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2016年10月31日月曜日

ブルガリア・ルーマニア2016 六日目その2(ロマ集落)

9月30日(続き)。

数匹の豚が鳴いている中、集落に入る。マケドニアのSutkaほどではないが、かなり大きい村で、数百人は住んでいそうだ。私たちを見つけた子供や大人が集まってくる。

ロマ(ジプシー)集落に入る

ダンスを見せてくれるという家に向かうが、なんだか様子がおかしい。なんと3日前に家人が亡くなったばかりで、ダンスは無理だとのこと。家から出てきた数人は黒い服を着ている。喪服だろう。これではどうしようもない。運が悪かったとしてあきらめるしかない。

代わりに集落を散策することにした。土地になじみのある2人の案内人が付き添っていることもあり、写真や動画はかなり自由に撮れる。ブカレスト同様、ここでも片言のドイツ語をしゃべる男が近づいてきた。ドイツに住んでいたというので、ドイツ語で「ドイツのどこにいたのか」と尋ねると、「リンツ」との答え。リンツはドイツではなく、オーストリアだ。

ロマ集落を散策

用意していたお菓子とタバコを案内人のハンガリー系ルーマニア人が配る。お菓子やタバコに向かって伸びる数多くの手。「マネー」を求める声も2、3回聞いた。

各家には水道の設備もないのだろう。共同の洗濯場があり、数人の女性たちや子供が集まっている。そのそばには3頭ほどの馬もいる。下半身が裸の男の子。道路はもちろん舗装されていない。それでもS氏によれば「以前に比べればここもずいぶん発展した」とのことだ。

共同洗濯場

2、3人の男の子が小さな山羊に鉄か石でできた重い荷物を引かせている。仕事でやっているのではない。山羊に過酷な労働を強いて楽しんでいるのだ。そして山羊を鞭でたたく。何回も。軽くではなく、力一杯たたく。何かが狂っている、どこか間違っている。

子供たちと山羊
 犬にしろ猫にしろ山羊にしろ、危害を加えそうにない、自分より小さい動物を前にしたら、保護しよう、可愛がろうとするのが通常の人間の反応であり、本能ではないだろうか。もちろん私たちは食べるために牛を殺し、豚を殺し、鶏を殺す。これはしかし「食べる」という物質的目的のためだ。anthropocentricではあるが、これはそれなりに合理的な行為だ。だが、目的もなく山羊に荷物を運ばせ、鞭でたたいても、子供たちの側に何からの利益がもたらされるわけではない。ただたんに楽しむために動物を虐待する。これはちょっとショッキングな光景だった。

といっても、子供のころ、無目的に(楽しむという目的さえなく)蟻やその他の小さな昆虫を殺したことがなかっただろうか。蟻なら殺してもよいが、山羊をたたいていてはならない根拠を見つけるのは難しい。蟻と山羊に論理的な差を設けるのは困難だ。前者より後者のほうが高い知能をもっているかもしれないが、知能の差で虐待を正当化することはできないだろう。

30分余りでロマの集落をあとにした。S氏は「ウェルカムのムードが突然変わって、石を投げられたり、ナイフが飛び出したりする事態が発生しないとも限らない」と言う。そうした兆しはまったく見られなかったが、私よりずっとよくルーマニアを知り、ロマを知っているS氏の言葉だから、おそらくそういった可能性もあるのだろう。

男たち

子供たち1

子供たち2


今回のロマ集落訪問では写真や動画を存分に撮り、その代償であるかのように菓子やタバコを配った。まさに好奇心を満たそうとする観光客の振る舞いだ。私は所詮観光客だから仕方ないのかもしれないが、何か釈然としないものが残った。

S氏にはブラショフの鉄道駅にまで送ってもらった。明日はシギショアラに行く予定で、そのための切符を買っておこうと思ったからだ。8時52分ブラショフ発11時25分シギショアラ着の切符を購入した。代金は40レウ(1200円ほど)。

バスで市の中心まで戻り、しばらく街を散策したあと、宿のそばのあまり高くなさそうなレストランで夕食とした。鶏肉の串刺しとポテトフライ、それにビール。まずまずの味だったが、前回のルーマニア訪問のときのようなほんとうにおいしいと思う料理にはまだありついていない。

レストランで夕食

ブラショフといえば、ドラキュラの居城のモデルとなったブラン城が有名であり、観光の目玉でもあるが、市から30Kmほど離れていることもあり、今回は行かなかった。ブラン城よりもロマ集落を優先したわけだ。

2016年10月28日金曜日

ブルガリア・ルーマニア2016 六日目その1(ロマ集落へ)

9月30日。

昨日買ったパン、ハム、ヨーグルトの残りで朝食を済ます。今日は2時半にカサ・サムライに行き、S氏の案内でロマ(ジプシー)集落を訪れることになっている。

午前中はケーブルカーでTampa山に登ることにした。昨日宿のオーナーが「ブラショフを一望できる」として推奨していた場所だ。宿からケーブルカーの乗り場までは歩いて5分くらい。往復料金(いくらかは忘れた)を払い、ケーブルカーに乗り込む。10人余りの客でいっぱいのケーブルカーは数分で頂上に着いた。頂上からの景観はまあ予期したとおり、感動するほどのものではない(自然の景色に感動することができない私のすり減った感性のほうが問題かもしれない)。

ケーブルカーで山頂へ

ブラショフの街に戻るとすでに12時を過ぎていた。今度こそまともなルーマニア料理を味わおうと、メインの広場に面したカフェに入る。ポークの肉料理とビールで確か30レウ(750円ほど)だった。味はまずまずだったが、注文してから料理が出てくるまで小一時間待たされた。おかげで食べ終わったときには1時半を過ぎていた。

広場に面したカフェで昼食

カサ・サムライまでは市の中心から歩いてもせいぜい20分か30分。約束の2時半には歩いても間に合う。だが、道に迷ったりする場合を考慮して念のためにタクシーで行くことにした。

カサ・サムライには2時過ぎに着いた。コーヒーをいただいてから、S氏の車でロマの村に向かう。出発前に大量の駄菓子とタバコ2箱を買い込んだ。現地で配るためらしい。さらに「ロマの家庭に入ってダンスを見ることになるから、そのチップとして3~40ユーロを用意しておいてくれ」とのことだった。

トランシルバニアのなだらかな田園地帯を走ること3~40分。車はとある家に着いた。この家のハンガリー系ルーマニア人男性にロマ集落の案内を頼むらしい。

トランシルバニアにはハンガリー系のルーマニア人が多い。バーン・ミーハイという名前のこの男性もハンガリー語をしゃべるハンガリー人だ。ロマ地区の学校の教師をしていたことから、ロマの人々とはなじみがあるらしい。

この男性はただの案内人ではなかった。並外れた日本びいき、日本狂いだったのだ。家の庭には鳥居まで建っている。鳥居の柱、庭のテーブルの上、椅子など、至る所に和歌(らしきもの)が刻み込まれている。日本を訪れたことがないが、片言以上の(といっても十分にコミュニケーションがとれるというレベルではない)日本語をしゃべる。

鳥居

テーブルの上にも日本語が

家の至る所を飾っている「和歌」のほとんどは日本人の私には意味不明だった。意味を理解できたのは唯一、鳥居の左柱に刻まれていた本居宣長の「敷島の 大和心を 人問わば 朝日ににおう 山桜花」だけだった。

この日から2日後に彼から私宛に送られたメールには自作の長歌が披露されていた。10連からなるこの長い歌の最初の2連だけを紹介しておこう。

浮き腰時、
時が掻き回せて、
木は囁き、
御釈迦の声は、
遠くて聞法。

滲むの川、
蛙が跳ねれて、
煙は上げて、
巻狩りの時間
生白い光線が夢を見る。

ある種の現代詩のような、難解な、考えさせる歌ではないか。

彼は結婚していて、4、5歳の可愛い女の子が2人いる。奥さんは現在ロマ地区の学校の先生をしており、「もう少し早かったら教え子たちを紹介できたのに」と言っていた。夫の日本狂いをよく許容しているものだ。

庭でコーヒーとハンガリーのウォッカをいただいてから出発。ここからロマの集落までは彼の車で行くことになった。車には「フン族」と書かれている。フン族とは匈奴のことで(これには異説もある)、彼の日本びいきもハンガリー人がフン族つまりはアジアの流れをくむことから来ているらしい。

「フン族」と書かれた車

彼の家からロマの集落までは車で5分足らず。車を降りた我々3人を迎えたのは豚の鳴き声だった。

2016年10月25日火曜日

ブルガリア・ルーマニア2016 五日目(ブラショフへ)

9月29日。

朝食別料金のホテルなので、近くのスーパーで買ったパンと飲み物で朝食を済まし、10時発のブラショフ行きの列車に間に合うように北駅に向かう。

列車はほぼ定刻通りに北駅を出た。6人掛けのコンパートメントには私のほかにルーマニア人の中高年の女性が3、4人。沿線の動画や写真を撮っていた私に、婦人たちが「これからいい景色になるから、廊下に出て撮るといい」と教えてくれる。彼女たちの言葉が理解できたわけではないが、何を言いたいかは身振りや表情から推測できる。

ブカレストからブラショフまで

列車は定刻の12時45分にブラショフに到着した。駅から市内へは路線バスで行く。ルーマニアではバスでも地下鉄でも1枚の切符で2回乗車できる。言い換えれば、シングルの片道切符は購入できないわけだ。市内までの切符は4レイ(100円)だから、1回の乗車につき2レイ(50円)となる。

ブラショフに到着

前日にbooking.comを通じて予約しておいた宿は市の中心のほど近くにある。宿の名前はBalcescu Apartment 1 in Historic Center。示された住所まではそう苦労なくたどりつけた。しかし、コード式のロックで門が閉ざされている。名前からしてホテルではなくアパートだとは思っていたが、入れないことまでは想定していなかった。

幸い、5分もたたないうちに、建物の中から中年の女性が出てきた。その女性に事情を話すと、宿として提供されている部屋のオーナーに電話してくれた。オーナーは近くに住んでいるらしく、10分くらい待つとやってきた。

たまたま女性が出てきたからよかったが、そうでなければいつまでも門の前で待つか、他の宿を探すかしなければならないところだった。客が来るとわかっているのに、なんとも無責任なオーナーだと思ったが、実は非は私の側にあった。前日にbooking.comから私宛にメールが来ており、そこには「オーナーはアパートに住んでいない。来訪する1時間前に電話を入れてくれ」と記され、電話番号が示されていた。booking.comからメールが来ていることには気付いていたが、いつもの直前の案内だろうと思って、目を通していなかった。

マティウスという名前のオーナーは、「メールで知らせていたではないか」と指摘するすることもなく、しきりに恐縮していた。 トイレ・シャワー、キッチン、テレビ、Wifi、冷蔵庫付きのきれいな部屋だった。紅茶やコーヒーもあり、自由に飲んでくれとのことだった。2泊で54ユーロのこころを50ユーロにディスカウントしてくれた。

宿のキッチン

しばらく休んでから、外に出る。すでに3時近くになっていたので、ともかく昼食をとりたい。メインの広場とストリートにはカフェが数多くあり、食事も提供している。しかし、いかにも高そうだ。いろいろ迷ったすえ、結局マクドナルドに入ることにした。「食のルーマニア」に期待しながら、何という選択だ。そのうえマクドナルドもそうそう安くはなかった。

ルーマニアのルセと同じく、ブラショフもこぢんまりとしたきれいな街だ。ルセと異なるのは、観光客が多いこと。日本人のカップルも見かけた。

広場

メイン・ストリート

街をぐるりと一巡し、おおよその地理をつかんだところで、陽が暮れてきた。遅い昼食をとったので、腹は空いていない。宿の近くの小さなスーパーに立ち寄り、パン、ハム、パックの牛乳を購入して宿に戻る。

パックの牛乳だと思って買ったが、プレーンのヨーグルトだった。キッチンに砂糖があったのが幸いだった。パンもハムもヨーグルトも半分くらいは明日の朝食用に残しておいた。

食後、「カサ・サムライ」というゲストハウスに電話した。これはブラショフ在住の日本人S氏が経営するゲストハウスだ。かなり前にネットで「S氏がロマ(ジプシー)の集落を案内してくれた」という体験記を読んだことがある。

前日にbooking.comで宿を検索したときにはカサ・サムライは満室だったが、ロマ集落の案内だけでもお願いできたらと思い、連絡してみたのだ。「案内は可能だが、かなり高くつく。20分から30分の滞在で80ユーロだが、それでもいいだろうか」というのがS氏の返事だった。確かに高いが、ロマ集落訪問は今回の旅の基本テーマだ。食にお金を出すことを渋っても、ここは身を切りたい。明日2時半にカサ・サムライに行き、そこからS氏と一緒にロマの村を訪れることにした。

2016年10月21日金曜日

ブルガリア・ルーマニア2016 四日目(ブカレストへ)

9月28日。

ブカレスト行きのバスは午後1時過ぎで、ホテルのチェックアウトは12時。チェックアウトぎりぎりまでホテルに滞在しても十分に間に合う。

ホテルでビュフェ式の朝食を済ませ、荷物を部屋に置いたまま朝の散策に出た。ホテルからほど近いドナウ川に沿って歩き、街の中心に至る。朝のルセは人通りも少なく落ち着いていた。今日も快晴で、日差しが徐々に強くなってくる。

ドナウ川

ルセの朝

12時ちょうどにチェックアウトし、宿に手配してもらったタクシーでバスターミナルまで行く。バスの出発まではまだ時間があり、ブルガリアの通貨(レフ)もかなり残っていたので、ターミナルの食堂でちょっとボリュームのある昼食をとった。

バスといってもマイクロバスで、私のほかに7、8人の乗客が乗り合わせていた。ブルガリアとルーマニアのイミグレを通過する際には、運転手が乗客のパスポートを集めた。ここらへんの事情はよくわからなかった。あとでパスポートを調べると、ブルガリア出国のスタンプは押されていない。

ブルガリアには3日間しか滞在しなかった。今回は合計9泊の旅。当初はブルガリアに4泊、ルーマニアに5泊の予定だった。ブルガリア滞在を1日早めたのは、ブルアリアが気に入らなかったからではない。逆だ。ブルガリアはもう一度訪れたい国のひとつになった。3日の滞在で終わらせたのは、ルーマニアの旅に余裕を持たせたかったからだ。

マイクロバスは出発してから2時間ちょっとでルーマニアの首都ブカレストに到着した。しかしバスターミナルではなくブカレストの街中で降ろされたので、ここがどこだかわかない。運転手に尋ねるも、英語が苦手らしく、乗客の中の若い女性に下駄を預けてしまった。この女性も英語が得意というわけではなく、「ここはどこだ」という私の素朴きわまりない質問に答えてくれない。だが、私が「ブカレスト北駅(Gara de Nord)に行きたい」と言うと、女性も同様で、タクシーで一緒に行こうということになった。彼女がスマホで呼んだタクシーに乗り、10分以上かけてブカレスト北駅に着く。代金はひとりあたり10レイ(250円ほど)だった。少額ながらルーマニア通貨をルセで購入済みだったのが役立った。

ブカレスト北駅

ブカレストでのホテルは前日にbooking.comを通じて予約しておいた。翌日にはブラショフに行くつもりだから、ホテルは駅に近いところがよい。駅から歩いて3分ほどのこのホテルを探すのにちょっと手間取った。ブカレストははじめてではなく、北駅付近には多少の土地勘もあったのだが、本来の方向感覚のなさから、人に聞いてやっとたどり着けるありさま。

予約してあったのはHotel Sir Gara de Nordで、シャワー・トイレ共用のツインルームが1泊25ユーロ。シングルルームならもっと安いのだが、なにぶんにも前日の予約なので空きがなかった。

ホテルでしばらく休んでから、外に出る。午後6時ごろだが、まだ明るい。まず駅に向かい、両替を済ませて、明日のブラショフ行きの切符を購入する。午前10時発の列車を選ぶ。料金は48.90レイ(1200円ほど)だった。

次は街の探索だ。北駅近くは5年前にも2泊している。市場に行こうとしたが、なかなか見つからない。市場は見つからなかったが、子供も含めた10人ほどのロマ(ジプシー)に遭遇した。道にたむろし、男たちは酒を飲んでいる。私が通り過ぎようとすると、歯の抜けた男が何か話しかけてきた。

片言のドイツ語を話せるようだ。ドルトムントに住んでいたらしい。ティーンエイジャーらしき少女が着ていた派手なシャツが気に入ったので、写真を撮らせてくれと頼むと、そぼにいる男たちがお金を要求してきた。なんと30ユーロとのこと。とんでもない。私が相手をしないので、男たちは20ユーロ、10ユーロと値段を下げていき、最後に5ユーロになった。30ユーロから出発したので、5ユーロはずいぶん安いと勘違いした私はここでOKを出し、写真を4枚ほど撮った。

ロマの少女たち

撮ったあとにすぐに悔やんだ。5ユーロが高すぎたこともあるが、それだけではない。写真撮影のために金銭を支払うという行為そのものに対する後悔だ。観光資源の撮影を有料にするというのはままあることで、被写体に「人」が含まれるケースもありえるだろう(たとえばエチオピア南部の少数民族の撮影の場合)。しかしブカレストに住むロマは「観光資源」ではない。にもかかわらずお金を払ってしまった。「ロマ集落の探訪」などと言いつつも、結局は私もロマの人々を観光対象とする観光客にすぎなかった。否が応でもこのことを思い知らされる体験だった。

撮影が終わると、ロマの女の子たちは私を捕まえ、服の袖口や裾を引っ張って近くにある店につれていこうとする。「マンジャーレ、マンジャーレ」と言いながら。イタリア語からの類推で、「マンジャーレ」は「食べる」を意味しているのだと理解した。何か食べるものを買ってくれということなのだろう。このマンジャーレ攻撃をなんとか振り切って彼女らと別れた。「捕まえ」とか「振り切って」とか言っても、お互いに笑いながらだから、険悪な雰囲気になったわけではない。彼女らの名誉のために付け加えておけば、私の体をつかみながらも、私のカバンやポケットに手を入れようとする気配はまったくなかった。

夕食は北駅の小さな食堂でとった。「食」を期待して再訪したルーマニアであるはずなのに、はじめての食事を駅の食堂で済ますという安易なやり方を選んでしまった。安く済んだのはありがたかったが。夕食後そのままホテルに戻り、ルーマニア再訪の第一日目を終えた。

2016年10月19日水曜日

ブルガリア・ルーマニア2016 三日目(ルセ)

9月27日。

宿での朝食後、10時半のルセ(Ruse, Puce)行きバスに乗るため、中央バス・ステーションに向かう。ルセ行きの大型バスはほぼ満席だったが、私の隣は空席。ほっとする反面、貴重な出会いのチャンスを逃したという思いもする。途中、昼食のための20分の休憩があった。他の乗客の多くが食べていたのにならい、私もチキンスープとパンを注文した。ブルガリアやルーマニアではスープとパンの組み合わせがもっとも安上がりの食事らしい。

休憩時の昼食

ソフィアを出てからおよそ5時間後、バスは午後3時半ごろにルセのバスターミナルに到着した。明日はルーマニアのブカレストに行くことにしていたので、ここで切符を買っておきたい。ルセからブカレストに行くには列車という選択肢もあり、鉄道駅はバスターミナルのすぐ近くにある。念のために駅にまで行って調べると、ルセからブカレストまでは1日に1本、16時30分の列車があるとのこと。これでもよいが、列車には遅延の可能性がある。大幅に遅れれば、ブカレスト到着が夜になってしまう。またバスターミナルに引き返し、翌日午後1時過ぎ(正確な時刻は失念した)のバスのチケットを購入した。値段も忘れてしまったが、そう高くはなかったはずだ。

バスターミナルから徒歩でルセの市街地まで行く。2~30分はかかっただろうか。まず宿を決める必要がある。ぶらぶらと歩きながら探したが、ホテルらしきものがなかなか見あたらない。市の中心にあるツーリスト・インフォメーション・センターにあたってみることにした。「安めのいいホテルがないか」と尋ねると、「いくらぐらいが希望か」と聞き返される。50レフ(2700円くらい)と答えたところ、センターから歩いて10分ほどのChazlinoというホテルを紹介された。

Chazlinoホテルは50レフではなく70レフ(3700円ほど)だった。これ以上ホテルを探すのも面倒なので、ここに泊まることにする。大きなホテルではないが、部屋は広くてしゃれている。朝食も付いている。

ホテルの部屋で一休みしてからルセの散策に出た。こぢんまりした感じのいい街だ。外国人観光客の間では日本の印象はなによりも「クリーン」であることらしいが、ルセもこの点では日本にひけをとらない。ゴミや落書きの類いはほとんど見かけなかった。

動画を撮りながら歩いていると、道行く人が私に向かって手を振ったり、話しかけたりしてくる。ストリートミュージシャンの歌声や楽器の音も聞こえる。市の中心の広場では子供たちが遊び、カフェも賑わっている。カフェに入り、ビールで喉をうるおしてから、さらに散策を続ける。さわやかな気候。あてもなく未知の街を歩くのが気持ちいい。

ルセを歩く

こぎれいなルセのストリート

1981年にノーベル文学賞を受賞したエリアス・カネッティ(Elias Canetti)という作家がいる。ルセはこのカネッティが生まれた地だ。作品はドイツ語で書かれているが、彼の家系はスペインから逃れてきたユダヤ人であり、コスモポリタンあるいはヨーロピアンという形容がぴったりする作家と言えよう。私は何年も前に彼のBlenndungとDie gerettete Zungeという作品を読んだ。Die gerettete Zungeは自伝3部作の最初の巻で、文字通り訳せば「救われた舌」という意味だが、「Zunge」には「舌」のほかに「言語」という意味も含まれており、彼の幼年期、少年期の複雑な言語事情を表している。

カネッティがルセの生まれというのはブルガリア到着の日に遭遇したVesselinから聞いて知った。Die gerettete Zungeはかなり興味をもって読んだ作品だったはずだが、内容はすっかり忘れていた。帰国後本棚から出して調べると、この自伝の第1部のタイトルは「Rustshuk 1905-1911」となっている。Rustshukとはルセのドイツ語地名で、ルセにほかならない。ルセ(Rustshuk)については冒頭部分で次のように描かれている。

Rustshuk, an der unteren Donau, wo ich zur Welt kam, war eine wunderbare Stadt für ein Kind
(私が生まれた地であるドナウ川下流のルセは子供にとってすばらしい都市だった)

さらに「ルセにはさまざまの由来の人々が暮らしており、ブルガリア語のほか、トルコ語、ギリシャ語、アルバニア語、アルメニア語、ロマ語など7つか8つの言語が聞かれた」ともある。

こうした20世紀初頭のコスモポリタンな雰囲気が今日のルセにどのくらい残っているかは、たった1日滞在した私には知るよしもない。しかし少なくとも表面的には今なお、子供にとっても大人にとっても「wunderbare Stadt」(すばらしい都市)であるように見えた。

正直なところ、もっと貧しくもっと荒廃したブルガリアを予測していたので、これはちょっと意外だった。

夕食はちょっと贅沢にした。といっても、私なりの贅沢だから、飲み物も含めて1000円もしない。ホテルに戻ったときには夜はとっぷりと暮れていた。

ちょっぴり豪華な夕食

2016年10月17日月曜日

ブルガリア・ルーマニア2016 二日目(ソフィア)

9月26日。

先に書いたように、今回の旅の目的のひとつはロマ(ジプシー)集落探訪だった。しかし事前にちゃんと調べることなく、つまり宿題をすませることなく、日本を発ってしまった。どこをどのようにして訪れたらよいか、まったくわからないまま現地に着いてしまったのだ。

残された手段は現地の人に尋ねることだけ。さっそく朝食時に宿のスタッフに「ソフィアの周辺でどこにロマのコミュニティがあり、どうやって行けばよいか」と聞いてみた。この変な質問にスタッフはちょっととまどったようだが、横にいる同僚とも相談し、「市の中心からほど近いKonstantin Velichkovという地下鉄駅を降り、山の方に向かって10分ほど歩けば、ごく小さなロマの集落がある」と教えてくれた。しかしこれだけでは心もとない。市の中心部の地下鉄セルディカ駅の近くにあるツーリスト・インフォメーション・センターでも尋ねることにした。

ツーリスト・インフォメーション・センターのスタッフはソフィアのはずれにある2カ所を教えてくれた。具体的な地名ではなく、地図上に円を描いて「ここらあたりだ」とのことだった。

そのうちのひとつに行くことにした。地下鉄ですぐにアクセスできるような便利な場所ではない。最寄りの地下鉄駅で降りてからバスを利用しなければならない。バスの路線番号も聞いていた。しかし、地下鉄を降りたはいいが、件の番号のバスがどこに停車するのかわからない。停車場がわかったとしても、正しい方向のバスに乗り、正しい場所で下車できるかどうか定かでない。ここはやはりタクシーのほうがいいだろう。そのタクシーがなかなかつかまらず、地下鉄を降りてから小一時間が経過してしまった。

やっと捕まえたタクシーに地図の円印を見せ、「ここに行ってくれ」と指示する。タクシーは5分余り走り、停車した。ここが円印の場所らしい。降りたところはごく普通の住宅が並んでいるごく普通のストリートだが、ロマの集落はすぐにわかった。タクシーが停車する直前、それらしい崩れた家並みを通過したからだ。一目で他とは異質だった。

ロマ(ジプシー)の家並み

その崩れた家並みのところまで徒歩で引き返す。子供が数人いたので写真を撮り、日本から持ってきた飴を与えようとするが、いらないという仕草で、受け取らない。

さらに奥の路地に入っていく。水たまりのできた道路にみすぼらしい家。貧しい光景が広がる。突然現れた異邦人である私にときおり声がかかる。人々の様子も興味深く、写真や動画に収めたかったが、あまりおおっぴらに撮影するのははばかられた。

水たまりのできた道

子供たちは別だ。遠慮なく撮影できる。もっとも、ほとんどの子が「撮ってくれ、撮ってくれ」と近づいてくるなか、カメラを向けると姿を隠す女の子もいた。子供たちは私に向かって「ジャッキー・チェン、ジャッキー・チェン」とはやし立てる。

ジャッキー・チェンとはやしたてる子供たち

ある男が「Speak English?」と話しかけてくる。「Yes」と答えると、「ここは問題だ」と言う。何が問題なのかと聞き返す私。「ここはジプシーのゲットーだ。ひどい家ばかりだろう」と男。彼自身もジプシーとのことだった。

この集落はそう大きくはない。多く見積もって50世帯くらいか。2012年に訪れたスコピエ近郊のSutkaとは比較にならない。

こっそりと数枚の写真を撮ってから、徒歩で地下鉄の駅まで引き返す。タクシーで5分余りの道だが、徒歩だと40分以上かかった。

地下鉄でそのまま中央バス・ステーションまで行く。明日ルーマニアとの国境に近いルセ(Ruse)に行く予定で、その切符を購入するためだ。翌朝10時過ぎに出発する切符を購入した。ついでにバス・ステーションに隣接している中央鉄道駅も見物した。

時計を見れば、すでに3時前。バス・ステーション2階のセルフ・サービスの食堂でかなり遅めの昼食をとる。

セルフ・サービスの昼食

続いて宿のスタッフが教えてくれた「ごく小さなロマのコミュニティ」を訪れることにした。ここなら市の中心から近いのですぐに行ける。

Velichkov駅で下車し、山が見える方向にしばらく歩くと数軒のみすぼらし家が見えてきた。コミュニティというほどの広がりはない。せいぜい10軒くらいの家並みだった。雰囲気はいかにもロマらしく、馬車も見かけた。

馬車

市の中心に戻り、写真や動画を撮っているうち、すぐに暗くなりはじめた。7時の夕食に間に合うように宿に戻る。夕食時には日本人の大学生2人、イギリス人の若者1人と話す。イギリス人は英国のEU離脱を嘆いていた。

夕暮れのソフィア

今日はともあれ「ロマ集落探訪」という旅の目的にほんのわずかながらもふれたこになる。もちろんこれが「探訪」に値するものとは毛頭思っていないが、一種のアリバイにはなる。特に観光はしていないものの、まずは満足できるソフィアの1日だった。明日はルセに向かう。
 

2016年10月14日金曜日

ブルガリア・ルーマニア2016 一日目(ソフィア)

9月25日。

関空からイスタンブールを経由し、およそ18時間かけてソフィア空港に着いたのは、25日の朝9時過ぎだった。

こぢんまりしたソフィア空港を出て市内行きのバスに乗ったときにはまだ10時になっていなかった。ソフィアには2泊の予定で宿はbooking.comを通じてすでに予約してある。

バスに乗ったはよいが、どうやって切符を買い、どこで降りればいいかわからない。

このときバスに乗り合わせていたのが、ブルガリア人らしき中年の男性と東洋人の若者の2人連れ。切符を運転手から買って車内の刻印機で刻印すること、市の中心部に行くにはソフィア大学の近くで下車すればよいことを教えてくれた。

ブルガリア人は物理化学を専攻するソフィア大学の助教授で、東洋人らしき若者はカザフスタンのアルマトイの大学関係者とのこと。仕事関係のゲストとしてブルガリアを訪れたカザフスタン人をブルガリア人が空港まで出迎えにきたところだった。ブルガリア人の助教授は2003年と昨年に学会に参加するため訪日しており、バスの中で話がはずんだ。

あれこれ話しているうち、ブルガリア人(名前はVesselin)がソフィアを案内してくれることになった。カザフスタンの青年にとってもブルガリアははじめてということだ。予定を変更して3人そろってソフィア大学の前でバスを下車した。まだ朝の10時だから、宿に急ぐ必要はない。ここで知り合ったのもなにかの縁、好意に甘えることにしよう。

バスから降りると、さわやかな外気が気持ちいい。まだまだ暑い日本の9月とは異なり、涼しさを感じる。おそらくソフィアでも年間ベストの気候だろう。旧共産党本部、議会、大統領府などの官庁街を散策し、考古学博物館も見学する。Vesselinは物理化学を専門とするが、なかなかの博識で歴史にも詳しい。日曜日ということもあり、人通りは多くない。街の中心にはキリスト教正教の教会、ユダヤ教のシナゴーグ、イスラムのモスクがそれぞれ近い距離に位置している。これはブルガリアの宗教的寛容の表れだとVesselinは言う。

12時を過ぎたので昼食をとることにした。「ブルガリアの伝統料理を試したい」という私とカザフスタン青年のリクエストに応え、Vesselinが案内してくれるが、日曜日のため閉まっているところが多い。ようやく3軒目くらいで小さなレストランに落ち着いた。はじめて口にするブルガリア料理はまずまずの味。私は鯖料理を注文したが、サイドディッシュとして頼んだ茄子の蒸し焼きがおいしかった。支払いは割り勘にした。

カザフスタン人、ブルガリア人と一緒に昼食

食事のあとカフェに行った。入口はそう大きくないが、中に入ると奥のほうに大きな空間があり、かなりのテーブルがあった。ウエイトレスは赤い派手な制服を着ている。テーブルのソファも真っ赤。しゃれた感じを出そうとしているのだろうが、なんとかく垢抜けておらず、時代遅れの感じがする。以前ロンドンで遭遇したウラジオストック出身の若いロシア人女性を思い出した。絵に描いたような美人で、精一杯おしゃれをしている。しかしそのおしゃれがなんとなく田舎じみており、時代に取り残された感じがする。これがまたかわいい。最先端を行く奇抜なモードより、こちらのほうが私の好みだ。

カフェでは3人ともカプチーノとチョコレートケーキを注文した。ケーキは分量たっぷりのうえ、アイスクリームまで付いていた。すこし甘すぎるようだ。このカフェでは食事もでき、メニューにはスシもあった。

カフェを出てから、歩行者天国などを見物。日曜日らしく、結婚式の流れとおぼしき人々も2、3組見られた。このころになるとソフィアの気温も上がり、少し汗がにじむほどになっていた。

結婚式の流れ

私が予約していたHostel Mostel Sofiaは市の中心からそう遠くない。Vesselinがスマホのナビを利用して門口まで送ってくれた。ごく小さな看板のホステルなので、ナビなしでひとりで探したら手間取っていたかもしれない。

ホステルにチェックインしたときにはすでに4時近くになっていた。つまり彼らと一緒に6時間近くを過ごしたことになる。ブルガリアに到着してほどなく、宿にたどり着く前にこうした出会いがあろうとは予想だにしていなかった。前日のフライトであまり寝ておらず、小さいとはいえバックパックを背負っての街歩きなのでさすがに疲れたが、疲れを補って余りある体験だった。惜しむらくは、疲れと寝不足のために、せっかくのVesselinの説明があまり頭に入らず、記憶に残っていないことだ。

カザフスタン青年(名前はOlzat)との会話も興味深かった。私が「ウズベキスタンではISのジハドに加わる若者が少なからずいる」と言うと、カザフスタンでも同じようなことが発生しているとのことだった。彼自身、髭を生やしているため(といっともごく薄い髭だが)か、カザフ出国のときにIS参加を疑われたことがあるとか。Olzatは中国人のようにも見えるが、中国人とは少し異なる。日本人にしても何か違和感がある。世界のどこかで東アジア人風の旅行者を見かければ、中国人、日本人、韓国人のいずれかと考えるのが普通で、カザフスタンまではなかなか思いつかない。

VesselinとOlzatはロシア語ではなく英語で話していた。これは私に遠慮してではない。バスの中で私に話しかける前から英語で話していた。私の経験によれば、カザフやキルギスでは子供から老人までほぼ誰でもロシア語を話す。だが、ブルガリア語とロシア語が相互に理解できるほどに近い(たとえばスペイン語とイタリア語のように)というのは私の誤解だった。ブルガリア語はロシア語よりもセルビア語に近く、マケドニア語とはほぼidenticalとのことだった。Vesselinはロシア語もある程度は話せるみたいだったが、英語のほうが楽だったのだろう。

Hostel Mostel Sofiaはこれまで泊まったホステルの中でもベストの部類だった。まず値段。トイレ・シャワー共用のシングルルームに2泊して34ユーロ、つまり1泊17ユーロ。しかもこれは朝食と夕食を含めた値段だ。夕食は豪華とは言いがたいが、野菜が食べ放題なので、腹は十分に満たせる。しかも大きめのコップ一杯のビールが付いている。ビール付きの夕食を提供する宿ははじめてだ。朝食も充実しており、スクラブルエッグやパンケーキ、パン、野菜が食べ放題。コーヒーと紅茶、ハーブ茶はいつでも飲める。

さらにうれしいのは、昼食や夕食を広いコモンルームで全員一緒にとるため、世界各国から来たいろいろな旅行者と知り合う機会が生まれること。私は夕食時に長期旅行中の大阪の大学生と知り合った。

夕食後、大学生と一緒に、昼間通った歩行者天国を再度訪れた。数多く並んでいるカフェは客で埋まり、人々が思い思いに飲食を楽しみ、談笑している。種々の問題を抱えているブルガリアではあるが、この場面を見る限り、それなりに豊かで平穏だ。EUのメンバーとなったのもうなずける。

はじめてのブルガリア。幸先のよいスタートとなった。

2016年10月10日月曜日

ブルガリア・ルーマニア2016 経緯と準備

2011年10月にルーマニアを訪れ、ブカレストに2泊、ヤシに1泊、合計3泊した。モルドバと沿ドニエストル共和国に行く途中で立ち寄っただけのつかの間の滞在だった。だが、このときに受けたルーマニアの印象は予想外によかった。

ブカレストからモルドバとの国境に近いヤシに列車で抜けただけだから、風景にはそれほど目を惹くものがなかったが、食べ物がよかった。ちょっとお金をはずみ(といっても500円~1000円くらい)ちゃんとしたレストランでちゃんとした料理を注文すれば、ルーマニア特有のリッチな食を楽しむことができる。

ブカレストのレストランで(2011年)

料理よりもすばらしいのが「人」だった。道を聞けば、ていねいに教えてくれる。自分が知らないようなら、周りの別の人に尋ねてくれる。ヤシで若い女性にモルドバ行きのバスを尋ねたら、発車場まで案内してくれた。「日本や韓国などのアジアの文化にはまっている。道を聞かれたとき、英語を試す機会にもなるのでうれしかった」と言いながら。親切なだけではなく、英語が通じる確率が非常に高いことにも驚いた。

このとき以来、ルーマニアはいつか再訪したい国のひとつとなった。

それから1年後の2012年10月にマケドニアを訪れた。首都のスコピエの北5KmほどのところにSutka(正式にはSuto Orizari)という町がある。これは欧州最大の、つまりは世界最大のロマ(ジプシー)の自治体といわれている。もともとロマに漠然とした関心があったこともあり、ここまで足をのばしてみた。はじめてのロマの集落に一抹の不安もあったが、現地についてみるとそうした不安が吹き飛んだ。子供から大人まで、道ですれ違う多くの人々が声をかけてくる。ドイツ語で話しかけてくる歯の抜けた老婆(シュトゥットガルトに4年住んでいたということだった)、イタリア語が話せるかと尋ねてくる若者。欧州の他の場所ではお目にかかることのない歓迎ぶりだ。危険はまったく感じなかった。

マケドニアのSutka(2012年)

スコピエのロマの子供(2012年)

フランス、スペイン、イギリス、イタリアなどでルーマニアやブルガリアからやってきたジプシーが問題になっていることはもちろん承知していた。子供や女性を使ってスリや置き引き、物乞いをやっている犯罪集団というイメージが定着していることも。実際、パリではそうした子供たちを何度も見かけた。グルジアの首都のトビリシでロマの子供たちの集団を見かけたこともある。Youtubeにはロマの子供たちの「犯罪現場」をとらえた動画がいくつもアップされている。

西ヨーロッパ諸国に定着しているロマのネガティブなイメージ。Sutkaで見かけたフレンドリーな人々。この2つをどう両立させたらよいのか。ロマに関する謎と興味は一段と深まった。

そして今回の旅行。もういちど訪れたかったルーマニア。ルーマニアといえばロマの人口がいちばん多い国だ。ロマの集落の探訪をテーマとしてルーマニアへ行こうと決めた。ついでにまだ訪れていないブルガリアにも立ち寄りたい。ブルガリアにもロマは多い。

ソフィア(ブルガリア)Inでブカレスト(ルーマニア)Outの航空券を調べると、ターキッシュ・エアラインズが安い。燃料サーチャージ、空港税等すべてひっくるめて6万8千円ちょっと。9月末から10月始めは暑くもなく寒くもなく、雨も少ないらしい。時期的にもちょうどよい。

だが、「ロマ集落の探訪」といっても、どこにどのように行けばよいのかさっぱりわからない。ざっとネットを検索するも、ロマやジプシーに関する一般的な情報は数多く出てきても、ルーマニアやブルガリアのどこにロマの集落があり、そこまでどうやっていくのかという具体的な情報はほとんどない。

これはもっと本格的に調べないとと思いつつも、手がつかないまま9月24日の出発の日が来てしまった。

かくて24日21時30分関空発のターキッシュ・エアラインズの便ではじめての地、ブルガリアのソフィアに向けて飛び立った。「ロマ集落」に一歩も近づくことができずに、ただの観光旅行に終わるのではないかという危惧を抱えながら。

2016年10月7日金曜日

Simone de Beauvoir: Tout compte fait


2016年9月23日読了
著者:Simone de Beauvoir
評価:★★★★☆
刊行:1972年

Mémoires d'une jeune fille rangéeから始まるシモーヌ・ド・ボーボワールの一連の自伝の最終巻。このあとにもサルトルの死を扱ったLa Cérémonie des adieuxが1981年に刊行されており、これも自伝の一部とみなすことができる。しかし、母親の死を扱ったUne mort très douceと並び、La Cérémonie des adieuxはいわば外伝であり、正式な自伝は Tout compte faitをもって締めくくられる。 表題どおり「すべて語り終えた」わけだ(日本語版のタイトルは『決算のとき』)。外伝も含め、これで彼女の自伝を全巻読んだ。

本書は前作のLa Force des chosesをふまえ、1963年ごろから1971年ごろまでを扱う。つまりはサルトルとボーボワールの人気が最高潮に達し、彼らの影響力が最大になった時期だ。叙述は時系列ではなく、テーマ別になっている。この間の自身の著作、読んだ本、観た演劇や映画、聴いた音楽、国内や国外の旅行、アルジェリア、ソ連、中国、チェコ、中東、ベトナム(米国の戦争犯罪を裁くラッセルの国際法廷への参加を含む)などの海外の出来事、フェミニズム、国内政治、とりわけ68年の学生運動などがそれぞれ章別に語られる。

海外旅行に関してはサルトルに同行した1966年秋の日本への旅行にも一章が割かれており、興味深い。これは日本の出版社と慶応大学に招待された講演旅行で、東京、京都、広島、長崎などを訪れている。京都にはかなり多くのページが費やされているのに対し、大阪はNous avon passé un après-midi à Osaka. Nous y avons vu un quartier populeau où beaucoup de visages nous ont semblé moroses.(私たちは大阪で午後を過ごした。人通りの多い界隈に出かけたが、そこでの人々の表情は陰鬱そうだった)とたった2行でかたづけられている。この観察は大阪にとってちょっと酷ではなかろうか。

歌舞伎にはあまり関心を示していない一方、能と文楽を高く評価している。能や文楽が創り出す「別世界」(autre monde)で表現される感情の深さとリアリティがその理由だ。「本当に死体であるような死体を劇場で見たのは初めてだ」という感想もある。

ボーボワールは旅行に先立ち、行き先となる国を徹底的に調べている。日本についても同様で、フランス語と英語で書かれた膨大な量の資料にあたっている。そうしたなかから谷崎潤一郎にも関心を持ち、京都に住んでいる谷崎未亡人と会ったりもしている。こうした徹底した勉強は優等生の彼女らしいところといえよう。ネットで2、3時間だけざっと調べてから未知の国に旅立つ私とは大きな違いだ。比較にもならない。

サルトルとボーボワールのカップルはソ連とは徐々に距離置くようになる。1968年のソ連軍のチェコ侵入はその乖離を決定的にする。他方、中国への関心は増し、文化大革命への共感も示されている。ボーボワールの名誉のために加えておくと、この共感は没批判的で全面的なものではなく、深いところでの懐疑と危惧も表明されている。

60年代後半に発生した学生反乱には、サルトルもボーボワールも積極的にコミットしていき、非合法化された彼らの機関誌の販売を助ける活動もしている。

文化大革命も学生運動もあの当時の「時の流れ」だった。「存在非拘束性」というのは確かサルトルの言葉だったように思う。「自由」は実存主義の真髄だが、その自由も社会や歴史の条件から拘束された存在としての自由であり、そうした条件に立ち向かう自由でしかない。自立と自由をなによりも重んじていた彼らも、時の流れから完全に解き放たれていたわけではななかった。ソ連の崩壊、中国の国家資本主義化の今日まで彼らが生きていたら、どう考え、どう反応するだろうか。

この最終巻は前作のような「理論的」な部分が少なく、比較的読みやすかった。随所に鋭い観察や興味深い記述もあり、ページを読み進めていくのが楽しみだった。

時代にもまれつつも、最後まで自分で考え、自分の意志で生きようとした女性の人生は今でも色あせない。