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2024年10月28日月曜日

トルコ2024 帰国と若干の感想

 10月8、9日

フライトまでたっぷり時間がある。食事は機内で出るはずだ。それに空港のレストランは高い。カフェでトルコのBaklavaというお菓子とAyranを注文した。これだけで15ユーロ。市内ならせいぜい5、6ユーロだろう。

BaklavaとAyran


関空行きは定刻どおり午前2時に飛び立った。機内での私の隣席はリトアニア人のカップルだった。日本ははじめてとのこと。歌やダンスの公演のための来日で、なんと42人の団体で来ているという。「リトアニアの住人の半分くらいがやって来たのか」と言うと、笑っていた。

リトアニアは私にとって、というより日本人にとってあまりなじみのない国だ。リトアニアのロシア系住民は現在は10%くらいであること、リトアニア語とラトビア語はよく似ていることなど、おおいに話がはずんだ。

若干の感想

今回のトルコ旅行についていくつか思ったことをランダムに記しておこう。

(1)行程。イスタンブール2泊→ディヤルバクル2泊→マルディン3泊→アンカラ2泊→カッパドキア2泊→イスタンブール3泊という今回の旅の行程はまずは妥当なものだった。最後のイスタンブール3泊の代わりにどこかもう一箇所行けばよかったかもしれないが、ぎりぎりの行程を組むのは超慎重な私の性格に合っていない。

(2)物価。2009年の「地球の歩き方トルコ編」では1リラが56円と記載されている。今回私が両替したときのレートは1リラが4.2~4.3円くらいだった。つまりこの15年くらいの間にトルコ・リラは日本円に対して10倍以上下落していることになる。インフレに対し利上げではなく利下げで対応するという、エルドアン政権の非常識な政策が、収拾がつかないほどにインフレを加速させた結果だ。だからといってトルコが相対的に安くなったわけではない。インフレを出し抜くために値上げを急ぐのは当然といえば当然の庶民の反応だ。

食事は日本より高い。観光地では2倍とみてもいい。初日以降食事への出費に慎重になったのはこのためだ。ホテル代や交通費は日本より安いが、その差は大きくない。イスタンブールではタクシーはもちろんUberも利用しなかった。

(3)東洋人観光客。日本人を誰一人見かけなかったアゼルバイジャンと異なり、トルコ、特にイスタンブールとカッパドキアでは日本人観光客を目にすることもめずらしくなかった。だが、東アジアの観光客で圧倒的に多いのは中国人だ。続いて韓国人か。カッパドキアでは中国レストランがいくつかあり、韓国レストランも2つ見かけた。日本料理専門のレストランは私の知る限り存在しなかった。その反面、現地の人が私に声をかけてくるときに多かったのは、「日本人か」という問いかけ。それに「コンニチハ」とか「オゲンキデスカ」という片言の日本語。「ニイハオ」と声をかけられたのは1回だけだった。これは日本人観光客が多かった過去の遺産だろうか。

(4)犬。トルコに猫が多いことは知っていたが、犬が多いのにはびっくりした。一般にモスレムの国では犬は忌み嫌われており、ほとんど見かけない。だが、トルコでは大きな犬が寝そべっているを幾度となく目にした。元気のいい小型犬もいないわけではないが、圧倒的に多かったのは大型犬だったような気がする。どの犬もリードは付けていない。犬を見かけるたびに写真に収めておいた。そのうちほんの一部を紹介して、トルコ旅行のブログを締め括ろう。

怠惰なトルコの犬(その1)

怠惰なトルコの犬(その2)

怠惰なトルコの犬(その3)

トルコ2024 十四、五日目(イスタンブール観光)

 10月7日

今日はボスポラス海峡クルーズの日。12時過ぎにホステルまで小型バスが迎えに来て、船乗り場まで連れて行ってくれる。クルーズが出発したのは午後1時半。英語とロシア語での説明が始まる。

ツアーという形ではないが、このクルーズは2009年にも経験している。ガイドもなく食事も付かないただの周航だから、値段はずっと安かったはずだ。もちろんこうした単純な周航は今でも運航されているのだろう。

ボスポラス海峡を巡る


2時を過ぎ、ランチ・タイムとなった。小型バスで一緒だった高齢の女性2人と同じテーブルにつく。2人はイラン人の姉妹だった。姉は米国在住で、妹はスエーデン在住とのこと。イランを出たのは1989年。姉はかなり体が弱っており、私と同年生まれの妹の介助なしには歩行も困難なようだ。妹の一人息子はlawer(たぶん弁護士)で、今回のトルコ旅行をすべて手配してくれたらしい。革命前にイスラエルを旅行したこと、どちらも看護士として働いていたことなど、いろいろ興味深い話を聞くことができた。

ランチ(可もなく不可もなし、ツアーの食事に多くは期待できない)


ツアーが終わり、下船してから、バスが同じだった中年のカップルと話す。女性のほうは黒いヒジャブとアバヤ(全身を覆うロングコート)を着用している。彼らはアルバニア人だが、現在は米国のニューヨークに住んでいる。「その服装でニューヨークの街を歩いて何も言われないか」と尋ねると、「問題ない」との答えだった。ニューヨークにいる彼らの息子ともスマホを通じて挨拶した。

余分のお金を出してわざわざツアーにしたのは、こうした交流が期待できたからだ。

ホステルで休憩してから、再び夜の街に出る。中規模のレストランに入り、キョフテ、スープ、それにAyranを注文。315リラ(1300円ほど)。観光客で賑わう旧市街中心部では安いほうだ。

夕食


10月8日

関空行きの帰国便は10月9日の午前2時にイスタンブール空港を発つ。実質的には8日の深夜だ。今日一日たっぷり時間がある。荷物をホステルに預けて空港へ行くまでの時間を外で過ごす選択肢もあるが、ベッドの上で休む時間をほしいことから、ドーミトリーに1泊する形をとることにした。料金は300リラ(1200円ほど)。

というわけで、11時にチェックアウトしたあと、直ちにドーミトリーにチェックインし、荷物をロッカーに保管したうえで外に出た。

ホステルの入口に黒いヒジャブとアバヤの中年女性3人と男性1人がいた。服装からしてトルコ人かと思ったが、ボスニア人だった(正確にはボスニアに住んでいるアルバニア人)。男性がドイツ語もしゃべると言うので、ドイツ語でも少し会話した。

今日行こうと思っていたのは、カラフルな建物が並ぶBalatという地区だ。グーグル・マップで経路を調べ、トラムでいったん新市街へ出てから、Balatへ行くバスの乗り場を探す。それらしきバス乗り場を見つけ、マップに示されている番号のバスを待つが、いっこうにやって来ない。30分ほど待ったところで、Balat行きをあきらめた。もともとそれほど興味があったわけではない。

Balatの代わりに、今いる新市街を歩いて探索することにした。長い石段を上ってガラタ塔まで行き、そのふもとのレストラン通りを通過して、新市街の中心部にあるタクシム広場を目指す。

途中、ラップしたケバブとAyranのセットで75リラ(300円強)という安いレストランを見つけたので、昼食をとった。

ガラタ塔


30分以上歩いてタクシム広場に到着。特に見るべきものはない。

タクシム広場(その1)

タクシム広場(その2)

タクシム広場の公園にある野外カフェに入り、トルコ風コーヒーとキュネフェというお菓子で一休み(205リラ)。トルコのお菓子は以前から私のお気に入りだ。イスタンブールに立ち寄るたびに土産としてTurkish Delightを購入していた。キュネフェも期待を裏切らなかった。甘すぎるともいえるが、それがいい。

ターキッシュ・コーヒーとキュネフェ

トラムを使ってホステルまで戻り、ドーミトリーのベッドに体を横たえる。2、3時間休んだが、予想どおり、寝入ることはできなかった。

8時過ぎにホステルをチェックアウトする。空港まではちょっと高いがシャトルバスを利用した。トラム→バス→地下鉄がもっとも安いのだが、夜のバスに乗るのは不安だ(下車する停留所を乗り越す心配がある)。トラムでシャトルバスの乗り場まで行き、そこから一路空港に向かった。シャトルバスの代金は覚えていないが、200リラ以上だったことは確か。

空港には10時前と、かなり早めに到着し、関空行きのターキッシュ・エアラインズの便を待つばかりとなった。

2024年10月26日土曜日

トルコ2024 十二、三日目(イスタンブールへ戻る)

 10月5日

いよいよ旅も終盤、今日はイスタンブールへ戻る日。カッパドキア(Nevsehir空港)からイスタンブールへの航空券はTrip.comを通じて購入してある。15時50発17時到着のターキッシュ・エアラインズの便で代金は17,630円。

11時にチェックアウトする際に、ホステルで空港行きのシャトルバスを予約しておく(300リラ)。バスは午後1時に迎えに来るとのことなので、いったん荷物を預けてギョレメを散策し、レストランで昼食をとった。

カッパドキアの見納め


来るかどうか迷っていたカッパドキアだが、来てよかったという結論だ。宿のテラスからの眺めはすばらしかった。だが景観に特に感動したというわけではない。カッパドキアの景色は今までに写真や動画で何回となく見ていたから、いわばdesensitizeされていた。体験として残ったのは、多くの観光客やそれを目当てとしたツアーやレストラン、土産物などの全体、その有りようだ。これもまたトルコの現実。

午後5時過ぎにイスタンブール空港へ着く。トルコ国内では制限されていたBooking.comだが、VPNを通じて接続すれば、検索も予約も可能になることを知った。だがあえて予約はしなかった。気に入った宿をいつでも自由に選ぶほうがベターと思ったからだ。ただBooking.comを通じて目星は付けていた。

目星を付けていた安宿に行こうと経路を調べ、空港から出ている地下鉄で終点のGayrettepe駅まで行くが、そのあとのバスの停留所がよくわからない。周りが暗くなっていくなか、この周辺で適当に宿を見つけようと決めた。グーグル・マップを頼りに地下鉄駅から10分くらい離れたホテルにたどり着く。朝食付きで1泊2650リラ。日本円にすれば12,000円弱。少々高いが、バックパックを背負って暗闇のなかを歩くのはもういい。このホテル(Milport Hotel)に1泊することにした。

MilPort Hotelの室内


あとから考えるとこれは失敗だった。バスはともかく、地下鉄ならGayrettepeで簡単に乗り替えることができる。同じ新市街でもGayrettepeよりもっと観光客が多そうな駅へ行けば、選択肢も多く、安い宿が見つかったはずだ。

短いフライトであったにもかかわらず機内では軽食も出たから、お腹はすいていない。残っていたお菓子とコーラで満足し、そのまま就寝した。

10月6日

Milport Hotelをチェックアウトし、旧市街を目指す。昼間なら移動もそうむずかしくない。バスとトラムを乗り継いで簡単に旧市街の中心(スルタンアファメト)まで行くことができた。

目指したのは、ホステルでありながら個室も用意している宿だ。1軒目は空きがなく、2軒目はちょっと高かった。3軒目にたどり着いたのが、Avrasyaホステル。朝食は付かないが、トイレ・シャワー付きの個室で1泊700リラ(3000円ほど)と、旧市街中心部としては格安だ。ここに2泊することにした。

Avrasyaホステル

あらためて旧市街の観光に出る。アヤソフィア、ブルー・モスク、トプカプ宮殿はすでに2009年に内部まで見学している。その記憶は完全に消え去っているが、わざわざ高い入場料を払って入る気はない。ブルー・モスクだけは今も入場無料なので入ってみた。

ブルー・モスクの内部

そういえば2009年には鯖サンドも食べたな。今回も、ということで、日暮れの旧市街を海辺近くまで歩く。2009年には海辺近くには鯖サンドの屋台が数多く出ていたが、今見かけるのはほとんどが焼トウモロコシの屋台だ。

しばらく歩くと、3軒連なった鯖サンドの店が大勢の客で賑わっている。2009年同様、客の大半はトルコ人のようだ。そのうちのひとつに入る。提供されているのは鯖サンドと飲み物だけ。鯖サンドが150リラ(650円ほど)でレモネードが30リラ(130円ほど)だった。

賑わう鯖サンドの店

鯖サンドとレモネード

2009年にも思ったことだが、鯖にはパンより白米と大根おろしのほうが相性がよい。

腹がくちくなったところで、30分以上かけてホステルまで歩いて帰った。

ホステルでボスポラス海峡クルーズ・ツアーのポスターが目に入った。ランチ付きのAfternoon Tour(3時間)で35ユーロ。30ユーロに値引きするというので申し込んでおいた。

2024年10月25日金曜日

トルコ2024 十一日目(カッパドキアのツアー)

 10月4日

朝早く目が覚めたこともあり、5時過ぎにホステルの屋上のテラスに行く。カッパドキアの早朝の空を覆う気球の群れを見るためだ。しかし外はまだ暗く、気球はまだ上がっていない。気球を目にしたのは、再度テラスに上った午前6時半ごろだった。

テラスから眺めた気球

気球に乗る気はまったくなかった。最低でも100ドルくらいというその値段がネックだった。それに加え、何年も前にイスタンブールに滞在していた際に、気球の事故で死者が出たというニュースを耳にしたことがあり、若干の恐怖心もあった。

今日はグリーン・ツアーの日。9時半にホステルまで迎えの車がきた。他のホテルからも何人かのツアー客をピックアップし、ツアーの出発点である「ギョレメのパノラマ」まで連れ行く。迎えの車の運転手の中年男性は私に日本語で話しかけてきた。「コンニチハ、ゲンキデスカ」のレベルの日本語ではなく、まがりなりにもコミュニケーションが可能なレベルだ。東京と静岡に数か月暮らしたことがあるという。

パノラマ

グリーン・ツアーはこの「ギョレメのパノラマ」から始まる。小型バスに乗り込んだ一行は女性ガイドを含めて15名。バスの中でまず各自簡単な自己紹介をする。インド人のカップルが2組、中国人の若い女性二人組、中国在住のオーストラリア人と中国人のカップル、テキサスのオースティンから来たカップル(新婚旅行中とのこと)、カザフスタン人のカップル、一人参加の米国人男性(ニューハンプシャー州在住)、それに私。

最初にThe Church of Virgin Mary(聖母マリア教会)に立ち寄り、12時過ぎにUnderground Town(地下都市)に到着。これがこのツアーの目玉らしい。

地下都市は迫害を逃れるキリスト教徒たちの避難地として建造され、万を超える人たちが暮らせるようにつくられている。

地下都市の入口


地下都市を探索

確かに興味深い構造物ではあるが、暗がりのなか、背をかがめて進むのは簡単ではない。地下深くほられているから、石の階段も多い。階段を降りるのが苦手な私はどうしてもツアー一行から遅れてしまう。おそるおそる、よたよたと歩いていると、同行の男性が私の腕をとろうとし、あるいは「俺の腕につかまれ」といって言って助けてくれる。あるときはインド人、あるときはアメリカ人の男性が。助けの申し出をていねいに断り、なんとか自力で地下都市から外へ出た。「これは私にとっては拷問(torture)だ」との感想を一言述べておいた。同行者たちはおそらく20~40代。自分ではそれほど自覚がなかったものの、私の老いぼれ具合は第三者から見て明々白々だったのだろう。

ツアーはナル湖、ウフララ渓谷と続き、ようやくランチの時間。時刻は3時近くになっていた。ランチ(飲み物を除く)や地下都市への入場料はツアー代金に含まれている。ランチに何を食べるかはあらかじめバスの中でガイドが各自に確かめていた。チキン、ビーフ、魚(鱒)、ベジタリアンのなかからの選択だ。私は魚を選んだ。

ナル湖

このレストランで

魚料理を食べる(おいしかった)

土産物屋に立ち寄ってギョレメに戻ってきたときには午後5時を過ぎていた。ツアーの感想は特にない。地下都市を歩く際の苦行を考えると、レッド・ツアーのほうがよかったかもしれない。

ツアーよりも興味深かったのは同行者との交流だ。中国人女性を相手に中国語を、カザフスタン人相手にロシア語を使ったりもした。といってもせいぜい1、2のフレーズだが。

アゼルバイジャンでもインド人が多かったが、今回も同様だ。アゼルバイジャンではインドとアゼルバイジャンに特別な関係でもあるのかと思ったが、要するにインドも豊になる途上にあり、中産階級が膨らむにつれ、海外へ出る余裕が生まれているのではないだろうか。ちょうど50年前の日本、30年前の韓国、そして20年前の中国がそうであったように。

ホステルで休んでから、夕食のために外へ出る。小さな食堂でTantuniという料理とAyranというトルコの飲み物を頼んだ(205リラ)。

隣のテーブルに50~60代の2人の東洋人の女性がいた。顔は中国人のようだが、服装や所作が旅慣れ、垢抜けている。そのうちひとりが帰り際に私のほうに微笑みかけてきたので、どこから来たのか聞いてみた。中国人だがオーストラリア在住とのこと。どおりで...と納得した。 

2024年10月23日水曜日

トルコ2024 十日目(カッパドキア到着)

 10月3日

7時に朝食をとり、早めにバスターミナル(ASTi)へ向かう。カッパドキア(ギョレメ)行きのバスはを予定どおり9時に出発した。私の席の前列に座っていたカップルと話す。「ドイツから来た」とのことだったが、顔つきがドイツ人らしくない。2人ともアフガニスタン人だった。男性のほうはハザーラ。バーミヤンに行ったときのこと、ダリ語とパシュトー語の違いなどについて話した。男性によるとダリ語とパシュトー語はまったく違う言語だとのこと。ほんとうだろうか。どちらもペルシャ語系の言語のはずだが。

バスは特徴のある岩が見えるカッパドキアに入り、アンカラを出発してから4時間ほどで目的地のギョレメに到着した。カッパドキアといっても広い。ギョレメはカッパドキア観光の中心であり、世界各地からの観光客で賑わっている。

カッパドキアに入る

宿は予約はもちろん、目星も付けていなかった。ざっと調べたところ、ギョレメの宿はどれも高そうだ。目に付く宿を適当にあたってみよう。バス停からほど近いところに、Terra Vista Hostelというホステルがあった。ホステルという名前だが個室もあるとのこと。個室は朝食なしで1泊1500リラ(6300円)。カッパドキアにしては安い。ここに2泊することにした。

Terra Vista Hostel


このホステルでは各種のツアーも取り扱っていた。カッパドキアの一日ツアーにはレッド・ツアーとグリーン・ツアーの2種類がある。レッド・ツアーはギョレメを含むカッパドキア北部を一周するツアー、グリーン・ツアーは南部を一周する。料金はどちらも45ユーロ。標準的なレッド・ツアーを申し込もうとしたが、宿のスタッフの勧めるのはグリーン・ツアーだった。「レッド・ツアーで訪れる場所ならここから個人で行くことが可能」との理由からだ。勧めに従って、明日のグリーン・ツアーを申し込んだ。

ホステルの外へ出ると、尖った岩がにょきにょきと頭をもたげているカッパドキアの風景が目に入る。数多い観光客のなかでも特に目立つのが東洋人だ。大半は中国人で、韓国人がそれに続く。日本語も何回か耳にした。

ギョレメのメインストリート


ギョレメをぶらぶらと散策したあと、5時半に早めの夕食をとることにした。インスタンブールの旧市街同様、どのレストランも強気の値段設定だ。レンズ豆のスープとフムス(ひよこ豆のペースト)という軽い食事で340リラ(1400円強)を支払った。

スープとフムスで早めの夕食

カッパドキアのほぼすべてのホテルやホステルは屋上にテラスを設けており、外の風景を一望できる。Terra Vista Hostelも例外ではない。こうした安ホステルでも眺めはすばらしい。

テラスから見た夜景


このテラスでソウル出身の韓国人青年と知り合った。兵役を終え、大学に復学するまでの間、世界一周の旅に出ているとのこと。父親は大阪大学に留学した経験があり、本人も東京、大阪はもちろん、北海道、仙台など日本を広く旅行している。日本の料理では「ひつまぶし」が最高と言う。ひつまぶしが名古屋の名物であることも知っていた。ちなみに日本人の私はひつまぶしを食べたことがない。値段が高すぎる。

2024年10月22日火曜日

トルコ2024 八、九日目(アンカラ)

 10月1日

アンカラ行きのAjetの便は13時45分にマルディンの空港を発つ。空港行きのシャトルバスは11時半の予定。空港までは1時間もかからないから、これで間に合うはずだが、ことのほか慎重な私は10時半にタクシーで空港に向かった(500リラ)。

宿泊費の6000リラはチェックアウトの直前にオーナーの父親にキャッシュで支払った。

約1時間半のフライトでアンカラ空港に到着した。リラのキャッシュを補強しておくために40ユーロと10ドルを両替する。アンカラは少し寒く、用意していた軽い上着を着込む。

アゴダやTrip.comでマークしていたEnerji Otelを目指し、バスでバスターミナル(アンカラではASTiと呼ばれている)まで行き、そこから地下鉄に乗り換えて最寄りの駅で下車した。バスと地下鉄の支払いはどちらもクレジットカードのタッチで済ませた。地下鉄に乗ろうとしていたとき、トルコ人の男性がスマホの翻訳アプリを使って助けてくれた。一緒に車内に乗り込むので(ASTiは最終駅で行き先は一方向しかないからこれは当然)、「ひょっとするとチップをせがんでくるのではないか」とあらぬ疑いをかけてしまう。まったく余計な心配で、私の下車駅で気持ちよく別れた。詐欺とはほど遠い穏やかな表情の男性にまでそんな嫌疑をかける私の猜疑心こそ病的といえよう。

Enerji Otelは朝食付きで1泊約1500リラ(6500円弱)。とりあえず2泊することにした。

Trip.comなどの情報によればEnerji Otelは街の中心から1キロ以上離れているとのことだったが、周りにはレストラン、バー、カフェなどが数多くあり、賑わっていた。官庁などが存在するという意味では「中心」ではないが、商業的にはこのあたりが「中心」のように思えた。

Enerji Otel


トルコの物価高にびっくりし、「できるだけ安く」というのがこれまでのレストラン選びの指針だった。だが今日は久しぶりに贅沢とまではいかなくてもそれなりのもの食べようという気になっていた。

で、午後8時ごろ、ホテル近くの大勢の客で賑わっているレストランに入った。

このレストランで夕食


注文したのはレンズ豆のスープと鶏肉料理、それにスプライト。スープが登場した時点で、数多くの皿がテーブルに並べられる。とうてい食べ切れそうにない。

スープ登場

ラップ(パン)に包まれたメインディッシュがやってくる。

メインディッシュ

ラップをはがすと

最後にサービスでデザートと紅茶も提供される。正確な値段は忘れたが、600リラ強(2500円ほど)だった。店員も態度も悪くなく、まずは満足できるレストラン体験だった。

10月2日

8時過ぎに朝食会場へ行く。1泊6500円にしては充実した朝食だった。

朝食後、アンカラの「中心部」(ウルスというエリア)にあるアタテュルク像を目指す。バスか地下鉄で行く手もあったが、アンカラの街を知るために30分以上かけて歩くことにした。

アタテュルク像や大きなモスクを見たあと、街をぶらぶらと散策しながらホテルの方向に引き返す。

アタテュルク像

モスク

モスクの中には入らなかった。私にとっては、モスクの内部よりも、モスクの前に横たわっていた汚れて疲れ切った犬のほうが気になった。

モスクの前の犬

途中、破壊された車が展示されているのが目に入った。英語の説明文を読むと、2016年に発生たクーデター騒ぎの中で、クーデター側のタンクに抵抗して破壊された車らしい。このクーデターの試みとその結果は「Victory of Democracy」としてエルドアン政権のプロパガンダの格好の材料となっている。

破壊された車

メインストリート上にパトカーや消防車が何台か停まっており、何人もの警官がいる。見上げると、ビルの屋上にひとりの男が立っており、野次馬も集まっている。どうも男が飛び降りを図っているらしい。労働者風の野次馬のひとりが私に向かってドイツ語で「彼は一文無しだ(Er hat keine Geld)」と説明し、「俺も一文無しだ」と続ける。「私もお金がない」とドイツ語で切り返しておいた。ドイツ語をしゃべったこの男はミュンヘンに住んでいたらしい。すぐにその場を離れたので、この騒ぎの顛末がどうなったかは知らない。

アンカラを歩く

明日はバスでカッパドキアに行くつもりだ。観光地に興味がない私としては、カッパドキアを省き、アンカラと最後のイスタンブールでゆっくりと過ごすという選択肢もあった。しかし「トルコまで来てカッパドキアに行かないのはちょっと」という思いのほうが勝った。

行くとなれば、バスのチケットを今日のうちに入手しておいたほうがいいだろう。ホテル近くの地下鉄の駅からバスターミナル(オトガル)のASTiまで行き(昨日来た経路の逆)、いくつかあるバス・カウンターのうちKamitKocという会社を選んで、カッパドキア(正確にはギョレメ)までのチケットを購入した。明朝9時出発で、ギョレメ到着が12時40分。代金は400リラ(1700円ほど)だった。

トルコではホテルの朝食をたっぷり食べるため、昼食を抜く習慣になっていた。この日も、午後遅くにカフェでバナナシェイク(85リラ)を注文するにとどまった。

夕食はホテル近くの大きなショッピング・モールでとった。8時を過ぎており、客が数人にいるだけのフードコードで食べたCecil Peynirliという1品は思いのほかおいしかった。

ガランとしたフードコートで

Cecil Peynirliを食べる


2024年10月20日日曜日

トルコ2024 六、七日目(マルディン)

 9月29日

8時40分にテラスに出て朝食をとる。オーナー兄弟の母親が次から次へと皿を運んでくる。その数に圧倒された。

豪勢な朝食


10時半にホテルを出て、マルディンを探索する。山のふもとに広がる景観はなかなかのものだ。

マルディンの景観(1)


マルディンの景観(2)

歩き疲れ、野外カフェで紅茶とアイスクリームを注文し、一休みする。

カフェで一休み

ANA TALiA Houseが面している石畳の細いストリートも趣がある。

マルディンの裏通り


マルディンには2泊する予定だったが、一日延泊することにした。次の目的地は首都のアンカラに決めた。マルディンからカッパドキアに向かうという選択肢もあるが、マルディンからカッパドキアへの空路直行便はなく、インタンブールかアンカラを経由する必要がある。長時間のバスの旅は最初から選択肢にない。Trip.comでアンカラ行きのフライトを調べたところ、明後日(10月1日)ならAjetの約6800円の格安便がある。明日の便はすべて軽く一万円を超えている。ここはもう一日マルディンに留まるのが賢明だろう。

ケバブのサンドイッチとファンタを持ち帰り、夕食とした。合計120リラ(500円ほど)。ホテルのPOSマシンはまだ修復しておらず、宿代は未払いのまま。

9月30日

POSマシンは今朝になっても直っていない。明日修復されるという補償もないので、いざとうときのためにATMから現金を引き出す必要がある。これはできれば避けたかった。カードがATMマシンに吸い込まれることを恐れていたからだ。そのうえ、マルディンのATMには英語を表示する選択肢がない。

そこで目を付けたのが銀行に隣接するATMだ。銀行に入り、「ATMを使いたいが、英語の表示がないので手助けしてほしい」とお願いする。この願いは聞き入れられ、問題なく3泊の代金6000リラを引き出すことができた。これでPOSマシンの好不調にかかわらず支払いが可能になり一安心。

ここ数年「旅行先で散髪する」が恒例になっているが、物価が予想以上に高いトルコでは躊躇していた。しかし、たっぷり時間もあるところから、小さな理髪店に入り、値段を尋ねる。300リラ(1300円弱)とのこと。日本の千円カットとほぼ同じだ。髪を切って貰うことにした。英語をしゃべる先客の男性(トルコとクルドの混血とのことだった)が値段やカットのやり方を通訳してくれた。散髪の途中で紅茶で小休憩したのがトルコらしい。

理髪店で店主と一緒に


3時にホテルに戻り、一休み。ホテルをチェックアウトしようとしていた若いトルコ人女性3人組のひとりから話しかけられる。

メキシコで出会った生まれも育ちもトルコの日本人青年が「ヒジャブ(ヘッドスカーフ)の被り方や髭ののばし方を見れば、その人の宗教観や政治的傾向をほぼ推測できる」と言っていたのを思い出した。短パンなどの開放的な服装の彼女たち。もちろんヒジャブは着用していない。英語も流暢だ。おそらくキューバで出会ったトルコ人男性(「私は宗教的ではない」と言っていた)と同じような世界観なのだろう。

「sensitiveなtopicだが」と前置きしたうえ、トルコ人とクルド人の関係について尋ねてみた。sensitiveなtopicであることに同意したうえ、彼女は「私たちはトルコ人のクルド人と区別(differentiate)していない。まとまって(unifid)いけばいい」と言う。

夜に外出し、メインストリートの動画を撮る。レストランでPideと呼ばれるトルコ風のパイを注文し、夕食とすた。210リラ(900円ほど)。明日は首都のアンカラに向けて飛ぶ。

メインストリートの夜


Pide