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2025年9月23日火曜日

トルクメニスタン2025 七日目(タシケント、帰国)

 9月11日

3時にモーニング・コール。4時にホテルをチェックアウトして、5時15発のタシケント行きの特急列車(2等)に乗るためにバスで出発する。この時間ではホテルで朝食をとることはできないから、列車の中で食べるようにボックスに軽食をつめてもらった。

17年前にもブハラからタシケントへ列車で移動した。あのときは夜行列車で、個別の席ではなく、コンパートメントだった。よく覚えていないが、おそらくは10時間以上かかったはずだ。

ブハラ駅

今回は1人席と2人席が横に並ぶ新幹線型の座席。6時間半でタシケントに着く予定だ。だんだん日が明けてくるが、昨夜あまり寝ていないから、みんなうつらうつら。

車窓から


同じ車両にロシア人のグループがいた。老夫婦に声をかけて、サンクトペテルブルク、モスクワ、チェチェンに行ったことなどを話す。ロシア人というだけで風当たりが強くなる昨今の情勢のもと、老夫婦は思いがけずロシア語で声をかけられたことで、非常に喜んでいる様子だった。カザンから来たロシア人だった。

12時近くにタシケント駅に到着。初日と同じ日本語ガイドの女性が我々を迎えてくれる。

タシケント駅到着

今日は22時5分発のウズベキスタン航空便で成田に帰る日。それまでの数時間をタシケント観光に費やすことになるが、まずは腹ごしらえ。バスでレストランに直行する。ガイドが所属する旅行会社からドリンクが無料で提供された。私は迷わずビールを選択した。

食後はまず日本人墓地。戦後にシベリアからウズベキスタンに送られた日本人抑留者の共同墓地だ。日本の他のツアー・グループ2組と遭遇。

絨毯やナイフを見たあと(店に立ち寄ったのか、博物館を訪れたのか記憶があいまい)、地下鉄に乗る。17年前には中央アジアの地下鉄はタシケントしかなく、そのせいか、タシケントのほうがカザフスタンのアルマトイよりも進んでいると思ったりしたものだ(現在はアルマトイにも地下鉄がある)。

地下鉄試乗

地下鉄に乗って到着した先はナヴォイ国立劇場。日本人抑留者が建造に手を貸したオペラとバレーの劇場だ。この劇場は17年前にも訪れた。

ナヴォイ国立劇場

最後にスーパーでショッピング・タイム。22時5分発の飛行機では機内食が出るのは24時過ぎだろうから、いくばくかの食料を入手しておこうということだった。トルクメニスタンとは異なりクレジット・カードを使用できるから、買い物は簡単だが、私はなにも買わなかった。食べ過ぎを警戒したからだ。

タシケントのスーパー

ウズベキスタン航空機はほほ定刻どおり成田に到着し、全員無事にツアーを終えることができた。

まとめ

バルト3国と同様、「まだ訪れていない」という動機から選んだトルクメニスタン。ただし、バルト3国との大きな違いはパッケージ・ツアーだったこと。個人旅行とパッケージ・ツアーとの違い、それぞれの長所と短所はすでに何回もふれているからここでは繰り返さない。

「トルクメニスタンは中央アジアの北朝鮮」との世評への関心もあった。予想していたとおり、トルクメニスタンは北朝鮮などではなかった。しかし、トルクメスタンの現状に対する現地ガイドたちの率直な感想は(というより、そうした感想を口に出すことができるという事実は)私の想定を越えていた。

2006年に死去した初代大統領ニヤゾフのあとを継いだのが副大統領だったグルバングル・ベルディムハメドフ。この2代目大統領は2022年に引退し、息子のセルダル・ベルディムハメドフに権力を移譲した。この息子もまた自分の子供を後継者として育てようとしてるとか。思わず「そんなことをしたら、ほんとうに北朝鮮になってしまうぞ」とガイドに言ってしまった。この国の方向がどうなるか、気になるところではある。

2025年9月22日月曜日

トルクメニスタン2025 六日目(ブハラへ)

 9月10日

6時半に朝食。7時半ごろにホテルをチェックアウト。

朝のマリ


今日はウズベキスタンのブハラに行く日。バスで国境を目指す8時間余りの道のり。なかなかの悪路で、スピードは出せない。


これまで我々に付き添っていた現地の日本語ガイドは、父親の具合が悪いということで急遽実家に帰り、代わって長身の若い英語ガイド(男性)がバスに同乗した。

昨日のアシュガバードからマリまで、そして今日のマリから国境までのバスの中、ガイドが我々の質問に答える時間がとられた。質問はそれぞれ紙に書いて添乗員に渡した。私も質問を書いたが、あまりの悪筆に躊躇して、提出はしなかった。

この質疑応答は興味深かった。ところどころにガイドたちの本音がかいまみられる。トルクメ人の平均月収は3~4万円であるとのこと。公務員は優遇されており、7万円くらいの収入があるらしい(アシュガバード中心部の白いアパートの住民も公務員が多い)。

トルクメニスタンに議会はあるが、政党は1つしかない。つまりは一党独裁。

トルクメニスタンの現体制に対して特に不満はないとのことだったが、アシュガバードの大理石の白い建物や白い車については「クレージー」との感想を漏らしていた。

そういえば、2日前のアシュガバードのナイトツアー中、ガイドは初代大統領ニアゾフの著書「RUHNAMA」についてかなり批判的だった。内容はともかく、学校やその他の場で「聖なる書」と化している、その扱われ方についての批判だ。

デモも皆無ではないらしい。北朝鮮とは異なり、トルクメンスタンでは少なくても「デモがあった」という事実を認めるだけの自由は存在する。

ガイドたちとの興味深い「対話」のあとも、トルクメニスタンがどこまで豊なのか(あるいはどこまで貧しいのか)、表現の自由がどこまで許されるかといった根本的な疑問は未解決のまま残った。言いうることはただ1つ、トルクメニスタンは「中央アジアの北朝鮮」などではないということ。

2時半ごろにレストランで昼食をとり、国境に着いたのは4時か5時ごろ。出入国の手続きは若干混乱気味で時間もかかったが、特に問題もなく進行した。

国境

国境を出ると、ウズベキスタン人の日本語男性ガイドに迎えられ、バスでブハラに向かう。ブハラも17年ぶりだ。ホテル(Malika Bukhara)に到着したのはすでに日も暮れた午後8時前。制限のないネット接続が再び可能になる。

レストランでの夕食のあとは、ガイドが案内する1時間余りのウォーキング・ツアーだ。自由参加だったが、ほとんどのメンバーが参加したように思う。

9時を過ぎているにもかからわず、ブハラの街には人があふれていた。17年前にブハラを訪れたときの記憶はもっぱら昼間の光景だから、夜のブハラは新鮮だった。17年前に見たチャイハナ(野外のティー・ハウス)などは影も形もない。

ブハラの観光の目玉であるカラーン・ミナレットは、17年前にも見たはずだが、記憶から飛んでいた。

夜のブハラ

カラーン・ミナレット

絨毯やナイフの店なども見学してホテルに戻ったのは、11時近く。明日は早朝5時15分の列車でタシケントへ向かうため、3時にモーニング・コールがある。早く寝なければ。

2025年9月21日日曜日

トルクメニスタン2025 五日目(マリィ、メルブ遺跡)

 9月9日

7時半に朝食をすませ、8時にホテルをチェックアウト。

今日はバスで15万都市のマリ(Mary)に向かう。目的はマリそのものではなく、その近傍にある中央アジア最大のメルブ遺跡だ。

途中のレストランでの昼食をはさみ、午後3時過ぎにメルブ遺跡に到着。日差しは暑いが、湿気はない。

昼食


メルブ遺跡は数多くの城壁や建物、遺物からなる大きな遺跡だが、写真撮影は有料(5ドル)だったので、私のスマホには外から眺めた写真しか残されていない。

メルブ遺跡到着

紀元前6世紀から20世紀に至るまで、ペルシャ、イスラム、モンゴル、ロシアなどの文明や破壊にさらされてきたオアシス都市。シルクロードを探るうえで欠かせない遺跡らしいが、ここでも私の知識のなさから、現地ガイドの説明は耳には入っても頭には入らない。

古代メルブの中心だった「エルク・ガラ」という都市跡は丘のような高台の上にあった。上るのはなんとかなるかもしれないが、下りがやっかいだ。転んだりするとおおごと。上るのをあきらめ、バスの中で待機した。

エルク・ガラ

ほぼ完全な形で残っている建物もあった。「スルタン・サンジャルの霊廟」。スルタン・サンジャルが埋葬されたのは1157年とのこと。

スルタン・サンジャルの霊廟

6時過ぎにホテル(Margush Hotel)に到着し、チェックイン。このホテルのレセプションにも大統領の写真が飾ってある。

Margush Hotel(1)

                                                                  Margush Hotel(2)

部屋に入り、さっそくWifiにつなぐ。だが、Wifiにはつながるが、YouTubeをはじめ多くのサイトにアクセスできない(朝日新聞のサイトにはかろうじてつながった)。ネット制限については事前に知っていたので、いくつかのVPNアプリをスマホにインストール済みだったが、VPNを通じてもブロックを回避できなかった。アシュガバードのYyldyzホテルではこうした制限はなかった。もっぱら外国人向けのあのホテルが例外だったのだ。

夕食はホテルでとった。メインディッシュは中央アジアの餃子、マントゥだ。形状は異なっているが、カザフスタンやキルギスタンでも口にした。かなりのボリュームで、残念ながら食べきれなかった。

マントゥ

夕食後にホテルの外に出る。夜景が美しかった。

マリの夜景

2025年9月20日土曜日

トルクメンスタン2025 四日目(アシュガバード観光)

 9月8日

8時半に朝食。昨日は我々以外の宿泊客を見かけなかったが、今日の朝食会場はそこそこにぎわっていた。多くは米国在住の中国人の団体客だった。

ホテルのレストランからアシュガバードを望む


観光は10時からはじまった。まず、1995年にトルクメンスタンが国連で中立を宣言したことを記念して建造された「永世中立の塔」を訪れる。ただし、塔は修復工事中であり、外から眺め、写真を撮るだけ。特に興味のある塔ではなかったから、がっかりはしなかったが、塔の頂上から眺められるだろう景色には少し未練が残る。

永世中立の塔

続いてアシュガバードの中心部にある国立博物館。昨日行ったニサ遺跡の出土品の多くはこの博物館に収められている。女性ガイドの英語での説明はあまり耳に入らなかったが、これは私の側の知識と興味の欠如によるものだ。写真は5ドルが必要だったので撮らなかった。

国立博物館

博物館を出たあと、ロシアン・バザールに向かう。Youtubeの旅行動画などでも紹介されているバザールで、市場好きな私としては期待が大きかった。大規模なバザールだが、人でごった返している状態ではない。客はもっぱら観光客とも聞いていたが、地元の人もかなり目についた。

入ったとたんに、キャビアの試食責めにあう。トルクメンスタンの通貨(マナト)を持ち合わせておらず、クレジット・カードも不可となれば、買うのはやっかいだ。

ロシアン・バザール

バザールの動画


バザールの出口で女子高校生らしきグループに写真を撮らせてもらう。

女子高校生

1時半も過ぎ、プロフ料理で有名なレストランでのランチ・タイム。プロフとは中央アジアの炊き込みご飯で、焼き飯ないしピラフの中央アジア版ともいえる。トルクメニスタンのプロフはウズベキスタンほど脂こくないといわれている。正直なところ、これまでいろいろなところで食べたプロフに比べ、それほどおいしいとは思えなかった。しかも量が多いから、半分近くを残してしまった。他のツアー同行者の多くも残していたようだ。デザートの大きなケーキは、体によくないと思いつつも完食してしまった。

プロフ

腹が満ちたところで、馬の厩舎までバスを走らせ、トルクメンスタンが誇るアハルテケ種の馬を見る。4、5頭の馬が1頭ずつ我々の前に引き出される。どれも毛並みのいい馬だ。最後に犬も1匹登場した。

馬と一緒に

続けてスーパーでのショッピング・タイム。ロシアン・バザールに比べ、ごく普通のスーパーだ。動画を撮ったりして店内を回っていると、「ハロー」と声がかかる。トルクメンスタン在住の米国人女性だった。アシュガバードの米国大使館で働いているという。もらった名刺をあとで確かめると、彼女はU.S ArmyのMajor(少佐?)で、Army Attaché(大使館付き武官)だった。「日本に行ったことがあるか」との問いに「沖縄だけだ」と答えていたのもうなずける。

8時過ぎにレストランで夕食をとる。このときもコース料理で、まずくはないが飽食気味だ。

この日の締めくくりは観覧車体験。永世中立の塔に入れなかったことの穴埋めに用意されたプログラムだ。屋内観覧車としては世界最大ということだが、地元の人にもあまり人気はなく、9時過ぎに訪れたときには我々以外の客はいなかった。屋内だから景観もあまり期待できない。

観覧車

各ゴンドラに3人ずつ分乗して、ゆっくりと1周する。10分にも満たない短時間。ガラスで覆われた屋内観覧車だから、夜景の迫力は半減以下。予想どおりのパフォーマンスには苦笑するしかない。みんなで笑いあった。いい笑いのネタを提供してくれたわけだ。

ホテルに戻って就寝したのは11時ごろだった。明日はアシュガバードを離れ、東部の15万都市マリ(Mary)に移動する。

2025年9月19日金曜日

トルクメニスタン2025 三日目(アシュガバードに入る)

 9月7日

7時に朝食。今日は首都のアシュガバードを目指す。

このキャンプ地には我がグループ以外に、男女それぞれ1名の日本人がいた。どちらも個人旅行とのこと。「日本人以外の観光客を見かけないのはどうしてだろう」と男性の方に感想をもらすと、「ここ以外に別のキャンプ地があるのでは」との返事だった。

朝のキャンプ地

朝の光の中で「地獄の門」を再度訪れ、昨日来の4WDに乗車して「泥のクレーター」や「水のクレーター」を巡る。前者は泥、後者は水が底に溜まったクレーターだ。

朝の地獄の門


水のクレーター

昨夜と同じような悪路を走行するなか、何匹かのラクダが目に入る。飼われているのではなく、野生らしい。

野生のラクダ

アシュガバードに近づくにつれ、悪路は舗装路に変わり、周囲に白い建物が見えてくる。

アシュガバードに近づく

12時ごろに「Mado」という名前のレストランで昼食となる。前菜のサラダとスープ、メインディッシュのビーフ、デザートのアイスクリーム。どれもすばらしかった。

サラダとパン

この昼食の席でツアー・グループの自己紹介が予定されていたが、テーブルが長く、声が届きにくいことから、ホテルのロビーでやることになった。

アシュガバードに入る前に、4WDからバスに乗り換え、1時半ごろにホテルに到着した。Yyldyz(ユルドゥズ)ホテル。アシュガバードで最高級、つまりはトルクメンスタンで最高級のホテルだ。現地ガイドによれば、「トルクメンスタンの人は泊まらない。客は外国人ばかり」とのこと。なにもかもピカピカで、部屋は大きい。もちろんバス・タブ付き。こんな大きなホテルなのに、ロビーには我々グループ以外の客は見当たらなかった。

Yyldyzホテル(Webより借用)

大統領の写真を飾ったレセプション

部屋の中

チェックインし、4時過ぎまで体を休めてから、再びロビーに集合。全員で簡単な自己紹介をすませた。

ホテルを出て、午後の観光がはじまる。アシュガバード中心部の建造物はすべて白い大理石でできている。走行している車は白かシルバーのみ。人通りはほとんどない。人口100万人(後日別のガイドによれば50万人)の都市にしては閑散としすぎている。しかし、感受性がめっきり鈍化している私は、こうした異様な風景を特に異様と受け止めることもなく、車窓から漫然と眺めているだけだった。

アシュガバードの街並み

バスが向かった先はニサ(Nisa)遺跡。「紀元前3世紀ごろに成立したパルティア王国(アルサケス朝)初期の首都」(Wikipediaから)の遺跡ということだが、知識のない私にとっては「豚に真珠」「猫に小判」だ。しかも、写真をまったく撮っていないから(写真撮影には5ドルが必要だった)、すでに記憶もあいまいになっている。覚えているのは、出土品の多くは明日訪問予定の国立博物館に収納されていることくらい。

続いてモスクを訪れてから、アラバイ犬(トルクメンスタンの国犬らしい)の黄金像を写真に収める。大理石の白い建造物といい、犬の黄金像といいすべて大統領の好みらしい。地獄の門に至る未舗装のでこぼこ道と対比したとき、「お金を使う優先度を完全に間違えている」という感想を抱くのは自然だろう。

アラバイ犬の黄金像

8時過ぎ、数多くの伝統的な個室を備えたレストランに入り、夕食をとる。メインディッシュは骨付きの羊肉の煮込み。肉はとろとろに煮込んであり、今回のツアーでもっともおいしく感じた。これまでがまんしてきたビールを追加した(確か3ドルだった)。

メインディッシュ

おいしい料理のあとは「夜のアシュガバード」のツアーだ。バスに乗って光り輝く夜のアシュガバードを巡る。ところどころでバスを降り、現地の人と交わる機会もあった。日曜ということもあるのか、夜の9時でも多くの人が見られた。停車している乗用車からは大音量の音楽が聞こえてくる。北朝鮮とは大違いだ。

夜のウェディング・パレス

新婚カップル

新婚カップルの友人とおぼしき数人の民族衣装の女性たちに写真撮影をお願いしたが、断られてしまった。笑いながらの拒絶なので、しつこく頼んでみたが、結局撮影はかなわなかった。

現地の人たちも我々に興味を示し、積極的に話しかけてくる。英語が達者な中年の婦人からも話しかけられる。残念ながら時間がなく、対話を深めることはかなわなかった。

アシュガバードの全体を見渡せる場所からの夜景はどう形容したらいいのだろうか。「夢幻」、「シュール」、「テーマパーク」...。

アシュガバードの夜景(私の安いスマホではちゃんと捕捉できなかった)

ホテルに戻ったのは11時近く。このホテルには連泊だから、明日の予定はゆっくりしている。

2025年9月17日水曜日

トルクメンスタン2025 二日目(入国、地獄の門)

 9月6日

6時半に朝食、7時15分にホテルをチェックアウトという慌ただしいスケジュール。バスでタシケント空港まで向かい、9時15分発ウルゲンチ行きのウズベキスタン機に搭乗。空港ではシンガポールの団体客と遭遇し、少し言葉を交わした。以降、今回の旅行では何組かのシンガポール観光客を見かけた。

ウルゲンチ行きの便に乗り込む


ウルゲンチには11時前に到着。ここからバスでウズベキスタンとトルクメンスタンの国境を目指す。途中、レストランに立ち寄って昼食をとる。

国境に到着したのは午後1時。ウズベキスタンの出国手続きは特に問題なし。コロナのPCR検査まであるトルクメンスタンの入国審査は混乱気味で時間もかかったが、ここは我慢するしかない。

トルクメンスタンのイミグレに入り、審査を待っていると、中年の女性からロシア語で声をかけられた。私に名刺を手渡し、「ここで働いている」と言う(名刺はロシア語なのでとっさには解読できなかった)。さらに「一緒に写真を撮ってもいいか」と尋ねてくる。OKと返事し、女性のスマホにツーショットで収まる。

イミグレの建物内での写真撮影は禁止とのことだったが、おかまいなし。

このちょっとした出来事で、「トルクメニスタンは中央アジアの北朝鮮などではない」と確信した。トルクメンスタンの旅行動画などから判断して、「トルクメンスタン=北朝鮮」には懐疑的だったが、これが確信に変わった瞬間だった。

北朝鮮は言葉の真の意味での全体主義国家、ジョージ・オーウェルの「1984年」に最も近い、唯一無二のユニークな国だ。「アフリカの北朝鮮」と呼ばれるエリトリアにしろ、トルクメンスタンにしろ、それぞれにひどい国であり、変わった国ではあるが、北朝鮮と比べることはできない。北朝鮮ではイミグレ内で写真を撮ることなど考えられない。

帰国後に名刺を調べたところ、女性は医療コンサルタントであり、ウズベキスタン人だった。

なんとか全員が入国を終えたのは午後4時ごろ。国境を出たところで、トルクメニスタン人の日本語ガイド(男性)の出迎えを受ける。ここから6台の4WDにそれぞれ3人ずつ分乗し、カラクム砂漠にある「地獄の門」(ガス漏れを防ぐために着火され、燃え続けているクレーター)を目指す。6時間超の道のり。しかも舗装していないでこぼこ道で、覚悟が必要だ。

途中、小さなスーパーに立ち寄り、いくばくかの食料を補給する(私はなにも買わなかった)。スーパーはこぎれいで、品揃えもよい。これも北朝鮮とは大違い。北朝鮮にはそもそも外国人が立ち寄れるスーパーがほぼ存在しない。

国境近くのスーパー

小学生らしき制服姿の少女がいたので、写真を撮らせてもらう。

小学生

続いて高校生らしき少女の写真も撮る。

高校生(?)

この少女とはロシア語で少し言葉を交わした。

トイレ休憩かなにかで停車したところには、地元のおばさんたちが道ばたでメロンなどの果物を販売していた。ロシア語で「トルクメニスタンのお金は持っていない」と告げる。理解されたのかどうかはわからないが、メロンを試食させてくれた。おいしかった。他のツアー同行者も試食を勧められていた。

道ばたの果物販売


日の暮れかかった悪路を車は進む。が、私の乗っている車が突然停車する。バッテリーの不調らしい。2~30分かけてバッテリーを交換し、再出発。

バッテリー交換

私は運転手の横に座り、後部座席は2人の女性で占められていた。運転手が私に話しかける。英語はほとんどできないとのことなので、ロシア語にならざるをえない。私のロシア語は壊滅的な状態だった。не понимаю(理解できない)を連発するしかなく、まことにふがいない。

そんな状態でも、いくつかの質問を試みた。

問い:「ロシアとウクライナの戦争をどうおもうか」

答え:「不必要な戦争だ。戦争はよくない」

問い:「トルクメニスタンでの生活はどうか」

答え:「アシュガバードはよいが、地方はどうも...」

地獄の門(ダルバザ・クレーター)に到着したときには真っ暗。午後10時近くになっていた。まずは食事。作り置きの肉類や野菜、それにスイカなどの果物。ここで食事に期待するのは野暮だろう。

砂漠の中で夜食

続いてガスが燃え続ける「地獄の門」を見物。予想したより規模が小さい。「地獄の門」というほどのおどろおどろしさもない。もともとあまり期待していなかったから、「まあこんなものか」という感想。日本人だけの見物客のなか、トルクメニスタン人の男性3人もいたので、日本から来たことを告げ、相互に写真を撮った。

地獄の門


トルクメニスタン人


宿泊には各自に小さなテントが用意されている。スペースが限られているのはともかく、入口のジッパーがちゃんと下まで開かなかったのは参った。出入りに難儀する。寒さを心配していたが、用意してあった寝袋を布団代わりにすれば十分にしのげた。夜中に二度目が覚め、合計の睡眠時間は4~5時間といったところ。

テント