2月12日。
夜も明けきらない6時にチェックアウトする。昨夜タクシーを6時にと頼んでおいたが、チェックアウトと同時に電話しているようだった。心配することはない。ホテルから空港までは20分たらず。ヤンゴンと違って渋滞はありえない。しかも国内便だからフライトの1時間前に到着しても間に合うはずだ。
やって来たのはバイクタクシーだった。その分値段も安く2000チャット(160円ほど)。
案の定、私が出発ロビーに入ったときには他の搭乗者はまだ誰もいなかった。ミャンマーエアー便は予定より少し遅れて飛び立った。ホッとした。一番恐れていたのはこの日の便がキャンセルになることだった。ミャンマーの国内便があてにならないことは3年前に経験している。しかも明日は帰国日だ。
ヤンゴンには10時ごろに着いた。今日の宿はBeauty Land 2を予約していた。ヤンゴンの中心部にあるホテルで、3年前にも宿泊した。1泊20ドル。
空港からホテルまではタクシーで10000チャット(800円ほど)。途中、初老の運転手が私に小冊子を渡す。軍人の古い写真が表紙になっている小冊子だ。アウンサン将軍かと尋ねると、その通りとの返事。今日はUnion Day(連邦記念日)で明日はアウンサン将軍の誕生日だ。将軍の人気は今でもかなり高いようだ。
Beauty Land 2ホテルには11時ごろに着いたが、チェックインは2時からとのこと。今日はヤンゴン川の向こうにあるダラ地区に行くことにしていたので、バックパックを預けて外へ出た。
今日は朝から機内食の菓子パンしか食べていない。ちょっと早いが、ダラ地区に行くに先立って、ホテルの近くで昼食をとることにした。名前と値段は忘れたが、焼きうどんのような感じの麺を注文した。おいしかったが、量は少なかった。
ダラ地区に行くにはフェリーでヤンゴン川を渡る。フェリーが出ているパンソンダン埠頭までは歩いて行った。
フェリーは日本の援助によって就航しているもので、日本のパスポートを見せれば無料で乗船できる(日本人以外の外国人は片道2000チャット)。待合室に入ると、フェリーの関係者らしき男が「日本人はガイドが必要だ」と言い、「ガイド」と称する男を紹介してきたが、無視した。この手のトラブルについてはネットで情報を得ていたからだ。男もしつこくは追ってこなかった。
フェリーは10分ほどで対岸のダラ地区に着いた。フェリーの乗客はほとんどがミャンマー人だが、私のような外国人観光客もちらほらいるようだ。40代とおぼしき東洋人の女性と目が合ったので、英語で「日本人か」と尋ねたところ、中国人との返事。彼女の誘いに乗って一緒にダラを探索することにした。
ダラはスマトラ島沖地震による津波の被災者が住み着いた地区で、「スラム」と呼ばれることもあるが、ちょっと当たっていないように思う。貧しいことは確かだが、スラムという言葉から連想する混沌はない。ちゃんと働いている人が多い。アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(National League for Democracy)の看板も見られる。
サイカー(横に座席を付けた自転車)の誘いを断りながら、中国人女性と2人で歩いて行く。中国人女性がiphoneのマップを見ながら道案内役になってくれる。
ダラを歩いていてひときわ印象に残ったのは住民の人のよさだ。底抜けの人のよさと言ってもいい。カメラを構えた異邦人の2人を笑顔で迎えてくれる。にわか作りの質素な家が多いから、外からでも家の中が丸見えだ。そんなところを赤の他人がずかずかと通り抜け、写真や動画を遠慮なく撮る。我ながら失礼きわまりない。それでも住民は怒らない。怒らないどころか、笑顔や挨拶で迎えてくれる。
僧院があったので入ってみる。青年(僧の服装ではなかった)が英語で中を案内してくれる。ここではタウンジーから来た子供たちが仏教の勉強をしているとのことだった。タウンジーといえば、私が訪れたばかりのシャン州の州都だ。がらんとした本堂で寝転んで勉強している子供いれば、テレビで中国ドラマを見ている子供たちもいる。
汗が出るほどではないが、日中だからそれなりに暑い。食堂に入り、お茶を飲むことにした。2人とも紅茶を注文したが、予想どおり甘かった。練乳が入っているのだ。普段紅茶には砂糖を入れない私だが、たまにはこうした甘い紅茶も悪くない。
中国人女性(名前すら聞いていない)は現在は上海に住んでいるが、遼寧省の鞍山など中国のいろいろなところで働いたことがあるらしい。日本語ができる娘さんと一緒に日本を旅行したこともあるとか。娘さんはアニメや漫画を通じて日本語を覚えたという。
私がこれまで接した中国人の多くと同様、彼女も中国共産党と中国政府に対してきわめて批判的だった。中国ではFacebookやTwitter、Youtubeなどへのアクセスがブロックされていることを指摘すると、「党や政府の幹部は自分たちの子供を米国や欧州に留学させている。これらの子供たちはネットの情報に自由にアクセスできる。なのに、国内の若者にはその自由を許さない」と言う。まことにそのとおりだ。「今の中国の若者は政府や党の言うこと、あるいは自分たちが受けてきた教育をそのまま信じている」とこぼす。私がこれまでの旅で出会った中国人の多くは「政府や党の言うことをそのまま信じている」ようには見えなかったが、これは英語をしゃべる中国人とのみ話をしているからなのかもしれない。
彼女の今回の旅はタイから始まり、ミャンマーを経てタイへ戻り、タイからラオスへ脱けて中国雲南省の昆明に向かう長丁場だ。昆明まではすべて陸路だが、昆明から上海までの最後の行程だけは飛行機を使うとのこと。
ミャンマーではドミトリーに宿泊している。それほど若くもない中国人の女性がひとりでドミトリーを利用しているのはちょっとした驚きだった。そのたたずまいや服装からして、てっきり私よりいいホテルに泊まっているものと思っていた。
7、8年前には中国人旅行者といえばほとんどがグループ旅行で、単独で海外を旅している中国人に出会うのはまれだった。今では中国人の海外旅行も多様化し、欧米型あるいは日本型に近くなっているのかもしれない。もっとも中国人にとって個人旅行はそう簡単ではない。日本人ならミャンマー、タイ、ラオスは航空券さえ入手すればすぐに行ける。中国人の場合、これらすべての国でビザが必要なはずだ。ウルムチのゲストハウスで出会った中国の青年はまだ未使用のパスポートを私に見せ、「uselessだ」と言っていた。パスポートだけではどこへも行けないということなのだろう。カシュガルで知り合った中国人女性は「香港へ行くのでさえ手続きが必要だ」とこぼしていた。
彼女とは帰りのフェリーの中で別れた。3時間あまりダラ地区を一緒に歩いてくれたことに感謝。
パンソンダン埠頭からBeauty Land 2ホテルまで歩いて戻る。途中、Ruby Martに立ち寄って、切り売りの「ういろう」のようなお菓子を2切れ買う。チェックインを済ませたときには5時近くになっていた。現地通貨をたくさん抱えているにもかかわらず米国ドルで宿代(20)ドルを支払ってしまったのは失敗。
部屋で休んでから、夕食のためにホテルを出る。3年前に韓国帰りのミャンマー人と遭遇した小さな食堂に入る。焼きそばと缶のミャンマー・ビールを注文する。3年前に注文したものとまったくと同じだ。3年前にはミャンマー人が代金を支払ってくれたため、いくらだったかわからない。今回は3000チャット(240円ほど)。おそらく3年前と同じ値段だろうが、インフレのおかげで日本円に換算すれば安くなっている。
明日は帰国日だが、フライトは18時55分だから、あわてて早起きする必要はない。
夜も明けきらない6時にチェックアウトする。昨夜タクシーを6時にと頼んでおいたが、チェックアウトと同時に電話しているようだった。心配することはない。ホテルから空港までは20分たらず。ヤンゴンと違って渋滞はありえない。しかも国内便だからフライトの1時間前に到着しても間に合うはずだ。
やって来たのはバイクタクシーだった。その分値段も安く2000チャット(160円ほど)。
案の定、私が出発ロビーに入ったときには他の搭乗者はまだ誰もいなかった。ミャンマーエアー便は予定より少し遅れて飛び立った。ホッとした。一番恐れていたのはこの日の便がキャンセルになることだった。ミャンマーの国内便があてにならないことは3年前に経験している。しかも明日は帰国日だ。
ヤンゴンには10時ごろに着いた。今日の宿はBeauty Land 2を予約していた。ヤンゴンの中心部にあるホテルで、3年前にも宿泊した。1泊20ドル。
空港からホテルまではタクシーで10000チャット(800円ほど)。途中、初老の運転手が私に小冊子を渡す。軍人の古い写真が表紙になっている小冊子だ。アウンサン将軍かと尋ねると、その通りとの返事。今日はUnion Day(連邦記念日)で明日はアウンサン将軍の誕生日だ。将軍の人気は今でもかなり高いようだ。
Beauty Land 2ホテルには11時ごろに着いたが、チェックインは2時からとのこと。今日はヤンゴン川の向こうにあるダラ地区に行くことにしていたので、バックパックを預けて外へ出た。
今日は朝から機内食の菓子パンしか食べていない。ちょっと早いが、ダラ地区に行くに先立って、ホテルの近くで昼食をとることにした。名前と値段は忘れたが、焼きうどんのような感じの麺を注文した。おいしかったが、量は少なかった。
ダラ地区に行くにはフェリーでヤンゴン川を渡る。フェリーが出ているパンソンダン埠頭までは歩いて行った。
フェリーは日本の援助によって就航しているもので、日本のパスポートを見せれば無料で乗船できる(日本人以外の外国人は片道2000チャット)。待合室に入ると、フェリーの関係者らしき男が「日本人はガイドが必要だ」と言い、「ガイド」と称する男を紹介してきたが、無視した。この手のトラブルについてはネットで情報を得ていたからだ。男もしつこくは追ってこなかった。
フェリーは10分ほどで対岸のダラ地区に着いた。フェリーの乗客はほとんどがミャンマー人だが、私のような外国人観光客もちらほらいるようだ。40代とおぼしき東洋人の女性と目が合ったので、英語で「日本人か」と尋ねたところ、中国人との返事。彼女の誘いに乗って一緒にダラを探索することにした。
ダラに到着
ダラはスマトラ島沖地震による津波の被災者が住み着いた地区で、「スラム」と呼ばれることもあるが、ちょっと当たっていないように思う。貧しいことは確かだが、スラムという言葉から連想する混沌はない。ちゃんと働いている人が多い。アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(National League for Democracy)の看板も見られる。
サイカー(横に座席を付けた自転車)の誘いを断りながら、中国人女性と2人で歩いて行く。中国人女性がiphoneのマップを見ながら道案内役になってくれる。
ダラを歩いていてひときわ印象に残ったのは住民の人のよさだ。底抜けの人のよさと言ってもいい。カメラを構えた異邦人の2人を笑顔で迎えてくれる。にわか作りの質素な家が多いから、外からでも家の中が丸見えだ。そんなところを赤の他人がずかずかと通り抜け、写真や動画を遠慮なく撮る。我ながら失礼きわまりない。それでも住民は怒らない。怒らないどころか、笑顔や挨拶で迎えてくれる。
ダラ地区(その1)
ダラ地区(その2)
ダラ地区(その3)
ダラ地区(その4)
ダラ地区を歩く
僧院があったので入ってみる。青年(僧の服装ではなかった)が英語で中を案内してくれる。ここではタウンジーから来た子供たちが仏教の勉強をしているとのことだった。タウンジーといえば、私が訪れたばかりのシャン州の州都だ。がらんとした本堂で寝転んで勉強している子供いれば、テレビで中国ドラマを見ている子供たちもいる。
勉強する少年僧
汗が出るほどではないが、日中だからそれなりに暑い。食堂に入り、お茶を飲むことにした。2人とも紅茶を注文したが、予想どおり甘かった。練乳が入っているのだ。普段紅茶には砂糖を入れない私だが、たまにはこうした甘い紅茶も悪くない。
中国人女性(名前すら聞いていない)は現在は上海に住んでいるが、遼寧省の鞍山など中国のいろいろなところで働いたことがあるらしい。日本語ができる娘さんと一緒に日本を旅行したこともあるとか。娘さんはアニメや漫画を通じて日本語を覚えたという。
ダラを一緒に探索した中国人女性
私がこれまで接した中国人の多くと同様、彼女も中国共産党と中国政府に対してきわめて批判的だった。中国ではFacebookやTwitter、Youtubeなどへのアクセスがブロックされていることを指摘すると、「党や政府の幹部は自分たちの子供を米国や欧州に留学させている。これらの子供たちはネットの情報に自由にアクセスできる。なのに、国内の若者にはその自由を許さない」と言う。まことにそのとおりだ。「今の中国の若者は政府や党の言うこと、あるいは自分たちが受けてきた教育をそのまま信じている」とこぼす。私がこれまでの旅で出会った中国人の多くは「政府や党の言うことをそのまま信じている」ようには見えなかったが、これは英語をしゃべる中国人とのみ話をしているからなのかもしれない。
彼女の今回の旅はタイから始まり、ミャンマーを経てタイへ戻り、タイからラオスへ脱けて中国雲南省の昆明に向かう長丁場だ。昆明まではすべて陸路だが、昆明から上海までの最後の行程だけは飛行機を使うとのこと。
ミャンマーではドミトリーに宿泊している。それほど若くもない中国人の女性がひとりでドミトリーを利用しているのはちょっとした驚きだった。そのたたずまいや服装からして、てっきり私よりいいホテルに泊まっているものと思っていた。
7、8年前には中国人旅行者といえばほとんどがグループ旅行で、単独で海外を旅している中国人に出会うのはまれだった。今では中国人の海外旅行も多様化し、欧米型あるいは日本型に近くなっているのかもしれない。もっとも中国人にとって個人旅行はそう簡単ではない。日本人ならミャンマー、タイ、ラオスは航空券さえ入手すればすぐに行ける。中国人の場合、これらすべての国でビザが必要なはずだ。ウルムチのゲストハウスで出会った中国の青年はまだ未使用のパスポートを私に見せ、「uselessだ」と言っていた。パスポートだけではどこへも行けないということなのだろう。カシュガルで知り合った中国人女性は「香港へ行くのでさえ手続きが必要だ」とこぼしていた。
彼女とは帰りのフェリーの中で別れた。3時間あまりダラ地区を一緒に歩いてくれたことに感謝。
パンソンダン埠頭からBeauty Land 2ホテルまで歩いて戻る。途中、Ruby Martに立ち寄って、切り売りの「ういろう」のようなお菓子を2切れ買う。チェックインを済ませたときには5時近くになっていた。現地通貨をたくさん抱えているにもかかわらず米国ドルで宿代(20)ドルを支払ってしまったのは失敗。
部屋で休んでから、夕食のためにホテルを出る。3年前に韓国帰りのミャンマー人と遭遇した小さな食堂に入る。焼きそばと缶のミャンマー・ビールを注文する。3年前に注文したものとまったくと同じだ。3年前にはミャンマー人が代金を支払ってくれたため、いくらだったかわからない。今回は3000チャット(240円ほど)。おそらく3年前と同じ値段だろうが、インフレのおかげで日本円に換算すれば安くなっている。
焼きそばと缶ビールで夕食
明日は帰国日だが、フライトは18時55分だから、あわてて早起きする必要はない。
ミャンマ-に5年前から三度ほど渡航しました。そもそもは、遺跡巡りで家内が中国に帰省する際に家族を置いて昆明経由でヤンゴンに入っていました。中国人の政治感が書かれていましたが、家内が中国人であるので市井の中国人の政治感は少なからず知る身です。多くの場合、中国人は政府を快く思ってははいません。例えば国内での官製報道は常に疑ってかかっています。但し、昨今は政府非難は危険度が加速度的に増しているせいか家族間でも政府の話はご法度です。一時は鳴りを潜めた密告社会が復活しつつあります。そのせいか日本人は、中国の危険度を軽視して旅行をしている人が多く見受けられます。ツア-や有名な観光地を除くと危険なところが沢山あります。特に厄介なのが外国人入境規制区域です。地図にもなく公表もされていないので、たまたまバスで下りたところがその場所で、そのまま拘束される事案があります。少し前までは、事情を説明すると直ちに退去することを条件に放免されることもありましたが、今は拘束されます。そんなところを見ても中国はおかしな方向に向かっています。蛇足なのですが新疆、青海、西蔵、四川、甘粛、寧夏、内蒙古は、その様な場所が点在しています。また、陸路で国境を渡る場合、雲南国境付近は、一時より武警による検問が厳しくなっています。中国人の単独旅行は、珍しくなくなりつつあります。私は余り声を掛けることはないのですが、時折見かけます。
返信削除私は、ミャンマ-北部に興味があってマンダレ-北部への入境を計画しています。北部は外国人の入境規制があるのとゲリラがいるので危険なのですが、身内(中国人)にミャンマ-でビジネスをしていて中国と貿易をしているものがおり、一緒なら大丈夫だとはなしていたので来年位に行きたいと思っています。ミャンマ-北部ゲリラは、中華系でおおびらになってはいませんが、中国から入植者が非常に多い地帯でもあります。
ミャンマ-を初めて訪れた時は、ある程度の辺境を期待して行くも無電化地帯はあるものの随分と開けており、時期遅しの感がありました。中国は雲南や貴州の一部を除くと同様で東南アシアで辺境を目指すならボルネオ島くらいしか残っていない気がします。来年はウラジオからモスクワまで鉄道縦断か中央アジアかと地図とにらめっこしています。
コメントありがとうございます。中国の辺境に惹かれている私にはおおいに参考になります。
削除ミャンマーについては、いつになるかはわかりませんが、チン州からインドのインパールに抜ける旅を考えています。