刊行:1876年
評価:★★★★★
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2021年6月27日読了
タイトルのL'Assommoirは仏和辞書によると「【古・俗】(安酒を飲ませる)酒場.居酒屋」という意味だが、この小説では主人公夫婦行きつけのパリの安レストラン兼酒場の屋号を指す。つまり固有名詞だ。日本では「居酒屋」という表題が定着している本書だが、今時の感覚からするとちょっとそぐわない。言葉が内包する意味は時代とともに変わる。izakayaとして外国に紹介され、少なからぬチェーン店も存在する平成や令和の「居酒屋」は本書の内容や雰囲気とはかけ離れている。昔風の「酒場」としたほうがしっくりと来る。
苦労しながら読んだ。ストーリーが複雑なわけでもなく、内容が難解なわけでもない。未知の単語が多すぎるのだ。その多くが古い表現や俗語で、辞書を引いても載っていない。写実主義のゾラらしく、洗濯屋、ブリキ工、鍛冶屋などの労働現場、結婚式をはじめとする祝いの場での飲み食いとどんちゃん騒ぎ、安アパートの内部が事細かく描写されるが、その半分も理解できず、ただ単語を目で追うだけというありさまだった。本書より10年以上前に刊行されたレ・ミゼラブルのほうがはるかに読みやすかった。したがって「読了」と言うにははばかられるが、あえて仏語で読むことで、邦訳や英訳にはない生々しい雰囲気を感じられた(と強弁しておこう)。
主人公はジェルヴェーズ (Gervaise) という女性。息子2人を連れて愛人(ランティエ)と一緒にプロバンスからパリにやって来たが、ランティエは彼女を捨てて別の女のもとに走る。幸い、ブリキ工として働く実直な男(クーポー)に求婚され、新しい世帯を設けて、娘(ナナ)も生まれる。
しかし幸せは長くは続かない。クーポーが仕事中に屋根から転落して働けなくなったのだ。怠け癖がついたクーポーは傷が癒えたあとも仕事には行ったり行かなかったり。酒浸りになり、妻や娘に暴力を振るうようにもなる。おまけにクーポーはこともあろうにジェルヴェーズの元愛人のランティエを自分たちの住居に連れ込み、ともに住むことを許してしまうしまつだ。
そんな中でもジェルヴェーズは洗濯屋を開き、何人かを雇って懸命に働く。このころが彼女の絶頂期だったかもしれない。だが夫の怠け癖と酒癖は直らず、洗濯業も傾きはじめる。仕事をおろそかにするようになったジェルヴェーズは、夫を探しにでかけた飲み屋で勧められるままに酒を飲み、その味を覚えてしまう。
あとは転落の一途だ。夫のクーポーは精神病院に入院させられ、そこで狂い死にする(この狂い方の描写もすさまじい)。その後を追うように、ジェルヴェーズもひっそりと息を引き取る。
救いのないストーリーだ。こうした悲劇はジェルヴェーズだけのものではない。その隣人や知人の多くも同じような問題を抱え、同じような悲劇に巻き込まれていく。酒と暴力と貧困。これらが互いに因となり果となり、悪循環を繰り返す。この風景が19世紀中葉のバリをどこまで忠実に写しているのかはわからない。しかし150年後の現代、フランスのみならず世界各地で同様の悲劇が形を変えて繰り返されていることを思えば、絵空事ではないことだけは確かだ。
いくつか忘れられない場面がある。ジェルヴェーズと同じアパートに住む幼い少女ラリー(Lalie)は妹と弟の面倒を見ながら、酒乱で乱暴な父親と一緒に暮らしている。ジェルヴェーズはなにかとラリーを気にかけ、少女に暴力をふるう父親に体を張って抗議する。しかし、ラリーは父親をかばい、擁護する。そのけなげさが痛ましい(最後には父親の暴力がもとで死ぬことになる)。ある晩、酒に酔って帰ってきたジェルヴェーズは廊下でラリーに出会う。泥酔状態のジェルヴェーズを無言のまま見つめるラリーの目。失望なのか、憐憫なのか、軽蔑なのか、複雑な眼差しだ。
もうひとつ。ジェルヴェーズの娘のナナは幼いときから我が強く、近所のガキ大将といったところだった。やがて思春期に達したナナは近所の同年代の少女たちを引き連れてパリを練り歩く。この様子が「失われた時を求めて」の第2篇「花咲く乙女たちのかげに」でジルベルトたちの一団が登場する場面を想起させた。一方は「不良少女たち」と言ってもいい労働者階級の娘たちであり、他方は豊かな中産階級の娘たちだという違いはあるが、どちらも颯爽としており、華やかで、絵になる。ナナはゾラの後の作品「ナナ」では高級娼婦として登場する。
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