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2020年11月24日火曜日

Édouard Louis: Qui a tué mon père

2020年11月23日読了

著者:Édouard Louis

刊行:2018年

評価:★★★★★

1992年生まれの若手フランス人作家Édouard LouisによるQui a tué mon père(誰が私の父を殺したか)は、En finir avec Eddy Bellegueule(エディに別れを告げて)とHistoire de la violence(暴力譚)に続く彼の3つ目の作品だ。第1作も第2作もそれほど長くはないが、この3作目は80ページ余と、ことのほか短く、Romanと呼ぶのに躊躇するほどである。なにぶんにもフランス語だから、私が読了するには数日かかったが、ネイティブのフランス人なら2、3時間で読み終わるだろう。

内容は処女作のEn finir avec Eddy Bellegueuleにつながる。続編というわけではない。処女作を補完する補遺といったところか。叙述のほとんどはTu(「あなた」の親称)を使って父親に語りかける形式になっている。

作者が生まれ育ったのは北フランス工業地帯の小さな町(作品ではvillage、つまり村となっている)である。住民の多くは地元の工場で働いている。作者の父親はリセ(高校)を終えてからの5年間を南フランスで過ごす。「現実を忘れる権利」を享受する期間を「青春(jeunesse)」と呼ぶなら、南フランスでの5年間はまさにその青春を引き延ばすためのあがきでもあった。

父親は結局生まれ故郷の村に戻り、地元の工場に勤める。しかし工場で事故に遭い、背中を傷める。その後遺症も癒えない中、不景気の煽りを喰い、工場を辞める。ままならない身体のまま、やっとありついたのは道路掃除の仕事だ。毎日腰をかがめて、長時間、道路を掃いている。

久しぶりに帰郷した作者が見た父親に昔の面影はない。歩くのもやっとの疲れ切った姿。50歳になったばかりだというのに。

父親やその周辺を支配しているのはmasculinité(男らしさ)という価値観だ。男にはなによりもマッチョであることが求められる。ゲイである作者がこうした環境に別れを告げ、高等教育を受けるまでのプロセスが処女作En finir avec Eddy Bellegueuleの主題だった。

本書は父親にまつわるランダムな思い出やエピソードからなる。たとえば2004年の次のようなエピソードを紹介しておこう。

中学校で冷戦とベルリンの壁について学んだ作者。ベルリンが壁で分断されていたという事実に衝撃を受け、好奇心をおおいにかきたてられる。ヨーロッパが2つに分かれてたなんて。道の真ん中に壁が建てられ、行き来が不可能になるとは。

作者は急いで家に帰る。父親なら壁が崩壊したときには成人になっており、もっと詳しい情報が得られるはずだ。「壁を実際に見た人を知っているか、実際に壁に触った人に会ったことはあるか」などの数多くの質問を抱えて家に急ぐ。

父親の回答は漠然としていた。「そんなことがあったね。テレビで報道されているのを見た」。しつこく質問すると、父親は怒り出して怒鳴る。怒鳴るのはいつものことだが、このときの怒鳴り方はいつもとは違っていた。怒鳴り声の中に「恥辱(honte)」が混じっていたのだ。無知であることの屈辱。学校で教える歴史と父親の歴史は重ならない。

「マッチョであること」の中には学校や教師に対する反抗も含まれ、勉強は軽蔑される。教師に平手打ちを喰らわせた作者の従兄弟は、そのことでみんなから賞賛される始末だ。かくて社会的な階段を上がることをみずから拒否し、貧困が再生産される。

物語も終わりに近づいたころ、「政治」が登場してくる。シラク、サルコジ、オランド、マクロンといった歴代の大統領の名前が挙げられ、彼らの行った社会保障の減額や労働時間の延長とった政策が糾弾される。「私の父を殺した」(実際に死んでいるわけではないが)のはこうした政治家とその政策であり、社会のシステムだ。「持てる者、支配する者」にとっては政治とは「美学の問題」であり、「世界観の問題」でしかない。しかし「持たざる者、支配される者」にとっては政治は生活に直接影響する「生きるか、死ぬか」の問題なのだ。

短い小説だが、無駄な行は一行もなく、濃密な内容がぎっしりと詰まっている。ここ数年に読んだ本の中では出色、まぎれもなくナンバーワンだ。英訳や独訳は出ているが、残念ながら日本語には訳されていない。

作者のÉdouard Louisが本書について語っている動画がいくつかYoutubeにアップされている。たとえば次の動画ではLouisが英語でインタビューに答えている。

Édouard Louis and Kerry Hudson: Who Killed My Father?


フランス語でのインタビューは次の動画。

« Qui a tué mon père », le nouveau livre d'Édouard Louis





2020年9月30日水曜日

Victor Hugo: Les Misérables

2020年9月28日読了

著者:Victor Hugo

刊行:1862年

評価:★★★★☆

Kindle版(110円)

1年以上かけてようやく読み終えた。「読み終えた」というのは必ずしも正確ではない。ざっと目を通したという部分も少なからずあるからだ。ユーゴーの小説のご多分に漏れず、この作品にも本筋には直接関係しない脱線が多い。たとえば、ワーテルローの戦いの推移、フランスの隠語や俗語についての考察、パリの下水道の歴史など。しかもそれぞれ長い。ワーテルローの戦いの章の最後の数ページだけは話の展開に大きく関係してくるが、その他の脱線は字義通り脱線であり、読んでも読まなくて本書の理解には影響しない。

こうした脱線にも一応は目を通した。ただし、大部分は活字を目で追っていただけで、頭にはほとんど入らなかった。なにぶんにも古い言葉や専門用語が頻出し、いちいち調べて理解しようとすると、たいへんな手間だ。

これに反し、本筋のストーリーは非常にわかりやすい文章で書かれている。波乱に富んだ物語なので、おもしろくすいすいと読める。

波乱に富んではいるが、偶然と偶然が重なる展開で、劇画風と言えなくもない。

しかし、ユーゴーの小説の魅力は破天荒なストーリーだけでなく、登場人物の造形の見事さにもある。「93年」や「ノートルダム寺院」と同様、感情の振幅が激しい人物たちが極端から極端へと駆け抜ける。

たとえば、異常な情熱でジャン・バルジャンを追うジャベール(Javert)警部。ジャベールは「悪漢」ではない。彼独自の「法律」という論理に操られているだけだ。この論理が破綻しそうになるとき、彼自身も破綻する。

最初から最後まで小悪党として暗躍するテナルディエ(Thénardier)も重要な役を担っている。この貧弱な小男は、もともとは宿屋兼食堂の主だった。ケチで小狡くはあるが、客に愛想よく、曲がりなりの学もある。大柄で乱暴なテナルディエの妻も心に残る人物で、その図体にもかかわらず夫に盲目的に従う。この二人の悪党の間に生まれた子供たちも、それぞれの個性で際立つ。なかでも、歌を歌いながら暴動に加わる陽気なガヴローシュ (Gavroche)少年は、パリのストリートチルドレンの代名詞となっているくらいだ。

もちろん美男と美女のマリウスとコゼットも欠かせないが、正直なところ、彼らに対しては悪漢や性格破綻者などのどぎつい人物に対するような興味を覚えなかった。

レ・ミゼラブルにはじめてふれたのは小学生のころ。岩波少年文庫に収められている豊島与志雄訳を読んだ(「レ・ミゼラブル」ではなく、「ジャン・バルジャン物語」というタイトルだったかもしれない)。そのあとで映画も見た。したがって、おぼろげながらストーリーは知っているつもりだった。しかし、今回曲がりなりにもフランス語で全編を読み、少年のころの記憶や印象の訂正を余儀なくされた。私の記憶では、マリウスとコゼットが結ばれたところで話しは終わっていた。また、ジャン・バルジャンとジャベールの追跡劇が話の軸となっており、テナルディエ一家についてはほとんど覚えていなかった。

岩波少年文庫のほうは豊島与志雄の訳だから、大幅な省略はあったとしても、肝心なポイントは外していないはずだ。要するに私が覚えていなかっただけだろう。記憶といい印象といい、かくまでに頼りない。

1832年の暴動についてフランス革命の一幕と受け取っていたが、小学生という年齢を考えれば、これはやむを得ないだろう。

ともかくこの有名な長編を最後のページまで読んだことで、ホッとし、満足している。期待通りのおもしろさではあったが、ユーゴーの作品としては、3つの個性がドラマティックに衝突し絡み合う、コンパクトにまとまった「93年」のほうに軍配を上げる。

乗りかかった船だ。もうしばらくユーゴーに付き合おう。次はKindleから無料で入手できるLe Dernier jour d'un condamné(死刑囚最後の日)だ。

 

2020年9月19日土曜日

Vasily Grossman: Life and Fate


2020年9月16日読了
著者:Vasily Grossman
刊行(完成):1960年
評価:★★★★☆
Kindle版(1158円)
ロシアの作家Vasily Grossman(1905 ー 1964)の代表作Жизнь и судьбаの英訳版。邦訳もされており、「人生と運命」というタイトルで出版されている。しかし、この日本語版は全3冊からなり、合計で2万円近くする。ここは1000円ちょっとの英語版を選びたい。Kindleの電子ブックというのも英語版の利点だ。ロシア語の小説にありがちだが、登場人物の名前が長く複雑で、途中で誰のことなのかわからなくなることもまれではない。電子ブックの検索機能がありがたい所以だ。

Life and Fateは1942年から1943年にかけてのスターリングラード攻防を背景にした長編小説(Kindle版で870ページ)で、トルストイの「戦争と平和」にも比せられる。

1960年に完成したこの作品がロシアで出版されたのは1988年のこと。スターリン批判以降のソ連もこの作品を許容するほど寛容で自由な社会ではなかった。このことは逆にこの作品が秘めている力の証かもしれない。

物語はモスクワからカザンに疎開しているユダヤ系の物理学者一家を中心に展開される。主人公の母親はドイツ軍占領下のウクライナでユダヤ人狩りの犠牲となり、知人の女医も収容所に送られ、ガス室で絶命する。

理不尽な力はナチス・ドイツだけから迫ってくるのではない。ナチス・ドイツと戦うソ連の社会や軍の中でも国家の理不尽な力が個人を押し潰そうとする。スターリンとベリアの体制のもと、人々はたえず密告におびえ、粛清の危険にさらされる。ばりばりの旧ボリシェビキがある日突然逮捕される。ユダヤ人に対する隠微な攻撃も姿を現してくる。反ユダヤ主義はナチスだけの専売特許ではない。

物理学者の一家とその親族、同僚を語り手として場面は転変し、物語は多面的な広がりを見せる。ソ連の物理研究機関、スターリングラードの戦闘、ドイツ軍の捕虜収容所、ユダヤ人収容所、ソ連の政治犯収容所などのほか、包囲されたドイツ第6軍の司令官のPaulusの視点からの描写もある。ヒトラーやスターリンも姿を見せる。

このようにスターリングラードの攻防と当時のソ連社会を重層的に描こうとする作品ではあるが、私には若干の不満が残る。登場人物が概して立派すぎるのだ。知的レベルも高く、良心の葛藤に苦しみこそすれ、根っからの悪人は少ない。「彼女はバルザックとフロベールの違いすら知らない」と誰かが誰かを揶揄する場面があるが、当時のソ連社会でこうした会話が交わされるのはかなり例外的な家族だろう。

ポーランド、ドイツ、満州への侵攻時に略奪や陵辱の当事者となったソ連軍兵士もいるはずだ。こうした普通の兵士たちの苦しみと狂気をもくみ上げてこそ、戦争を総合的にとらえることができるのではなかろうか。

本書を読む前提知識を得るために、「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」(岩波新書・大木毅)に目を通した。これはこれでおもしろかったが、Life and Fateを読み進めるうえで、スターリングラード攻防に関する詳細な知識は必ずしも必要ではない(もちろんあるにこしたことはない)。他方、1937年のモスクワ裁判(スターリンによる粛清)や農業集団化とクラーク(富農)への攻撃、ユダヤ人医師団陰謀事件など、ソ連の歴史に関するおおよその知識は本書の理解に不可欠と言えよう。

2020年3月17日火曜日

フィリピン戦跡巡り 十三日目(帰国、若干の感想)

2月26日。

関空行きのエアアジア便は8時35分にマニラ空港のターミナル3を発つ。5時半にホテルをチェックアウトして、Victoria Linerのバス・ターミナルに向かう。6時にこのターミナルから空港行きのシャトル・バスが出る。

時間には余裕があるはずだったが、6時過ぎのマニラはすでに渋滞気味で、しかもターミナル3は最後の停留所だったため、少し焦った。ターミナル3でバスから降りたときには、7時を過ぎていた。

しかしエアアジアのチェックイン・カウンターにはほとんど誰も並んでおらず、ほっとする。行きの関空のカウンターが長い行列だったのといい対照だ。これもコロナウィルスの影響だろうか。

ペソがいくらか残っていたので、土産物を購入し、ホットドッグで朝食をとる。

機内は半分も埋まっていなかった(行きはほぼ満席だった)。関空には13時過ぎに到着。この時間帯にもかかわらず、空港の中は閑散としていた。

フィリピン戦跡巡りの旅はこのようにしてコロナ騒ぎがパニックの様相を呈する直前に終わった。

この旅で感じたこと、思ったことをいくつか挙げておこう。

戦跡巡りとは銘打ってみたものの、訪れたのはレイテ島、マニラ、バギオだけであり、しかもそれぞれ2、3箇所を見たにとどまる。文字通り「見た」だけであり、「足を踏み入れた」だけだ。もちろんこれは私の準備不足の結果であり、宿題をせずに出かけたツケと言えよう。

マッカーサー・レイテ上陸の像(タクロバン)

サンチャゴ要塞の門(マニラ)

といってもフィリピンの戦跡をくまなく巡るのはそう簡単ではない。沖縄に比べれば、空間的にはるかに広く、時間的にも倍以上に長く戦闘が展開された。しかもルソン島の戦いは山の中で戦われた。今でもアクセスが容易でない。タクシーをチャーターするしかないケースも多々あるだろう。事前勉強に加え、時間とお金をたっぷり用意しなければならない。

不十分とはいえ、今回の戦跡巡りが無意味だったわけではない。これまでフィリピン戦についてはほとんど何も知らなかった。100万人のフィリピン人が犠牲になり、日本軍の死者も中国大陸のそれを上回る50万近くだったという基本的な知識すらなかった。今回の旅は少しは調べてみようというきっかけをつくってくれた。おかげでフィリピン戦のおおよその流れを知ることができた。

戦跡から離れ、フィリピンについて感じたことをランダムに挙げてみる。

まずショッピングモールの多さ。大型のショッピングモールがマニラのいたるところにあり、バギオにもあった。タクロバンでもかなり大きなスーパーマーケットを見かけた。それぞれ立派なフードコートを備え、どれも賑わっていた。

フィリピン人の平均月収は3万円程度とどこかで読んだ。フードコードで食べれば1食200ペソ(420円くらい)はする。ショッピングモールを訪れるフィリピン人は一部の富裕層というわけではない。バギオで会った日本人女性は「フィリピンでも中間層が増えた」と言っていた。他方、貧富の差か拡大する一方という報道もある。フィリピンにはバナナやマンゴーなどの農産物を除き輸出産業が見当たらない。中東などで働くフィリピン人の送金があれだけの規模、あれだけの数のショッピングモールを支えているとは思えない。このへんの事情は謎のまま残った。

フィリピンの人たちが親切でフレンドリーであることは旅のブログや動画で多くの人が報告している。今回の旅ではこの点もみずからの体験を通じて確かめることができた。フィリピンはぜひまた訪問したい国のひとつになった。

その一方で、フィリピンといえば「危ない」というイメージもつきまとっている。スリや置き引き、睡眠薬強盗、両替のごまかし等々。銃社会という一面もある。

10日程度の旅行で軽々の判断はできないが、こと今回の旅行に関する限り、治安上の不安を感じたことはない。夜中にひとりで人気のない場所に出かけたりはしていないという条件付きだが。

一度だけ欺されそうになったことがある。マニラに滞在して2日目か3日目のこと、あるショッピングモール(SM Mall of Asiaだったかもしれない)をぶらぶらしていたとき、40歳くらいの男が日本語で話しかけてきた。ホテルの警備員をしており、私を知っていると言う。そのときはSogo Hotelに滞在していたので、「Sogo Hotelか」と訊くと、そうだとの答え。日本語は日本で働いていたときに覚えたと言う。

相手の言うことになんの疑いももたなかった私は、奇遇を喜び握手を求める。男は「今日は非番だ。妻と子供は向こうにいる」と遠くを指すが、誰が妻で誰が子供かは判別つかない。そのまま別れようとしたが、男は私に付いてきて「今日は子供の誕生日だ。ケーキを買ってやりたいが、給料が少なくて買ってやれない。子供のために100ペソくれないか」と言う。

この段になっても私はまだ男を疑っていなかった。「100ペソくらいなら都合してやってもいいか」とチラッと考えたくらいだ。しかし男に金を渡すことはしなかった。男を信用しなかったというより、お金を恵むという行為そのものが心にひっかかったからだ。

この話のうさんくささに気が付いたのは宿に戻ってからだ。お金を与えていたところで被害は100ペソ(210円ほど)だけだから、どうということはないが、気分は悪くなっていただろう。

ホテルの警備員を自称していたこの男、翌日もまたその翌日もSogo Hotelで顔を合わせることはなかった。あとで読んだ本によると、フィリピンでは「誕生日」という言葉に注意が必要とのことだった。

警備員といえば、その数が多いことも今回気付いたことのひとつだ。ホテル、ショッピングモール、レストラン、駅の入口、バス・ターミナルと、ちょっとしたした公共の場には必ず警備員が配置されている。大多数は男性だが、女性の警備員もいる。

警備員はフィリピンの雇用にかなり大きな割合を占めているようだ。長い労働時間に低賃金で、労働条件は劣悪と言われている。生産的な仕事ではないが、フィリピンの治安の安定化には貢献しているのかもしれない。

最後に今回の12泊の旅行に要した費用をまとめておこう。

まずエアアジアの関空・マニラ往復便航空券が3万2千円。空港到着日に5万円を両替し、さらにマニラの街中で100ドルを替えた。両替総額は約61000円になる。両替したペソはほぼ使い切った。これらに加え、マニラ・タクロバンの往復航空券(11000円)、コレヒドール島ツアーの代金(約6000円)、Grabの代金(約900円)をクレジットカードで支払った。すべて合計すると、11万900円になる。10泊のサウジアラビア旅行の約半額だ。妥当なところか。ちょっと後悔しているのは、食事を節約しすぎたこと。大半の食事をファーストフードやセブンイレブンで済ませてしまった。お金はかかっても、もう少しちゃんとしたものを食べるべきだった。


2020年3月16日月曜日

フィリピン戦跡巡り 十一、二日目(マニラ)

2月24日。

Victoria LinerのFirst Classバスは11時10分にバギオのターミナルを出発し、4時過ぎにマニラに着いた(マニラからバギオへの代金は800ペソだったが、バギオからマニラまではなぜか680ペソだった)。

バギオを出る

帰国日の26日までの2泊はOYO 501 Yuj Inn Pasayを予約していた。Victoria Linerのターミナルから歩いて10分もかからないこと、空港までも相対的に近いこと、そしてなによりシャワー・トイレ付きの個室が1080ペソ(2200円ほど)と安いことが決め手になった。

先日宿泊したSogo Hotelとも近い。部屋は狭いが、Sogo Hotelより安く、Sogo Hotelより快適だった。

OYO 501 Yuj Inn Pasayの狭い部屋

チェックイン後にホテルのまわりをぶらぶらして1日を終えた。夕食はちょっと大きめのトロトロ(ローカル食堂)で済ませた。

2月25日。

フィリピン最後の日。今日1日は特に目的を決めず、マニラをゆっくりと見て回るつもりだ。

Edsa駅に向かう途中、大通りにつながる裏道に足を踏み入れてみた。雑然とした細い路地が長く続いている。細い路地の一方の側には小さな「店」がいくつも出ており、衣服を並べたり、食べ物を売ったりしている。もう一方の側はトライシクル(3輪タクシー)の列だ。客を待っているトライシクルではなく、ただ置いてある。おそらくここのここの住民の多くがトライシクルの運転手なのだろう。

路地に入る

スラムではないが、豊かではない。「豊かではない」などという遠回しな言い方はやめよう。かなり貧しいエリアだ。マニラの貧しい人たちの日常生活に興味を惹かれ、動画に収めながら歩く。

生活がそのまま表に出ているこんな風景を撮影してひんしゅくを買うのでないか。罵倒されるのではないか、石を投げられるのではないかと、遠慮しながら撮影を開始したが、反応は逆だった。「ハロー」と声をかけてくる子供たち。ピースサインをしたり、手を振ってくれるおばさんたち。

パサイの裏通り

路上で遊んでいる子供たちの中を通ったとき、背後から「コロナウィルス」という言葉が聞こえた。明らかに私に投げかけられたものだ。ちょっと説教してやろうと、振りかえったが誰が発したのか見当がつかなかった。まあそれほど悪意があったとも思われない。

ギターと歌声が聞こえる。上半身裸の中年の男性3、4人、ビールを飲みながらギターをかき鳴らし、放吟しているのだ。。私にもビールを勧めてくる。プラスチックのコップに一杯、ぐっと飲み干した。

うちの1人が日本語をしゃべる。日本で働いていたとこのこと。日本語に切り替え、どこで働いていたのか尋ねる。名古屋や群馬など、いろいろ回っていたらしい。「どんな仕事をしていたのか」との問いには「ゲンバ」との答え。「現場」のことだ。この言葉が妙なリアリティを持っていた。それこそ日本の現場でしか学べない語彙だ。

今日は平日の火曜日。元気で陽気なのはいいが、朝の10時半から路上で宴会はどうなのか。

裏通りの子供

路上の宴会

Edsa駅近くの裏道を歩いていたつもりだったが、いつのまにかEdsa駅の隣のBaclaran駅に出ていた。

Baclaran駅界隈

Baclaran駅から高架鉄道に乗り、Pedro Gil駅で下車。近くのPaco Park & Cemetry(パコ公園・墓地)に立ち寄ってから、北に向かって半時間ほど歩き、SMショッピングモールに着く。

時刻は1時半を過ぎている。フードコートのTokyoというレストランに入り、Tonkatsu Bentoを注文する。スタンダードとアップグレードの2種類があり、アップグレードを選択。どこがアップグレードなのかよくわからなかったが、おそらくみそ汁とデザートが付いていたことがそれだろう。値段は250ペソ(520円ほど)。味は値段相応。弁当ボックスに入ってはいたが、あくまでフィリピン風の豚カツだった。

豚カツ弁当

昼食後、エルミタに向かい、マビニ通りを歩く。この界隈はマニラ随一の歓楽街のはずだが、昼間はその面影はなく、ひっそりしている。日本語の看板もちらほら。カラオケバーだろうか、「おんな」という大きな看板があるのには笑ってしまった。

「おんな」の看板

Robinsonsショッピングモールに立ち寄ってからPerdo Gil駅に向かい、宿に戻る。夕食はセブンイレブンで調達。明日のフライトは8時35分。早朝にチェックアウトしなければならない。

2020年3月14日土曜日

フィリピン戦跡巡り 八~十日目(バギオ)

2月21日~23日。

バギオについては、これまでとちょっと趣向を変えて、時系列に沿った記述ではなく、3日間の滞在を項目別にまとめてみよう。

バギオ

ルソン島北部の高地に位置するバギオはマニラに比べればずっと涼しい。2月の今、気温は17、8度でちょうどよい。朝方になると、毛布1枚では寒いほどだった。

人口は25万人とのことだが、なかなかの都会だった。メインストリートのSession Roadとそれにつながるマーケットには人通りがたえず、ショッピングモールのSM Baguioはマニラのショッピングセンター並みに賑わっている。

Session Road

街の中心にはBurnham Parkがあり、緑も豊かだ。公園、バギオ大聖堂、ショッピングモールなどのメインポイントはすべて歩いて行ける距離にある。マニラのように大きすぎることはなく、マニラのような喧噪とも無縁だ。総じて住みやすい街とみた。

宿

Share & Guesthouse Talaに3泊した。これは日本人に関係するNGOが経営するゲストハウスで、カフェ(Cafe Yagam)が併設されている。

このゲストハウスにはWebサイトから直接に予約した。日本人がらみのゲストハウスを選択したのは、バギオの戦跡に関する情報を欲しかったからだ。しかし、結果的には、戦跡に詳しそうな日本人の女性と会ったのは、23日の昼ごろで、遅きに失した。

トイレ・シャワー共同の個室で1泊1300ペソ(2800円ほど)。Talaの難点は街の中心部から遠いことだ。歩いて40分、タクシーでも10分近くかかる。周囲には店や食堂が少なく、セブンイレブンもない。期待していた日本人のオーナーや旅行者にも会えず、正直なところ選択を誤ったという気がした。

ゲストハウスTala

といってプラスの体験もなかったわけではない。バギオ2日目の22日、ゲストハウスから歩いて7、8分の「トロトロ」で遅めの朝食、あるいは早めの昼食、つまりはブランチをとった。「トロトロ」とはフィリピンのローカル食堂のことで、多くは家族経営の小規模な店だ。フィリピンの家庭料理が数種類作り置きされており、指さしで注文する。ライスとスープが付くのが普通だ。

そのトロトロはおばさん2人で切り盛りされていた。2人とも笑顔で愛想がよい。豚肉と野菜煮込みの2皿を注文。ライス、スープと併せて105ペソ(220円ほど)だった。

トロトロでブランチ

食事をしながら、おばさんたちと話す。近くのゲストハウスに宿泊していること、フィリピンは3回目だが、本格的なフィリピン旅行ははじめてであることなど。とりわけマクドナルドやKFCなどのファーストフード店でライスを提供している話題で盛り上がった。Only in the Phillipensという感想を伝えておいた。たわいもない会話だが、屈託のない温かい雰囲気が心に残っている。

23日の昼前にはじめて日本人関係者と出会った。中年の女性だ。ゲストハウスのオーナーなのか、NGPの主催者なのか、彼女の立場はよくわからなかったが、「カフェでこれからコーヒーのイベントがあるから参加しないか」との誘いを受けた。

コーヒーに興味があるわけではないが、人との出会いを求めて参加してみた。日本人の男性がコーヒーについて英語でレクチャーしている。聴衆は30人くらいはいただろうか。ほとんどがフィリピン人だが、日本人も私を含めて4人いる。レクチャーに続き、5種類のフィリピン産コーヒー、さらに5種類のコロンビアなど世界各地のコーヒーの利き酒ならぬ「利きコーヒー」が行われた。私には違いがわからず、さっぱり区別がつかなかった。

コーヒーに関する知識は深まらなかったものの、バギオに3か月の英語留学に来ている大学講師など、いろいろな日本人、フィリピン人との会話は楽しかった。これもゲストハウスTalaに滞在していたからこそ実現したことだ。

戦跡

バギオと太平洋戦争の関係については、山下大将率いる第14方面軍の司令部が置かれていたということ以外何も知らなかった。これは私の勉強不足で弁解の余地はない。だがルソン島の戦跡はその多くが山の中。日本兵が飢餓に苦しみながら敗走を重ねていたのは山の奥深くだ。戦跡を調べるといっても並大抵ではない。

それでも日米両軍が激突したバレテ峠(Ballet Pass)という地名は知っていた。マニラからはバスで5時間ということだが、バギオからならもっと近いだろう。

バレテ峠への行き方を探るため、22日にバギオの観光局を訪れようとした。しかし観光局は見つからなかった。グーグル・マップが示す観光局の場所まで行くが、それらしき建物が見当たらない。Baguio Museumは見つかったが、その並びにあるはずの観光局はない。観光局が見つかったとしても、土曜日だから閉まっていたかもしれない。

ゲストハウスTalaの日本人女性から「バレテ峠にはマニラから行ったほうがよい」と聞かされたのは23日の昼だった。バレテ峠はあきらめることにした。

話は前後するが22日、観光局を探す前に、バギオの植物園(Botanical Garden)を訪れた。この一角に第14方面軍の司令部の跡があることを知ったからだ。司令部はもともとバギオの別の場所にあったらしいが、米軍に追い詰められてここに移動したという。

植物園はゲストハウスから街の中心部へ行く途中にある。22日、トロトロで食事をしてから、歩いて植物園に向かった。15分くらいで到着。入場料は50ペソだったかもしれないが、確かでない。

司令部j跡はすぐに見つかった。植物園の中を進むと、中国庭園があり、韓国庭園があり、その奥に赤い鳥居が見える。鳥居の横には慰霊碑が建っている。鳥居をくぐると、洞穴がある。穴に入る。二手に分かれた坑道がかなり長く続いている。天井は十分に高く、腰をかがめなくても前に進める。しかし、応急のものとはいえ、ここがほんとうに司令部だったのだろうか。それらしき広い空間がまったくないのだ。

鳥居

慰霊碑


内部

土曜日ということもあり、植物園は賑わっていた。日本軍が残した洞穴に入る訪問者も少なからずいる。

翌23日にはバギオの中心部にある英霊追悼碑とその向かいの公園内の平和の塔を訪れた。多くの住民の犠牲者を出した現場に「英霊」の碑を建てるのはちょっとずうずうしいのではないだろうか。追悼碑の横には尾崎士郎の碑文があった。

英霊碑が建っている庭園を掃除していた男性がノートを差し出してくる。ノートには訪問者の氏名や国名が記されていた。私も自分の名前の横にJapanと書いておいた。

英霊碑

平和の塔

交通事情

21日、11時半にパサイのターミナルを出発したVictoria LinerのFirst Classバスはちょうど5時間かけ、4時半ごろにバギオのターミナルに到着した。バスには女性の車掌が同乗し、乗客にクラッカーと水を配った。バスの中は冷房が効き過ぎていて寒いと聞いていたが、そんなことはなく、適度な涼しさだった。

バギオではGrabは役に立たない。タクロバンのように「not available」ではないが、呼び出されるのはタクシーだけで、料金はタクシーのメーターに示された値段にGrabの手数料を加算した額になる。わざわざタクシーより高いGrabを利用する選択肢はない。

マニラとは異なり、タクシーは信頼できる。市の中心部からゲストハウスへ戻るために3回利用したが、すべてメーターを使い、毎回100ペソ(210円ほど)以内の料金だった。

バギオではトライシクルを見かけなかった。いたのかもしれないが、覚えがない。マニラやタクロバンとの違いのひとつだ。

マニラやタクロバン同様、ジプニーは庶民の移動手段として広く利用されている。ゲストハウスから中心部へ行くために2回利用した。料金は8ペソ。便利なのだろうが、旅行者が乗るには難易度が高い。どのジプニーがどこへ行くのかわかりにくく、土地をよく知っていないとどこで降りるのかも判然としない。

2020年3月11日水曜日

フィリピン戦跡巡り 七日目(コレヒドール島ツアー)

2月20日。

今日はコレヒドール島ツアーの日。戦場がそのまま残されているコレヒドール島の見学は、今回の戦跡巡りのハイライトだ。

このツアーではフェリー・ターミナルに早朝6時半にチェックインすることになっている。タクシーが拾えなければ徒歩で行くしかないと思い、5時40分ごろにホテルを出た。

杞憂だった。外はまだ暗いが、ホテルの外はすでにフル回転。タクシーやトライシクルもいっぱい走っている。せっかく早く起きたのだから、歩いてターミナルまで行く。

到着したころには夜が明けていた。ターミナル内のセブンイレブンでソーセージを1本購入して朝食代わりとする。

6時半にチェックイン。30ペソの港湾使用料を支払って乗り込んだフェリーは予定どおり7時半に出航。ツアー参加者は予想したより多く、ゆうに100人を超えている。大半はフィリピン人だが、欧米人も2、30人はいそうだ。中高年の欧米人男性と若いフィリピン人女性のカップルも少なくない。東洋人はほとんどいない。これはコロナウィルスの影響だろう。日本人は私が確認した限り3人だった。

船内での私の席の隣は4、50代の日本人男性と若いフィリピン女性だった。男性は愛知県出身で、何回もフィリピンに来ているらしい。バターン半島もタクシーをチャーターして訪れたとのこと。チャーターの代金は1日で5000ペソ(1万円ちょっと)だっという。

フェリーの中

フェリーは2時間ほどでコレヒドール島に到着した。船を降りたところに、4、5台のオープン・バスが待ち構えている。このバスに分乗して島を巡る。バスにはそれぞれフィリピン人のガイドが同乗しており、英語で説明する。

スペインに代わってフィリピンを植民地とした米国は1900年代の初頭にコレヒドール島を要塞化する。セメントは日本(浅野セメント)から輸入し、鉄筋は米国製を使ったとのこと。島は米軍の生活の場でもあり、軍事施設だけでなく、映画館やダンスホール、プールも備えていた。

島は1942年に米軍の撤退とともに日本軍の占領下におかれ、1945年2月に米軍に奪回された。米軍の猛攻撃のもと、総勢5千人の日本軍兵士が玉砕した(生存者はわずか9人ともいわれている)。その悲惨な現場を保存したのがコレヒドール島だ。

コレヒドール島ツアー

バスが出発するとすぐに廃墟や洞穴が目に入ってくる。まずマリンタ・トンネルに立ち寄る。日本軍が立てこもり、多数の戦死者を出したトンネルだ。トンネル見学はオプションだが、ほぼ全員が中に入った。

トンネルに入ると「光とサウンドのショー」が始まる。トンネル内の各壕に旗や模型、人形が配置され、ナレーション(もちろん英語)が重なる。ビデオを放映している壕もある。こうした人為的なショーより、当時のままを残しておいてくれたほうが臨場感があるのではというのが正直な感想。

マリンタ・トンネルを出る

続いて日本人による慰霊碑が建てられている丘に向かう。ここは「日本平和庭園」と呼ばれているらしく、海に向けられた大砲から少し離れて各種の慰霊碑や記念碑、観音像が見られる。「向こうに日本人の墓がある」と教えてくれたフィリピン人のカップルとしばらく話す。

慰霊碑

まだ12時になっていないが、ホテル(Corregidor Inn)でランチ・タイムとなる。ツアーには2日がかりのコースもあり、その場合はこのホテルに宿泊することになる。

ビュッフェ式のランチは期待外れだったが、ツアーの食事となればこんなものかもしれない。

廃墟を通過しながらバスはBattery Wayという砲台に着く。1942年の戦いで日本軍を震撼させた巨大な大砲がいまも残っている。

Battery Way

次にハーン砲台を見てから、長い兵舎や映画館、ダンスホールがあった広場に行く。いわば島のメイン広場といった趣だ。もちろん残っているのはすべて完全な廃墟で、当時の面影はない。太平洋戦争記念碑(Pacific War Memorial)や米国・フィリピン兵士像(Brothers in Arms)があるのもここだ。

ハーン砲台

長い兵舎

Brothers in Arms

太平洋戦争記念博物館(Pacific War Memorial Museum)にはマッカーサーのレイテ上陸、山下将軍の軍事裁判などの興味深い写真が展示してあった。

山下将軍

スペイン統治時代の灯台(もちろん再建されたものだ)に続きBattery Crockettの砲台を訪れ、最後に海岸を少し散策してからツアーは終了した。

Battery Crockett

戦争のすさまじさを物語る廃墟や残骸がこれだけ多く残されているのは驚嘆に値する。砲台や廃墟を背景に写真を撮り合っている欧米人(おそらく米人)とフィリピンの若い女性のカップル、フィリピンの家族連れ、若い女性グループなどはこれをどう受け止めているのだろうか。

私の場合は、これまで無知だった太平洋戦争時の日本とフィリピンの関係を生の形で眼前につきつけられる、そうした体験としてこのツアーはあった。

再びフェリーに乗り、ターミナルに着いたときには、予定より30分ほど遅れて5時近くになっていた。

時間があるので宿まで歩く。途中、2日前と同じくDoubleDragon Plazaに入り、Mang Inasalというチェーン店で夕食をとる。

フィリピン戦跡巡りのメイン・イベントはこうして終わった。明日はバギオへ向かう。

フィリピン戦跡巡り 六日目(休み)

2月19日。

昨日はサンチャゴ要塞、明日はコレヒドール島。今日は1日すっぽり空いてしまった。もちろんマニラやその近郊にはほかにも戦跡がたくさんある。たとえば「死の行進」で悪名高いバターン半島だ。しかしバターン半島はアクセスが悪く、タクシーをチャーターしなければならない。しかもバターン半島のどこをどう目指せばよいのか、ちょっとめんどうだ。マニラ市内のその他の戦跡についても、ゼロから調べて足を運ぶ気力が出てこない。今日は休日とし、ゆっくり過ごそう。

午前中、コレヒドール島ツアーの出発点となるフェリー・ターミナルまで歩いて行ってみた。明日はここに6時半に着かなければならない。早朝にタクシーが捕まるかどうか不安だったこともあり、ホテルからの道順と所要時間を確かめておきたかったのだ。昨日トライシクルで行った場所だから、迷うこともないはずだが、心配性の私としては念を入れておきたい。徒歩での所要時間はグーグル・マップが示すとおり40分弱だった。

フェリー・ターミナルの近くにはSM Mall of Asiaがある。近代的な巨大ショッピング・モールだ。ここで昼食をとることにした。吉野家などの日本食レストランもいくつか出店している。ライスは避けたいので、ちょっと高めハンバーガー店に入る。チーズバーガーを注文(250ペソ)。食べ終わり、支払いのために500ペソ札を用意していたところ、まだ払ってもいないのに250ペソのお釣りとレシートを持ってくる。500ペソを支払うことを先取りして持ってきたわけではないらしい。まだ払っていないことを告げると、びっくりしていた。払ったのに払っていないと間違えられることはあっても、払ってもいないのに払ったと間違えられることはそうないだろう。

ショッピングモールのチーズバーガー

歩いて宿へ戻る途中、散髪屋を見つける。「現地での散髪」はこのところ私の習性となっている。カットの代金は60ペソ(130円ほど)だった。これまでの最安値はエジプトの180円だったが、これを凌駕する安さだ(ちなみに最高値は台湾の600円)。

パサイの散髪屋

宿に戻って一休みしてから、近くにあるVictoria Linerのバス・ターミナルまで歩く。明後日(21日)のバギオ行きのバス・チケットを買うためだ。ノンストップのFirst Busなら5時間ほどでバギオへ行けるらしい。本数はそう多くない。11時半発のバスを選択した。代金は800ペソ(1700円ほど)。

夕方、例のごとくChowkingでハロハロを食べたあと、高架鉄道でキリノ(Quirino)駅に向かう。キリノ駅からペドロ・ヒル(Pedro Gil)駅へと、あてどもなくぶらぶらと散策。

ペドロ・ヒル

夕食はセブンイレブンで購入した軽食で済ませた。

なんとも非建設的な1日だったが、疲れをとるためにはこうした無為な日も必要だろう。
 

2020年3月9日月曜日

フィリピン戦跡巡り 五日目(サンチャゴ要塞)

2月18日。

太平洋戦争におけるフィリピン人の犠牲者は約100万人であり、マニラ市街戦では約10万の市民が犠牲になっている。1941年から42年にかけて日本軍がマニラに攻め入ったとき、米軍はマニラを無防備都市と宣言し、戦場は主としてバターン半島とコレヒドール島だった。

ところが、1944年10月から翌年春にかけての米軍の反攻時、日本軍はマニラを無防備都市とはせず、マニラ死守の戦いを展開した。多数の市民が犠牲になったのはこのためだ。米軍による無差別砲撃の犠牲者も少なくないが(4割という数字をどこかで目にした)、過半数は抗日ゲリラの疑いなどで日本軍の手によって殺された。

マニラ市街戦で大きな打撃を受けたのは、17世紀はじめにスペインによって建造された城壁内のイントラムロス(「壁の中」という意味)であり、なかでも軍事施設があったサンチャゴ要塞だ。

今日の目的は、イントラムロスを探訪し、サンチャゴ要塞を見ること。

宿泊しているSogo Hotelは高架鉄道(LRT Line1)のEdsa駅の近くある。Edsa駅で電車に乗り、UN Avenu駅で降りる。時刻は10時半。

イントラムロスに向かうに先立って、ファーストフード店のJollibieでブランチとする。注文したのはチキンとスパゲッティ。フィリピンのファーストフード店では、マクドナルドやKFCなどの外資系も含め、チキンなどにライスを添えて提供するメニューが多い。ライスではなくスパゲッティを付ける選択肢も用意されている。フィリピンのライスがいまひとつ口に合わないこともあり、スパゲッティを選んでみた。結果は...ライスよりはましか。

UN Avenu駅から、リサール公園を抜けてイントラムロスに入り、サンチャゴ要塞に到着する。こうさっと書くほど簡単に行けたわけではない。迷わずに最短のルートをたどっても30分くらいかかるところを、ゆうに1時間以上かけてやっとたどり着いた。グーグルマップを見ながらこの始末だから情けない。

リサール公園内の中国庭園

サンチャゴ要塞は観光スポットとなっており、75ペソの入場料が必要になる。入るとすぐ大砲や弾痕で穴だらけとなった建物が目に入る。入場者もそこそこいる。大多数のフィリピン人観光客に混じって外国人もちらほら。5、6人の日本人の若者グループも見かけた。

もともとは米軍が建造した軍事施設や砲台だが、1945年には日本軍の作戦に使われ、米軍のささまじい攻撃にさらされた。

廃墟となったバラック

大砲

サンチャゴ要塞はフィリピンの独立運動家ホセ・リサールが1896年に処刑された場でもあり、そのモニュメントや展示もあった。

少し奥に進むと、地下牢(Dungeon)がある。ここでは約600名のフィリピン人捕虜が虐殺された。戦後、この行為によって、多数の日本人将校が裁かれ、処刑された。

階段を降り、狭い入口から腰をかがめて地下牢の中に入る。長い坑道が続く。ところどころに、日本軍兵士や捕虜を模した人形が置いてある。

地下牢の入口

地下牢の中

サンチャゴ要塞を出る。マニラ大聖堂を通り過ぎ、しばらく行くと、MEMORARE - MANILA 1945のモニュメントが目に入る。マニラ市街戦の記念碑であり、毎年2月にはここで式典が開催されているという。

MEMORARE - MANILA 1945

UN Avenu駅まで歩き、電車でEdsa駅に戻る。暑い中を歩いたこともあり、冷たいものがほしい。駅の近くのChowkingに入り、Whitemilk HaloHaloを注文。ハロハロの一変種だ。通常のハロハロより10ペソ高く、ミディアム・サイズで85ペソ。こちらもなかなかいける。

セブンイレブンに立ち寄って、缶ビール(サンミゲル)とピーナッツ、チョコレート・ミルクを購入。普段は酒を飲まないようにしているが、、汗に滲んだ体がビールをほしがった。これら加えて、街角で買ったシュウマイを宿に持ち帰り、夕食代わりとする。

2020年3月7日土曜日

フィリピン戦跡巡り 四日目(マニラに戻る)

2月17日。

トライシクル(3輪タクシー)で空港に向かう。空港までの道のりはかなり長く、30分くらいかかる。道すがら運転手と話す。トライシクルの運転手とでも英語での会話が可能なのがフィリピンだ。50代の彼はドゥテルテ大統領を支持すると言う。フィリピンの最大の問題はcorruption(腐敗)だ。アキノは母も息子もひどかった.そんなアキノもマルコスよりはましだとのこと。

11時50分にタクロバン空港を飛び立ったエアアジア機は午後1時過ぎにマニラ空港ターミナル3に着く。

エアアジア機、マニラに到着

マニラ近辺の戦跡で欠かせないのはコレヒドール島だ。2度にわたって激しい戦闘の場となったコレヒドール島には、当時の砲台や破壊された建物がそのままの状態で残されている。いわば島全体が戦跡だ。明日この島を訪問し、明後日にマニラ市内の戦跡であるサンチャゴ要塞を見る。そのあと20日にバギオに向かおう。

コレヒドール島に行くにはツアーに参加するしか手段がない。前日、タクロバンの宿で、ツアーを催行しているSun Cruises社のWebページから予約しようとしたが、エラーが出てアクセスできなかった。何回試みても同じ。しかたない。フェリー・ターミナル(Esplanade Seaside Terminal)まで出かけて直接申し込むことにした。

その前にマニラでの宿泊先を確保しておく必要がある。バギオ行きのバスターミナルに近いパサイのエドゥサ(Edsa)駅をめざし、空港ターミナル3から歩いて20分ほど、Booking.comで目を付けていたKabayan Hotelに着いた。

結局朝食付きで2500ペソ(5200円ほど)のKabayan Hotelではなく、その近くにあるSogo Hotelを選んだ。朝食は付かないが、1泊1370ペソ(2800円ほど)。3泊ともなると、2500ペソと1370ペソの差は大きい。

Sogo HotelはBooking.comには登録されていない。料金は時間ごとに設定されている。1370ペソというのは24時間の値段だ。室内のテレビにはポルノ・チャンネルが用意されている。Asian PornoとWestern Pornoがあり、Asian Pornoでは日本のポルノが放映されていた。つまり一種のラブホテルだ。

といってもSogo Hotelかなり大きなホテルで、従業員はすべて制服を着用している。客もスーツケースを抱えた普通の旅行者が多いようだ。規模の違いを別にすれば、ラブホテルとしても使われる韓国のモーテルと似た立ち位置といえよう。

Sogo Hotel

Sogo Hotelからフェリー・ターミナルまでは歩いて40分弱。時間もたっぷりあるし、歩けないことはないが、ここはトライシクルで行くことにした。料金は200ペソ(420円ほど)。ちょっとぼられたかな。50ペソがいいところだろう。

フェリー・ターミナルのSun Cruises社のデスクでコレヒドール島ツアーを申し込む。ところが、明日(18日)と明後日(19日)は悪天候のためにツアーは催行されないというではないか。「悪天候」を思わせるような兆候はまったくない。何か別の理由があるのかもしれない。

20日の催行は大丈夫かと尋ねると、自信たっぷりに「大丈夫」との返事。20日のツアーとなると、マニラ3泊の予定が4泊になってしまう。明日バギオに向けて発ち、再度マニラに戻ってきたときにツアーに参加するという手もあるが、Sogo Hotelでは「キャンセルはできない」と念を押されていた。マニラ滞在をもう1泊増やし、21日にバギオに行く選択肢しかなさそうだ。

20日のツアーに申し込む。6時半にターミナルにチェックインし、7時30分に出発、16時30分に終了予定とのこと。代金はオプションのトンネル見学を含めて2950ペソ(6200円ほど)だった。島での昼食も含まれている。

ホテルまで歩いて帰ることにした。途中、DoubleDragon Plazaというショッピングセンターに立ち寄り、中華系ファーストフードのChowKingで遅めの昼食(あるいは早めの夕食)をとる。3個のシューマイを載せた炒飯とスプライト。180ペソくらいだっただろうか。

昼食兼夕食

食事を終えたときには5時を過ぎていた。Sogo Hotelの近くは人が多く、店も多い。セブンイレブンで軽食と飲み物を購入し、宿での夜食とする。コレヒドール島ツアーが20日となったため、明日はマニラ市内の戦跡を探訪するつもりだ。ホテルに1日の延泊を申し込んでおく必要もある。

2020年3月4日水曜日

フィリピン戦跡巡り 二~三日目(レイテ島タクロバン)

2月15日。

タクロバン行きのフライトは9時50分発。6時過ぎにホテルをチェックアウトし、Grabでマニラ空港ターミナル4に向かう。10分ほどで到着し、料金は100ペソ(210円ほど)。

1時間半のフライトでタクロバンに着く。タクロバンはレイテ島北東部の海岸に位置する都市で、人口は22万人。1944年10月にレイテ島に上陸した米軍はタクロバンに司令部を置き、フィリピン奪回の拠点とした。2013年、タクロバンは台風ヨランダによって壊滅的な打撃を受け、数千人の犠牲者を出している。

小さなタクロバン空港を出て、Grabを使おうとしたが、「この地域では利用できません(Not available)」というメッセージが出る。Grabはフィリピン全域をカバーしているわけではないらしい。タクシーを利用するしかない。

ホテルはTacloban Plaza Hotelを考えていた。予約はしていない。Booking.comで部屋の空き状況、値段、ロケーションを確かめていただけだ。ホテルをあらかじめ予約することは選択の自由の制限につながる。現地に着いてから気に入ったホテルが目についても、あるいは安そうなホテルを見つけても、選択の余地がないのだ。そのうえ、直接に交渉したほうがBooking.comに記載してある値段より安くなることが少なくない。

声を掛けてきた初老の運転手の誘いにのり、とりあえずPlaza Hotelに行くことにした。

途中、マッカーサー公園に立ち寄ることになった。マッカーサー公園とは正式には「MacAuthur Landing Memorial Park」という名称であり、マッカーサーがレイテ島に上陸するときの様子を模したブロンズ像が建立されている。タクロバンでもっとも有名な(あるいはタクロバン唯一の)観光モニュメントと言えよう。

青空の好天のもと、マッカーサーを先頭に7人の米軍将校が光を浴びて立っている。像の後ろ側の台座の部分は戦闘の模様を描くレリーフで飾られている。フィリピン人のゲリラとおぼしき絵柄もある。レイテ島は抗日ゲリラの勢力が強かった島だ。

マッカーサー上陸のブロンズ像

台座のレリーフ(その1)

台座のレリーフ(その2)

フィリピン人の観光客もちらほら。若い人が多く、マッカーサーたちを背景に写真を撮っている。

マッカーサー公園は空港からホテルへ向かう途中にあるが、若干遠回りになる。公園での写真撮影時間を含め、400ペソ(840円ほど)をタクシー代として払った。

Plaza Hotelの近くのHotel XYZもあたってみたが、1泊3300ペソ(6900円ほど)ということなので、結局Plaza Hotelにチェックインした。朝食付きで1泊1500ペソ(3000円強)。Booking.comに記載してあった値段は2000ペソだったから、ここでも予約なしのやり方が功を奏したわけだ。このホテルに2泊する。

2時ごろにホテルの近くの食堂で昼食をとる。Tapaという料理だった。Tapaとはビーフジャンキーのことだ。昨晩はKFC、今朝はマニラ空港の売店でドーナツだったから、今回はじめて口にするフィリピン料理だ。200円足らずと値段は安いが、量が少なくてがっかりする。

食後、20分ほどかけてレイテ公園まで歩く。この公園には日本人が建立した「マリア観音」なる一種の慰霊碑がある。公園と呼ぶには雑然としすぎている場所に「Madonna of JAPAN」という大きな看板が見える。肝心のマリア観音は見えない。看板の付近をうろうろしてやっと見つけた。マリア観音の少し上のほうに「平和記念碑」という石塔も建っている。観音像も石塔もあまり手入れはされていない。日本語や英語で書かれた石板もあったが、文字は消えていて、まったく読めない。

マリア観音(Madonna of JAPAN)

平和記念碑

レイテの海岸沿いを散歩しながら、宿に戻る。街のパン屋で買ったパンとコーラで夕食とする。

2月16日。

8時にホテルでビュッフェ式の朝食をとる。3000円という値段を考えれば満足のいく内容だ。

ホテルの朝食

昼前にHotel Alejandroまで行く。Plaza Hotelからは歩いて10分ほどの距離だ。Hotel Alejandroには第二次大戦時の日米軍人の写真が飾ってあるいうことだったが、さして興味のある展示は見られなかった。

タクロバンにある第二次大戦関連の事跡はこれですべて見た。もちろんもっとほかにもあるだろうが、私が調べた限りではこれが限界だった。レイテ島西部にオルマックという町がある。レイテ戦の記録にしばしば出てくる地名だ。タクロバンからはミニバンで3時間ほどとのことだ。オルマックへ行くことも考えたが、何か目当てがあるわけではなく、ただ行って帰っているだけになりそうだ。

というわけで、午後はひたすらタクロバンの探索に費やした。タクロバンはそれなりに活気があり、賑わっている。今日は日曜なので、教会ではミサが行われていた。

タクロバン

特筆すべきは、フィリピンのデザートであるハロハロがおいしかったこと。ハロハロとはかき氷にミルク、アイスクリーム、豆、ゼリー、フルーツなどを入れたフィリピンの国民的デザートで、暑い中を歩きに歩いたあと口にするとことのほかおいしい。私が食べたのはChowkingという中華系のファーストフード店のハロハロ。ミディアム・サイズで75ペソ(160円ほど)だった。

ハロハロ

夕食はスーパーで購入したカップラーメンと朝食時に持ち帰ったバナナで済ませた。明日はマニラに戻る。

2020年3月3日火曜日

フィリピン戦跡巡り 一日目(マニラ到着)

沖縄戦跡巡りに次いで、フィリピン戦跡巡りを計画した。沖縄より圧倒的に広い面積を有するフィリピン。沖縄での戦闘が1945年4月から8月中旬までの4か月に集中しているのに対し、フィリピンでは1941年12月の日本軍の侵攻から翌年3月末まで、さらに1944年10月の米軍の巻き返しから終戦までと、実質1年以上、2度に渡って日米の死闘が繰り広げられた。

沖縄の戦跡ですらほんの一端にしかふれることができなかったのに、フィリピンをどれだけ探索できるだろうか。自信はまったくないが、この旅がフィリピン戦の経緯や実情をほんの少しでも知るきっかけとなれば幸いだ。

例によって泥縄式だが、フィリピン戦について事前に少し調べた。まずWikipediaなどでおおよその経緯を頭に入れたうえで、下記の書籍に目を通した。

物語フィリピンの歴史 鈴木静夫 中央公論新社
フィリピン戦跡ガイド 小西誠 社会評論社
フィリピン敗走記 石長真華 光人社

大岡昇平の「レイテ戦記」も重要だが、図書館から借りだしたのが渡航直前で、第一巻を100ページほど読むにとどまった。

2月14日に関空からマニラに飛び、2月26日に帰国という行程で、訪問先はマニラ(コレヒドール島を含む)、レイテ島、バギオに絞った。

フィリピンは今回が3回目だが、過去2回はいずれも10年以上前にごく短期間マニラに滞在しただけ。したがってフィリピン旅行という名に値するような旅は今回がはじめてになる。できればフィリピンの少数民族も探訪したいところだが、欲張りすぎるだろう。

日本で事前に用意したのは次のとおり。
  1. 関空・マニラ間の往復航空券(エアアジア便で32000円)。
  2. マニラ到着の翌日(15日)にレイテ島のタクロバンに飛び、17日にマニラに帰ってくるエアアジアの航空券(11000円)。
  3. 14日のマニラでのホテルの予約。15日のタクロバン行きが9時50分発と早かったので、空港に近いOYO 181 Manila Airport Hotelを予約しておいた。
  4. Simカード2枚。日本、フィリピンをはじめ16カ国で使用できるFlyのSimカード。1枚の使用期間が8日であるため、2枚購入した。2480円。
  5. フィリピンで使われている配車アプリGrabのスマホへのインストール。
2月14日。

14時15分に関空を飛び立ったエアアジア機は17時半ごろにマニラのニノイ・アキノ空港に到着した。

まず空港の両替所で5万円をペソに両替する。このあと、日本での事前準備のつめの甘さがいくつか露呈する。

まずSimカードが使えない。スマホの画面上ではアンテナはちゃんと立っているのだが、ネットにつながらない。この日の朝日本でセットアップしたときには問題なくネット接続が可能だった。フィリピンでも使えるはずなのだが。

Simカードなしに旅を続けるのはなにかと不便だ。しかたなく、到着ロビーにあるカウンターでSimカードを購入した。25GMのカードで30日間使用可能。電話番号も付いている。2000ペソ(4200円ほど)と高価だ。12日間の旅で消費するのはおそらく2GBにもならないだろうから、25GBは宝の持ち腐れだ。しかし、10日以上の使用期間ではこれが最安値だった。

空港とホテルの位置をちゃんと確かめていなかったのも失敗。空港まで歩いていけるということで選んだOYO 181 Manila Airport Hotelだが、このホテルに近いのはターミナル1だ。エアアジア機が到着したのはターミナル3。ターミナル1と3の間にはかなりの距離があるらしい。やむなくGrabを立ち上げ、クレジット情報を入力して(クレジットカードの登録は現地でしかできない)、車を手配する。

OYO 181 Manila Airport Hotelまでは15分以上かかり、料金も300ペソ(630円ほど)になった。

ホテルにチェックインしたときにはすでに暗くなっていた。1泊2163ペソだが、デポジットとしてさらに1000ペソを預ける必要がある。値段の割には質素な部屋だ。

OYO 181 Manila Airport Hotelの室内

ホテルの周りは閑散としているが、幸いレストランはいくつかある。KFCでチキンとライスのセット、コーラをテイクアウトし、夕食とした。

マニラの暑さに加え、空港でジタバタしたことから、ドッと疲れが出る。明日はレイテ島のタクロバンへ向かう。国内線はターミナル4だ。またGrabのお世話になる必要がありそうだ。

2020年3月1日日曜日

コロナウィルスのためにサウジ・ビザが一時失効

サウジアラビア旅行を終えてから、私のもとへサウジ観光局からときおりメールが届くようになった。サウジ旅行に関するアンケートなどだが、昨日(2020年2月29日)受け取ったメールはちょっと趣を異にしていた。次のような内容だ。
Dear Visa holder,
Due to preventative measures aimed at containing the global spread of new Coronavirus (19-COVID), your visa has been temporarily suspended and is not currently valid for travel into Saudi Arabia.

This temporary measure is in coordination with relevant health authorities and in line with guidance from the World Health Organisation. The situation is being monitored constantly and we will update you when visa is reactivated.

For more information, please contact Saudi Arabia’s tourist call center: +966920000890

We understand that this is disappointing and we hope to welcome you to Saudi Arabia soon.

Thank you for your understanding.

つまり「コロナウィルスを防止するために、あなたのビザの効力を一時的に停止する」というのだ。「状況が変わればビザは再度有効になる」ともある。

サウジ・ビザは一次ビザではなく数次ビザであり、本来ならビザの有効期限(1年間)が切れるまで何回でもサウジに入国できる。上記のメールはこの権利の一時停止を伝えている。

おそらくは中国、韓国、日本などのビザ保有者だけを対象とした措置だろう。

去年のうちに行っておいてよかった。ぐずぐずしていたら行けなくなっていたところだ。

コロナウィルスの騒ぎが一日も早く終息し、サウジ・ビザが再度有効になることを願う。

2020年1月25日土曜日

サウジアラビア2019 帰国、まとめ

12月28日。

ジェッダ空港でクアラルンプール行きのフライトを待つうちに日は替わり28日になる。残ったリアルでケーキとアイスクリームを口にする。ちょっと食べ過ぎた。

往路はメッカ巡礼一色だったマレーシア航空便だが、帰路の乗客はもっとバラエティに富んでいた。たとえばチェックインの列に並んでいた若者2人組はタイ人で、サウジアラビアに留学中とのことだった。

ジェッダ空港(その1)

ジェッダ空港(その2)

搭乗時間になった。機内は空席が目立つ。おそらく半分も埋まっていなかっただろう。

私の列には空席を1つおいてヘッドスカーフを着用した若い女性が座っていた。マレーシア人のモスレムだ。「日本人か」と訊かれ、Yesと答えたことから会話が始まった。

彼女はサウジアラビアで看護師として働く姉(ひょっとすれば妹)を訪ね、1か月滞在した帰りだと言う。私が行かなかった(行けなかった)メッカとメディナの写真や動画を見せて、いろいろと説明してくれた。ジェッダでは和食レストランSakuraにも行き、2人で500リヤル(15000円)支払ったとか。 

クアラルンプールで6時間の乗り継ぎ時間を経て29日の早朝に関空着。はじめてのサウジアラビア旅行を終えた。

まとめ。

サウジアラビアはニュースではよく耳にする国だが、こと観光に関する限りまったく未知の国だった。私にとってだけでなく、ほとんどの人にとって事情は同じだろう。

そんなサウジだが、今回の旅行で受けた印象は総じてポジティブだった。この好印象には現地の人たちが示してくれたhospitality(好きな言葉ではないが「おもてなし」とでも訳しておこうか)が大きく与っている。特に5日目にアブハを案内してくれたF15戦闘機パイロットに感謝したい。

今回の旅行で気付いたことをランダムに挙げておこう。

まずところどころで貧しさが目に付いたこと。ジェッダやアブハの裏通り、あるいは女性や子供の物乞いは、「リッチな産油国」からは想像していなかった風景だ。もちろん、ドバイやドーハと同様に、高層ビルもあるし、巨大なショッピングモールもある。だがそれだけがサウジではない。サウジはもっとさまざまな顔を持っている。

次にサウジが「車社会」であること。これはある程度予想していたことではあるが、現地であらためて確認させられた。信号や横断歩道、陸橋(タイフで1つだけ見かけた)が少なく、歩行者が道路を横断するのは容易でない。

そのうえ、公共交通が未発達だから、どこに行くにも車が必要になる。レンタカーを利用するという手もあるが、高スピードの車がビュンビュン飛び交うサウジの道路事情を考えれば、あまりお勧めはできない。日本国内ですらなるべく運転は控えようとしている私のような人間にとってはなおさらだ。

その結果、移動はもっぱらタクシーやUberに頼ることになる。10分くらい走って500円ほど、30分くらい走っても1500円程度だから、日本に比べればはるかに安上がりだが、それでも回数がかさむと結構な金額になる。

サウジの政治や宗教に関し、人々がどう感じ、何を考えているについては残念ながらヒントすら得られなかった。これはもっぱら、私のほうが、突っ込んだ質問をするのを遠慮したことによる。

過去2年ほどの間に実施された一連の開放政策(女性の自動車運転解禁、外国観光客の受け入れ、シネマの解禁等)が広く支持されていることは容易に見てとれたが、こうした「改革」の原動力となった皇太子のMohammad bin Salman(MBS)がどのように愛され、あるいはどのように恐れられているのかはうかがい知れなかった。

サウジの女性と話す機会がなかったことも残念だ。話すきっかけらしきものが皆無だったわけではないが、やはりここでも遠慮してしまった。

サウジ女性のほぼ全員がアバヤ(足元まで覆う黒いドレス)を着用していた。ニカブ(目だけを出す覆面風のベール)の着用率は場所によって異なる。ジェッダの旧市街などでは80%くらいがニカブで顔を覆っていたが、ショッピングモールになると50%くらいだった。ニカブを着用していない女性のなかには、UAEやエジプトから来た外国人も混じっていたかもしれない。

Red Sea Mallのフードコート

未知の国サウジアラビア。今回の旅行でその一端を垣間見ることができた。しかし謎はいっそう深まり、今までよりもっとわかりにくくなったと言えなくもない。幸いビザは2020年10月30日まで有効だ。できればもう一度、今度はリヤドやダンマンあたりを訪れたい。

最後に今回の旅行に要したコストを報告しておこう。

関空からジェッダまでの往復航空運賃が10万8千円。サウジ現地で400ユーロと350ドルを両替し、最終日にリアルを再両替して110ドル返ってきたから、支出額は400ユーロと240ドル。日本円にすれば約75000円になる。さらにクレジットカードでの支払いが、Ramad Hotelの2泊分550リヤル(16000円ほど)、アブハからジェッタへの片道航空券217リヤル(6500円ほど)、Uberの運賃が400リアル(12000円)ほどで、合計34500円程度。

つまり総合計はおよそ218000円だ。10泊の旅としては妥当なところだろう。1泊6~8000円程度の中級ホテルを選んだため、宿泊費がかさんだ。予約サイトに登録されていない安宿に泊まれば1泊100リアル(3000円)くらいだが、今回はあえて中級ホテルを選んだ。快適さもさることながら、英語が通じないことをおそれたためだ。泊まるだけなら英語が通じなくてもなんとかなるが、観光情報を得るうえで最低限の英語は欠かせない。