2011年10月11日、モルドバのキシナウから沿ドニエストル共和国の首都ティラスポリへ日帰で行ってきた。
沿ドニエストル共和国なる国の存在をいつどのようにして知ったのか。ティラスポリ行きに先立つことおよそ9か月、同じ年の1月にアフリカのソマリランドへ行った。いわゆる「未承認国家」への関心からだ。沿ドニエストル共和国を知ったのもこれとの関連で、世界各地の未承認国家や破綻国家を調べていたときに浮上してきた。当時の沿ドニエストル共和国のネット上での評判はさんざんだった。どんな武器でも闇で購入できる。人身売買にまで手を染めている。スミルノフ大統領が独裁的に支配する「21世紀に残存する唯一のスターリニスト国家」にして「犯罪国家」でもある。入国するのも一苦労らしい。イミグレーションでの賄賂要求がなんともいやらしいとのことだった。
だが、そうこうするうち、賄賂攻勢に遭遇することなしに入国できたという旅行報告も目にするようになった。こと入国に関しては、だいぶ楽になったらしい。
そこで、関空からモルドバに飛び、モルドバから沿ドニエストル共和国に入ることにした。旅行に費やせる期間は10日ある。モルドバと沿ドニエストル共和国だけではもったいない。隣接するルーマニアとウクライナも含めよう。ちょっと欲張りすぎかもしれないが、ルーマニアから入りモルドバから出るトルコ航空のエアチケットを購入した。もちろんイスタンブール経由だ。
ルーマニアのブカレスト(2泊)から列車でモルドバとの国境のヤシ(1泊)まで移動し、乗り合いバンでモルドバの首都キシナウに到着した。キシナウに2泊し、バスでウクライナのオデッサに行く。オデッサで2泊してからキシナウに戻ってきた。どの国もビザなしで入国できるのがありがたい。キシナウに戻った翌日、念願の沿ドニエストル共和国に行くことした。
朝8時過ぎにキシナウのバス乗り場に行く。沿ドニエストルの首都ティラスポリに行くミニバスはすぐに見つかった。ミニバスの料金やティラスポリまでの走行時間は失念した。料金は数百円、時間は2、3時間だったように思うが、確かでない。
10人余りの乗客を乗せたミニバスはモルドバと沿ドニエストル共和国の「国境」に着く。モルドバは沿ドニエストル共和国を承認していないから、沿ドニエストルだけの自称「国境」だ。いちばん心配していたのはこの国境。スムーズに入国できるか。賄賂の要求があった場合、どう対処するか。
入国カード(英語で可)を書き、窓口に提出する。窓口に座っているのは軍服姿の若い女性だ。美人だが、表情は固く、冷たい(sternという英語がぴったりする)。この女性、ニコリともしないが、意外に親切で、こちらの質問に丁寧に答えてくれる。沿ドニエストル共和国のビザは滞在10時間以内の1日ビザなら無料、数日滞在するビザなら有料とのことだった。もちろん1日ビザを選ぶ。許された滞在時間は10時間。係官の女性は「You must come back here (at the immigration) until 8 o'clock」という。「8時までにここに戻ってくるように」と言いたいのだろうが、もちろんuntil 8 o'clockではなく、by 8 o'clockと言うべきところ。外国人にありがちな前置詞の間違いだ。もちろん私から誤りを指摘するようなことはしなかった。この女性、誰から指摘されることもなく、今でも同じ誤りを繰り返しているのだろうか。ビザのスタンプはパスポートには押されず、別紙に押された。ここらへんは北朝鮮と同じ。
国境からさらに小一時間かけて、ミニバスはティラスポリの鉄道駅に到着した。ここらへんが街の中心でもあるのだろう。鉄道駅にはバスの切符売り場もあったので、拙いロシア語を使ってキシナウ行きの最終バスの時刻を尋ねた。窓口の女性は数本のバスの時刻を手書きで紙に書いて渡してくれた。通貨の両替所もある。沿ドニエストルの通貨はルーブルだ。ロシアのルーブルとは異なる。いくばくかを両替した。米国ドル、モルドバレイ、ユーロ、ウクライナ・フリヴニャ、ロシア・ルーブルとの両替が可能だが、自分がどの通貨から両替したのかは忘れてしまった。
街は閑散としており、人通りも少ない。「レーニン通り」(Улица Ленина)という名前のストリートがある。旧ソ連体制の踏襲をモットーとする国ならではだ。議事堂らしき建物の前にはレーニンの胸像があり、通りにある大きなサインボードには「未来はロシアと一緒に」と書かれている。プーチンの写真も数多く見られる。私はサンクトペテルブルクとモスクワにしか知らず、ロシアの地方都市には行ったことがないが、なんとなく「ロシアの地方都市」という印象を受けた。
歩き回っているうちに昼食の時間になった。食堂らしきものは見あたらないが、メインの通りに面してちょっと大きめのカフェがあったので入る。ここでは食事もできるようだ。メニューを見ると、ロシア料理に加え、にぎり寿司や天ぷらもある。値段の関係からソーセージとポテトフライ、スープを選ぶ。料理はまずまずおいしかった。だが、せっかくここまで来たのだから寿司も試してみたい。若い女性のウェートレスにロシア語で「私は日本から来たので、寿司を試してみたい」と告げたうえで、マグロとサーモンの握りを注文した。食べ終わるとウェートレスが「どうでした?」と聞く。「魚はすばらしいが、米がちょっと...」と答える。その通りで、米が日本のように粘り気がある米ではなく、ぱさぱさしていた。これはしかし土地柄やむをえないことだ。ここはやはり「フショーオーチンフクースナ」(すべてたいへんおいしい)と答えておくべきだったと反省した。
カフェを出て、さらに街を探訪すると、市場らしき場所に行き当たった。だが、すでにほとんど引き払われており、人も少なかった。ここには午前中に来るべきだった。近くの路上で何か売っていた男が私に向かって何事か言う。よく聞こえなかったので、「ヤーニェパニマーユ」(私は理解できない)と言うと、男は「パチムー(なぜだ)」と聞き返す。男に私が日本人であることを説明した。どうやら時刻を聞きたかったらしい。日本人はおろか、中国人も見あたらないティラスポリの街で、まぎれもない東洋人の私にわざわざ時刻を聞いてくるとはどういうわけか。好奇心から声をかけてきたのかもしれない。
「犯罪国家」というおどろおどろしい世評とは対照的に、ティラスポリは表面的には平和そのものだった。バーブシュカ(おばあさん)、ジェーブシュカ(おじいさん)と遊ぶ幼い子供。かわいらしい制服の小学生くらいの女の子。晴れた日の陽光が暖かく降り注いでいたことと相まって、のんびりした、穏やかな印象しかなかった。バスの窓口もカフェのウェートレスも感じがよく、親切だった。トイレのおばさんまでが私に向かってにっこりしてくれた。
キシナウに向かうバスの最終は7時ごろだったが、少し早く5時過ぎに帰路の途についた。帰りのミニバスには7、8人が乗車していた。モルドバの住人が半分、沿ドニエストルの住人が半分といったところか。モルドバの住人は身分証明書だけで両国を往来できるが、沿ドニエストルの住人はパスポートが必要らしい。沿ドニエストルのパスポートの表紙には旧ソ連と同じく「CCCP」(エスエスエスエル=ソビエト社会主義連邦共和国)と記されていた。問題なく国境を通過し、キシナウに帰ったときにはすでに暗くなっていた。
私が訪れてしばらくしてから沿ドニエストル共和国では選挙による政権交代が実現し、スミルノフ大統領は退陣した。諸悪の根源のように見なされていたスミルノフの退陣によってこの国がどのように変わったのか、あるいは変わらなかったのか、私には知るよしもない。
沿ドニエストル共和国なる国の存在をいつどのようにして知ったのか。ティラスポリ行きに先立つことおよそ9か月、同じ年の1月にアフリカのソマリランドへ行った。いわゆる「未承認国家」への関心からだ。沿ドニエストル共和国を知ったのもこれとの関連で、世界各地の未承認国家や破綻国家を調べていたときに浮上してきた。当時の沿ドニエストル共和国のネット上での評判はさんざんだった。どんな武器でも闇で購入できる。人身売買にまで手を染めている。スミルノフ大統領が独裁的に支配する「21世紀に残存する唯一のスターリニスト国家」にして「犯罪国家」でもある。入国するのも一苦労らしい。イミグレーションでの賄賂要求がなんともいやらしいとのことだった。
だが、そうこうするうち、賄賂攻勢に遭遇することなしに入国できたという旅行報告も目にするようになった。こと入国に関しては、だいぶ楽になったらしい。
そこで、関空からモルドバに飛び、モルドバから沿ドニエストル共和国に入ることにした。旅行に費やせる期間は10日ある。モルドバと沿ドニエストル共和国だけではもったいない。隣接するルーマニアとウクライナも含めよう。ちょっと欲張りすぎかもしれないが、ルーマニアから入りモルドバから出るトルコ航空のエアチケットを購入した。もちろんイスタンブール経由だ。
ルーマニアのブカレスト(2泊)から列車でモルドバとの国境のヤシ(1泊)まで移動し、乗り合いバンでモルドバの首都キシナウに到着した。キシナウに2泊し、バスでウクライナのオデッサに行く。オデッサで2泊してからキシナウに戻ってきた。どの国もビザなしで入国できるのがありがたい。キシナウに戻った翌日、念願の沿ドニエストル共和国に行くことした。
キシナウ
オデッサ
朝8時過ぎにキシナウのバス乗り場に行く。沿ドニエストルの首都ティラスポリに行くミニバスはすぐに見つかった。ミニバスの料金やティラスポリまでの走行時間は失念した。料金は数百円、時間は2、3時間だったように思うが、確かでない。
10人余りの乗客を乗せたミニバスはモルドバと沿ドニエストル共和国の「国境」に着く。モルドバは沿ドニエストル共和国を承認していないから、沿ドニエストルだけの自称「国境」だ。いちばん心配していたのはこの国境。スムーズに入国できるか。賄賂の要求があった場合、どう対処するか。
入国カード(英語で可)を書き、窓口に提出する。窓口に座っているのは軍服姿の若い女性だ。美人だが、表情は固く、冷たい(sternという英語がぴったりする)。この女性、ニコリともしないが、意外に親切で、こちらの質問に丁寧に答えてくれる。沿ドニエストル共和国のビザは滞在10時間以内の1日ビザなら無料、数日滞在するビザなら有料とのことだった。もちろん1日ビザを選ぶ。許された滞在時間は10時間。係官の女性は「You must come back here (at the immigration) until 8 o'clock」という。「8時までにここに戻ってくるように」と言いたいのだろうが、もちろんuntil 8 o'clockではなく、by 8 o'clockと言うべきところ。外国人にありがちな前置詞の間違いだ。もちろん私から誤りを指摘するようなことはしなかった。この女性、誰から指摘されることもなく、今でも同じ誤りを繰り返しているのだろうか。ビザのスタンプはパスポートには押されず、別紙に押された。ここらへんは北朝鮮と同じ。
国境からさらに小一時間かけて、ミニバスはティラスポリの鉄道駅に到着した。ここらへんが街の中心でもあるのだろう。鉄道駅にはバスの切符売り場もあったので、拙いロシア語を使ってキシナウ行きの最終バスの時刻を尋ねた。窓口の女性は数本のバスの時刻を手書きで紙に書いて渡してくれた。通貨の両替所もある。沿ドニエストルの通貨はルーブルだ。ロシアのルーブルとは異なる。いくばくかを両替した。米国ドル、モルドバレイ、ユーロ、ウクライナ・フリヴニャ、ロシア・ルーブルとの両替が可能だが、自分がどの通貨から両替したのかは忘れてしまった。
両替所の看板
街は閑散としており、人通りも少ない。「レーニン通り」(Улица Ленина)という名前のストリートがある。旧ソ連体制の踏襲をモットーとする国ならではだ。議事堂らしき建物の前にはレーニンの胸像があり、通りにある大きなサインボードには「未来はロシアと一緒に」と書かれている。プーチンの写真も数多く見られる。私はサンクトペテルブルクとモスクワにしか知らず、ロシアの地方都市には行ったことがないが、なんとなく「ロシアの地方都市」という印象を受けた。
ティラスポリ
未来はロシアと共に
プーチン
歩き回っているうちに昼食の時間になった。食堂らしきものは見あたらないが、メインの通りに面してちょっと大きめのカフェがあったので入る。ここでは食事もできるようだ。メニューを見ると、ロシア料理に加え、にぎり寿司や天ぷらもある。値段の関係からソーセージとポテトフライ、スープを選ぶ。料理はまずまずおいしかった。だが、せっかくここまで来たのだから寿司も試してみたい。若い女性のウェートレスにロシア語で「私は日本から来たので、寿司を試してみたい」と告げたうえで、マグロとサーモンの握りを注文した。食べ終わるとウェートレスが「どうでした?」と聞く。「魚はすばらしいが、米がちょっと...」と答える。その通りで、米が日本のように粘り気がある米ではなく、ぱさぱさしていた。これはしかし土地柄やむをえないことだ。ここはやはり「フショーオーチンフクースナ」(すべてたいへんおいしい)と答えておくべきだったと反省した。
カフェで昼食
沿ドニエストル共和国のにぎり寿司
カフェを出て、さらに街を探訪すると、市場らしき場所に行き当たった。だが、すでにほとんど引き払われており、人も少なかった。ここには午前中に来るべきだった。近くの路上で何か売っていた男が私に向かって何事か言う。よく聞こえなかったので、「ヤーニェパニマーユ」(私は理解できない)と言うと、男は「パチムー(なぜだ)」と聞き返す。男に私が日本人であることを説明した。どうやら時刻を聞きたかったらしい。日本人はおろか、中国人も見あたらないティラスポリの街で、まぎれもない東洋人の私にわざわざ時刻を聞いてくるとはどういうわけか。好奇心から声をかけてきたのかもしれない。
市場
「犯罪国家」というおどろおどろしい世評とは対照的に、ティラスポリは表面的には平和そのものだった。バーブシュカ(おばあさん)、ジェーブシュカ(おじいさん)と遊ぶ幼い子供。かわいらしい制服の小学生くらいの女の子。晴れた日の陽光が暖かく降り注いでいたことと相まって、のんびりした、穏やかな印象しかなかった。バスの窓口もカフェのウェートレスも感じがよく、親切だった。トイレのおばさんまでが私に向かってにっこりしてくれた。
キシナウに向かうバスの最終は7時ごろだったが、少し早く5時過ぎに帰路の途についた。帰りのミニバスには7、8人が乗車していた。モルドバの住人が半分、沿ドニエストルの住人が半分といったところか。モルドバの住人は身分証明書だけで両国を往来できるが、沿ドニエストルの住人はパスポートが必要らしい。沿ドニエストルのパスポートの表紙には旧ソ連と同じく「CCCP」(エスエスエスエル=ソビエト社会主義連邦共和国)と記されていた。問題なく国境を通過し、キシナウに帰ったときにはすでに暗くなっていた。
私が訪れてしばらくしてから沿ドニエストル共和国では選挙による政権交代が実現し、スミルノフ大統領は退陣した。諸悪の根源のように見なされていたスミルノフの退陣によってこの国がどのように変わったのか、あるいは変わらなかったのか、私には知るよしもない。
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