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2016年7月6日水曜日

エリトリア2008 マサワ

2008年12月24日。

朝9時ごろ、マサワ行きのバスに乗るためバスステーションへ向かう。マサワ行きのバスが到着するはずの乗り場にはすでに数人が並んでおり、私も列に加わる。

10時になってもバスはこない。やがて11時が過ぎ、12時になり、1時になる。バスは来ない。行列は長くなり、30人くらいが並んでいる。エリトリアでは列をつくって待つというのはほんとうだった。一時的に列を離れるときは自分の荷物や少し大きめの石を置いておく。

バス乗り場

バスが来ないのは大幅に間引き運転をしているためだ。当時石油価格が高騰しており、、外貨が枯渇しているエリトリアではガソリンも枯渇していた。その結果、公共交通のサービスがずたずたになっていた。

昼食をとりどころか、トイレにもいかず列の中で座って待つ。ただひとりの外国人がめずらしかったのだろう、若いエリトリア人の女性が英語で話しかけてきた。ガイドブックを見せながら、エリトリアのことなどについて話す。近くで誰かがしゃべっている声を聞き、女性は「あれはティグレ語だ」と言う。エリトリアは他民族国家だ。ティグリニャ人が55%、ティグレ人が30%を占め、その他合計9つの民族からなっている。もちろん私には民族間の相違はまったく識別できない。

そうこうするうちに欧米人のカップルがやってきた。聞けば、ローマ出身のイタリア人で、マサワに行くつもりだという。感じのよさそうなカップルだったこともあり、タクシーをシェアして一緒に行かないかと提案した。バス乗り場にたむろしているタクシーと交渉するが、かなりな高額をふっかけてきた。だがバスがいつ来るかわからない。ひょっとすれば今日中には来ないかもしれない。結局、私が半額、カップルが半額支払うことでタクシーをシェアすることにした。いくら支払ったは失念したが、日本円で3~4000円くらいだったように思う。

アスマラからマサワまではタクシーで3、4時間。アスマラは標高2300mで、マサワは紅海に面している。したがって山あいをどんどん下っていくことになる。なかなかの景観だ。

アスマラからマサワへ


イタリア人のカップルは観光客ではない。奥さんがアスマラのイタリア学校で教えており、数ヶ月前からエリトリアに滞在していた。エリトリアは戦前にイタリアの植民地であり、今でもイタリアとの関係が深い。「イタリア学校」というのはイタリア語の学校ではなく、アスマラ在住のイタリア人子弟のための学校でもない。エリトリア人がイタリアと同じ制度のもとでイタリアと同じ教育を受けるための学校だ。学校を卒業したエリトリア人はそのままイタリアの高等教育機関に進学できる。

カップルは大の日本びいきだった。ローマで開かれる日本関連の展示会やイベントにはいつも参加していたという。川端康成の「Kyoto」という小説を読んだというので、「そんな小説はない」と答えてしまった。これは失敗。確かに川端に「京都」なる作品はないが、おそらく「古都」のことだろう。欧米では「古都」がわかりやすく「Kyoto」と翻訳されて出版されていたのだろう。

マサワに着き、私は街の中心から少し離れたところに宿をとった。イタリア人のカップルはもっと安い宿を求めて街中へ出かけた。

私も少し休んでからマサワの街を散策する。「エチオピアとの戦争でほんんど廃墟と化し、見るべきところはあまり残っていない」といわれるマサワ。確かにに戦争の傷跡は今も残っている。だが、半分崩れかかった門から入った市内は港町特有の趣がある。東洋人が珍しいのか、子供たちが私の周りに集まってくる。

マサワは紅海に面している

戦争の傷跡

あるカフェの前を通ると「Are you Korean?」との声がかかる。エリトリア人相手にボードゲームをしていた東洋人の老人が声をかけてきたのだ。「いや日本人だ」と答える。

老人は日系2世の米国人O氏だった。カリフォルニアからマサワに移り住んで約10年。数年前に癌を患い片足を切断(手術は日本でしたという)、車椅子生活を余儀なくされていた。

日系2世のO氏

O氏の自宅に招かれ、夕食をごちそうになる。O氏は彼の世話をするエリトリア人の女性やその家族と暮らしていた。夕食はインジェラだった。食後にコーヒーを飲む。コーヒーはエチオピアと同様の方式に従って提供された。3杯飲むのが礼儀らしい。ここらあたりはエチオピアのコーヒーセレモニーと同じだ。エリトリアとエチオピアは幾度か戦い、今も敵対しているが、文化的には非常に近い。歌や踊りにも共通した要素が多い。

コーヒーセレモニー

O氏の話は非常に興味深かった。

氏の人生を決め、アイデンティティの核となっているのは、思春期の収容所生活らしかった。収容所時代の仲間とは今も年に1回、ラスベガスで一種の同窓会を開いている。老齢化が進む中、年々参加者が減少しているとのこと。氏の着用しているTシャツには「XX収容所XX年Anniversary」というロゴが書かれていた。

エリトリアへ来たのも、収容所時代の仲間であるDr.Satoが提唱した食用マングローブを育てるというプロジェクトのためだった。O氏は「Dr.Satoは世界的にもちょっと知られた人だ」と言っていた。私はそのときは話半分に聞いていたが、帰国後に調べると、Dr.Satoは収容所を出たあと庭師をしていたところをある学者に拾われてカリフォルニア大学を卒業、学問の世界で業績をあげ、ノーベル医学生理学賞の候補にまでなっていた。

O氏は終戦後米国の軍隊に入り、両親の故郷である福岡に駐屯した。原爆直後の広島をも訪れたという。ぺちゃんこになった廃墟の中、自転車の残骸が積み重なっている場所がある。たぶんここは自転車屋だったのだろう。溶けかかった時計が数多く残されているのは時計屋のあとだろう。

「東京にも行ったことがあるか」との問いに、O氏は「東京は好かんけん」と博多弁で答える。
氏との対話は日本語で行ったが、ときどき氏が言葉に詰まると英語に切り替えた。途中、近所に住むエリトリア人の中年男性が尋ねてきたときには会話はすべて英語になった。この近所の男性も以前カリフォルニアに住んでいたことがある。しかもO氏の家のごく近くに住んでいたらしい。といっても当時両氏は面識があったわけではない。男性が帰ったあと、O氏は「あの男は実はドラッグの取引で米国から国外追放されたのだ」と語っていた。

氏の話は興味深かったが、日もとっぷりと暮れたので宿に帰ることにした。真っ暗な中、氏の世話をしている少年が私を宿まで送ってくれた。

O氏は当時87歳。あれから8年近く、はたして今も存命かどうか。

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