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2016年9月12日月曜日

アフガニスタン2013 タジキスタンへ戻る

9月23日。

今日はタジキスタンへ戻る日だ。朝8時ごろに朝食を済まし、タジクとの国境へ向かう。宿にタクシーを頼むと20ドルとのこと。来るときは2ドルだったから、これは明らかに高すぎる。20ドルはオフィシャルな価格だ。値切るか、または徒歩で行くという選択肢もあったが、ここは言い値のままタクシーを利用することにした。アフガンに入ってから朝夕食付きの2泊の宿代60ドル以外は一銭も使っていない。アフガン貨幣への両替さえしていない。アフガニスタンのような国を旅行者として訪れたなら、多少はお金を落とすのが礼儀だろう。

写真を撮って貰いたい女の子と撮られたくない女の子

タクシーは8時半頃に国境に到着した。アフガン側の入出国事務所は開いているが、タジク側がまだ開いていないので30分ほど待つ。ここにはアフガンの兵士が30、40名駐屯しており、行進(の練習?)をしているが、どことなく締まりがない。偏見かもしれないが、北朝鮮の中高生のほうがもっとしっかりした行進をするように感じた。

やがてタジク側の入出国事務所もオープンしたので、アフガンを出国してタジクに再入国する手続きを済ます。このときも国境を通過するのは私ひとりだった。アフガン側では例のインターポールの男2人が私の荷物をひとつひとつ調べる。今回は私の許可もなく勝手に私の飴玉を口に入れていた。

タジキスタンへの再入国も問題なかった。タジクの兵士の中にひとり、モンゴロイド系の若者がいたのが目についた。タジク人はほとんどがペルシャ系統だから、こうした東洋系はめずらしい。おそらくタジキスタンには少数のキルギス人も住んでいるのだろう。この若者は私に向かって何か言っていたが、どんなことを言っていたのか忘れてしまった。

タジク側のイシュカシムとホーログをつなぐ道路に出て、10分くらい待つとマルシェルートカがやって来たので、手を挙げて乗車する。途中立ち寄った食堂では同乗の男たちがウォッカを注文し、私もお裾分けに預かった。おそらく彼らもイスラム教徒だろうが、アルコールには抵抗がないらしい。以前フランスで出会ったカザフスタンの女性(司法省の役人とのことだった)との会話が思い出される。モスレムかと聞くとそうだというので、「じゃあ豚肉は食べてないのか」と尋ねる。食べないとの返事だった。さらに「ではアルコールは?」とたたみかけるとと、笑ったまま答えなかった。

この日はホーログに1泊。ひょんなことから民宿に泊まることになった。宿の若い女性とゲストのキルギス人の青年がタジク語でもキルギス語でもなく、ロシア語で話していたのが印象に残っている。

民宿の夕食(ホーログ)

翌朝マルシェルートでカドゥシャンベに向かった。途中、運転手の出身地である村で休憩をとったり、食堂で昼食をとったりしながら、夜遅くドゥシャンベに到着し、運転手に案内されたホテルに投宿した。翌日まる1日をドゥシャンベの観光に費やしてから、イスタンブール経由で帰路につき、このはじめてのアフガニスタン旅行は終了した。

運転手の村でいちじくを食べる

ネットにはイシュカシム滞在時に発生するいろいろなトラブルが報告されている。国境で賄賂を要求された、現地の警察に登録するよう求められた、警察へ出向くもたらい回しにされてなかかか登録できなかった、結構な額の登録料をとられたなどなど。幸い、私はその種のやっかい事には遭遇しなかった。アフガンのイミグレで没収された飴玉4粒の被害で済んだのは運がよかったというべきか。

以下はすでに「アフガニスタン2015 心残りと後日譚」に記載した内容であるが、ここに再掲して結びとしておこう。

イシュカシムから帰国し、ネットで調べているうち、イシュカシムにおける麻薬汚染の深刻さを取り上げた記事を発見した。日系米人の写真家によるその記事は「イシュカシムの成人の半分以上は中毒者」と伝えていた。アフガニスタンでは、機織りなどの過酷な労働を原因とする痛みを和らげるためにアヘンは古くから広く使われていた。だが、内戦が続き、経済が行き詰まる中、そのアヘンやさらにはヘロインが社会の深部にまで度を超して浸透しているのだ。いまやアフガニスタンは世界最大のアヘンやヘロインの生産国であるだけでなく、その最大の消費国でもある。
たった3日間の滞在であるとはいえ、私はいったい何を見ていたのだろう。イシュカシムの牧歌的な風景の裏側にあるもの、平和なたたずまいのすぐ下に潜んでいるものはまったく見えていなかった。

イシュカシムのメインストリート

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