12月21日。
9時過ぎに宿を出て、歩いて10分ほどのフェリー乗り場に向かう。ヌビアの村を訪れるためだ。
ヌビアへの興味は7、8年前にさかのぼる。きっかけは音楽。まずフランスのLes Nubiansという女性デュオを知った。彼女たちはヌビア人だが、その音楽はR&Bないしジャズ調のもので、ヌビアの伝統楽器を使っているわけではなく、ヌビアの旋律を取り入れているわけでもない。Les Nubiansから知ったのは古代からアフリカに住むヌビア人という存在だった。ヌビア人は独自の国を持っているわけではないが、今もスーダン北部からエジプト南部にかけて存続しており、その言語や文化はアラブとは異なる。
やがてYoutubeなどを通じてヌビアの伝統的な歌と踊りを知るにつれ、一度は行ってみたいと思うようになった。今から6年前の2012年にスーダンを訪れた理由のひとつだ。エジプトの観光化されているヌビア村とは異なり、スーダンでは本来のヌビアにふれることができると思った。
しかしこのスーダン旅行でヌビアに会うことはできなかった。ヌビアの町といわれる北部のドンゴラまで足を運んだが、事前の予習不足もあり、ヌビアを垣間見ることさえかなわなかった。当然だろう。アラブ人とヌビア人を服装で見分けることはできない。言語や顔つきには相違があるのだろうが、極東の国からポツンとやって来た旅行者に見極めがつくものではない。首都のハルツームでヌビア人のカップルに偶然遭遇したのが関の山だった。
そして今回のエジプト旅行。観光化されていようといまいと、今度こそヌビアを見てみたい。
ヌビアの村に行くにはナイル川を渡る必要がある。フェリーが出る場所は昨日確かめておいた。料金は外国人が5ポンド(30円)、アラブ人が3ポンド、ヌビア人が1ポンドとのことだったが、私以外の地元の人たちは誰も料金を支払っているようには見えなかった。そもそもアラブ人とエジプト人を簡単に区別できるものなのか。
フェリーは常時出ている。20人余りを乗せたフェリーは7、8分でナイル側の向こう岸(西岸)に着いた。着いた先には乗り合いのトラックが数台待機している。ヌビアの村に向かうトラックだ。トラックに乗ってもどこで降りたらいいかわからないこともあり、誘いに乗って1台のトラックを貸し切ることにした。2時間で100ポンドというのを80ポンドまで負けさせて(これでも高すぎるが)、さあ出発。時刻は午前10時近くになっていた。
トラックは20分ほどかけてヌビアの村の端まで行く。村の端にある建物は病院だという。その前には4人の中年の女性がたむろしている。運転手によれば病院の職員とのこと。写真撮影のOKを得たうえでシャッターを切ったが、カメラから顔をそむける女性もいた。
いくつかの集落に立ち寄り、散策のための時間をとりながら、元来た道を戻っていく。どこを歩いても戸数はかなりあるのだが、人の気配があまりでず、ひっそりとしている。この時間帯はみんなアスワンに働きに出かけていて、村にはあまり人が残っていないとは運転手の説明。
運転手にエジプトの現状につい質問を向けてみる。「今の状況はひどい。エジプト人はみんなシシ大統領を嫌っている」との大胆な答え。これまでにも何度か同様の質問を現地の人たちに試みたが、いつも奥歯に物の挟まったようなあいまいな回答しか得られていなかったので、ちょっとびっくり。これが単に運転手個人の見解なのか、それともヌビア人だから特に反感が強いのかは確かでない。
出発してから1時間半ほどでフェリー乗り場に戻ってきた。運転手と別れてから、フェリー乗り場近くの集落を散策する。ここらあたりはそれほどひっそりとしておらず、下校途中の子供の姿も見られた。
5、6人の女性たちの前を通ると、そのうちの1人がすっと立ち上がり、自分の家の中を見ていけと言う。家の中に入ると、写真を撮るように促し、さらに茶を勧めてくる。あまりにも手際よく慣れた様子なので、これはあとでお金を請求されるなとは思ったが、まあ毒を食らわば皿まで。
案の定、お金を要求された。5ポンド渡すと、「もっと」と不満そう。さらに5ポンド追加した。ここらへんが「エジプトのヌビア村は観光化」されていると言われる所以だろうか。
大人だけでなく、子供たちも同様だった。外国人と見ると、条件反射的に「マネー」という言葉が飛び出してくる。もっともこれはいわば挨拶のようなもので、簡単にかわすことができる。
結果論だが、トラックをチャーターしたのは失敗だった。費用もさることながら、ヌビアの集落は一本道に沿って並んでおり、ひとりでも迷うことなく探索できる。時間はたっぷりあったから、ところどころ立ち寄りながら徒歩で村の端まで行き、乗り合いトラックで帰ってくるほうがベストだっただろう。
さて本来なら今回の旅のハイライトともなるべきヌビア村訪問だったが、残念ながらヌビアの文化や風習、歴史に触れたという気はまったくしない。スーダンに次いで、エジプトでもヌビアの探索は空振りに終わったわけだ。もっともこうした結果は当初から予想していた。ヌビアを少しでも知ろうとすれば、せめて1週間くらいじっくりと腰を据えて探る必要があるだろう。予習なしで数時間歩いたところでどうなるものでもない。
昼過ぎにアスワンに戻り、鉄道駅に立ち寄って、明日のルクソール行きの列車の切符を購入する。朝7時30発の1等席。料金は51ポンド(300円ほど)だった。
昼食はテイクアウトのコシャリで済ませ、宿で休んでから、スークを突き抜けた先にある、うらびれた貧しそうなエリアを歩く。「貧しそうな」といっても、これがアスワンの、そしてエジプトの平均的なところかもしれない。遺跡も悪くないし、スークも興味深いが、私にはこうした貧しい(あるいは普通の)人々の生活が感じられる一角のほうがおもしろい。
夕食はちょっと張り込んで、エジプトの伝統料理であるコフタ(挽肉を棒状にしたもの)をテイクアウトした。値段は忘れてしまったが、「張り込んだ」というほど高くはなかった。予期した通りおいしかった。、
9時過ぎに宿を出て、歩いて10分ほどのフェリー乗り場に向かう。ヌビアの村を訪れるためだ。
ヌビアへの興味は7、8年前にさかのぼる。きっかけは音楽。まずフランスのLes Nubiansという女性デュオを知った。彼女たちはヌビア人だが、その音楽はR&Bないしジャズ調のもので、ヌビアの伝統楽器を使っているわけではなく、ヌビアの旋律を取り入れているわけでもない。Les Nubiansから知ったのは古代からアフリカに住むヌビア人という存在だった。ヌビア人は独自の国を持っているわけではないが、今もスーダン北部からエジプト南部にかけて存続しており、その言語や文化はアラブとは異なる。
やがてYoutubeなどを通じてヌビアの伝統的な歌と踊りを知るにつれ、一度は行ってみたいと思うようになった。今から6年前の2012年にスーダンを訪れた理由のひとつだ。エジプトの観光化されているヌビア村とは異なり、スーダンでは本来のヌビアにふれることができると思った。
しかしこのスーダン旅行でヌビアに会うことはできなかった。ヌビアの町といわれる北部のドンゴラまで足を運んだが、事前の予習不足もあり、ヌビアを垣間見ることさえかなわなかった。当然だろう。アラブ人とヌビア人を服装で見分けることはできない。言語や顔つきには相違があるのだろうが、極東の国からポツンとやって来た旅行者に見極めがつくものではない。首都のハルツームでヌビア人のカップルに偶然遭遇したのが関の山だった。
そして今回のエジプト旅行。観光化されていようといまいと、今度こそヌビアを見てみたい。
ヌビアの村に行くにはナイル川を渡る必要がある。フェリーが出る場所は昨日確かめておいた。料金は外国人が5ポンド(30円)、アラブ人が3ポンド、ヌビア人が1ポンドとのことだったが、私以外の地元の人たちは誰も料金を支払っているようには見えなかった。そもそもアラブ人とエジプト人を簡単に区別できるものなのか。
フェリーに乗って
フェリーは常時出ている。20人余りを乗せたフェリーは7、8分でナイル側の向こう岸(西岸)に着いた。着いた先には乗り合いのトラックが数台待機している。ヌビアの村に向かうトラックだ。トラックに乗ってもどこで降りたらいいかわからないこともあり、誘いに乗って1台のトラックを貸し切ることにした。2時間で100ポンドというのを80ポンドまで負けさせて(これでも高すぎるが)、さあ出発。時刻は午前10時近くになっていた。
トラックは20分ほどかけてヌビアの村の端まで行く。村の端にある建物は病院だという。その前には4人の中年の女性がたむろしている。運転手によれば病院の職員とのこと。写真撮影のOKを得たうえでシャッターを切ったが、カメラから顔をそむける女性もいた。
ヌビアの女性たち
いくつかの集落に立ち寄り、散策のための時間をとりながら、元来た道を戻っていく。どこを歩いても戸数はかなりあるのだが、人の気配があまりでず、ひっそりとしている。この時間帯はみんなアスワンに働きに出かけていて、村にはあまり人が残っていないとは運転手の説明。
運転手にエジプトの現状につい質問を向けてみる。「今の状況はひどい。エジプト人はみんなシシ大統領を嫌っている」との大胆な答え。これまでにも何度か同様の質問を現地の人たちに試みたが、いつも奥歯に物の挟まったようなあいまいな回答しか得られていなかったので、ちょっとびっくり。これが単に運転手個人の見解なのか、それともヌビア人だから特に反感が強いのかは確かでない。
ヌビアの音楽を聞きながらヌビアの村をドライブ
出発してから1時間半ほどでフェリー乗り場に戻ってきた。運転手と別れてから、フェリー乗り場近くの集落を散策する。ここらあたりはそれほどひっそりとしておらず、下校途中の子供の姿も見られた。
ヌビアの子供
5、6人の女性たちの前を通ると、そのうちの1人がすっと立ち上がり、自分の家の中を見ていけと言う。家の中に入ると、写真を撮るように促し、さらに茶を勧めてくる。あまりにも手際よく慣れた様子なので、これはあとでお金を請求されるなとは思ったが、まあ毒を食らわば皿まで。
案の定、お金を要求された。5ポンド渡すと、「もっと」と不満そう。さらに5ポンド追加した。ここらへんが「エジプトのヌビア村は観光化」されていると言われる所以だろうか。
ヌビアの家の中
大人だけでなく、子供たちも同様だった。外国人と見ると、条件反射的に「マネー」という言葉が飛び出してくる。もっともこれはいわば挨拶のようなもので、簡単にかわすことができる。
結果論だが、トラックをチャーターしたのは失敗だった。費用もさることながら、ヌビアの集落は一本道に沿って並んでおり、ひとりでも迷うことなく探索できる。時間はたっぷりあったから、ところどころ立ち寄りながら徒歩で村の端まで行き、乗り合いトラックで帰ってくるほうがベストだっただろう。
さて本来なら今回の旅のハイライトともなるべきヌビア村訪問だったが、残念ながらヌビアの文化や風習、歴史に触れたという気はまったくしない。スーダンに次いで、エジプトでもヌビアの探索は空振りに終わったわけだ。もっともこうした結果は当初から予想していた。ヌビアを少しでも知ろうとすれば、せめて1週間くらいじっくりと腰を据えて探る必要があるだろう。予習なしで数時間歩いたところでどうなるものでもない。
昼過ぎにアスワンに戻り、鉄道駅に立ち寄って、明日のルクソール行きの列車の切符を購入する。朝7時30発の1等席。料金は51ポンド(300円ほど)だった。
昼食はテイクアウトのコシャリで済ませ、宿で休んでから、スークを突き抜けた先にある、うらびれた貧しそうなエリアを歩く。「貧しそうな」といっても、これがアスワンの、そしてエジプトの平均的なところかもしれない。遺跡も悪くないし、スークも興味深いが、私にはこうした貧しい(あるいは普通の)人々の生活が感じられる一角のほうがおもしろい。
アスワンの裏通り
夕食はちょっと張り込んで、エジプトの伝統料理であるコフタ(挽肉を棒状にしたもの)をテイクアウトした。値段は忘れてしまったが、「張り込んだ」というほど高くはなかった。予期した通りおいしかった。、
コフタ(パン、サラダ付き)をテイクアウト
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