004月18日。
朝8時半に1階のホールで朝食をとり(サンドイッチがおいしかった)、ホテルを出発、新義州を目指す。東林地区から新義州に行くには、舗装されていない道を2時間くらい揺られることになる。だが、出てしばらくして車が故障。修理はかなわず、代替車に乗り換える。このため40分ほどのロスが生じた。こうした予定外のトラブルも北朝鮮体験のひとつだ。
今日は午後4時のバスで北朝鮮を出て、丹東へ向かうことになっている。ただでさえぎっしり詰まったスケジュールがさらに過密になった。このあと何回も「빨리! 빨리!」(パリ、パリ=速く、速く)とせかされるはめになる。
最初の目的地の共同農場は車を降りてしばらく散策した程度。戸外にあるトイレが中国の田舎並みの状態だったことくらいしか印象に残っていない。
朝方降っていた小雨は上がったが、空ははどんよりした雲に覆われている。そんな曇り空のもと、化粧品工場を訪れる。ここでは朝鮮人参を使った春香ブランドの化粧品が製造されている。このブランドは中国人に人気があり、数多く輸出されているとか。経済制裁はここまでは及ばないのだろうか、それともこの輸出にも陰りが見えているのだろうか。日本にいるときには抽象的な意味しか持たなかった「経済制裁」という言葉が現実味を帯びて迫る。
工場のグラウンドではサッカーの試合が行われていた。職場対抗試合といったところか。観衆がやんやと歓声を上げている。マイケルが持参していたPaektu Cultural Exchangeのバナーをビルとブライアンが広げ、歓声と拍手がさらに高まる。
化粧品工場をあとにし、金親子の銅像に全員で一礼を捧げたあと、レストランに入って昼食。食べきれないほど数々の料理が出てくる。魚のフライがおいしかった。
昼食後に向かったのは丹東を望む鴨緑江の岸辺。中国と北朝鮮をつなぐ中朝友誼橋がすぐ間近にあり、丹東側には米軍の爆撃によって破壊された橋も見える。この壊れた橋(鴨緑江断橋)は丹東の観光スポットであり、北朝鮮を垣間見るために多くの中国人観光客が訪れている。2013年には私もこの橋の付近から北朝鮮側を眺めたものだ。北朝鮮側から見る丹東には高いビルが林立している。
続いて歴史博物館を訪れる。古代から現代までのこの地方の歴史がひととおり展示されていたが、ほとんど駆け足で通り過ぎたこともあり、植民地時代の漢字交じりの新聞くらいしか記憶に残っていない。
次の目的地の民族公園のほうはもっと印象的だった。新婚のカップルが写真を撮っている場面に遭遇したからだ。招かれてブライアンがカップルの写真に加わり、周囲から拍手が沸く。「チュッカハムニダ」(お祝いします)という言葉をかけて、この場を去った。
公園にはブランコがあり、チマチョゴリを着た若い女性が腰掛けている。それを押すもう1人の若い女性。朴ガイドが朝鮮に伝わるブランコ遊びを説明する。このブランコの女性は我々向けの演出、つまり「やらせ」だったのだろうか。断言はできないが、その可能性は高い。
最後の訪問先は新義州市本部(본부)幼稚園。これは新義州観光の目玉でもある。本来ならいろいろな教室を見て回るのだが、時間に追われている我々は、金親子の偉大さを注入する教室を覗いただけで、園児たちのパフォーマンスが行われる会場へと急ぐ。
会場にはすでに20人ほどの中国人観光客が待っており、我々の到着と同時に園児たちが舞台に登場する。2人の男女園児が独特の抑揚でパフォーマンスの開始を告げる。女児が朝鮮語で説明し、それと同じ内容を男児が中国語で繰り返す。さらにマイクでも中国語の解説が流れる。完全に中国仕様のパフォーマンスだ。
それにしては中国人観光客の数が少ない。中国人の新義州訪問は丹東からの日帰り旅行がメインで、ガイドによれば多いときには1日1000人くらいになるとのことだった。1000人もが訪れるのは春節や国慶節といった特別な日だろうが、今日は4月18日だから、ローシーズンというわけでもない。ここにも中朝関係の変化が影響を及ぼしているのだろうか。
妙香山旅行社のガイドは20数人ということだ。その大半は中国語ガイドだろう。英語ガイドも中国人に対応できるように中国語を習っているケースが多い。中国からの観光客が干上がったら、彼らが路頭に迷うことにもなりかねない。
さて園児たちのパフォーマンスをどう受け止めればいいのだろうか。「健気」、「不憫」などの言葉が浮かんでくる。しかし彼らを「かわいそう」と思うのは一種の傲慢ではないかという気もする。日本や他の国なら単純に「すごい」とほめられるだけなのに、北朝鮮というだけでどうして憐れみを受けなければならないのか。
園児だけだけでなく、先生たちも演奏と歌を披露する。最後に中国人たちと園児たち全員の記念写真。これで新義州観光の全行程が終了した。園児たちの見送りを受け、4時過ぎに中国人たちと一緒にバスで北朝鮮のイミグレを目指す。
北朝鮮のイミグレは予期していたほど厳しくなかった。すべての電子機器の提出を求められたが、カメラもタブレットもスマホも中身はチェックされなかったようだ。すぐに返ってきたうえ、私のスマホやタブレットはPINでロックされているから、調べようとするならPINを聞いてくるはずだ。イミグレを出て、ガイドたちと別れの挨拶をする。朴ガイドにI'll come backと言ったところ、「今度はいつ来るのか」と聞かれた。Next yearと答えておいたが、平壌とは異なり、新義州はそれほど多くの見どころがあるわけではない。再訪しても同じスケジュールの繰り返しになるだろう。
中国の入国審査はパスポートを渡すだけですんだ。マイケル、ブライアン、ボブそれに私は、丹東鉄道駅を目指して歩く。イミグレから駅までは歩いて10分足らず。ブライアンとボブは北京行き、マイケルは瀋陽行きの列車に乗る。私は丹東で1泊する。「今度また北朝鮮で会おう」と言って彼らと別れた。
丹東の宿は予約していなった。駅のすぐ隣にある丹鉄大飯店を当たってみる。2013年にもここで1泊した。朝食込みで139元(約2100円)とのこと。探せがもっと安い宿があるだろうが、はやく決めてしまいたい。即決した。
部屋で少し休んでから、宿の近くにあるバスステーションに行き、明日の9時30分の大連行きバスのチケットを購入した。2013年とは異なり、現在は丹東と大連を結ぶ高速鉄道が開通しているのだが、調べるのもめんどうだ。
すべての用事が済んだところで、鴨緑江に行き、岸辺を散策する。昼間北朝鮮側から眺めた場所だ。今度は中国から北朝鮮を眺める。
陽もとっぷりと暮れた。丹東は中国と朝鮮語のバイリンガルの街だ。2013年にはなかった新しいフォースとフード風の朝鮮レストランに入り、ビビンバを注文する。冷麺を頼めばよかったとあとで後悔した。今回の旅では一度も冷麺を口にしていなかった。
明日は大連に移動し、1泊したあと、帰国の途につく。今日のうちに大連に発ち、明日帰国というスケジュールも可能だったが、北朝鮮や中国の旅では何が起こるかわからない。ぎりぎりの予定を立てずに、日程に余裕を持たせたほうが賢明だ。
朝8時半に1階のホールで朝食をとり(サンドイッチがおいしかった)、ホテルを出発、新義州を目指す。東林地区から新義州に行くには、舗装されていない道を2時間くらい揺られることになる。だが、出てしばらくして車が故障。修理はかなわず、代替車に乗り換える。このため40分ほどのロスが生じた。こうした予定外のトラブルも北朝鮮体験のひとつだ。
今日は午後4時のバスで北朝鮮を出て、丹東へ向かうことになっている。ただでさえぎっしり詰まったスケジュールがさらに過密になった。このあと何回も「빨리! 빨리!」(パリ、パリ=速く、速く)とせかされるはめになる。
最初の目的地の共同農場は車を降りてしばらく散策した程度。戸外にあるトイレが中国の田舎並みの状態だったことくらいしか印象に残っていない。
朝方降っていた小雨は上がったが、空ははどんよりした雲に覆われている。そんな曇り空のもと、化粧品工場を訪れる。ここでは朝鮮人参を使った春香ブランドの化粧品が製造されている。このブランドは中国人に人気があり、数多く輸出されているとか。経済制裁はここまでは及ばないのだろうか、それともこの輸出にも陰りが見えているのだろうか。日本にいるときには抽象的な意味しか持たなかった「経済制裁」という言葉が現実味を帯びて迫る。
工場のグラウンドではサッカーの試合が行われていた。職場対抗試合といったところか。観衆がやんやと歓声を上げている。マイケルが持参していたPaektu Cultural Exchangeのバナーをビルとブライアンが広げ、歓声と拍手がさらに高まる。
バナーを広げるブライアンとボブ
化粧品工場をあとにし、金親子の銅像に全員で一礼を捧げたあと、レストランに入って昼食。食べきれないほど数々の料理が出てくる。魚のフライがおいしかった。
昼食後に向かったのは丹東を望む鴨緑江の岸辺。中国と北朝鮮をつなぐ中朝友誼橋がすぐ間近にあり、丹東側には米軍の爆撃によって破壊された橋も見える。この壊れた橋(鴨緑江断橋)は丹東の観光スポットであり、北朝鮮を垣間見るために多くの中国人観光客が訪れている。2013年には私もこの橋の付近から北朝鮮側を眺めたものだ。北朝鮮側から見る丹東には高いビルが林立している。
北朝鮮から眺めた丹東
続いて歴史博物館を訪れる。古代から現代までのこの地方の歴史がひととおり展示されていたが、ほとんど駆け足で通り過ぎたこともあり、植民地時代の漢字交じりの新聞くらいしか記憶に残っていない。
次の目的地の民族公園のほうはもっと印象的だった。新婚のカップルが写真を撮っている場面に遭遇したからだ。招かれてブライアンがカップルの写真に加わり、周囲から拍手が沸く。「チュッカハムニダ」(お祝いします)という言葉をかけて、この場を去った。
民族公園の新婚カップル
まわりの人たち
公園にはブランコがあり、チマチョゴリを着た若い女性が腰掛けている。それを押すもう1人の若い女性。朴ガイドが朝鮮に伝わるブランコ遊びを説明する。このブランコの女性は我々向けの演出、つまり「やらせ」だったのだろうか。断言はできないが、その可能性は高い。
ブランコの女性
最後の訪問先は新義州市本部(본부)幼稚園。これは新義州観光の目玉でもある。本来ならいろいろな教室を見て回るのだが、時間に追われている我々は、金親子の偉大さを注入する教室を覗いただけで、園児たちのパフォーマンスが行われる会場へと急ぐ。
会場にはすでに20人ほどの中国人観光客が待っており、我々の到着と同時に園児たちが舞台に登場する。2人の男女園児が独特の抑揚でパフォーマンスの開始を告げる。女児が朝鮮語で説明し、それと同じ内容を男児が中国語で繰り返す。さらにマイクでも中国語の解説が流れる。完全に中国仕様のパフォーマンスだ。
幼稚園児のパフォーマンス(オープニング)
それにしては中国人観光客の数が少ない。中国人の新義州訪問は丹東からの日帰り旅行がメインで、ガイドによれば多いときには1日1000人くらいになるとのことだった。1000人もが訪れるのは春節や国慶節といった特別な日だろうが、今日は4月18日だから、ローシーズンというわけでもない。ここにも中朝関係の変化が影響を及ぼしているのだろうか。
妙香山旅行社のガイドは20数人ということだ。その大半は中国語ガイドだろう。英語ガイドも中国人に対応できるように中国語を習っているケースが多い。中国からの観光客が干上がったら、彼らが路頭に迷うことにもなりかねない。
さて園児たちのパフォーマンスをどう受け止めればいいのだろうか。「健気」、「不憫」などの言葉が浮かんでくる。しかし彼らを「かわいそう」と思うのは一種の傲慢ではないかという気もする。日本や他の国なら単純に「すごい」とほめられるだけなのに、北朝鮮というだけでどうして憐れみを受けなければならないのか。
園児だけだけでなく、先生たちも演奏と歌を披露する。最後に中国人たちと園児たち全員の記念写真。これで新義州観光の全行程が終了した。園児たちの見送りを受け、4時過ぎに中国人たちと一緒にバスで北朝鮮のイミグレを目指す。
パフォーマンスの終幕
北朝鮮のイミグレは予期していたほど厳しくなかった。すべての電子機器の提出を求められたが、カメラもタブレットもスマホも中身はチェックされなかったようだ。すぐに返ってきたうえ、私のスマホやタブレットはPINでロックされているから、調べようとするならPINを聞いてくるはずだ。イミグレを出て、ガイドたちと別れの挨拶をする。朴ガイドにI'll come backと言ったところ、「今度はいつ来るのか」と聞かれた。Next yearと答えておいたが、平壌とは異なり、新義州はそれほど多くの見どころがあるわけではない。再訪しても同じスケジュールの繰り返しになるだろう。
中国の入国審査はパスポートを渡すだけですんだ。マイケル、ブライアン、ボブそれに私は、丹東鉄道駅を目指して歩く。イミグレから駅までは歩いて10分足らず。ブライアンとボブは北京行き、マイケルは瀋陽行きの列車に乗る。私は丹東で1泊する。「今度また北朝鮮で会おう」と言って彼らと別れた。
丹東の宿は予約していなった。駅のすぐ隣にある丹鉄大飯店を当たってみる。2013年にもここで1泊した。朝食込みで139元(約2100円)とのこと。探せがもっと安い宿があるだろうが、はやく決めてしまいたい。即決した。
部屋で少し休んでから、宿の近くにあるバスステーションに行き、明日の9時30分の大連行きバスのチケットを購入した。2013年とは異なり、現在は丹東と大連を結ぶ高速鉄道が開通しているのだが、調べるのもめんどうだ。
すべての用事が済んだところで、鴨緑江に行き、岸辺を散策する。昼間北朝鮮側から眺めた場所だ。今度は中国から北朝鮮を眺める。
丹東から眺めた鴨緑江
陽もとっぷりと暮れた。丹東は中国と朝鮮語のバイリンガルの街だ。2013年にはなかった新しいフォースとフード風の朝鮮レストランに入り、ビビンバを注文する。冷麺を頼めばよかったとあとで後悔した。今回の旅では一度も冷麺を口にしていなかった。
明日は大連に移動し、1泊したあと、帰国の途につく。今日のうちに大連に発ち、明日帰国というスケジュールも可能だったが、北朝鮮や中国の旅では何が起こるかわからない。ぎりぎりの予定を立てずに、日程に余裕を持たせたほうが賢明だ。
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