておく。

2015年12月6日日曜日

東チベット2015 5月9日(甘孜1)

ラルンガルコンパにもう1泊するという選択肢もあったが、なるべく早く成都に戻っていたという、いつもながらの心配性が出てきて、今日のうちに次の目的地である甘孜(ガンゼ)に向かうことにした。バスの不通などで万一2日も3日もどこかで足止めをくうようなことがあると困ると思ったからだ。中国の長距離バスの信頼性に問題があるとしても、ここまで心配するのは行き過ぎだったかもしれない。せいぜい1日余裕を見て、帰国の前々日に成都に着いていれば十分だっただろう。

朝の9時に宿を出て、色達行きの乗り合いタクシーを探す。場所を間違えて、しばらく無駄に待ったが、漢族らしい僧が正しい乗り場にに案内してくれた。色達まで7元。乗り合いタクシーの中は私を除いてすべて若い尼僧たちだった。色達まではせいぜい15分ほど。その15分ほどの間に私の隣の席の尼僧は車酔いで吐いていた。

ラルンガルコンパを離れ

色達に着く

色達に着き、タクシーを降りたとたんに、「ガンゼ、ガンゼ」という呼び込みの声が耳に入る。甘孜行きのタクシーだ。料金を聞くと120元だという。ちょっと高いと思ったが、このタクシーに乗り込み、満席になるまで待つ。これが間違いだった。このタクシー、実は甘孜行きではなく、名前は失念した別の街に着いて、そこでおしまい。私は別の車に移された。別の車には1人の乗客がいるだけ。いつまで待っても席は埋まらず、2時間ほどは待っただろうか。結局タクシーは出発せず、普通の乗用車に同乗して甘孜まで行くことになった。運転手間で話し合いが着いていたのだろうが、料金の追加はなかった。甘孜に着いたときにはすでに7時を過ぎていた。

色達を出発

「甘孜行きか」と確かめて乗ったにもかかわらずこのありさまだ。あとで調べると、色達から甘孜までバスもあるようだった。乗り合いタクシーにしても相場は70元らしい。これをちゃんと事前に調べておくべきだった。ただ、昨日も一昨日もWifiのない宿に泊まったうえ、中国ではGoogleのサービスを使えないので、調べるのもそう簡単ではない。

宿はLonely Planetに載っていたヒマラヤ賓館にした。トイレ・シャワー、テレビ、Wifi付きのツインルームで120元。ちょっと高いが、いい宿だった。チェックインしてから、夕暮れの甘孜の街を散策し、夕食をとる。また回鍋肉を注文してしまった。

ヒマラヤ賓館の看板

この日はほとんどの時間を無駄の多い移動に費やしたが、ドライブそのものは快適だった。天気もよく、東チベットに広がる山々や草原、チベット風の家並みはなかなかの見物だった。同乗していたチベット人の母子も、言葉を交わしはしなかったが私に笑顔を見せてくれ友好的だった。

途中の風景1

途中の風景2

甘孜は標高3400メートル。歩いていても昨日のような苦しさはない。漢族も多いが、チベットのアイデンティティが失われているわけではない。明日が楽しみだ。
 

2015年12月4日金曜日

東チベット2015 5月8日(ラルンガルコンパ2)

ラルンガルゴンバ二日目。
朝、10時頃に金川賓館を出る。幸い今日は好天だ。昨晩一緒だった中国人たちはすでにチェックアウトしていた。

ふもとからラルンガルゴンバの山頂まで乗り合いタクシーを利用するつもりだったが、タクシーらしきものが見あたらない。えい、歩いて行けない距離じゃないし、歩こう。これが間違いだった。昨晩降りるときは比較的楽だったが、バックパックを背負っているうえに、海抜4000メートル近いという高度。とてもじゃない。しかし、一歩踏み出してから引き返すのもしゃくだ。せいぜい3、4キロの道のりだから、そのうち山頂が見えてくるだろう。

ラルンガルコンパ(五明佛学院)に通じる道の入口にある門

30分ほど歩いてもまだまだ先がありそうだ。このころになると、20歩歩いて一休み、10歩歩いて二休みといったありさま。ともかく息が切れる。もう引き返すには遠すぎるところまで来てしまった。乗り合いタクシーか通りかかって拾ってくれないかな。ときどき乗用車やトラクターが通る。苦しそうに歩いているのを見れば乗せてくれるのではないか。

そんな都合のいいことが起ころうはずもない。よろよろになりながら2時間以上かけて、やっとラルンガルゴンバの僧房が密集している中腹にまでたどり着いた。

ようやくここまで来た

昨晩曇り空のもとでくすんでいた光景が今日は晴れた空をバックににくっきりと浮かび上がる。


ここで偶然昨日の台湾女性2人と遭遇した。彼女たちはこれから鳥葬を見に行くらしい。「一緒に行かないか」と誘われたが、私は鳥葬は見ないことに決めていた。それに今から鳥葬に行くには疲れすぎていた。

台湾人女性たちの誘いを断り、まず宿を決める。中腹から山頂へ向かう道の入口にある喇荣扶貧会招待所という宿だ。トイレ共用、シャワーなし、Wifiなしの個室で70元。宿が決まったら、次は食事だ。気がつけば朝から何も食べていなかった。宿から近い食堂に入り、麻婆豆腐を注文する。麻婆豆腐とライスで20元もしなかった。安いのはいいが、味のほうも値段に見合っていた。肝心の豆腐がまずかった。

空腹が満たされたところで、やっとラルンガルコンパを見て回る余裕が出てきた。ぶらぶらと山頂の寺院に向かって歩く。「ぶらぶらと」というのは正しくない。やはり高地は厳しく、坂道をハアハア、ゼイゼイ言いながら、休み休み登っていったのが実情だ。ラルンガルコンパには何人くらいの僧が住んでいるのだろうか。数千人、あるいは一万人に近いのだろうか。チベット族だけでなく、漢族の僧もいる。遠くはシンガポールから来ているともいわれている。尼僧も多い。すれ違う僧が「ニイハオ」と声をかけてくることもある。中国語で「どこから来たのか」と聞かれたりもした。日本からだと答え、握手。


僧たちにとっては学びの場であるだけでなく生活の場でもあるから、店もあれば、小さな野菜のマーケットもある。
野菜市場

やっと山頂に達し、しばし休憩して観察を続ける。僧だけでなく、観光客だろうか一般の人も五体投地をやっている。寺院の裏側には家屋のない、また別の世界が広がる。僧房が建て込んでいる細い道にも入ってみた。

ラルンガルコンパのもう1つの顔

細道

学問をするには若すぎる僧服姿の子供

中国人の観光客は多かったが、日本人や欧米人には出会わなかった。観光地化してから久しいラルンガルコンパだから、世界各地からツーリストが訪れているはずだが、たまたま出会わなかっただけだろう。あるいは出会っても気がつかなかったのかもしれない。

日が暮れてきたので、坂道を下り、宿へ戻った。夕食は同じ宿にいた広東からの青年と一緒にとった。ビュッフェ式のレストランで1人前19元。青年が私の分まで支払ってくれた。
腹をこわしたらしく、夜何回もトイレに行くはめに。よく眠れなかった。

帰国してからラルンガルコンパの印象をまとめた動画を作成した。背景の音楽は成都で購入したチベット音楽のDVDからとった。
ラルンガルコンパ(五明佛学院)
 

2015年12月3日木曜日

東チベット2015 5月7日(ラルンガルコンパ1)

色達行きのバスはほぼ定刻どおり7時30分ごろに出発した。満席に近い。ざっと見たところ、漢族が半分にチベット族が半分といったところか。外国人は私以外には見当たらない(あとでわかったことだが実は台湾の女性観光客2人が同乗していた)。

12時近くになって昼食のための休憩時間がとられた。全員道端の小さな食堂に入っていく。いくつかの料理から好きなものを盛ってもらう方式だ。私が黙々と食べていると、同じテーブルの向かいに座っていた初老のチベット人女性がどこからか湯呑みを持ってきてくれ、無言でお湯を注いでくれた。ちょうど水分がほしいと思っていたところなので、ありがたかった。

小さな食堂で昼食

バスはひどい悪路を走る。これほどの悪路は中東や東南アジア、アフリカでも経験したことがない。一番うしろの座席に積まれていた荷物から水が漏れ始め、バスの通路に流れてくる。通路を挟んだ隣に座っていたチベット人男性の衣服がこの水で濡れてしまう。バスの中は騒然とする。しかし、水の漏れが止まると、「これは誰の荷物だ」と責任を問う声もなく、騒ぎはおさまる。ここらへんも実におおらかだ。中国人はマナーをあまり気にかけず、他の人がマナーに違反することにも寛大なように思える。マナーやエチケットにやたらとうるさいより、こっちのほうが私に合っている。

私の隣には四川省の青年が座っていた。数珠を手に持ち、車内に流れるお経音楽に合わせてハミングしている。仏教徒とのこと。英語はまったく通じなかった。

マルコムからラルンガルゴンバへのバスの中

バスは色達の手前のラルンガルゴンパのふもとに夕方の5時半ごろ到着した。外はまだ明るい。隣の四川省の青年が「みんなで一緒にラルンガルゴンバに行こう」と誘いかける。「みんな」とは私と青年、それに私の後ろの席にいた広東省の男性2人だ。私も彼らにつきあってラルンガルゴンパで降りることにした。バスを降りると、バスに乗り合わせていたひときわ声の大きい女性が我々を案内してふもとの宿(金川賓館)に入っていく。私は彼女も観光客の1人かと思っていたが、実は金川賓館の女主人だった。事情がよくのみこめないまま私もここに宿泊することにした。5つベッドがある部屋だが、私以外には客はおらず(中国観光客3人は別の部屋をとった)、実質的に個室。トイレ共用、シャワーなしで30元。Wifiはもちろんない。宿を決めたところで、中国人3人と私、これに同じくラルンガルゴンパで下車していた台湾人女性2人を加えて、タクシーでラルンガルゴンバまで登ることになった。料金は確か1人あたり10元だったように思う。台湾女性たちと広東省の2人は英語がしゃべれた。これは心強い。

タクシーでラルンガルゴンバの頂上へ向かう

台湾人女性2人はラルンガルゴンパに登ったところで宿をとった。明日のことを考えれば、私もこうしたほうがよかった。

タクシーで頂上まで登った我々の目の前に朱色の建物が密集した壮大な光景が広がる。これらの建物はすべて僧房らしい。頂上には大きな本堂があり、五体投地している僧もいる。いよいよチベットへやってきた。

ラルンガルゴンバの僧房

五体投地

だが、5月初旬とはいえ、夕暮れのラルンガルゴンパは寒かった。ちらちらと小雪まで降り出す。雪がめずらしい台湾人女性たちは「ラッキーだ」と喜んでいたが、私はただ寒いだけ。それに海抜4000メートルに近い高さがきつかった。坂道を登るときに息切れがして、すぐに休みたくなる。ラルンガルゴンパは山の斜面に位置しているから当然坂道も多い。みんなについていくのが苦しくなり、もうギブアップしようかと思っていたやさき、食事をしようということなり、小さな食堂に入った。これでやっと一息つくことができた。注文したのは10元ほどのチベットのヌードルだが、疲れていたこともあり、あまりおいしいとは思わなかった。私が日本から来たことを知った食堂の店員たちが「ほほー、そうなのか」といった反応を示す。

ラルンガルゴンバの食堂で(台湾人女性と四川省の青年)

食堂を出ると、外はもう暗くなっていた。台湾人女性たちはここに宿をとっている。私と中国人2人(なぜか広東省の1人は先に帰っていた)は歩いてふもとの金川賓館まで戻る。30分以上かかったが、下りはそれほどきつくない。宿についたときには9時をまわっていた。

ラルンガルゴンパの1日目はこのようにして終わった。

2015年12月2日水曜日

東チベット2015 5月6日(マルコム)

早朝5時15分に成都老栄国際青年旅舎をチェックアウトした。外はまだ暗かったが、タクシーは宿を出るとすぐにつかまった。茶店子バスターミナルまで28元。前日に宿のスタッフから聞いたとおりだ。5時30分ごろにターミナルに着いたが、まだ開いていなかった。ターミナル前にはすでに2、30人集まっており、朝食の屋台も出ている。おかゆとマントウで朝食をとる。おかゆはそのままではおいしくなく、備え付けの砂糖を入れた。

おかゆとマントウ

ターミナルは6時にオープン。6時30分発の馬爾康(マルカム)行きの切符を買う(118元)。マルコム行きのバスは6時30分から13時30分まで、1日に4、5本あった。よほどのことがない限り、切符は当日でも余裕で購入できそうだ。

マルコム行きのバス

マルコムには午後1時ごろに着いた。まずやるべきことは明日のラルンガルゴンパ行きのバスの切符を購入すること。ラルンガルゴンパに行くにはその少し先の色達(セルダあるいはスーダ)までの切符を買うことになる。ラルンガルゴンバで下車してもいいし、色達まで行って翌日にラルンガルゴンバに戻ってもいい。夜遅く着くようだったら、色達まで行ったほうが宿を探しやすい。

成都からのバスが到着したターミナルと色達行きのバスが出るターミナルは別であり、それぞれ細長いマルコムの街の西端と東端に位置している。歩けば30分以上はかかりそうだ。荷物を抱えていることもあり、タクシーを利用する。色達行きのターミナルに到着すると、タクシーの女性運転手は「(バスは)今天没有」と言う。午後からの色達行きのバスがないことはわかっていた。おぼつかない中国語で「明天の切符を買うつもりだ」と答えた。

切符売り場の窓口には誰もいない。切符売り場の奥の事務所に数人いたので尋ねると、「等一下」(しばらく待て)と言う。待っていると窓口の女性が戻ってきた。翌朝7時20分発の色達行きの切符を購入(83元)。マルコムから色達のほうが成都からマルコムより距離は長いが、料金は安かった。

宿はターミナルの近くにとった。シャワー・トイレ・テレビ付き。Wifiなしの賓館で100元。鍵ももらえない。鍵を要求すると、鍵を渡すとなるとデポジット(押金)が必要とのこと。翌朝7時ごろには宿を出たいので、デポジットを返してもらう手続きもおっくうだ。鍵なしで宿泊することにした。吉林省の延吉でもこうした鍵なしの旅社に泊まったことがある。鍵なしがあたりまえということは、盗難などまず発生しないのだろう。外国人を宿泊させる許可を得ていない旅社や招待所ではこうした鷹揚な(悪く言えばいいかげんな)ところがある。パスポートの提示を求められることもない。

かなり遅めの昼食を宿に近い小さい食堂でとった。回鍋肉(ホイコーロー)。ライスを付けてちょっと高めの25元。まずくはないが、味が濃すぎた。何かのきっかけで女主人と会話になり、日本から来たことを告げると、別のテーブルで食事をしていたチベットの民族衣装のおばさん2人が私に笑顔を向けてきた。いい感じだ。

腹もいっぱいになったところで、マルコムの街を散策。見るべきものは何もない街だと聞いていたが、それなりに趣があり、歩いていて飽きない。ある公的な建物の看板に「阿坝藏族羌族自治州」とあった。ここには羌族(チャン族)も住んでいるらしい。

気象関連の施設の看板

ラルガゴンパや色達はチベット族が多いだけに、中国政府も相当気をつかっており、チベットの政治状況次第で外国人が入れなくなることもある。だから今回もラルガゴンパまで行けない最悪のケースも想定していた。万一行けなかった場合には、同じく四川省にある桃坪村のチャン族を訪れるつもりだった。

といったわけでチャン族には興味があったのだが、詳しい情報は持っていなかった。知っていたのはチャン族もチベット語族に属することくらい。マルコムで見かけたさまざまな民族衣装のなかでどれが本来のチベット族のもので、どれがチャン族のものか、私には判別できない。チベット僧の服は一目瞭然だが。

チャン族、チベット族?


散策を続け、メインのストリートや市場などをぶらつく。

マルカムの市場

マルカムのメインストリート

マルカムの子供たち1

マルカムの子供たち2

夕食は宿の近くの別の食堂でとった。青椒肉絲飯。青椒肉絲とライスが別になっているのでなく、青椒肉絲入りのチャーハンだ。12、3元だったかな。よく覚えていない。中国の食堂ではどうしてもお馴染みの料理ばかり注文してしまう。

2015年11月30日月曜日

東チベット2015 5月5日(成都)

2012年3月に雲南省の元陽、6月に新疆ウイグル自治区のウルムチ、カシュガル、ホータン、2014年4月に貴州省の凱里を訪れた。北朝鮮へ行くついでながら2013年には遼寧省の丹東、2014年には吉林省の延吉も訪れている。元陽のハニ族とイ族、新疆ウイグルのウィグル族、貴州省のミャオ族、そして丹東と延吉の朝鮮族と、どれも少数民族に関係した道行きだ。中国には56の民族があるとされている。漢族以外は少数民族といえよう。これらの少数民族を探訪することは私の旅のテーマの1つだ。

さて次はチベット族だ。チベットというからにはラサを首府とするチベット自治区に行くのが本道なのだが、チベット自治区には許可証なしでは入れない。許可証と得るのに時間がかかるうえ、ガイドを付ける必要もあるらしい。時間的にも金銭的にもこれではきつい。四川省の東チベットになら許可証なしで行ける。ネットで見たラルンガルゴンパの写真から受けたインパクトも大きかった。

ラルンガルゴンパ(喇栄五明仏学院)

東チベット旅行の起点となるのは四川省の省都である成都だ。5月5日、中国東方航空の便で夜の9時40分に成都に到着し、booking.comを通じて予約してあった成都老栄国際青年旅舎にチェックインした。トイレ・シャワー付きのシングルルームで1泊128元。成都にしてはちょっと高めだ。3年前に宿泊した成都駅近くのユースホステルはトイレ・シャワー共同ながらテレビ付きで1泊50元だった。

まず目指すのはラルンガルゴンパだが、標高4000メートルということもあり、バスで一気に行かずに、途中の馬爾康(マルカム)で1泊することにしていた。マルカムは標高2600メートル。高地の薄い空気に体を慣らすにはちょうどいい。一応高山病の予防薬は入手してあったが、利尿の副作用があるから、バスに長時間乗るときにはあまり飲みたくない。

マルカム行きのバスが出ているのは茶店子バスターミナルらしい。受け付けの女性に明朝朝早くチェックアウトすることを告げ、東チベットの地図を購入した(値段は忘れたが10元くらいだったかもしれない)。早朝だからバスターミナルに行くにはタクシーを利用するしかない。朝5時ごろでもタクシーは簡単につかまるとのことだった。

近くの超市で夕食代わりのお菓子を購入し、宿に戻るとすでに12時近くになっていた。明日の朝は早いのになかなか眠れなかった。

2015年11月29日日曜日

北朝鉄道の旅2015 Johnathanから送られてきた写真

ツアー仲間であるベルリン在住のイギリス人Jonathanから今回の旅行の写真や動画を大量に受け取った。私のように1万円そこそこのカメラではないので、街や鉄道沿線、列車内の様子を高画質でとらえている。いくつか紹介しておこう。

清津の幼稚園で
歌や踊りのパフォーマンスを披露した園児たちとOksana。

平壌の地下鉄
車両の上にあがって補修作業をしている。私はこの光景には気づかなかった。覚えがない。

地下鉄のプラットフォームで
地下鉄のプラットフォームには労働新聞が掲示されている。子供たちの表情がいい。

食堂車のキッチン
私はここまでは覗かなかった。料理人は女性で、よく歌を歌いながら料理していた。

車窓から1
似たような写真は私も撮っているが、ここまで鮮明には撮れていない。

清津トロリーバスの中で
車掌と見習いガイドの深。深は金日成総合大学出身。最近のスタイリッシュな平壌女性の典型ともいえよう。

車窓から2
日本では稲刈りは8月下旬から9月上旬にかけてだが、北朝鮮は10月上旬の時点で稲刈りが始まったばかりの様子だった。農耕と運搬に牛は欠かせない。

コンパートメント内の様子1
香港籍の中国人Lloydと私。

コンパートメントの様子2
左からOKsana、Raymond、私。

車窓から3
どこだろう。咸興の近くかな。確かでない。

車窓から4

ここでも牛が。これもどこだかよくわからない。