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2018年1月30日火曜日

エジプト2017 五日目(ヌビアの村)

12月21日。

9時過ぎに宿を出て、歩いて10分ほどのフェリー乗り場に向かう。ヌビアの村を訪れるためだ。

ヌビアへの興味は7、8年前にさかのぼる。きっかけは音楽。まずフランスのLes Nubiansという女性デュオを知った。彼女たちはヌビア人だが、その音楽はR&Bないしジャズ調のもので、ヌビアの伝統楽器を使っているわけではなく、ヌビアの旋律を取り入れているわけでもない。Les Nubiansから知ったのは古代からアフリカに住むヌビア人という存在だった。ヌビア人は独自の国を持っているわけではないが、今もスーダン北部からエジプト南部にかけて存続しており、その言語や文化はアラブとは異なる。

やがてYoutubeなどを通じてヌビアの伝統的な歌と踊りを知るにつれ、一度は行ってみたいと思うようになった。今から6年前の2012年にスーダンを訪れた理由のひとつだ。エジプトの観光化されているヌビア村とは異なり、スーダンでは本来のヌビアにふれることができると思った。

しかしこのスーダン旅行でヌビアに会うことはできなかった。ヌビアの町といわれる北部のドンゴラまで足を運んだが、事前の予習不足もあり、ヌビアを垣間見ることさえかなわなかった。当然だろう。アラブ人とヌビア人を服装で見分けることはできない。言語や顔つきには相違があるのだろうが、極東の国からポツンとやって来た旅行者に見極めがつくものではない。首都のハルツームでヌビア人のカップルに偶然遭遇したのが関の山だった。

そして今回のエジプト旅行。観光化されていようといまいと、今度こそヌビアを見てみたい。

ヌビアの村に行くにはナイル川を渡る必要がある。フェリーが出る場所は昨日確かめておいた。料金は外国人が5ポンド(30円)、アラブ人が3ポンド、ヌビア人が1ポンドとのことだったが、私以外の地元の人たちは誰も料金を支払っているようには見えなかった。そもそもアラブ人とエジプト人を簡単に区別できるものなのか。

フェリーに乗って

フェリーは常時出ている。20人余りを乗せたフェリーは7、8分でナイル側の向こう岸(西岸)に着いた。着いた先には乗り合いのトラックが数台待機している。ヌビアの村に向かうトラックだ。トラックに乗ってもどこで降りたらいいかわからないこともあり、誘いに乗って1台のトラックを貸し切ることにした。2時間で100ポンドというのを80ポンドまで負けさせて(これでも高すぎるが)、さあ出発。時刻は午前10時近くになっていた。

トラックは20分ほどかけてヌビアの村の端まで行く。村の端にある建物は病院だという。その前には4人の中年の女性がたむろしている。運転手によれば病院の職員とのこと。写真撮影のOKを得たうえでシャッターを切ったが、カメラから顔をそむける女性もいた。

ヌビアの女性たち

いくつかの集落に立ち寄り、散策のための時間をとりながら、元来た道を戻っていく。どこを歩いても戸数はかなりあるのだが、人の気配があまりでず、ひっそりとしている。この時間帯はみんなアスワンに働きに出かけていて、村にはあまり人が残っていないとは運転手の説明。

運転手にエジプトの現状につい質問を向けてみる。「今の状況はひどい。エジプト人はみんなシシ大統領を嫌っている」との大胆な答え。これまでにも何度か同様の質問を現地の人たちに試みたが、いつも奥歯に物の挟まったようなあいまいな回答しか得られていなかったので、ちょっとびっくり。これが単に運転手個人の見解なのか、それともヌビア人だから特に反感が強いのかは確かでない。

ヌビアの音楽を聞きながらヌビアの村をドライブ

出発してから1時間半ほどでフェリー乗り場に戻ってきた。運転手と別れてから、フェリー乗り場近くの集落を散策する。ここらあたりはそれほどひっそりとしておらず、下校途中の子供の姿も見られた。

ヌビアの子供

5、6人の女性たちの前を通ると、そのうちの1人がすっと立ち上がり、自分の家の中を見ていけと言う。家の中に入ると、写真を撮るように促し、さらに茶を勧めてくる。あまりにも手際よく慣れた様子なので、これはあとでお金を請求されるなとは思ったが、まあ毒を食らわば皿まで。

案の定、お金を要求された。5ポンド渡すと、「もっと」と不満そう。さらに5ポンド追加した。ここらへんが「エジプトのヌビア村は観光化」されていると言われる所以だろうか。

ヌビアの家の中

大人だけでなく、子供たちも同様だった。外国人と見ると、条件反射的に「マネー」という言葉が飛び出してくる。もっともこれはいわば挨拶のようなもので、簡単にかわすことができる。

結果論だが、トラックをチャーターしたのは失敗だった。費用もさることながら、ヌビアの集落は一本道に沿って並んでおり、ひとりでも迷うことなく探索できる。時間はたっぷりあったから、ところどころ立ち寄りながら徒歩で村の端まで行き、乗り合いトラックで帰ってくるほうがベストだっただろう。

さて本来なら今回の旅のハイライトともなるべきヌビア村訪問だったが、残念ながらヌビアの文化や風習、歴史に触れたという気はまったくしない。スーダンに次いで、エジプトでもヌビアの探索は空振りに終わったわけだ。もっともこうした結果は当初から予想していた。ヌビアを少しでも知ろうとすれば、せめて1週間くらいじっくりと腰を据えて探る必要があるだろう。予習なしで数時間歩いたところでどうなるものでもない。

昼過ぎにアスワンに戻り、鉄道駅に立ち寄って、明日のルクソール行きの列車の切符を購入する。朝7時30発の1等席。料金は51ポンド(300円ほど)だった。

昼食はテイクアウトのコシャリで済ませ、宿で休んでから、スークを突き抜けた先にある、うらびれた貧しそうなエリアを歩く。「貧しそうな」といっても、これがアスワンの、そしてエジプトの平均的なところかもしれない。遺跡も悪くないし、スークも興味深いが、私にはこうした貧しい(あるいは普通の)人々の生活が感じられる一角のほうがおもしろい。

アスワンの裏通り

夕食はちょっと張り込んで、エジプトの伝統料理であるコフタ(挽肉を棒状にしたもの)をテイクアウトした。値段は忘れてしまったが、「張り込んだ」というほど高くはなかった。予期した通りおいしかった。、

コフタ(パン、サラダ付き)をテイクアウト

2018年1月26日金曜日

エジプト2017 四日目(アブ・シンベル)

12月20日。

アル・シンベル神殿へのツアーの日。3時半のモーニングコールの前には目が覚めていた。

4時少し過ぎにホテルに迎えが来て、マイクロバスに乗り込む。すでに先客が2人いる。そのうち1人は日本人男性。彼もカイロのベニス細川家で出会った長期旅行者だ。昨日出会った日本人青年と同じYaseen Hotelに宿泊しているという。

マイクロバスはいくつかのホテルに立ち寄り、ツアーの総勢が揃う。エジプト人3人、韓国人の3人家族、若い中国人女性1人、そして日本人2人という布陣だ。

ほぼ4時間かけてアル・シンベル神殿に到着する。ガイドの付いているツアーではないので、ここから自由行動となり、2時間後にマイクロバスに戻ってくることになった。

神殿の入場券は160ポンド。これはツアー代金には含まれていないので、各自で購入する。それはいいのだが、窓口ではお釣りがないとのことで、全員がきっちり160ポンドで支払うように求められる。このため若干の混乱が生じていた。私はなんとか小銭をかき集めて支払うことができた。釣り銭をまったく出さないというのも不思議だ。小銭ばかりが貯まってしまうだろうに。

今から3300年前に建てられた巨大な神殿の中に入る。ツアー客のひとりである50歳くらいのエジプト人と一緒に内部を見て回る。エジプト人男性がいろいろと説明してくれる。この神殿を建造したラムセス2世のこと、古代エジプトとシリアの戦いのことなど。か、彼自身もアブ・シンベルを訪れるのははじめてで、そのうえ英語もあまり達者でなく、せっかくの説明もよく理解できない。もっとも、「よく理解できない」ことの主たる原因はちゃんと予習してこなかった私にある。

アル・シンベル神殿


アル・シンベル神殿の内部

エジプト人男性はカイロ在住で、農業技術関係の仕事をしているとのことだった。話題をエジプトの現在の政治状況に向けてみると、「うまくいっている」との返事だった。どこまで本当にそう思っているのかは窺うべくもない。

エジプト人ツアー客と一緒に

アスワンまでの帰りのバスの中で隣に座った若いエジプト人カップルと話す。彼らもカイロ在住で、男性のほうは教育関連の仕事に就いているらしい。彼の英語は聞き取りやすい。

外国人観光客の落ち込みに話が及ぶと、男性は「メディアが悪い」と言う。メディアがエジプトのテロや危険を過大に報道するため観光客の足が遠のいているというのだ。エジプトに限らず、これはまあ一理あるだろう。

カップルに「東京以外の日本の都市を知っているか」と尋ねると、しばらく考えていたようだが、どうしても出てこない。ギブアップと思ったところで、「ヒロシマ、ナガサキ」という答えが返ってきた。

2時過ぎにアスワンに帰ってきた。ツアーで一緒だった日本人男性と一緒に遅めの昼食をとる。昨日10ポンドのチップを要求された食堂は避け、その向かいにある食堂に入った。注文したのは昨日と同じハーフ・チキン。値段は40ポンド(約240円)で、チップを要求されることはない。それどころか、サービスでピーマンにライスを詰め込んだ一品を追加してくれた。

遅めの昼食

なにぶんも今朝は3時すぎに起床している。宿で休んだあと、近くのアスワン鉄道駅を見物し、ナイル川の向こう岸に渡るフェリーの乗り場を確かめる。さらに、メインストリートでもあるコルニーシュ通りをぶらいついて一日を終えることにした。明日はヌビアの村を訪れる予定だ。そのためにはナイル川を渡らなければならない。

 

2018年1月21日日曜日

エジプト2017 三日目(アスワン到着)

12月19日。

今日は飛行機でアスワンに向かう。アスワンまでの片道の飛行機代は135ドル。高いが、時間が限れている短期旅行者としてはやむをえない。

12時40分の定刻にカイロ空港を飛び立ったエジプト航空機は1時間ちょっとでアスワンに着いた。乗客の大半は中国人の団体客だった。空港からアスワン市内までタクシーで向かおうとする個人旅行者はごく少数(市内までの公共交通機関はない)。タクシーと値段を交渉するも、150ポンド(約900円)が限界だった。

スークに近くで宿を探す。ガイドブックを頼りにまずYaseen Hotelを当たったが、空き部屋はないという。次の宿を探そうと外へ出ようとしたき、日本語で声がかかる。カイロのベニス細川家で出会った青年だ。前日の夜行列車で私より一足先にアスワンに着き、この宿に宿泊しているとのこと。

次に向かったのがYaseen HotelのすぐそばにあるNoon Han Hotel。部屋は空いており、シャワー・トイレ付きで80ポンド(480円ほど)と安いが、残念ながらWifiがない。私のようにネットの便利さにスポイルされた旅行者にとってWifiを利用できないのはつらい。

結局3軒目のParadise Hotelに落ち着いた。シャワー・トイレ、テレビ付きで1泊100ポンド(600円)とリーズナブルな値段だ。ここに3泊することにした。

このホテルまで案内してくれた男に明日のアル・シンベル神殿へのツアーを申し込んでおく。アスワンからアル・シンベルまでは車で4時間。なんと早朝4時にホテルに迎えにくるとのこと。日中の神殿見学はこうした早朝出発がスタンダードらしい。アスワンに戻ってくるのは午後2時になる。ツアー代金は170ポンド(1000円ほど)。

宿の近くの食堂でかなり遅めの昼食をとる。食事が出てくるのを待っていると、Yaseen Hotelで出会った日本人青年が通りかかる。彼も昼食はまだだったらしく、一緒に食べる。青年は長期旅行の途中で、アスワンでスーダンのビザをとり、アフリカ大陸を南下するらしい。アスワンでは簡単にスーダン・ビザを取得できるとのことだった。私がスーダンを訪れたのは2012年だが、日本でビザを取得するのは面倒だった。英文日程表、勤務先からの英文推薦状、保証人証明書、現地からの招待状、往復航空券のコピーなどを求められたのだ。しかも郵送は不可だから、私のような地方在住者は代行業者に依頼するしかない。

食堂で私と青年が注文したのはハーフ・チキン。ハーフ・チキンは40ポンド(240円)だが、ウェーターが10ポンドのチップを要求し、50ポンドの支払いとなった。ウェーターの英語がよく理解できず、最初は「本来は50ポンドだが、プレゼントで40ポンドでいい」と言っていると、いいほうに解釈した。だがそうではなく、"present for me"(つまりチップ)として10ポンドの追加を求めていたのだ。チキンはおいしかったが、こうした露骨なpresentの要求は後味が悪かった。

昼食のハーフ・チキン

エジプトではしばしば「バクシーシ」を求められる。バクシーシとはイスラムの喜捨のことで、豊かな者が貧しい者に金や物を与えるのは当然という考えに基づいているらしい。

「イスラムの風習」といっても、私の経験では、公然とそして頻繁にバクシーシを求められるのはエジプトだけだ。トルコ、マレーシア、ヨルダン、シリア、アフガニスタン、バングラデシュ、スーダン、イラン、マリなど、私が訪れたイスラムの国は少なくないが、バクシーシという言葉を聞いたのはエジプトがはじめてだ。

エジプトでは子供たちからもよく「マネー」を求められた。ストリート・チルドレンや物乞いがマネーを求めているくるのはわかる。しかしエジプトでは学校の制服を着た子供やちゃんとした服装の大人までが「マネー」や「バクシーシ」を口にする。それほどしつこいわけではないが、煩わしいだけではく、ちょっと悲しい。長い間観光に大きく依存してきたことの負のレガシーなのかもしれない。

活気のあるスーク(市場)を動画を撮りながら歩く。カイロと同様、いろいろな声がかかる。「ニイハオ」と呼びかけたうえで、「見るだけ、見るだけ」と日本語で呼び込む店もある。中国人でも日本人でも、買ってくれるなら歓迎というわけだ。

アスワンのスーク

スークを歩く

夕食にサンドイッチをテイクアウトし、宿に戻る。明日は早朝にアル・シンベルへ向かう。3時半にモーニング・コールしてくれるということだ。早く寝なければ。

2018年1月16日火曜日

エジプト2017 二日目(カイロ)

12月18日。

昨日9時前に寝入ったこともあり、朝5時には目が覚めた。ベニス細川家の朝食は8時から。8時ちょっと過ぎに朝食を済ませる。パンとオムレツ、オレンジ、コーヒー(または紅茶)。可もなし、不可もなしといったところ。

さて今日一日カイロでどう過ごすか。何はともあれピラミッドを見ておこう。

宿のスタッフに尋ねると、ピラミッドに行くには、地下鉄のアタバ駅からギザ駅に向かい、ギザでマイクロバスに乗ればいいとのこと。宿からアタバ駅までは歩いて15分ほど。10時ごろに宿を出て、まずギザ駅まで行った。ギザ駅で降りて、歩道橋を渡ろうとしていると、若い男が近づいてきて、ピラミッドへ行きたいのかと尋ねたうえ、「こっちの方向のバスはエジプト人向けで動物に乗る場合、あっちの方向のバスは外からピラミッドを見る場合」と説明してくれる。「エジプト人」や「動物」というのがよくわからなかったが、ラクダや馬に乗ってピラミッドを回るつもりもなく、ピラミッドの石に触れたいわけでもないので、「外からピラミッドを見る」だけのマイクロバスに乗った。バスの料金は忘れてしまった。せいぜい10円か20円程度だっただろう。

20分ほどバスに乗り、遠くにピラミッドが見える場所で降りた。徒歩でピラミッドに向かうが入口らしきものがない。付近には馬車がたむろしており、しきりに誘ってくるが、今日はピラミッドを遠くから眺めるだけにしおこう。帰国前にカイロに2、3泊する予定だから、あわてることはない。

ピラミッドが見える場所で下車

ピラミッドよりも興味深かったのが、ピラミッドのふもとの下町の様子だ。昨晩歩いた商店街とは異なり、あまり華やかではなく、豊かでもない素朴なエジプトの風景。細い路地、崩れかかった壁、窓いっぱいの洗濯物。古代の王の巨大な建造物よりこうした細々とした今現在のなりわいのほうがおもしろい。動画を撮りながら歩くと、いろいろな言葉がかかる。「コンニチハ」、「ウェルカム」、「ハロー」、「ニイハオ」、そしてなぜか「ヤマモトヤマ」。

ギザの裏通り

路地

子供たち

外国のはじめての地でバスに乗るのは難しい。地下鉄のギザ駅に戻るつもりで乗ったバスだが、降りたところに駅は見あたらず、結局ギザ駅から2駅離れたカイロ大学駅にたどり着いた。1時間近く歩いただろう。

歩き疲れた体で宿に戻り、長い休息をとる。遅めの昼食は宿のビルの並びにあるピザ屋でテイクアウトした。4ポンド(24円ほど)だったように思う。

4時ごろに再び宿を出て、タフリール広場に向かった。アラブの春で群衆が集まり、しばしばニュースにも登場したあの広場だ。宿のスタッフは「今はもう何もないよ」と言っていたが、その何もないことを自分の目で確かめておきたかった。

宿からタフリール広場までは歩いて20分ほど。ぶらぶら歩いていると、若い男が近づいてくる。ツアーの誘いだ。10分ぐらいついてきたが、それほどひつこいわけでもない。気持ちよく別れた。

宿のスタッフが言ったとおり、タフリール広場には何もなかった。ただの円形の空間で、中央にエジプト国旗を掲げたポールが1本立っている。まわりには散策する人がちらほら。

タフリール広場

陽も暮れてきたところで宿へ引きあげる。夕食もテイクアウト。エジプトの伝統的な食べ物ということだったが、名前は忘れた。黒色のお好み焼き(あるいはパンケーキ)の中に肉を挟んだ一品。10ポンドとう安さだが、味はまずまずだった。

昨日同様、この日も部屋の灯りをつけたまま9時ごろには寝入ってしまった。明日は12時40分発のエジプト航空機でアスワンに向かう。

2018年1月13日土曜日

エジプト2017 一日目(カイロ到着)

12月16、17日。

エジプトに行きたいという強い思いがあったわけではない。エジプトは辺境でもなく、少数民族の宝庫でもない。エジプトの古代史に興味があれば話は別だが、残念ながらそっちの方面の知識は皆無で、興味も薄い。

にもかからず年末の旅行先としてエジプトを選んだのは、当初考えていたソマリア行きがテロの発生によって頓挫し、代案として浮上したニジェールもコストの関連で躊躇したからだ。いわば消去法による選択だ。

なにはともあれはじめて足を踏み入れるエジプト。旅のねらいを2つに絞った。ひとつはアスワン近郊のヌビアの村を訪れること。もうひとつはアラブの春の挫折が生み出したシシ大統領の強権政治のもとでのエジプトを垣間見ること。

かくして12月16日、23時35分関空発のエミレーツ機に搭乗した。ドバイで2時間ほど待ってからカイロ行きの便に乗り継いだ、だが搭乗が完了しても離陸する気配がない。結局1時間以上遅れてカイロに向かって飛び立った。この遅延はちょっと困る。というのも予約してあるホテルに出迎えのサービスを依頼してあったからだ。遅延を宿まで知らせたいが、もう搭乗している。

ところがどっこい、エミレーツでは飛行中でもWifiを利用できるのだ。エミレーツの会員番号とパスワードを入力すれば2時間、データ通信量20MBを上限としてネットに接続できる(2時間以上あるいは20MB超の通信は有料)。急遽、機内でネットに接続し、Skpeを使って宿に電話して、到着の遅延を知らせた。空港で無事出迎えと合流し、宿に着いたのは午後2時ごろだった。

予約していた宿はダウンタウンにある「ベニス細川家」。ホテル名から明らかなように、もっぱら日本人旅行者をターゲットとした、いわゆる「日本人宿」だ。トイレ・シャワー、朝食付きの個室で1泊13ドル。ここに2泊する。

ベニス細川家が入っているビルの入口

ホテルの前の通り

目的としているヌビアの村を訪れるにはまずアスワンまで行く必要がある。往復ともに列車ないしバスにすれば安上がりだが、カイロからアスワンまでは10数時間かかる。短期旅行者にとって長い移動時間はできれば避けたい。長時間の移動は体力的にもきつい。夜行の寝台車という選択肢もある。夜の移動だから観光時間のロスにはならず、宿代も浮く。しかしカイロからアスワンまでの寝台車は飛行機並みに高くつく。結局、コストと時間ははかりにかけ、行きは飛行機、帰りはルクソール経由で列車ということにし、翌々日のアスワン行きの航空券の手配を宿に依頼した。

航空券の手配も済んだところで、街に出る。街に出たのはいいが、ストリート名の表示がほとんどないこともあり、ガイドブックの地図を見ても今の自分の現在地がさっぱりつかめない。工事のために狭くなっている道を通ってなんとか地下鉄のナセル駅までたどり着き、ナセル駅をランドマークとしてようやくおおよその方向をつかむことができた。

おおぜいの客で賑わっている安そうな食堂で遅めの昼食をとる。エジプトの安食堂で注文するのはそう容易ではない。まずレジで支払いを済ませ、渡された紙片をもって調理カウンターへ行き、料理が出てくるのを待つ。メニューは壁などに貼ってあるが(ときには写真付きで)、すべてアラビア語なので、まったく読めず、見当が付かない。

しかしたじろぐことはない。迷っていれば誰かが助けてくれる(場合が多い)。このときも付近の男が英語でメニューを詳しく説明してくれた。こうしてエジプトではじめて口にしたのが羊肉を挟んだサンドイッチ(トーストではなくコッペパンに挟んだサンド)だった。ミネラルウォーターと併せて確か13ポンド(約80円)だったように思う。

宿に戻って一休みしてから、日の暮れかかった街に再び出て、宿の近くの賑やかな大通りを歩く。あとで調べると、これは26th of July Steetと呼ばれる通りらしい。明るく装飾された大きな店が軒を連ねている。衣料や靴を売る店が多い。ショーウィンドウの一番上までこれでもかこれでもかというくらいに子供服、婦人服、紳士服が積み重ねて展示されている。人通りも多い。これほどの活気、これほどの消費力は予想していなかった。アラブの春とそれに続くモスレム政権、さらには軍事政権の中で、挫折感と失望がvisibleではないかと思っていたのだ。最近盛り返しているとはいっても、メインの産業の一つである観光業も10年前、20年前とは比べるべくもない。消費社会とは無縁な貧しい現実が目に入るのではないかとも予想していた。こうした思い込みは外れた。やはり実際に現地に行ってみないとわからない。

26th of July Steet

夕食はエジプトの国民食と呼ばれているコシャリをテイクアウトした。コシャリとはパスタとライスを混ぜ合わせ、トマトソース、チリ、酢をかけるシンプルな料理だ。サイズに応じて8~15ポンドと安い。店内の誰かに助けてもらい、10ポンド(約60円)のおそらくは中サイズのコシャリを注文した。

宿に戻って食べたコシャリは、特別おいしくはいが、まずくもなかった。急いでいるとき、他に何を注文していいかわからないときには便利な食べ物のようだ。

テイクアウトしたコシャリ


日本からの長いフライトで疲れているせいもあり、この日は部屋の灯りもも消さずに9時前に寝入ってしまった。