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2019年7月31日水曜日

沖縄戦跡巡り2019 二日目(読谷村)

7月17日。

今日は読谷村(よみたんそん)に行く。読谷村には米軍の沖縄本島上陸地点となった渡具知(とぐち)海岸がある。1945年4月1日のことだ。この村にある2つのガマ(自然洞窟)も沖縄戦を語るうえ欠かせない。1つのガマは集団自決の場となり、もう1つのガマでは全員が生き延びることができた。

このほか飛行場の跡などもあるが、まっさきに行きたかったのは集団自決の場となったチビチリガマだ。

宿は読谷村の座喜味(ざきみ)に予約した。これは事前調査をちゃんとしていなかったことからする失敗。というのもチビチリガマがある波平(なみひら)集落は座喜味から遠く離れているからだ。しかも那覇から座喜味へ行くバスは本数が少なく、朝7時半のバスを逃せば午後の便しかない。

読谷村(座喜味)行きのバスは旭橋にある那覇バスターミナルから出る。旭橋はゆいレールの美栄橋駅から2駅離れている。7時半のバスでは早すぎる。12時過ぎのバスで行くことにした。

朝食をマクドナルドで済ませ、チェックアウトタイムの10時ちょっと前にホテルを出る。旭橋に着き、バスターミナルの近くの食堂で早めの昼食をとる。沖縄そばで650円。麺は固めで好みではなかったが、2枚のっていた豚の角煮(チャーシュー?)が舌の上でとろけるおいしさだった。

沖縄そばで早めの昼食


定刻どおりに那覇バスターミナルを出たバスは1時過ぎに座喜味に着いた。予約してあるホテル(ゲストハウス~時~)はバスの停留所から歩いて2、3分のところにあった。ホテルというより普通の民家で、2階がゲストハウスとなっている。ドアを開けると台所の流しが見える。受付らしきものはない。「ごめんください」と声をかけるが、誰も出てこない。呼びかけを繰り返す。すると障子の部屋から若い黒人が出てきた。

ほっそりした繊細な感じのこの青年、ゲストハウスのスタッフではなく、宿泊客だとのこと。ナイジェリア人で、jobのために今年の6月に沖縄に来たらしい。米軍で働いているわけでもないし、一体どんな仕事だろうか。聞きそびれた。宿のオーナーは不在らしい。

Booking.comの予約確認書に記載してあった連絡先を見て電話する。女性の声で応答があり、「ドアに鍵がぶら下がっているのが空き部屋だから、どれでも選んでくれ。夕方にそちらに行く」とのこと。おそらく到着時刻をあらかじめ宿に知らせておくシステムになっていたのだろうが、私がBooking.comからのそのメッセージを見落としていた可能性が高い。

ともあれドアに鍵がぶら下がっている2つの部屋のうちの1つを選び、荷物を置いて、チビチリガマに向かう。

といっても、グーグル・マップを見ると、チビチリガマは座喜味から5km以上離れており、徒歩では50分近くかかる。通りには車も少なく、タクシーを拾うのも困難。Uberも「ここでは使えません」というメッセージが出る。

時刻は2時ごろ。幸い時間だけはたっぷりあるので、ここはひとつ歩いてみるか。人も車もあまり通っていない道を波平集落に向かって歩き始める。

途中に忠魂碑を見かける。読谷村指定文化財の史跡(沖縄戦に関する遺跡)であり、説明板には「忠魂碑は日本の侵略戦争を美化する象徴として使われ、日本の歴史の負の遺産ですが、戦時中の風潮を今に伝える証人であり、今後の戒めとして村では2009年1月に史跡に指定しました」とある。

忠魂碑

さとうきび畑が広がる風景の中をさらに歩く。ときたま出会う人にチビチリガマへの道を尋ねながら。気温はおそらく30度を超えているだろう。

持ち前の方向感覚のなさから、グーグル・マップを見ながらもゆうに1時間半、ひょっとすると2時間近くかけてやっとチビチリガマにたどり着いた。「ハブに注意」という立て札を横目に谷間を下っていくとガマがあう。

米軍上陸時にこのガマに逃れた139名のうち82名が亡くなった。投降を呼びかける米兵に竹槍で手向かって殺されたケースもあるが、大半は自決だ。家族が家族を手に掛ける悲惨な場面が展開された現場だ。死者の過半数は子供だったという。

壕の入口には数多くの千羽鶴がつり下げられたり、岩の上に置かれている。犠牲者の氏名を列挙した石板もある。「これから先は墓となっていますので立ち入りを禁止します。ガマの中には私達、肉親の骨が多数残っています。皆様が、ガマに入って私達の肉親を踏みつぶしていることを私達は我慢できません」という警告の大きな札が入口をふさいでいる。なんとも厳しい。しかし、戦後このガマが何回も荒らされたことを考えると、こうした厳しさも納得できる。

チビチリガマの入口

チビチリガマ内部

犠牲者の氏名

チビチリガマから1Kmほど離れたところにシムクガマがある。このガマにはハワイ移民だった村民も何人か逃れており、彼らの説得のおかげで、1000人余りの村民が自決することなく米軍に投降した。

シムクガマの存在は知っていたが、チビチリガマから近い場所にあることは知らなかった。夏の読谷村を2時間近く歩いたあとでは、場所もわからないシムクガマまで行く気力は失せていた。また徒歩で宿まで戻ることを考えるとなおさらだ。

着用していたTシャツは汗で黒ずみ、喉はからから、腹も減っている。ガマ近くのスーパーで抹茶ラテと菓子パンを購入し、喉と腹を癒やしながら、帰路についた。スーパーでは今日の夕食のための食料も入手しておいた。宿の近くには食堂やスーパーはなく、ファミリーマートが1軒あるだけだ。

帰りはさすがに2時間もかからなかった。せいぜい1時間とちょっと。宿についたときには5時を過ぎていた。

しばらくするとゲストハウスのオーナーがやってきた。5、6歳の元気な女の子を連れた若い女性だ。チビチリガマまで歩いて行ったことを告げると、「宿においてある自転車を使えたのに」とのこと。遅きに過ぎる情報だ。ただ、風に吹かれるさとうきびの畑に沿って、道を聞きながら歩きに歩いた経験もそう悪いものではない。

「ゲストハウス~時~」はシャワー・トイレ共同の個室で1泊3150円。結構長く滞在している宿泊客もいるようだった。

明日は伊江島へ行く予定だが、天気予報をチェックすると、明日以降は大雨に暴風が加わっている。台風にひっかかったみたいだ。あわてて伊江島行きフェリーのホームページを調べる。「明日のフェリーはすべて欠航」とのショッキングな案内が。まあ伊江島に渡ってそこから帰れなくなるよりはましか。

予約していた伊江島の宿をキャンセルし、那覇へ戻るバスを調べる。いまのところバスの欠便はないようだ。8時近くに座喜味を通る那覇行きのバスに乗ることにした。

事前調査の不足から読谷村ではチビチリガマしか見ることができなかったが、はじめての沖縄とあればこれも仕方ないことかもしれない。

2019年7月26日金曜日

沖縄戦跡巡り2019 一日目(那覇到着)

海外には頻繁に出かけているが、国内はあまり旅行していない。47都道府県中足を踏み入れたのは半数に満たない。

国内を、それもできれば「辺境」をもっと探りたいとう思いから、手始めに沖縄を選んだ。ただ漫然と観光するのではなく、テーマを絞りたい。沖縄の離島を巡る旅こそ「辺境へ」にふさわしいが、はじめての沖縄にしてはちょっと敷居が高い。

今回の旅を「沖縄戦跡巡り」にしたのはこうした事情からだ。沖縄が戦場になったことは知っている。日本軍にとっても、沖縄の住民にとっても、そして米軍にとっても過酷で悲惨な戦いであったことについても活字や映像を通じていくばくかの知識はある。しかし、沖縄戦の背景と経過、実態についてはほとんど知らない。

もとより数日の旅行で沖縄戦の実態がわかるとは思っていない。しかし、昨年のイスラエル旅行がイスラエル・パレスチナ紛争を理解する出発点となったように、沖縄への旅が沖縄戦を知るきっかけとなればと思った。

旅行に先立って下記の書籍に目を通した。

沖縄戦全記録 NHKスペシャル取材班 新日本出版社
定本沖縄戦(地上戦の実相) 柏木俊道 彩流社
沖縄戦546日を歩く カベルナリア吉田 彩流社
沖縄の戦争遺跡 吉浜忍 吉川弘文館
僕の島は戦場だった(封印された沖縄戦の記憶) 佐野眞一 集英社インターナショナル

付け焼き刃ではあるが、これらの本を読むことで沖縄戦の一応の流れが頭に入った。Wikipediaの「沖縄戦」の項目も予想外に詳しく、役に立った。ただ、沖縄の地理を知らず、軍事知識も皆無であることから、地名や軍の構成については混乱したままだった。もうひとつ、これらはすべて日本人による日本語の資料で、米国や米軍の視点からの沖縄戦の記録に目を通さなかったこともくやまれる。

ともあれ7月16日午後12時15分発のJetstar便で関空を飛び立ち、2時半ごろに那覇空港に降り立った。帰りは22日の予定だ。天気予報によれば16日と17日の両日は晴れだが、その後数日は大雨が続く。航空券を購入した時点では予測できなかったことなので仕方がない。

7月16日。

空港のインフォメーションで地図などを入手したあと、那覇空港駅でゆいレールに乗車したのは3時ごろ。日が暮れるまでにはまだたっぷり時間がある。ホテルにチェックインする前に、首里城まで行き、第32軍司令部の壕を訪れることにした。ゆいレールの首里駅から首里城までは歩いておよそ10分。守礼門をくぐって左脇の石段を下ると左手に石板があり、司令部壕を日本語と英語で説明している。その横には第32軍と行動を共にした沖縄師範学校男子部の師範鉄血勤皇隊の碑もある。

第32軍の壕を説明する石板


師範鉄血勤皇隊の碑

石板を少しはいったところに鉄柵でふさがれた壕の入口がある。牛島満軍司令官や長勇参謀長は1945年5月27日にこの壕を去り、摩文仁に移動する。壕の内部はまったく窺い知れない。

司令部の壕

道を隔てた反対側には第32軍無線通信所の跡がある。こちらも内部を見ることはできない。

首里城を訪れる観光客は多いが、この石段を降りてくる人はほとんどいない。1人、2人と降りてくる人を見かけ、「おっ、同好の士か」と思ったが、壕の説明板や跡には目もくれず、そのまま先へ進んでいく。

首里城の内部に入るには820円の入場料が必要だ。内部の見学はまたの機会にし、予約してあるホテルに向かう。

予約していたのはホテルランタナ那覇。ゆいレールを美栄橋駅で降り、徒歩で約10分。那覇のメインストリートである国際通りに面した新しいホテルだ。1泊6000円。

ホテルランタナ

6時ごろにチェックインし、国際通りをぶらぶらする。通りのほぼ中央、一番目立つ場所にはディスカウントストアのドンキホーテがどっかりと店を構えている。

国際通りから第一市場に入り、その奥にある魚屋と兼業の飲み屋で沖縄ではじめての夕食をとった。注文したのは2000円のセットで、海ぶどう、もずく、刺身と飲み物2杯からなる。飲み物は生ビールの中と泡盛の水割りにした。海ぶどう(海藻の一種)を口にするのははじめて。おいしかった。かなり高価な食べ物らしく、量は少ない。店の女店員はどうも中国人らしい。客にも中国人の家族連れがいる。

2000円のセット

たった2杯のアルコールでいい気分になり、国際通りをさらに散策しながら、ホテルに戻る。明日はバスで読谷村に向かう。那覇から1時間くらいかかるようだ。