7月22日。
9時過ぎにホテルをチェックアウトし、県庁前駅から那覇空港駅に向かう。
セキュリティ・チェックを通過して、出発ロビーで11時50分発の関空行きを待つ。隣の搭乗ゲートからは11時55分発の成田行きが出る。
隣に座っていた高齢で髭面の男性が私に何か質問してきた。飛行機の運航に関する質問だったが、どんな内容かは忘れてしまった。
ともあれ、それがきっかけで男性と少し話す。成田から神奈川へ行くのだが、息子と会うために成田空港で8時間待たなければならないとのこと。話がよく飲み込めなかったので、少し立ち入って尋ねてみると、息子はアルゼンチンからやって来ることが判明した。息子はアルゼンチンで生まれ育っているが、アルゼンチンでは仕事がなく、働くために来日するらしい。男性自身は沖縄生まれらしく、つまりはアルゼンチンの日系1世ということになる。
アルゼンチンの経済状況はかんばしくなく、そのため治安も悪化しているという。男性の知り合いの家では2度泥棒に入られたとか。
ずっと以前にあるアルゼンチン人から「日系にはクリーニング業が多い」と聞いたことがあるが、これはもう過去のことらしい。
搭乗の時間になった。私の周囲の席は7、8人の外国人で占められていた。中南米風の一団だ。隣に座っている若い男性に「ブラジル?」と尋ねると、「ペルー」との返事。滋賀県守山市の工場で働いてるらしい。
男性は小学4年まで日本で過ごし、その後ペルーに帰って5年、再度日本に来たという。もちろん日本語はしゃべれるし、顔つきも日本の血が混じっているようだった。その横の若い女性は100%中南米で日本語も話せなかった。台風にもかかわらず「沖縄はすごくよかった」とのことでなによりだ。
沖縄戦跡巡りはこのようにして終わった。
米軍上陸から戦後までを時系列的に巡ったわけではないし、重要な戦跡を網羅できたわけでもない。明確な視点や計画もなしに、目に付いた戦跡、アクセスしやすい場所をランダムに訪れたにすぎない。せっかく訪れた戦跡についても、深く探ることなく、多くを見落としている。前田高地とシュガーローフをカバーしたものの、嘉数高地は抜けている。伊江島に行けなかったことも大きい。
しかし、はじめての沖縄で、しかも台風の影響を受けたことも考慮すると、満点からはほど遠いにしろ、自分なりに合格点は得られたように思う。もとより1回の旅で戦跡巡りが完結するわけではない。今回の旅は出発点にすぎない。ある程度の土地勘を得た今、もっと深くもっと広く戦跡を探る旅を実現したい。
この記事のタイトルを考えていたとき、すぐ頭に浮かんだのは「帰国」という言葉だった。このほうが座りがよいこともあるが、沖縄旅行は半分くらい海外旅行だった。航空機による旅ということがひとつ。未知の土地というファクターもある。
もうひとつ、外国人の多さだ。たとえば中国人観光客。実際には日本人観光客よりはるかに少ない数だろうが、その存在感は日本人を圧倒する。コンビニ、ホテル、レストランの従業員にも外国人が多かった。東京や大阪も同じような状態かもしれないが、地方都市としては際だった外国人比率だ。若い白人男性がレストランの呼び込みをやっているのにはびっくりした。
次は沖縄本島だけでなく、伊江島、久米島、慶良間諸島にまで足をのばしたい。台風のシーズンは避けたほうが無難だろう。
9時過ぎにホテルをチェックアウトし、県庁前駅から那覇空港駅に向かう。
セキュリティ・チェックを通過して、出発ロビーで11時50分発の関空行きを待つ。隣の搭乗ゲートからは11時55分発の成田行きが出る。
隣に座っていた高齢で髭面の男性が私に何か質問してきた。飛行機の運航に関する質問だったが、どんな内容かは忘れてしまった。
ともあれ、それがきっかけで男性と少し話す。成田から神奈川へ行くのだが、息子と会うために成田空港で8時間待たなければならないとのこと。話がよく飲み込めなかったので、少し立ち入って尋ねてみると、息子はアルゼンチンからやって来ることが判明した。息子はアルゼンチンで生まれ育っているが、アルゼンチンでは仕事がなく、働くために来日するらしい。男性自身は沖縄生まれらしく、つまりはアルゼンチンの日系1世ということになる。
アルゼンチンの経済状況はかんばしくなく、そのため治安も悪化しているという。男性の知り合いの家では2度泥棒に入られたとか。
ずっと以前にあるアルゼンチン人から「日系にはクリーニング業が多い」と聞いたことがあるが、これはもう過去のことらしい。
搭乗の時間になった。私の周囲の席は7、8人の外国人で占められていた。中南米風の一団だ。隣に座っている若い男性に「ブラジル?」と尋ねると、「ペルー」との返事。滋賀県守山市の工場で働いてるらしい。
男性は小学4年まで日本で過ごし、その後ペルーに帰って5年、再度日本に来たという。もちろん日本語はしゃべれるし、顔つきも日本の血が混じっているようだった。その横の若い女性は100%中南米で日本語も話せなかった。台風にもかかわらず「沖縄はすごくよかった」とのことでなによりだ。
沖縄戦跡巡りはこのようにして終わった。
米軍上陸から戦後までを時系列的に巡ったわけではないし、重要な戦跡を網羅できたわけでもない。明確な視点や計画もなしに、目に付いた戦跡、アクセスしやすい場所をランダムに訪れたにすぎない。せっかく訪れた戦跡についても、深く探ることなく、多くを見落としている。前田高地とシュガーローフをカバーしたものの、嘉数高地は抜けている。伊江島に行けなかったことも大きい。
しかし、はじめての沖縄で、しかも台風の影響を受けたことも考慮すると、満点からはほど遠いにしろ、自分なりに合格点は得られたように思う。もとより1回の旅で戦跡巡りが完結するわけではない。今回の旅は出発点にすぎない。ある程度の土地勘を得た今、もっと深くもっと広く戦跡を探る旅を実現したい。
この記事のタイトルを考えていたとき、すぐ頭に浮かんだのは「帰国」という言葉だった。このほうが座りがよいこともあるが、沖縄旅行は半分くらい海外旅行だった。航空機による旅ということがひとつ。未知の土地というファクターもある。
もうひとつ、外国人の多さだ。たとえば中国人観光客。実際には日本人観光客よりはるかに少ない数だろうが、その存在感は日本人を圧倒する。コンビニ、ホテル、レストランの従業員にも外国人が多かった。東京や大阪も同じような状態かもしれないが、地方都市としては際だった外国人比率だ。若い白人男性がレストランの呼び込みをやっているのにはびっくりした。
次は沖縄本島だけでなく、伊江島、久米島、慶良間諸島にまで足をのばしたい。台風のシーズンは避けたほうが無難だろう。
国際通り
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