10月4日。
7時半すぎにホテルでビュフェ式の朝食をとる。五つ星ホテルだけあって申し分のない内容。食べ過ぎてしまった。
Abdullaは9時に迎えに来た。昨日見損なった野外民族博物館へ行くためだ。空は快晴、すがすがしい。博物館があるUrus-Martanへの1時間余り、快適なドライブが続く。グロズヌイの街とその郊外は予想したよりずっと整然としている。少なくとも表面上は戦火の痕跡はまったく覗えない。車内に流れているチェチェンの美人歌手Makka Sagaipova(Макка Cагаипова)の歌が心地いい。
野外民族博物館に着く。Dondi-yurt(本名はAdamというらしい)なる好学の士が2008年に開設した私営の博物館だ。Dondiの妻が我々を迎えてくれたのち、Dondiの説明で見て回る。 妻とAbdullaの会話はロシア語だったが、Dondiの説明がチェチェン語かロシア語か判別しにくい。チェチェン語にもロシア語の単語が多く混入しているせいだろう。いずれにしても説明はAbdullaが英語に通訳してくれた。
野外博物館は化石の陳列から始まり、広い野外の敷地に昔の農家や農機具、衣装などが展示されているが、あまり系統だったものではなく、アトランダムな印象を受けた。
最後にDondiと一緒に記念写真を撮り、記念帳に日本語で若干の感想を記しておいた。別れ際、Dondiが「地震や津波の被害を受けて苦しんだ日本からの訪問者を迎えることができてうれしい」と言う。「チェチェンも戦争でひどい目にあったではないか」と返すと、「そうだからこそ、親近感がある」とのことだった。
グロズヌイに戻り、プーチン大通りにあるCentral Parkというカフェで昼食をとる。朝食をたっぷりとったおかげで、空腹感はほとんどない。スープとパンだけで済ませた。私たちと背中合わせのテーブルで4人連れの若い女性が食事をしていた。彼女たちが店を出るとき、うちのひとりが私のほうに近づき、「写真を撮らせてほしい」と言う。もちろん許可する。この女性だ。
グロズヌイには若干の中国人が商売のために滞在している。だから東洋人を初めて見るというわけではないだろうが、Abdullaによれば私は中国人には見えないという。若い女性から写真を所望されることなどそうそうあるものではないから、これはうれしかった。
食後、カフェからほど近くにあるチェチェン国立美術館に徒歩で向かう。2時からAbdullaの知人の個展の開幕式が行われるというのだ。2時前に会場に着き、40点余りの作品を見て回る。グロズヌイの過去を描いた作品。グロズヌイの未来を想像した作品。過去と未来がファンタジーで結ばれる。いい絵だ。画家の姓は忘れてしまったが、名前はジンギスハーンだった。Abdullaによればジンギスハーンはチェチェンによくある名だという。
開幕式では女性の司会者がロシア語でジンギスハーンとその作品を紹介し、数人が祝辞を述べた。そのあとジンギスハーンが展示されている個々の作品を解説して回る。参列者は5~60人といったところ。ロシアとの戦争、それに続く強権政治、経済的な困難。苦しみが絶えることのないチェチェンで小規模ながらこうした文化的活動が営まれていることに感動する。こうした活動の積み重ねがチェチェンの未来につながればいいのだが。
チェチェンのダンスを見たいという私の希望から、リハーサルをやっていそうな場所をいくつか訪れたが、明日はチェチェン共和国の建国199年周年という特別な日ということもあり、見学はかなわなかった。
プーチン大通りから少しはずれたところにある市場を見て回る。喧噪がうずまくアジアの市場とはひと味違い、ずっと落ち着いている。悪く言えば、活気がない。中国人の店もあった。ハルビンからやって来たとのことだった。
日が暮れかかるころ、Abdullaの叔父が経営する語学学校だという小さなビルを訪れる。ここで米国在住のチェチェン人女性と茶を飲みながら小一時間話す。数ヶ月の予定でチェチェンに帰省しているところという。30~40代とおぼしきこの女性は生まれも育ちもモスクワだが、戦争が始まる2年前の1994年にグロズヌイに戻ってきたとのこと。現在は米国のシアトルに住み、金融関係の仕事をしているらしい。米国在住で米国の市民権も取得しているにもかかわらず、彼女の英語はほぼ完璧な英国なまりだった。
話題は沖縄(彼女は長寿の沖縄を訪れたいとのことだった)から北朝鮮(私のいくつかのビデオを見せる)、米国の政治、そしてなぜかネパールに及ぶ。彼女は共和党ではないが、移民政策については共和党に同調していた。自分自身が移民であるにもかかわらず。米国社会を支えている暗黙の了解や規範が移民たちによって崩されてしまうというのがその理由だった。
今日の観光の締めくくりは、グロズヌイから車で30分ほどのArgun市にある「ハイテク・モスク」の見学だった。モスクのまわりはグロズヌイ・シティと同様にネオンきらびやかなビルが林立している。ここでもAbdullaは祈りを捧げる。その間私はモスク内部のビデオ撮影。
グロズヌイに戻り、SteakHouseで夕食。先ほどの米国在住の女性のお勧めということだった。せっかくのステーキハウスだが、夕食も簡単に済ませた。腹が減っていなかったせいもあるが、昨日渡した2390ドルの中でやりくりしている食事だから、あまり値のはるものは頼みにくい。
明日はチェチェンの建国199年周年の記念日であり、いろいろな行事があるらしい。おかげでGrozny City Hotelのまわりは交通規制されており、車を乗り入れることができない。近くに車を停め、徒歩でホテルに帰った。
せっかくの建国記念日だが、私たちは明日ダゲスタンとの国境近くの湖まで行き、そこで1泊する。このために特別に雇った運転手が朝8時に迎えに来るとのことだ。
7時半すぎにホテルでビュフェ式の朝食をとる。五つ星ホテルだけあって申し分のない内容。食べ過ぎてしまった。
Abdullaは9時に迎えに来た。昨日見損なった野外民族博物館へ行くためだ。空は快晴、すがすがしい。博物館があるUrus-Martanへの1時間余り、快適なドライブが続く。グロズヌイの街とその郊外は予想したよりずっと整然としている。少なくとも表面上は戦火の痕跡はまったく覗えない。車内に流れているチェチェンの美人歌手Makka Sagaipova(Макка Cагаипова)の歌が心地いい。
グロズヌイをドライブ
野外民族博物館に着く。Dondi-yurt(本名はAdamというらしい)なる好学の士が2008年に開設した私営の博物館だ。Dondiの妻が我々を迎えてくれたのち、Dondiの説明で見て回る。 妻とAbdullaの会話はロシア語だったが、Dondiの説明がチェチェン語かロシア語か判別しにくい。チェチェン語にもロシア語の単語が多く混入しているせいだろう。いずれにしても説明はAbdullaが英語に通訳してくれた。
野外博物館は化石の陳列から始まり、広い野外の敷地に昔の農家や農機具、衣装などが展示されているが、あまり系統だったものではなく、アトランダムな印象を受けた。
最後にDondiと一緒に記念写真を撮り、記念帳に日本語で若干の感想を記しておいた。別れ際、Dondiが「地震や津波の被害を受けて苦しんだ日本からの訪問者を迎えることができてうれしい」と言う。「チェチェンも戦争でひどい目にあったではないか」と返すと、「そうだからこそ、親近感がある」とのことだった。
野外博物館
博物館のオーナーと一緒に
グロズヌイに戻り、プーチン大通りにあるCentral Parkというカフェで昼食をとる。朝食をたっぷりとったおかげで、空腹感はほとんどない。スープとパンだけで済ませた。私たちと背中合わせのテーブルで4人連れの若い女性が食事をしていた。彼女たちが店を出るとき、うちのひとりが私のほうに近づき、「写真を撮らせてほしい」と言う。もちろん許可する。この女性だ。
写真を所望される
グロズヌイには若干の中国人が商売のために滞在している。だから東洋人を初めて見るというわけではないだろうが、Abdullaによれば私は中国人には見えないという。若い女性から写真を所望されることなどそうそうあるものではないから、これはうれしかった。
食後、カフェからほど近くにあるチェチェン国立美術館に徒歩で向かう。2時からAbdullaの知人の個展の開幕式が行われるというのだ。2時前に会場に着き、40点余りの作品を見て回る。グロズヌイの過去を描いた作品。グロズヌイの未来を想像した作品。過去と未来がファンタジーで結ばれる。いい絵だ。画家の姓は忘れてしまったが、名前はジンギスハーンだった。Abdullaによればジンギスハーンはチェチェンによくある名だという。
ジンギスハーンの絵(その1)- 車の購入が難しかったソ連時代
ジンギスハーンの絵(その2)- 過去のグロズヌイ
開幕式では女性の司会者がロシア語でジンギスハーンとその作品を紹介し、数人が祝辞を述べた。そのあとジンギスハーンが展示されている個々の作品を解説して回る。参列者は5~60人といったところ。ロシアとの戦争、それに続く強権政治、経済的な困難。苦しみが絶えることのないチェチェンで小規模ながらこうした文化的活動が営まれていることに感動する。こうした活動の積み重ねがチェチェンの未来につながればいいのだが。
チェチェンのダンスを見たいという私の希望から、リハーサルをやっていそうな場所をいくつか訪れたが、明日はチェチェン共和国の建国199年周年という特別な日ということもあり、見学はかなわなかった。
プーチン大通りから少しはずれたところにある市場を見て回る。喧噪がうずまくアジアの市場とはひと味違い、ずっと落ち着いている。悪く言えば、活気がない。中国人の店もあった。ハルビンからやって来たとのことだった。
グロズヌイの市場
話題は沖縄(彼女は長寿の沖縄を訪れたいとのことだった)から北朝鮮(私のいくつかのビデオを見せる)、米国の政治、そしてなぜかネパールに及ぶ。彼女は共和党ではないが、移民政策については共和党に同調していた。自分自身が移民であるにもかかわらず。米国社会を支えている暗黙の了解や規範が移民たちによって崩されてしまうというのがその理由だった。
今日の観光の締めくくりは、グロズヌイから車で30分ほどのArgun市にある「ハイテク・モスク」の見学だった。モスクのまわりはグロズヌイ・シティと同様にネオンきらびやかなビルが林立している。ここでもAbdullaは祈りを捧げる。その間私はモスク内部のビデオ撮影。
ハイテク・モスク(カディロフ大統領の母親の名を冠している)
グロズヌイに戻り、SteakHouseで夕食。先ほどの米国在住の女性のお勧めということだった。せっかくのステーキハウスだが、夕食も簡単に済ませた。腹が減っていなかったせいもあるが、昨日渡した2390ドルの中でやりくりしている食事だから、あまり値のはるものは頼みにくい。
明日はチェチェンの建国199年周年の記念日であり、いろいろな行事があるらしい。おかげでGrozny City Hotelのまわりは交通規制されており、車を乗り入れることができない。近くに車を停め、徒歩でホテルに帰った。
せっかくの建国記念日だが、私たちは明日ダゲスタンとの国境近くの湖まで行き、そこで1泊する。このために特別に雇った運転手が朝8時に迎えに来るとのことだ。
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