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2015年11月30日月曜日

東チベット2015 5月5日(成都)

2012年3月に雲南省の元陽、6月に新疆ウイグル自治区のウルムチ、カシュガル、ホータン、2014年4月に貴州省の凱里を訪れた。北朝鮮へ行くついでながら2013年には遼寧省の丹東、2014年には吉林省の延吉も訪れている。元陽のハニ族とイ族、新疆ウイグルのウィグル族、貴州省のミャオ族、そして丹東と延吉の朝鮮族と、どれも少数民族に関係した道行きだ。中国には56の民族があるとされている。漢族以外は少数民族といえよう。これらの少数民族を探訪することは私の旅のテーマの1つだ。

さて次はチベット族だ。チベットというからにはラサを首府とするチベット自治区に行くのが本道なのだが、チベット自治区には許可証なしでは入れない。許可証と得るのに時間がかかるうえ、ガイドを付ける必要もあるらしい。時間的にも金銭的にもこれではきつい。四川省の東チベットになら許可証なしで行ける。ネットで見たラルンガルゴンパの写真から受けたインパクトも大きかった。

ラルンガルゴンパ(喇栄五明仏学院)

東チベット旅行の起点となるのは四川省の省都である成都だ。5月5日、中国東方航空の便で夜の9時40分に成都に到着し、booking.comを通じて予約してあった成都老栄国際青年旅舎にチェックインした。トイレ・シャワー付きのシングルルームで1泊128元。成都にしてはちょっと高めだ。3年前に宿泊した成都駅近くのユースホステルはトイレ・シャワー共同ながらテレビ付きで1泊50元だった。

まず目指すのはラルンガルゴンパだが、標高4000メートルということもあり、バスで一気に行かずに、途中の馬爾康(マルカム)で1泊することにしていた。マルカムは標高2600メートル。高地の薄い空気に体を慣らすにはちょうどいい。一応高山病の予防薬は入手してあったが、利尿の副作用があるから、バスに長時間乗るときにはあまり飲みたくない。

マルカム行きのバスが出ているのは茶店子バスターミナルらしい。受け付けの女性に明朝朝早くチェックアウトすることを告げ、東チベットの地図を購入した(値段は忘れたが10元くらいだったかもしれない)。早朝だからバスターミナルに行くにはタクシーを利用するしかない。朝5時ごろでもタクシーは簡単につかまるとのことだった。

近くの超市で夕食代わりのお菓子を購入し、宿に戻るとすでに12時近くになっていた。明日の朝は早いのになかなか眠れなかった。

2015年11月29日日曜日

北朝鉄道の旅2015 Johnathanから送られてきた写真

ツアー仲間であるベルリン在住のイギリス人Jonathanから今回の旅行の写真や動画を大量に受け取った。私のように1万円そこそこのカメラではないので、街や鉄道沿線、列車内の様子を高画質でとらえている。いくつか紹介しておこう。

清津の幼稚園で
歌や踊りのパフォーマンスを披露した園児たちとOksana。

平壌の地下鉄
車両の上にあがって補修作業をしている。私はこの光景には気づかなかった。覚えがない。

地下鉄のプラットフォームで
地下鉄のプラットフォームには労働新聞が掲示されている。子供たちの表情がいい。

食堂車のキッチン
私はここまでは覗かなかった。料理人は女性で、よく歌を歌いながら料理していた。

車窓から1
似たような写真は私も撮っているが、ここまで鮮明には撮れていない。

清津トロリーバスの中で
車掌と見習いガイドの深。深は金日成総合大学出身。最近のスタイリッシュな平壌女性の典型ともいえよう。

車窓から2
日本では稲刈りは8月下旬から9月上旬にかけてだが、北朝鮮は10月上旬の時点で稲刈りが始まったばかりの様子だった。農耕と運搬に牛は欠かせない。

コンパートメント内の様子1
香港籍の中国人Lloydと私。

コンパートメントの様子2
左からOKsana、Raymond、私。

車窓から3
どこだろう。咸興の近くかな。確かでない。

車窓から4

ここでも牛が。これもどこだかよくわからない。
 

2015年11月27日金曜日

ソマリランド2011 再びハルゲイサへ

1月30日。ベルベラを1泊で切り上げ、ハルゲイサへ戻ることにした。

朝、ホテルを出て、通りすがりの老人に乗り合いタクシーの場所を尋ねる。ここでもちゃんと英語が通じる。老人はタクシーが停まっている場所まで歩いて案内してくれた。途中、通りの真ん中で、40歳くらいの女性が上半身裸で何かわめいていた。老人は「クレージーだから、こっちの道を行こう」とその女性を避けた。もう少し様子を見ておきたかったが、そうもいかない。
ベルベラ


タクシーの座席が埋まるまでしばらく待つ。待っている間に、道端で売っていた魚の唐揚げを朝食代わりに食べる。ハルゲイサまでの料金は行きと同じで6ドル。席が埋まって出発したタクシーはなぜか警察署に寄り道し、私は警察署の中に案内される。私に応対した平服の職員は友好的であり、別に不安はなかったが、なぜ警察署に立ち寄る必要があるのか不可解だった。警察署長とおぼしき人の部屋まで案内されたものの、挨拶しただけだった。推測するに、タクシーの運転手は、外国人がボディガードなしでソマリランド国内を移動するのに必要なletter of permissionを取得させるために警察署に案内したのではないかと思う。しかし私はハルゲイサですでにletterを手に入れていた。挨拶だけで終わったのもこのためかもしれない。あるいは何か登録するようなことがあったのかもしれない。

魚の唐揚げを売っていた女性(タクシーの窓から)

ハルゲイサへ戻り、今度は市の中心部にあるOriental Hotelにチェックインした。これは外国人旅行者の間ではおそらくもっともよく知られたホテルだろう。トイレ・シャワー、衛星テレビ付きのシングルルームが1泊15ドル。ちょっと高めだが、朝食が付く。

街に出ると、相変わらず道行く人が声をかけてくる。ある老人につかまって路上でちょっと会話。というか老人が一方的にしゃべった。サウジアラビアから来たというその老人は私にアラーの偉大さを説く。「お前はどうしてこの世に存在しているかわかるか。パパとママのおかげで存在しているのではない。神のおかげで存在しているのだ。」老人の演説につられて10数人のソマリランド人が集まってくる。

この老人とは別の場所で再度出会った。そのときには「私の祖母は日本のエンペラーと親戚だ」と言っていた。サウジアラビアから来たというのもたぶん妄想だろう。

「チャイナ」とか「チャイニーズ」と言われる場合も多い。「ニイハオ」も少なくない。最初は「中国人ではなく、日本人だ」と抗議していたが、どうでもよくなってこちらも「ニイハオ」と応じることもあった。「チャイナ」と呼びかけてきたある青年に「間違えるな」と抗議すると、「俺が日本に行ったとして、誰もソマリランド人として認識してくれないだろう。アフリカ人とひとくくりにされるに違いない。それと同じだ」と言い返された。そうかもしれないが、私を中国人とみなすのは明らかに間違いであるのに対し、彼をアフリカ人と呼ぶのは不精確ではあっても間違いでない。いずれにしても、街を歩いている普通の人たちとこうした会話を英語で交わせるのがソマリランドだ。

カフェでお茶を飲んでいてもすぐに誰かが話しかけてくる。彼らが聞きたがるのは、ソマリアに比べてソマリランドがいかに安全であるかだ。「ソマリアには行かないのか」と尋ねられ、「Somalia is too dangerous to travel」と答えると、周りがドッと笑う。そんななかでも、貧しいソマリランドでは学校に行けない子供も多いと嘆いていた青年の言葉が心に残っている。

ベルベラで1泊しかしなかったこともあり、翌31日に予定より早くソマリランドを離れることにした。乗り合いタクシーが集まっているところにはバスで行かなければならない。Oriental Hotelのオーナーがバスの停留所まで案内してくれた。

Oriental Hotelの朝食

エチオピアとの国境があるWajaleeまでの乗り合いタクシーの料金は6ドル。なぜか最初に乗り込んだタクシーから別のタクシーに移動させられた。こうした指示や料金の支払いはすべて同乗のおばさんたちがやってくれた。タクシーに座ってから外を見ると、2人の男が取っ組み合いのけんかを始めていた。どうも私のことでけんかしているらしい。あれやこれやでしばらく待ったが、かなり年をとった老人が運転するタクシーは道とはいいがたい砂漠のような土地を走り、無事国境までたどり着いた。
Wajaleeまで


ソマリランドからの出国、エチオピアへの入国は何の問題もなかった。この日は国境からミニバスで2時間ほどのジジガ(Jijiga)で1泊することにした。ジジガはエチオピアの中にあるが、住民の大半はソマリア人だ。言語がソマリア語で宗教がモスレムというのはソマリランドと同じだが、雰囲気はソマリランドとちょっと異なる。写真も自由に撮れた。

ジジガのマーケット

ジジガで1泊、ハラルで1泊、さらにディレ・ダワ(Dire Dawa)で1泊してアジスアベバへ戻り、しばらく滞在してから帰国の途についた。

2015年11月25日水曜日

ソマリランド2011 ベルベラ

1月29日。ソマリランド3日目。

今日はベルベラへ行く日だ。ベルベラはハルゲイサから160kmほど離れた港町で、車で4時間ほどかかる。ベルベラ行きの乗り合いタクシーはすぐに見つかった。料金は6ドル。タクシーは座席がすべて埋まるまで出発しない。

1時間くらいは待っただろうか。座席がやっと埋まり、出発。半分砂漠のような荒涼とした光景が続く。カラフルなのは「アフリカの花」と呼ばれるプラスチック袋のゴミくらいだ。途中何回かパスポートのチェックがあった。そのつどパスポートと昨日入手したletter of permissionを見せる。

昼食のための休憩をはさみ、車はやがてベルベラに着く。

車から降りるやいなや、近くにいた老人が学校の制服を着た5、6人の少年に「この人をホテルに連れていってやれ」と指示したようだった。どのホテルかもわからず、少年たちについていく。5分ほど歩くと、ホテルらしき建物にたどり着く。バス・シャワー付きのシングルで1泊9ドルとのこと。もっと安いホテルもあるかもしれないが、そう悪い部屋でもないし、どこを探すというあてもないので、ここに泊まることにした。

少し休んでさっそく街に出る。ハルゲイサでも多くの人が声をかけてきたが、ベルベラは度を超えていた。もっとも多いのは「How are you?」という挨拶だ。歩きながら、「Good、Good」とひっきりなしに返事しなければならない。


ベルベラ1

ベルベラ2

ベルベラ3

ベルベラ4

ベルベラの子供たち

道端でお茶を一杯飲もうとすると、人が集まってくる。私がお茶を飲むのを10人以上のソマリア人が見守っている。携帯電話を出して私の写真を撮る人まで出てくるしまつ。注目されるのはいいが、これはちょっと疲れる。

ソマリランドで写真を撮るのに神経を使う。被写体でもない周りの人から「撮るな」と言われることも少なくない。女性を撮るときには特にそうだ。ハルゲイサでは、承諾を得たうえで4、5人の若い女性を撮ろうとしていたところ、周りの誰かからストップがかかった。

そのくせ私の写真は許可なしで撮る。私も遠慮せずにチャットを売っている女性の写真を撮った。チャットはカートとも呼ばれる葉っぱで、覚醒作用をもたらす一種の麻薬だ。といっても麻薬効果はごく弱いため、エチオピア、ソマリランド、イエメンはもちろん、日本や米国でも非合法ではない。効果が弱いから、大量の葉っぱを長時間かみ続ける必要がある。多くの男たちが午後の長い時間をチャットをかむことに費やすのが労働生産性にいいわけはない。イスラム教徒の男たちにとって酒の代用となっているようだが、経済に与える悪影響は酒よりも大きいかもしれない。

チャット売りの女性

海岸にはほとんど人がいなかった。泳ぐには寒すぎる。もう少し探訪すれば廃船が停泊している光景も見られたかもしれない。

街を歩いていると、黒いベールを被った女子高生らしき6、7人が私のほうに近づいてくる。そのうちの1人が「ハロー」と言いながら、私のほうに手を差し出す。当然握手する。と、手を握った瞬間、相手はすばやく手を引っ込め、全員がワーと蜘蛛の巣を散らすように逃げ去った。あれはいったい何だったのだろうか。

夕食を済ませてホテルに戻ると、ロビーのテレビがアジアカップ決勝戦を放映していた。日本対オーストラリアだ。部屋にはテレビがないので、ホテルの受け付けの男性と別の宿泊客1人と一緒に観戦することにした。どちらも英語をしゃべる。ソマリランドはイギリスの旧植民地であったうえ、diasporaが多いこともあり、英語がかなり通じる。受け付けの男が「俺はオーストラリアを応援するが、お前はどちらを応援するのか」と聞く。「日本人だから、日本を応援する」と答えておいた。ほんとうはどちらでもよかったのだが、「どっちでもよい」ではあまりにそっけない。このときの試合は日本が勝った。

当初はベルベラに2泊する予定だったが、ごく小さな街であるうえ、注目度の高さに疲れたこともあり、1泊で切り上げることにした。翌日丸1日をこの街で過ごすことが少し重荷に思えたのだ。

ソマリランド2011 ハルゲイサ2

1月28日。ソマリランド二日目。

ソマリランドでは首都のハルゲイサに加えて、アデン湾に面する港町のベルベラをも訪れるつもりだった。当時、外国人がハルゲイサからベルベラへ向かうときにはAK47で武装したボディガードを雇う規則になっていた(現在ではベルベラに関する限りこの規則はなくなったと聞く)。ボディガードを付けるのだから、車も専用車になる。ベルベラに宿泊するとすれば、ボディガードの宿泊費まで出さなければならないだろう。これでは費用がかさんでしまう。しかし抜け道はある。警察でletter of permissionをもらえば、ボディガードなしで移動できるのだ。

明日はベルベラへ行く予定なので、まずはそのletter of permissionを手に入れなければならない。ホテルの近くに警察署があるが、letterは郊外の警察署本部でしか取得できない。ホテル近くの警察署で本部の所在場所などを聞いていると、運良くこれから本部へ行くという車があり、同乗させてもらうことができた。タクシーで行けば5ドルかかるうえ、外国人が本部に入るのは容易でないと聞いていたので、これはありがたかった。letterの作成には小一時間かかった。

バスでハルゲイサ市街に戻り、レストランで昼食をとる。肉とライス。肉は山羊だろうか。500シリング札を数十枚出して支払いを済まし、外へ出る。するとレストランの店員が追いかけてくる。札が1枚多かったというのだ。その正直さにちょっと驚く。さて、明日のベルベラ行きの準備もできたところで、ぶらぶらとハルゲイサの街を見て回ろう。


ハルゲイサのストリート・マーケット

ハルゲイサを歩いていると、よく声をかけられる。アフリカの他の国と同様、中国人と間違われることが多い。「ジャーナリスト」かと聞かれることも1度ならずあった。声をかけてきた1人、Mと知り合いになり、一緒にお茶を飲む。彼はソマリア人だが、国籍はエチオピア。アジスアベバの大学を卒業している。ただし、エチオピアの公用語であるアムハラ語はまったくできない。エチオピア国民であることを示す身分証明書を見せ、「何が書いてあるか自分でもわからない」と言っていた。大学の授業はすべて英語だったらしい。Mはハルゲイサをいろいろ案内してくれた。

エチオピア国籍のソマリア人M

私がソマリランドを訪れた理由の1つは音楽だ。ソマリランドとソマリアの音楽に興味を持ったのはいつごろだろうか。Ubax Dahir、Nimco Yaasin、Maryan Mursalといった女性歌手をよく聞いていた。

したがってMにCDショップに案内してもらったのは自然の成り行きだった。小さな店舗で販売されているのはもっぱらテープとCD-Rだった。CDやDVDを商業ベースで制作・販売するほどに音楽産業が発展していないのだろう。若い店主は私にUSBメモリを持っているかと聞く。ちょうど持ち合わせていた。容量は忘れたが、5年前のことだから1GB未満だっただろう。店主は私とMをショップの奥の事務所に案内し、パソコンでCD-Rを再生して、私の好みを曲をUSBメモリにコピーした。USBメモリがいっぱいになったところで、10ドルを支払った。他の国なら完全に違法だが、そもそもちゃんとした製品のCDやDVDがないソマリランドでは致し方がない。

ここでのやりとりは最初Mがソマリア語から英語に通訳してくれた。しかし、途中で店主が私に「フランス語はしゃべれるか」と問う。「Oui」と答え、以降店主と私の間で直接にやりとりした。あとでMに聞くと、「たぶんジブチから来たのだろう」とのこと。フランスの旧植民地であるジブチの人口の半数はソマリア人だ。ちなみに歌手のNimco Yaasinもジブチ出身らしい。

私がアップしたものではないが、Nimco Yaasiinの動画を1つ紹介しておこう。


Mとは夕食の前に別れた。彼とは今もときたまメールを交換している。帰国後まもなくして発生した東日本大震災時には、私の身の安全を尋ねるメールが来た。

宿に戻ると、テラスでデンマーク人を見かけた。物書きらしい。ハルゲイサにはすでに1週間以上滞在しているという。

2015年11月23日月曜日

ソマリランド2011 ハルゲイサ1

2011年の冬、つまり今から5年前に、未承認国家ソマリランドを旅行した。もう記憶もおぼろげになっているが、すべて忘却してしまう前に、思い出す限りをここに記録しておこう。日記どころかメモもとっていないから、金額や時間等の数字については間違いがあるかもしれない。

関空→エチオピア→ソマリランド→エチオピア→関空という行程を12日間でこなそうという旅。エチオピアの首都、アジスアベバでのソマリランド・ビザの取得に少なくとも1日、アジスアベバからソマリランドの首都のハルゲイサへのバス移動に2日、その帰路に同じく2日かかる。時間に余裕のある旅ではない。1日も無駄にせずに動かなければならない。

2011年1月25日にアジスアベバでソマリランドへのビザを取得し、翌26日にバスで10時間以上かけてエチオピア東部のハラルに移動して1泊。27日の早朝にハラルからミニバスでまずジジガがまで移動。ジジガでバスを乗り換えてエチオピアとソマリランドの国境に着いた。バスを降りると、同乗していた老人が何も言わずにエチオピアのイミグレの建物まで案内してくれた。エチオピアの出国手続きは10分もかからなかった。ソマリランドから再度アジスアベバに戻ってくるつもりだから、もちろんエチオピアのビザはマルチエントリーで取得してある。


エチオピアのイミグレを出て、ソマリランドのイミグレまで歩く。200メートルぐらいの距離だっただろうか。ソマリランドの入国手続きも問題なくすぐに終わった。係官が私のパスポートを見て、「エリトリアに行ったことがあるのか」と聞いてきたのを覚えている。当時(今でもか)、エリトリアはソマリアで戦っているアルカイダ系のアル・シャバブを支援しているといわれていた。イデオロギーや宗教上の親近性からではない。「敵」(エリトリアの敵はエチオピア)の「敵」(エチオピアの敵はアル・シャバブ)は「味方」という論理からだ。ソマリランドもアル・シャバブらしき勢力に爆弾を仕掛けられて数多くの死傷者を出したことがある。当の係官がエリトリアに対してどのような感情を持っているかは伺うすべもなかったが、入国にはなんの支障もなかった。

出入国事務所を出ると、首都ハルゲイサに向かう乗り合いタクシーが何台か停まっていた。ハルゲイサまではエチオピアの通貨で120ブル。当時のレートで6ドルだった。あとで知ることになるが、ソマリランド国内での長距離の乗り合いタクシーは6ドルが相場みたいだった。といってもこれは外国人価格で、地元民はもっと安いのかもしれない。ハルゲイサに着くまで何回かパスポートのチェックがあった。

乗り合いタクシーは私が目指すHadhwanaagホテルまで乗り付けてくれた。前もってネットで目星を付けていたホテルだ。シャワー・トイレ、衛星テレビ付きで1泊8ドル。ノートパソコンを持参していなかったため、Wi-fiの有無についてはわからない。今から5年前のことだから、おそらくWi-fiは飛んでいなかっただろう。ホテルの敷地内には両替所やレストランが併設されていた。さっそく5ドルほど両替して、レストランでかなり遅めの昼食をとる。5ドルの両替でも、かなりの札束になる。財布に収めることは不可能。

ソマリランドでは現地通貨のシリングと米国ドルのどちらも同等に流通している。ドルで支払ってシリングでお釣りをもらうといった具合だ。カンボジアでリエルとドルの両方が支払い手段となっているのに似ている。

ホテルはハルゲイサの中心にほど近い。ホテルを出て5分も歩くと、1991年の内戦時に撃墜されたミグ戦闘機のモニュメントにたどり着く。ハルゲイサ随一の(唯一の?)観光スポットだ。

ミグ戦闘機のモニュメント

モニュメントの台座に描かれている生々しい絵

メインの道路に沿って歩いて行くと、道沿いにいろいろなものが売られている。さながらストリート・マーケットといったところ。中古の日本車が多い。ハルゲイサを走る車の半数以上を占めるのではなかろうか。ドバイ経由で入ってくるのだろう。

ハルゲイサ1

ハルゲイサ2

ハルゲイサ3

ハルゲイサ4

夕食は別のホテルに併設されているレストランでとった。スパゲッティ付きのビーフ。何十枚もの500シリング札で支払った。

ホテルの衛星テレビではBBCのニュースを見ることができた。

2015年11月11日水曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 まとめ

ボストンから来たBobは、今回のツアーに参加した理由を「curiosity(好奇心)」としていた。好奇心が訪朝の動機となっているのは、今回のツアー参加者のほぼ全員に共通しているだろう。北朝鮮への旅は風光明媚な自然や名所旧跡を求める旅ではない。ショッピングや美食のための旅でもない。美しい自然、歴史上の名所、おいしい食べ物が北朝鮮にないわけではないが、これらはいわば付随的な楽しみだろう。動機としてもっと大きく、もっと強いのは、我々と違う体制、そのもとで暮らす人々への興味だ。欧米や日本の報道で批判され、非難され、恐れられ、揶揄されている体制。そんな過酷な体制下に暮らす(暮らさざるをえない)人たちも我々と同じ人間だという、ごく当たり前のことを発見するのが北朝鮮への旅だといえる。だが、私のように1度ならず何回も訪朝するケースはどうだろうか。好奇心だけで説明するのはちょっと無理かもしれない。ここらへんの事情、つまり「なぜ北朝鮮に行くのか」については、「北朝鮮旅行2014」に記しておいた。

http://chojiro22.blogspot.jp/2015/09/2014_20.html

「北京での事前説明会」の記事に書いたように、Koryo Toursの鉄道ツアーに申し込むにあたって私が期待していたのは次の2つだった。

(1) まだ訪れたことのない北朝鮮第二の都市、咸興に行くこと。
(2) 10月10日の朝鮮労働党創設70周年のパレードを見ること。

咸興訪問もパレードの見物も実現はされたが、どちらも満足度は100点満点でせいぜい50点くらいだった。咸興での滞在時間は短く、訪問先も銅像と肥料工場だけだった。市民の暮らしぶりを垣間見るような機会は与えられなかった。咸興駅の待合室にいる人たちがプラットフォームにいる我々をガラス越しに興味深そうに見ていた光景が記憶に残る。このガラスが我彼を隔てる厚い壁のようにも思える。

駅の待合室から我々を見る咸興市民

金日成広場でパレードを見ることは最初から期待していなかった。が、沿道でのパレード見物も満足のいくものではなかった。さんざん待たされたあげく、日がとっぷりと暮れてから始まったため、よく見ることができなかったからだ。暗すぎて写真撮影もかなわなった。

10月10日の平壌

ついでに期待外れだったことをもう1つ挙げておこう。北朝鮮の人たちとのふれあいがほとんどなかったことだ。2013年に個人で訪朝したときには、農家で行われていた還暦の祝いの席に偶然に立ち会うことができた。平壌・丹東を往復した列車の中で誰に監視されることもなく北朝鮮の人たちと交わるといったこともあった。昨年の北朝鮮東北部ツアーでも、七宝山や清津の海岸で北朝鮮の観光客や家族とつかの間の交流を持つことができた。演出されたものであるとはいえ、中・高校生と英語で話す機会もあった。今回はこうした場面が皆無だった。せいぜい通りすがりの子供に年齢を尋ねたり、地下鉄で写真撮影の許可をとるために話しかけたりしたくらいだ。唯一の例外は清津観光旅館で日本から帰国した老人と話したことだが、これも短すぎた。

還暦を祝う農家にて(2013年)

だからといって、鉄道ツアーに参加したことを後悔しているわけでは毛頭ない。平壌ー妙香山ー咸興ー清津ー元山を行く列車から見た北朝鮮の風景は私にとっては新しい発見だった。写真や動画もたっぷり撮ることができた。10日間を共に過ごし、しかもそのうち6日間は狭いコンパートメントや食堂車の中で一緒だった同行者たちとは昨年のツアー仲間以上に親密な関係を築くことができた。数人の同行者とはかなり立ち入った政治的な話もしたが、おおよそ同じような意見だったこともうれしい。先の記事でも書いたように、北朝鮮を知る旅は、ツアー同行者について知る旅でもあった。

食堂車でのひととき 1

食堂車でのひととき 2

私にとっては6回目の訪朝だが、昨年は平壌を外した清津・七宝山・羅先のツアーであり、首都を訪れるのは2年半ぶりだった。この2年半、平壌はどう変わったか。私たちのガイドも運転手も全員スマートフォンを使っていた。携帯電話とデジカメの登場は2010年の訪朝時に目にしていたが、スマートフォンは2013年の時点でも見なかった。2010年ごろにはすでに顕著だった車の増加はさらに一段と進んでいるようだった。とりわけタクシーの増加が目についた。10年前には高麗ホテルの前でタクシーを1台見かけたどうか。外国人客などたかがしれているから、おそらく平壌市民のタクシー利用が増えているのだろう。

地元の客でにぎわう光復地区のスーパーマーケットの印象はとりわけ強い。一定の購買力を持つ中産階級の存在を示唆するような光景だった。こうした階層が人口のどれくらいを占めるのかはわからない。ごく一部だとしても、どれくらいごく一部なのか。もっと具体的に、彼らの多くは党や軍の幹部なのか、それとも配給制度の破綻に乗じた商人たちが主体なのか(外見だけからすればスーパーの客の多くはごく平均的な平壌市民だった)。こうした「消費社会化」と金正恩の体制がどう関係するのか。残念ながら「見る」ことが理解につながるわけではない。

先に書いたことの繰り返しになるが、「北朝鮮は貧しい、貧しいはずだ」という思い込みに引きずられないようにすると同時に、平壌の一風景から北朝鮮全体を判断する危うさにも注意しなければならない。

今回の鉄道ツアーをもって私の北朝鮮訪問は一段落ついた。十分とはいいがたいが、北朝鮮第2の都市である咸興にも足を踏み入れた。外国人に開放されている所でまだ行っていないのは、平城、信川、海州、新義州(新義州は最近日本人にも訪問可能となったと聞く)くらいか。いずれもマイナーな場所だ。何か特別なツアーでもない限り、北朝鮮行きは一休止となる可能性が高い。とはいいながら、またすぐにでも行くかもしれないのが、北朝鮮の不思議な魅力だ。


 

2015年11月7日土曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 十二日目(10月13日)

列車はほぼ予定どおり8時過ぎに北京駅に着く。北京駅前でこのツアーの完全な解散となる。OksanaやMonishaの女性陣とはハグして頬をすりあわせる。私だけでなくたいていの日本人にとっては苦手な儀式だろう。

我々を北京まで運んだ列車

私はこの日は北京で1泊する。この日の午後にも北京発関空行きの便はあったのだが、列車の遅れを考慮して、あえて翌日の便を予約していたからだ。宿は予約していない。

同行者たちの多くは迎えにきていた車でいったんKoryo Toursの事務所まで行くようだったが、私は北京駅近くで宿を探すことにした。

バックパックを背負って宿を探すが、なかなか見つからない。安い宿は外国人を宿泊させる許可を得ていない場合が多いのでなおさらだ。朝食をとっていないから、歩き回っているうちに腹が減ってくる。適当な安食堂がなく、マクドナルドに入る。外国でマクドナルドに入るのは数年前のインドのコルカタ以来だろうか。海外ではマクドナルドやスターバックスは極力避け、できる限り現地の食べ物を試したいところなのだが。

結局北京駅から地下鉄の東単駅近くまで歩き、「地球の歩き方」に載っている東方晨光青年旅舎に宿をとった。トイレ・シャワー、Wi-fi付きのシングルルームで148元(トイレ・シャワー共同の場合は128元)。およそ3000円だ。部屋は地下で狭い。地方都市なら100元以下だろう。

フライトは明日の午後4時すぎなので、観光のための時間はそれなりにある。しかし、10日間の北朝鮮鉄道旅行のあとではあまりがつがつ探し回る気になれない。観光より休息だ。

新しい場所を探索する意欲もないので、例によって王府井や景山公園まで歩く。モノを見るよりヒトを見ているほうがおもしろい。旗を先頭にぞろぞろと歩いている地方からの数多くの団体旅行客。数年前の日本の団体旅行と似ていなくもない。韓国からの観光客もちらほらいるようだ。日本語を話す集団には出会わなかった。

観光客を観察

さらに数十分かけて地下鉄の東四駅まで歩く。途中、小さな店で臭豆腐を食べた。10年以上前に台湾へ行ったときから気になっていた食べ物だが、これまで食べる機会がなかった。あまり臭くはなく、味もそこそこいける。特別においしいというわけではないが、何回も食べればくせになるかもしれない。

臭豆腐

そろそろ日が暮れてくる。臭豆腐を食べたから、腹は満たされている。東四駅近くのスーパーに入り、夕食代わりのきな粉餅(みたいなもの)と飲料を購入して、地下鉄で宿まで帰った。きな粉餅はおいしかった。

東四付近の裏通り

夜中に目が覚める。寒くもないのに体が震える。風邪を引いたみたいだ。やはり体が相当疲れていたのだろう。明日のフライトは午後だからゆっくり休もう。

北朝鮮鉄道の旅はこのようにして終焉を迎えた。

2015年11月6日金曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 十一日目(10月12日)

平壌から北京への帰路は空路と陸路(鉄道)のいずれかを選択できた。ただし、アメリカ人は平壌から中国の丹東への鉄道の利用を許されておらず、空路で帰るしかない。咸興や清津への鉄道の旅は可でも、丹東へは不可というのも変な話だ。アメリカ人に対してたとえシンボル的なものであっても何らかの差別待遇を残しておきたいという意図なのか、ただの惰性でそうなっているのか。北朝鮮の動きには、すべて計算しつくし、裏の裏まで読んでいるようで、実は何も考えておらず、ただなりゆきまかせているようなところがある。逆に、特別な意図や動機がなさそうな動きや決定でも、その背後に緻密な計算が働いている場合があるのでやっかいだ。

列車で北京まで帰るのを選択したのは、私のほかに、JonathanとOksanaのカップル、JeremyとMonishaのカップル、Jane、それにNickだった(Janeは丹東1日ツアーのオプションを選んでいたので途中で離脱する)。つまり、アメリカ人以外に空路で帰ったのはFrank、Lloyd、Jamesということになる。

北京行きの飛行機は8時30分発なので、空路組は早朝にホテルをチェックアウトしていた。列車の出発時刻は午前10時。朝も余裕がある。ホテルの朝食会場で日本人らしい若いカップルを見かけたので声をかけた。張氏がガイドをしているグループの一員らしい。

9時過ぎに平壌駅に着き、ガイドたちとの別れの儀式のあと、列車に乗り込む。私はJonathanとOksanaのカップルに加え、個人で訪朝していたオランダ人男性(アムステルダム在住の写真家ということだった)と一緒のコンパートメントに入った。北京行きのこの列車にはKoryo Toursの添乗員であるSarahやVickyも同乗していた。

平壌から新義州を経て丹東に至る鉄道の旅は私にとって初めてではない。2013年4月にはこの路線を往復して訪朝している。このときには、行きの列車で共和国の商務担当外交官と英語で話し、帰りの列車では北朝鮮の男性グループからソジュ(焼酎)や食べ物をわけてもらった。今回帰路に列車を選んだものこうした「交流」を期待したからだったが、この期待ははずれた。同じ車両に北朝鮮の人たちも乗っていたのだが、外国人観光客と相交わることはなかった。北朝鮮の人たちのコンパートメントにひとり放り込まれた前回と違い、今回は我々のグループが大きすぎた。水泳競技(飛び込み)のために北京に向かう北朝鮮の女子選手に声をかけて、写真を撮らせてもらうことができたのがせめてもの「交流」だった。
飛び込みの選手

列車の中での昼食は羊角島ホテルから持ち込んだ弁当だった。10月10日の弁当ほどひどくはかったが、昨年清津や羅先で食べた弁当に比べれば明らかに劣る。たった2回の経験で「羊角島ホテルの弁当はまずい」と結論するのは早すぎるかな。

沿線の風景を少し紹介しておこう。


沿線の風景 1

沿線の風景 2

沿線の風景 3

新義州での出国手続きは特に問題なかった。私は、書き終えた出国カードを紛失したり、携帯電話を荷物の中から取り出すのに手間がかかったりでさんざんな目に遭ったが、これは私個人の不注意と不手際によるものだ。スマートフォンの写真はごく簡単にチェックされていたが、SDカードのチェックはなかった。

出国手続きのために2時間ほど新義州で停まった列車が再度動き出す。鴨緑江を渡ればすぐに丹東だ。Janeはここで降りた。丹東でとれくらい停まったか、よく覚えていない。川を隔てた北朝鮮の風景と中国の風景のコントラストは2013年にすでに経験していた。くすんだような煙突しか見えない新義州と高いビルがそびえる丹東。

丹東出発後、中国車両の食堂で夕食をとった。Jonathan、Oksana、Nickと同じテーブルにつく。料理は一人前一律で80元(1600円弱)と高め。ビールは10元。ビールはBadwiserしかなかった。Badwiserは不評で、注文したのは私だけだった。Nickはワインを注文していた。

食堂車の料理

Nickはロンドンの高級住宅街であるノッティングヒルに住む。両親ともに俳優で、母親は引退後もBBCのJust a Minuteという番組などに出演していたらしい。彼は10月10日に羊角島ホテルのロビーでBBCのインタビューを受けていた。インタビューはかなり挑発的で、「ノッティングヒルの金持ちが北朝鮮に来て何をしたいのか」と聞かれたり、「北朝鮮観光は血の上に築かれた観光だ(tourism based on blood)」と言われたりしたらしい。Nickのことだから、のらりくらりと答えていたもよう。

そのNickがこの夜は我々3人を相手に自分のプライベートな生活のことを蕩々としゃべった。太っていていじめられた子供時代、ホスピスで死んだ父親と死の数週間前に最高の関係を築けたこと、逆に母親との関係は母親の死に至るまで最悪だったこと、離婚で多額の慰謝料を支払ったことなど。「友人にも話していないこんなプライベートな話をして申し訳ない」と謝っていたが、「いやいや非常に興味深い」と返答しておいた。実際興味深かった。

寝台車ではJonathanとOksanaが上段のベッドで寝てくれた。慣れない環境ではなかなか眠れない私にとってはありがたかった。夜中に2、3回目が覚めてトイレに行くはめになったから。

明日の8時過ぎには列車は北京に着くはずだ。

2015年11月5日木曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 十日目(10月11日)

朝食をとるために1階に降りると、ロビーに張氏を見かけた。2005年と2010年の訪朝時にお世話になった日本語ガイドの張氏だ。5、6人の日本人のグループに何か説明をしているところだった。握手をして、Koryo Toursの鉄道ツアーで来ていることを告げ、食堂に入るまでの間短い会話を交わした。「今日はどこを訪れるのですか」との問いにうまく答えられない。今日の最初の訪問先は金日成と金正日の遺体が保存されている錦繍山(クムスサン)太陽宮殿だったのだが、この名称を知らなかったのだ。英語のmausoleumしか頭に浮かばず、日本語が出てこない。苦し紛れに「正装して行くところです」と答えると、張氏が「太陽宮殿ですか」と言う。ああ太陽宮殿というのかと、ここで初めて知った。

平壌にはこれまで4回来ているが、錦繍山太陽宮殿を訪れるのは今回が初めてだった。北朝鮮旅行の斡旋をしているMarkは「万寿台の銅像や万景台の生家と並んで錦繍山は必須の訪問地で、平壌観光には必ず含めるように指示される」と言っていたが、こと私に関してはこれはあたっていない。平壌を観光しながら錦繍山どころか銅像や生家さえ訪れなかったこともある。遺体には何の興味もない私は錦繍山をリクエストすることもなかった。きちんとした服装でという条件も鬱陶しく、むしろ避けていた。今回もKoryo Toursのパンフレットにはmausoleumについてふれていなかったので、喜んでいたくらいだ。おかげでネクタイを用意していなく、カナダ人のFrankに借りることになった(ネクタイを着用していない訪問者も見かけたので、着用は必須ではないのかもしれない)。

カメラやカード、金属類をすべて入口で預け、長い廊下を歩き、埃除去装置(?)を通過して中へ入り、まず金日成、続いて金正日の遺体を見る。遺体を囲む四方からそれぞれ4回お辞儀して、先へ進む。宮殿内部には金親子に与えられた勲章、名誉称号、さらには専用車や専用列車も陳列されている。建物の外に出るとき、Jeoffが私に「どう思うか」と聞いてきた。一言「insane」と答えておいた。

太陽宮殿の見物を終えて、バスに戻ったとき、Markがみんなをびっくりさせる。なんと人民服(金正日服かな)姿で登場したのだ。10月2日に平壌に着いたときに羊角島ホテルの仕立屋にスーツを注文したのは知っていた。しかしその「スーツ」が人民服だったとは今はじめて知る。同行者はこぞって彼の写真を撮る。彼もまんざらではなさそう。人民服の代金は125ユーロ。私も次回には一着あつらえようか。

人民服姿のMark

次にバスが向かったのは、光復地区商業中心。中国との合弁で2012年にオープンしたスーパーマーケットだ。ここでは外貨(最低5ユーロ以上)を現地通貨のウォンに両替して、平壌市民に混じって買い物をすることができる。昨年のツアーでは羅先の市場で買い物ができたが、使ったのは中国元であり、ウォンでの買い物ははじめての経験だ。両替したウォンは建前上は国外持ち出し禁止だが、添乗員のSarahによると、「財布にでも入れていない限り、見つかることはない」とのことだった。JamesとRayと私は3人で5ユーロを両替し、ウォンを分け合った。買い物が目的の両替ではなく、持ち出しが目的の両替だ(私は5000ウォン札3枚を日本に持ち帰った)。

光復地区商業中心(内部の写真撮影は不可)

スーパーは思ったより大きく、品揃えも豊富だった。規模からしても品揃えやレイアウトからしても、中国の中規模のスーパーに匹敵する。1階は食品と日用品、2階は衣料と家具、3階はフードコートだった。中国製の商品が多いなか、シャンプーや洗剤には日本製のものもあった。中国経由で輸入しているのだろう。

昼近いこともあり、フードコートは混んでいた。肉や麺類など、量も質も中国の地方都市のレベルと言っていいだろう。最近の平壌が一種の消費社会になりつつあることは知っていたが、ここまでは予想していなかった。ここでも「北朝鮮は貧しいはずだ」という思い込みが崩される。もちろん平壌と清津などの地方との差は大きいし、それ以前に我々が立ち入りを許されていない町や村が数多くあることを忘れてはならない。昨年車がほとんど通らない咸鏡北道の道路で20個余りのリンゴを売っていた中年の女性の姿が思い出される。「貧しい」という思い込みが危険なのと同様、平壌の「豊かさ」に判断を曇らされてしまうことにも注意しなければならない。

人民服のMarkを交えてレストランで昼食をとる。またまた朝鮮国際旅行社のレストランだ。冷麺とビビンバのどちらかを選択でき、私はビビンバを選んだ。隣の席のJeoffに韓国の反日感情や竹島(独島)の領土問題について聞いてみる。Jeoffはソウルに3年間住んでいる。「韓国の政府は人気がなくなると反日カードを切る傾向がある」とのことだった。これはまあよくある見方だ。彼は"Samsung Empire"という本を執筆する予定らしい。

昼食後は路面電車の乗車体験だ。2004年に初めて訪朝したとき、平壌市民に混じって路面電車に乗ることができた。案内員がいろいろ手をつくしてくれて可能になった乗車だった。夕暮れが迫る中、路面電車の中の黄色い灯り、灯りに照らし出された人々の暗い表情、束になった切符を持つ若い女性車掌の顔。今でも忘れられない。乗車の際に「財布に気をつけて」と注意してくれた案内員の言葉も。今回は我々専用にチャーターした路面電車だ。朝から降っていた小雨も止み、申し分ない。ゆっくり走る路面電車から見る平壌の風景は車の車窓から眺めるものとはひと味違う。かなり長く乗った。1時間近く、あるいはそれ以上だったかもしれない。


路面電車を降りた我々は平壌駅前を歩く。Markは人民服のままだ。平壌の街の中での堂々のコスプレ。道行く平壌市民もちらちらと彼のほうに視線をやっていた。

平壌駅前のMark

このあとの予定は金日成花・金正日花の展示場と朝鮮労働党創設記念塔へ行くことだったが、ホテルで休むという選択肢もあった。私を含めほとんどの同行者がホテルでの休息を選んだ。金日成花・金正日花の展示場も朝鮮労働党創設記念塔もすでに訪れたことのある場所だ。疲れた体を引きずって再訪するほどの場所ではない。まだ午後3時。6時の夕食まで3時間の長い休息となった。

平壌最後の夕食が午後6時と早い時間になったのは、私を含め何人かが夜の9時に始まる青峰楽団のコンサートに行くことになっていたからだ。夕食は市内のレストランでアヒルの焼き肉。平壌最後の夜に食べる定番の料理だ。食事の席でMarkが私に言う。「お前とはこれからもずっとコンタクトをとりたい。ぜひ一度アメリカへ来い。」「アメリカがお前にとってエキゾチックな場所でないことはわかっている。だが、私はアメリカの中のエキゾチックな場所を知っている。」

平壌最後の夜

10月10日前後の平壌でのオプションとして、当初、サーカス、マス・ダンス、青峰楽団のコンサートの3つが提案されており、私はすべてに申し込んでいた。しかし、実現されたのはコンサートだけだった。コンサートのチケット代は100ユーロ。安くはないが、こうした機会はそうあるものではない。

青峰(청봉=チョンボン)楽団は7月に結成されたばかりで、今回の公演が北朝鮮でのデビューという。この新しい楽団の説明が韓ガイドと深ガイドで食い違っていた。「チョンボンはモランボンを発展的に継承したものだ」という韓ガイドの説明に対し、深ガイドは「チョンボンはまったく新しい楽団で、モランボンは今までどおり活動を続ける」と言っていた。帰国してから調べると、深ガイドのほうが正しいことがわかった。

コンサート鑑賞を申し込んだのは私、Mark、Jeoff、Lloydの4人だけだった。8時過ぎに羊角島ホテルの前に集まり、Koryo Toursの他のグループや個人旅行者と一緒に1台のバスで会場の人民劇場に向かった。人民劇場は内も外もライトで煌々と照らされており、そこだけ取り出せば他の国のどのコンサート会場と比べても遜色なかった。

コンサートの写真撮影は禁止。入口で荷物をチェックされ、カメラは預けることになった。なぜかチェックを逃れてカメラを持ち込むことに成功したMark、公演中に1、2枚写真を撮っていたのはいいが、警備員に見つかってしまう。休憩時間に別室に連れて行かれ、カメラを没収される(画像削除のうえ、会場を出るときに返してもらった)。最後の最後までMarkらしかったといえよう。

青峰楽団は北朝鮮の歌に加え、「草競馬」などのアメリカ民謡、ロシアの歌曲なども披露した。正直なところ、私の好みにぴったりというわけではない。カヤグムやヘグムなどの伝統楽器が登場する今は亡き銀河水(ウナス)管弦楽団がなつかしい。疲れていたせいもあり、公演中は早く終わればと思ったほどなのだが、Youtubeにアップされているこのときの公演を見るとそう悪くもない。

ホテルに帰ったのは11時ごろ。明日はいよいよ平壌、そして北朝鮮を離れる日だ。

2015年11月3日火曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 九日目(10月10日)

10月10日は朝鮮労働党の創設記念日で、今年は70周年にあたる。我々の旅もいよいよ大詰めにきた。

労働党創立70周年当日の羊角島ホテル

羊角島ホテルは観光客に加え、各国からの報道関係者でいつになく人が多い。朝食のためにエレベーターに乗ると、満杯のエレベーターの中に日本人らしい男性2人がいるのに気づいた。声をかけると、朝日テレビだという。この旅で遭遇した初めての日本人だ。「パレードはいつ始まるか、聞いていますか」と尋ねられたが、もちろん私にはわからない。

羊角島ホテルのビュフェ式の朝食

ホテルの一角はプレスセンターとなっていて、数台のノートパソコンが並んでいた。ここからはインターネットへの接続も可能らしい。

外国人観光者が金日成広場の軍事パレードに参列できないことはあらかじめわかっていた。金日成広場の式典終了後に街に繰り出す戦車や兵士を沿道から見るだけだ。だがそれがいつになるか誰も知らない。朝から小雨が降ったり止んだりしていたこともあり、空が晴れるまでパレードの開始を待っているのではないかと推測する人もいた。

パレードがいつ始まるわからない中、我々の平壌観光がスタートする。まず向かったのは万景台にある金日成の生家。この「聖地」も普段の日だと訪問者がほとんどいなくてひっそりと静まりかえっていることもあるのだが、この日はラッシュアワー並の混雑だった。

ひととおり見てバスへ戻る道すがら、私の名前を呼ぶ声がする。Vesだ。北京で中国語を学んでいるブルガリア人のVesとは昨年の北朝鮮東北部のツアーで一緒だった。抱き合って再会を喜ぶ。Vesはネクタイを締めて正装している。錦繍山太陽宮殿にでも行くのだろうか(彼は今回はYoung Pioneer Toursのツアーで訪朝していた)。Vesは昨年のツアーのあとで私にメールを送ってくれたらしいが、私は受け取っていなかった。中国相手のメールではしばしばこういうことが起こる。

Vesとの短い出会いもそこそこに平壌観光は続く。外国人向け書店、革命戦士の墓、そして平壌民族公園へと。このころになると、曇り空ながら雨は止んでいた。民族公園は3年前にオープンしたばかりで、私にとっては初めての訪問。ある程度の期待もあったのだが、がっかりした。期待していたのは、体験型のイベントや民族楽器の実演などだが、そうしたものは一切なかった。そもそもイベントや実演をやるほどの人がおらず、閑散としていた。唯一の「体験」は、全体を見渡せる塔から降りたところで、コップ一杯のマッコリ(有料)を飲んだことくらいか。

平壌民族公園のガイド

昼食も近くなり、プールやカフェが入っている近代的な建物に入る。ひょっとすればこれはイルカショーをやっているところだったのかもしれないが、確かめていない。建物を入ったところに金正日の蝋人形があり、全員で一礼する。この場を去るとき、私は蝋人形をパチリと1枚撮った。と、職員らしき女性の叫び声。韓ガイドが慌ててやってきて、撮ったばかりの写真を削除するように指示された。撮影禁止だったらしい。銅像はよいが、蝋人形はだめ。どこに基準があるのかはっきりしない。

建物にあるレストランらしきところで、羊角島ホテルから運んできた弁当を食べる。この弁当のご飯がまずかった。ばらばらでまったく粘りがない。Lloydも「ライスがちゃんと調理できていない」と言っていた。昨年清津や羅先で食べた弁当はおかずも充実しておりおいしくいただいのだが、このときばかりはご飯の半分くらいを残した。

このあと、パレードを待つためか、この建物内のカフェで1時間余りを過ごす。カフェはおおぜいの外国人観光客でいっぱいで、カオス状態だった。席についても注文をとりにくるわけではない。カウンターでお金を払って注文するドトールやスターバックスの方式でもない。なにがなんだかわからない中、カウンターまで出向いてコーヒーを受け取った。ここのコーヒーはインスタントではなく、エキスプレッソだった。その分高価で、カフェを出るときに20元(約400円)支払った。伝票があるわけではなく、自己申告だ。おそらくおおぜいの客に慣れていなかったのだろうが、このカオスぶりは昨年の北朝鮮出国時の税関の混乱と似ていた。要するに手順がきちんとマニュアル化されていないのだ。

街中でのパレードがいつどこではじまるかはっきりしておらず、ただ待つしかなかったのだが、突然どこかから指示が出たらしく、カフェを慌てて出で、金日成花・金正日花の展示場の前の道路ぎわで待つことになる。この日平壌にいた外国人観光客は全員ここに集結しているようだった。昨年のツアーの添乗員だったVickyにも会った。Koryo Toursのイギリス人スタッフ6人は全員この日添乗で平壌に来ており、北京の事務所に残っているのは中国人スタッフだけということだった。

道路ぎわに立って待っている100人を超える外国人観光客。しかしいつまで待っても何も現れない。1時間待ったかか、2時間待ったか。やがて別の場所に移動するようにとの指示がどこからか出されたらしい。全員数百メートル離れた場所に移動する。新しい待機場所はたぶん2013年にオープンした高級レストラン「ヘダンファ(はまなす)館」の前だったと思う。

ひたすら待つ

ここでも少なくとも2時間くらいは待った。戦闘機が空に70の文字を描いた隊形で飛んでいく。花火もあがる。とっぷり暗くなってから、ようやく周りの歓声とともに戦車の隊列が現れる。私の安物のカメラではこの暗闇の中での撮影は無理だ。

日は暮れていく

暗がりの中を次々と通り過ぎる戦車や武器を搭載したトラックの列、それを歓呼をもって迎える市民の様子を1時間くらい見物したあと、朝鮮国際旅行社(KITC)直営のレストランで夕食となった。すでに8時を過ぎている。夕食では冷麺を選択できた。

歓呼する市民と観光客

この日の午後はなにがなんだかわからないまま、待機に大半の時間をとられた。金日成広場での式典が大幅に遅れ、午後3時ごろにはじまったせいだ。沿道で隊列が通りすぎるのを見たのもすっかり夜になってから。しかし雰囲気だけは味わうことができた。

金日成広場での式典やパレードの様子はホテルに戻ってからテレビで見た。

テレビに映し出される金正恩