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2017年5月7日日曜日

金正日の料理人藤本氏を訪ねて 五日目(新義州から丹東へ)

004月18日。

朝8時半に1階のホールで朝食をとり(サンドイッチがおいしかった)、ホテルを出発、新義州を目指す。東林地区から新義州に行くには、舗装されていない道を2時間くらい揺られることになる。だが、出てしばらくして車が故障。修理はかなわず、代替車に乗り換える。このため40分ほどのロスが生じた。こうした予定外のトラブルも北朝鮮体験のひとつだ。

今日は午後4時のバスで北朝鮮を出て、丹東へ向かうことになっている。ただでさえぎっしり詰まったスケジュールがさらに過密になった。このあと何回も「빨리! 빨리!」(パリ、パリ=速く、速く)とせかされるはめになる。

最初の目的地の共同農場は車を降りてしばらく散策した程度。戸外にあるトイレが中国の田舎並みの状態だったことくらいしか印象に残っていない。

朝方降っていた小雨は上がったが、空ははどんよりした雲に覆われている。そんな曇り空のもと、化粧品工場を訪れる。ここでは朝鮮人参を使った春香ブランドの化粧品が製造されている。このブランドは中国人に人気があり、数多く輸出されているとか。経済制裁はここまでは及ばないのだろうか、それともこの輸出にも陰りが見えているのだろうか。日本にいるときには抽象的な意味しか持たなかった「経済制裁」という言葉が現実味を帯びて迫る。

工場のグラウンドではサッカーの試合が行われていた。職場対抗試合といったところか。観衆がやんやと歓声を上げている。マイケルが持参していたPaektu Cultural Exchangeのバナーをビルとブライアンが広げ、歓声と拍手がさらに高まる。

バナーを広げるブライアンとボブ

化粧品工場をあとにし、金親子の銅像に全員で一礼を捧げたあと、レストランに入って昼食。食べきれないほど数々の料理が出てくる。魚のフライがおいしかった。

昼食後に向かったのは丹東を望む鴨緑江の岸辺。中国と北朝鮮をつなぐ中朝友誼橋がすぐ間近にあり、丹東側には米軍の爆撃によって破壊された橋も見える。この壊れた橋(鴨緑江断橋)は丹東の観光スポットであり、北朝鮮を垣間見るために多くの中国人観光客が訪れている。2013年には私もこの橋の付近から北朝鮮側を眺めたものだ。北朝鮮側から見る丹東には高いビルが林立している。

北朝鮮から眺めた丹東

続いて歴史博物館を訪れる。古代から現代までのこの地方の歴史がひととおり展示されていたが、ほとんど駆け足で通り過ぎたこともあり、植民地時代の漢字交じりの新聞くらいしか記憶に残っていない。

次の目的地の民族公園のほうはもっと印象的だった。新婚のカップルが写真を撮っている場面に遭遇したからだ。招かれてブライアンがカップルの写真に加わり、周囲から拍手が沸く。「チュッカハムニダ」(お祝いします)という言葉をかけて、この場を去った。

民族公園の新婚カップル

まわりの人たち

公園にはブランコがあり、チマチョゴリを着た若い女性が腰掛けている。それを押すもう1人の若い女性。朴ガイドが朝鮮に伝わるブランコ遊びを説明する。このブランコの女性は我々向けの演出、つまり「やらせ」だったのだろうか。断言はできないが、その可能性は高い。

ブランコの女性

最後の訪問先は新義州市本部(본부)幼稚園。これは新義州観光の目玉でもある。本来ならいろいろな教室を見て回るのだが、時間に追われている我々は、金親子の偉大さを注入する教室を覗いただけで、園児たちのパフォーマンスが行われる会場へと急ぐ。

会場にはすでに20人ほどの中国人観光客が待っており、我々の到着と同時に園児たちが舞台に登場する。2人の男女園児が独特の抑揚でパフォーマンスの開始を告げる。女児が朝鮮語で説明し、それと同じ内容を男児が中国語で繰り返す。さらにマイクでも中国語の解説が流れる。完全に中国仕様のパフォーマンスだ。

幼稚園児のパフォーマンス(オープニング)

それにしては中国人観光客の数が少ない。中国人の新義州訪問は丹東からの日帰り旅行がメインで、ガイドによれば多いときには1日1000人くらいになるとのことだった。1000人もが訪れるのは春節や国慶節といった特別な日だろうが、今日は4月18日だから、ローシーズンというわけでもない。ここにも中朝関係の変化が影響を及ぼしているのだろうか。

妙香山旅行社のガイドは20数人ということだ。その大半は中国語ガイドだろう。英語ガイドも中国人に対応できるように中国語を習っているケースが多い。中国からの観光客が干上がったら、彼らが路頭に迷うことにもなりかねない。

さて園児たちのパフォーマンスをどう受け止めればいいのだろうか。「健気」、「不憫」などの言葉が浮かんでくる。しかし彼らを「かわいそう」と思うのは一種の傲慢ではないかという気もする。日本や他の国なら単純に「すごい」とほめられるだけなのに、北朝鮮というだけでどうして憐れみを受けなければならないのか。

園児だけだけでなく、先生たちも演奏と歌を披露する。最後に中国人たちと園児たち全員の記念写真。これで新義州観光の全行程が終了した。園児たちの見送りを受け、4時過ぎに中国人たちと一緒にバスで北朝鮮のイミグレを目指す。

パフォーマンスの終幕

北朝鮮のイミグレは予期していたほど厳しくなかった。すべての電子機器の提出を求められたが、カメラもタブレットもスマホも中身はチェックされなかったようだ。すぐに返ってきたうえ、私のスマホやタブレットはPINでロックされているから、調べようとするならPINを聞いてくるはずだ。イミグレを出て、ガイドたちと別れの挨拶をする。朴ガイドにI'll come backと言ったところ、「今度はいつ来るのか」と聞かれた。Next yearと答えておいたが、平壌とは異なり、新義州はそれほど多くの見どころがあるわけではない。再訪しても同じスケジュールの繰り返しになるだろう。

中国の入国審査はパスポートを渡すだけですんだ。マイケル、ブライアン、ボブそれに私は、丹東鉄道駅を目指して歩く。イミグレから駅までは歩いて10分足らず。ブライアンとボブは北京行き、マイケルは瀋陽行きの列車に乗る。私は丹東で1泊する。「今度また北朝鮮で会おう」と言って彼らと別れた。

丹東の宿は予約していなった。駅のすぐ隣にある丹鉄大飯店を当たってみる。2013年にもここで1泊した。朝食込みで139元(約2100円)とのこと。探せがもっと安い宿があるだろうが、はやく決めてしまいたい。即決した。

部屋で少し休んでから、宿の近くにあるバスステーションに行き、明日の9時30分の大連行きバスのチケットを購入した。2013年とは異なり、現在は丹東と大連を結ぶ高速鉄道が開通しているのだが、調べるのもめんどうだ。

すべての用事が済んだところで、鴨緑江に行き、岸辺を散策する。昼間北朝鮮側から眺めた場所だ。今度は中国から北朝鮮を眺める。

丹東から眺めた鴨緑江

陽もとっぷりと暮れた。丹東は中国と朝鮮語のバイリンガルの街だ。2013年にはなかった新しいフォースとフード風の朝鮮レストランに入り、ビビンバを注文する。冷麺を頼めばよかったとあとで後悔した。今回の旅では一度も冷麺を口にしていなかった。

明日は大連に移動し、1泊したあと、帰国の途につく。今日のうちに大連に発ち、明日帰国というスケジュールも可能だったが、北朝鮮や中国の旅では何が起こるかわからない。ぎりぎりの予定を立てずに、日程に余裕を持たせたほうが賢明だ。

2017年5月5日金曜日

金正日の料理人藤本氏を訪ねて 四日目(平壌から新義州へ)

4月17日。

丹東行きの列車は平壌駅を10時10分に出る。高麗ホテルから平壌駅までは近い。歩いても10分くらいだろう。9時半ごろに平壌駅に到着し、ガイドや運転手とのお決まりの別れの儀式をすませて、列車に乗り込む。我々には最前列のコンパートメントが割り当てられていた。あとで気がついたが、これは途中(定州駅)での降車をスムーズに行うための措置だった。コンパートメントには我々4人に加え、カナダ人とイギリス人の男性がいた。彼らはYoung Pioneer Toursのツアー客で、我々同様新義州のオプションを選んでいた。

金案内員と全案内員(平壌駅で)

外は雨だ。沿線の動画や写真を撮るのはあきらめた。高麗ホテルは昼食用の弁当を用意してくれていた。キムパプ(海苔巻き)に魚や玉子など。これはおいしかった。2015年10月に羊角島ホテルが用意した弁当はひどくまずかったものだ。雨も上がりはじめたようだ。

弁当

ブライアンと一緒に食堂車へ行き、大同江ビールを飲む。1本20元だった。平壌の印象や感想を語り合う。錦繍山太陽宮殿の異様さなどが話題になる。今の北朝鮮はImperial Japan(帝国日本)に似ているという点で一致した。もっとも、Imperial Japanでさえ、いろいろ意見の相違はあり、visibleなoppositionも存在したから、北朝鮮の現体制は戦前の日本をも凌駕する、字義通りのtotalitarianismだというのは私の意見。いずれにしてもmentalityの面では両者は似ている。

私はてっきり新義州で下車するものと思っていたが、我々外国人6人が下車したのは平壌を出てからおよそ2時間半後、東林(トンリム)の駅だった。先頭コンパートメントの我々は急いで降りる。降りたホームにガイドたちが迎えに来ていた。女性ガイドが私を見つけるやいなや「日本人か」と尋ねてくる。Yesと答えると、「あなたは今年はじめての日本人訪問者だ」と言う。

私たち4人には男性と女性のガイドが付き、Young Pioneer Toursのカナダ人とイギリス人には女性1人のガイドが付く。以前の北朝鮮旅行記に「ガイドは必ず2人以上」と書いたが、これも訂正が必要になった。

私たちに付いたのは男性の金(キム)ガイドと女性の朴(パク)ガイド。どちらも若く、20代の後半から30代の前半といったところか。他方の2人組のガイドは20代だろう(あとで彼女と少し話したとき、「日本人と話すのははじめてだ」と言っていた)。彼らが属しているのは朝鮮国際旅行社ではなく、妙香山旅行社だ。

全員同じ車に乗ってトンリム(東林)地区にあるホテルに向かう。車は舗装されていない道を揺れながら走り、2時間ほどかけてホテルに着く。2014年に中国との合弁で設立されたトンリム・ホテル(東林飯店)だ。プールやジムも備えており、すべてが新しい。シャワールームはピカピカで、熱いお湯もたっぷり出た。しかし、客は我々6人以外に見かけなかった。

トンリム(東林)ホテル

中国からの観光客を見込んで建てたホテルなのだろうが、中国客が見あたらないのはどういうわけか。核を巡る朝鮮半島の緊張のせいだろうか。それだけではなく、中国と北朝鮮の関係の悪化が影を落としているのだろうか。経済制裁、経済制裁と声高に叫ばれるが、私にはそれによって大きな影響を被る北朝鮮の人たちの顔が浮かぶ。苦しむのはガイドやホテルの従業員たち、一般の市民で、ロイヤル・ファミリーやその取り巻きはあまり痛痒を感じないのではなかろうか。

部屋でしばらく休んでから、ホテルの近くにある滝を見に行く。とりわけ大きな滝ではない。山の頂上まで歩けば1時間くらいかかるとのことだったが、我々は途中で断念して引き返した。雨はすっかり上がっている。

7時の夕食まで時間があるので、ホテルのまわりをひとりで散策したが、林以外には何もなかった。ホテルはそれほどまでに孤立した場所に建てられている。3人の若い女性がバトミントンを楽しんでいた。ホテルの従業員だろう。

7時に1階のホールで夕食が始まる。我々4人、金(男性)と朴(女性)の両ガイド、それに妙香山旅行社のマネージャが1テーブルを占め、もう1つのテーブルにYoung Pioneer Toursの2人と女性ガイドが座る。テーブルは中国式の円卓。料理を回してシェアすることになる。

夕食

新義州への日本人訪問客について、金ガイドと朴ガイドの説明が違っていた。金ガイドは日本人に付くのははじめて。日本人の訪問客もいないわけではないが、みんな平壌経由で来るので、日本語ガイドが平壌から付き添っている。新義州のガイドの出る幕はないという。これに対し、朴ガイドは昨年2、3人の日本人を案内したことがあるとのこと。平壌経由ではなく、中国の丹東と新義州を往復する日本人観光客だ。妙香山旅行社には日本語を話すガイドがいないので、英語ガイドが対応するしかない。

これは実際に経験した朴ガイドのほうが正しいだろう。朴ガイドは私に「(あなたを)どう呼べばいいのか。おとうさんと呼べばいいのか」と尋ねてきた。昨年案内した日本人が「おとうさんと呼んでくれ」とリクエストしていたらしい。

ガイドたちはマイケルと金正恩の関係を知らなかった。マイケルは写真を見せて説明する。金正恩に言及するときには「marshal」という呼称が使われていた。

8時になり、中央の舞台でパフォーマンスがはじまる。まずチマチョゴリを着た女性4人による「パンガプスニダ」。北朝鮮訪問客用のテーマソングともいうべき歌だが、「そういえば今回の旅行でこの歌を聞くのははじめてだな」とはマイケルの弁。

パンガプスニダ

このあと何曲か続き、最後に客を含め全員が輪になって踊る。宴はまだ終わらない。朴ガイドがカラオケで歌い(「アリラン」だったかな)、さらに彼女とマイケルのデュエット。テレビドラマか映画の主題曲で、あまりなじみのない歌だった。どちらもまずまずの歌唱力。

続いてウエイトレスがピアノの腕前を披露する。2曲弾いた。そのうち1曲はショパンだったように思うが、確かでない。

10時を過ぎ、我々のテーブルだけが残る。ウエイトレスがひとり、立ち姿で待機している。ちょっと気の毒な気がしたうえ、疲れていたこともあり、私だけは部屋に引き上げることにした。

残り3人はこのあとビリヤードなどをして、12時半ごろに就寝したらしい。

2017年5月4日木曜日

金正日の料理人藤本氏を訪ねて平壌へ 三日目(平壌)

4月16日。

この日も予定はめじろ押し。北朝鮮旅行ではいつもめいっぱいの予定が組まれる。北朝鮮に限らす、パッケージツアーとはそういうものなのかもしれないが。

外は快晴とはいかず、どんよりと曇っている。今日最初の訪問先は金日成と金正日の遺体が保存されている錦繍山(クムスサン)太陽宮殿。2015年についで2回目だ。今回はネクタイも用意していたので、同行者から借りなくて済んだ。長い行列をつくって入場を待っているとき、我々の前に日本語を話すグループがいるのに気がついた。10人ほどの正装の男性と白いチマチョゴリを着た老婦人がひとり。婦人に「在日の方ですか」と話しかけた。「在日は私だけで、他の方は金日成主席の105年生誕を祝うために京都から来た方々です」とのことだった。京都に日朝協会なる団体があったことを思い出した。

錦繍山太陽宮殿のものものしい様子は「北朝鮮鉄道の旅2015」で報告したとおりだ。遺体だけでなくメダルや賞状、お召し列車などひととおり見て外へでると、写真タイムとなる。宮殿詣でに来ている北朝鮮の人たちと一緒に写真に収まる機会が用意されているのだ。金(キム)ガイドがあちこち声をかけ、我々と一緒にカメラに収まってくれる人たちを探す。最初のグループには断れたが、次に声をかけた男性4、5人のグループの承諾を得る。これに女子高校生(ひょっとすると大学生)がすすんで加わってくれ、記念の写真を撮ることができた。

記念写真

続いて主体思想塔と金日成花・金正日花の展示場を訪れ、昼食(冷麺とビビンバのどちらかを選択できた)をはさんで、地下鉄の試乗となる。お決まりの観光メニューだ。花の展示場は入場を規制していたが、それでも人波の中を歩くのも困難なほどの賑わいだった。いつものことだが、花を観賞するより、着飾った平壌市民たちが記念の写真を撮っている様子を観察ほうがおもしろい。地下鉄では、ある男性に「日本から来ました」と朝鮮語で話しかけると、「パンガプスニダ」(お会いできてうれしいです)と返ってきた。

金日成花・金正日花展示場の混雑

次に平壌交響楽団の演奏を聴くためにコンサートホール(牡丹峰劇場)に向かう。サーカスかオーケストラを選択できたのだが、ビルが「サーカスはどうも苦手だ」とのことだったのでオーケストラになった。私としてはサーカスのほうを見たかった。出し物がどうのこうのいうより、ピエロの演技などに反応する平壌市民、特に子供たちを見たかったからだ。3時から始まったオーケストラの演奏は1時間足らずで終了した。

コンサートホールを後にした我々は、モランボン(牡丹峰)へ到着する。車を降りてゆっくりと丘を散策。ここは休日などに平壌市民が歌や踊りを楽しむ場所として知られている。一度は見ておきたかった場所だ。2010年に一度訪れたが、歌う人も踊る人もおらず、数人が絵を描いているだけだった。今日は太陽節の翌日、日曜ということもあり、丘は賑わっていた。踊っているグループもいる。着飾った子供も多い。「写真を撮らしてくれ」と頼むと気軽に応じてくれる。こういう場所が好きな私はもう少し人々の中まで入り、もう少し長くいたかったが、ざっと見ただけで引き上げることになった。4人という少人数ながらグループツアーの欠点だ。ひとりならもっとわがままが通る。

牡丹峰

着飾った少女

次の訪問先は私にとってのハイライト、光復(クァンボク)地区商業センターだ。ガイドは「デパート」と言っていたが、デパートというよりは「ショッピングセンター」と呼んだほうがぴったりとくる。ここには2015年10月のTrain Tourではじめて訪れ、強い印象を受けた(「北朝鮮鉄道の旅2015」を参照)。

2015年10月に訪れたときには朝鮮語のほかに「光復地区商業中心」という中国語の表記があったが、今回中国語は消えていた。北朝鮮と中国の微妙な関係を反映してのことなのかどうかは不明。

2015年10月の光復商業センター

2017年4月の光復商業センター

このショッピングセンターは1階が食料・雑貨・電子製品、2階が衣料、3階がフードコートとなっており、外国人もユーロや中国元を現地通貨(ウォン)に両替して買い物をすることができる。

私はショッピングの目標を1つに定めていた。北朝鮮製のタブレットPCだ。スマホでもよかったのだが、スマホはタブレットの4、5倍の値段がする。この買い物は全(チョン)ガイドが終始手伝ってくれた。まずタブレットの値段を確かめる。75ユーロということなので、100ユーロをウォンに両替する。起動を確かめて購入。残額のウォンのユーロに再両替する(いくらかのウォンは記念として手元に残しておいた)。タブレットには黒いビニールのカバー、USBケーブル、充電器が付属していた。

購入したのは「아침(朝)」という名前の7インチのタブレットで、Androidをベースとしている。包装箱には朝鮮語で「教育用判型コンピュータ」と表記されていた。北朝鮮出国時あるいは日本入国時のトラブルを避けるため、この箱は平壌のホテルで破棄した。黒いカバーに包まれた아침は見かけ上は他のタブレットと変わらない。

帰国してから判明したのだが、このタブレットには16GBの外付けマイクロSDカードが挿入済みだった。SDカードには映画(北朝鮮映画の古典「花を売る少女」を含む)やアニメ、各種図書が収納されている。特に興味を引くのは、小学校や中学校の教科書、参考書の類いだ。

北朝鮮製タブレット

タブレットの購入に時間がかかっため、他の売り場やフードコードを見物する時間はほとんどなかった。店は平壌市民で賑わっていた。「北朝鮮鉄道の旅2015」でも書いたが、中産階級の存在をうかがわせる光景だった。この中産階級がどれくらいの規模で、どのような人々から構成されているのかはわからない。「北朝鮮は貧しい、貧しいはずだ」と決めてかかると判断を誤る。と同時に、この平壌の一角だけを切り取って北朝鮮全体を判断するあやうさにも注意しなければならない。

夕食は「普通江飯床館」なるレストランでとった。いろいろな料理のあと、最後にライスとスープが出る。私には多すぎる。ライスの半分近くは残した。マイケルはともかく、ビルとブライアンは巨体なので、食べるのが早く、完食だった。

夕食後に凱旋門の近くにある「凱旋青年公園」というアミューズメント・パークに出向く。ここは2010年に続いて2回目。夜の9時ごろだったが、大勢の人で賑わい、各種乗り物の前には長い行列がつくらていた。顔の広いマイケルはここでも知り合い(北朝鮮のバスケットボール選手ということだった)に遭遇していた。

平壌最後の夜はこうして暮れていく。明日は列車で新義州(シンウィジュ)に向かう。

2017年5月1日月曜日

金正日の料理人藤本氏を訪ねて平壌へ 二日目(平壌)

4月15日。

昨日はぐずついた天気だったが、太陽節(金日成の誕生日)の今日は晴れている。

朝7時過ぎ、ビュッフェ式の朝食の席でビルは居合道で使われている用語の英語訳リストを見せてくれた。私は居合道なるもの知らず、最初に耳にしたときにはてっきり合気道だと勘違いした。ビルに言わせれば「もっとも役に立たない格闘技(most useless marshal art)」である居合道だが、バンクーバーではなぜか人気があり、5~60人が習っているとのことだ。居合いとの関連からか、彼は座頭市の映画のDVDも購入していた。

ビルは墓堀人、ビルの解体作業員、パイプラインの作業員、ピザの料理人などとして働き、カナダの海軍に5年勤めたこともある。最終的にはソフトウェアを開発するIT技術者に落ち着いたが、今はリタイアしている。ずっと独身で、いわば無頼の徒だ。

その友人のブライアンはハーバード大学を卒業して大学教授となり、政治家たらんとしている。私生活でもフルート奏者の妻と娘2人(16歳と18歳)に恵まれ、つまりは今時の若衆言葉で言えば「リア充」。一応エリートと分類していいだろう。

エリートと無頼の組み合わせは奇異なようで、意外とよくあることなのかもしれない。ビルもただの無頼ではなく、ときおり深い教養をうかがわせる発言をする(フーコーや三島にも言及していた)。

今日は予定がめじろ押しだ。まず朝鮮戦争に関連する祖国解放戦争勝利記念館、続いて大同江につながれた米国の「スパイ船」プエブロ号の見学。私にとっては前者は2度、後者は3度目の見学となる。朝鮮戦争とプエブロ号事件が北朝鮮によっていかに解釈され、宣伝されているかを知るのが見学のポイントになる。もちろん彼らの言うことがすべてプロパガンダというわけではない(特にプエブロ号については)。どこまでが事実でどこからがプロパガンダかを見分けるのは私のような素人には容易でない。

次に万景台の金日成の生家に向かう。ここは4度目だろうか。ひょっとすると5度目かもしれない。

金日成の生家

戦争記念館の見学中、若い方のガイドの全(チョン)と話す。医師の父親と料理人(彼女はcookerと言っていたが、もちろんcookの間違い)の母親を持つ彼女とはこのあともよく話した。彼女にとって私ははじめて接する日本人であり、日朝関係について聞かれた。日朝関係の行き詰まりの原因のひとつに拉致問題があるが、日本語ガイドなら誰もが知っているこの事件を彼女は知らなかった。拉致問題を説明するのは難しい。「どうして(拉致などしたのか)」と聞かれたが、こちらが聞きたいくらいだ。韓国が配備しようとしてるサード(THAAD)についても意見を求められた。「核を持たない南の立場からすれば、北からの脅威に対抗する手段として理解できる(understandable)」と答えておいた。

彼女にはボーイフレンドがいる。「ビジネスをやっている」男性らしいか、どんなビジネスなのかはつまびらかにしなかった。ボーイフレンドは彼女の仕事を嫌っているとのことだった。ガイドは24時間拘束の仕事だから会う機会が少なくなるというのだ。

部屋がいくつもある大きなレストランで昼食をとる。アヒル、牛、羊の肉を焼きながら食べる。元気のいい中年の女性ウエイトレスが印象的だった。大きな声でいせいよくしゃべり、韓国のアジュマを彷彿させる。北朝鮮のウエイトレスには珍しい。珍しいというよりはじめて遭遇するタイプだった。

もうもうと煙をあげる焼肉(右端が全ガイド)

昼食後、鉄板焼き高級レストラン「柳京館」の前の大通りで、市民向け街頭パレードを待つ。2015年の10月10日と同じ場所だ。2015年には何時間も待ち、パレードが現れたころには真っ暗で、写真もろくに撮れなかった。

今回は晴天のもと、1時間も待たずに、まず巨大な張りぼてが数台現れ、戦車や兵士を乗せたトラックが続く。沿道の平壌市民が赤やピンクの造花を振り、手を振って、兵士たちに歓声をあげる。「チョッスムニダ」(いいぞ)と言っているようだ。兵士たちは笑顔で手を振り返す。女性兵士だけを乗せたトラックも通り過ぎる。

戦車

沿道の平壌市民

ほんの一瞬、心ならずも感動してしまう。「涙ぐむ」とまでは言わないが、それに類似する感情の波に襲われる。ガイドたちにも「戦争や軍事は嫌いだ」と公言し、「こんなことをやるより、もっとやるべきことがさくさんあるはずなのに」と思っているにもかかわらす。

世界からかつてなく孤立し、包囲されている国民が兵士たちに向けて手を振り、兵士たちが応える。この様子に不覚にも一瞬心を動かされた。もちろん「孤立」といい、「包囲」といい、自分たちが蒔いた種でもあるのだが。それに沿道の市民たちが実際にどう感じているかも伺うすべがない。私にとっては実質的にはじめてのパレードだが、彼らにとっては年中行事。そのたび着飾って付き合わされることにうんざりしているかもしれない。

街頭パレード

一瞬の心の揺らぎはあったが、私は自分から手を振ることはしなかった。香港から来た隣の若い女性は自ら手を振り、歓声をあげていた。日本語を習い始めたという彼女は香港の旅行会社を通じて訪朝したとのことだった。

パレードも終わりにさしかり、通りをあとにして、万寿台に向かう。金親子の銅像に花を捧げて、お辞儀をするためだ。今日の行程をすべて終えて藤本健二氏のレストラン「たかはし」に到着したのは6時ちょっと前だった。

藤本氏はひらめをさばいているところだった。アシスタントの北朝鮮の青年とウエイトレス2人が働いている。私とカナダ人3人がカウンターに席を取り、ガイド2人と運転手がテーブルに座る。まず焼きそばを注文し、続いて寿司をそれぞれ1人前、ウナギの蒲焼き、トロと赤身の刺身を注文する。酒は「大関」の熱燗を一升。一升は多すぎると思ったが(「多すぎませんよ、余ったら私が手伝いますよ」とは藤本氏の弁)、一升では足りず、いくらか追加した。もっぱらビルが飲んだ。

日本料理「たかはし」

寿司

トロの刺身

「たかはし」には別にも個室があり、私たちに続いて何組かの客がやってくる。おかげで忙しく、藤本氏とはあまり話せなかった。日本人の客も多いらしい。中国人も来たことがあるとか。

味はいいが、値段もいい。寿司が一人前最低で50ユーロだから、あとは推して知るべし。この支払いをすべてビルが持ってくれた。太っ腹なビルに感謝。ガイドたちは藤本健二氏と金正恩の関係を知らなかった。

8時過ぎに「たかはし」を出て、花火が上がる大同江沿いに沿って歩く。全ガイドと並んで歩く。アントニオ猪木(北朝鮮では「猪木寛二」と本名で呼ばれている)を知っているかと尋ねると、Yesの答え。「リョクドサン」のstudentですねと言われたが、一瞬何のことかわからなかった。ちょっと考え、「リョクドサン」とは力道山であることに気がついた。

この日は祝賀のダンスパーティがあり、当初の予定ではこれに参加して平壌の大学生たちと踊る予定だった。だが、ダンスパーティは招待客だけが参加できるとのことで、この予定は流れてしまった。やったこともないダンスで不格好な姿をさらすのを免れてホッとする一面、残念な気がしないでもない。

ライトアップされた平壌駅の写真を撮ってから高麗ホテルに戻る。ホテルにあるカフェに入り、コーヒーや紅茶で一休み。私はホットココアを頼む。このときの支払いは私がした。

今回の訪朝のクライマックスともいえる1日はこうして終了した。

2017年4月28日金曜日

金正日の料理人藤本氏を訪ねて平壌へ 一日目(平壌)

4月14日。

高麗航空の平壌行きのフライトは12時。8時半過ぎに宿を出て、エアポート・エキスプレスで9時半ごろに北京首都空港のターミナル2に着く。カナダ人3人はすでに到着していた。マイケルからビザをもらって搭乗。

マイケルはVIP扱いでファーストクラスにアップグレードされるが、残り3人はエコノミー席のまま。私の隣にはブライアンが座る。ブライアンは大学教授であると同時に、政治家という顔も持っている。前回の総選挙では与党の自由党から立候補したが惜しくも落選。次回の選挙にも出るつもりなので、訪朝している自身の姿がカナダのテレビに映るとちょっとまずいと言う。野党の保守党からどんな難癖をつけられるかわからないとのことだった。ブライアンは1994年に一度北朝鮮を訪れており、今回が2回目、23年ぶりの訪朝となる。「前回訪朝した一週間後に金日成が死んだ。今回も何かあるかな」と言っていた。

機上の昼食は北朝鮮製ハンバーガー。10年前にはちゃっとトレイに載った食事が出たが、いつの間にかハンバーガーになった。そのハンバーガーも以前より小ぶりになり、質も少し落ちているような気がしないでもない。
平壌空港に着陸

飛行機は2時間ほどで平壌空港に着く。現地時間の14時30分(北京との時差は30分)。イミグレを通り(パスポートにスタンプは押されない)、持ち込んだ荷物の検査となる。電子機器と印刷物をすべてバッグやスーツケースから出すように求められる。私はカメラ2台、タブレット、スマートフォン、電子辞書、フランス語の小説1冊、中国に関するガイドブック2冊を提出する。特に問題はなかった。韓国の小説のコピー数ページは前日に北京で処分していた。

ここでビルが引っかかった。バンクーバーのタイブロイ紙を持ち込んでいたのだ。それだけなら特に問題もないが、そのタブロイド紙の一面には"Trump Takes over Kim Jong Un"というヘッドラインが踊っていた。このため別室に連れて行かれ、なかなか戻ってこなかった。30分くらいは待っただろうか。

幸い入国拒否というやっかいな事態には至らず、我々4人は北朝鮮のガイド2人と合流して、専用車で平壌市内に向かう。30分ほどかけて最初の観光ターゲットである凱旋門に着いたときにはすでに6時近くになっていた。外は小雨が降っている。

凱旋門

2人のガイド(案内員)はどちらも女性だった。以前このブログのどこかで「案内員が2人とも女性というケースはない」と断言してしまったが、これは訂正しなければならない。メイン(上司)のガイドがキム(金)氏。3歳の子供がいるという。30歳台か。サブ(部下)のガイドがチョン(全)氏。25歳くらいと見た。どちらも平壌観光大学の出身という(この大学が設立されたのは2014年だから、その前身の教育機関かもしれない)。

凱旋門をあとにした我々は宿泊先である高麗ホテルに向かった。チェックインし(ここでパスポートをガイドに預ける)、部屋でしばらく休んでから、食事のために車で再び平壌の街に出る。当初の予定ではこの日に藤本健二氏のレストランに行くことになっていたが、これは明日に先送りになった。代わって向かったのが万寿台創作社のレストラン。2013年の訪朝時に「朝鮮の民謡を聴けるような場所に行きたい」という私のリクエストに応えてガイドが連れて行ってくれたレストランだ。

個室での食事が終わりかけたころ、突然チマチョゴリの女性数人が現れ、北朝鮮歌謡を披露する。彼女たちが去ると、今度はモランボン楽団風のミニスカートの女性たちが現れて2、3曲歌う。おそらく個室から個室へと巡り回って芸を披露しているのだろう。

歌と踊り

食事後、マイケルの提案で羊角島ホテルに行くことになった。羊角島ホテルにはプレスセンターが設けられ、多くのジャーナリストが宿泊している。マイケルはジャーナリストにも知り合いが多く、彼らに会いたいとのことだった。2015年の10月には私もこのホテルで朝日テレビのクルーに出会った。

羊角島ホテルのバーに入り、ビールを注文する。さっそくジャーナリストたちがやってきた。渡された名刺にはNK Newsとある。帰国してから調べると、これは米国をベースとする北朝鮮関連のニュース社らしい。隣に座ったNK Newsの記者としばらく話す。英国出身、ソウル在住の記者だ。話題はもっぱら私が北朝鮮をどう見ているかということ。ブログを書いているおかげで、自分の感想をある程度まとめて述べることができた。東洋人らしい若い女性もいた。中国系オーストラリア人のロイターの記者で、現在は中国に住んで取材活動をしているという。

高麗ホテルに戻り、その横手にあるバーで、さらに4人で飲む。このバー特製のビールはこくがあり、おいしかった。このときの代金はビルかブライアンかどちらかが払ってくれた。

明日15日は金日成生誕105年の記念日である太陽節。今回の旅のクライマックスでもある。

2017年4月26日水曜日

金正日の料理人藤本氏を訪ねて平壌へ 北京

4月12日、朝9時に関空を飛び立った中国国際航空機は予定どおり11時20分に北京首都航空に到着した。

宿はbooking.comでHappy Dragon Hostelを予約しておいた。2015年の訪朝時に泊まった宿だ。トイレ・シャワー付きの個室で200元(3000円ちょっと)。朝食が付いていないから高めだが、北京で安宿を探すのは容易でない。慣れたところを選んでおくのが無難だろう。

この日の午後はたっぷり時間があったが、繁華街の王府井まで歩いて出かけ、ぶらぶらと散策するにとどめた。

王府井

宿に戻りタブレットでインターネットに接続する。今回はVPNのアプリを用意していたので、YoutubeやFacebookにもつながるが、なぜかメールの受信ができない。マイケルから新しいメールが着信していても読めない状態だ。

翌13日。この日は3時に東直門のホテル(ホリディイン)に集まることになっている。朝ゆっくりと宿を出て、またまた王府井まで歩き、小吃通りの屋台のスナックを昼食代わりとする。

2時近くになり、ちょっと早いが地下鉄で東直門に向かう。ホリディインは東直門の駅から歩いて20分ほどのところにある。途中、ユニクロがあったので立ち寄り、シャツを購入(199元)。ユニクロの商品価格は日本とほぼ同じだ。

3時前にホリディインに着き、ロビーで待っていると、マイケルが現れる。ツアー同行者の2人のカナダ人、ブライアン(Braian)とビル(Bill)は紫禁城や天安門を観光中であとで来るとのこと。案の定、マイケルは昨日私に2通のメールを送っていたが、私はメールソフトの不調で読んでいなかった。いずれにせよ北京でマイケルに会えたことで一安心。

しばらくすると日本人の青年がメイプルツリー(もみじ)の苗木を数本持って現れた。マイケルの手伝いをしているN君だ。マイケルはカナダのシンボルでもあるメイプルを平壌で植樹する予定らしい。N君は北京の大学に通う好青年。高校卒業と同時に中国に渡り、すでに4年が経つ。マイケルとN君は東京で行われたマイケルの講演会で知り合ったとのこと。今回のツアーの日本語ページを作成したのはN君だ。

ロビーから2階のカフェに移動し、話を続ける。マイケルとN君はWebページの編集を行いながら。そうこうするうち、ブライアンとビルが帰ってきた(彼らはホリディインに宿泊していた)。どちらも190cmの巨体。しかも2人ともスキンヘッドだ。年の頃は4~50歳くらいか。2人の巨体に圧倒されながらも、自己紹介して、しばらく話す。ブライアンはカナダのアルバータ大学の教授で、専門は東アジア史、特に戦後の韓国史。ビルはITエンジニアとのこと。ブライアンはマイケルの以前からの知り合いだ。そのブライアンが若いころからの友人のビルを誘う形で今回の訪朝となった。つまり予想していたとおり、Paektu Cultural ExchangeのWebサイトを見て応募したのは私1人ということになる。

韓国史が専門のブライアンにCumingsの"Korea's Place in the Sun"について尋ねたが、もちろん彼はこの本を知っていた。これは私が10年ほど前に読んだ韓国/朝鮮の通史で、非常におもしろかった。だがその内容は今ではすっかり忘れており、機会があればもう一度読みたいと思っているところだ。

陽も暮れるころ、N君を含め我々5人は2台のタクシーに分乗して、北朝鮮大使館へ行く。訪朝のビザを受け取るためだ。大使館にはマイケルだけが入り、無事にビザを入手した。日本から北朝鮮へ個人で旅行する場合、以前には直接に大使館まで赴いてビザを受け取るケースもあったようだが、最近は空港のチェックインカウンターで受け取るケースが大半になっている。私も北朝鮮大使館には入ったことがない。

北朝鮮大使館のまわりには北朝鮮関連のさまざまなショップが並んでいて興味深い。しばらくショップを覗いたあと、大きめの北朝鮮レストラン(朝鮮平壌銀畔館)に入り、一緒に食事をすることになった。

マイケルは中国吉林省の延吉に住んでいるが、北京にも数多くの知人がいる。そのうち何人かが我々の夕食に加わり、カナダ人5人、アメリカ人3人、それに私とN君の日本人2人、合計10人の会食となった。いくつかの朝鮮料理をシェアした。どれもおいしかった。飲み物はもちろん北朝鮮の大同江(テドンガン)ビール。なぜかカナダ大使館の書記官も同席していた。彼はまだ北朝鮮に行ったことがない。外交官ともなると訪朝もいろいろややこしいらしい。大きなレストランではあったが、残念ながら歌や踊りのパフォーマンスは行っておらず、そのためのスペースも見あたらなかった。

北朝鮮レストランで夕食(中央はマイケル、その右隣がブライアン)

夜も更け、2次会となったが、私は早め(といっても9時過ぎ)に宿に帰ることにした。N君に案内されて大通りに出たが、タクシーはやって来ない。結局白タクで最寄りの地下鉄の駅(東四駅)まで行き、5分ほど歩いて宿に戻った。

宿に戻ると、今朝まで不調だったメールの受信が可能になっており、前日にマイケルから送られてきたメールを読むことができた。

明日、マイケルと他のカナダ人2人はホリディインに集結してそこから空港に向かうとのことだったが、私は直接に空港に行くつもり。そのほうが手っ取り早い。

2017年4月25日火曜日

金正日の料理人藤本氏を訪ねて平壌へ 経緯

2015年10月の北朝鮮Train Tourから1年半、北にも南にも朝鮮半島から足は遠のいていた。興味がなくなったわけではない。韓国/朝鮮語の勉強も遅々たる歩みながらずっと続けていた。興味を引くような企画やツアーがあればと、ネットのチェックも怠らなかった。

そんな中、あるきっかけからPaektu Cultural Exchangeなる組織がFinding Fujimotoという平壌ツアーを企画していることを知った。Fujimotoとは金正日の料理人であった藤本健二氏のことで、最近平壌に寿司とラーメンのレストランをオープンしたことはメディアの報道で知っていた。

Paektu Cultural Exchangeの主催者はマイケル・スパバー(Michael Spavor)氏。北朝鮮マニアの間ではちょっとは知られた人物だ。米国のバスケットボール選手デニス・ロッドマンの2回目の訪朝をアレンジした人物こそがマイケルであり、ロッドマンと一緒に元山の金正恩の別荘で3日間を過ごしたことがある。つまりは金正恩に会った数少ない外国人の1人なのだ。そのマイケルがこれまた金正恩の知己である藤本氏を訪ねる4泊5日のアー。これは是非参加したい。

マイケルと金正恩

まずはネット上でマイケルに関する情報を集める。思想信条はともかく、怪しげな人物ではないようだ。ウェブに掲載されている写真にも好感を持った。気軽に話しかけやすいタイプと見た(この印象は間違っていなかった)。北朝鮮訛りの流暢な朝鮮語を話すとも言われている。

さっそく問い合わせのメールを送る。人数が集まらないためにツアーが中止になるのが心配だったが、「今のところ数人(a few)しか集まっていないが、少人数でも催行する」との返事を得る。予定を立てたがいいがキャンセルされるということもなさそうなので、申し込むことにした。

だが、その後の成り行きには不安がつきまとった。私の直近2回の北朝鮮旅行は北京に拠点を置く英国系のKoryo Toursのツアーだった。Koryo Toursとのやりとりではほとんど不安はなかった。メールの返事も迅速で、プロの仕事を信頼できた。忙しいマイケルがひとりで運営しているPaektu Cultural Exchangeはちょっと様子が違う。ツアー代金の1290ユーロのうち415ユーロはデポジットとして前払いとのことだったが、どうやって支払うのかの指示はなく、結局全額現地で現金で支払えばよいということになった。もっともやきもきしたのが、ツアー出発の4月14日の朝に北京のどこに何時に集合するのかはっきりしなかったことだ。お金を支払っていないから詐欺の心配はないが、北京でうまくマイケルと落ち合うことができるか、一抹の不安があった。北京のネット環境にも不安があり、現地でマイケルとちゃんと連絡できるか心配だった。

「4月13日の午後3時に東直門のホリディインに集まろう」というメールをマイケルから受け取ったのは北京へ飛ぶ2日前の4月10日だった。これでやっと安心して日本を飛び立つことができる。マイケルのメールによると、ツアーの参加者は私以外にはBillとBrianという2人のカナダ人だけらしい。ひょっとするとこのカナダ人2人はツアー以前からのマイケルからの知り合いかもしれない。だとするとネットを見てツアーを申し込んだのは私1人ということになる(この予感は的中した)。

ツアーは、4月14日に北京を発ち、平壌で3泊して、平壌から北京まで列車で帰る(車内で1泊)という内容だった。だが、私は私にとってはじめての地である新義州を見たかった。新義州は中国の丹東に隣接する国境の街だ。このため、17日に新義州で1泊して、翌18日に中国の丹東でツアーを終えたいとリクエストしていた。

このリクエストは受け入れられた。受け入れられただけではなく、マイケルを含む他の3人も新義州で1泊することになった。つまり、平壌3泊、列車内1泊のツアーが平壌3泊、新義州1泊のツアーに変更されたことになる。この宿泊すべてで私は1人部屋を希望した。1人部屋の追加料金は1泊あたり50ユーロ。新義州のオプション料金は200ユーロくらいとのことだったが、正確な金額は不明だった。

ツアー開始日の2日前、4月12日の中国国際航空便で関空から北京へ向かう(北京in大連outの航空券を購入していた)。前日の13日の便でも間に合うのだが、中国国際航空には何度か苦い目にあっているので、あえて1日の余裕を持たせた。

かくて私にとっては7回目の北朝鮮旅行がスタートの途についた。