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2020年3月14日土曜日

フィリピン戦跡巡り 八~十日目(バギオ)

2月21日~23日。

バギオについては、これまでとちょっと趣向を変えて、時系列に沿った記述ではなく、3日間の滞在を項目別にまとめてみよう。

バギオ

ルソン島北部の高地に位置するバギオはマニラに比べればずっと涼しい。2月の今、気温は17、8度でちょうどよい。朝方になると、毛布1枚では寒いほどだった。

人口は25万人とのことだが、なかなかの都会だった。メインストリートのSession Roadとそれにつながるマーケットには人通りがたえず、ショッピングモールのSM Baguioはマニラのショッピングセンター並みに賑わっている。

Session Road

街の中心にはBurnham Parkがあり、緑も豊かだ。公園、バギオ大聖堂、ショッピングモールなどのメインポイントはすべて歩いて行ける距離にある。マニラのように大きすぎることはなく、マニラのような喧噪とも無縁だ。総じて住みやすい街とみた。

宿

Share & Guesthouse Talaに3泊した。これは日本人に関係するNGOが経営するゲストハウスで、カフェ(Cafe Yagam)が併設されている。

このゲストハウスにはWebサイトから直接に予約した。日本人がらみのゲストハウスを選択したのは、バギオの戦跡に関する情報を欲しかったからだ。しかし、結果的には、戦跡に詳しそうな日本人の女性と会ったのは、23日の昼ごろで、遅きに失した。

トイレ・シャワー共同の個室で1泊1300ペソ(2800円ほど)。Talaの難点は街の中心部から遠いことだ。歩いて40分、タクシーでも10分近くかかる。周囲には店や食堂が少なく、セブンイレブンもない。期待していた日本人のオーナーや旅行者にも会えず、正直なところ選択を誤ったという気がした。

ゲストハウスTala

といってプラスの体験もなかったわけではない。バギオ2日目の22日、ゲストハウスから歩いて7、8分の「トロトロ」で遅めの朝食、あるいは早めの昼食、つまりはブランチをとった。「トロトロ」とはフィリピンのローカル食堂のことで、多くは家族経営の小規模な店だ。フィリピンの家庭料理が数種類作り置きされており、指さしで注文する。ライスとスープが付くのが普通だ。

そのトロトロはおばさん2人で切り盛りされていた。2人とも笑顔で愛想がよい。豚肉と野菜煮込みの2皿を注文。ライス、スープと併せて105ペソ(220円ほど)だった。

トロトロでブランチ

食事をしながら、おばさんたちと話す。近くのゲストハウスに宿泊していること、フィリピンは3回目だが、本格的なフィリピン旅行ははじめてであることなど。とりわけマクドナルドやKFCなどのファーストフード店でライスを提供している話題で盛り上がった。Only in the Phillipensという感想を伝えておいた。たわいもない会話だが、屈託のない温かい雰囲気が心に残っている。

23日の昼前にはじめて日本人関係者と出会った。中年の女性だ。ゲストハウスのオーナーなのか、NGPの主催者なのか、彼女の立場はよくわからなかったが、「カフェでこれからコーヒーのイベントがあるから参加しないか」との誘いを受けた。

コーヒーに興味があるわけではないが、人との出会いを求めて参加してみた。日本人の男性がコーヒーについて英語でレクチャーしている。聴衆は30人くらいはいただろうか。ほとんどがフィリピン人だが、日本人も私を含めて4人いる。レクチャーに続き、5種類のフィリピン産コーヒー、さらに5種類のコロンビアなど世界各地のコーヒーの利き酒ならぬ「利きコーヒー」が行われた。私には違いがわからず、さっぱり区別がつかなかった。

コーヒーに関する知識は深まらなかったものの、バギオに3か月の英語留学に来ている大学講師など、いろいろな日本人、フィリピン人との会話は楽しかった。これもゲストハウスTalaに滞在していたからこそ実現したことだ。

戦跡

バギオと太平洋戦争の関係については、山下大将率いる第14方面軍の司令部が置かれていたということ以外何も知らなかった。これは私の勉強不足で弁解の余地はない。だがルソン島の戦跡はその多くが山の中。日本兵が飢餓に苦しみながら敗走を重ねていたのは山の奥深くだ。戦跡を調べるといっても並大抵ではない。

それでも日米両軍が激突したバレテ峠(Ballet Pass)という地名は知っていた。マニラからはバスで5時間ということだが、バギオからならもっと近いだろう。

バレテ峠への行き方を探るため、22日にバギオの観光局を訪れようとした。しかし観光局は見つからなかった。グーグル・マップが示す観光局の場所まで行くが、それらしき建物が見当たらない。Baguio Museumは見つかったが、その並びにあるはずの観光局はない。観光局が見つかったとしても、土曜日だから閉まっていたかもしれない。

ゲストハウスTalaの日本人女性から「バレテ峠にはマニラから行ったほうがよい」と聞かされたのは23日の昼だった。バレテ峠はあきらめることにした。

話は前後するが22日、観光局を探す前に、バギオの植物園(Botanical Garden)を訪れた。この一角に第14方面軍の司令部の跡があることを知ったからだ。司令部はもともとバギオの別の場所にあったらしいが、米軍に追い詰められてここに移動したという。

植物園はゲストハウスから街の中心部へ行く途中にある。22日、トロトロで食事をしてから、歩いて植物園に向かった。15分くらいで到着。入場料は50ペソだったかもしれないが、確かでない。

司令部j跡はすぐに見つかった。植物園の中を進むと、中国庭園があり、韓国庭園があり、その奥に赤い鳥居が見える。鳥居の横には慰霊碑が建っている。鳥居をくぐると、洞穴がある。穴に入る。二手に分かれた坑道がかなり長く続いている。天井は十分に高く、腰をかがめなくても前に進める。しかし、応急のものとはいえ、ここがほんとうに司令部だったのだろうか。それらしき広い空間がまったくないのだ。

鳥居

慰霊碑


内部

土曜日ということもあり、植物園は賑わっていた。日本軍が残した洞穴に入る訪問者も少なからずいる。

翌23日にはバギオの中心部にある英霊追悼碑とその向かいの公園内の平和の塔を訪れた。多くの住民の犠牲者を出した現場に「英霊」の碑を建てるのはちょっとずうずうしいのではないだろうか。追悼碑の横には尾崎士郎の碑文があった。

英霊碑が建っている庭園を掃除していた男性がノートを差し出してくる。ノートには訪問者の氏名や国名が記されていた。私も自分の名前の横にJapanと書いておいた。

英霊碑

平和の塔

交通事情

21日、11時半にパサイのターミナルを出発したVictoria LinerのFirst Classバスはちょうど5時間かけ、4時半ごろにバギオのターミナルに到着した。バスには女性の車掌が同乗し、乗客にクラッカーと水を配った。バスの中は冷房が効き過ぎていて寒いと聞いていたが、そんなことはなく、適度な涼しさだった。

バギオではGrabは役に立たない。タクロバンのように「not available」ではないが、呼び出されるのはタクシーだけで、料金はタクシーのメーターに示された値段にGrabの手数料を加算した額になる。わざわざタクシーより高いGrabを利用する選択肢はない。

マニラとは異なり、タクシーは信頼できる。市の中心部からゲストハウスへ戻るために3回利用したが、すべてメーターを使い、毎回100ペソ(210円ほど)以内の料金だった。

バギオではトライシクルを見かけなかった。いたのかもしれないが、覚えがない。マニラやタクロバンとの違いのひとつだ。

マニラやタクロバン同様、ジプニーは庶民の移動手段として広く利用されている。ゲストハウスから中心部へ行くために2回利用した。料金は8ペソ。便利なのだろうが、旅行者が乗るには難易度が高い。どのジプニーがどこへ行くのかわかりにくく、土地をよく知っていないとどこで降りるのかも判然としない。

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