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2017年10月20日金曜日

チェチェン共和国2017 グロズヌイ到着(チェチェン一日目)

10月3日。

いよいよチェチェン行きだ。昨日調べておいた通り、地下鉄でキエフスカヤ駅まで向かい、アエロエキスプレスに乗って、ヴヌコヴォ空港に到着した。昨日のDmitryのメールの件もあり、はたしてグロズヌイ行きの飛行機が出ているかどうか一抹の不安もあったが、電光掲示板にはちゃんと10時40分発のグロズヌイ行きが明示されていた。UTairのチェックインカウンターは混んでおり、安全検査を通り抜けるまでに2時間近くかかった。念のために空港に早めに来たのは無駄ではなかった。

出発ロビーで私の目の前に2人の女性が座っていた。うち1人はチェチェン風の出で立ちの美人。身近に見るチェチェン。「もうすぐだ」という思いが高まる。スマートフォンを使ってこっそりとこの女性を写真に収めておいた。

チェチェン人の女性

機内に搭乗すると、なんと私の隣はさきほど写真に収めたチェチェン女性。しばらくしてから女性が私にキャラメルをくれる。1つ食べ終わるとさらにもう1つ。日本から持ち込んだ飴玉をお返しに渡して話のきっかけにしたいところだったが、飴玉は頭上の荷物棚に収めたバックパックの中にある。飴玉なしに声をかける勇気はなかった。

飛行機がグロズヌイに着いて席を立つとき、女性は私のほうを見てにっこりと微笑む。すばらしい笑顔だ。拙いロシア語で「日本から来た。(チェチェンには)はじめてだ」とだけ伝えた。

2時間半後の午後1時過ぎ、飛行後はグロズヌイ空港に着陸した。たどり着けるかどうか最後まで半信半疑だったチェチェン。このビザで大丈夫か、許可が必要ではないのか、最悪の場合はロシアないしチェチェンの当局に拘束されることになるのではとの不安。昨日の夜、Dmitryのメールを受け取ったときにはほとんど絶望的になった。そのチェチェンの地に今立つ。思わず"I made it!"と小さく叫んだ。

到着ロビーに足を踏み入れるやいなや、声がかかる。ガイドのAbdulla Bokovだ。私がコンタクトをとっていたのはCaucasus ExplorerのDmitryだが、DmitryはAbdullaにガイドを委託していた。

Abdullaはグロズヌイで英語学校を経営してそこで教えているほか、Caucasian Odysseyという旅行会社を設立してチェチェンをはじめとする北コーカサス旅行を斡旋している。最初からCaucasin Odysseyとコンタクトをとっていたほうが話が早かったが、ネット上の検索ではCaucasus Explorerしかひっからなかった。

Abdullaが運転するトヨタ車でまず向かったのは、グロズヌイから1時間以上離れたUrus-Martanという町にある野外民族博物館(ethnographic open-air museum)。しかし、博物館のオーナーが葬儀出席のために今から出かけるところという。明日の朝に再度訪れて見学することになった。

途中で"English Castle"と呼ばれる廃墟(時間の経過で廃墟になったのか、戦争のせいで廃墟になったのかは不明)を見てからグロズヌイに戻り、Dmitryが予約しておいたGrozny City Hotelにチェックインした。グロズヌイでナンバーワン、つまりチェチェンでナンバーワンの五つ星ホテルだ。もっとも値段はそう高くなく、booking.comで調べると1泊90ドルほど。1万円程度だから、贅沢とはいっても、手が出ないような値段ではない。

Grozny City Hotel

夕食のために街に繰り出す前に、旅行代金の支払いを済ませておきたかった。2390米ドルの現金を持ち歩くはやっかいだ。現金をやっかい払いすると同時に、私が値段を取り決めた相手はAbdullaではなくDmitryだから、金額をはっきりさせておきたいという思いもあった。案の定、ホテル、宿泊、食事、移動すべてひっくるめて総額2390ドルという情報はちゃんとAbudllaに伝わっていなかったようだ。AbdullaがDmitryにその場で電話して金額を確かめたのち、当初の合意通り2390ドルを支払った。この金額がAbdullaにとって満足にいくものであったかどうかはわからない。特に不満そうでもなかったが、うれしそうでもなかった。

すっかり陽の暮れたグロズヌイの街に出て、メインストリートであるプーチン大通り(Проспе́кт Путина)にあるレストランに向かう。

途中、Abdullaの友人という男性に遭遇し、Abdullaの通訳を介して歩きながら話す。Abdullaもそうだが、チェチェンの人たちは日本の事情によく通じている。「津波のあとの日本人の対応がすばらしかった。これには武士道が関係しているのか」と訊かれる。「武士道は現代の日本人にどんような影響を残しているのか」とも。武士道などは一種のフィクションで、その影響など取るに足りないというのが私の見方だが、完全にそうとも言い切れないもどかしさがある。

レストランではチェチェンの伝統料理ということで、牛肉のステーキとチェチェン風ハギス(牛の胃袋に血や内臓、ライスを詰め込んだ、スコットランドのハギスに似た料理)を注文し、さらにKhingalsh(カボチャのタルト)やChepalgash(コテージ・チーズとジャガイモのタルト)を追加した。

チェチェン風ハギス

昼食をとっていなかったこともあり、ハギスを除けばどれもおいしかった。ハギスもまずいわけではないが、すすんで食べたいとは思わない。いずれにしても量が多すぎ、食べきれなかった。ビールがないのが残念だった(アルコール類はホテルのバーなどで飲めるとのこと)。

腹もいっぱいになったところで、チェチェンの新しいシンボルである高層のきらびやかなビルが立ち並ぶホテルに帰る。途中、高層ビル群の手前にあるモスク(「チェチェンの心臓」と呼ばれている)に立ち寄る。Abdullaが祈りを捧げている10分ほど、私は写真を撮りながら内部を見物した。

モスクの内部

グロズヌイの高層ビル群

ホテルに着き、疲れた体を休める。明日から本格的なチェチェンの探訪がはじまる。

最後にチェチェンの現在について簡単に記しておこう。

19世紀中葉のロシアによるコーカサス侵攻とロシア帝国への併合にはじまり、チェチェンの歴史は大国ロシアとの関係に大きく規定されている。1944年にはチェチェンの住民の多く(40万人といわれている)が中央アジアに強制移住させられた。

そしてソ連崩壊後、チェチェン共和国の独立宣言をきっかけとして第一次チェチェン戦争(日本では紛争と呼ばれているが)が始まる。1996年にいったん終息した戦争だが、1999年に再燃し、2009年にようやく終結宣言が出される。

現在のチェチェンはプーチンと組んだカディロフ大統領の強権政治のもとにある。私見だが、カディロフとプーチンとの間に本当の意味での信頼や一致があるものとは思われない。カディロフは自らの独裁のためにロシアの力をお金を利用し、プーチンはとにもかくにも安定をいう思惑から元独立派で乱暴者のカディロフを利用しているといったところか。いわば便宜結婚だ。

カディロフの支配は人権活動や報道への弾圧、腐敗で際立っている。今回の旅の目的のひとつはこの体制のもとで、人々がほんとうのところどのように感じているか、どれだけ思ったことを言えるかを探ることにあった。おいおいわかってくることだが、結論を先取りすれば、チェチェンは「コーカサスの北朝鮮」などでは決してなく、北朝鮮風の全体主義とはほど遠い。今回の旅は北朝鮮の異様さ(よく言えば独自性)を再確認させられる旅でもあった。

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