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2016年4月16日土曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 後日譚 - Janeから送られてきた写真

Train Tourが終わってから半年近くが経過したが、今でも同行者間でぽつりぽつりとメールを交換している。このメール交換から明らかになった何人かの同行者のその後を伝えておこう。

平壌から北京への帰りの列車の中でフリーのジャーナリストであることをカミングアウトしたインド系イギリス人のMonishaはイギリスの日刊紙GuardianのWebサイトに我々のツアーにふれた記事を書いた。平壌のホテルで政治スローガンのバナーを盗もうとして北朝鮮当局に逮捕された米国人学生の件をとっかかりとして、ツアーで受けた現地の印象を述べ、訪朝の可否を巡る考察で締めくくっている記事だ。

http://www.theguardian.com/commentisfree/2016/mar/01/north-korea-american-detained-otto-frederick-warmbier

Monishaはこのツアーをハイライトとする旅行記を執筆中だが、出版は来年になるらしい。

イギリス人のNickはソロモン諸島、ロシア系アメリカ人のMarkはインドネシアへと、その後も旅を続けている。NickはイギリスのHouse of Lords(貴族院)でツアーの報告をしたという(もっとも場所が貴族院だっただけで、聴衆が議員たちというわけではなかったらしい)。ボストンのBobも小さい集会でツアーの報告をしたとのこと。

JonathanとOksanaはベルリンに戻った。Oksanaは姉(あるいは妹、sisterだけではどちらかわからない)と組んで、なんと沿ドニエストル共和国のツアーを組織しているという。ベルリン発のツアーらしい。

シドニー在住のJaneはニュージーランドをサイクリングで回った。そのJaneから送られてきた写真の一部を紹介しておきたい。私のような安物のカメラではないので、10月10日の暗闇の中のパレードの様子もしっかり捉えている。

沿線風景1


沿線風景2

沿線風景3

沿線風景4

沿線風景5

沿線風景6

10月10日のパレード1

10月10日のパレード2

10月10日のパレード3

Janeと私(平壌の地下鉄)

見習いガイドの深と私(平壌の路面電車内)

2016年4月13日水曜日

沿ドニエストル共和国日帰り旅行2011

2011年10月11日、モルドバのキシナウから沿ドニエストル共和国の首都ティラスポリへ日帰で行ってきた。

沿ドニエストル共和国なる国の存在をいつどのようにして知ったのか。ティラスポリ行きに先立つことおよそ9か月、同じ年の1月にアフリカのソマリランドへ行った。いわゆる「未承認国家」への関心からだ。沿ドニエストル共和国を知ったのもこれとの関連で、世界各地の未承認国家や破綻国家を調べていたときに浮上してきた。当時の沿ドニエストル共和国のネット上での評判はさんざんだった。どんな武器でも闇で購入できる。人身売買にまで手を染めている。スミルノフ大統領が独裁的に支配する「21世紀に残存する唯一のスターリニスト国家」にして「犯罪国家」でもある。入国するのも一苦労らしい。イミグレーションでの賄賂要求がなんともいやらしいとのことだった。

だが、そうこうするうち、賄賂攻勢に遭遇することなしに入国できたという旅行報告も目にするようになった。こと入国に関しては、だいぶ楽になったらしい。

そこで、関空からモルドバに飛び、モルドバから沿ドニエストル共和国に入ることにした。旅行に費やせる期間は10日ある。モルドバと沿ドニエストル共和国だけではもったいない。隣接するルーマニアとウクライナも含めよう。ちょっと欲張りすぎかもしれないが、ルーマニアから入りモルドバから出るトルコ航空のエアチケットを購入した。もちろんイスタンブール経由だ。

ルーマニアのブカレスト(2泊)から列車でモルドバとの国境のヤシ(1泊)まで移動し、乗り合いバンでモルドバの首都キシナウに到着した。キシナウに2泊し、バスでウクライナのオデッサに行く。オデッサで2泊してからキシナウに戻ってきた。どの国もビザなしで入国できるのがありがたい。キシナウに戻った翌日、念願の沿ドニエストル共和国に行くことした。

キシナウ

オデッサ

朝8時過ぎにキシナウのバス乗り場に行く。沿ドニエストルの首都ティラスポリに行くミニバスはすぐに見つかった。ミニバスの料金やティラスポリまでの走行時間は失念した。料金は数百円、時間は2、3時間だったように思うが、確かでない。

10人余りの乗客を乗せたミニバスはモルドバと沿ドニエストル共和国の「国境」に着く。モルドバは沿ドニエストル共和国を承認していないから、沿ドニエストルだけの自称「国境」だ。いちばん心配していたのはこの国境。スムーズに入国できるか。賄賂の要求があった場合、どう対処するか。

入国カード(英語で可)を書き、窓口に提出する。窓口に座っているのは軍服姿の若い女性だ。美人だが、表情は固く、冷たい(sternという英語がぴったりする)。この女性、ニコリともしないが、意外に親切で、こちらの質問に丁寧に答えてくれる。沿ドニエストル共和国のビザは滞在10時間以内の1日ビザなら無料、数日滞在するビザなら有料とのことだった。もちろん1日ビザを選ぶ。許された滞在時間は10時間。係官の女性は「You must come back here (at the immigration) until 8 o'clock」という。「8時までにここに戻ってくるように」と言いたいのだろうが、もちろんuntil 8 o'clockではなく、by 8 o'clockと言うべきところ。外国人にありがちな前置詞の間違いだ。もちろん私から誤りを指摘するようなことはしなかった。この女性、誰から指摘されることもなく、今でも同じ誤りを繰り返しているのだろうか。ビザのスタンプはパスポートには押されず、別紙に押された。ここらへんは北朝鮮と同じ。

国境からさらに小一時間かけて、ミニバスはティラスポリの鉄道駅に到着した。ここらへんが街の中心でもあるのだろう。鉄道駅にはバスの切符売り場もあったので、拙いロシア語を使ってキシナウ行きの最終バスの時刻を尋ねた。窓口の女性は数本のバスの時刻を手書きで紙に書いて渡してくれた。通貨の両替所もある。沿ドニエストルの通貨はルーブルだ。ロシアのルーブルとは異なる。いくばくかを両替した。米国ドル、モルドバレイ、ユーロ、ウクライナ・フリヴニャ、ロシア・ルーブルとの両替が可能だが、自分がどの通貨から両替したのかは忘れてしまった。

両替所の看板

街は閑散としており、人通りも少ない。「レーニン通り」(Улица Ленина)という名前のストリートがある。旧ソ連体制の踏襲をモットーとする国ならではだ。議事堂らしき建物の前にはレーニンの胸像があり、通りにある大きなサインボードには「未来はロシアと一緒に」と書かれている。プーチンの写真も数多く見られる。私はサンクトペテルブルクとモスクワにしか知らず、ロシアの地方都市には行ったことがないが、なんとなく「ロシアの地方都市」という印象を受けた。

ティラスポリ

未来はロシアと共に

プーチン

歩き回っているうちに昼食の時間になった。食堂らしきものは見あたらないが、メインの通りに面してちょっと大きめのカフェがあったので入る。ここでは食事もできるようだ。メニューを見ると、ロシア料理に加え、にぎり寿司や天ぷらもある。値段の関係からソーセージとポテトフライ、スープを選ぶ。料理はまずまずおいしかった。だが、せっかくここまで来たのだから寿司も試してみたい。若い女性のウェートレスにロシア語で「私は日本から来たので、寿司を試してみたい」と告げたうえで、マグロとサーモンの握りを注文した。食べ終わるとウェートレスが「どうでした?」と聞く。「魚はすばらしいが、米がちょっと...」と答える。その通りで、米が日本のように粘り気がある米ではなく、ぱさぱさしていた。これはしかし土地柄やむをえないことだ。ここはやはり「フショーオーチンフクースナ」(すべてたいへんおいしい)と答えておくべきだったと反省した。

カフェで昼食

沿ドニエストル共和国のにぎり寿司

カフェを出て、さらに街を探訪すると、市場らしき場所に行き当たった。だが、すでにほとんど引き払われており、人も少なかった。ここには午前中に来るべきだった。近くの路上で何か売っていた男が私に向かって何事か言う。よく聞こえなかったので、「ヤーニェパニマーユ」(私は理解できない)と言うと、男は「パチムー(なぜだ)」と聞き返す。男に私が日本人であることを説明した。どうやら時刻を聞きたかったらしい。日本人はおろか、中国人も見あたらないティラスポリの街で、まぎれもない東洋人の私にわざわざ時刻を聞いてくるとはどういうわけか。好奇心から声をかけてきたのかもしれない。

市場

「犯罪国家」というおどろおどろしい世評とは対照的に、ティラスポリは表面的には平和そのものだった。バーブシュカ(おばあさん)、ジェーブシュカ(おじいさん)と遊ぶ幼い子供。かわいらしい制服の小学生くらいの女の子。晴れた日の陽光が暖かく降り注いでいたことと相まって、のんびりした、穏やかな印象しかなかった。バスの窓口もカフェのウェートレスも感じがよく、親切だった。トイレのおばさんまでが私に向かってにっこりしてくれた。

キシナウに向かうバスの最終は7時ごろだったが、少し早く5時過ぎに帰路の途についた。帰りのミニバスには7、8人が乗車していた。モルドバの住人が半分、沿ドニエストルの住人が半分といったところか。モルドバの住人は身分証明書だけで両国を往来できるが、沿ドニエストルの住人はパスポートが必要らしい。沿ドニエストルのパスポートの表紙には旧ソ連と同じく「CCCP」(エスエスエスエル=ソビエト社会主義連邦共和国)と記されていた。問題なく国境を通過し、キシナウに帰ったときにはすでに暗くなっていた。

私が訪れてしばらくしてから沿ドニエストル共和国では選挙による政権交代が実現し、スミルノフ大統領は退陣した。諸悪の根源のように見なされていたスミルノフの退陣によってこの国がどのように変わったのか、あるいは変わらなかったのか、私には知るよしもない。

2016年4月7日木曜日

ミャンマー2016 十日目(帰国・若干の感想)

2月17日。

今日は12時15分ヤンゴン発のマレーシア航空機でクアラルンプールを経由して帰国の途につく。昨夜、朝の7時30分にタクシーを呼ぶように宿に頼んでおいた(料金は9000チャット)。ちょっと早すぎるが、ヤンゴンの渋滞を見込んでのことだ。空港で2時間、3時間待つのはかまわないが、遅れて搭乗を逃すことだけは避けたい。朝7時に部屋を出て朝食を食べに下に降りると、タクシーはすでにホテルの前で待っていた。

朝食を済まし、空港へ向かう。まだ朝早いということもあり、たいした渋滞にも遭遇せず空港に着いた。時間がたっぷりあるので、空港内を観察。ちょっと特異なそろいの制服を着たミャンマー人の中年のご婦人方が目に付いた。何のためにどこへ行くのか、興味があったが、あえて尋ねるほどの勇気はない。

ヤンゴン国際空港ロビー

クアラルンプール空港に着いたのは夕方の5時近く。関空行きのマレーシア航空便は23時50分発だから、ここでも時間がありあまっている。クアラルンプールの街に出る気は最初からなかった。何年か前に訪れたことがあるうえ、今から出かけてもせいぜい夕食をとるくらいで終わるだろう。街へ出るにはお金もそれなりにかかる。

真夜中の12時近くにマレーシア航空機はクアラルンプールを発ち、関空へ向かう。機内は空き席が目立ち、行きと同様、中央の4つ並びの席のうち3つを占有できた。客が少ないのは2つの事故の影響が今でも残っているからなのだろうか。

ミャンマー9泊10日の旅はこのようにして終わった。

最初の3日目ぐらいまでは、ミャンマーにやってきたことを後悔した。はじめての土地に降り立つときの不安と緊張。土地勘がまったくない街の中、宿を探して歩く苦労。物価のレベルもわからない。ミネラルウォーターは100円くらいするのか10円でいいのか、見当がつかない。わざわざお金を出してどうしてこんな苦労をしに来たのだろうか。しかしこうしたネガティブな気分は徐々に、土地を知り、人を知る旅の楽しみに変わっていった。これは私の旅のいつもながらのパターンだ。飛行機を降りてはじめての土地に足を踏み出すときの憂鬱。にもかかわらず、帰国後には「やはり行ってよかった、もう一度行きたい」と思う。これはミャンマーだけに限らない。

マンダレーの少年

ミャンマーで何よりも印象に残っているのは、人々の優しい表情だ。「優しい」という言葉は的確ではない。英語の「gentle」という言葉がいちばんぴったりする。「優しい」、「親切」、「穏やか」をミックスしたようなもの柔らかな表情。もちろんすべてのミャンマー人というわけではない。だが、ミッチーナーの旅行会社の女性、YMCAの受付の女性、ミッチーナーの空港で私に搭乗を知らせてくれた男性、アウンサン将軍の誕生祝いの席で私に説明してくれた男性、その他さまざまな人の穏やかな表情と笑顔は今でも私の目の前に浮かぶ。

人々の穏やかさやちょっとはにかんだような笑顔はミャンマーだけでなく、ラオスやカンボジアでも気がついたことだ。皮肉なのは、こうした人々の穏やかな表情や振る舞いとそれぞれの国のあまり穏やかでない歴史との対比だ。ラオスもカンボジアもミャンマーもそれぞれ血と暴力の歴史を背負っている。人ごとではない。日本人も戦前から「礼儀正しい民族」として知られていたが、朝鮮半島や中国本土、その他のアジアで相当残虐なことをやっている。倭寇の昔からそうだ。優しい人や礼儀正しい人も所詮は少数派でしかなく、多数や集団の勢いにはかなわないのだろうか。あるいは個人が集団へと変わると、個人を超えた何か別の要素、別の力が加わるということか。

私のブログのタイトルは「辺境へ」だが、今回のミャンマー旅行は辺境への旅とは言いがたい。ミャンマーに辺境や秘境がないわけではない。だが、現地の言葉も知らず、たいした予備知識もない10日足らずの旅で辺境にまで到達できるわけがない。ミャンマーはぜひ再訪したい国のひとつになった。今度行くときにはもう少し足を踏み入れ、辺境の一歩手前くらいまでには行きたいものだ。

「四日目(ミッチーナー)」の記事で景勝地のミッソンについて「ダムを建設する計画があるが、今のところ大統領命令でストップしている」と書いた。帰国してから調べると、これは中国資本による発電ダムの計画で、プロジェクトの凍結はミャンマーと中国との関係悪化の一因となっているらしい。中国はこのダム工事の再開を強く望んでいる。最近行われたミャンマーの新外相アウンサンスーチーと中国の王外相との会談でも、王外相からミッソン・ダムの話題が出されたと報道されている。アウンサンスーチーは少数民族との対立を悪化させるという理由でダム建設に反対していたはずだが(http://www.epochtimes.jp/jp/2011/08/html/d47646.html)、今後どうなることか。

例によって今回の旅行のスライドショーを作成した。背景の音楽はヤンゴンで購入したCDからとった。正直なところ好きな音楽ではないが、他にミャンマー音楽の素材がないのでやむをえず使った。

ミャンマー旅行のスライドショー

2016年4月5日火曜日

ミャンマー2016 九日目 その2 (ヤンゴン)

2月16日(続き)。

午後2時過ぎ、宿に帰り、ベッドに寝転びながら、ガイドブックやネットを頼りにこれからどこへ行くか検討する。部屋の中でもネットにつながるのがありがたい。Wifiの信号はそれほど強くないが、メールのチェックやWebの検索には十分だ。

環状線でヤンゴンの郊外を一周するのがおもしろそうだ。ヤンゴン中央駅から出発し、郊外をぐるっと回って中央駅に戻ってくる。一周にかかる時間は約3時間。

さっそく歩いて10分ほどのヤンゴン中央駅に向かう。駅員に尋ねると、環状線の次の出発は4時40分発とのこと。今はちょうど4時。まだだいぶ間があるが、これが幸いした。デジカメのSDカードを宿に置いてきたことに気がついたからだ。宿に引き返してまた駅に戻ってくると、4時30分になっていた。環状線(英語ではloop lineではなくcircular lineという呼称らしい)の切符売り場は7番ホームにあった。一周の切符はたったの200チャット(20円)。列車が出発するのは7番ホームではなく4番ホームだ。私が乗り込んだときにはまだ座席がかなり空いていたが、徐々に人が増えていき、出発するころには立っている乗客も少なくなかった。

この環状線では時計回りの列車と反時計回りの列車がほぼ1時間ごとに交互に出発する。私の乗った列車は反時計回りだった。4時40分発だから、夕方のラッシュアワーにはひっかかっていないはずだが、相当の混みようだ。列車の中で展開されるヤンゴンの普通の人たちの普通の生活の様子が興味深い。私の前にはスカーフをかぶった若い女性が幼児を抱えて座っている。イスラム教徒だろう。ビルマ人でないことは確かだが、ベンガル人といった感じでもない。ミャンマーのまか不思議な民族的多様性。

環状線列車の中

環状線には38の駅がある。3つ目の駅、4つ目の駅を過ぎるあたりから、乗車する客よりも降車する乗客のほうが多くなる。立っている人はいなくなり、座席にも空席が目立つ。途中、プラットフォーム上でちょっとしたマーケットが開かれている駅もあった。

ヤンゴン環状線

7時近くになるともう外は暗い。乗客も4人掛けの席を一人で占領できるほどに減っていた。列車は7時30分過ぎにヤンゴン中央駅に着いた。時刻表どおりほぼ3時間かかったわけだ。列車を降りるとき、これが日本の中古車両であることに気がついた。「ワンマン列車の乗降案内」というプレートがそのまま貼ってあったのだ。列車の先頭には「ワンマン」という表示もある。

環状線列車の中の日本語表示

「ワンマン」という表示がある環状線の列車
駅を出て、暗くなった中を宿に向かって歩く。昨日と同様、宿の近くのRuby Martに立ち寄り、夜のおやつ用に昨日と同じお菓子を購入する。お菓子を入れたプラスチック袋を手に近くの中華食堂に入り、焼きそばと缶のミャンマー・ビールを注文した。すると、私の向かいの席に30代くらいのミャンマー人の男性が座り、英語で話しかけてきた。

男性は韓国で11年、中国で4年働いていたと言う。そこで「じゃあ韓国語はしゃべれますか」と韓国語で尋ねてみた。しゃべれるとの答え。11年も韓国にいたのだから当然だろう。それ以降、英語を韓国語に切り替えて会話を進めた。といっても、万年入門者レベルの私の韓国語だから、ところどころで英語の助けを借りざるを得ない。男性の母親が近くで路上カフェを経営しているのでそこでお茶を飲もうということになった。焼きそばと缶ビールの代金は男性が払ってくれた。

男性の母親の路上カフェはヤンゴンのランドマークともなっている高層のサクラタワーのすぐ近く、大通りに面した一等地にあった。ここでお茶を飲みながら、韓国語と英語のちゃんぽんで男性と小一時間しゃべる。

男性はミャンマーの首都ネピドーで韓国語の通訳として働いている。息子が生まれたばかりで、スマートフォンの写真を見せてくれる。母親のやっているこの路上カフェは違法で、警察がくるとそのつど店をたたむ必要があるとのことだった。我々がこうして知り合ったことも인연(イニョン)だと言う。私はこの単語を知らなかったが、発音からしてたぶん「因縁」つまり「縁」だと推測した。あとで調べると、確かに인연は縁という意味だった。

ミャンマー人が日本で働くにはかなりハードルが高く、男性まだ日本に来たことがない。

男性に「今幸せか」と聞いてみた。即座に「幸せではない」との答え。なぜか。お金が足りないからだと言う。今の給料は月520ドルとのこと。日本円にすれば6万円近くか。このうち100ドルを母親に、100ドルを父親に、さらに100ドルを妻の両親に与えなければならない。残りの220ドルでは独身ならともかく、妻子持ちの身では苦しい。ここらへんの事情がよくわからなかった。母親の路上カフェは立地もよく結構はやっていそうなのに、どうして支援する必要があるのか。ミャンマーの平均月収はどれくらいかよくわからないが、あるネット情報によると5000~8000円、外国語スキルがあれば2~4万円という。男性は最近日本車を購入したばかりだし、ミャンマーの中ではかなり恵まれているほうではなかろうか。

ミャンマー人男性とその母親

お茶代は払う必要がなかった。歩いて5分ほどの私のホテルまで男性が送ってくれる。ミッチーナーのトゥクトゥク運転手と同様、男性も私の手を握り、腕を組む。サクラタワーの前を通るとき、私が韓国語で「このビルには日本の会社がたくさん入っていると」と言うと、男性が「韓国の会社も多い」と韓国語で答える。ヤンゴンの真ん中で日本人とミャンマー人が腕を組み、韓国語で話しながら歩いている。なんともシュールな光景だ。

男性とはホテルの前でハグをして別れた。名前すら聞いていないが、今度またヤンゴンに来る機会でもあれば、母親の路上カフェに行って消息を知ることができるだろう。

ホテルの部屋に入ったのは夜の10時近く。スーパーで買ったお菓子を食べながら、ミャンマー最後の夜を過ごした。明日はいよいよ帰国だ。

2016年4月2日土曜日

ミャンマー2016 九日目 その1 (ヤンゴン)

2月16日。

Beauty Land Hotelでは、前日にリクエストしておけば、トースト、卵料理、フルーツという標準のセットの代わりにミャンマーの麺を朝食とすることもできる。この日、私はモヒンガーという米粉からできた麺を選んだ。ミッチーナーかマンダレーですでにモヒンガーは食べていたかもしれないが、あまり洗練されていない私の舌では各種の麺の微妙な差までは識別できない。断言できるのは、このときのモヒンガーはおいしかったということくらい。

朝食はモヒンガー

今日はまずヤンゴン最大の名所ともいうべきシュエダゴォン・パヤー(パゴダ)に出かけることにした。私はどちらかというと観光名所を避けているが、まったく無視するというほどには徹底していない。パリのルーブル美術館、ロンドンの大英博物館、ローマのコロシアム、ヨルダンのペトラ、インドのタージマハルなども訪れている。ポーランド人の作家Witold Gombrowiczは何年かパリに住んでいた間、友人たちがしきりに勧めたにもかかわらず一度としてルーブル美術館を訪れなかった。私はそこまでかたくなではない。あるいはそこまで固い信念があるわけではない。

宿のスタッフによれば、シュエダゴォン・パヤーまでのタクシー代は2000チャット(200円)ということだった。タクシーを拾いやすいヤンゴン中央駅まで歩き交渉するが、どのタクシーも3000チャットだと言う。「それじゃ」と行って立ち去ろうとすると、即座に2000チャットまでディスカウントされた。

タクシーでおよそ10分、シュエダゴォン・パヤーに到着する。拝観料は8000チャット。靴を脱ぎ裸足になって中へ入る。シュエダゴォン・パヤーは複数の仏塔や寺院からなる。それぞれに由緒があるのだろうが、詳しく調べるほどの興味もない。だが、金色に輝く仏塔群のきらびやかさと壮大さには心ならずも圧倒される。

大半はミャンマー人の参拝客だが、外国人の観光客もちらほら見られる。3人連れの若いミャンマー人女性の参拝客が目についたので写真を撮らせてもらう。英語で「ビルマ人か」と尋ねると、3人揃って「Yes」と誇らしげに答える。

ビルマ人の参拝客

老人が近づいてきて、英語で「あなたは何日(what day)に生まれたのか」と聞く。てっきり生まれた日付(date)のことだと思い「XX月X日だ」と答えると、何曜日に生まれたかを聞いているのだとのこと。何曜日に生まれたかなど知るよしもない。老人は私の生年月日を確かめてから、小冊子を出して調べてくれる。私は土曜日に生まれたようだ。老人が私の生まれた曜日を教えてくれた理由はあとになってわかった。シュエダゴォン・パヤーには月曜日から日曜日までの各曜日の仏様が祭ってあり、自分が生まれた曜日の仏様を拝むようになっていたのだ。

黄金をメインに、白、緑、赤、茶などをちりばめた色鮮やかな建造物はなかなかの迫力だ。だがここを訪れているミャンマー人たちの立ち振る舞いもそれに劣らず興味深い。おそらく大半は我々同様の観光客だろうが、床に座って祈っている人も少なくない。一人の僧を7、8人の中年の女性が囲んで座っている。僧は食事をしており、婦人たちはそれぞれの手作りらしい料理を僧に差し出している。これも一種の寄進か。かと思うと、10人ほどの僧がテーブルを囲んで食事している光景にも遭遇する。

シュエダゴォン・パヤー

女性に囲まれて食事する僧
 
帰りのタクシーを拾うとすると、4000チャットだという。「ではいい」と立ち去ろうとしても、追いかけてディスカウントする気配はない。シュエダゴォン・パヤーの前にはそれほど多くのタクシーがたむろしているわけではなく、4000チャットでも客が見つかると見込んでいるのだろう。

なんとか2500チャットのタクシーを見つけ、昨日定休で閉まっていたボーヂョーアウンサン・マーケットに行く。ヤンゴン最大といわれるこのマーケットだが、食べ物は扱っておらず、工芸品、土産物、布地などが中心になる。私はCDを2枚購入した。ミャンマーの音楽には何の知識もない私が購入したのは竪琴のCD2枚だった。竹山道雄の「ビルマの竪琴」から思い浮かんだだけのお粗末な選択。

マーケットの周囲をしばらく散策してから、遅めの昼食を近くの食堂でとった。食べたのは麺だが、例によって麺の種類はわからない。

まだ午後2時をちょっと過ぎたところ。さてこれからから何をするか。ひとまず宿に戻り、一休みしながら考えよう。