7月17日。
今日は読谷村(よみたんそん)に行く。読谷村には米軍の沖縄本島上陸地点となった渡具知(とぐち)海岸がある。1945年4月1日のことだ。この村にある2つのガマ(自然洞窟)も沖縄戦を語るうえ欠かせない。1つのガマは集団自決の場となり、もう1つのガマでは全員が生き延びることができた。
このほか飛行場の跡などもあるが、まっさきに行きたかったのは集団自決の場となったチビチリガマだ。
宿は読谷村の座喜味(ざきみ)に予約した。これは事前調査をちゃんとしていなかったことからする失敗。というのもチビチリガマがある波平(なみひら)集落は座喜味から遠く離れているからだ。しかも那覇から座喜味へ行くバスは本数が少なく、朝7時半のバスを逃せば午後の便しかない。
読谷村(座喜味)行きのバスは旭橋にある那覇バスターミナルから出る。旭橋はゆいレールの美栄橋駅から2駅離れている。7時半のバスでは早すぎる。12時過ぎのバスで行くことにした。
朝食をマクドナルドで済ませ、チェックアウトタイムの10時ちょっと前にホテルを出る。旭橋に着き、バスターミナルの近くの食堂で早めの昼食をとる。沖縄そばで650円。麺は固めで好みではなかったが、2枚のっていた豚の角煮(チャーシュー?)が舌の上でとろけるおいしさだった。
定刻どおりに那覇バスターミナルを出たバスは1時過ぎに座喜味に着いた。予約してあるホテル(ゲストハウス~時~)はバスの停留所から歩いて2、3分のところにあった。ホテルというより普通の民家で、2階がゲストハウスとなっている。ドアを開けると台所の流しが見える。受付らしきものはない。「ごめんください」と声をかけるが、誰も出てこない。呼びかけを繰り返す。すると障子の部屋から若い黒人が出てきた。
ほっそりした繊細な感じのこの青年、ゲストハウスのスタッフではなく、宿泊客だとのこと。ナイジェリア人で、jobのために今年の6月に沖縄に来たらしい。米軍で働いているわけでもないし、一体どんな仕事だろうか。聞きそびれた。宿のオーナーは不在らしい。
Booking.comの予約確認書に記載してあった連絡先を見て電話する。女性の声で応答があり、「ドアに鍵がぶら下がっているのが空き部屋だから、どれでも選んでくれ。夕方にそちらに行く」とのこと。おそらく到着時刻をあらかじめ宿に知らせておくシステムになっていたのだろうが、私がBooking.comからのそのメッセージを見落としていた可能性が高い。
ともあれドアに鍵がぶら下がっている2つの部屋のうちの1つを選び、荷物を置いて、チビチリガマに向かう。
といっても、グーグル・マップを見ると、チビチリガマは座喜味から5km以上離れており、徒歩では50分近くかかる。通りには車も少なく、タクシーを拾うのも困難。Uberも「ここでは使えません」というメッセージが出る。
時刻は2時ごろ。幸い時間だけはたっぷりあるので、ここはひとつ歩いてみるか。人も車もあまり通っていない道を波平集落に向かって歩き始める。
途中に忠魂碑を見かける。読谷村指定文化財の史跡(沖縄戦に関する遺跡)であり、説明板には「忠魂碑は日本の侵略戦争を美化する象徴として使われ、日本の歴史の負の遺産ですが、戦時中の風潮を今に伝える証人であり、今後の戒めとして村では2009年1月に史跡に指定しました」とある。
さとうきび畑が広がる風景の中をさらに歩く。ときたま出会う人にチビチリガマへの道を尋ねながら。気温はおそらく30度を超えているだろう。
持ち前の方向感覚のなさから、グーグル・マップを見ながらもゆうに1時間半、ひょっとすると2時間近くかけてやっとチビチリガマにたどり着いた。「ハブに注意」という立て札を横目に谷間を下っていくとガマがあう。
米軍上陸時にこのガマに逃れた139名のうち82名が亡くなった。投降を呼びかける米兵に竹槍で手向かって殺されたケースもあるが、大半は自決だ。家族が家族を手に掛ける悲惨な場面が展開された現場だ。死者の過半数は子供だったという。
壕の入口には数多くの千羽鶴がつり下げられたり、岩の上に置かれている。犠牲者の氏名を列挙した石板もある。「これから先は墓となっていますので立ち入りを禁止します。ガマの中には私達、肉親の骨が多数残っています。皆様が、ガマに入って私達の肉親を踏みつぶしていることを私達は我慢できません」という警告の大きな札が入口をふさいでいる。なんとも厳しい。しかし、戦後このガマが何回も荒らされたことを考えると、こうした厳しさも納得できる。
チビチリガマから1Kmほど離れたところにシムクガマがある。このガマにはハワイ移民だった村民も何人か逃れており、彼らの説得のおかげで、1000人余りの村民が自決することなく米軍に投降した。
シムクガマの存在は知っていたが、チビチリガマから近い場所にあることは知らなかった。夏の読谷村を2時間近く歩いたあとでは、場所もわからないシムクガマまで行く気力は失せていた。また徒歩で宿まで戻ることを考えるとなおさらだ。
着用していたTシャツは汗で黒ずみ、喉はからから、腹も減っている。ガマ近くのスーパーで抹茶ラテと菓子パンを購入し、喉と腹を癒やしながら、帰路についた。スーパーでは今日の夕食のための食料も入手しておいた。宿の近くには食堂やスーパーはなく、ファミリーマートが1軒あるだけだ。
帰りはさすがに2時間もかからなかった。せいぜい1時間とちょっと。宿についたときには5時を過ぎていた。
しばらくするとゲストハウスのオーナーがやってきた。5、6歳の元気な女の子を連れた若い女性だ。チビチリガマまで歩いて行ったことを告げると、「宿においてある自転車を使えたのに」とのこと。遅きに過ぎる情報だ。ただ、風に吹かれるさとうきびの畑に沿って、道を聞きながら歩きに歩いた経験もそう悪いものではない。
「ゲストハウス~時~」はシャワー・トイレ共同の個室で1泊3150円。結構長く滞在している宿泊客もいるようだった。
明日は伊江島へ行く予定だが、天気予報をチェックすると、明日以降は大雨に暴風が加わっている。台風にひっかかったみたいだ。あわてて伊江島行きフェリーのホームページを調べる。「明日のフェリーはすべて欠航」とのショッキングな案内が。まあ伊江島に渡ってそこから帰れなくなるよりはましか。
予約していた伊江島の宿をキャンセルし、那覇へ戻るバスを調べる。いまのところバスの欠便はないようだ。8時近くに座喜味を通る那覇行きのバスに乗ることにした。
事前調査の不足から読谷村ではチビチリガマしか見ることができなかったが、はじめての沖縄とあればこれも仕方ないことかもしれない。
今日は読谷村(よみたんそん)に行く。読谷村には米軍の沖縄本島上陸地点となった渡具知(とぐち)海岸がある。1945年4月1日のことだ。この村にある2つのガマ(自然洞窟)も沖縄戦を語るうえ欠かせない。1つのガマは集団自決の場となり、もう1つのガマでは全員が生き延びることができた。
このほか飛行場の跡などもあるが、まっさきに行きたかったのは集団自決の場となったチビチリガマだ。
宿は読谷村の座喜味(ざきみ)に予約した。これは事前調査をちゃんとしていなかったことからする失敗。というのもチビチリガマがある波平(なみひら)集落は座喜味から遠く離れているからだ。しかも那覇から座喜味へ行くバスは本数が少なく、朝7時半のバスを逃せば午後の便しかない。
読谷村(座喜味)行きのバスは旭橋にある那覇バスターミナルから出る。旭橋はゆいレールの美栄橋駅から2駅離れている。7時半のバスでは早すぎる。12時過ぎのバスで行くことにした。
朝食をマクドナルドで済ませ、チェックアウトタイムの10時ちょっと前にホテルを出る。旭橋に着き、バスターミナルの近くの食堂で早めの昼食をとる。沖縄そばで650円。麺は固めで好みではなかったが、2枚のっていた豚の角煮(チャーシュー?)が舌の上でとろけるおいしさだった。
沖縄そばで早めの昼食
定刻どおりに那覇バスターミナルを出たバスは1時過ぎに座喜味に着いた。予約してあるホテル(ゲストハウス~時~)はバスの停留所から歩いて2、3分のところにあった。ホテルというより普通の民家で、2階がゲストハウスとなっている。ドアを開けると台所の流しが見える。受付らしきものはない。「ごめんください」と声をかけるが、誰も出てこない。呼びかけを繰り返す。すると障子の部屋から若い黒人が出てきた。
ほっそりした繊細な感じのこの青年、ゲストハウスのスタッフではなく、宿泊客だとのこと。ナイジェリア人で、jobのために今年の6月に沖縄に来たらしい。米軍で働いているわけでもないし、一体どんな仕事だろうか。聞きそびれた。宿のオーナーは不在らしい。
Booking.comの予約確認書に記載してあった連絡先を見て電話する。女性の声で応答があり、「ドアに鍵がぶら下がっているのが空き部屋だから、どれでも選んでくれ。夕方にそちらに行く」とのこと。おそらく到着時刻をあらかじめ宿に知らせておくシステムになっていたのだろうが、私がBooking.comからのそのメッセージを見落としていた可能性が高い。
ともあれドアに鍵がぶら下がっている2つの部屋のうちの1つを選び、荷物を置いて、チビチリガマに向かう。
といっても、グーグル・マップを見ると、チビチリガマは座喜味から5km以上離れており、徒歩では50分近くかかる。通りには車も少なく、タクシーを拾うのも困難。Uberも「ここでは使えません」というメッセージが出る。
時刻は2時ごろ。幸い時間だけはたっぷりあるので、ここはひとつ歩いてみるか。人も車もあまり通っていない道を波平集落に向かって歩き始める。
途中に忠魂碑を見かける。読谷村指定文化財の史跡(沖縄戦に関する遺跡)であり、説明板には「忠魂碑は日本の侵略戦争を美化する象徴として使われ、日本の歴史の負の遺産ですが、戦時中の風潮を今に伝える証人であり、今後の戒めとして村では2009年1月に史跡に指定しました」とある。
忠魂碑
さとうきび畑が広がる風景の中をさらに歩く。ときたま出会う人にチビチリガマへの道を尋ねながら。気温はおそらく30度を超えているだろう。
持ち前の方向感覚のなさから、グーグル・マップを見ながらもゆうに1時間半、ひょっとすると2時間近くかけてやっとチビチリガマにたどり着いた。「ハブに注意」という立て札を横目に谷間を下っていくとガマがあう。
米軍上陸時にこのガマに逃れた139名のうち82名が亡くなった。投降を呼びかける米兵に竹槍で手向かって殺されたケースもあるが、大半は自決だ。家族が家族を手に掛ける悲惨な場面が展開された現場だ。死者の過半数は子供だったという。
壕の入口には数多くの千羽鶴がつり下げられたり、岩の上に置かれている。犠牲者の氏名を列挙した石板もある。「これから先は墓となっていますので立ち入りを禁止します。ガマの中には私達、肉親の骨が多数残っています。皆様が、ガマに入って私達の肉親を踏みつぶしていることを私達は我慢できません」という警告の大きな札が入口をふさいでいる。なんとも厳しい。しかし、戦後このガマが何回も荒らされたことを考えると、こうした厳しさも納得できる。
チビチリガマの入口
チビチリガマ内部
犠牲者の氏名
チビチリガマから1Kmほど離れたところにシムクガマがある。このガマにはハワイ移民だった村民も何人か逃れており、彼らの説得のおかげで、1000人余りの村民が自決することなく米軍に投降した。
シムクガマの存在は知っていたが、チビチリガマから近い場所にあることは知らなかった。夏の読谷村を2時間近く歩いたあとでは、場所もわからないシムクガマまで行く気力は失せていた。また徒歩で宿まで戻ることを考えるとなおさらだ。
着用していたTシャツは汗で黒ずみ、喉はからから、腹も減っている。ガマ近くのスーパーで抹茶ラテと菓子パンを購入し、喉と腹を癒やしながら、帰路についた。スーパーでは今日の夕食のための食料も入手しておいた。宿の近くには食堂やスーパーはなく、ファミリーマートが1軒あるだけだ。
帰りはさすがに2時間もかからなかった。せいぜい1時間とちょっと。宿についたときには5時を過ぎていた。
しばらくするとゲストハウスのオーナーがやってきた。5、6歳の元気な女の子を連れた若い女性だ。チビチリガマまで歩いて行ったことを告げると、「宿においてある自転車を使えたのに」とのこと。遅きに過ぎる情報だ。ただ、風に吹かれるさとうきびの畑に沿って、道を聞きながら歩きに歩いた経験もそう悪いものではない。
「ゲストハウス~時~」はシャワー・トイレ共同の個室で1泊3150円。結構長く滞在している宿泊客もいるようだった。
明日は伊江島へ行く予定だが、天気予報をチェックすると、明日以降は大雨に暴風が加わっている。台風にひっかかったみたいだ。あわてて伊江島行きフェリーのホームページを調べる。「明日のフェリーはすべて欠航」とのショッキングな案内が。まあ伊江島に渡ってそこから帰れなくなるよりはましか。
予約していた伊江島の宿をキャンセルし、那覇へ戻るバスを調べる。いまのところバスの欠便はないようだ。8時近くに座喜味を通る那覇行きのバスに乗ることにした。
事前調査の不足から読谷村ではチビチリガマしか見ることができなかったが、はじめての沖縄とあればこれも仕方ないことかもしれない。
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