10月6日。
Kezenoy Hotelの朝食はGrozny City Hotelに比べればかなり質素だが、ビュフェ式だから量は問題ない。
今日はダゲスタンの村を訪れることになっている。だが、ダゲスタンに向かう前にAbdullaに案内されたのはホテルにほど近い廃墟。1944年の中央アジアへの強制移住の際に取り壊された跡だという。チェチェン政府はKezenoy湖やこの廃墟をひっくるめてここを観光の目玉としたいらしい。しかし、グロズヌイからここまで来るのは並大抵ではなかった。深い谷底を見下ろす山道をガタガタ揺られながらのスリル満点のドライブだった。「観光のためにはちゃんとした道路が必要なのでは」とAbdullaに言うと、「滝を見るために険しい道を通ってきたが、グロズヌイからここまではすでに舗装された道が通じている」とのことだった。といっても、多くの観光客を呼び込むにはまだまだ時間がかかりそうだ。実際、夕食や朝食時に見かけた私たち以外のホテル客はせいぜい5~6人だった。
廃墟をあとにして荒野を走行することおよそ1時間半、運転手が私に目をつぶれと言う。目をつぶる。「まだ開けるな」。2、3分して「さあ目を開けろ」。目を開けると、はるか下方の谷間に家々が見える。「あれがダゲスタンだ。」
チェチェンもダゲスタンもロシア連邦内の共和国だが、国境には誰もおらず、したがって何のコントロールもない。そもそもどれが国境なのか判然としない。
ダゲスタンは民族的に細分化されており、36もの異なる言語がしゃべられているという。共通語としてのロシア語が不可欠な所以だ。
村の細い道を通り抜けたジープはまず、Urbechと呼ばれる亜麻の種のバター(flax butter)をつくっている小屋に向かう。水車を動力として石臼を回転させ、亜麻の種とひまわりの種から黒いバター状の食品をつくり出す。運転手が仕組みを説明してAbdullaが英語に訳す。スプーンで試食してみた。甘くておいしい。パンに付けて食べるほか、デザートにもなりそうだ。
小屋を去ろうとするとき、男が瓶に入れたUrbechを私に手渡す。土産に持って行けということらしい。だが、私は機内持ち込みのバックパックだけでここまで来ている。この半液体状の瓶を日本まで持ち帰ることはかなわない。瓶はAbdullaが受け取った。せっかくのユニークな土産物をあきらめるしかないのが残念だった。
今日は金曜日だ。モスクではFriday Prayer(金曜礼拝)が行われる。Abdullaが1時から2時までのこの礼拝に参列する間、私はひとりで村の中を散策した。もともと人口が少ないためか、礼拝のためか、ほとんど人に出会わない。村の外れで三々五々に下校する子供たちに出会ったくらい。ちょっと驚いたのは、村の至る所で放し飼いされている牛を見かけたことだ。
2時前にモスクの前に戻ると、礼拝はすでに終わっており、Abdullaが5~6人の村の男たちと話していた。男たちが言うには、もし私がひとりでこの村をさまよっていたら、必ず誰か宿を提供してくれる者が現れるとのこと。私を宿泊させることはその家にとっての名誉だとも。
さっそく昼食に招待される。レストランなどありそうにない村なのでありがたい。出されたのはクレープのようなパンのような、グロズヌイ初日に夜にレストランで食べたのに似ている。ダゲスタン特産のUrbechを塗って食べるとおいしい。さらにスイカ、リンゴ、お菓子、ナッツ、お茶。
家の主人、Abdulla、運転手が何か熱く語っている。Abdullaに「政治について話しているのか」と訊くと、そうではなく話題は格闘技だった。確か大相撲の露鵬は北オセチア出身だったはずだ。そのことを指摘すると、彼らもちゃんと知っていた。
食後、Urbechとよく似た食品をつくっている作業場を訪れた。Urbechとの違いはよくわからなった。Abdullaはこの食品を2瓶購入した。ところが、作業場の主任らしき男は代金を受け取らない。Abdullaもかなり執拗にお金を受け取ってもらうように頼んでいたが、結局2瓶を無償で譲ってもらうことになった。ダゲスタンといえば、テロが頻発し、イスラム国(IS)にも多数の「兵士」を送り出していることから、危険な北コーカサスでも最も危ない国とみなされている。そのダゲスタンの村で見かけたのは「危険」からほど遠い底抜けの「おもてなし」の光景だった。
ダゲスタンの村をもう1つ訪問する予定だったが、昼食に時間をとったこともあり、すでに3時を過ぎている。ここできりをつけてグロズヌイに引き返すことになった。
行きとは異なり帰りは舗装されスムーズな道だったが、2、3箇所立ち寄ったこともあり、グロズヌイに着いたのは8時近くだった。
Grozny City Hotelの近くのビジネス・センターの最上階に登り、グロズヌイの夜景を見る。複雑な事情や問題はともかく、10年前まで紛争のただ中にあったチェチェンのこの光景はある種の感動を誘う。帰りのエレベーターの中で、チェチェンの若者4、5人に請われて、肩を組んで写真を撮る。
夕食はプーチン大通りのピザ・レストランで済ませ(ピザ・レストランだが、メニューには寿司もあった)、チェチェン滞在中もっとも印象に残る1日を終えた。明日は14時30分の飛行機でモスクワに戻る。
Kezenoy Hotelの朝食はGrozny City Hotelに比べればかなり質素だが、ビュフェ式だから量は問題ない。
今日はダゲスタンの村を訪れることになっている。だが、ダゲスタンに向かう前にAbdullaに案内されたのはホテルにほど近い廃墟。1944年の中央アジアへの強制移住の際に取り壊された跡だという。チェチェン政府はKezenoy湖やこの廃墟をひっくるめてここを観光の目玉としたいらしい。しかし、グロズヌイからここまで来るのは並大抵ではなかった。深い谷底を見下ろす山道をガタガタ揺られながらのスリル満点のドライブだった。「観光のためにはちゃんとした道路が必要なのでは」とAbdullaに言うと、「滝を見るために険しい道を通ってきたが、グロズヌイからここまではすでに舗装された道が通じている」とのことだった。といっても、多くの観光客を呼び込むにはまだまだ時間がかかりそうだ。実際、夕食や朝食時に見かけた私たち以外のホテル客はせいぜい5~6人だった。
廃墟
廃墟をあとにして荒野を走行することおよそ1時間半、運転手が私に目をつぶれと言う。目をつぶる。「まだ開けるな」。2、3分して「さあ目を開けろ」。目を開けると、はるか下方の谷間に家々が見える。「あれがダゲスタンだ。」
ダゲスタンを見下ろす絶景
チェチェンもダゲスタンもロシア連邦内の共和国だが、国境には誰もおらず、したがって何のコントロールもない。そもそもどれが国境なのか判然としない。
ダゲスタンは民族的に細分化されており、36もの異なる言語がしゃべられているという。共通語としてのロシア語が不可欠な所以だ。
ダゲスタンの村に入る
村の細い道を通り抜けたジープはまず、Urbechと呼ばれる亜麻の種のバター(flax butter)をつくっている小屋に向かう。水車を動力として石臼を回転させ、亜麻の種とひまわりの種から黒いバター状の食品をつくり出す。運転手が仕組みを説明してAbdullaが英語に訳す。スプーンで試食してみた。甘くておいしい。パンに付けて食べるほか、デザートにもなりそうだ。
Urbech(亜麻の種のバター)をつくる
小屋を去ろうとするとき、男が瓶に入れたUrbechを私に手渡す。土産に持って行けということらしい。だが、私は機内持ち込みのバックパックだけでここまで来ている。この半液体状の瓶を日本まで持ち帰ることはかなわない。瓶はAbdullaが受け取った。せっかくのユニークな土産物をあきらめるしかないのが残念だった。
今日は金曜日だ。モスクではFriday Prayer(金曜礼拝)が行われる。Abdullaが1時から2時までのこの礼拝に参列する間、私はひとりで村の中を散策した。もともと人口が少ないためか、礼拝のためか、ほとんど人に出会わない。村の外れで三々五々に下校する子供たちに出会ったくらい。ちょっと驚いたのは、村の至る所で放し飼いされている牛を見かけたことだ。
子供たち
母子
2時前にモスクの前に戻ると、礼拝はすでに終わっており、Abdullaが5~6人の村の男たちと話していた。男たちが言うには、もし私がひとりでこの村をさまよっていたら、必ず誰か宿を提供してくれる者が現れるとのこと。私を宿泊させることはその家にとっての名誉だとも。
さっそく昼食に招待される。レストランなどありそうにない村なのでありがたい。出されたのはクレープのようなパンのような、グロズヌイ初日に夜にレストランで食べたのに似ている。ダゲスタン特産のUrbechを塗って食べるとおいしい。さらにスイカ、リンゴ、お菓子、ナッツ、お茶。
昼食に招かれる
家の主人、Abdulla、運転手が何か熱く語っている。Abdullaに「政治について話しているのか」と訊くと、そうではなく話題は格闘技だった。確か大相撲の露鵬は北オセチア出身だったはずだ。そのことを指摘すると、彼らもちゃんと知っていた。
食後、Urbechとよく似た食品をつくっている作業場を訪れた。Urbechとの違いはよくわからなった。Abdullaはこの食品を2瓶購入した。ところが、作業場の主任らしき男は代金を受け取らない。Abdullaもかなり執拗にお金を受け取ってもらうように頼んでいたが、結局2瓶を無償で譲ってもらうことになった。ダゲスタンといえば、テロが頻発し、イスラム国(IS)にも多数の「兵士」を送り出していることから、危険な北コーカサスでも最も危ない国とみなされている。そのダゲスタンの村で見かけたのは「危険」からほど遠い底抜けの「おもてなし」の光景だった。
運転手、作業場の主任、Abdulla、私
ダゲスタンの村をもう1つ訪問する予定だったが、昼食に時間をとったこともあり、すでに3時を過ぎている。ここできりをつけてグロズヌイに引き返すことになった。
行きとは異なり帰りは舗装されスムーズな道だったが、2、3箇所立ち寄ったこともあり、グロズヌイに着いたのは8時近くだった。
Grozny City Hotelの近くのビジネス・センターの最上階に登り、グロズヌイの夜景を見る。複雑な事情や問題はともかく、10年前まで紛争のただ中にあったチェチェンのこの光景はある種の感動を誘う。帰りのエレベーターの中で、チェチェンの若者4、5人に請われて、肩を組んで写真を撮る。
グロズヌイの夜景
夕食はプーチン大通りのピザ・レストランで済ませ(ピザ・レストランだが、メニューには寿司もあった)、チェチェン滞在中もっとも印象に残る1日を終えた。明日は14時30分の飛行機でモスクワに戻る。
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