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2016年1月26日火曜日

ブルキナファソ2015 まとめ

「ブルキナファソはマリの田舎」という思い込みから出発したブルキナファソへの旅。どちらも西アフリカの旧フランス植民地だから、マリとブルキナファソが似ているのは当然といえよう。だが、ブルキナファソは田舎という思い込みは外れた。マリに都会と田舎があるように、ブルキナファソにも都会と田舎がある。ブルキナファソにないのはジェンネやモプティのような観光地だ。だからといってブルキナファソががマリよりも静かでのんびりしているというわけではない。ワガドゥグやボボ・ディウラッソの喧噪はバマコに勝るとも劣らなかった。

都会もあれば

田舎もある

評判の「人のよさ」はどうだろうか。見知らぬ私に対して「Bon jour」挨拶してくる人が少なくない。道を尋ねれば親切に教えてくれる。タクシーや食堂、路上の物売りなどもまずまず信頼できそうだ。おおむね評判どおりの「人のよさ」といえよう。もちろんみんなが「いい人」というわけではない。欺そうとする手合いもいれば、無愛想な人もいる。幸いにして出会うことがなかったが、泥棒やスリの被害も報告されている。そもそも「いい人」というのは静的な固定した属性ではないように思う。誰もが状況次第でいい人にもなれば、悪い人にもなりうる。ある人にとってのよい人は、別の人にとっては悪い人かもしれない。

ブルキナファソの旅

旅が終わったあとで、あれをやればよかった、あそこへ行けばよかった、あのときああ言えばよかったと、ちょっぴり後悔をするのはいつものことだ。ブルキナファソで悔やまれるのは、地元の人の中にもう一歩深く踏み込まなかったこと。確かにバスの切符売り場などでのフランス語は聞き取りにくかった。だが、普通に落ち着いて話していれば十分にコミュニケーションは可能だった。今から思えば、会話を発展させ、ふくらませるチャンスは少なからずあった。こうしたチャンスをみすみす逃してしまったのが残念だ。

ライブ音楽を聞く機会が1度しかなかったことも悔やまれる。時差ぼけもあり、ブルキナファソに滞在中はほぼ毎日夜9時すぎに就寝した。ライブが始まるのは夜の8時か9時。聞きに行きたいのは山々だが、体が言うことを聞かなかった。

私がブルキナファソへ向けて出発する数週間前、マリのバマコでアルカイダ系のテロリストによってホテルが襲撃され、20数人の死者が出ていた。クーデター騒ぎやデモこそあったものの、ブルキナファソではこれまでテロ事件は発生していなかった。しかし隣国マリでのこの事件は気になっていた。

こうした心配にもかかわらず、ブルキナファソ滞在中、身の危険はまったく感じなかった。夜歩いていても不安はなかった。テロよりもずっと確率の高いのは交通事故だ。ワガドゥグとボボでそれぞれ1回、交通事故を目撃した。ワガドゥグでは十代の少年が身動きもせずに倒れているのを人々が囲んでいた。意識を失っていただけなのか、息がすでになかったのかはかわらない。ボボではオートバイが車の下敷きになっていた。

下敷きになったオートバイ

「身の危険を感じなかった」と書いたが、こうしたレポートはあまりあてにならない。身の危険を感じるのは、すでに何かが発生したときだ。どこへ行こうと、たいていの旅人は危険を実感することなく帰国する。そのときたまたま安全だったからといって、今後何も起こらないという保証にはならない。

実際、私が帰国してから1か月も経たない2016年1月16日に、ワガドゥグの高級ホテルが襲撃され、少なくとも29人が死んだ。マリの事件と同様、アルカイダ系の組織の仕業らしい。

出発前にこの事件が発生していたら、ブルキナファソ旅行を敢行したかどうか、難しいところだ。私がワガドゥグで宿泊したミッション・カトリックはカテドラルの敷地にあり、イスラム過激派のターゲットになっていたとしても不思議ではない。航空券購入前だったらキャンセルしていたかもしれない。

最後に今回の旅行の支出を報告しておこう。伊丹からワガドゥグまでの往復の飛行機代が全部ひっくるめて18万ちょっと。現地で両替したのが300ユーロ。余ったCFAを再度ユーロに両替して38ユーロ返ってきた。つまり現地で262ユーロ使ったことになる。日本円にすれば34000円ほどか。9日で割ると、1日3800円弱の出費になる。

2016年1月24日日曜日

ブルキナファソ2015 12月23日(帰国)

今日はブルキナファソ最後の日。ワガドゥグ発パリ行きのエールフランス機は21時5分に離陸する。夕刻に空港に向かえば十分に間に合う。

朝10時過ぎにミッション・カトリックをチェックアウトし、荷物を預けて外に出る。まず以前修道女が案内してくれた本屋に赴く。CDを買うためだ。そもそも本屋だから、それほど多くのCDを扱っているわけではない。在庫はせいぜい50枚くらいか。予備知識はゼロなので、「ブルキナの伝統音楽」と「宗教的でないもの」(カテドラルの近くだから宗教色の強いCDが少なくなかった)という2つの条件をつけて店員にいくつか選んでもらい、あてずっぽうに3枚購入した。

街の中心に向かって歩いていると、間口一間ほどの小さなCD屋があったので、ここでも2枚購入した(正規品ではなく、CD-Rに焼いたものだった)。

あれこれしているうちに、すでに12時を過ぎている。Lonely Planetの旧版に掲載されていたLa Foretというレストランに入ることにした。ビールと料理を適当に注文する。出てきたのは羊肉のスープに加え、白くて大きな饅頭というかパンというか、ちょっと滑稽感が漂う不思議な代物。これがなかなかおいしかった。食感はパンのようでもあり餅のようでもある。ウガンダで食べたウガリに似ているが、ウガリと違ってほんのりとした甘みがついている。店員に聞くと「フート」ということだったが、帰国してから調べるとfufuという、キャサバ(cassava)やその他の粉物からつくられた食物らしい(「フート」は私の聞き間違いだろう)。「アフリカの旅行では食の楽しみは期待できない」という偏見がここでも修正された。

レストランで昼食

午後は昨日に続き裏通りの探索にあてた。子供の髪を編んでいる場面に遭遇し、動画に撮らせてもらう。ブルキナファソはどうにも写真や動画の撮りにくい国だと思っていたが、そうとも限らないようだ。テーブルが2つの小さな「カフェ」で一休みし(コーヒー1杯が10円か20円だった)、さらに探訪を続ける。

子供の髪を編む

街角の「カフェ」

食事をする子供たち

子供たち

夕方5時前にミッション・カトリックに戻り、空港までのタクシーを呼んでもらう。昨日、アメリカ人女性が「宿にタクシーを呼んでもらおうとしたが、あまりいい顔をされなかった」と言っていたのでちょっと気後れがしていたが、ごく普通の態度でタクシーの運転手に連絡してくれた。

5時かっきりにタクシーはやってきた。空港まで2000CFAとのこと。来たときより1000CFA安い。空港までの途、運転手と話す。サボのワニのこと、マリの政情不安のこと、ブルキナファソのクーデター騒ぎと最近の大統領選挙のことなど。運転手は「一番いい形に落ち着いた」と満足そうだった。その後1か月も経たないうちにワガドゥグのホテルが襲撃され30人もの死者を出すことなどこのときには知るよしもなかった。

夜の9時過ぎにワガドゥグを発った飛行機は翌朝6時にパリのシャルル・ド・ゴール空港に着いた。成田行きのエールフランス機は13時30分に発つ。ずいぶん待ち時間があるが、まだ真っ暗で寒いパリの街に出てもめんどうなだけだ。お金もかかる。空港で待つしかない。長い安楽椅子に横になり、休みながら待った。

パリから成田、成田から羽田、羽田から伊丹へと乗り継ぎ、ブルキナファソへの旅は終わった。

2016年1月22日金曜日

ブルキナファソ2015 12月22日(ワガドゥグ)

バゲットとインスタントコーヒーの朝食のあと、中庭に出てタブレットPCをネットに接続する(部屋の中ではWifiが弱すぎた)。メールをチェックし、日本の新聞などを読んでいると、50~60歳くらいのアメリカ人の女性がやって来た。この女性とは昨日もミッション・カトリックの事務所の前で遭遇している。フランス語を流暢にしゃべり、私が聞き取りに苦労したガードマンのフランス語もちゃんと理解していた。

彼女はロサンジェルス出身。今からボボ・ディウラッソに行く予定で、宿に呼んでもらったタクシーを待っているところだった。タクシーが来るまでのしばしの間の会話。

女性は西アフリカには何回か来ているらしく、今回は1か月以上をかけてブルキナファソを回るとのこと。fetishを収集していると言い、ネックレスの飾りとしているfetishを見せてくれた。めずらしいfetishを入手するには、少数民族が住む小さな村まで入っていかなければならないらしい。なかなか勇気ある女性だ。

ブルキナのフランス語がどうも聞き取りにくいという私の愚痴に対して、女性は「アメリカでは世界各地から来た人がいろいろな英語を話している。ロサンジェルスでは特にそうだ。だから訛りのある言葉には慣れている」と言っていたが、英語のいろいろな訛りに慣れているからといって、フランス語の訛りに対応できるわけでもないだろう。彼女のフランス語の能力が私より優れているとしかいいようがない。

「この国は安全だ」(I feel safe in this country)と言う彼女だが、表向きはニュージーランド人と称して旅行しているらしい。当節の事情からして、アメリカ人であることをおおっぴらにすると、風当たりが強くなり、リスクも大きくなる。英語をしゃべればニュージーランド人ではないことはすぐにわかるが、フランス語を話している限り、ばれはしないだろう。

女性がタクシーでバスターミナルに向かったあと、私は徒歩で街の中心に出る。昼食は(私にしては)ちょっとしゃれたレストランでとった。チキンとビール。おいしいが、チキンにあまり肉がついていなかった。正確な値段は忘れたが、4000CFA以上は支払ったように思う。

レストランで昼食

午後は裏通りの探索にあてた。水たまりのできた通り。粗末な家。その家の中で家事をする人たち。表通りの喧噪と山のような商品がワガドゥグなら、こちらの貧しさもワガドゥグだろう。写真や動画は裏通りのほうがずっと撮りやすい。

ワガドゥグの裏通り

裏通りの子供たち

夕食の食堂を探しついでに、夕方になってもう一度グランド・マーケットの近くに出る。ある建物の前で私に若い男が話しかけ、今日の8時からここでライブがあるという。私がブルキナの音楽のCDを探していることを知った男は、10分ほど歩いた場所まで私を連れて行き、しばらく待たせたうえで、10枚ほどのCDを持ってきた。新品のCDではなく、自分か誰かの所有物らしい。CDの中にはAlfa BlondyやAli Farka Toureのものが交じっている。Alfa Blondyはコートジボワールのレゲエ歌手だし、Ali Farka Toureは数年前に死んだマリの音楽家だ。残りのCDもブルキナのものかどうか疑わしい。当然私は購入しないし、男も強くは勧めてこない。次に男は「ここが一番大きいCD屋」という店に私を案内する。CDよりもテープのほうが多い。CDの値段を聞くと、7000CFAという法外な値段。早々に店を出て、男とも別れた。男は「コーラ代」を求めることもなく去っていった。ボボで私をコンサートに誘った男となんとなく似た感じだった。

普段なら路上の誘いかけには乗らないのだが、ボボでもでもワガドゥグでも「ライブ音楽」という「つぼ」、「泣き所」をつかれた形だ。しかし失ったのは時間だけで、とりわけ実害もなかったから、よい思い出としておこう。

カテドラルの近くの路上であぶったぶつ切り肉を購入し、宿まで持ち帰って夕食代わりとした。1000CFA(200円)。ちょっと高いが、その分だけ量が多かった。

カテドラルではミサが行われていたので、ちょっと覗く。音楽を伴ったアフリカらしいミサだった。

カテドラルのミサ

夜、男が言っていた「ライブ会場」へ行ってみようかとも思ったが、どこまで信用できる情報かわからないし、疲れていたのでやめておいた。

2016年1月18日月曜日

ブルキナファソ2015 12月21日(再びワガドゥグへ)

今日はワガドゥグに戻る日だ。ホテルで朝食をとり、周りを散策したあと、10時過ぎにサブのメインストリートに出た。メインストリートの裏にはMarche(マーケット)がある。ワガドゥグやボボのMarcheに比べれば小規模だが、小規模なりのおもしろさがある。昨日の苦い経験もあり、動画は遠慮しておいた。

サボのマーケット

ワガドゥグ行きのマイクロバスは頻繁に出ているようだ。料金は2000CFA。マイクロバスはワガドゥグまでの舗装された道を快適に走る。何か鳴き声が聞こえる。最初赤ん坊の泣き声かと思ったが、車内を見渡しても赤ん坊はいない。どうも動物の鳴き声のようだ。到着してからわかったことだが、マイクロバスのルーフの上に5、6匹の山羊がくくられていた。

サボからワガドゥグへ

2時間ほどでワガドゥグに着いた。着いた場所がどこなのかわからないが、ともかくミッション・カトリックに行きたい。ちょうどタクシー運転手が誘いかけてきた。ミッション・カトリックまでは2000CFAとのこと。妥当なところだろう。

午後1時近くにミッション・カトリックに着いたが、事務所は閉まっていた。ドアの貼り紙を見ると、午後は3時からオープンらしい。空腹だったので、昼食をとることにする。ミッション・カトリックの近くには適当な食堂がない。10分以上歩いてローカルの食堂を見つけた。ぶっかけ飯。並んで金属製の皿を差し出し、適当に汁をかけてもらう。400CFA(80円)だった。地元の人たちは手で食べているが、私はスプーンで食べる。手で食べるのに抵抗があるわけではないが、慣れていないのできれいに食べることができない。固形物はともかく、液体が混じっていると、食べる途中も食べたあともなんともひどい状態になる。慣れの問題だから、日頃から(つまり日本でも)カレーなどを手で食べるようにすれば「手食」のエキスパートになれるかもしれない。「箸やフォーク、スプーンを使うより、手で直接に食べるほうがおいしい」とはエリトリアで聞いた言葉だ。

昼食

2時過ぎにミッション・カトリックに戻ると、事務所はもう開いていた。ボボへ向かう前に21日と22日の部屋を予約しておいた(予約していなくても空き部屋は十分にありそうだった)。2泊分と朝食2食分の合計10000CFA(2000円)を支払う。

まだ見ていないグランド・モスクを見に街の中心に向かう。道を尋ねながらモスクにたどり着いた。ちゃんと知識のある人ならいろいろ見どころもあるのだがろうが、私にとってはただの建物だった。

グランド・モスク

モスクはGrand Marche(グランド・マーケット)の近くに位置している。グランド・マーケットはブルキナファソに到着した翌日にすでに訪れていたが、今日も相変わらずの喧噪だ。鉄道駅にまで足をのばすが、列車を運行しているような気配はなかった。

グランド・マーケット付近

以前ここを訪れたときに食べたぶっかけ飯がおいしかったので、そのときの食堂を探すが見つからない。私の方向感覚、土地感覚のなさには困ったものだ。路上で串焼きの肉をサンドイッチにして販売している。おいしそうなので、これを夕食代わりにすることにした。値段はいくらだっただろうか。500CFA(100円)だったかもしれない。

すでに日が暮れた中、ミッション・カトリックまで歩いて帰る。夜の道は怖い。人が怖いのではない。どこにポコッと穴があいているかわからない怖さ。何かに躓く危惧もある。そのうえ無灯火で走る多くの自転車。モーターバイクでさえ無灯火のものがある。

ミッション・カトリックに戻って食べたサンドイッチは予想どおりおいしかった。スパイスがかかりすぎで、かなり辛かったが、それを差し引いても十分合格点だ。これまでの経験から出発前には「中国やアジアと比べてアフリカの旅には食の楽しみはない」と思っていたが、少し修正の必要がありそうだ。

串焼き肉を挟んだサンドイッチ

2016年1月14日木曜日

ブルキナファソ2015 12月20日(サブ)

Campement Touristiqueでの朝食は500CFAだった。バゲットとインスタントコーヒー(または紅茶)に加え、オムレツも付いている。プレーンのオムレツではなく、トマトなどが入っており、思いのほかおいしかった。宿泊客は私のほかにはいないようだった。

Campement Touristiqueは湖(フランス語ではmareだが、沼というより湖と呼んだほうがしっくりする)に隣接している。ワニが生息しているので有名な湖らしいが、ワニを見ることはできなかった。冬なので水の下に潜っていたのだろうか。

朝食後、ホテルの周りを散歩する。湖の水を利用して女性たちが洗濯をしている。ひと言断ったうえで、その動画を撮らせてもらう。喧噪が渦巻くワガドゥグやボボでは見なかった風景だ。



ひとしきりのんびりと散策を続けたあと、サブのメインストリートに出た。ボボとワガドゥグをつなぐ街道がすなわちサブのメインストリートだ。通りの風景の動画を撮っていると、怒り顔の男が近づいてくる。「我々は珍しい動物ではない。勝手に写真を撮るな」と強い調子で言う。撮っている途中の動画を削除せざるをえなかった。動画や写真の削除を要求されたのは、ウガンダ、スーダン、北朝鮮に続いて4回目だ。

サブのメインストリート

サブはなにぶんにも狭い町だから、この男とはこのあとも何回か顔を合わせ、言葉を交わすことになる。写真や動画を撮るには「許可」(authorization)が必要だと言う。だが、個人にフォーカスを合わせた写真ならともかく、風景写真や町の様子の写真では許可の求めようがない。つまり不特定多数の人が映っている風景写真は不可能ということになってしまう。マリでも同じことを言われたが、撮った写真の削除までは求められなかった。もっともマリではただの風景写真を撮っているときに「ここを撮るならお金を払え」と言われたこともある。

昼食はメインストリートに面した食堂でとった。肉汁とライス、それにビールを付けて900CFA(180円)。ビールはローカルのBraknaというブランド。

昼食

サボではすれ違う人の多くが「Bon jour」と挨拶してくる。何かを売りつけようとするための挨拶ではない。これはマリのキタと似ている。ブルキナファソの場合、田舎だけでなくボボやワガドゥグでも挨拶してくる人は少なくなかった。

小さな町を隅から隅まで歩く。土をこねてく煉瓦をつくっている男たち。樹の下で互いの髪を編んでいる女たち。自動車のタイヤを棒で追いかけて遊んでいる子供たち。写真もたっぷり撮ることができた。サブで「途中下車」しなければ、こうした生活の一コマ一コマをじっくりと見ることができたかどうか。

髪を結う女性

少女

親子

子供1

子供2

子供3

夕食はCampement Touristiqueでとった。今日はクスクスを選んだ。おそらく上にかけるソースはスパゲッティでもクスクスでも同じだろう。おいしい。ここの料理人はなかなか腕がいいようだ。

2016年1月11日月曜日

ブルキナファソ2015 12月19日(サブへの移動)

Koudougou(クドゥグゥ)行きのバスに乗るため、朝食をとったあと、9時過ぎにホテルを出る。15分くらい歩き、昨日切符を購入したGuichetに着く。Guichetの前に大型バスが止まっていたが、これはコートジボワール行きの国際バスだった。やがて別の大型バスがGuichetの裏手にある駐車場に入ってきた。だがこれは夕方5時発のクドゥグゥ行きだという。

昨日私に切符を売りつけたGuichetの男をつかまえると、バスはもうすぐ来るからここで待つようにとのこと。だが、約束の10時になっても来ない。11時半になっても来ない。どうも大型バスではなく、乗り合いのマイクロバスを待っているようだ。ところがマイクロバスも来ない。やがて私はGuichetの男の指示で別の場所にモーターバイクで連れて行かれ、そこに待っていたマイクロバスに乗せられた。モーターバイクでここまで私を連れてきた男は私に「ガソリン代」を請求した。Guichetの男の依頼で私を運んだのであり、私が払う筋合いではない。しかもほんの5分ほどの走行だった。にもかかわらず、1000CFAを払ってしまった。ここらへんが私の甘さだ。

日本よりはるかに貧しい国を旅行した場合、ある程度のお金を支出するのは旅行者としてのいわば「礼儀」であろう。食事、宿泊費、交通費などをすべて現地人と同じぎりぎりのレベルに抑えようとは思っていない。現地の物価と異なる「外国人価格」が存在することにもそれほどの抵抗はない(もちろん甚だしいギャップはごめんだが)。微々たるものとはいえ、こうした出費の集積が現地の観光業を助け、経済的な自立につながるのではという思いがある。物乞いに施すよりは意味のある出費ではないだろうか。だが、できることなら、「エキストラ」のお金はちゃんとまじめに商売している人に渡したい。詐欺師やその見習い、平気で約束を破る手合いには渡したくない。余計なお金を出して後悔するのはこうしたときだ。

私が乗るとほどなくして出発したマイクロバスだが、いろいろなところに立ち寄り、ボボを出たのは11時半ごろだった。大型バスが急行列車なら、マイクロバスはローカル列車。乗客が降りたい場所で停まり、新しい乗客を拾って、空いた席を埋める。

ボボ・ディウラッソを去る

ワガドゥグからボボへ来たときと同様、帰路でもBoromoで休憩があり、あぶった肉のぶつ切りとコーラで昼食代わりとした。

運転手と乗客のやりとりを聞いていると、どうもこのマイクロバスはワガドゥグ行きらしい。私の目的地であるクドゥグゥはボボとワガドゥグをつなぐ道路から少し外れて位置している。不安になって運転手に尋ねると、「クドゥグゥへ行く」との返事だった。しかし私の予感は的中し、ワガドゥグに到着する手前、サブ(Sabou)という小さな町で私は降ろされ、別の男に託される。クドゥグゥはサブから25Kmほど離れている。男は私をクドゥグゥ行きの乗り合いタクシーに案内する。大型バスならボボからここまで4時間くらいだろうが、「各駅停車」のマイクロバスでは6時間以上かかり、外はすでに暗くなっている。

しかし、このサブという町、「都会」ではないが、そこそこ大きそうだ。宿もあるという。人の多い場所はワガドゥグとボボで十分だ。ブルキナファソ第3の人口のクドゥグゥより、ここのほうが落ち着くのではないか。急遽、サブに宿泊するとにして、男に宿まで案内してもらう。

この男、50歳代くらいか。鞄を抱え、「知的労働者」といった雰囲気を漂わせている。自分でもジャーナリストだと言っていた。

夜の7時をとっくに過ぎ、町の中心を離れると真っ暗。自称ジャーナリストと私は暗闇の中を宿に向けて歩く。10分ほどで"Campement Touristique"という名の宿に着いた。翌日になってわかったことだが、サブにはここしか泊まるところがなさそうだ。Campement Touristiqueに行く途中でAuberge(宿)という看板を見かけたが営業はしていそうになかった。

シャワー付きだがトイレは外の個室が1拍10000CFA(2000円)。部屋はそれぞれ独立して建っており、なかなか趣がある。ここに2泊することにした。夕食は宿でとった。スパゲッティで1000CFA。空腹だったせいもありおいしかった。

Campement Touristique1(翌日撮影)

Campement Touristique2(翌日撮影)

私を宿まで連れてきた男は最後に私に「コーラ代」を要求する。1時間近く私に付き合ってくれたから、多少のチップはやむを得ない。男は自分の名前と電話番号を書いたメモを残して去った。メモには"Ecrivain-journatiste"(作家・ジャーナリスト)と記されていた。実によくしゃべる男だった。宿のオーナーは「あの男は頭がちょっといかれている」と言っていた。頭がおかしいとは思わなかったが、変人であったことは確かだ。

さて1日のほとんどを移動に費やしたこの日はいったい何だったのだろうか。まずサブ(本来はクドゥグゥ)までの移動費が6000CFAは高すぎる。これは大型バスの値段だ。それよりずっと時間がかかるミニバンならせいぜい4000CFAくらいだろう。Guichetの男が私を欺いたのか、大型バスがなくてやむなくそうしたのは不明。なんとも訳のわからない移動だった。

しかし、結果的にサブに泊まることができたのは幸いだった。クドゥグゥへ行くよりはよかったように思う。もちろん、クドゥグゥでどのような出会いや体験が待っていたかはわかないから、こうした比較は無意味だが、少なくとも「田舎町を見たい」という希望はサブでかなえられた。

私をサブまで運んだマイクロバス

2016年1月8日金曜日

ブルキナファソ2015 12月18日(ボボ・ディウラッソ)

Ententeホテルは朝食付きになっている。バゲットとインスタントコーピーの朝食をとったあと、部屋で今後の行程を検討する。帰国便は23日21時05分にワガドゥグを発つ。日程に関してきわめて慎重な私だから、21日にはワガドゥグに帰っていたい。今日は18日。19日と20日の2日間が空く。首都のワガドゥグ、第2の都市のボボのあとはどこか田舎に行きたいところだが、適当な目的地が見つからない。結局、交通の便や宿を考慮し、Koudougou(クドゥグゥ)を訪れることにした。クドゥグゥはブルキナファソ第3の都市であり、ボボとワガドゥグをつなぐ道路から少し外れたところに位置している。第1、第2、第3の街を訪れるのは能のない話であり、おもしろみに欠けるが、無難ではある。

そうと決まれば、バスの切符を確保しておきたい。というわけでTCVのバスターミナルに向かう。だがTCVの窓口ではクドゥグゥ行きの切符は扱っていないという。別のバス会社に行く必要がある。

このやりとりはフランス語だったが、窓口の女性の言っていることがなんとも聞き取りにくい。ブルキナファソに来てから、こうしたことが頻繁に起こる。"Je ne comprends pas"(I don't understand)を何回口にしたことやら。フランスをはじめ、マリやモロッコではこうしたことはなかった。もちろん相手の言うことを100%理解していたわけではないが、旅行レベルのフランス語でコミュニケーションに支障が生じる経験は初めてだ。自分のフランス語能力に自信を失う一方、これはブルキナファソのフランス語のなまりのせいだという思いもあった。

これはちょっと自分に甘い見方だったかもしれない。ブルキナ最後の日に空港へ向かうタクシーの中から撮影した動画に私とタクシー運転手のフランス語の会話も録音されていた。帰国してからこの動画を再生して判明したのは私のフランス語の発音のひどさ。タクシー運転手のフランス語のほうがよっぽどフランス語らしい。私の言うことのほぼすべてが通じていたことのほうが不思議だ。

ともあれ、周囲の人に道を聞きながら、別のバス会社(名前は失念した)に向かう。それらしき場所に着いたが、見つからない。歯の抜けた老人に案内してもらってやっと"Guichet"(窓口)と書かれた切符売り場らしい場所を見つける。教えられたバス会社ではなさそうだが、ともかく問い合わせてみる。クドゥグゥへのバスは朝の7時と夕方の5時とのことだった。朝の7時では早すぎるし、夕方の5時では遅すぎる。迷っていると、Guichetの男は午前10時もあるという。10時を選んで、代金の6000CFAを渡す。渡された切符は切符というより領収書みたいな様式で、時刻も座席番号も書いてない。まあ常設のGuichetだし、インチキということはないだろう。

昼食はEntenteホテルでとった。ビュッフェ式の昼食で、3000CFA(600円)とちょっと高め。クスクスやライスなどが用意され、まずまずだった。昼食をとっていると、昨夜私にCDを売りつけた男が現れた。私をターゲットとしてやって来たのか、たまたま立ち寄ったのかはわからない。ボボやその近郊のガイドをするという。昨夜のことがあるから、もちろん断った。

午後は、まずグランド・モスクを見物したあと、ボボの裏通りの探索にあてた。裏通りに行くとさすがにのんびりしている。表通りやマーケットの活気もいいが、生活の臭いがする裏通りや路地も好きだ。

グランド・モスク

ボボの裏通り1
ボボの裏通り2
子供たち

写真を撮りながら、ボボの街をさらに散策する。陽が暮れてきたころ、若い男が英語で話しかけてくる。自称アーチストのその男はコンサートのチラシをもっており、私を誘う。コンサートの日付は明日の19日だが、今日もやっているという。日本人の友達もいると言い、くしゃくしゃになった「大槻」という名入りの名刺を見せる。いかにもあやしいが、ついていくことにした。ライブの音楽を楽しみたいという、私の「つぼ」をつかれたからだ。

男が向かった先は市の中心から少し外れたKokoと呼ばれるエリア。ここにはInstitut Francaisがあり、そのバーでは確かに数人の男が演奏をしていた。しかし、男はバーにとどまるでもなく、さらに私を連れ回す。演奏は西アフリカの音楽ではなく、私も執着はなかった。男の意図がまるでわからない。だが、陽もとっぷりと暮れてきたころ、男は「コーラ代をおごってほしい」と言う。これが目的だったのだが、その対価として男が提供したサービスは実体がなかった。「コーラ代」は断ったが、男は怒るわけでもなく、がっかりした表情をしていたけだった。

この「コーラ代」は自称ガイドなどが「サービス」の対価を要求するときによく使う表現だ。マリでも何回か同じ要求に遭遇した。

男を別れて街の散策を続けていると、またこの男と遭遇した。今度はフランス人の老夫婦と一緒に歩いている。私を見つけると、まるで友達であるかのように「日本から来ている」と私を老夫婦に紹介する。あまり害もなさそうなので、老夫婦に警告することは控えておいた。

夕食のための食堂を探していたが、こぎれいなベーカリーがあったので、サンドイッチで済ますことにした。サンドイッチだけで十分だが、ホイップクリームを挟んだ菓子パンもおいしそうで抵抗できず購入した。コーラを追加して、代金を払おうとしていると、3歳くらいの男の子が私のほうに手を差し出す。一瞬物乞いかと思ったが、それにしては身なりがちきんとしている。握手を求めていたのだ。少し離れた場所から父親らしき男性がニコニコと笑いながら見守っている。

親子とバイバイして、宿に戻り、サンドイッチと菓子パンを食べた。どちらもおいしかったが、ちょっと食べ過ぎだ。

昨夜CDを売りつけてきた男や私を数十分連れ回した男などで、いくぶんくさくさしていたが、最後の親子の笑顔に救われた。「ブルキナファソも捨てたものじゃないぞ」という気分になった。

2016年1月5日火曜日

ブルキナファソ2015 12月17日その2(ボボ・ディウラッソ)

Ententeホテルを出ると、さっそく自称ガイドの声がかかる。「ガイド」してもらう気はさらさらないが、少し情報を得ておこうと、ライブ音楽をやっている場所を尋ねた。なんと、あてにしていたLes Bambousはもうやっていない(fermé)というではないか。1泊3700円という(私にとっては)高価なEntenteホテルを選んだのも、このライブ会場に近いからだったのだが。他にライブをやっているレストランというと街外れにあるLe Bois d'Ebeneくらいしかないらしい。ライブが始まるのは夜の9時からだという。

Les Bambousはホテルから歩いて5分ほどなので、ほんとうに営業していないかどうか確かめに行く。自称ガイドの言うとおりだった。周りにいた人にも聞いてみたが、やはりやっていないらしい。

まだ日は暮れていないので、ともあれボボの街の探索に出る。まず驚かされるのがモーターバイクの数。首都のワガドゥグよりも多い感じだ。ワガドゥグは大きな街で、混雑もあちこちに分散しているが、ボボは人とモーターバイクが比較的狭い場所に集中しているせいかもしれない。「ブルキナファソはマリの田舎」という思い込みはこれで完全に砕ける。

ボボの喧噪

市の中心にはGrand Marche(グランド・マーケット)がある。こちらはワガドゥグのものほど大規模ではないが、活気や熱気はワガドゥグに劣らない。

ボボのグランド・マーケット

夕食はホテルの近くの食堂でとった。客は私以外にいなく、接客もあまりやる気がなさそうだった。肉汁とライス。肉は確かチキンだったように思う。値段は忘れた(ということは特に高くもなく安くもなかったということだ)。

夕食

宿に戻って一休み。ブルキナファソに到着してからいつも夜9時ごろには就寝していたのでちょっとつらいが、Le Bois d'Ebeneのライブに行くつもりだ。Le Bois d'Ebeneは宿から遠い。歩けば30分、いや40分くらいかかるだろうか。暗闇の中で見知らぬ道を歩くつもりはなく、8時15分くらいになって宿を出て、タクシーを拾う。代金は1500CFAとのこと。10分たらずでレストランに着いた。

Le Bois d'Ebene

テーブルチャージとして500CFAを払う。欧米人を含む20人ほどのグループや地元の客などで席の半分ほどは埋まっている。前方のテーブルに席をとり、ビールを注文して演奏の始まりを待つ。演奏は9時半ごろから始まった。舞台上の垂れ幕にはJazz、Rockなどの文字が書かれていたから、ひょっとするとジャズやロック、はたまたヒップホップが始まるのではないかと危惧していが、登場したのはジャンベ、バラフォンといった西アフリカの楽器とギターで、まぎれもなくブルキナファソの、西アフリカの音楽が始まった。ジャズやロックが嫌いなわけではない(ヒップホップは嫌いだが)。だが、今ここでは聞きたくない。ここで聞きたいのは西アフリカの楽器であり、西アフリカのリズムであり、西アフリカの歌だ。若い女性のボーカルがよかった。リズムに乗ったふりと伸びのある声。

ライブ音楽

演奏を動画に収めながら音楽を楽しんでいると、私のテーブルに男が近づいてきて英語で挨拶し、このグループのCDを売りつけようとする。断ると、「CDを買わないなら動画を撮るな。買えば撮影していい」と言う。男がレストランのスタッフかどうかはわかならいが、CDを購入すれば撮影していいというのはばかげている。ただこのグループのCDなら購入してもいいという気持ちも少しはあった。値段を聞いてみる。10000CFA。法外な値段だ。再度断ると、5000CFAにまで下がった。ここでついこの値段で買ってしまった。「動画の撮影を許さない」という脅しが効いていたのかもしれない。ワガドゥグで役立たずの地図を買ってしまったことに次ぐ2度目の失敗。帰国してからわかったことだが、このCDは新品ではなく、まともに再生できない欠陥品だった。地図の件はこちらの不注意だが、このCDの件は明らかにcheating(欺し)だ。

マリではブルキナファソ以上に自称ガイドのつきまとわれたが、こちらを欺そうとする手合いには出会わなかった。彼らとの会話はそれなりにおもしろく、役に立つ情報も得られた。うっとうしいと思った体験も今となっては懐かしい思い出になっている。しかし、少額とはいえ欺された体験はいつまでもトゲとして刺さる。

演奏は続き、飛び入りの客たちの踊りとジャンベの掛け合いで佳境を迎えている。しかしもう夜も11時を過ぎている。帰りの足が心配だった。このレストランは人気のないところにポツンと建っている。真っ暗な見知らぬ道を30分も40分もかけて帰るのは不可能に近い。危険でもある。この時間、この場所でタクシーが捕まるかどうか。いつまでぐずぐずしていても仕方ない。外に出ようとすると、さっきCDを売りつけた男がどこからか私に近づき、「もう帰るのか」と聞く。だったらモーターバイクでホテルまで送っていくというのだ。これは正直ありがたかった。レストランの前にモーターバイクがずらりと並んでいる。大半の客はモーターバイクで来ており、タクシーなど通っていそうにない。

無料で送ってやるということだったが、宿に着くと案の定「ガソリン代」を要求してきた。

この男には翌日にも遭遇した。ボボの街の「ガイド」をしつこく勧誘してきたが、もちろん断った。この男のおかげでせっかくのライブ音楽に小さな汚点が残った。「ブルキナファソはマリの田舎みたいなところで、いい人ばかり」という幻想も吹き飛んだ。

ブルキナファソの名誉のために付け加えておけば、多少なりとも金銭的な「被害」に遭ったのはこのときだけで(地図の件は私の不注意としておこう)、「のんびりしていて人がいい」というのは大半のブルキナ人に当てはまる。道を聞けば親切に教えてくれるし、バスの中では食事を分かち合おうとしてくれる。

CDを売りつけた男も売りつけざるをえない事情があったのかもしれない。多少英語は話せる。仕事はない。ボボはブルキナファソのなかでは観光客が多いところだが、それでもたかがしれている。まともなガイドでは食べていけず、たまに遭遇する外国人を「欺す」しか生きていく手段がないのかもしれない。

Honestyこそがビジネスの最強の武器であり、最善の戦略だと思うのだが、どうだろうか。それとも現実を知らない戯れ言に過ぎないのだろうか。もしあのライブ会場で男が真摯に対応してくれていたなら(たとえば料金をちゃんと明言したうえでモーターバイクで宿まで送ってくれただけだったら)、次の日のガイドの誘いにも乗っていたかもしれない。そのうえ、同じ金銭を稼ぐのだったら、相手の喜ぶ顔を見て稼ぐほうが気持ちがいいのは人間の性だし、長続きもするだろうに。

同じようことはエチオピアでも感じた。しかし、こうした甘い見方を許さない現実があるのかもしれない。

2016年1月3日日曜日

ブルキナファソ2015 12月17日その1(ボボ・ディウラッソへの移動)

今日も朝早く目が覚めた。6時半過ぎに朝食のために食堂へ行くと、私以外にまだ誰も来ていなかった。

今日はBobo-Dioulasso(ボボ・ディウラッソ)へ移動する日だ。9時に昨日のタクシーが迎えに来てくれることになっている。持ち合わせのなかったお釣り(2000CFA)の代わりに、今日バス会社のTCVまで乗せていくという約束だった。

はたしてタクシーが実際にくるかどうか半信半疑でミッション・カトリックの中庭で待っていた。約束をすっぽかされたところで私には追求の手段がない。手段があったところで、わずか2000CFA(400円)のために時間と労力を費やすつもりもなった。

9時かっきり、タクシーはやって来た。タクシーに乗ってからも「ひょっとすると新たに代金を要求してくるのではないか」という危惧を捨てきれなかったが、そうしたこともなく、笑顔で気持ちよく下車して別れた。

バスは定刻の10時ちょっと過ぎに出発した。満席に近かったが、私のシート番号は4。最前列のシートだ。ワガドゥグからボボまでは5時間ちょっと。バスは舗装道路の上を快適に走っていく。途中休憩のためにBoromoという町で停車した。10分か15分くらいの休憩なので、食堂に入って食事をとる余裕はない。頭に飲み物や食べ物を載せた女性たちがバスから降りる客に群がってくる。10歳くらいの少女も多い。私は少女のひとりからお菓子6個(500CFA)を購入し、さらにさらにあぶった肉のぶつ切りを500CFAで購入してバスの中で食べた。同じような肉のぶつ切りはマリでも食べたことがある。

ワガドゥグからボボまで

バスに群がる売り子たち

バスは午後3時過ぎにボボのTCVバスターミナルに着いた。まずはLonely Planetに掲載されているEntenteホテルを目指す。もっと安いホテルやホステルもあるが、どれも街の中心から遠かった。バスターミナルからEntenteホテルまでは歩いて10分ほどあるが、ターミナル近くの商店で道をていねいに教えてもらったおかげで迷わずに到着した。

しかしEntenteホテルでは扇風機だけの部屋はすべてふさがっていた。扇風機の部屋なら10000CFA(2000円)だが、エアコン付きとなるとその倍の20000CFAになる。今の季節、エアコンは不要だ。立ち去ろうとすると、18500CFAにまで値下げするという。それでも高すぎる。再度立ち去ろうとしたが、さらなる値下げの提案はなかった。ホテルの前庭のテーブルに腰掛け、Lonely Planetを広げて別のホテルを探そうとした。が、はたと考えた。「ブルキナファソで1泊3700円は高いが、日本ならどうということはない値段だ。それにいまさら別の宿を探すのはめんどうだ。適当な宿があるかどうかも確かでないし。」もうひとつ決め手があった。EntenteホテルがLes Bambousというライブ音楽をやっているレストランに近かったことだ。ブルキナファソでは少なくとも1回はライブ音楽を聞きたいと思っていた。

で、また受付に引き返し、18500CFAのエアコン付きの部屋に2泊することにした。このときの受付は若い女性だったが、愛想ややる気のみじんも感じられなかった。動作もだらだらしているし、笑顔もない。これがブルキナファソのスタンダードかとがっくりしたが、あとで接した他のスタッフは、愛想がいいというところまではいかなくても、まずまず親切で、笑顔もあった。

Ententeホテル

部屋は高いだけあって広く、シャワーもお湯が出る。テレビでCNNのニュースやフランスの番組を見ることもできる。Wifiも部屋の中で使える。ただ信号は弱く、ここでもEconomistのNew issueはダウンロードできなかった。

しばらく休んでから外へ出た。

ここでLonely Planetの西アフリカ編についてひと言。私は2009年のマリ旅行の際に購入した西アフリカ編のブルキナファソの章(紙の印刷物、旧版)と2013年に出版された西アフリカ編のブルキナファソの章(PDFファイル、新版)の2種類を持って旅行した。役に立ったのは圧倒的に旧版のほうだ。Amazonの評価でも西アフリカの新版は星1つの評価になっている。旧版に比べて情報が大幅に削減されているからだ。ブルキナファソについても同様。新版を購入したのは無駄だった。

2016年1月1日金曜日

ブルキナファソ2015 12月16日(ワガドゥグ)

ミッション・カトリックの朝食は6時から8時の間と決まっている。機内でとった食事のおかげで腹が空いていなかったこともあり、昨夜は夜食をとらずに9時過ぎにそのまま寝入ってしまった。目が覚めたらまだ朝の4時。ベッドに横たわって体を休め、7時になって食堂に向かった。

朝食はフランス式でバゲットとコーヒー(または紅茶)だけ。コーヒーはインスタントだ。これで1000CFAはちょっと高いが、バゲットはおいしかった。コーヒー茶碗は取っ手が付いておらず、ボウルの形になっているのがブルキナらしい。

ミッション・カトリックは修道女たちによって運営されている。食堂にも大勢の修道女がいた。加えて、男性の宿泊客が2、3人に欧米人が2、3人。

ミッション・カトリックでの朝食

朝食後、ミッションの受付に出向いた。聞きたいことが3件あったからだ。
  1. 明日はブルキナファソ第2の都市Bobo-Dioulasso(通称ボボ)に行くつもりだが、バスの切符はどこで買えばよいのか。
  2. ユーロをCFAに両替するにはどこへ行けばよいのか。昨日空港で100ユーロ両替したが、これだけでは心もとない。
  3. ブルキナファソの伝統音楽を聞くにはどこへ行けばよいのか。

受付の女性の答えは次のとおりだった。
  1. TCVというバス会社がベスト。TCVまではタクシーで行くとよい。
  2. 両替はここでも可能。ということでさらに100ユーロをCFAに換える。両替のレートは昨日の空港と同じ。
  3. 近くにいた中年の修道女がカテドラル近くの2軒の本屋に案内してくれた。その本屋にはCDも置いてある。実は私が知りたかったのはライブの音楽会場だったのだが、これはliveであることをちゃんと言わなかった私が悪い。そもそも修道女にライブの音楽会場を尋ねること自体がどうかという気もする。案内された本屋では帰国前日に何枚かのCDを購入することになる。

シャワーを使ってから(水シャワーだから、さすがにこの時期寒く、髪を洗っただけ)、カテドラルを出る。カテドラルの前ではクリスマスを控えてcreche(キリスト生誕の飾り)を売っていた。男2人が近づいてくる。皮製の地図を持っている。マリの地図だ。「我々はマリからの避難民だ。マリは今ひどい状態になっている。これを買ってくれないだろうか」と売り込んでくる。またあとで来るからと言ってその場を切り抜けた。

カテドラル前のcreche売り場

creche売り場を離れ、ワガドゥグの中心であるGrand Marche(グランド・マーケット)を目指す。20分近く歩いただろうか。Grand Marcheの建物が見える。人、モーターバイク、騒音のカオス。さっそく声がかかる。物売りの誘いだ。断ってもついてくる。「ブルキナファソはマリの田舎」という思い込みがもろくも崩れる。6年前の記憶との比較だからあまりあてにならないが、この喧噪はマリのバマコを上回っている。期待していたのはもっとのんびりした、もっと穏やかで静かなブルキナファソだったのだが。

Grand Marche

ワガドゥグの喧噪

「田舎」の対義語は「都会」だが、ワガドゥグを都会と呼ぶのはちょっとひっかかる。「都会」という言葉が内包する高層ビル、しゃれた店、光の洪水などが皆無だからだ。いずれにしてもマリに似てはいるが、田舎ではない。

路上でブルキナファソやワガドゥグの地図を売りつけてくる男がいた。普段ならこの種の誘いは無視するのだが、Lonely Planet掲載の地図ではいささか頼りないこともあり、ちょっと興味をひかれる。ワガドゥグの地図が13500CFAだという。高すぎる。いくらなら買うかというので、「5000」と答える。これが失敗だった。ブルキナに着いて初めてお金を使う場面なので、金銭感覚が狂っていたのだ。結局8000CFAで購入することになった。13500が8000になったのだから、だいぶ値切ったと思ったが、そもそも13500CFAというのが法外な値段だった。8000CFAでも日本円にすれば1600円。地図1枚に1600円はありえない。CFAの金額に0.2を掛ければ日本円の金額になると気づいたのはこのあとのこと。そのうえ、1600円も出して購入したこのワガドゥグの地図は郊外にばかりに詳しく、肝心の市の中心部はおざなりで使い物にならなかった。

自分で納得して購入したのだから「欺された」というのはあたらない。不注意だっというしかない。この旅最大の浪費だった。

昼食はマーケットの近くのローカルの食堂でとった。ぶっかけ飯で300CFA(60円)。ライスの上に乗っている魚と野菜がおいしかった。

60円の昼食

さて、明日のBobo-Dioulasso(ボボ)行きのバスの切符を購入しなければならない。マーケットの周りにはたくさんのタクシーがたむろしている。そのうちの1台を拾い、値段を聞く。「TCVまで行き、切符を買ってカテドラルに帰るまでひっくるめて3000CFA」とのこと。妥当なところだろう。

バス会社のTCVはそれほど遠くない。歩けば30分から40分くらいだろうか。明日10時発のボボ行きの切符を購入する。7000CFAだった。

カテドラルに帰り、5000CFA札でタクシー代を払おうとすると、お釣りがないという。2000CFAのお釣りは、明日カテドラルに迎えに来てTCVまで乗せていくから、それで相殺してくれとの提案。実直で気がよさそうな運転手だったので、OKの返事を出し、明日朝9時に迎えにきてもらうことにした。9時という早めの時間にしたのは、万一迎えに来てくれなかった場合、自力でタクシーを探さなければならず、そのための時間を考慮したからだ。

ミッション・カトリックでは昼食と夕食も提供している。それぞれ2500CFA。少し高いが1度くらいは経験だと思い、この夕食を申し込んだ。

夕食は7時から。夕食に現れたのは30人くらい。外国人らしきは私と欧米の中年女性の2人だけだった。この日の夕食はスパゲッティ。私のテーブルの向かいに真っ赤なスーツの若い黒人女性が座る。ブルキナファソでスーツ姿はめずらしい。この女性と英語での会話となった。女性はブルキナファソ出身だが、現在はガーナのmarine logisticsの会社で働いているという。英語をしゃべれるのはそのためだ。

マリの音楽の話になった。マリの音楽はブルキナファソに広く浸透している。Rokia Traoreは現在パリに住んでいることなどを知った。現在のマリは音楽にはふさわしい環境でないから、不思議ではない。

女性はマリには行ったことがあるが、アフリカ大陸以外は訪れたことがない。来年は仕事でパリに行けるかもしれないとうれしそうに語っていた。

日本人と話すのは私がはじめてかと聞くと、そうではないとのこと。ブルキナファソでモーターバイクの事故に遭遇して腕を骨折したとき、リハビリの病院に日本人のボランティアがいて友達になり、フランス語を教えたりしていたという。

ガーナの首都のアクラはブルキナのワガドゥグやマリのバマコよりずっと近代的で、ずっと都会らしい。ボボはマリに近いので、よりマリに似ていることなどもこの女性から知った。

今日も疲れている。部屋に帰り、灯りをつけたまま寝入っていた。