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2025年1月29日水曜日

南半球一周ピースボートの旅(その10)

 1月22日

昨夜は途中で目が覚めることもなくぐっすり眠ったが、午前中の9時ごろに再び寝入ってしまい、意図していたイベントを逃してしまった。なすこともなく、無為徒食の一日を過ごしてしまった。

1月23日

リオから水先案内人として乗り込んだ張艶さんの二胡演奏を聴く。

二胡の演奏


1月24日

リオからブエノスアイレスまでオーバーランドのツアーで離船した乗客もいるため、食事の席はいつもよりもさびしくなっている。夕方にはリオから乗り込んだグループのサンバの演奏があった。

1月25日

船は早朝にブエノスアイレスに接岸した。10時ごろ、オプションの送迎サービスを利用して、街の中心のサン・マルタン広場まで行く。繁華街のフロリダ通りはすぐそこだ。

フロリダ通り

ナミビアで転んだときに傷ついた眼鏡を新調したい。眼鏡屋を見つけて入るが、「処方箋がないと売ることはできない」とのこと。ショッピングモールにある店も含め、合計5軒の眼鏡屋を訪れたが、結果はすべて同じだった。本来は検眼することも可能らしいが、今日は土曜日。検眼の設備は土、日は閉じているらしい。

眼鏡屋の店員は総じて親切で、感じがよかった。笑顔で対応してくれ、別の眼鏡店を紹介してくれた。短時間の間に5軒の眼鏡店を訪れることができたのはこのためだ。

オベリスクやピンクの国会議事堂まで足をのばしたあと、ちょっと大きめのファーストフード店に入る。ピザをメインとする店だが、陳列してある大きめのケーキが目に入る。垂涎ものだ。誘惑に負け、ピザではなく、ケーキを注文してしまった。甘すぎることなく、おいしい。が、値段もコーラと併せて1800円と、なかなかのものだった(クレジットカード払い)。

この店も感じがよかった。女店員と目が合うと、にっこり笑ってくれる。

オベリスク

ケーキとコーラ

ごく表面的に見れば暮らしやすそうなブエノスアイレスだが、フロリダ通りで「Cambio、Cambio」と両替を呼びかけてくる人の数は異常なくらいに多かった。アルゼンチン・ペソの不安定さを垣間見せる風景だ。

通りの片隅に寝転がっているホームレスもちらほら見られた。3、40代の比較的若い男性が多かった。

午後5時ごろにバスで帰船。船内で地元のプロのダンサー4人によるアルゼンチン・タンゴを鑑賞してこの日は終わった。

アルゼンチン・タンゴ

1月26日

船はブエノスアイレスを出港、ラプラタ川を下り、午後1時前にウルグアイの首都モンテビデオに着いた。

モンテビデオ上陸

2時前に下船。港を出ればすぐに街に入る。オプションは何もとっていない。特に観光の予定もなく、今日は「現地での散髪」を実行するつもりだった。

ところが、通りで「散髪屋はどこか」と尋ねると、「日曜日は散髪屋は閉まっている」との返事。スペイン語での返答だが、「domingo(日曜日)」の一語ですべてを理解できた。

たまたまリオ観光の際にバスで隣席だったI氏が声をかけてきてくれ、一緒に国会議事堂まで歩くことにした。

何人にも道を尋ねながら、独立広場や市庁舎を経て、1時間近くかけてようやく目的地に到達した。この議事堂は有名な建造物で、モンテビデオの観光スポットになっている。

議事堂を背景に

私の心に残ったのは、建物よりも、人々の親切さだ。私たちの質問に詳しく答えてくれる。途中まで一緒に付いてきてくれるケースもあった。ある婦人は英語を解するご主人をスマホで呼び出してくれたりもした。問題は私たちのスペイン語理解力で、説明が詳細になればなるほど、事情が分かりにくくなるというありさま。

スーパーに立ち寄り、飲み物やお菓子を買い込んで、港近くまで戻る。小さなレストランに入り、地元のビールの大瓶を注文。I氏と2人で疲れた体を休め、渇いた喉をうるおした。

地ビールで乾杯

日曜日ということもあり、港の近辺を除いて、モンテビデオの街は閑散としていた。しかし、ブエノスアイレスと同様、人々の温かさが強く印象に残った。帰船途中、小さな公園で、高齢者たちがタンゴを踊っているのを見かけたのもいい思い出だ。

公園で踊る

再び船内に戻ったときには午後7時を過ぎていた、

1月27日

私は有料の英語レッスン・プログラム(GETプログラム)に参加している。GETでは3月にスピーチ・フェスティバルが予定されている。GET参加者たちが2分のスピーチを披露するイベントだ。今日はこのスピーチに向けた先生との個別面談があった。私は日中韓の関係についてしゃべるつもりだが、用意していた内容は10分を超えそうなことが判明した。3月までにこれを2分間に短縮しなければならない。

1月28日

明日は旧暦の正月で、今日はその前日、つまり大晦日だ。旧正月は中華圏では、春節として盛大に祝われる。船内の装飾も数日前から春節模様になっている。

春節のデコレーション

午後からは「春節!芸達者大会!!」というイベントがあった。歌や踊り、朗唱、太極拳など。すべて素人なので、レベルは決して高くない。しかし、この種のイベントはそもそも「レベルがいかに低いか」を楽しむものだろう。

春節 芸達者大会


2025年1月23日木曜日

南半球一周ピースボートの旅(その9)

 1月16日

明日は洋上運動会ということで、生まれた月を基準に赤、青、緑、黄の団に分かれ、応援練習などが進行している。私は黄組に属するが、この種のことへの興味はほとんどない。今日も引きこもり気味の1日を過ごしてしまった。といって読書が進行したわけではない。

1月17日

快晴。絶好の運動会日和。9時過ぎに始まった運動会はなかなかの盛り上がり。私は午前中と午後に、それぞれ1時間ほど見物するにとどめた。みずから参加した競技はない。

運動会


綱引き

1月18日

日本と洋上をZoomでむすんだオンライン飲み会を敢行。日本時間の午後6時。こちらの時間は朝の7時。いろいろトラブルがあったが、なんとか2回のセッションを完了した。14階のビュッフェの様子や海上の景観を紹介したかったが、どこまで成功したかは不明。

午後、医務室で絆創膏の交換。これで一応治療を終了し、あとは自然の経過にまかせることになった。

1月19日

いくつかのイベントに参加。セネガル出身、日本在住のジュンベ(アフリカの打楽器)奏者ラティール・シーさんの本船最後のコンサートもあった。

ジュンベと弦楽のコラボ


1月20日

明日はいよいよブラジルのリオデジャネイロ。1つ2つのイベントに参加したあと、部屋の中で無為に過ごしてしまった。

1月21日

船は午前7時ごろにリオデジャネイロに着岸した。

リオに着岸

11時半にリオデジャネイロ観光のツアーに出発。まず向かったのは、ピラミッド形の大聖堂(カテドラル・メトロポリターナ)。

続いてさっそく昼食の席に向かう。といっても時刻はすでに2時を過ぎている。炭火焼きを売り物にしている大きなレストランは100名以上のピースボートのツアー客で埋め尽くされていた。

炭火焼きの肉はおいしかったが、そのおいしさは「味の濃さ」からくるものだった。

レストラン

肉料理

腹もいっぱいになったところで、このツアーのハイライトであるボン・ジ・アスカール(シュガー・ローフ)に向かう。これは半島に突き出た奇岩で、頂上からリオデジャネイロを一望できる。

頂上に達するにはケーブルカーを乗り継がなければならない。最初のケーブルカーに30分以上、次のケーブルカーにも30分以上、それぞれ列に並んで待機しなければならなかった。35℃に達するリオの夏のもと、喉が渇き、疲れがたまる。

頂上からの眺めはすばらしかったが、それよりも「疲れた」というのがツアー一行の正直な感想だった。

リオを一望する

疲れた一行を乗せたバスは、延々と続くコパカバーナ海岸沿いに走り、セラロンの階段に至る。階段を写真に収め、帰船の途についた。

船内に戻ったときには8時半を過ぎていた。喉の渇きをいやすために、マダガスカルで買った500mlのビールの缶を空けた。

今日一日、リオの街を丘の上から眺め、車窓から垣間見た。もちろん、これではリオを知ったことにはならない。地面に足をつけ、自分の足で歩き、電車などの公共交通機関を利用し、道行く人々とふれあってこそ、街の「空気」を感じ、街を「見る」ことができるだろう。バスの中の一日ではとうてい足りない。

2025年1月17日金曜日

南半球一周ピースボートの旅(その8)

 1月10日

朝食時、私の前には80代の日本人男性が座る。男性は昨日のケープタウン寄港時、南ア在住の友人(白人)に37年ぶりに会いに行ったという。当時、商社に勤めており、ケープタウンには6年住んだとのこと。お手伝いさんや庭師を抱え、大きな屋敷に住んでいたという。アペルトヘイト時代の貴重な経験だ。

次の寄港地のナミビアでは何のオプションもとっていない。すべてのオプションが売り切れていたためだ。ところが、ある若い女性が「ナミビアの多民族文化体験」というオプションを譲る相手を探していた。オプションをキャンセルすれば半額のキャンセル料をとられるが、譲渡する形にすれば、1000円の手続き料で済む。

この話に乗ることにした。これで明後日のナミビアでの行き先が決まった。

1月11日

午前中、乗客の避難訓練があった。「訓練」といっても、IDカードをスキャンして、一定の場所に集合するだけで、その効果は疑わしい。せめて救命具を実際に着用することくらいは必要だろう(やりたくはないが)。

昼食時には中国系オーストラリア人と同席だった。12歳のときに香港からオーストラリアに移住したとのこと。精神科医として働いていたが、今は引退している。日本、中国、韓国からの乗客が大半のなか、このように多様な背景の人に出会えるのがこの船のいいところ。

1月12日

「ナミビアの多民族文化体験」ツアーの日。「多民族」と銘打っているが、有名なヒンバ族などを訪れるツアーではなく、南アフリカの統治下にあった当時の黒人居住地(タウンシップ)を訪ねて交流するツアーだ。

このツアーも興味深かったが、それよりも報告しておかなければならない「ビッグ・イベント」がある。ツアーの途中で負傷してしまったのだ。

みんなでタウンシップに向かって歩いているとき、足がふらつき、そのまま止まらなくなって、道路上に前向きに転倒、額を打ってしまった。

額からは血がかなり出ている。ツアーのナミビア側関係者の車で病院に運ばれ、治療を受けた。傷は深くはないが、ガーゼを貼り、その上に包帯を巻いたため、痛々しい。

ナミビア(ウォルビスベイ)の病院


治療直後

治療後、再度ツアーに合流した。一行はタウンシップに入り、traditional healerから薬草の説明を受けているところだった。 

その後、ナミビア側のリーダーの私宅でナミビア料理の試食、カラハリ砂漠から来たグループのダンスの鑑賞などを経て、7時過ぎに帰船、ツアーを終了した。

私宅に立ち寄って食事

ダンス

ツアーはともかく、予期しないアクシデントの発生と負傷でとんだ災難の一日となった。前日から極度に疲れており(喉も痛かったから、たぶん風邪をひいていたのだろう)、歩くのも前かがみ、自分で自分の歩行をコントロールできなかったことが原因だ。

幸い深手ではないので、傷は時間が経てば治るだろう。困るのは、眼鏡に多数のスクラッチ傷が入ったこと。予備の眼鏡は持って来なかった。できれば南米で新しい眼鏡を購入したい。

1月13日

9時半に船内の医務室へ行く。絆創膏と包帯を新しいものに替える。傷口に砂が混入していることから、水を含んだ綿で傷口を直接に拭く。力を込めた医師の手が傷の上をキュキュッと擦る。1分以上は続いただろうか。医師も看護婦も優しく、好感が持てたが、痛いものは痛い。

今回も包帯で頭をぐるぐる巻きにしたから、船内で目立つことこの上ない。顔見知りに出会うたびに経緯を説明するはめになる。

1月14日

今日も医務室へ。包帯がとれ絆創膏だけになった。包帯男ではなくなったため、目立ち方は昨日ほどではなくなった。ただ、右眼の周りの黒い腫れはまだひいていない。中国ではこの種のblack eyeを「パンダの眼」と呼ぶらしい。

絆創膏だけになった

1月15日

3日連続して医務室へ。傷口に貼る絆創膏はさらに小さくなり、やっと正常に近い船内生活を送れるようになった。次回の診察は3日後の18日。

2025年1月10日金曜日

南半球一周ピースボートの旅(その7)

 1月6日

船は午前7時過ぎにポートエリザベスに着岸した。オプションとして選択していたショッピングモール(Boardwalk)への送迎バスは12時15分に港を出て、20分ほどで目的地に着いた。海辺のそばのショッピングモールだ。

海辺を散策してから、モールに入る。クリーンでしゃれた一階建てのモール。ヨーロッパのモールと比べても遜色はない。無料のトイレもきれいだ。

海水浴を楽しむ地元民

ショッピングモール

ちょっと大きめのレストランでhakeという魚の料理を注文する。あとで調べると、hakeはタラの一種らしい。出てきたのはイギリス式のフィッシュ・アンド・チップス。まずは満足できる味で、1800円ほど。値段もアフリカの平均的なレベルではない。

フィッシュ・アンド・チップス

再度海辺をぶらぶらする。昨日の講演で覚えたXhosa語の「Molo」(ハロー)を使って声をかける。反応は上々だ。日本、中国、韓国人が乗り合わせている「ピースボート」の乗客であることを説明する。

手を振る地元民

6時に帰船の途につき、南アフリカの第一日を終えた。

1月7日

この日は「ポートエリザベス・ショート観光」のオプションをとっていた。9時から12時までの文字通りショートのスケジュール。

ガイドは中年の白人女性。英語のみのガイドで、日本語の通訳はない。

バスは街を見おろす丘に着く。市庁舎、灯台、記念碑などがあるドンキン保護区で、ポートエリザベスの中心部だ。

ドンキン保護区ツアー

誰かがポートエリザベスとケープタウンの間にあるライバル関係についてガイドに質問した。「比較にならない」とガイド。「ケープタウンのほうがずっとよい。ケープタウンは野党(Democratic Alliance)によって統治されているのに対し、ポートエリザベスを統治しているのはANCで、ANCは腐敗しきっている。」

続けてバスは、私が昨日訪れた海辺のショッピングモール(Boardwalk)に向かう。ここで約1時間の自由行動。

海辺を歩いていると、眼だけを露出したヴェール(ニカブ)を被った若い女性が私に話しかけてきた。女性は18歳のインド系南アフリカ人。「そんな服装で歩いていて、人から何も言われないのか」と尋ねると、「まったく大丈夫」との返事。「結婚相手はやはりモスレムがいいか」とも聞いたが、答はよくわからなかった。ともかくこうした服装の女性が男性に積極的に話しかけてきたのは予想外だった。

12時になり、帰船の時間。このショート観光で支出したのは、モールで買ったアイスクリームだけ。340円ほどだった。

早い時間の帰船で、再度の外出も可能だったが、疲れていたのでベッドの上で終日ごろごろしていた。

1月8日

ポートエリザベスとケープタウンの間に挟まれたつかの間の1日の洋上生活。いくつかのイベントに参加する。

GETプログラムの先生であるオーストラリア在住のオランダ人女性Edithによる「サン族」の講演がおもしろかった。カラハリ砂漠に住むサン族(およびコイ族)には従来から興味があり、いつかは訪れようとも思っていた。EdithのDNA解析によるサン族の歴史とユニークさにまで及んでいた。この方面にまったく無知な私にととっては役に立つ情報だった。

1月9日

船は早朝にケープタウン港に接岸した。私が申し込んでいた「タウンシップ・ランガ地区」探訪のツアーは11時に港を出発した。ランガは最古の黒人居住地であり、観光客が単独で入るのは困難と言われている。ピースボートはランガのNGOと数年前からつながりがあり、今回も服や靴などの支援物資を持ち込んでいた。

ツアーはアペルトハイト時代を描く寸劇から始まり、街の散策、昼食へと進む。

昼食はビュッフェ式(ライブ演奏付き)

昼食後、NGOの本部まで歩いて行く。住民たちが声をかけてくる。

ランガの子供たち

NGOで支援物資を渡し、ダンスのパフォーマンスを鑑賞、帰船の途についた。 

船に入る前にウォターフロントに立ち寄った。ランガとは対照的に、ここには小ぎれいでしゃれたレストランやバー、ショップが立ち並んでいる。

ウォーターフロント

夕食はいつもの6階のレストランで。丸いテーブルを取り囲む6人のうち、ひとりだけが中国人だった。彼は元外交官で、北米などでの駐在経験があるという。どおりで英語が達者なはずだ。

中国の反日事情(彼によると中国の若者の間では日本語や日本のアニメが大人気とのこと)や少子化問題から始まり、話題は毛沢東の評価にまで及ぶ。英語での会話に入り込めない日本人の同席者に少し配慮が足りなかったかもしれない。

2025年1月6日月曜日

南半球一周ピースボートの旅(その6)

 1月3日

起床、シャワー、デッキを4周(約4km)、朝食(和食を選択する場合が多い)と、いつものルーチンどおり。ウォーキングは5周、6周とのばしたいところだが、なかなか実行できない。

午後、次の寄港地はポートエリザベスであることから、南アフリカの活動家ジャネット・ジョブソンさんの「アペルトハイト30年」という講演があった。講演の最後は「現在のパレスチナの状況はアペルトハイトだ」という言葉で締めくくられた。この言にどれだけの妥当性があるか、考えさせられる。

1月4日

昨日に続きジョブソンさんの講演を聴く。テーマは南アフリカの現状だ。貧富の差の拡大とその根底にある教育の格差。若者の失業率は60%に達するという。

ジョブソンさんの講演


6時半からは「隠し芸大会」が始まる。ピースボートの目玉イベントのひとつだ。私が会場のシアターに行ったときには座席はすでに埋め尽くされており、後方で30分余り立ち見をするにとどまった。

隠し芸大会(阿波おどり)

体は今日も快調。心配の種の歯も今のところは保っている。

1月5日

今日は朝から雨模様。甲板は雨こそかからないが、床は濡れている。デッキ歩きは3周にとどめた。 雨は昼ごろにやんだ。

昼食時、中国から残留孤児として日本に帰国した高齢の男女二人組と同席になる。母子とのことだったが、夫婦もしくは姉弟のようにしか見えない。日本語での会話だが、私の聞き違いかもしれない。文化大革命の嵐のなか、当時は毛語録を振り上げて行進しないと生き延びられなかったという。文革体験者の生の声を聞くのははじめての体験だ。

午後はジャネット・ジョブソンさんの3回目の講演を聞く。明日からの寄港地のポートエリザベスとケープタウンの歴史がテーマだ。講演はコサ語(Xhosa)の簡単な紹介で締めくくられた。コサ語は、私が以前から関心をもっているカラハリ砂漠のコイサン語につながるクリック言語だ。

講演中、私の横に座ったのは日本在住のネパール人女性だった。日本語で少し会話した。私のネパール旅行やネパール地震のことなど。カトマンズの日本料理店「絆」のカツ丼を勧めておいた。
 
夕食では5〜60代のスイス人夫婦と同席だった。なんとピースボートでの世界一周は3回目とのこと。練習のためにドイツ語で話してみる。

明日はポートエリザベスに上陸する。1日目は街までの送迎のオプションに申し込んでいる。

2025年1月3日金曜日

南半球一周ピースボートの旅(その5)


12月30日

今日は午後から「オープンGETフランス語」、「言語交換トーク」、「GETオープンチャット」という3つの言語関連のイベントに参加した。おもしろかったのは「言語交換トーク」。29歳の香港人女性、ノルウェー在住の台湾人女性、英国人のマシュー、GETの先生のケイト、それに私を含めた2人の日本人で、日本語と英語を交えて話す。マシューは香港在住21年の一般乗船客で、中国語や日本語、フランス語などを話す。日本語のレベルも、船内で日本語の自主企画をやるなど、なかなかのもの。

明日はマダガスカルの港町トアマシナに上陸予定。船はトアマシナに2日間碇泊する。

12月31日

船は早朝にマダガスカル第2の都市であるトアマシナに着岸した。

今日は現地に1泊するつもりなので、レセプションでパスポートを返却してもらって、9時過ぎに下船する。

マダガスカルは雨期で、外は雨が降っている。「地球の歩き方」に載っているHotel Joffreまでトゥクトゥクで行く。5ドルで約束して乗ったトゥクトゥクだが、ホテルに着いて10ドル紙幣を出すと、案の定「お釣りがない」と言う。5ドルでも法外な値段だ。だが、ここで争っても勝ち目はない。自宅にあった多くの1ドル紙幣を持参し忘れた私のミス。わずかな釣り銭をもらうだけで矛を収めた。

Hotel Joffreは1泊150,000アリアリ(マダガスカルの通貨)。5000円弱だ。現地通貨しか受け取らないので、60ドルを両替所と銀行で両替する。ほかにも2つのホテルをあたってみたが、いずれも満杯だった。

Hotel Joffre 

宿も決まったところで、メインストリートのAvenue de l'independanceまで歩く。ココナッツの木が植えられた広い通りにテントが並ぶ。

大晦日らしい賑わいはない。際立つのは貧しさだ。3、4歳の言葉もしゃべれないような子供たちが物乞いの手を差し出してくる。乳飲み子を抱えた母親の物乞いも少なくない。

4時ごろに宿の近くの安食堂で遅めの昼食をとる。ステーキとライス、コカコーラで22000アリアリ(約680円)。メニューどおりの値段で、ぼられているわけではない。現地の物価水準からすれば、安食堂とは言えないかもしれない。

ステーキとライス

スーパーで夜食用のパン、イチゴ牛乳、ヨーグルトなどを購入して、宿に戻る。

6時ごろに再度外出。近所の市場はすでに閉まりかけていた。

夜はかなり暑かった。エアコンがなければ寝苦しかったかもしれない。

2025年1月1日

6時前に目が覚める。昨日の夜食の残りを朝食とする。チェックアウトは11時なので、8時過ぎにいったん外出する。早朝降っていた雨は止んでいるが、各所に水溜まりができており、歩きにくい。

水溜まり

昨日見つけた市場で動画をとり、Tシャツを2000アリアリ(600円強)で購入した。市場では今日下船してきたピースボートの乗客も何人か見かけた。

市場

11時ちょうどにチェックアウトし、早めに船に帰る。歩いてでも帰れるが、現地通貨も余っており、プスプス(自転車でこぐトゥクトゥク)を利用した。

持参していたパスポートをレセプションに返す。ホテルではパスポートを見せるどころか、名前すら聞かれなかった。

14階のビュッフェで昼食をとったあと、部屋でぐったりした体を休め、夕食の時間までなすこともなく過ごす。

日本全国から集まった乗船客と、ときには中国人や韓国人の乗船客とも同席する食事はいつも楽しく、話もはずむ。

1月2日

昨日は外出日だったこともあり、ピースボートの正月は今日二日に設定されている。

昼には伸縮鏡開きがあり、樽酒も振る舞われたが、長い列があり、恩恵に預かることはあきらめた。

鏡開きは人垣で見ることもできない

午後のGETオープン・プログラムでは、中国の延吉から来た朝鮮族の女性と知り合う。英語を学ぶためのプログラムだが、はからずも韓国語(朝鮮語)の練習になった。

明日から数日洋上の生活が続く。