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2017年12月11日月曜日

Stefan Zweig: Joseph Fouché

2017年10月21日読了
著者:Stefan Zweig
評価:★★★★★
刊行:1929年
Kindle版


1942年に亡命先のブラジルで自死したオーストリアの作家Stefan Zweigによるナポレオン体制下の警察大臣Joseph Fouchéの伝記。Zweigはウィーンのユダヤ系富豪の家に生まれたオーストリア人だが、その関心や教養、言語能力からしてヨーロッパ人あるいはコスモポリタンと呼ばれるにふさわしい。

Joseph Fouchéは日本ではそれほど馴染みのある名前ではないが、フランスではそれなりに名の知れた歴史的人物で、バルザックの小説などにも登場する。僧職の身でフランス革命に身を投じ、無神論の過激派としてリヨンの虐殺などに荷担しながらも、テルミドールの反動でロベスピエールを裏切って生き残り、その後の統領政府とナポレオン帝政のもとで警察大臣を務めた。かつてルイ16世の処刑に賛成票を投じたにもかかわらず、ナポレオン失脚後の王政復古に力を貸し、ルイ18世のもとでも警察大臣になる(ただしこれは短期間に終わる)。

カトリックから無神論へ転向し、無神論からカトリックへ再転向、革命期には貴族制度を全否定しながら、のちには自ら爵位を受けるに至る。私有財産を攻撃したのは過去のこと、後年には莫大な富を蓄える。右から左、左から右へと揺れ動く激動の時代を乗り切った歴史上希有の人物といえよう。原理原則は無く、節操もない。カメレオン的変身がこうした処世を可能にした。ZweigはFouché流の裏切りと陰謀、変節と虚言こそが政治家の本質であると見ている。この伝記の副題が"Bildnis eines politischen Menschen"(ある政治的人間の肖像)となっている所以である。

Fouchéは警察大臣としてフランス全土に諜報の網の目を張り巡らせ、政敵はもちろん、網の目にひっかかるあらゆる人物のあらゆる秘密やスキャンダルを収集する。ナポレオンの妻のジョゼフィーヌもFouchéへの通報者だった。情報の重要性を理解し、情報を武器とするなど、まことに現代的ではある。

おもしろかった。良心の呵責や羞恥とは無縁にくねくねと時代を泳いでいくFouchéの軌跡そのものがおもしろいこともあるが、それだけではない。Zweigの叙述のうまさ、洞察や分析の鋭さ、皮肉や諧謔の巧みさこそがこの伝記の真髄といえる。つまり「おもしろくてためになる」のである。

Zweigの自伝である"Die Welt von Gestern"(昨日の世界)を読んだのは10年以上前になる。Fouchéの伝記は私にとっては2冊目のZweig作品である。私のタブレットPCには200円ほどでダウンロードしたZweigの全作品が保存されている。次はマリー・アントワネットの伝記だ。もちろんいつの日にかには彼の小説にも手をのばしたい。

2017年10月31日火曜日

チェチェン共和国2017 モスクワ、帰国、まとめ

10月8日。

今回の旅のメインはチェチェンであり、モスクワ観光はいわばオマケだ。ホテルに近いカフェで遅めの朝食をとったあと、地下鉄でウニヴェルシチェート駅まで出かける。ボリショイ・モスクワ国立サーカスを見るためだ。

ロシアのサーカスは2005年の春にサンクトペテルブルクでも見た。周りからは「なぜまたサーカスに? サーカスなんて子供のためのものじゃないか」といぶかしがられたものだが、これには2004年に平壌で見たサーカスが大きく影響している。人間のような動きをするクマ、観客を舞台に上げて手玉にとるピエロ、そのピエロの演技に心の底から笑っている平壌の子供たち。私のサーカスに対する興味は平壌で生まれた。

何時から始まるのか、そもそもこの日に公演があるのかどうかも調べていなかったが、幸い午後1時からの公演のチケットを購入できた。購入したのはもっとも安い席のチケットで、1000ルーブル(2000円)だった。

12時にオープンした劇場の中で昼食代わりのサンドイッチを食べながら、公演の開始を待つ。観客の大半は子供連れのロシア人だ。170ルーブル(340円ほど)のサンドイッチはまずかった。

1000人くらい収容できそうな会場は5分の4くらい埋まっていた。象や虎などの動物、タンザニア、モンゴル、イタリアなどから招いたサーカス団など、平壌のサーカスよりずっと豪華で、お金もかかっている。しかし、平壌のような感動は得られなかった。サーカスの定番である空中ブランコとピエロが見られなかったのも残念だ。

サーカスを観る

サーカスは20分の休憩をはさんで、3時間半ほど続いた。サーカス会場を出たのは5時近く。次に地下鉄でアルバート通りに向かう。かつては芸術家などが多く住んでいた通りだが、現在は観光客で賑わっている。観光客目当ての似顔絵描きや土産物屋が並ぶ通りを動画を撮りながら歩く。ストリートパフォーマンスもちらほら。ここらあたりのストリートパフォーマンスはなかなかレベルが高い。

アルバート通りのストリートパフォーマンス

アルバート通りにあるMymyというセルフサービス式のレストランで夕食をとる。2005年にもここで食事をした。ボルシチ(もちろんスメタナも付けた)や魚のフライでなどで500ルーブル近く。2005年同様、今回も満足のいく味だった。

Mymyで夕食

さらに新アルバート通りを歩き、通りにある大きな本屋を覗いてから、ホテルに戻った。オマケのモスクワ観光だったが、それなりに充実した1日といえる。

10月9日。

今日は帰国日だが、フライトは23時50分だから、ほぼ1日を観光にあてることができる。11時ごろにホテルをチェックアウト。チェックアウトの手続きをしていると、フロントのひとりが日本語で話しかけてきた。30~40歳くらいのこの男性の日本語は、流暢ではないが、片言というわけでもない。別れ際、この男性は私に「天皇陛下によろしく」と言う。苦笑するしかない。

このホテルでは荷物を有料(150ルーブル)で預けることができる。荷物預かり所の男性は中央アジア風の東洋人。英語はできない。ロシア語で「カザフスタンから来たのか」と訊くと、キルギスタンからという返事。10年前にキルギスタンを訪れたことなどを話す。

ホテルの近くにはヴェルニサージュ市場がある。メガホテルが並んでいる場所柄か、このテーマパークのような市場ではマトリョーシカ、ロシア帽などのは土産物が売られている。市場は閑散としており、半分以上の店が閉まっていた。マトリョーシカは300ルーブルから。一瞬1個購入しようかと思ったが、やめておいた。土産物はやはりお菓子類が無難だろう。

続いて赤の広場を再訪。昼食はグム百貨店の3階にあるセルフサービス式のスタローバヤ57でとった。「スタローバヤ」とはロシア語で「食堂」という意味だ。そう高くなく(私の場合は400ルーブルくらい)、おいしいので、2時過ぎにもかかららず、テーブルはほとんど埋まっていた。

次に地下鉄トゥーリスカヤ駅近くのダニロフスキー市場に向かう。食品を中心とした屋内市場だ。野菜、果物、肉、魚などの売り場の一角はフードコートとなっており、モロッコ、韓国、ベトナムなどの料理を提供している。どれか試してみたかったが、昼食を食べたばかりの腹には入りそうにない。ケーキとコーヒーだけにとどめた。市場を出ると、少し雨が降っている。今回の旅ではじめて遭遇する雨。

ダニロフスキー市場のフードコート

7時ごろにホテルに戻り、預けていたバックパックをもらい受け、係のキルギス人の男性と握手をして別れる。

地下鉄とアエロエキスプレスを乗り継いでドモジェドヴォ空港に到着。モスクワからカタールのドーハ、ドーハから羽田、羽田で一晩過ごし(カタール航空のサービスで平和島温泉で休むことができた)、最後に羽田から伊丹に飛び、チェチェンへの旅を無事に終えることができた。

まとめ

治安に関する若干の危惧をもって訪れたチェチェンとダゲスタンだが、滞在中に不安はまったく感じなかった。もっともこれはアフガンでもアフリカでもどこでもそうで、「不安を感じる」とはすなわち何かが発生したか、発生しそうになっているということにほかならない。実際に事が発生する寸前までは、何も気付かないのが普通だ。だから、私が不安を感じなかったとしても、その地の安全が保証されるわけではない。

グロズヌイのシンボル

この旅の目的のひとつは、プーチンと手を組んだラムザン・カディロフの強権政治のもとで、人々がどのように感じているか、その感じていることをどれくらい自由に表出できるかを探ることにあった。もちろんたった4、5日の滞在で、しかももっぱらガイドだけを相手にして、チェチェンの現実を知ることができるなどと考えていたわけではない。それでもある程度の感触はつかめるのではないだろうか。

チェチェンのところどころに、カディロフの大きな肖像が掲げられている。プーチンと並んだ肖像、プーチンだけの肖像も少なくない。北朝鮮や一部の中央アジア、アフリカの国々で見られる光景だ。

カディロフの肖像

「指導者について否定的に話すこと、批判することはタブーなのか」とガイドに訊いてみた。「公的な場面では批判はタブーだ。しかし仲間うちでは逆に、指導者を持ち上げるような発言すると、ちょっとおかしいのではないか、なにか胸に一物あるのではないかと疑われてしまう」という答えだった。

プーチンやロシアに対する反感、反感以上の憎悪は今も根強く残っている。そのロシアと手を組んだカディロフにはあきあきしている。だが今これに対して武器をもって立ち上がるのはそれ以上の狂気だ。戦争や混乱はイスラム国(IS)を利するだけだ。ここしばらくは我慢するしかない。

カディロフの人気も100%虚構というわけではなく、心底支持している人もいるかもしれない。しかし短い滞在期間中に私が得た感触は上記のようなものだった。私の判断が正しいかどうかはわからない。ただひとつ言えるのは、チェチェンは北朝鮮ではないということ。北朝鮮のように社会の隅々までコントロールされ、恐怖が支配している社会ではないということだ。

今回はガイドを付けての旅だった。ガイドなしでのチェチェン旅行は可能だろうか。ちょっとしたホテルには英語を話せるスタッフがいるし、プーチン大通りから少し外れたところにツーリスト・オフィスもある。ガイドなしでも十分に可能だ。ただし、ロシア語の知識がまったくないと苦労するかもしれない。ストリート名やレストランのメニューはキリル文字だけで表記されている。グロズヌイ市内はともかく、ロシア語の知識なしにチェチェンの村々を探訪するのは並大抵ではない。お金に余裕があるなら、ガイドを付けることをお勧めしたい。

2017年10月29日日曜日

チェチェン共和国2017 モスクワへ戻る(チェチェン五日目)

10月7日。

今日は14時30分のUTair機でモスクワへ戻る日。Grozny City Hotelのチェックアウトタイムは12時ということなので、Abdullaに12時ちょうどにホテルまで迎えに来てもらうことにした。午前中いっぱい自分ひとりでグロズヌイの街を歩いてみたい。

少し遅めに朝食をとり、9時過ぎにホテルを出た。メインストリートであるプーチン大通りをゆっくりと写真や動画を撮りながら歩く。大通りを外れて、市場に向かう。しかし、10時を少し過ぎているにもかかわらず、店の大半はまだ閉まっている。すでに開いている店、これから開けようとしている店は数えるほどしかない。

プーチン大通りを歩く

閑散とした市場

小さなCDショップがちょうど店を開けようとした。これはラッキー。チェチェンの歌やダンスのDVDを購入したかったからだ。知っている2、3人の女性歌手の名前を出してショップの主人に3枚のDVDを選んでもらう。1枚80ルーブル(160円)という安さ。もちろん正規品ではなく、コピーだろう。「正規品ではなく」という表現は正確ではないかもしれない。そもそも正規品として製造された商品が存在しない可能性が高い。テレビ番組などから手作りで制作しているDVDと思われる。

3枚分の240ルーブルを手渡して店を出ようとすると、主人がもう1枚のDVDを差し出し、「パダーロク(Подарок)」だと言う。「パダーロク」とは「贈り物」のことだ。おまけに1枚追加してくれたわけだ。ダゲスタンだけではなく、チェチェンも「おもてなし」の国と見た。

ホテルに戻り、12時にチェックアウトする。Abdullaはすでに迎えに来ていた。ホテルから空港までは30分余り。空港に向かう途中で財務大臣の邸宅を見物した。2日前に立ち寄ったミュージアムゆかりの爆殺された政治家の兄弟ということだ。いくつかの立派な家が並んでいる。大臣の一族郎党が住んでいるらしい。チェチェンではこのように、兄弟や親戚が同じような家を建てて、並んで住んでいるケースが多い。

空港での別れ際、用意していたチップを渡そうとしたが、Abdullaは受け取らない。Abdullaと直接に交渉して旅行代金を決めたわけではないから、彼が金銭的に満足しているかどうかはわからない。旅の過程でAbdullaがお金を支払ったり、施しをしたりする場面を何回か目にしたが、彼はお金に関してはいさぎよかった。Abdulla個人がそうなのか、チェチェン人全体がそうなのはわからない。

空港のキオスクでチェチェンのロゴが入ったTシャツを見かける。値段を聞くと、1000ルーブル(2000円)とのこと。高すぎると思って買わなかった。これはあとで後悔した。1000ルーブルが高いかどうかはともかく、チェチェンやアフガンのようにいわば「ハンディキャップ」のある国に旅したときには、ほんの少しでも現地にお金を落とすのが礼儀だろう。

グロズヌイ空港

UTair機は定刻通り、夕方5時にモスクワのヴヌコヴォ空港に到着した。今日から2日間モスクワで過ごし、明後日に帰国する。行き先がチェチェンということもあり、いざという場合に備えて、1日余裕を見ておいたのだ。

宿は1週間前と同様にイズマイロボ・アルファ・ホテルを予約しておいた。アエロエキスプレスと地下鉄を使ってホテルまで行くのはもう慣れたもの。

チェックインして再度外に出たときには7時を過ぎていた。ホテル近くの地下鉄パルチザンスカヤ駅の正面に大きな寿司レストランがある。「ニイヤマ」と名のレストランだ。好奇心もあり、入ってみることにした。かなりの客が入っており、奥のほうのテーブルに案内された。

無難なところでサーモン巻きを注文した。10年以上前にサンクトペテルブルクの寿司レストランに入ったことがあり、沿ドニエストル共和国でもサーモンとマグロの2握りだけを試したことがある。「ニイヤマ」の寿司の感想はそれらのときと同様だった。魚はいいが、粘りがなくぱさついている米が残念。キリンの生ビールと併せて614ルーブル(1200円ほど)だった。

寿司と生ビールで夕食

明日はモスクワでのオマケの1日。ゆっくりできる。

2017年10月27日金曜日

チェチェン共和国2017 ダゲスタンの村(チェチェン四日目)

10月6日。

Kezenoy Hotelの朝食はGrozny City Hotelに比べればかなり質素だが、ビュフェ式だから量は問題ない。

今日はダゲスタンの村を訪れることになっている。だが、ダゲスタンに向かう前にAbdullaに案内されたのはホテルにほど近い廃墟。1944年の中央アジアへの強制移住の際に取り壊された跡だという。チェチェン政府はKezenoy湖やこの廃墟をひっくるめてここを観光の目玉としたいらしい。しかし、グロズヌイからここまで来るのは並大抵ではなかった。深い谷底を見下ろす山道をガタガタ揺られながらのスリル満点のドライブだった。「観光のためにはちゃんとした道路が必要なのでは」とAbdullaに言うと、「滝を見るために険しい道を通ってきたが、グロズヌイからここまではすでに舗装された道が通じている」とのことだった。といっても、多くの観光客を呼び込むにはまだまだ時間がかかりそうだ。実際、夕食や朝食時に見かけた私たち以外のホテル客はせいぜい5~6人だった。

廃墟

廃墟をあとにして荒野を走行することおよそ1時間半、運転手が私に目をつぶれと言う。目をつぶる。「まだ開けるな」。2、3分して「さあ目を開けろ」。目を開けると、はるか下方の谷間に家々が見える。「あれがダゲスタンだ。」

ダゲスタンを見下ろす絶景

チェチェンもダゲスタンもロシア連邦内の共和国だが、国境には誰もおらず、したがって何のコントロールもない。そもそもどれが国境なのか判然としない。

ダゲスタンは民族的に細分化されており、36もの異なる言語がしゃべられているという。共通語としてのロシア語が不可欠な所以だ。

ダゲスタンの村に入る

村の細い道を通り抜けたジープはまず、Urbechと呼ばれる亜麻の種のバター(flax butter)をつくっている小屋に向かう。水車を動力として石臼を回転させ、亜麻の種とひまわりの種から黒いバター状の食品をつくり出す。運転手が仕組みを説明してAbdullaが英語に訳す。スプーンで試食してみた。甘くておいしい。パンに付けて食べるほか、デザートにもなりそうだ。

Urbech(亜麻の種のバター)をつくる

小屋を去ろうとするとき、男が瓶に入れたUrbechを私に手渡す。土産に持って行けということらしい。だが、私は機内持ち込みのバックパックだけでここまで来ている。この半液体状の瓶を日本まで持ち帰ることはかなわない。瓶はAbdullaが受け取った。せっかくのユニークな土産物をあきらめるしかないのが残念だった。

今日は金曜日だ。モスクではFriday Prayer(金曜礼拝)が行われる。Abdullaが1時から2時までのこの礼拝に参列する間、私はひとりで村の中を散策した。もともと人口が少ないためか、礼拝のためか、ほとんど人に出会わない。村の外れで三々五々に下校する子供たちに出会ったくらい。ちょっと驚いたのは、村の至る所で放し飼いされている牛を見かけたことだ。

子供たち

母子

2時前にモスクの前に戻ると、礼拝はすでに終わっており、Abdullaが5~6人の村の男たちと話していた。男たちが言うには、もし私がひとりでこの村をさまよっていたら、必ず誰か宿を提供してくれる者が現れるとのこと。私を宿泊させることはその家にとっての名誉だとも。

さっそく昼食に招待される。レストランなどありそうにない村なのでありがたい。出されたのはクレープのようなパンのような、グロズヌイ初日に夜にレストランで食べたのに似ている。ダゲスタン特産のUrbechを塗って食べるとおいしい。さらにスイカ、リンゴ、お菓子、ナッツ、お茶。

昼食に招かれる

家の主人、Abdulla、運転手が何か熱く語っている。Abdullaに「政治について話しているのか」と訊くと、そうではなく話題は格闘技だった。確か大相撲の露鵬は北オセチア出身だったはずだ。そのことを指摘すると、彼らもちゃんと知っていた。

食後、Urbechとよく似た食品をつくっている作業場を訪れた。Urbechとの違いはよくわからなった。Abdullaはこの食品を2瓶購入した。ところが、作業場の主任らしき男は代金を受け取らない。Abdullaもかなり執拗にお金を受け取ってもらうように頼んでいたが、結局2瓶を無償で譲ってもらうことになった。ダゲスタンといえば、テロが頻発し、イスラム国(IS)にも多数の「兵士」を送り出していることから、危険な北コーカサスでも最も危ない国とみなされている。そのダゲスタンの村で見かけたのは「危険」からほど遠い底抜けの「おもてなし」の光景だった。

運転手、作業場の主任、Abdulla、私

ダゲスタンの村をもう1つ訪問する予定だったが、昼食に時間をとったこともあり、すでに3時を過ぎている。ここできりをつけてグロズヌイに引き返すことになった。

行きとは異なり帰りは舗装されスムーズな道だったが、2、3箇所立ち寄ったこともあり、グロズヌイに着いたのは8時近くだった。

Grozny City Hotelの近くのビジネス・センターの最上階に登り、グロズヌイの夜景を見る。複雑な事情や問題はともかく、10年前まで紛争のただ中にあったチェチェンのこの光景はある種の感動を誘う。帰りのエレベーターの中で、チェチェンの若者4、5人に請われて、肩を組んで写真を撮る。

グロズヌイの夜景

夕食はプーチン大通りのピザ・レストランで済ませ(ピザ・レストランだが、メニューには寿司もあった)、チェチェン滞在中もっとも印象に残る1日を終えた。明日は14時30分の飛行機でモスクワに戻る。

2017年10月25日水曜日

チェチェン共和国2017 Kezenoy-am湖へ(チェチェン三日目)

10月5日。

今日はチェチェンの建国199周年記念日。いろいろな行事があるとのことだが、私たちはダゲスタンとの国境に近いKezenoy-am湖に向かう。チェチェンの歌やダンスに興味がある私としてはちょっと残念。

湖に行くにはかなり険しい山道を通るため、Abdullaは特別に車と運転手を手配していた。
8時過ぎ、その運転手とホテルから少し離れたところで合流する(運転手の名前は忘れてしまった)。英語はまったくしゃべれない。車は日産のジープ。だいぶ前に製造中止になったジープらしく、運転手はAbdullaの通訳を介して「日本に帰ったら、この車の製造を再開するように日産に頼んでくれ」と言う。トヨタでも三菱でも駄目だとのこと。

北コーカサスの絶景の中をジープは進む。途中、小さな滝やミュージアムに立ち寄る。滝は山の中にあり、道なき道を石から石へと、ときには小さな水の流れを飛び越えながら、やっとたどり着いた。20分ぐらいはかかっただろうか。ミュージアムは故アフマド・カディロフ大統領(現在のラムザン・カディロフ大統領の父親)の巻き添えで2004年に爆殺された政治家を記念するものだった。あまり多くはない展示品の中、爆殺されたときに着用していた血染めの衣服が記憶に残っている。

チェチェンの絶景

二人連れのロシア人観光客と出会う。そのうちのひとりと英語で少し話す。日本の広島と長崎も訪れたことがあるという。「俺はチェチェンに友達がいるからやって来たが、日本人のお前がどうしてこんなところに来るのか」と訊かれる。

「今ロシアとチェチェンの関係は良好だ。我々は1つの国だ」とも。あとでAbudllaにあのロシア人はこう言っていたと伝えると、フンと冷笑するような表情になった。「何をほざいているのか」といったところか。

小さな村に入り、運転手の親戚(叔父さんだったように思う)の家で遅めの昼食をとる。大量のチキン、韓国のスンデに似たソーセージ、パン、そしてデザート。チェチェンの家庭料理だ。すべて自家製、手作りで、おいしい。

チェチェンの家庭で昼食

デザート

1995年に多数の村人がロシア軍に殺害された記念碑などに立ち寄り、ジープは進む。壮大な山々を背景に、ときには羊や馬の群れを避けながら。

羊の群れに出会う

Nikhaloyの滝に着く。午前中のものより大きい滝だ。これもアクセスが容易でない。山の奥深く、30分くらいかけてよじ登るがごとくにたどり着く。誰とも出会わない。静寂の中を流れ落ちる滝。

Nikhaloy Waterfall

山々の絵を描いている2人組(たぶんチェチェン人だろう)に遭遇したりしながら、ジープがKezenoy-am湖に着いたのは夕方の6時ごろ。陽は暮れなずんでいる。グロズヌイからここまで、いろいろなところに立ち寄りながら、10時間近くかかったわけだ。

暮れかかる夕陽をかすかに映しているこの静寂の湖は、コーカサス最大で、深さはバイカル湖に次いでロシアで2番目とか。

Kezenoy-am湖

今夜この湖のほとりにあるKezenoy Hotelに宿泊する。Grozny City Hotelより劣るが、新しく立派なホテルだ。Wifiも用意されているが、接続は不安定だった。こんな山奥まできてWifiにこだわるほうがおかしいのだろう。

Kezenoy Hotel

夕食はホテルでとった。まわりにレストランやカフェの類いは皆無。ホテル以外に選択肢はない。注文したのはチェチェン料理のひと皿(名前は失念)と中央アジア料理のマントゥ(一種の蒸し餃子)。マントゥはあまりおいしくなく、残してしまった。昼に食べ過ぎていたからかもしれない。

明日はダゲスタンの村を訪れる。

2017年10月23日月曜日

チェチェン共和国2017 チェチェン二日目

10月4日。

7時半すぎにホテルでビュフェ式の朝食をとる。五つ星ホテルだけあって申し分のない内容。食べ過ぎてしまった。

Abdullaは9時に迎えに来た。昨日見損なった野外民族博物館へ行くためだ。空は快晴、すがすがしい。博物館があるUrus-Martanへの1時間余り、快適なドライブが続く。グロズヌイの街とその郊外は予想したよりずっと整然としている。少なくとも表面上は戦火の痕跡はまったく覗えない。車内に流れているチェチェンの美人歌手Makka Sagaipova(Макка Cагаипова)の歌が心地いい。

グロズヌイをドライブ

野外民族博物館に着く。Dondi-yurt(本名はAdamというらしい)なる好学の士が2008年に開設した私営の博物館だ。Dondiの妻が我々を迎えてくれたのち、Dondiの説明で見て回る。 妻とAbdullaの会話はロシア語だったが、Dondiの説明がチェチェン語かロシア語か判別しにくい。チェチェン語にもロシア語の単語が多く混入しているせいだろう。いずれにしても説明はAbdullaが英語に通訳してくれた。

野外博物館は化石の陳列から始まり、広い野外の敷地に昔の農家や農機具、衣装などが展示されているが、あまり系統だったものではなく、アトランダムな印象を受けた。

最後にDondiと一緒に記念写真を撮り、記念帳に日本語で若干の感想を記しておいた。別れ際、Dondiが「地震や津波の被害を受けて苦しんだ日本からの訪問者を迎えることができてうれしい」と言う。「チェチェンも戦争でひどい目にあったではないか」と返すと、「そうだからこそ、親近感がある」とのことだった。

野外博物館

博物館のオーナーと一緒に

グロズヌイに戻り、プーチン大通りにあるCentral Parkというカフェで昼食をとる。朝食をたっぷりとったおかげで、空腹感はほとんどない。スープとパンだけで済ませた。私たちと背中合わせのテーブルで4人連れの若い女性が食事をしていた。彼女たちが店を出るとき、うちのひとりが私のほうに近づき、「写真を撮らせてほしい」と言う。もちろん許可する。この女性だ。

写真を所望される

グロズヌイには若干の中国人が商売のために滞在している。だから東洋人を初めて見るというわけではないだろうが、Abdullaによれば私は中国人には見えないという。若い女性から写真を所望されることなどそうそうあるものではないから、これはうれしかった。

食後、カフェからほど近くにあるチェチェン国立美術館に徒歩で向かう。2時からAbdullaの知人の個展の開幕式が行われるというのだ。2時前に会場に着き、40点余りの作品を見て回る。グロズヌイの過去を描いた作品。グロズヌイの未来を想像した作品。過去と未来がファンタジーで結ばれる。いい絵だ。画家の姓は忘れてしまったが、名前はジンギスハーンだった。Abdullaによればジンギスハーンはチェチェンによくある名だという。

ジンギスハーンの絵(その1)- 車の購入が難しかったソ連時代

ジンギスハーンの絵(その2)- 過去のグロズヌイ

開幕式では女性の司会者がロシア語でジンギスハーンとその作品を紹介し、数人が祝辞を述べた。そのあとジンギスハーンが展示されている個々の作品を解説して回る。参列者は5~60人といったところ。ロシアとの戦争、それに続く強権政治、経済的な困難。苦しみが絶えることのないチェチェンで小規模ながらこうした文化的活動が営まれていることに感動する。こうした活動の積み重ねがチェチェンの未来につながればいいのだが。

チェチェンのダンスを見たいという私の希望から、リハーサルをやっていそうな場所をいくつか訪れたが、明日はチェチェン共和国の建国199年周年という特別な日ということもあり、見学はかなわなかった。

プーチン大通りから少しはずれたところにある市場を見て回る。喧噪がうずまくアジアの市場とはひと味違い、ずっと落ち着いている。悪く言えば、活気がない。中国人の店もあった。ハルビンからやって来たとのことだった。

グロズヌイの市場
 
日が暮れかかるころ、Abdullaの叔父が経営する語学学校だという小さなビルを訪れる。ここで米国在住のチェチェン人女性と茶を飲みながら小一時間話す。数ヶ月の予定でチェチェンに帰省しているところという。30~40代とおぼしきこの女性は生まれも育ちもモスクワだが、戦争が始まる2年前の1994年にグロズヌイに戻ってきたとのこと。現在は米国のシアトルに住み、金融関係の仕事をしているらしい。米国在住で米国の市民権も取得しているにもかかわらず、彼女の英語はほぼ完璧な英国なまりだった。

話題は沖縄(彼女は長寿の沖縄を訪れたいとのことだった)から北朝鮮(私のいくつかのビデオを見せる)、米国の政治、そしてなぜかネパールに及ぶ。彼女は共和党ではないが、移民政策については共和党に同調していた。自分自身が移民であるにもかかわらず。米国社会を支えている暗黙の了解や規範が移民たちによって崩されてしまうというのがその理由だった。

今日の観光の締めくくりは、グロズヌイから車で30分ほどのArgun市にある「ハイテク・モスク」の見学だった。モスクのまわりはグロズヌイ・シティと同様にネオンきらびやかなビルが林立している。ここでもAbdullaは祈りを捧げる。その間私はモスク内部のビデオ撮影。

ハイテク・モスク(カディロフ大統領の母親の名を冠している)

グロズヌイに戻り、SteakHouseで夕食。先ほどの米国在住の女性のお勧めということだった。せっかくのステーキハウスだが、夕食も簡単に済ませた。腹が減っていなかったせいもあるが、昨日渡した2390ドルの中でやりくりしている食事だから、あまり値のはるものは頼みにくい。

明日はチェチェンの建国199年周年の記念日であり、いろいろな行事があるらしい。おかげでGrozny City Hotelのまわりは交通規制されており、車を乗り入れることができない。近くに車を停め、徒歩でホテルに帰った。

せっかくの建国記念日だが、私たちは明日ダゲスタンとの国境近くの湖まで行き、そこで1泊する。このために特別に雇った運転手が朝8時に迎えに来るとのことだ。

2017年10月20日金曜日

チェチェン共和国2017 グロズヌイ到着(チェチェン一日目)

10月3日。

いよいよチェチェン行きだ。昨日調べておいた通り、地下鉄でキエフスカヤ駅まで向かい、アエロエキスプレスに乗って、ヴヌコヴォ空港に到着した。昨日のDmitryのメールの件もあり、はたしてグロズヌイ行きの飛行機が出ているかどうか一抹の不安もあったが、電光掲示板にはちゃんと10時40分発のグロズヌイ行きが明示されていた。UTairのチェックインカウンターは混んでおり、安全検査を通り抜けるまでに2時間近くかかった。念のために空港に早めに来たのは無駄ではなかった。

出発ロビーで私の目の前に2人の女性が座っていた。うち1人はチェチェン風の出で立ちの美人。身近に見るチェチェン。「もうすぐだ」という思いが高まる。スマートフォンを使ってこっそりとこの女性を写真に収めておいた。

チェチェン人の女性

機内に搭乗すると、なんと私の隣はさきほど写真に収めたチェチェン女性。しばらくしてから女性が私にキャラメルをくれる。1つ食べ終わるとさらにもう1つ。日本から持ち込んだ飴玉をお返しに渡して話のきっかけにしたいところだったが、飴玉は頭上の荷物棚に収めたバックパックの中にある。飴玉なしに声をかける勇気はなかった。

飛行機がグロズヌイに着いて席を立つとき、女性は私のほうを見てにっこりと微笑む。すばらしい笑顔だ。拙いロシア語で「日本から来た。(チェチェンには)はじめてだ」とだけ伝えた。

2時間半後の午後1時過ぎ、飛行後はグロズヌイ空港に着陸した。たどり着けるかどうか最後まで半信半疑だったチェチェン。このビザで大丈夫か、許可が必要ではないのか、最悪の場合はロシアないしチェチェンの当局に拘束されることになるのではとの不安。昨日の夜、Dmitryのメールを受け取ったときにはほとんど絶望的になった。そのチェチェンの地に今立つ。思わず"I made it!"と小さく叫んだ。

到着ロビーに足を踏み入れるやいなや、声がかかる。ガイドのAbdulla Bokovだ。私がコンタクトをとっていたのはCaucasus ExplorerのDmitryだが、DmitryはAbdullaにガイドを委託していた。

Abdullaはグロズヌイで英語学校を経営してそこで教えているほか、Caucasian Odysseyという旅行会社を設立してチェチェンをはじめとする北コーカサス旅行を斡旋している。最初からCaucasin Odysseyとコンタクトをとっていたほうが話が早かったが、ネット上の検索ではCaucasus Explorerしかひっからなかった。

Abdullaが運転するトヨタ車でまず向かったのは、グロズヌイから1時間以上離れたUrus-Martanという町にある野外民族博物館(ethnographic open-air museum)。しかし、博物館のオーナーが葬儀出席のために今から出かけるところという。明日の朝に再度訪れて見学することになった。

途中で"English Castle"と呼ばれる廃墟(時間の経過で廃墟になったのか、戦争のせいで廃墟になったのかは不明)を見てからグロズヌイに戻り、Dmitryが予約しておいたGrozny City Hotelにチェックインした。グロズヌイでナンバーワン、つまりチェチェンでナンバーワンの五つ星ホテルだ。もっとも値段はそう高くなく、booking.comで調べると1泊90ドルほど。1万円程度だから、贅沢とはいっても、手が出ないような値段ではない。

Grozny City Hotel

夕食のために街に繰り出す前に、旅行代金の支払いを済ませておきたかった。2390米ドルの現金を持ち歩くはやっかいだ。現金をやっかい払いすると同時に、私が値段を取り決めた相手はAbdullaではなくDmitryだから、金額をはっきりさせておきたいという思いもあった。案の定、ホテル、宿泊、食事、移動すべてひっくるめて総額2390ドルという情報はちゃんとAbudllaに伝わっていなかったようだ。AbdullaがDmitryにその場で電話して金額を確かめたのち、当初の合意通り2390ドルを支払った。この金額がAbdullaにとって満足にいくものであったかどうかはわからない。特に不満そうでもなかったが、うれしそうでもなかった。

すっかり陽の暮れたグロズヌイの街に出て、メインストリートであるプーチン大通り(Проспе́кт Путина)にあるレストランに向かう。

途中、Abdullaの友人という男性に遭遇し、Abdullaの通訳を介して歩きながら話す。Abdullaもそうだが、チェチェンの人たちは日本の事情によく通じている。「津波のあとの日本人の対応がすばらしかった。これには武士道が関係しているのか」と訊かれる。「武士道は現代の日本人にどんような影響を残しているのか」とも。武士道などは一種のフィクションで、その影響など取るに足りないというのが私の見方だが、完全にそうとも言い切れないもどかしさがある。

レストランではチェチェンの伝統料理ということで、牛肉のステーキとチェチェン風ハギス(牛の胃袋に血や内臓、ライスを詰め込んだ、スコットランドのハギスに似た料理)を注文し、さらにKhingalsh(カボチャのタルト)やChepalgash(コテージ・チーズとジャガイモのタルト)を追加した。

チェチェン風ハギス

昼食をとっていなかったこともあり、ハギスを除けばどれもおいしかった。ハギスもまずいわけではないが、すすんで食べたいとは思わない。いずれにしても量が多すぎ、食べきれなかった。ビールがないのが残念だった(アルコール類はホテルのバーなどで飲めるとのこと)。

腹もいっぱいになったところで、チェチェンの新しいシンボルである高層のきらびやかなビルが立ち並ぶホテルに帰る。途中、高層ビル群の手前にあるモスク(「チェチェンの心臓」と呼ばれている)に立ち寄る。Abdullaが祈りを捧げている10分ほど、私は写真を撮りながら内部を見物した。

モスクの内部

グロズヌイの高層ビル群

ホテルに着き、疲れた体を休める。明日から本格的なチェチェンの探訪がはじまる。

最後にチェチェンの現在について簡単に記しておこう。

19世紀中葉のロシアによるコーカサス侵攻とロシア帝国への併合にはじまり、チェチェンの歴史は大国ロシアとの関係に大きく規定されている。1944年にはチェチェンの住民の多く(40万人といわれている)が中央アジアに強制移住させられた。

そしてソ連崩壊後、チェチェン共和国の独立宣言をきっかけとして第一次チェチェン戦争(日本では紛争と呼ばれているが)が始まる。1996年にいったん終息した戦争だが、1999年に再燃し、2009年にようやく終結宣言が出される。

現在のチェチェンはプーチンと組んだカディロフ大統領の強権政治のもとにある。私見だが、カディロフとプーチンとの間に本当の意味での信頼や一致があるものとは思われない。カディロフは自らの独裁のためにロシアの力をお金を利用し、プーチンはとにもかくにも安定をいう思惑から元独立派で乱暴者のカディロフを利用しているといったところか。いわば便宜結婚だ。

カディロフの支配は人権活動や報道への弾圧、腐敗で際立っている。今回の旅の目的のひとつはこの体制のもとで、人々がほんとうのところどのように感じているか、どれだけ思ったことを言えるかを探ることにあった。おいおいわかってくることだが、結論を先取りすれば、チェチェンは「コーカサスの北朝鮮」などでは決してなく、北朝鮮風の全体主義とはほど遠い。今回の旅は北朝鮮の異様さ(よく言えば独自性)を再確認させられる旅でもあった。

2017年10月18日水曜日

チェチェン共和国2017 モスクワでの一日

10月2日。

今日は一日モスクワでゆっくりできる。およそ12年ぶりのモスクワだが、今回の旅行の目的はチェチェンにあるので、モスクワについてはあまり調べておらず、特に計画もない。昨日の総菜の残りで朝食を済ませてから、10時過ぎにホテルを出る。外は寒く、空は曇っている。スマートフォンの表示によれば今朝の気温は4℃だった。

まずはお決まりの赤の広場とクレムリンに向かう。ホテルのあるパルチザンスカヤ駅から赤の広場までは地下鉄で15分足らず。2005年の5月にもここを訪れたが、ちょうど戦勝記念日(Victory Day)だったことから、赤の広場はブロックされており、遠くから眺めるだけだった(代わりに市民のパレードを見ることができたが)。だからはじめて足を踏み入れる赤の広場だ。壮麗な正教寺院やクレムリンの壁よりもまず目に付いたのは中国人観光客の多さ。国慶節と重なっている時期だったこともあるが、普段から中国人が多いことは、看板や標識に中国語が併記されていることからもうかがえる。日本人や韓国人には遭遇しなかった。

曇天下の赤の広場

長い行列に加わってまでクレムリンの中に入る気はしない。赤の広場につながるグム(ГУМ)百貨店をぶらぶらするだけにとどめた。百貨店の中では中国人観光客がインフォメーションのロシア人女性を撮りまくっていた。ツーショットで撮る客もいる。いささか無遠慮とも思えるが、インフォメーションの女性はこんな事態に慣れているのだろうか、笑顔で応じていた。もっともこの場面を脇から盗み撮りしている私も無遠慮さではひけをとらないかな。

グム百貨店の女性と中国人観光客

続いて地下鉄でキエフスカヤ駅に向かった。明日のグロズヌイ行きのUTair機はヴヌコヴォ空港から飛び立つ。ヴヌコヴォ空港に行くにはキエフスカヤ駅からアエロエキスプレスに乗ることになる。このアエロエキスプレスの発着場所を確かめておきたかったのだ。はじめて利用するロシアの国内航空。遅れてはならぬという思いから、ちょっと神経質になりすぎたようだ。わざわざ下調べするまでもない。地下鉄を降りてAeroexpressの表示に従って行けば簡単にたどり着ける。

キエフスカヤ駅近辺のセルフ・サービスの食堂で遅めの昼食を済ませ、まだ陽が暮れていない4時ごろにホテルに戻った。体が疲れていたこともあるが、明日のグロズヌイ行きを控えて、のんびり観光する気になれなかった。

簡単な昼食

ホテルの部屋で休みながら、なにげなくメールをチェックすると、Caucasus ExplorerのDmitryから次のようなメールが入っていた。

Are you sure, that you are coming to Grozny airport tomorrow.
I checked the flights and it seems that you are coming to the airport of
Vladikavkaz by S7 and your departure is also by S7 fro Vladikavkaz.
Also I tried to call you, but your Japanese phone number does not work. Do
you have local phone number?

「ちゃんとグロズヌイ行きの飛行機を予約したのか? Vladikavkaz(北オセチアの首都)行きを予約したのではないか」というのだ。びっくりした。いくらうっかり者の私でもGloznyとVladikavkazを間違えて予約するはずがない。手持ちのUTairのEチケットにははっきりと10時40分発モスクワ発グロズヌイ行きと記されている。だが、念のためにUTairのWebサイトをチェックすると、10月3日のモスクワ発グロズヌイ行きについては"No flight on this day"と表示されている。ロシア語でも同様の表示だ。「10月2日のフライトはない」としか解釈できない。焦った。ここまで来てグロズヌイに行けなければ、モスクワで1週間を過ごして帰国するしかなくなる。UTairに電話で問い合わせたいところだが、Webサイトには電話番号が記載されていない。あわててSkypeを通じてDmitryに電話し、私の予約番号を伝えたうえで、チェックしてくれるように頼む。しばらくしてDmitryから次のようなメールが来た。

I have just checked. Everything is OK with your flight.
We have got wrong information, because all tickets are sold (that is why this flight does not exist for boking systems).

Dmitryの勘違いだったようだ。つまり"No flight on this day"とは「この日のフライトの予約はいっぱい」という意味らしい。誤解を招く表現だ。ホッとしながらも、不安は完全には払拭されないまま翌日を待つことになる。

夕食はホテル近くの昨日とは別の総菜屋から仕入れたサラダと魚、缶ピールですませた。さて明日はどうなることか。

2017年10月16日月曜日

チェチェン共和国2017 モスクワ到着まで

北コーカサスは遠い。地理的にはともかく、歴史的にも文化的にも政治経済的にもいろいろな意味で日本から遠く離れている。南コーカサスも近くはないが、アゼルバイジャン、ジョージア(グルジア)、アルメニアはそれぞれ独立国であり、日本からのツアーも組まれている。これに対し、北コーカサスを構成するロシア連邦内の北オセチア、ダゲスタン、イングーシなどの共和国はその存在さえほとんど知られていない。チェチェンだけは例外で、日本人の間でも耳に馴染みのある地名となっているが、これはもっぱら紛争やテロによるもので、その実態はあまり知られていない。

辺境の地や問題の国にことさら惹かれる私にとって、北コーカサスはずっと狙っていた地域だ。今年の9月ごろネットでこの地域の治安状況などを調べ、今なら行けるという感触を得た。できれば北オセチア、ダゲスタン、イングーシ、チェチェンをすべて周りたいところだが、その時間的余裕はない。ここはやはり、インパクトの強いチェチェン共和国(チェチェニア)に的を絞ろう。

チェチェンに行くにあたって問題となるのはビザの取得とガイドブックの不在。ロシア・ビザはややこしい。ホテルなどの紹介状が必要となり、行程もあらかじめ定めておく必要がある。しかし、ネット上には空バウチャーでロシア・ビザを取得するためのサービスが数多くある。今回はこれを利用することにした。何かあればすぐに日本語で電話で相談できるサービスがいいだろうと思い、下記に依頼した。

ロシアビザセンター

写真とパスポートを送るだけで、1週間後にビザを貼付したパスポートが返ってきた。結果的にこのビザで何ら支障はなかった。

現地のガイドについてはネット上で見つけた下記のエージェンシーと連絡を取り、現地の宿、移動、ガイドを依頼した。

Caucasus Explorer

実際にはこのエージェンシーはグロズヌイ(チェチェンの首都)を拠点する次の旅行会社に丸投げしていた。

Caucasian Odyssey

私をガイドしてくれたのはこの旅行会社のAbdullah Bokov。最初からAbdullahと連絡をとったほうがスムーズだったかもしれないが、私がネットを検索したときにはCaucasian Odysseyはひっかからなかった。

私が希望した10月3日から7日までの4泊5日のガイド付きのチェチェン旅行に対し、Caucasus Explorerが提示した価格は2390米国ドル(約25万円)。ちょっとした金額だが、ガイド、移動費、グロズヌイの五つ星ホテルでの宿泊費、各種入場料、それにKezenoyam湖とダゲスタンまでの険しい山道を越えるための運転手の費用を含んでいるから、決して高くはない。実際、チェチェン滞在中にこれ以外に支払ったのはDVDや地図を購入するためのおよそ1000円のみだった。

行きは9月30日大阪空港発10月1日モスクワ着、帰りは10月9日モスクワ発11日大阪空港着のカタール航空便を予約した。伊丹→羽田→ドーハ→モスクワと、ややこしく時間のかかる航路だが、これが一番安かった(全部ひっくるめて9万円)。モスクワからチェチェンのグロズヌイまではネット上でUTairの便を予約した。正確な料金は失念したが、往復で15000円弱だったように思う。

かくて9月30日の19時30分に伊丹の大阪空港を飛び立つ。ドーハでは8時間以上の待ち時間があったが、カタール航空提供の市内のホテルで休息することができた。ホテルから空港へ向かうミニバスの中でロシア人女性と少し話す。彼女もチェチェンへ行ったことがあり、「(あなたにも)きっと気に入るだろう」と言っていた。「日本には是非行ってみたい。どこか推薦する行き先があるか」と訊かれたが、答えようがない。6月下旬から9月は蒸し暑いので避けたほうがよい、4、5月それに10月がベスト、冬も悪くはないと、時節については助言できても、行き先となると、それぞれの関心や好み次第だから、何とも言えない。

ドーハ市内


ドーハからモスクワへの機内で隣席だったのはカタール航空で働いているキルギス人の男性。ドーハからキルギスまでは直行便がないので、モスクワ経由でビシュケクまで帰るところだという。シュロ(キルギス特有のソフトドリンク)やサウジ、アラブ首長国、エジプトなどによるカタールいじめの影響などについて話す。サウジなどのカタール航空機乗り入れボイコットはかなりの打撃になっているようだった。

東洋人風の客室乗務員が私に日本語で話しかけてきた。なぜ日本人だとわかるのだろう。しかもかなり流暢な日本語だ。日本人かと思ったが、台湾人だった。チェチェン行き、北朝鮮旅行のことなどを話す。彼女は北朝鮮には行っていないが、岩手まで出かけて冷麺を食べたとのことだった。

モスクワのドモジェドヴォ空港に着いたのは夜の8時半。アエロエキスプレスと地下鉄を乗り継いで、予約していたイズマイロボ・アルファ・ホテルにたどり着いたときにはすでに11時近くになっていた。アルファ・ホテルはベータ・ホテルやヴェガ(ベータ・ガンマ)・ホテルと並列されている巨大ホテルだ。これらのホテル群は1980年のモスクワ・オリンピック用に建てられたものらしい。1泊39米国ドル。ここに2泊することになる。

ホテルの近くにある総菜屋でサラダと肉料理、ライスを購入して遅めの夕食とする。サラダと肉はまずまずだったが、ライスはまずく、半分以上残した。

夜更けの晩餐

チェチェン行きは明後日なので、明日はゆっくりできる。チェチェンという特殊な行き先、それでなくても何が起こるかわからないロシアなので、行きと帰りの日程にそれぞれ1日ずつの余裕をもたせておいたのだ。

2017年9月25日月曜日

Édouard Louis: En finir avec Eddy Bellegueule

2017年4月7月読了
著者:Édouard Louis
評価:★★★★★
刊行:2014年

Eddy Bellegueuleという本名に別れを告げたÉdouard Louisが若干21歳で発表した自伝的要素の色濃い作品。フランスでベストセラーとなり、英語や日本語などにも翻訳されている(邦題は「エディに別れを告げて」)

"De mon enfance je n'ai aucun souvenir heureux."(子供時代の幸せな思い出は何一つない)という衝撃的な文章から始まり、子供時代(主にcollege、つまり中学時代)の辛い体験がつづられていく。辛さの原因はいじめと貧困だ。

北フランスの荒廃した工業地帯。貧しい労働者の家に育ったEddy。暴力や荒っぽさが肯定され、「dur」(タフ)であることが最上の価値となる環境で、Eddyは幼いころから際だって女性的だった。仕草や言葉遣いも女性的なら、精神のあり方もそうだ。このため、中学校でひどいいじめに遭い、家庭でも疎外される。

そのEddyが「逃げる」ことを選択し、地元の学校とはひと味違うリセ(高校)に進学して、本来の自分を見いだそうとするところで物語りは終わる。

現在のフランス社会の一断面が生き生きと描かれ、幼い主人公のつらさが伝わってくる。日本ならEddyももう少し楽に生きられたのではと、ふと思った。日本の男の子にはこの本に描かれたほど「男らしさ」が求められないからだ。女性的な男、なよなよした男が一定の存在価値を持っているのが日本だ。もっとも日本にはフランスにはない「集団からのいじめ」があるから、どちらが生きやすいかはそれほど簡単ではない。

Édouard Louisは2016年にHistoire de la violence(暴力の歴史)というタイトルの第2作を発表している。これも是非読んでみたい。

追記:London Review Bookshopが主催したÉdouard LouisのロングインタビューがYoutubeにアップロードされている。英語による1時間を超えるインタービューで、聞き手はマレーシア出身の作家Tash Aw。Louisが描いた暴力や貧困、偏見のauthentity(信憑性)がフランスでも話題になったこと、フランスやフランス人のイメージからはLouisの両親が属する労働者階級が排除されていることなど、興味深い内容が語られる。

Edouard Louis talks to Tash Aw about 'The End of Eddy'
https://www.youtube.com/watch?v=4X3HJnueE5E&t=1064s

 

2017年7月13日木曜日

ハルビン・長春2017 五、六日目(ハルビン、帰国)

6月5日。

ハルビン最終日。今日の宿はbooking.comを通じてすでに予約してある。中央大街にあるホリディインだ。1泊538元(約9000円)と、私にしては(超)高値の宿だが、これを選んだのには理由がある。

明日のフライトは朝の8時だから、6時には空港に到着していたい。ハルビンの市街から空港までは40分以上かかるので、5時ごろにチェックアウトしてタクシーを拾う必要がある。タクシーは予約しておいたほうがいいだろう。こうした事情をホテルのフロントに伝えるには、英語でのコミュニケーションが望ましい。ホリディインなら英語が通じるはずだ。

このような思考は私の過度に慎重な性格を表している。まず早朝のチェックアウトくらいは英語を使わなくても伝えることができる(何年前に貴陽の宿で経験済み)。第二に中国では早朝5時ごろでも簡単にタクシーを捕まえることができる(貴陽と成都で経験済み)。このへんのことは十分にわかっていたが、もしかしたらという不安からホリディインを選んでしまった。だが後悔はしていない。安宿ばかりではなく、たまにはこうした(高級とまでは言えないまでも)普通のホテルを経験するのも悪くない。

ケンタッキーフライドチキンの朝食メニューで朝食を済ませてから、11時前にホリディインにチェックインする。予想どおり英語が通じる。明朝5時にチェックアウトすることを伝え、タクシーを予約しておいた。

ハルビンのホリディイン

部屋で体を休めながら、今日のプランを練る。昨日行けなかった安重根記念館に加え、できれば郊外にある731部隊の遺址にも行ってみたい。だが今日は月曜日だということに気がついた。博物館や記念館の類いは月曜日にはほとんどすべて休館になっている。安重根記念館も731部隊遺址も例外ではない。事前にちゃんと調べておかなかったミスだ。

ともあれ街に出て、観光を開始する。まずロシア正教の聖ソフィア大聖堂に向かう。中央大街から歩いて行ける距離だ。入場料は15元(60歳以上は7元)。ロシア正教の教会は13年前にサンクトペテルブルクを訪れたときにいくつも見ているので、特に印象深いものではなかった。堂内に展示されているハルビンの昔の写真には興味を引かれた。

聖ソフィア大聖堂

昔のハルビン

遅めの昼食は中央大街のロシア料理店「露西亜」でとった。ここのボルシチが「絶品」との評判をネットで知ったからだ。ボルシチ、ビール、メインの鶏料理を注文した。肝心のボルシチはまずまずおいしかったが、「絶品」というほどではない。

腹もいっぱいになったところで、松花江に向かう。松花江はハルビンの中心を流れる川で、ロシア語でスンガリと呼ばれている。この川を渡った向こう側には太陽島公園があり、船やロープウエイで渡ることができる。

中央大街を徒歩で北に進み防洪記念塔に至ると松花江が見える。松花江に沿ってスターリン公園の中を歩き、ロープウエイの乗り場まで行く。往復100元のチケットを買ってロープウエイに乗った。ひとりでケーブルカー1台を占有し、10分ほどかけて太陽島公園に着く。

ロープウエイ

冬には氷雪祭りの会場となる太陽島公園だが、今の季節そう見るべきものとない(と思い込んでいた)。すぐに引き返すことにした(あとで考えると、もう少し探索すればよかった)。

帰りのケーブルカーの中ではハバロフスクから来たロシア人カップルと一緒だった。昔取った杵柄のロシア語で会話を試みる。なんとか会話が成立したのに満足。彼らはモスクワには行ったことがあるが、日本はまだだとのこと。モスクワより東京のほうがずっと近いにもかかわらず。

ケーブルカーを降りて、再びスターリン公園を通り抜けて、中央大街に戻る。公園の中では地元民(主として中高年)が歌やダンスを楽しんでいる。中国のちょっとした都会ならおなじみの光景だが、ロシア民謡の「カチューシャ」などがレパートリーに入っているのはハルビンらしい。

カチューシャを歌う

少し疲れたこともあり、ホテルに戻って体を休め、陽が暮れたころに街に出る。夜の中央大街は相変わらず人通りが多い。昨夜バイオリンを演奏していたモデルンホテルのベランダでは今夜はロシア人男性がアコーディオンを演奏している。

夜の中央大街

夕食は東方餃子でとった。これは中国全土に展開しているチェーン店だが、発祥地はここハルビンらしい。ハルビン最後の夕食をチェーン店でというのも何だかなあ、と思ったものだが、この店はおいしかった。餃子とビールそれに白菜の煮物を付けて30元(450円ほど)。餃子もよかったが、白菜の煮物が絶妙だった。今回の旅行ではじめて満足のいく食事に巡り会った。

東方餃子で夕食

6月6日。

早朝5時にチェックアウト。予約してあったタクシーはすでに待っていた。早朝で混んでいないこともあり、空港までは40分もかからなかった。料金は150元(プラス高速料金の30元)。出国検査では女性の係官が私のパスポートをたんねんに見ていた。アフガニスタンなどのビザに関心があるらしい。わざわざ別の女性係官を呼び寄せて見せたりもしていた。

ハルビン・長春の旅はこのようにして終わった。初日のタクシーのぼったり(というほどの金額ではなかったが)で暗い気分になった旅だったが、長春での偽満皇宮博物院見学やハルビンでの親切な青年との出会いがこれを十分に相殺してくれた。いずれにしても東北三省のすべてに足を踏み入れたことに満足。

2017年7月10日月曜日

ハルビン・長春2017 四日目(ハルビンへ戻る)

6月4日。

10時半ごろに宿をチェックアウトする。ハルビン行きの列車は11時32分発だから、時間はたっぷりある。駅前のチェーン店らしき食堂に入り、、朝食兼昼食のブランチをとることにする。注文したのはトマトと卵の炒め物の定食。あまりおいしくないうえ、量も少ない。まずいというほどではないが、おいしくはない。こと食に関する限り、今回の旅は空振り続きだ。

駅前の食堂でブランチ

駅構内に入り、長い行列に加わって、ハルビン行きの列車を待つ。列車は30分以上遅れ、長春を出発したのは12時過ぎだった。硬座の車内は満席で、立っている人もちらほら。車内販売が大声でにぎやかなのはいかにも中国らしい。弁当や飲み物だけでなく、雑貨(イヤフォン)や名物のお菓子など、なんでも売りに来る。

長春からハルビンへ

3時過ぎにハルビン駅へ着く。駅構内には伊藤博文を暗殺した安重根の記念館があるはずなので探したが、見つからない。ハルビン駅では大幅な改修工事が進行中なので、そのせいだろう。あとで調べると、案の定、記念館は別の場所に移動していた(THAADの配備を巡って中国と韓国の間がぎくしゃくしていることから、この移動を中国側の韓国への報復措置とみなす向きもあるようだ)。

明日最終日の宿はbooking.comを通じてすでに予約してあるが、今日の宿はまだ決めていない。駅の近くより、メインストリートの中央大街に宿をとったほうが便利だろう。中央大街に向けて歩き始める。が、駅から中央大街までは意外に遠くなかなか着かない。

通りがかりの青年に道を尋ねると、「Follow me」と中央大街まで連れて行ってくれた。短い道のりではない。10分以上、おそらく20分近くはかかっただろうか。最後にお礼を言い、握手をして別れた。ハルビン初日にタクシーにぼられたトラウマをずっと引きずっていたが、この青年の親切で相殺された気がした。

中央大街近辺で宿を探す。1軒目は外国人不可とのことで断られ、2軒目は高過ぎた(1泊180元)。3軒目のでやっと128元の部屋を見つけた。

宿に荷物を置いて、中央大街を端から端まで歩く。陽が暮れてくると、かつてのモルデンホテルのベランダでロシア人の女性のダンスやこれまたロシア人の男性のバイオリンソロなどが披露されている。ほかにも、街のところどころの小さなステージでロシア人や中国人が楽器を演奏していた。バスキングではなく、観光客向けの無料のミニコンサートだ。

中央大街

ベランダでバイオリン演奏

夕食は宿の近くのレストランでとった。いつもの安食堂ではなく普通のレストラン。ハルビンビールと肉の単品。これも今ひとつだった。ろくにお金も出さずに、要求するものが高すぎるゆえの不満か。

2017年7月6日木曜日

ハルビン・長春2017 三日目(長春)

6月3日。

今日は丸一日長春の観光にあてることができる。だが観光に先立って、明日のハルビン行きの列車の切符を購入しておきたい。

昨日超市(スーパー)で購入したパンで朝食を済ませから、駅に向かい、切符を購入する。ハルビン西駅行きの列車は数多くあるが、ハルビン行きの列車はそう多くない。午前11時32分発の切符を購入した。ハルピン駅到着は14時49分。およそ3時間の列車の旅で料金は40元(600円ほど)だ。これにはちょっとびっくり。4時間以上かかるバスの料金(50元)より高いはずだと思っていたからだ。列車より高くてしかも遅いバスへの需要がどこから出てくるのか、今でもよくわからない。

切符を確保してからまず向かったのが、偽満皇宮博物館。これは満州国皇帝の溥儀の宮殿だ。この建物は新宮殿建造までの仮宮殿ということだったが、結局新宮殿が建てられることはなく、溥儀は1932年から1946年の退位までここで過ごすことになる。中国政府は満州国を認めていないから、旧満州国の遺跡にはすべて「偽」という接頭辞が付く。

駅から博物館まではタクシーで行った。ハルビン初日のタクシーでは苦い目に遭ったが、普通に街を流しているタクシーはまず安心して乗れる。20分くらい乗ってもおせいぜい30元だ。

偽満皇宮博物館の入場料は80元(65歳以上は無料)。隣接する東北陥落史陳列館と併せて、かなりの大きさだ。混み合うというほどではないが、見学者の数も多い。ほとんどが中国人。ここは長春随一の観光スポットなのだろう。

偽満皇宮

溥儀の執務室や居室、関東軍将校の執務室などを見て歩く。各種事件を伝える日本の新聞、満州国軍、警察、関東軍の軍服や武器、満蒙開拓団関連の陳列などが興味深い。「皇帝から公民へ」というコーナーでは溥儀の生涯が順を追って展示されていた。いくつかの歴史的な場面が蝋人形で再現されている。なかなかの迫力だ。

満州国官吏の制服

2歳の宣統帝(溥儀)の蝋人形

近衛文麿の書

満州開拓村の看板

この博物館では3時間半ほど過ごした。展示物をおもしろく見て回れたのには、ちょうど船戸与一の「満州国演義」を読んでいるところで、付け焼き刃ながら多少の知識と関心があったことが大きい。美術館や博物館は見る側に興味も知識もなければ「豚に真珠」でしかない。

博物館の外に出たときには1時半になっていた。博物館に付属しているレストランで遅めの昼食をとることにした。麺とキムチ、白酒(中国の焼酎)を注文。なぜか麺はのびており、おいしくない。キムチもしゃっきとした歯ごたえがない。白酒は私には強すぎる。

続いてタクシーで新民大街に出て、満州国国務院、満州国軍事部、司法部などの跡(これらの多くは現在吉林大学医学部の建物として使われている)を見ながら、南湖公園まで歩く。公園に着いたところで雨が降ってきた。公園内を散策する予定をとりやめ、傘をさしてメインストリートの人民大街に向かって歩く。

満州国軍事部旧跡(現在の吉林大学医学部付属病院)

しばらく歩くと雨は止んだ。途中散髪屋があったので入る。カットで20元だった。中国で散髪をするのは3回目だ。四川省の甘孜で30元、大連で35元だったから、20元は安い。

人民大街からバスで駅前の宿に戻った。屋台のオムレツのような食べ物を購入して夕食とした(5元だっただろうか、8元だっただろうか。屋台でよく見かけ、いかにもおいそうなので、いつか試してみようと思っていた食べ物だ。卵焼きの中身は一種の麺だった。それほどおいしく感じなかったが、これは1時半という遅い時間に昼食をとってために腹が空いていなかったせいだろう。

屋台で買ったオムレツ風食べ物