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2018年6月8日金曜日

インドネシア・パプア州2018 一日目(バリ島到着)

5月25日

インドネシアへの旅を思い立ったのは、東南アジアの主要国で足を踏み入れていない唯一の国だったからだ。リゾートとして賑わうバリ島は避け、ジャカルタを起点とする旅をまず考えた。しかし、ちょうとこの時期がラマダンと重なることを知った。ラマダンを経験するのもおもしろいかもしれないが、なにぶんにもはじめてのインドネシアだ。できればラマダンに影響されない場所に行きたい。

そこでニューギニア島のパプア州が浮かんだ。パプアの住民の大半はキリスト教徒だという。パプアは相対的に観光客も少なく、今でもコテカ(ペニスガード)を着用している人もいるらしい。まさに「辺境へ」にふさわしい場所だ。ニューギニア高地に位置するワメナという人口3万ほどの町にねらいを定めた。

問題はアクセス。ワメナまで陸路で行くことはできない。パプア州の州都であるジャヤプラから飛行機を利用するしかない。まず関空からバリ島へ、さらにバリ島からジャヤプラへ、そしてジャヤプラからワメナへと、飛行機を3回乗り継ぐ必要がある。

関空からバリ島のデンパサール空港まではガルーダ航空の直行便で行くことにした。エアアジアやマレーシア航空、シンガポール航空を使えばもっと安く行けるが、今回はバリ島からさらに飛行機を2つ乗り継ぐ必要があることから、少々高くついても経由便は避けたかった。デンパサールからジャヤプラへの往復もガルーダ航空の便をオンラインで予約した。ジャヤプラからワメナまでは日程もはっきり決めていなかったので、ジャヤプラで航空券を購入することにした(そもそもオンラインでは予約できない可能性が高かった)。

5月25日、10時50分発のガルーダ航空機は17時半ごろにデンパサール国際空港に着く。ジャヤプラ行きの国内便は翌日26日の午前1時25分発だから、8時間ほどの待ち時間がある。空港に荷物を預けて(50Kルピア=390円)、町へ出ることにする。

バリ島にはこれといった中心がなく、リゾートが島のところどころに散在している。とりあえず空港から一番近いクタという地域に出てみよう。ガイドブックによれば、クタは「商魂渦巻く...無国籍な」町で、「世界各地からの旅行者たちでにぎわっている」とある。数時間滞在するだけだから、リゾートの賑わいを見るのもいいだろう。空港で声を掛けてきたタクシーに乗って20分足らず、クタに着いたのは夕方の6時ごろだった。

空港で両替した5千円に加え、両替所でさらに5万円を両替してから、メイン通りのジャラン・レギャンを歩く。欧米の観光客にはちらほら遭遇するものの、「世界各地からの旅行者たちでにぎわっている」といった感じではない。これはたまたまそうだったのかもしれない。海辺まで出かけていれば、あるいは時間帯が異なれば、また違った印象を受けていたかもしれない。ヒンドゥー教の寺院がバリ島らしい。

ヒンドゥー教の寺院

安食堂に入って夕食をとることにした。さすがバリ島、安食堂のおばさんでも英語で会話できる。注文したのはライスにさまざまな総菜をのせた一品(スープ付き)。30Kルピア(およそ220円)。「spicyにするかnot spaicyにするか」と尋ねられたので、not spicyとリクエストしたが、結構な辛さだった。インドネシアではじめて食べた夕食は正直なところあまりおいしくなかった。

夕食(ナシチャンプルというのだろうか)

8時を過ぎると、あたりは真っ暗になった。空港に戻ることにする。帰りのタクシーは90Kだったが、100Kを支払った(相場は70Kくらいだろうか)。

預けていた荷物を受け取り、歩いて10分ほどのDomestic airportに移動する。この国内空港はきれいだが、お茶を飲ませる店もない。ベンチに寝転びながら、午前1時25分発のジャヤプラ行きのガルーダ機を待つ。いよいよパプアへの旅が始まる。

デンパサール国内空港のデコレーション
 

2018年5月21日月曜日

J.P Manchetteの2作品

J.P Manchette: La position du tireur couché
2018年4月23日読了
著者:Jean-Patrick Manchette
刊行:1981年
評価:★★★







J.P Manchette: Le petit bleu la côte Ouest
2018年5月21日読了
著者:Jean-Patrick Manchette
刊行:1976年
評価:★★★







手元にJean-Patrick ManchetteのLivre de Poche(文庫本)が4冊ある。7、8年前にパリで購入したものだ。どうして彼の本を4冊も購入したのか。今となってはまったく思い出せない。おそらくどこかの書評を読んで興味を引かれたのだろう。買ったのはよいが、何年間もずっと積ん読状態だった。

今回まずLa position du tireur couchéを取り出して読んでみた。1冊だけで評価するのも性急と思い、続いてLe petit bleu la côte Ouestを手に取った。前者は「眠りなき狙撃者」、後者は「殺しの挽歌」というタイトルで邦訳されている。いずれも原題に忠実なタイトルではない(原題に忠実なタイトルにするのはむずかしい)。

Manchetteはハードボイルド作家ということだ。しかしこの2作に関する限り、私がイメージするようなハードボイルドではない。La position du tireur couchéの主人公は殺し屋、Le petit bleu la côte Ouestの主人公はビジネスマンだが、冷徹でもクールでもなく、どこか滑稽感が漂う。無謀かつ無造作に死地に飛び込んでいくが、肝心なとこで抜けている。いわゆるハードボイルドにありがちな気の利いたセリフや気障な描写がないのはいい。

ストーリーはひと言で表せば「マンガ」だ。およそリアリティに欠けた展開が続く。このままでは星2つの評価なのだが、どちらの作品でも最後の数ページにある種の「ひねり」がある。La position du tireur couchéのほうは物悲しさが残り、Le petit bleu la côte Ouestの最後にもちょっとした仕掛けがある。こうした「ひねり」を考慮して星を1つ増やし、3つとした。

まだ2冊未読のManchetteが残っているが、とりあえずはこれら2つの作品で十分だろう。

2018年4月24日火曜日

平壌からウラジオストクへ2018 その後

平壌からウラジオストクへの旅から1ヶ月半、メールを通じて同行者たちと写真や若干の情報を交換した。

Korean Diaspora(海外に散った朝鮮人)を研究課題とするVictoriyaは次のような記事をWebに公開している。

Lost and Found in Uzbekistan - The Korean Story
https://koreanstory.atavist.com/lost-and-found-in-uzbekistan

沿海州からウズベキスタンへ強制移住させられた祖父、その娘である母、そして自分へとつながる家族史だ。

今回のツアーに関するVictoriyaの感想と写真はThe Diplomatというサイトにアップされている。

A Window into North Korea - Looking at North Korea on the way to Russia via train
https://thediplomat.com/2018/04/a-window-into-north-korea/

ソウルで韓国語を学んでいるインド人のAyeshaはNK-NEWSから40分に及ぶインタビューを受けた。このインタビューはPodcastとしてアップされている。

https://www.nknews.org/2018/04/destination-dprk-the-ethics-of-north-korea-tourism-nknews-podcast-ep-11/

インタビューの副題は"A frequent visitor discusses the ethics of visiting the DPRK and shares some of her experiences"となっているが、the ethics of visiting the DPRKを正面から論じているわけではなく、もっぱら彼女の北朝鮮での経験と感想が語られている。もちろん今回のツアーも取り上げられており、興味深い。

同じくNK-NEWSのサイトには彼女が今回の旅で撮った写真が掲載されている。

Life along North Korea’s Pyongyang to Khasan line, in pictures
https://www.nknews.org/gallery/life-along-north-koreas-pyongyang-to-khasan-line-in-pictures/

いくつかここにもアップしておこう。





清津駅


ゴールデントライアングル銀行(羅先)

豆満江駅

私のような安物のカメラではないので、なかなか見映えがする。

2018年4月13日金曜日

平壌からウラジオストクへ2018 九日目(帰国、まとめ)

3月7日。

ツアー解散の日。Tomとオーストラリア人夫婦はすでにウラジオストクを離れている。パキスタン系英国人のAfzalはウラジオストクの別のホテルにあと1日滞在してから列車でハバロフスクに向かう。Victoriyaはサハリン(樺太)に強制移住させられた朝鮮人の足跡をたどるために、ユジノサハリンスクに飛ぶ。Pollyとその友人のAyeshaはAyeshaの現在の居住地であるソウルに向かう。Edgarはロシアを経由してヨーロッパを旅する予定だ。Simonはハルビン経由で北京へ戻る。それぞればらばらになるが、なんらかの形で旅を継続するメンバーが多い。

私はこの日のうちに日本に帰る。午後1時45分発のSiberia Airline(S7)の便でソウルの仁川国際空港まで飛び、4時間待ってから関空行きのアシアナ航空機に乗る。もっと短い乗り継ぎ時間の選択肢もあったが、ウラジオストクからの便の遅延を考慮して安全策をとった(S7を利用するのがはじめてだったため)。PollyとAyeshaもソウル行きだが、私より遅い大韓航空の便だった。

8時に朝食を済ませ、徒歩で駅まで行き、9時2分発の空港行きのエアロエクスプレスに乗る。料金はよく覚えていないが、2等で230ルーブル(400円ほど)だったように思う。がらがらのエキスプレスは1時間ほどで空港に着いた。S7機は遅延することもなくほぼ定刻通りに仁川空港に着陸。空港でたっぷり時間を過ごしてから、アシアナ機で帰国の途についた。

空港行きエキスプレスのがらがらの車内

エキスプレスの車窓から

まとめ。

このツアーを選ぶにあたって心配したのは寒さだった。真冬を過ぎているとはいえ、なにぶんにも北朝鮮(それも北部)とロシア。零下何度かの気温は覚悟しなければならない。せめて3月下旬か4月上旬のツアーだったらと思ったものだ。

だが結果的にはこの季節を経験できてよかった。車窓から見る北朝鮮の冬景色は美しかった。観光地は閑散としていたが、これもまた北朝鮮の現実だ。羅先でもウラジオストクでも寒さは恐れていたほどではなかった。平壌のホテルでも羅先のホテルでも、そして列車の中でも暖房は十分すぎるほどだった。

北朝鮮の冬景色(車窓から)

北朝鮮の冬景色(羅先)

2015年の鉄道の旅は私たちグループだけが乗車する特別列車の旅だったが、今回は北朝鮮でいつも走っている列車を利用した。といっても私たちが乗る車両は平壌とモスクワをつなぐ「国際車両」で、国内を移動する車両から隔離されていた。このため、列車内でふれあうことができた北朝鮮人民はハバロフスクへ向かう労働者だけだった。ツアーを申し込む段階では予想していなかったことで、かなりがっかりした。

労働者たちとはそれなりに交流できた。惜しむらくは私たちの側での朝鮮語会話能力の欠如だ。労働者の中にはある程度ロシア語をしゃべれる人もいたが、朝鮮語以下のレベルの私のロシア語ではどうにもならない。

ともあれ、同行者にも恵まれ、楽しい旅だったと言える。これには添乗員として同行したKoryo ToursのSimonの力も大きい。親切で、細かいところにまで配慮してくれる。訪朝回数170回を超えるSimonは情報も豊富で、BBC、アルジャジーラ、CNNなどにたびたびインタビューされている。彼から聞く裏話や秘話の数々は長い道中をおもしろいものにしてくれた。

昨年4月からほぼ1年ぶりの訪朝。昨年に比べれば変化は感じられないが、2004年のはじめての訪朝からすれば北朝鮮は大きく変貌している。消費社会や格差といった資本主義に特有の現象が徐々ではあるが北朝鮮をも浸食しているように見える。これが北朝鮮社会のどこまで浸食しているのか、ごく一部の表層にすぎないのか。こうした傾向が北朝鮮の政治の行方にどのように影響するか。興味深いところではある。

このツアーのスライドショーをYoutubeにアップしておいた。


 

2018年4月10日火曜日

平壌からウラジオストクへ2018 八日目(ウラジオストク)

3月6日。

8時過ぎにホテルでビュッフェ形式の朝食をとる。朝食の席で一緒になったCorrieとNancyeのオーストラリア人夫婦が憤っている。怒りの対象はホテルの受付だ。昨夜、Wifiのことで受付に問い合わせたときの対応がなんともひどかったらしい。ランドリー・サービスについても、すでに支払い済みなのに再度請求されてもめたとか。

「それに比べれば」と、北朝鮮との比較が始まる。「いろいろな制限の中でも、彼らはベストを尽くそうとしてくれた。」「少なくとも北朝鮮では笑顔があった。」

ロシアのホテルの劣悪なサービスのおかげで、北朝鮮の株がぐっと上がったわけだ。公平を期するために付け加えておくと、私が昨年モスクワで宿泊したホテルの対応は決して悪くはなかった。あたりまえのことだが、人により場所による。北朝鮮のサービスもフレンドリーというわけではない。北朝鮮のウエイトレスや店員を形容する適切な言葉はdiscreet(控えめ)だろう。アグレッシブな対応など考えられない。その反面、気軽に言葉を交わすようなケースもまれだ。

Tomはもうウラジオストクを去っていた。Victoriyaも何かの用事で午後から合流するとのこと。ブラジル人のEdgarは自分がやっているビジネスでトラブルが発生し、その解決のためにホテルから出られないという。ブラジルから電話がかかってきたらしい。ネットを通じて仕事ができるのは便利である一方、場所や時間に関係なく働かざるをえない状況をも生み出す。

今日の観光はルースキー島の探訪からはじまる。ルースキー島はウラジオストクの南にある小さな島で、古くから要塞として使われてきた。ソ連時代には太平洋艦隊の基地となり、外部から閉ざされていたが、現在は要塞としての機能を失い、観光客にも開放されている。大きな砲台とその下にある各種の施設だ。地下深く細い階段を降りていくのは一仕事だった。

ルースキー島の砲台

地下施設

ルースキー島から再び街に戻り、「リパブリック」というセルフサービス式のレストランで昼食ととる。セルフサービスだが、代金はすべてSimonが一括して払ったので、私の分がいくらになったのかはわからない。

Victoriyaも加えて、午後の部の観光がはじまる。

マイクロバスはユル・ブリンナーの銅像の横を通る。ユル・ブリンナーがウラジオストク出身であることをここではじめて知った。ユル・ブリンナーの出自はジプシーだとどこかで読んだことがあるので、ガイドのユリアにウラジオストクにもロマのコミュニティがあるのかと尋ねたが、「ない」との返事だった。「彼はみずからを神秘化するために、自分の出自にまつわるあることないことを意図的に流した」とはユリアの説明。帰国後に少し調べてみたところ、「母親はルーマニア系のジプシー」という記述もあるが、Wikipediaでは「母親はユダヤ系ロシア人」となっている。「ユル・ブリンナーはジプシー」はガセネタである可能性が高い。

午後の観光のメインはNKVD地下シェルターの探訪だった。これはソ連時代につくられた地下道とシェルターで、入口は市の中心部にひっそりと隠されている。男性のガイドが私たちを案内し、ロシア語で説明する(ユリアの通訳付き)。地下は暗く、通路は平坦ではないので、私たちひとりひとりに小さな懐中電灯が渡される。

なんとも不可解な構造物だ。1.5kmにも及ぶ地下道を掘る労力に比べ、シェルターとしてのその効用はどれほどのものか。こんな空洞が街の真下にあるのは不気味でもある。

地下道を進む

地下道の壁にはスターリンの写真も飾ってあった。ユリアは「スターリンのやったことがすべて悪いわけではない。よいこともある」と言う。「よいこと」とは、たとえば大祖国戦争(Great Patriotic War)での勝利だ。しかしそもそもヒトラーと相互不可侵条約を結び、ドイツの侵攻をやすやすと許してしまったのもスターリンではなかったか。

夕食前にいったんホテルへ戻る。今夜の列車でロシア国内の旅に発つオーストラリア人夫婦とはここでお別れ。Edgarも顔を出したが、夕食には参加できないという。トラブルはまだ片付いておらず、ブラジルが朝を迎えるまでに何とかしなければならないためだ。

夕食は市の中心部にあるPorto-Francoというレストランでとった。私たちのほかに、20人ほどの女性医療関係者の団体が賑やかに会食している(ロシアの人気アニメのテーマ曲を合唱していた)。ポークソテーをメインとし、前菜とデザートもある。ロシアに入ってはじめてのちゃんとしたディナーだ。

ポークソテー

デザート

カクテル・バーに行くという他のメンバーを残し、私とAfzalはマイクロバスでホテルに帰った。

2018年4月9日月曜日

平壌からウラジオストクへ2018 七日目(ウラジオストク)

3月5日。

ホテルの朝食はビュッフェ形式。ロシア人に混じって東洋人の宿泊客もかなりいる。ウラジオストクを訪れる観光客でもっとも多いのは中国人ということだが、このホテルでも街の中でもよく目についたのは韓国人だ。それも団体客ではなくて、2人連れ、3人連れの若者(特に女性)が多い。やはりビザなしでロシアに入国できることが大きいのだろう。ウラジオストクとソウルは近く、飛行機の便も多い。

9時にユリアのガイドのもと、マイクロバスでウラジオストク観光に出発。Ayeshaは体調が悪くホテルにとどまり、Tomも何かの用事で不参加。私たちの多くにとって、昨日北朝鮮からロシアに列車で渡ったことで今回のツアーの目的はほぼ達成している。ウラジオストク観光は付録であり、オマケでしかない。私の場合もウラジオストクは昨年に続いて2度目の訪問で、特に目新しさはない。

雪で覆われ凍りついた海を歩くことからウラジオストク探訪ははじまった。ウラジオストクの気温は3月始めの今でも零下だ。確かに寒い。しかし、観光に支障が出るほどではない。用意していた手袋も必要なかった。

氷上を歩く

探訪は続く。ウラジオストク駅とフェリーターミナル、さらには1930年代に建造されたC-56(キリル文字だからCはエスと発音する)という潜水艦の見学。「鷲の巣」と呼ばれる小高い丘へはケーブルカーで行った。「鷲の巣」からはウラジオストクの港が一望できる。ひときわ目立つのはケーブルで支えられた黄金橋だ。

鷲の巣から港を一望

鷲の巣で集合写真(右端はガイドのユリア)

ウラジオストクには遠くを指さすレーニンの像がまだ健在だ。ガイドのユリアがアネクドート(笑い話)を紹介する。

「レーニンが指さしているのはロシアの将来だ」
「どこを指さしているか」
「日本だ」

昼食はウフ・トゥイ・ブリンというブリヌイ(ロシア風クレープ)の専門店で食べた。まずくはないが、ブリヌイは本来はデザートだから、ちょっと物足りない。ここでも韓国人の若い女性を数組見かけた。

午後は自由行動。北朝鮮での自由行動はありえないから、これがこのツアーではじめての、そして唯一の自由行動となる。

ホテルへ戻って体を休めてから、4時過ぎに外に出て、街の中心を散策する。ウラジオストクは丘の上の街とも言える。したがって坂道が多い。坂道を上がったり下がったりしているうちに夕食の時間となった。

ウラジオストクには北朝鮮レストランもあれば、和食レストランもある。北朝鮮レストランは昨年訪れており、しかも街の中心から少し離れている。和食も昨年モスクワで寿司を試したばかりだ。今回の夕食はРесторан(レストラン)ではなくСтоловая(スタローバヤ)にしようと考えた。スタローバヤは「安食堂」とでも訳せばいいのだろうか。レストランよりも庶民的で、セルフサービス式が多い。ウラジオストクでもところどころにСтоловаяの看板を見かける。

適当なスタローバヤを探しているうち、ちょっと大きめのスーパーマーケットを見つけたので入ってみる。総菜コーナーにはおいしそうなサラダや調理済みの食品が並んでいる。酒のコーナーもある。

結局このスーパーで缶入りのジン&トニックとポテトサラダ、ハムサラダ、魚(たぶんイワシ)のマリネを購入して、ホテルに帰って食べることにした。全部で500リーブル(900円)くらいだっただろうか。スタローバヤと同じかそれ以上の値段だ。総菜はおいしかったが、量が多く、少し残した。

夕食

テレビでは川島芳子のドキュメンタリーを放映していた。川島芳子は満州国を巡って暗躍し、戦後漢奸として北京で銃殺刑になった「東洋のマタハリ」とも呼ばれる女性だ。

川島芳子のドキュメンタリーの一場面

2018年4月6日金曜日

平壌からウラジオストクへ2018 六日目(朝露国境を列車で渡る)

3月4日。

羅先は羅津(ラジン)と先鋒(ソンボン)からなる。中心となるのは羅津だ。羅津の北に位置する先鋒は人口も少なく、「村」と呼んだほうがぴったりする。今日はその先鋒を経由して豆満江(トマンガン)駅まで行き、鉄道でロシアに渡る。

8時半にホテルを出発したマイクロバスは1時間ほどで先鋒エリアに入る。まず今も残されている日本家屋と朝鮮家屋を見学する。これは2014年にも訪れた場所だ。女性ガイドの説明を金ガイドが通訳する。2014年にも聞いた内容だが、あのときも今回もまったく頭に残っていない。もっと印象的だったのは、トイレのために立ち寄った近くのホテルとその周りで雪かきをしている人たちだ。こんなところにホテルがあるのかというおどろき。

先鋒

続いて「朝露親善閣」なる建物に立ち寄る。ここを訪れるのははじめてだ。中に入って女性ガイドの説明を聞く。北朝鮮とソ連・ロシアの偉いさんたちの会談などに関する説明だが、これもまったく記憶に残っていない。同行者たちも私と似たようなもので、バスに戻ってからの話題は暖房のきいていない内部がいかに寒かったか(colder than outside!)、女性ガイドがいかに寒そうにしていたかに終始した。

朝露親善閣の女性ガイド

中国・ロシア・北朝鮮が一望できる小さな丘に着く。2014年にも来た場所だが、そのときと同様、私にはどこまでが中国でどこからがロシアかよく識別できなかった。

豆満江駅までの道のりは興味深かった。雪の残る荒涼とした風景の中に北朝鮮らしい質素な家並みが見える。立派な家々ではないが、それほどひどいものでもない。北朝鮮の平均的な家はこんなものかと勝手に想像してみる。もちろん一介の旅行者に「平均的な北朝鮮」などわかるはずがない。

豆満江近くの家1

豆満江近くの家2

豆満江駅に着いたのは1時ごろだっただろうか。税関の用意ができるまで駅の前で待機する。1時間以上待ち、やっと税関がオープン。私たちグループ以外には2、3人のロシア人がいるだけ。入国時と同様に電子機器をすべて提出したが、中味はまったくチェックされなかったようだ(スマートフォンやタブレットのPINコードを尋ねられることはなかった)。そもそも10人以上の電子機器をすべてチェックするような時間的余裕はない。

税関を無事通過し、出国手続きも終えて、2人の金ガイドと握手で別れる。

駅には私たちを平壌から羅先まで運んだ「平壌-モスクワ」の車両が待機してる。車内にはすでにおなじみの北朝鮮グループが乗っていた。彼らも羅先に2泊し、これからハバロフスクに向かうのだろう。

列車が発車し、Simonがナムサン・ホテルで用意してくれた昼食の弁当を配る。2014年に食べた羅先の弁当はおいしかったが、今回も期待は外れなかった。朝鮮風海苔巻きのキンパプ(김밥)を主体とした豪華な内容。Nancyeが「Sushi!」と喜びの声を挙げたので、「いや寿司ではない。寿司ならライスに酢が入っていなければならないが、これには酢が入っていない」と余計なひと言。

昼食の弁当

小一時間ほどして、列車は豆満江の鉄橋を渡り、ロシアに入る。豆満江を渡ればすぐそこはハサン(Khasan)駅。この駅では私たちだけが降りる。北朝鮮グループはそのまま列車に残る。おそらく列車の中かハバロフスクで入国手続きをするのだろう。

朝露国境を列車で渡る

ハサン駅に着く

ハサン駅での入国手続きはスムーズに進行した。昨年のチェチェン旅行と同様、ロシアのビザは東京のロシアビザセンターに依頼して取得していた。

ハサン駅に着いたのは北朝鮮時間では3時半ごろだが、極東ロシアの時間では5時ごろになる。ここでウラジオストクからやって来るガイドとマイクロバスを待つ。

ハサン駅の周辺には店一つない。駅が人里離れた場所にあるためだろうが、ハサン自体もごく小さな町なのだろう。1938年にソ連軍と日本軍が衝突した張鼓峰事件ではここハサンが戦場となった。Victoriyaの母方の祖父はこの沿海州と呼ばれる地域からウズベキスタンへ強制移住させられた。張鼓峰事件に先立つ1937年のことだ。

6時(ロシア時間)ごろになってマイクロバスが到着した。ガイドはユリアという40代くらいの女性で、Simonとは顔なじみのようだ。

暗闇の中、あまり状態のよくない道を走ることおよそ6時間、ウラジオストクに着いたのは真夜中の12時だった。

夕食に立ち寄るレストランもないので、途中のスーパーでパンやお菓子を購入して夕食代わりとしてバスの中で食べた。スーパーに立ち寄ったのはトイレ休憩のためでもある。ところがトイレ(有料)は閉まっている。中には灯りがついており、おばあさんがいるのだが、開けようとしない。マイクロバスの運転手がロシア語で「開けろ」と怒鳴っても開けない。男性陣は暗闇にまぎれて藪の中でトイレを済ますが、女性陣はたいへんだ。それでも最後の最後になってなんとかオープンしたようだ。

スーパーマーケットに立ち寄る

昨年モスクワとチェチェンを旅したときには、10年前に比べてロシアもやっとサービスが並みレベルになったと思ったものだが、ちょっと考え直す必要がありそうだ。

ウラジオストクでチェックインしたのは、市の中心部からほど近いジムチュージナホテル。今日からここに3泊することになる。