海外には頻繁に出かけているが、国内はあまり旅行していない。47都道府県中足を踏み入れたのは半数に満たない。
国内を、それもできれば「辺境」をもっと探りたいとう思いから、手始めに沖縄を選んだ。ただ漫然と観光するのではなく、テーマを絞りたい。沖縄の離島を巡る旅こそ「辺境へ」にふさわしいが、はじめての沖縄にしてはちょっと敷居が高い。
今回の旅を「沖縄戦跡巡り」にしたのはこうした事情からだ。沖縄が戦場になったことは知っている。日本軍にとっても、沖縄の住民にとっても、そして米軍にとっても過酷で悲惨な戦いであったことについても活字や映像を通じていくばくかの知識はある。しかし、沖縄戦の背景と経過、実態についてはほとんど知らない。
もとより数日の旅行で沖縄戦の実態がわかるとは思っていない。しかし、昨年のイスラエル旅行がイスラエル・パレスチナ紛争を理解する出発点となったように、沖縄への旅が沖縄戦を知るきっかけとなればと思った。
旅行に先立って下記の書籍に目を通した。
沖縄戦全記録 NHKスペシャル取材班 新日本出版社
定本沖縄戦(地上戦の実相) 柏木俊道 彩流社
沖縄戦546日を歩く カベルナリア吉田 彩流社
沖縄の戦争遺跡 吉浜忍 吉川弘文館
僕の島は戦場だった(封印された沖縄戦の記憶) 佐野眞一 集英社インターナショナル
付け焼き刃ではあるが、これらの本を読むことで沖縄戦の一応の流れが頭に入った。Wikipediaの「沖縄戦」の項目も予想外に詳しく、役に立った。ただ、沖縄の地理を知らず、軍事知識も皆無であることから、地名や軍の構成については混乱したままだった。もうひとつ、これらはすべて日本人による日本語の資料で、米国や米軍の視点からの沖縄戦の記録に目を通さなかったこともくやまれる。
ともあれ7月16日午後12時15分発のJetstar便で関空を飛び立ち、2時半ごろに那覇空港に降り立った。帰りは22日の予定だ。天気予報によれば16日と17日の両日は晴れだが、その後数日は大雨が続く。航空券を購入した時点では予測できなかったことなので仕方がない。
7月16日。
空港のインフォメーションで地図などを入手したあと、那覇空港駅でゆいレールに乗車したのは3時ごろ。日が暮れるまでにはまだたっぷり時間がある。ホテルにチェックインする前に、首里城まで行き、第32軍司令部の壕を訪れることにした。ゆいレールの首里駅から首里城までは歩いておよそ10分。守礼門をくぐって左脇の石段を下ると左手に石板があり、司令部壕を日本語と英語で説明している。その横には第32軍と行動を共にした沖縄師範学校男子部の師範鉄血勤皇隊の碑もある。
師範鉄血勤皇隊の碑
石板を少しはいったところに鉄柵でふさがれた壕の入口がある。牛島満軍司令官や長勇参謀長は1945年5月27日にこの壕を去り、摩文仁に移動する。壕の内部はまったく窺い知れない。
道を隔てた反対側には第32軍無線通信所の跡がある。こちらも内部を見ることはできない。
首里城を訪れる観光客は多いが、この石段を降りてくる人はほとんどいない。1人、2人と降りてくる人を見かけ、「おっ、同好の士か」と思ったが、壕の説明板や跡には目もくれず、そのまま先へ進んでいく。
首里城の内部に入るには820円の入場料が必要だ。内部の見学はまたの機会にし、予約してあるホテルに向かう。
予約していたのはホテルランタナ那覇。ゆいレールを美栄橋駅で降り、徒歩で約10分。那覇のメインストリートである国際通りに面した新しいホテルだ。1泊6000円。
6時ごろにチェックインし、国際通りをぶらぶらする。通りのほぼ中央、一番目立つ場所にはディスカウントストアのドンキホーテがどっかりと店を構えている。
国際通りから第一市場に入り、その奥にある魚屋と兼業の飲み屋で沖縄ではじめての夕食をとった。注文したのは2000円のセットで、海ぶどう、もずく、刺身と飲み物2杯からなる。飲み物は生ビールの中と泡盛の水割りにした。海ぶどう(海藻の一種)を口にするのははじめて。おいしかった。かなり高価な食べ物らしく、量は少ない。店の女店員はどうも中国人らしい。客にも中国人の家族連れがいる。
たった2杯のアルコールでいい気分になり、国際通りをさらに散策しながら、ホテルに戻る。明日はバスで読谷村に向かう。那覇から1時間くらいかかるようだ。
国内を、それもできれば「辺境」をもっと探りたいとう思いから、手始めに沖縄を選んだ。ただ漫然と観光するのではなく、テーマを絞りたい。沖縄の離島を巡る旅こそ「辺境へ」にふさわしいが、はじめての沖縄にしてはちょっと敷居が高い。
今回の旅を「沖縄戦跡巡り」にしたのはこうした事情からだ。沖縄が戦場になったことは知っている。日本軍にとっても、沖縄の住民にとっても、そして米軍にとっても過酷で悲惨な戦いであったことについても活字や映像を通じていくばくかの知識はある。しかし、沖縄戦の背景と経過、実態についてはほとんど知らない。
もとより数日の旅行で沖縄戦の実態がわかるとは思っていない。しかし、昨年のイスラエル旅行がイスラエル・パレスチナ紛争を理解する出発点となったように、沖縄への旅が沖縄戦を知るきっかけとなればと思った。
旅行に先立って下記の書籍に目を通した。
沖縄戦全記録 NHKスペシャル取材班 新日本出版社
定本沖縄戦(地上戦の実相) 柏木俊道 彩流社
沖縄戦546日を歩く カベルナリア吉田 彩流社
沖縄の戦争遺跡 吉浜忍 吉川弘文館
僕の島は戦場だった(封印された沖縄戦の記憶) 佐野眞一 集英社インターナショナル
付け焼き刃ではあるが、これらの本を読むことで沖縄戦の一応の流れが頭に入った。Wikipediaの「沖縄戦」の項目も予想外に詳しく、役に立った。ただ、沖縄の地理を知らず、軍事知識も皆無であることから、地名や軍の構成については混乱したままだった。もうひとつ、これらはすべて日本人による日本語の資料で、米国や米軍の視点からの沖縄戦の記録に目を通さなかったこともくやまれる。
ともあれ7月16日午後12時15分発のJetstar便で関空を飛び立ち、2時半ごろに那覇空港に降り立った。帰りは22日の予定だ。天気予報によれば16日と17日の両日は晴れだが、その後数日は大雨が続く。航空券を購入した時点では予測できなかったことなので仕方がない。
7月16日。
空港のインフォメーションで地図などを入手したあと、那覇空港駅でゆいレールに乗車したのは3時ごろ。日が暮れるまでにはまだたっぷり時間がある。ホテルにチェックインする前に、首里城まで行き、第32軍司令部の壕を訪れることにした。ゆいレールの首里駅から首里城までは歩いておよそ10分。守礼門をくぐって左脇の石段を下ると左手に石板があり、司令部壕を日本語と英語で説明している。その横には第32軍と行動を共にした沖縄師範学校男子部の師範鉄血勤皇隊の碑もある。
第32軍の壕を説明する石板
師範鉄血勤皇隊の碑
石板を少しはいったところに鉄柵でふさがれた壕の入口がある。牛島満軍司令官や長勇参謀長は1945年5月27日にこの壕を去り、摩文仁に移動する。壕の内部はまったく窺い知れない。
司令部の壕
道を隔てた反対側には第32軍無線通信所の跡がある。こちらも内部を見ることはできない。
首里城を訪れる観光客は多いが、この石段を降りてくる人はほとんどいない。1人、2人と降りてくる人を見かけ、「おっ、同好の士か」と思ったが、壕の説明板や跡には目もくれず、そのまま先へ進んでいく。
首里城の内部に入るには820円の入場料が必要だ。内部の見学はまたの機会にし、予約してあるホテルに向かう。
予約していたのはホテルランタナ那覇。ゆいレールを美栄橋駅で降り、徒歩で約10分。那覇のメインストリートである国際通りに面した新しいホテルだ。1泊6000円。
ホテルランタナ
6時ごろにチェックインし、国際通りをぶらぶらする。通りのほぼ中央、一番目立つ場所にはディスカウントストアのドンキホーテがどっかりと店を構えている。
国際通りから第一市場に入り、その奥にある魚屋と兼業の飲み屋で沖縄ではじめての夕食をとった。注文したのは2000円のセットで、海ぶどう、もずく、刺身と飲み物2杯からなる。飲み物は生ビールの中と泡盛の水割りにした。海ぶどう(海藻の一種)を口にするのははじめて。おいしかった。かなり高価な食べ物らしく、量は少ない。店の女店員はどうも中国人らしい。客にも中国人の家族連れがいる。
2000円のセット
たった2杯のアルコールでいい気分になり、国際通りをさらに散策しながら、ホテルに戻る。明日はバスで読谷村に向かう。那覇から1時間くらいかかるようだ。
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