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2025年3月23日日曜日

南半球一周ピースボートの旅(完結編)

 まとめ

96日間に渡る南半球一周のクルーズは3月16日の神戸港への帰港をもって終了した。ナミビアでの転倒と怪我、眼鏡の損傷、あるいは前歯一本の抜け落ちなど、いくつかのアクシデントにも見舞われたが、いずれも旅の続行を妨げるほどのものではなく、無事に神戸まで帰ってくることができた。

さて振り返ってみて、私にとってはじめてのクルーズ旅はどのような体験だったのだろうか。プラスのポイントとマイナスのポイントをいくつかランダムに挙げてみよう。

プラスのポイント

(1)交流。世界一周クルーズは同時に日本を巡る旅でもあった。というのも日々の大半を洋上で過ごすクルーズでは他の乗船客との交流が大きな比重を占める。食事の席などで日本の各地から集まった乗客と話し、それぞれの土地の事情を聞くのは船上生活の大きな楽しみだった。与論島や沖縄の話は特に勉強になった。乗客は日本人だけではない。香港、中国大陸、シンガポール、マレーシア、韓国の人もいれば、少数ではあるが非アジア圏からの乗客もいる。もっぱら英語でコミュニケーションをとることもあり、私が話した相手はシンガポールや香港からの乗客が多かった。香港の人たちが現状に対して抱いている不満と不安が強く印象に残っている。

(2)部屋。私が選択した内側(窓なし)の一人部屋は、日本のビジネスホテル並のクオリティだった。部屋は毎日清掃された。96日の航行中、水回りなどのトラブルは皆無。天井の電灯が切れたことは2回あったが、いずれもすみやかに交換された。心配していた隣室からの騒音も気になるほどではなかった。

一人部屋

(3)食事。何回も乗船している乗客(「リピーター」と称されている)によれば食事の質は以前よりも格段によくなっているとのことだ。船内には2つのレストランに加え、ビュッフェ式の食堂が1つ用意されている。レストランのうち1つは朝食と昼食に和食を、もう1つは洋食を提供する(夕食はどちらも同じメニューの洋食のコース料理)。ビュッフェ式の食堂は朝の5時から夜の12時まで開いており、いつでも腹を満たすことができる。終盤になるとこうした料理にもいささか飽きてきた感があったものの、質量ともに十分で、文句を言う筋合いではない。

朝食(和食)

朝食(洋食)

(4)GETプログラム。GET(Global English Training)とは英語の教育プログラムだ。私はこの有料会員であり、合計18回の個人レッスンを受けることができた(1レッスン40分)。個人レッスン、しかも18回すべて同じ先生ということで、少なからぬ不安があった。先生との相性が悪かったら抜け道はないのだ。しかし私を担当したパキスタン系英国人のZuとは何の問題もなく楽しく会話することができた。30歳という若さながら彼はニーチェやラッセルの話題を抵抗なく受け入れてくれ、私も遠慮することなく心の赴くままにしゃべることができた。もちろんたった18回のレッスンで私の英語力に変化が生じるわけではない。だが久しぶりに英語をしゃべる機会を与えられたことは大きい。

GETの先生たち

マイナスのポイント

(1)若い人との交流。1850人の乗船客中、35歳以下の若い人は3~400人くらいだっただろうか。彼らと交流する機会はほとんどなかった。食事の際も、高齢者と若い人はそれぞれ別のテーブルに案内されるのが恒例で、混じり合うケースは5,6回しかなかった。異なる世代がどのような世界観を持ち、ピースボートをどのように体験しているかを知りたかった私としては残念きわまりない。

(2)寄港地の未消化。リオデジャネイロやブエノスアイレスといった大都会の訪問日がたった1日に限られていたのは残念。1日といっても実際の現地滞在時間は半日ほどだ。特にリオデジャネイロでは観光オプションを選択したため、ほとんどをバスの中で過ごし、リオを訪れたという感覚はほとんどなかった。自分の足で歩き、現地の人々と声を交わしてはじめて、その土地の空気にふれ、その土地を感じることができる。たった半日では短すぎる。できれば現地に1泊するくらいの余裕がほしかった。

(3)オプションの値段。寄港地ではいろいろなオプションが用意されていたが、いずれも高すぎた。しかもほとんどのオプションがすでに満杯であり、選択不可能になっていた。オーバーランド・ツアーは30~70万円くらいに設定されており、私の選択肢にはなかった。コロナ後は世界的にインフレで、円安ということあるから、オプションの値段が高くなるのもやむをえないかもしれないが、港からバスで街に出るだけで7000円もするのはどうだろうか。

まとめのまとめ

はじめての世界一周クルーズをずばり評価すると、ちょっと辛めだが100点満点中70点というところ。ぎりぎり「可」ともいえる。このクルーズを選択したことに悔いはないが、大満足というわけでもない。これには私自身のミスも関与している。特にスペアの眼鏡を用意していなかったことが大きい。適切なオプションを選択しなかったというミスもある。

ピースボートにはリピーターが多い。私の印象では、今回の乗船客のうち半数以上はリピーターだったように思う。さて、私自身、次回のピースボート乗船はあるだろうか。今のところ可能性は低いがゼロではない。これだけのお金を時間を使うなら、もっと別の可能性、選択肢があるように思える。その反面、今回のクルーズで学んだことを生かし、もう一回もっと賢く乗ってみたいという願望も否定しがたい。

船尾から見たピースボートの航行

以上、どっちつかずで煮え切らないが、「南半球一周ピースボートの旅」のブログの完結としたい。

2025年3月16日日曜日

南半球一周ピースボートの旅(その16)

 3月9日

甲板を3周。

夕食は5時から、GETのZu先生を交え、Zuの個人レッスンを受けている7人で一緒にとった。5時から7時まで、英語と日本語を交えてたっぷりしゃべった。

3月10日

今日も甲板を3周。読書が進まない。

3月11日

起床が遅かったこともあり、甲板ウォーキングを断念。今日は自主企画やカルチャースクール(社交ダンスなど)の最終発表が目白押しだった。

3月12日

昨晩時間を1時間戻し、日本との時差は1時間になった。風が強く、今日も甲板ウォーキングを断念した。

入門中文講座の最終回。50回以上はあった講座のうち私は6割くらいは出席しただろうか。

中文講座終了

夕方には船長出席のフェアウェル・パーティーがあり、参加者にシャンパンがふるまわれた。正装の人も多く、最後のダンスはなかなかの盛り上がりだった。私はこの種の盛り上がりには溶け込めない。

フェアウェル・パーティー

3月13日

この日から日本との時差はなくなった。朝早くから甲板を4周。明後日の横浜帰港に備え、今日は荷造デーとなっていた。

これまで何回か寄港地散策を同行したI氏と夕食を共にし、その後I 氏がキープしているウィスキーを一杯ご馳走になった。

この日の読書はゼロだった。

3月14日

悪天候で甲板ウォーキングは不可。若干の読書。

3月15日

午前6時前に横浜に着く。

横浜港到着


横浜での下船は午前中で終了。以後、めっきり人が少なくなった。

3月16日

小雨混じりの曇天。甲板ウォーキングは断念。右舷に本州を望みながら船は進む。

午後2時ごろに神戸港に到着。4時過ぎに下船した。これで96日に渡るクルーズが終わった。全体の感想は次回のブログに記載する。

神戸港



2025年3月9日日曜日

南半球一周ピースボートの旅(その15)

 3月4日

船は早朝にサモアの首都アピアに接岸した。7時前から地元民がダンスで出迎えている様子が甲板から見える。

ダンスでお出迎え

9時過ぎに、モンテビデオ以来行動を共にしているI氏と、さらに私の隣室のIN氏を加えた3人で一緒に下船する。I氏の希望で浜辺に立ち寄ったあと、アピアの中心を目指して歩く。途中、立派な(立派すぎる)教会があったので覗いてみる。

教会

港から町の中心までは徒歩で25分位とのことだったが、20分以上歩いてもそれらしき賑やかな場所は現れない。

アピアはタヒチのパペーテに比べてずっとひなびており、商店やレストランの数も少ない。

アピア


小さなスーパーに立ち寄ったあと、フィッシュ・マーケットに入る。だが、11時過ぎのフィッシュ・マーケットはすでに閑散としていた。

閑散としたフィッシュ・マーケット

ときおり道行く人に尋ねながらレストランを探すがなかなか見つからない。

落ち着いた先がとあるカフェ。残念ながら、ビールをはじめアルコール類は提供していない。私が注文したのはClub Sandwich。ClubをCrabと勘違いし、「蟹サンド」と思い込んで注文してしまったのだ。Club Sandwichはただの3角形の焼きサンドだった。ハムとチーズを挟んだこのサンド、濃厚な味で十分においしかった。サンドとコーラで20米国ドル。

Club Sandwich 

食後しばし町をぶらつく。とある雑貨店に入ると、レジに数人の中国人らしき姿。ブロークンな中国語で話しかける。福建省から来ているとのこと。遠く離れた土地に来て商売を始め、地元に溶け込んでいる中国人たちのバイタリティーに感心する。

雨が降り出してくるなか、バス・ターミナルにたどり着く。ターミナルには大きめのマーケットが隣接しており、野菜や衣服を売っていた。

マーケット

雨足が激しくなってくる。マーケットの向こう側に大きめのスーパーがあったので、雨宿りがてら買い物をする。Vanilla Soyaという飲み物と缶ビールを買って清算しようとすると、21サモア・ドル以上でないとクレジットカードを使用できないとのこと。Oat Chocolateと缶ビールをさらに追加して清算を済ませた(23ドル=1300円ほど)。

雨は小止みになっているが、買い物で荷物が多くなったことから、タクシーで帰ることにした。10ドルの言い値を9ドルにまけさせ(つまり1人3ドルで)、3時半過ぎに帰船した。

船内で4時10分から始まった現地のダンスを鑑賞、サモア寄港を完了した。

サモアのダンス

3月5日

甲板を3周。

昼食時に同席した香港人女性によると、香港からの乗客は91人、中国本土からの乗客は106人とのことだった。

午後2時からGETのスピーチフェスティバル。私も規定の2分間のスピーチを行なったが、出来栄えは今ひとつ、満足からはほど遠かった。

3月6日

神戸まで残るところあと10日。遅く(午前7時ごろ)起きたので甲板のウォーキングは省略。

3月7日

甲板を3周。11時10分から最後のGET個人レッスン。

午後は各種自主企画の発表会だった。ダンスやコーラス、太極拳、太鼓など。すべて素人芸だが、ピースボートならではのイベントだ。

Kポップ・ダンス

中国(チベットのダンス)


3月8日

風が強かったので、甲板ウォーキングは3周にとどめた。

午後はGETプログラムの卒業式とパーティーがあった。GETは私の船上生活の核の1つとなっていた。神戸でのクルーズ終了まですでに1週間を切っている。

GETの先生たち

2025年3月3日月曜日

南半球一周ピースボートの旅(その14)

 2月26日

朝、甲板を4周。船は順調に航行。明日はタヒチだ。

2月27日

船は早朝にタヒチの首都パパーテに着岸した。

パパーテに着岸

朝食時、中国の元外交官と同席になる。この元外交官は怒りのモードだった。怒りの対象はタヒチ当局。中国籍(台湾は別)の乗客だけタヒチ上陸のために特別な手続きが必要になるというのだ。この差別的措置に対しタヒチ当局に抗議しているところであり、タヒチには上陸しないとのこと。

モンテビデオ、プンタアレナスを一緒に回ったI氏と今日も行動を共にする約束だった。

2人で9時に下船する。下船すればすぐそこはタヒチの中心部。

まずマーケット(マルシェ)を覗く。2階建ての小ぎれいなマーケットで、土産物、雑貨、野菜、魚などを売っている。飲食もできるようだ。

マーケット

タヒチの近くのモーレア島へ渡るためにフェリー乗り場へ行くが、行きの便が10時30分、帰りが16時30分と遅くなりそうなので、あきらめてタヒチ島の探索にとどめることにした。あとから考えると、別の会社のフェリーもあったかもしれない。

I氏にとっては3回目のタヒチ。I氏にまかせて歩くこと30分ほど、ある教会にたどり着いた。どんなゆかりの教会かはしらないが、門は閉じていた。

教会の前で

再び町の中心部に戻り、マーケットで食事を購入、2階の食堂で早目の昼食とした。私が購入したのは半なま(mi-cru)のマグロとライス。ビールと併せて2400円ほどだった。タレをつけて食べたマグロはおいしかった。

11時過ぎに昼食

時間をかけて昼食をとったあと、スーパーマーケットまで歩く。I氏はビール、洗剤などのほかマグロの切り身を購入。私が買ったのは大きなパックに入った乳飲料だけ。

生のマグロを冷やす必要から、I氏はいったん船に帰る。船に帰って再び出直すのがめんどうな私はそのまま散策を続ける。

といっても、すでに歩き疲れており、マクドナルドに入ってチョコレート・シェイクを注文、体を休めるだけにとどまった。

船に戻ったのは4時前。船内で行なわれていたポリネシアンの舞踏を見ることもなく、ベッドに横になった。

2月28日

帰国まで2週間を切った。残る寄港地はサモアだけだ。

3月2日

日付変更線を通過したことにより、日付を1日早めた。3月1日を飛び越え、2月28日から3月2日になったわけだ。

今日は「洋上夏まつり」ということで、希望者には浴衣が貸し出された。露店や盆踊りなどの催し物があり、なかなかの賑わいだった。

露店


6時半から始まった盆踊り


3月3日

甲板を4周。GET (英語)関連の3つのイベントに参加する。明日は最後の寄港地、サモアのアピアに到着する。


2025年2月26日水曜日

南半球一周ピースボートの旅(その13)

 2月13日

午前中は天候が悪く、甲板に出られなかった。

2月14日

GETプログラムのレッスンをうっかりして逃してしまった。

2月15日

午後、8階で読書しながら、ピザとビール(アサヒ・スーパードライ)で口をうるおした。ピザは無料だが、ビールは780円(プラス15%のサービス料)。

ピザとビール

2月16日

朝、甲板を4周。日ごとに暖かくなっている。

2月17日

今日も甲板を4周。 昼食後におにぎり1個(無料)。今日も食べ過ぎだ。

2月18日

早朝にイースター島に到着。イースター島には大型船が接岸する設備はない。このため、ピースボートは沖合いに碇泊する。ここに3日間滞在し、この間に乗客を小分けして島に上陸させる。

私の上陸予定日は2日目の19日であり、今日は碇泊している船の中で1日を過ごした。

2月19日

10時半ごろに90名ほどのグループで 沖合いのピースボートからイースター島までピースボート附属の小舟で渡る。こうした小舟をTender Boatというらしい。

小型バスに分乗し、約30分でアフ・トンガリキに立つ15体のモアイ像に到着した。

モアイ像

モアイ像群を一周して写真撮影に時間を割いたあと、さらにバスでモアイの製造現場でもあった岩の切り出し場(ラノ・ララク山)に向かう。

山には、いくつもの立っているモアイ像や横たわっているモアイ像が見られる。その間を観光客が一列に並んで進む。

ラノ・ララク

それほど急坂ではないが、山道の登り降りはやっかいだ。ナミビアで転倒した我が身、特に下り道には注意した。

再びテンダー・ボートでピースボートに戻ったのは午後3時前。14階のビュッフェ式のレストランで遅めの昼食をとった。

モアイ像よりも、転倒することなく無事に観光を終えたことに感慨が深かった。

2月20日

船は今日もイースター島の沖合いにとどまっている。船内でのイベントは皆無で、すでに観光を終えた私たちに何もすることがない。

4時過ぎには乗客の全員がイースター島観光を終了し、船は次の寄港地のタヒチに向けて出航した。出港に先立ち、イースター島を一周するサービスがあった。

イースター島を一周


2月21日

今日から通常の洋上生活に戻る。

2月22日

朝、甲板を4周(約2km)。 

昨夜から上の前歯が1本かすかにぐらつき始めた。旅の終わりまで保てばよいが、むずかしいだろう。

2月23日

今日も甲板を4周。

夕食は14階のビュッフェ式レストランで福井県在住の3人の会食となった。

2月24日

今日も甲板を4周。読書が思うように進まない。

2月25日

甲板を4周。朝食は14階のビュッフェ式で済ます。

昼食時、香港から乗船した女性と一緒になる。中国語の教師を辞してこの船に乗ったという。教室内で思ったことを言えなくなったのも辞職の理由とか。

船は次の寄港地のタヒチを目指して静かに進む。

2025年2月13日木曜日

南半球一周ピースボートの旅(その12)

 2月7日

船は午前7時ごろにプンタアレナスに接岸した。

今日はモンテビデオで一緒だったI氏と行動を共にすることを約束していた。

9時前に2人で船を降り、シャトルバスで町の中心部アルマス広場まで行く。

マゼランの銅像があるアルマス広場から展望台(Cerro de la Crus)まではすぐそこだ。展望台からはプンタアレナスを一望できる。

マゼラン像と一緒に

展望台からプンタアレナスを一望

展望台をあとにして、町を散策する。理髪店が見つかったので「現地での散髪」を実行することに。17ドルと、旅行先での散髪の代金としてはこれまでの最高の値段だが、船内でカットするのに比べれば格段に安い。

チリで髪を切る

行こうとした博物館が閉まっていたことなどもあり、プンタアレナスを歩きまわるにした。船上生活の余波か、地上を歩いているときにも足がふらつく。

1時過ぎにレストランに入る。見かけは小さなレストランだが、奥行きがあり、2階に上がることもでき、大勢の客でにぎわっていた。観光客は我々2人だけで、あとはすべて地元の客だ。

店員とのままならぬコミュニケーションに苦労しながらも、なんとかサーモンをメインディッシュとするコース料理とビールを注文する。

サーモンはおいしかったが、なにぶんにも量が多く、やっとの思いで最後まで食べきった。

サーモンで昼食

食後さらに歩いて町を探訪。5時前にシャトルバスで帰船した。

2万歩以上歩いてへとへとになりながらも、道行く人やレストランの店員の親切さに触れ、チリでの1日目を好印象で終えることができた。

2月8日

ツアーもあと1ヶ月を残すだけ。旅の後半に入った。夕食のレストランをこれまでの6階から5階に変更する。

2月9日

今日はめずらしく朝から雨模様。甲板でのウォーキングはとりやめ。

夜8時から「国際問題を英語で話す」というイベントがあり参加。GETプログラムのSaraが主催するイベントで、日本人3人、香港のカップル、台湾人1人が参加した。

2月10日

朝から雨模様で、揺れが激しい。早朝に5階に漏水があり、船のスタッフ全員で対処していた。各部屋のクリーニングは中止ということだったが、私の部屋は掃除されていた。

午後になって、雨は止み、日差しがさしてきたが、波はまだ高かった。

2月11日

晴れ。久しぶりに甲板を3周する(1.5km)。

昼食時、ハーフらしき風貌の若い女性と同席になる。「大学生か」と尋ねると、なんと中学生とのこと。米国(シアトル)生まれの米国育ち、パスポートも米国だが、日本のおばあさんと一緒に乗船しているという。

夕食は日本訪問歴16回、演歌大好きの45歳の台湾人と一緒だった。

2月12日

船は7時前にチリ第2の都市、バルパライソに着岸した。

バルパライソ着岸

今日は終日ひとりで行動するつもりだ。

9時半ごろに下船し、シャトルバスと電車を使ってソトマヨール広場まで出る。ここはバルパライソの中心部で、エレベーター(アサンソール)を使えば、街を一望する丘に登ることができる。

電車を降りてうろうろしていると、「ツーリストか」とスペイン語で尋ねてくる男性がいる。5~60歳代か。柔和で、人の良さそうな男性だ。

「アサンソールを探している」と言うと、「一緒に行こう」と案内してくれる。

あとでチップをねだられるのではないか、どこか怪しげな場所に連れて行かれるのではないかという疑念が頭をよぎるが、そのまま男性についていく。

杞憂だった。5分余りでアサンソールに到着し 笑顔で別れた。3台あるアサンソールのうちメインとなるアサンソール・コンセプシオンだ。

この丘は眺望がすばらしいだけではなく、家々にはさまざまな壁画が描かれ、全体がストリート・アートを形成している。

数多い観光客のなか、ピースボートとおぼしき人たちもかなり見かけた。

丘の上を歩く

丘から下りるときにはアサンソールを使わず、坂道をたどった。下へ下へと歩いているうち、気づけば平地にたどりついていたというほうが正確だろう。

時刻は1時近くなっている。レストランを探して中心街からちょっと離れた方向に足を踏み出すと、近くのレストランで呼び込みをしていた女性が私を追いかけてくる。

女性は両手でバツ印をつくり、「danger」という単語を口にする。この先は危険なエリアだという意味だろう。忠告したがって引き返した。

そして選んだのが、ちょっと大きめのレストラン。地元の客で賑わっている。

英語のメニューはなく、ウェイトレスはスペイン語の一点張り。なんとかビーフとビールを注文した。

予想した通り、ボリュームたっぷりの料理が出てきた。付け合わせのポテト・フライの量が半端ない。肉は硬かった。ナイフでカットするのが容易でない。こんなことなら、魚か鶏肉を注文しておけばよかった。料金は2400円ほど。

あとでグーグルマップで調べると、かなり評判のよいレストランで、きびきび働く店員たちも感じがよかった。ただ肝心の肉が硬かったことから、私の評価は60点といったところ。

このレストランで

この料理

食後、スーパーで乳飲料やお菓子を購入し、電車とシャトルバスを使って4時過ぎに帰船した。揺れる船での生活の余波か、陸地でも足がふらついた。さすがに疲れた。次の寄港地のイースター島まで5日間の洋上生活が続く。

2025年2月7日金曜日

南半球一周ピースボートの旅(その11)

 1月29日

今日は旧正月(春節)。関連するイベントがいくつかあった。ユンノリや書道などの文化体験コーナーに加え、春節ファッションショーも催された。春節の雰囲気を垣間見られたことをよしとしよう。

春節ファッションショー


1月30日

南極航行が近づいていることから、そのためのオリエンテーションが開かれた。このオリエンテーションは全員参加が建前で、洋上にゴミやその他の物体を放棄しないことなど、南極航行時の注意事項が伝えられた。

14階のビュッフェで夕食をとる。隣のテーブルに座ったネパール人女性と小一時間しゃべった。沖縄の米軍基地で働く31歳の彼女から多くのことを学んだ。ネパールのパスポートでこの南半球一周クルーズに参加するには6カ国の入国ビザが必要なこと。ビザ入手はそう簡単ではなく、大使館ないし領事館での面接の後、何か月も待たなければならないことなど。

1月31日

今日はウシュアイアに寄港する。ウシュアイアは「地球最南端の町」、「世界の果て(fin del mundo)」とも称されてるアルゼンチン南部の町で、南極クルーズの出発点ともなっている。

ウシュアイア到着

ウシュアイアには午前7前に接岸し、8時過ぎには上陸できた。今日は何のオプションもとっておらず、帰船リミットの午後7時まで自由に行動できる。

船を出てちょっと歩くと、多くのツアーのブースが待ち構えている。そのうちの1つでペンギン島(正式な島の名前は失念した)を訪れるツアーに申し込んだ。ツアーは定員16人。参加者は全員ピースボートの乗客で、日本人10人とマカオから来た中国人6人。

ツアーは10時に出発。1時間半ほどのバス・ドライブのあと、小型のエンジン付きゴムボートに乗り込んでペンギン島に近づく。

ボートは島から2、3メートル離れた場所に停泊。

約6000匹のペンギンが生息する島の光景は圧巻だった。なすこともなく立っているペンギンたち。ときおり泳いで船に近寄ってくるペンギンもいれば、ヨチヨチと歩き始めるペンギンもいる。

ペンギン島


ペンギン

ペンギンの動画

30分余りの写真タイムのあと、ボートは引き返す。パタゴニアの山々の写真を撮ったりしながら、町の中心部、港の近くに帰ってきたときには3時近くになっていた。代金140米国ドルとちょっと高めのツアーだが、まずは満足できる内容だった。

パタゴニアの山々

遅めの昼食のためのレストランを探してメインストリートを歩いていると、あるレストランの中から私を呼ぶ声がする。ピースボートに乗船している同県人のI氏だ。I氏は別の1人と一緒に昼食中だった。

私もこの席に加わることにする。注文したのは、トルティーヤ(スペイン風オムレツ)と白ワイン。アルゼンチンまで来てスペイン料理を注文するのも芸のない話だ。まだ食べていない牛肉のステーキを試すのが筋だろう。しかし、I氏が頼んだステーキを見て躊躇した。圧倒的なボリューム。とうてい私には食べ切れない。

トルティーヤと白ワイン

食後、スーパーで370円のカートン入りの極安赤ワインを購入し、午後6時過ぎに帰船した。

2月1日

昨日買ってきた赤ワインを朝からグラス一杯飲む。ふだん飲んでいないからこれだけでほろ酔い気分。安ワインだが、これで十分だ。特に何事もなく一日を終える。

2月2日

昨夜8時から南極圏に入ったようだ。朝の海水は摂氏2度。薄手のセーターを着込んだ。

午後1時ごろから大きな氷山が姿を現し始めた。鯨も見られたようだが、私は目撃できなかった。

氷山


2月3日

南極圏航行2日目。一段と寒くなった。甲板での朝のウォーキングはせいぜい一周が限度。freezingという形容がぴったりの寒さだ。

鯨も何頭か姿を現しているが、遠くにかろうじて見える程度。

昼過ぎになると寒さもだいぶやわらいだ。

甲板から海を見る


1時過ぎには船内成人式があった。24歳までの「新成人」を南極で祝う催しだ。

成人式


2月4日

午前中に南極圏を抜け、南極航行は終了した。が、甲板はまだ寒いうえ、船の揺れもあり、歩くのはむずかしい。

午後になって船内は南極航以前の日常を取り戻した。

2月5日

朝、波が荒く、船が揺れる。甲板へ出るのは禁じられた。

午後になると、波も穏やかになり、甲板へ出ることも可能になった。

2月6日

寒さはだいぶゆるんだ。朝、久しぶりに甲板を4周(2km強)。

今日は何のイベントにも参加しなかった。そのためか、読書が若干はかどる。

明日はチリのプンタアレナスに上陸する。