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2018年8月31日金曜日

イスラエル中東研修ツアー 八日目(ナザレ、終日講義、外食)

8月8日。

1日の大半を外で過ごした昨日から一転して、今日は午前も午後もホテル内での講義となる。ただ、時間割はゆったりとしており、講義の始まりは朝の10時、終わりは夕方5時だ。

講義の始まりまで時間があるので、朝食後、7時45分にホテルの入口に10人余りで集合し、歩いて10分ほどの受胎告知教会(Basilica of the Annunciation)を見物することにした。

朝早いこともあり、教会には私たち以外にほとんど誰もいない。壁には日本、韓国、中国あを含む世界各国の聖母子像が飾られている。日本のそれは「華の聖母子」と名付けられ、イエスは裃姿、マリアは戦国時代の日本女性を彷彿させた。

日本の聖母子像(受胎告知教会)

韓国の聖母子像

午前中はアラブ人の女性弁護士Alhan Nahhas-Daoud氏による"The Arab Women in Israel"と題する講義。

イスラエル国内のアラブ人女性はアラブ人であるということで差別され、さらにアラブ社会の中で女性であるということで差別される。アラブ社会は家父長社会であり、伝統社会でもある。このため、アラブの女性は政治的な意思決定に参加することができず、雇用で差別され、セクハラなどに苦しめられる。イスラエルのアラブ人はイスラエル国家の法律だけではなく、宗教的な法にも従う。宗教的な法では女性はとりわけ不利な立場に置かれる。

「あなたはヒジャブ(ベール)を着用していない。イスラエル国内ではアラブ女性がヒジャブなしで街を歩いていてもハラスメントはないだろう。しかしヨルダン川西岸やガザではどうだろうか。ヒジャブなしで外出することは可能だろうか」と質問してみた。

回答は得られなかった。「ヒジャブの問題は非常にデリケートだ。ここでは答えたくない」とはねつけられてしまった。

イスラエル建国のプロセスについても質問した。「歴史家のIlan PappéはThe Ethnic Cleansing of Palestineという本を書いている。Ethnic Cleansing(民族浄化)かどうかのポイントは当時のイスラエル政府(ベン・グリオン政権)の側にアラブ人を追い出すintentionないしplanがあったかどうかだ。これについてはどう思うか」。

「Ilan Pappéの本は父親から薦められているが、まだ読んでいない。当時のイスラエル政府にはアラブ人追放の明確な意図があった」という答えだった。

昼食を挟んで、14時からDr. N. Atmorの"A Brief Introduction of Elections and Democracy in Israel: Political Parties and their Security Agenda"という講義が始まる。

イスラエルの国内政治は私の勉強不足の分野なので役に立った。最大政党はLiludで、定員120名の国会(クネセト)で30議席を占める。続いてZionist Unionで24議席。Zionist Unionの前身は労働党だが、シャロンが創ったカディマ党もここに吸収されている。このほかアラブ人の政党であるJoint List(13議席)、左派のMeretz(5議席)、セファルディのShas(7議席)、アシュケナージ超正統派のUnited Torah(6議席)、ロシア系ユダヤ人のIsrael Our Home(6議席、防衛大臣のリーバーマンはこの政党に属する)、右派のJewish Home(8議席)、中道のYesh Atid(11議席)、All of Us(10議席)といったところ。

ただ、これらはネットで調べればすぐわかる情報であり、本来なら事前に頭に入れておくべきだっただろう。

イスラエルの投票率の高さにびっくりした。正確な数字は忘れたが、確か70%台ということだった。これに比べて日本の国政選挙の投票率の低さ。もっとも、投票率が低いことは、それだけ政治に無関心でいられるという状況の指標でもあり、100%ネガティブではないのかもしれない。

講義は夕方5時に終わった。まだ時間はたっぷりある。さてどうするか。いままで食事はほとんどホテルの中だった。ホテルの料理がまずいわけではないが、一度は自分が選んだレストランで自分が選んだ料理を食べてみたい。この思いは他の研修参加者も同じだった。揃ってナザレの街に繰り出し、「外食」することになった。

「揃って」とは言ったが、図らずも男性と女性が別々になった。私を含む男性7人はしばらく街をうろついたあと、6時ごろにとある大きめのレストランに入った。レストランの名前はTishreen。各自が生ビールと料理を注文した。私が注文したのはイスラエル料理だと思うが確かではない(料理名もその内容も忘れてしまった)。

レストランで夕食

食後さらに街を散策する。アラブ人の青年が私たちに近づいてきて話しかける。近くのショップの店員らしい。最初はサッカーのワールドカップの話題で、青年が日本とベルギー戦での日本の奮闘ぶりを称える。続いて話題はイスラエルに移る。青年の英語はあまりなめらかではないが、パレスチナ人としての自尊心、イスラエル政府に対する反感は十分すぎるほどわかる。

マクドナルドでシェイクを飲んでからの帰り道、アラブ人の母親と子供たち4、5人に遭遇した。ここでも最年長の14歳の少年が初歩的な英語ながら自分たちはパレスチナ人であることを強調する。英語がままならない母親も同じだった。最後の最後になってパレスチナ人たちのイスラエルに対する強いAntipathy(反感)の一端にふれることができた。

ホテルに戻ったのは9時過ぎ。長いように思えた研修も残るところ2日だ。

2018年8月29日水曜日

イスラエル中東研修ツアー 七日目(イスラエル北部ガリリー地方)

8月7日。

今日はイスラエル北部ガリリー地域にあるドゥルーズやアラブの村を訪れる。"The Galiean Mosaic: Pluralities and Minorities in the Galilee"という名目の現地ツアーだ。

ナザレのホテルから30分余りでドゥルーズ村のショップに到着。ドゥルーズとはイスラエル、レバノン、シリアに住む宗教グループだ。私は2010年にシリア南部のドゥルーズの町シャハバを訪れたことがある。これまでドゥルーズはイスラムの分派だと思っていたが、どうもそうではないらしい。

ショップの前では今日のツアーをガイドする男性が待っていた。ユダヤ人で、元軍人ということだった。

ショップに入りガイドの話を聞く。テーブルの上には、セサミなどのパイ、オリーブの実、トマト、キュウリ、お菓子が出される。おいしい。ホテルでの朝食をもっと控えておけばよかった。

パイや野菜

オリーブ油の味見、サボンという石鹸の製造実演に続きショッピング・タイム。石鹸などの小物に人気があるようだったが、私は何も買わなかった。オリーブ油でも1本ほしいところだが、手荷物だけで飛行機に乗る身としては購入はかなわない。

ショップをあとにして、ドゥルーズの宗教指導者の家へ行く。ドゥルーズには教会やモスクに相当するものはなく、一般の家が礼拝の場となる。指導者も帽子や上着で区別されるだけで、カトリックの司祭やイスラム教のイマームとはそのあり方が大きく異なる。

丸く輪になって指導者の話を聞く。ドゥルーズはイスラム教には属していないとのことだったが、その出自はイスラム・シーア派からの破門にあること、コーランを聖典としていることなど、イスラムの1セクトと解されても不思議ではない。

ドゥルーズ宗教指導者の話を聞く

ドゥルーズはそれぞれの国の支配者に忠誠を誓っている。たとえば、イスラエルのドゥルーズはイスラエル政府に従う。他のアラブ人とは異なりドゥルーズがイスラエルの兵役につくのもこのためだ。

モスレムの場合、父親がモスレムならその子もモスレムになる。ユダヤ教の母親から生まれた子はユダヤ教徒だ。ドゥルーズの場合は両親ともにドゥルーズでなければドゥルーズとして認められない。しかもドゥルーズは他の宗教からの改宗を受け入れない。つまり非ドゥルーズがドゥルーズになる道は閉ざされている。

こうしたいわば閉ざされたドゥルーズのコミュニティを維持していくのは容易ではない。近親結婚といった問題も発生するだろう。

「ドゥルーズはミリシャ(民兵)を抱えているのか」と尋ねたところ、ドゥルーズは平和的なコミュニティでミリシャは持っていないとの返事だった。しかし、レバノン内戦ではドゥルーズ派のジュンブラート率いる民兵がキリスト教マロン派と対立していたはずだ。このツアー時にはジュンブラートという名前がどうしても思い出せず、深く追求することはやめた。

ドゥルーズの村をあとにし、レバノンとの国境付近まで行く。小高い丘からはレバノンの美しい光景が広がる。景色は美しいが、ときおり砲音が聞こえる。

レバノンを望む

次に訪れたのはアラブ人のコミュニティ。アラブ人といってもキリスト教徒(カトリック)とのこと。つまりマイノリティの中のそのまたマイノリティだ(イスラエル内のアラブ人の中でキリスト教徒は0.5%らしい)。

小さな礼拝堂を見学してから、2時過ぎに昼食となる。アラブ料理。サラダ、豆料理、チキンの入ったライスなど。まずはおいしかった。

アラブ料理で昼食

このコミュニティでは羊や鶏などの家畜を飼育し、ハーブやオレンジ、オリーブなどを育てている。外に出て、石のテーブルでお茶とアラブ菓子をいただく。

木陰に腰掛けてガイドの話を聞く。元軍人ということもあり、イスラエル寄りの説明が続く。イランを完全に敵視しているようなので、少し異論らしきものを出した。「ロウハニ大統領に実権はない。すべては最高指導者のカメネイ(Khamenei)の手にある」とガイドは言うが、ことはそう簡単ではないだろう。大統領と最高指導者の関係も絶対的・固定的なものではない。それにイラン社会は大きな変貌のまっただ中にある。「我々のなすべきことはロウハニ政権を奨励(encourage)することだ」と述べておいた。イランを孤立させることはイランの保守層をencourageすることでしかない。無用な軋轢は避けたいので、議論はここまでにしておいた。

木陰でガイドの話を聞く

ドゥルーズの村、ユダヤ人の村、クリスチャンの村を眺望できる丘を通過しながらナザレのホテルへの帰路についた。

ホテルに到着し、夕食をとったあと、19時から1時間近く、Galilee International Management Instituteの所長であるDr. I. Shevelによる"Palestinian-Israeli Cooperation: Galilee Institute's Experience"と題する話があった。

Galilee Instutiteのこれまでの活動を紹介するこの話のなかで印象に残っているのは、今年7月に成立したエチオピアとエリトリアの和解の下準備にGalilee Instituteがかかわっていることだった。エチオピアにもエリトリアにも関心がある私としてはうれしいニュースだ。どの程度のかかわりであったのかはわからないが、ほんの少しでもうれしい。

質問の時間になったので、「私はこの研修プログラムに約2000米国ドルを支払った。宿泊費、食費、移動費すべて込みだから、これでGalilee Instituteが利益をあげているとは思えない。Galilee Instituteはどこからか補助金ないし寄付金を受け取っているのか」と尋ねてみた。

「補助金はひも付きになるので受け取っていない。寄付金もない」との回答だった。

ホテル内に缶詰にされた昨日とは対照的に1日の大半を外で過ごした研修5日目はこうして終わった。

2018年8月28日火曜日

イスラエル中東研修ツアー 六日目(ナザレ、終日講義)

8月6日。

今日は終日ホテル内での講義が続く。

午前8時30分から10時30分まではDr. M. Eladによる"Israel and the Palestinians: Long-term Dispute and Prospects for a Final Peace Agreement"と題する講義。

10時30分から12時30分までは同じくElad氏による"The Core Issues of the Israeli-Palestinian Conflict"なる講義。

Elad氏はイスラエル国防省アラブ地域政策補佐官という肩書きであり、上記の講義はイスラエルの立場を説明するものとされていた。

8時30分から始まった最初の講義では1920年代からの紛争の歴史に加え、1970代以降の和平に向けた交渉とその挫折の経緯が時系列的に語られた。イスラエルの視点からということだったが、パレスチナ側の主張も並置され、予期したほど一方的な内容ではなかった。

10時30分からの第2部では、イスラエル・パレスチナ紛争のCore issuesとして(1)イスラエルとパレスチナの最終的な境界線、(2)難民問題、(3)東エルサレム、(4)入植地の4つが挙げられた。ここでもパレスチナ側の主張もちゃんと紹介された。

講義

12時半に昼食。昼間のホテルは私たち以外にほとんど客がいない。

昼食

14時からは"The Palestinian Refuge Question"と題するDr.M. El-Taji Daghash氏の講義。これはさらに16時からの同氏による"The Araby/Palestinian Citizens of Israel"という講義に続く。午前中の講義がイスラエル・サイドから見た紛争の歴史と現状であったのに対し、これはパレスチナ・サイドからのものと言える。

14時からの講義では1948年からオスロ合意(1993年)に至る期間に焦点を合わせて、難民がいかにして発生し、増加し、残存しているかが説明される。パレスチナ難民救済を目的としたUNRWA(United Nations Relief Work Agency)などにも言及される。

16時からの講義では、現在イスラエル国民の20%余りを占めるアラブ人のStatusがテーマとなる。

この講義でKoenig Reportなるものの存在を知った。これは1976年にイスラエル内務省のKoenigによって作成された機密文書であり、Galilee地方におけるアラブ人の数と影響力を減らすという目的とそのための方策を論じている。国内のアラブ人に対するイスラエル政府の基本戦略を図らずも暴露した文書といえよう。

午前の講義でも午後の講義でも私はいくつか質問したはずだが、何を質問してどのような答えが返ってきたかはすっぽりと抜け落ちている。英語での講義ということもあるが、日本語でも同じような結果になったかもしれない。

講義は18時に終了した。ホテルの近くにあるスーパーに行き、ミネラルウォーターとスナックを購入。

7時ごろに夕食をとる。このホテルの料理はKosher(ユダヤの規則に従って調理された料理)ではなく、スペインやイタリアの団体客が多いようだ。

終日ホテル内で勉強という、ある意味でタフな1日がやっと終わった。
 

2018年8月26日日曜日

イスラエル中東研修ツアー 五日目(岩のドーム、分離壁、ヨルダン川西岸)

8月5日。

6時半に朝食をとり、7時半にRimonimホテルをチェックアウトした。バスに乗って向かった先は神殿の丘(Temple Mount, Al-Harum Al-Sharif)。神殿の丘はイスラム教徒の管理下にあり、ユダヤ教の礼拝は禁じられている。2005年にはリクードのアリエル・シャロンがここへの訪問を強行したことから、第2次インティファーダ(アルアクサ・インティファーダ)が発生している。

バスを降り、ガイドのアラブ人青年と合流して、嘆きの壁を見下ろす通路から神殿の丘の入口まで歩く。神殿の丘に入るときには服装をチェックされる。上腕が露出した上着や短パンの場合はグリーンの布を渡され、覆わなければならない。

嘆きの壁を見下ろす

神殿の丘には金色の岩のドームが輝いている。これはイスラム教第3の聖地であると同時に、ユダヤ教の神殿が建っていた場所でもある。ドームの周りにはガードが配置され、不審な動きを見張っている。

岩のドーム

本来はユダヤ教徒が訪れてはならない場所だが、1人でここに来ているユダヤ教徒もちらほらと見かける。彼らには2、3人のイスラエル兵が付き添っている。トラブルを防ぐためだ。どんなトラブルがどんな大事に拡大するかわからない。

神殿の丘をあとにし、ガイドはエルサレムを眺望する小高い丘へ私たちを案内する。ここでエルサレムに関する長い説明を聞いたが、あまり頭に残っていない。私は「パレスチナ人はどのようなパスポートを持っているのか」と質問した。その回答もあまり記憶にない。こんな質問をしたのは、2010年にレバノンのトリポリからシリアのハマまで乗り合いタクシーで行ったときに同乗していたパレスチナ人夫婦がパレスチナのパスポートを使っていた覚えがあるからだ。ただこの記憶もぼんやりしており、ほんとうにそのパスポートを見たかどうか今でははっきりしない。まことに歳をとるとはつらいものだ。

続いてエルサレムと西岸(ウエストバンク)を隔てる分離壁(イスラエルはsecurity fenceと称している)を見に行く。自爆テロを防ぐという名目で建立された壁であり、実際にも自爆テロは大幅に減ってはいるが、パレスチナ人にとっては不便このうえなく、国際的にも不法とみなされている。

分離壁

ガイドと別れ、Papagaioというレストランで遅めの昼食をとる。入口にはKosher Brasilian Grillという看板が出ていたが、Kosherかどうかはともかく、ブラジル風の料理はあまり出なかった。私は鶏の胸肉を注文した。

昼食後エルサレムから西岸のパレスチナ占領地に渡り、RootsというNGOの話を聞く。バスの中での説明から「イスラエル人とパレスチナ人が共存するキブツ」と理解していてのだが、実際はPalestinian Nonviolence Certerという一種のコミュニケーション・センターで、パレスチナ人とイスラエル人の交流のためにいろいろな催しを企画しているNGOだった。

まずこのNGOを立ち上げたニューヨーク出身のRabbi(ユダヤ教指導者)がNGO成立の経緯を説明し、続いてパレスチナ人の青年が活動内容などを紹介した。

私はてっきりキブツだと思い込んでいたので、「ここにはどのくらいの家族がいるのか」などという的外れの質問をしてしまった。

この勘違い質問のほかに、2つばかり尋ねた。

「こうした活動をしていて警告や脅迫を受けることはあるのか」。しょっちゅうあるとのことだった。

この村はオスロ合意でいうエリアC(行政も治安もイスラエルが担う)に属している。そこで「この活動をエリアB(行政はパレスチナ、治安はイスラエルが担う)やエリアA(行政も治安もパレスチナが担う)にまで拡大する気はあるか」と質問した。「エリアBやエリアAではこうした活動は不可能」との返事だった。

西岸でNGOの話を聞く

このNGO訪問を最後にエルサレムとパレスチナ西岸をあとにし、ナザレに戻って、初日と同じGolden Crownホテルに再びチェックインした。

時差ぼけからくる不規則な眠りはまだ続いている。

2018年8月24日金曜日

イスラエル中東研修ツアー 三日目(聖誕教会、死海)

8月4日。

朝食後、8時半にバスでベツレヘムに向かう。キリストが生まれたとされる聖誕教会(Nativity Church)を訪れるためだ。ベツレヘムには9時過ぎに到着したが、聖誕教会ではカトリック、ギリシャ正教、アルメニア正教のミサが順番に行われており、そのあとに掃除もあるとのことでかなり待った。最初は土産物店の中で待ち、さらに教会に入って待つ。教会の中、私たちの前にフランス語をしゃべる団体がいたので、フランス語で声をかける。パリのカトリック信者の団体ということだった。「私たちのなかに日本語をしゃべる女性がいる」とのことで、その女性を私に引き合わせてくれた。女性は「靴下の会社の仕事で大阪へ行っています」と日本語で言っていた。日本人とフランス人に加え、ロシア人や中国人の団体で狭い教会はごった返してした。

ベツレヘム到着

前日の聖墳墓教会同様、キリスト教に思い入れのない私には特に感慨はなかった。イエスなる人物が実在していたとして、そもそも彼はナザレで生まれたのか、それともベツレヘムで生まれたのか、あるいはどこか別の場所で生まれたのか。私にはわからないし、わかろうという気もしない。

混み合う聖誕教会

祈っている一団もいる

11時からはHoly Land TrustというNGOとのミーティングということで、その事務所に赴いた。ミーティングとはいうものの、Holy Land Trustの代表がしゃべり、それに私たちが2、3質問をするだけの内容だった。イスラエル人とパレスチナ人の交流促進を趣旨とするNGOだが、その活動実態がいまひとつはっきりしない。私も「活動の具体例を挙げてほしい」と質問したが、それでもよくわからなかった。

ホテルに引き返して2時ごろに遅めの昼食をとったあと、死海に向かう。30分余りで死海に到着したが、私は海に入らないと決めており、水着も持ってきていなかった。わざわざ死海のために水着を購入するまでもないし、若者たちの中で老いた体をさらしたくもない。

海水アレルギーということで海に入らなかったもう1人の女性とテントの下でみんなの荷物を見張りながら、強い日差しを浴びて輝く海を眺める。

海に入った男性陣はすぐにテントに戻ってくる。「痛い、痛い」、「苦い」などと言いながら。濃い塩水だから、皮膚に少しでも傷があると沁みるらしい。スロバキア人女性だけは「Amazing」と感動していたが、総じて快適な体験ではなかったようだ。

死海

7時ごろにホテルに戻って夕食。大きなビュッフェ式のレストランにはユダヤ教の団体が多かった、あとで私たちに付き添っているGalileeのBorisに聞くと、Rimonimホテルの料理はKosher(ユダヤ教の規則に則って調理された料理)らしい。阪急のツアーで来ている日本人の団体も見かけた。

この日も灯りをつけたまま寝入ってしまい、夜中に目が覚めてそのあとよく眠れなかった。イスラエルに着いてから3泊目。そろそろ時差に慣れてもよさそうなものだが。

2018年8月22日水曜日

イスラエル中東研修ツアー 二日目(研修開始、エルサレムへ)

8月3日。

今日から研修が始まる。

研修の場となるのはGolden Crownホテルの4階にある会議室。8時に全員が集合し、Galileeの日本人インターンO氏による簡単なオリエンテーションに続き、各自が英語で手短に自己紹介した。男性7名に女性10名(うち1名はスロバキア人)。大半が20~22歳で、私1人が飛び抜けて年上。

8時半から始まった最初の講義はDr,G.Abutbul(テルアビブ大学講師)の"Cultural and Structual Elements of the Israel Society"だった。この3時間に及ぶ講義では、イスラエル社会の特徴が歴史的流れに沿って説明された。講義の内容をここで詳らかに報告することはしない。正直に言えば、できない。ときどき睡魔に襲われながらも、まじめに聴いたつもりだが、ノートをきちんととらなかったこともあり、内容がすっぽりと頭から消えている。鮮明に覚えているのは、「料理を含むユダヤの文化はもともとパレスチナ発祥のものが多い」ことくらい。ただ、自分が発した質問はよく覚えている。2つ質問した。

ちょうど数週間前にイスラエルの国会(クネセト)で「ユダヤ人国家法」が成立したばかりだった。これに関連して次のように質問した。「Israel is the state of Jewish peapleという法案がクネセトを通過したが、これは私をいっそう混乱させる。フランスはフランス人の国、イスラエルはイスラエル人の国だというのは理解できるし、正しい。"フランスはフランス人の国"というのはtautology(同義反復)だからだ。同義反復は常に正しい。しかし、イスラエルがユダヤ人の国とは? そもそもユダヤ人とは? ユダヤは人種でもなければ、宗教とも言い切れない。一般的に受け入れられたユダヤ人の定義とは、母親がユダヤ人である人、ないしはユダヤ教に改宗した人というものだ。イスラエルがユダヤ人の国家であると言った場合、そのユダヤ人にはイスラエル以外に住むユダヤ人も含まれるのか?」

答えはYesだった。レクチャラーのAbutbul氏自身が今回のユダヤ人国家法には賛成していないようだ。明日土曜日にはこの法案に反対するドゥルーズ派(アラブ人同様イスラエル国民でありながらユダヤ人ではない)の人々の大規模な抗議集会が予定されているとのことだった。

もう1つの質問。Abutul氏はアシュケナージ(東欧系ユダヤ人、European Jews)と対比して中東系のユダヤ人(Oriental Jews)をMizrahiと称していた。私のこれまでの理解では中東出自のユダヤ人はセファルディと呼ばれているはずだった。そこで「MizrahiとSephardiと同義か」と質問した。

「Sephardiとは1492年のレコンキスタとともにスペインから追放されて中東などに離散したユダヤ人を指す。したがって、MizrahiにはSephardiも含まれる」というのがAbutbul氏の回答だった。これには納得。つまりSephardiはMizrahiの部分集合なのだ。

11時半から12時半まではGalilee InstituteのMs. S. SalantのAcademic Orientationに充てられ、今後の講義の概要が説明された。

食事を済ませ、Golden Crownホテルをチェックアウト。バスでエルサレムに向かう。

エルサレムには4時前に着いた。バスを降り、現地のガイドによるエルサレムの観光がはじまる。

石畳の旧市街を歩き、キリストが処刑されたとされるゴルゴダに立つ聖墳墓教会を訪れる。キリストの遺体が置かれたとされる石の台もあり、ひざまずいている人もいる。キリスト教徒でもなく、どこまでが伝承でどこからが史実かはっきりしない私にとっては感動を誘うような光景ではない。

エルサレムの旧市街を歩く

キリストが安置されたとされる石台(聖墳墓教会)

セキュリティチェックを通過して嘆きの門(Western Wall、西壁)に赴く。写真でお馴染みの壁だが予想していたより小さい。黒い帽子に黒服のユダヤ教超正統派の人々が壁に向かって祈っているが、その数もあまり多くない。今日は金曜日でユダヤ教のシャバド(安息日)にあたる。シャバドには壁の前に多くの人が集まると聞いていたが、おそらく日没後のことだろう。

嘆きの門

ガイドに「正統派と超正統派の相違は何か」と尋ねた。「服装の違いだ」との意外な答え。黒帽・黒服が超正統派で、丸い小さな帽子(キッパ)だけを頭に載せているのが正統派。イスラエル人の大多数はsecular Jew(世俗的ユダヤ人)だ。ガイド自身もsecular Jewだが、「ユダヤ教を信じていないわけではないので、この呼び方は気に入らない」とのことだった。

夕方6時過ぎにエルサレムのRimonimホテルにチェックインする。部屋の内装、ビュフェの食事の豊富さなどからして、ナザレのGolden Crownホテルより一段格上のようだ。今日と明日このホテルに2泊する。

Rimonim Hotel

食事のあと、ホテル内で夜の8時から10時までE.Zananiri氏によるPalestinian Perspective of the Peace Processという講義があった。Zananiri氏はPLOの政策アドバイザーであり、文字通りパレスチナ側の和平に対する展望が語られた。

忙しかった初日の最後の講義。夜遅いこともあり、みんな疲れている様子だった。私は「パレスチナでは2006年以降選挙が行われていないが、現在の状況のもと、パレスチナ側にはたしてtwo state solutionを受け入れる用意があるのだろうか」と質問した。Zananiri氏の回答は「パレスチナの人々は悲惨な生活と戦いに疲れており、8割方はtwo state solutionを受け入れるだろう」というものだったが、その根拠は示されなかった。

初日の研修はこうして終了した。朝の8時半から夜の10時まで、寝不足もあってさすがに疲れた。講義の途中に睡魔に襲われたことも1度や2度ではない。明日はベツレヘムの聖誕教会と死海の観光がメインになる。格好の安息日といえる。

2018年8月20日月曜日

イスラエル中東研修ツアー 一日目(ナザレ到着)

8月2日。

香港発のキャセイパシフィック便は定刻の7時55分よりすこし早くテルアビブのベン・グリオン空港に到着した。

そう長くはない列に並び、入国審査を受ける。女性係官はパスポートをぱらぱらとめくって、いくつかの質問(父親の名前は?という質問もあった)をしたあと、イスラエル訪問の目的を尋ねてくる。「スタディツアーに参加するため」と答え、Galilee Instituteから受け取っていたLetter of Acceptanceと日程表を見せる。これでやっと入国かと期待したが、そうは問屋が卸さない。

「パスポートを預かるから、向こうで待つように」と、後方の部屋を指される。部屋に行くと、すでに先客が10人ほどいる。みんなぐったりと疲れた様子だ。横になって寝ている男もいる。おそらくかなり長い時間待っているのだろう。どれだけ待たなければならないのか。

1時間以上待つようでは迎えに来ているGalileeの運転手に会えないだろう。その場合は、今夜の宿泊先であるナザレのホテルに自力で行くしかない。あるいは、Galileeの運転手は別の参加者を出迎えるために午後3時ごろにも空港に来るはずだから、そのときまで待つという手もある。

そんなことを考えながら、10分ばかり待っていると、突然私の名前が呼ばれ、パスポートと小さな入国カードを渡された(イスラエルは数年前から出入国スタンプを廃止しており、代わりにカードを渡される)。正直ホッとした。おそらく、私に関する情報をオンラインで探り、問題ないと判断したのだろう。

キャセイパシフィックでベン・グリオン空港に到着した研修参加者は私を含めて3人。手荷物だけで預け荷物のない私が最初にGalileeの運転手と会うことができた。

ベン・グリオン空港からナザレまでは1時間半くらいかかっただろうか。研修の主な会場となるGolden Crown Old Cityホテルにチェックインしたのは10時すぎだった。ホテルには研修中ずっと私たちに付き添うことになるGalilee InstituteのBorisが待機しており、簡単な手続きを済ませた。このホテルには1泊し、翌日からはエルサレムに移動するが、また戻ってきて合計7泊することになる。

参加者中私だけは2人部屋ではなく個室を予約していた。バスタブ、テレビ、エアコン付きの立派な部屋だが、冷蔵庫はなかった。

今日の昼食から食事はすべてホテルで提供される。昼食に先立って、ナザレの町に出てみた。知名度の割には小さな町だった。アラブ人が多い気がした。暑いが、日本ほどの猛暑ではない。

ナザレ

空港の両替所が閉鎖されていたこともあり、ここで両替する必要がある。しばらく歩いて両替所を見つけ、150ドルをイスラエルのシェケルに替える。食費、宿泊費、移動費は必要ないから、150ドルは多すぎる気もしたが、使わないシェケルは再両替できるだろう。

ギリシャ正教の教会ではドイツ人の団体を見かけたが、街は閑散としている。昼の12時というのに、レストランやカフェにも客はほとんど入っていない。

ギリシャ正教教会

12時半にキャセイパシフィック組の3人だけでホテルのレストランで昼食をとる(参加者の大半は20時45分着の大韓航空便でやって来る)。なかなか充実したビュフェ式の食事。

ホテルで昼食

昼食後、部屋に戻って一眠りしてから、4時過ぎに再度外に出てぶらぶらする。

なにぶんにも疲れている。夕食を7時に済ませ、部屋に戻って、灯りをつけたままそのまま寝込んでしまった。夜中の1時頃に目が覚め、そのあと眠れない。なにはともあれ、ここまで無事にたどり着けたことで一安心。明日からが楽しみだ。

2018年8月19日日曜日

イスラエル中東研修ツアー 経緯と準備

イスラエルは気になる国ではあった。イスラエルそのものにも関心があったが、もっと行きたいのはイスラエルが占領しているパレスチナだった。

しかしイスラエル行きを躊躇させる事情が私にはあった。パスポートにアフガニスタンとスーダンのビザが貼付されていることだ。ロシアやエジプトのビザも貼付されている。アラブやイランのスタンプが押されているパスポートでイスラエルに入国しようとしたときのホラーストーリーはいろいろ聞いていた。2010年に一緒にヨルダンのペトラを見て回ったオランダ人男性は、後日のメールで「シリアのスタンプがあったためイスラエル入国時に4時間質問攻めにあった」と知らせてきた。あるオーストラリア人男性からは「イスラエルの入国審査でひどく不愉快な思いをした」と聞いたこともある。
入国できないことはないだろうが、不愉快な体験は避けたい。そんな事情から、イスラエルへの旅を具体的に計画することはなかった。

そんなときたまたまネット上でイスラエルのGalilee International Management InstituteがIsrael – Palestine Conflict: Understanding Both Sides (Japananese) という研修ツアーを企画していることを知った。対象は学生だが、「一般参加者も大歓迎」とある。こうしたプログラムに参加するならイスラエル入国も容易ではなかろうか。多少の関心はありながらもまともに勉強してこなかったイスラエル・パレスチナ問題をちゃんととらえなおすいい機会にもなる。8月3日から11日までの日程も都合がいい。参加者は日本人だが、講義やツアーは英語で行われる。


Galilee Instituteでインターンとして働いている日本人男性のO氏とメールで連絡をとり、申し込み手続きを済ませてから、銀行経由で代金を送金した。6月26日のことだった。

現地集合、現地解散の今回のプログラムには最終的に私を含めて日本人16人とスロバキア人女性1人が参加することが判明した。「一般人」は私のみ。あとはすべて学生ないし準学生だ。一瞬キャンセルを考えたが、もう遅い。

7月14日に東京で事前学習会が開かれるということなので、これにも参加することにした。

この事前学習会に向け、そして本番のイスラエルでの研修に備え、とにもかくにもイスラエル・パレスチナ紛争について最低限の知識を仕込んでおく必要がある。

まず講談社現代新書の「アラブとイスラエル」(高橋和夫著)を読んで、紛争のおおよその流れをつかんだ。続いて、O氏がグーグルドライブにアップしてくれたThe Palestine Israel Conflict - A Basic Introduction(Gregory Harms他著)に目を通した。これは200ページ余りの入門書であり、"present the history of the conflict in a balanced and actual light"を目的としていた。

これらの著作を読む中で一番ひっかかったのはイスラエル建国のプロセスである。1947年の国連決議181では人口にして33%のユダヤ人が委任統治領の56%を占めることになっている。しかも1948年にはイスラエルとされた地域から70万人余のアラブ人が流出し、難民となる(ナクバ)。この問題は今もRight of returnという形で残っている。

いったん心を真っ白にして双方のnarrativeに虚心に耳を傾けようとしていた私だが、イスラエル建国を巡るこうした状況を見ると、どうしてもethnic cleansing(民族浄化)という言葉が思い浮かぶ。ジェノサイドという表現を使う人もいるが、アラブ人を絶滅させるという意図がユダヤ人の側にあったとは考えられないから、この表現はあたらないだろう。だが、アラブ人を追い出す、つまり浄化するという意図についてはどうだろうか。

このときちょうどThe Ethnic Cleansing of Palestineというタイトルの本がイスラエルの歴史学者によって書かれていることを知った。Ilan Pappéがその人。現在イスラエルからself exiledの状態であり、イギリスのUniversity of Exeterの教授となっている。

このIlan PappéがBBCのHardtalkという番組でインタビューされ、その動画がYoutubeにアップされていた。インタビューアーはBBCの記者Stephen Sackur。いつとられた番組かはわからないが、 Youtubeにアップされた日付は2014年6月30日。非常に興味深い内容だった。


Ilan Pappéに主張には説得力があるが、Sackurの反論や質問ももっともだ。Sackurは中東の専門家ではないから、彼のPappéへの質問や反論のかなりの部分がイスラエルの歴史学者Benny Morrisに依存している。幸いBenny Morrisの著作(One State, Two State)もOさんがグーグルドライブにアップしていた。次はこの本を読もう。

この段階で7月14日の事前学習会の日が来た。JICAの地球ひろばで行われた学習会には今回のプログラムに参加する6人のほか、イスラエルに関係する学生など5、6人が出席した。

若い学生たちのなかでただ1人、飛び抜けて年齢の高い私が混ざることでどうなるか。排斥されるとまではいかなくても徹底的に無視されるのではとの危惧もあったが、暖かく迎えられたようで(勝手にそう思っているだけかもしれないが)、一安心。

出発までの残りの2週間でBenny Morrisの"One State, Two State"を読んだ。MorrisはTwo stateに向けての交渉の挫折をすべてパレスチナ側のせいにしているが、これはあまりにもone-sidedであるように思った。イスラエルの入植地の拡大、ガザへのdisproportionalな攻撃にはいっさい触れていないからだ。

one-sidedはIlan Pappéの側にも見られる。アラブ人によるイスラエルへのatrocities、PA(Palestinian Authority)の非民主的な体質、ハマスのイスラム原理主義が内包する政教一体の危うさがほとんど触れられていない。

こうした状態で8月1日の出発日を迎えた。勉強不足もいいところだが、今さらどうしようもない。

テルアビブ(ベン・グリオン空港)までは香港経由のキャセイパシフィック航空の便で飛ぶことにしていた。8月1日18:00に関空を飛び立つ。テルアビブ着は翌日2日の午前7時55分。空港にはGalilee Instituteから迎えが来ているはずだ。しかし、イスラエルの入国審査をスムーズに通り抜けられるかどうか。不安は大きい。