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2016年8月29日月曜日

アフガニスタン2013 イシュカシム(アフガニスタン)

9月21日。

パミールロッジで朝食をとったあと、昨日確かめておいた乗り合いタクシー(ロシアや中央アジアではマルシェルートカと呼ばれている)のたまり場に向かい、イシュカシム(タジキスタン)行きのタクシーを見つける。客がある程度集まるまでタクシーは出発しない。小一時間は待っただろうか。7、8人の客が集まったところで出発。客の中にはフランス人のカップルもいる。毎土曜日に国境で開かれるアフガン・バザールを見に行くとのこと。

国境を隔てたタジキスタン側の村もアフガニスタン側の村もどちらもイシュカシムという名前だ。ホーログからアフガンに入るにはタジク側のイシュカシムの少し手前の橋のたもとで下車する必要がある。アフガン・バザールもここで行われている。

国境に通じる橋のたもとで乗り合いタクシーを降り、バザールの見物もそこそこにタジキスタンの入出国事務所に向かう(バザールでは昼食用の軽食を購入した)。タジク側の出国検査は問題なく通過。続いて数十メートル歩き、アフガニスタンの入出国事務所に赴く。

アフガン・バザール

今日はアフガン・バザールが開かれる土曜日なので、多くのアフガニスタン人が国境を往復している。しかし彼らは窓口で身分証明書を提示するだけで国境を通過しており、わざわざ事務所まで入って手続きをするのは私以外にいない。手続きはごく簡単だったが、インターポール(国際刑事機構)を名乗る男2人が私のバックパックを念入りに調べる。「これは仕事だからな」と言い訳しながら荷物をひとつひとつ取り出す。2GBのSDカードを見つけると、「なぜもっと容量の大きいSDカードにしないのか」と聞く。大きなお世話だ。彼らが荷物を点検している間、私はバザールで買ったサモサ(?)を食べて昼食とした。

「(日本という)豊かな国から来て、我々へのおみやげ(gift)はないのか」と聞かれたが、「ない」と答えて終わりだった。日本から持ち込んだ飴玉を所望されたので、1つずつ渡す。最後にひとりが自分の名前を紙片に書いて渡し、写真を撮るようにと要求する。望みどおり彼の写真をカメラに収めたところで事務所から出ていいことになった。

なんともふざけた(自称)インターポールの男たちだった。おそらく暇つぶしだったのだろう。バザールのために事務所の前を通過するアフガン人は多いが、事務所の中は数人の係官と私だけ。この国境を通過する外国人は平均して1日に1人以下ではないだろうか。時間をもてあましているのもむべなるかな。

入出国事務所を出て、アフガンの土をはじめて踏みしめる。砂利道がザクザクと音を立てる。遠くには山頂に雪を戴いた山脈。それを背景に旧ソ連軍の戦車の残骸が見える。陸路での国境越えはこれまでに何回かあるが、どれもバスやタクシーを使っての越境であり、徒歩で国境を渡るのははじめてだ。

戦車の残骸

しばらく歩くと、後ろから来た車が停まる。イシュカシム(アフガン側)の村まで乗っていかないかとのことだった。料金は確か2ドルくらいだった。村までは3、4Kmだから歩けないことはないが、ここは楽をすることにした。

村の中心と思われるバラック建ての店が並んでいる通りで車を降りる。泊まるところはMarcopolo Guest Houseに決めていた。事前にネットで調べて見つかったイシュカシムでの唯一の宿泊場所だ。タクシーを降りたところにいた若者にこのゲストハウスの所在地を尋ねる。ちゃんと英語が理解され、英語で返事が返ってくる。

村の中心からマルコポーロ・ゲストハウスまでは歩いて10分たらずだった。宿への入口がわからずうろうろしていると、近所の女性が無言で案内してくれた。宿に入り、部屋に入っても誰もいない。しかししばらく待つと、中年の男性と7、8歳の男の子がお茶とお菓子を持ってやってきた。これで一安心。朝食と夕食を含めて1泊30ドルとのこと。2泊することにした。ベッドは私の入った部屋に2つ、その隣の部屋にも2つ。部屋はそのほかにもありそうだが、客は私ひとりらしい。

しばらく休んでから村の中心に出る。自分の家の周辺では素顔を出している女性たちも外出するときはほとんどブルカを着用している。アフガニスタン来たことを実感できる風景だ。

ブルカの女性

村の様子を見ながらぶらぶらと歩く。外国人がめずらしいのか、ときどき声がかかる。写真は思っていたより自由に撮れた。店でのやりとりや子供たちの反応を動画に収める。

メインストリート1

メインストリート2

子供たち

そうこうするうち日も暮れてきたので宿に戻る。7時頃に夕食が運ばれてくる。結構なボリュームだ。パン(ナン)と大盛りのライス。スープ、チキン、リンゴ、ジュースなど。とても食べきれる量ではない。後ろめたいが、かなり残すしかなかった。リンゴは翌日用にとっておいた。

夕食

部屋にはラッチ式の鍵があったが、うまくかからない。表の門にはもともと鍵がない。物音ひとつしないアフガニスタンの山の中、たったひとりで鍵のない場所に眠るのに不安がなかったと言ったら嘘になる。

2016年8月23日火曜日

アフガニスタン2013 ドゥシャンベからホーログ(タジキスタン)へ

2013年の9月にタジキスタンを経由してアフガニスタンへ入国した。おぼろげになっていく記憶をたどり、このはじめてのアフガニスタン旅行を記録しておきたい。

アフガン行きを思い立ったのはかなり前になるが、実際に検討すると障害が大きい。ひとつは治安であり、もうひとつはビザ。あれこれネットで検索するうち、この2つをうまくクリアする方法が見つかった。タジキスタンのホーログからアフガニスタンのイシュカシムへ入るルートだ。アフガニスタン北東部、パミール高原につながるイシュカシム周辺はタリバンの触手が及んでおらず、アフガニスタンの中でも比較的安全とされている。これまでに大きな事件も報告されていない。そのうえイシュカシムに近いホーログのアフガン領事館ではビザを簡単に取得できるというではないか。やっかいなのはタジキスタンの首都ドゥシャンベからホーログまで車で10数時間かかることと、ホーログ自体の治安がそれほど安定していなこと。しかしこれくらいの困難はどこを旅行してもありうることだ。

というわけで、関空からドゥシャンベまでの往復航空券を購入した。トルコ航空便で9月19日早朝にドゥシャンベに着き、9月26日早朝にドゥシャンベを発つことになる。往路も帰路も経由地のイスタンブールで長時間待機しなければならない。

ビザはホーログで入手可能とはいえ、日本で取得できればそれに越したことはない。ドゥシャンベ行きの航空券を購入してから、東京のアフガニスタン大使館にビザを申請した。ところがいつまで経っても返事が来ない。電話で問い合わせると、本国に問い合わせ中とのこと。2週間待った時点で、ビザ未発給のままパスポートを自宅まで送り返してもらった。ドゥシャンベ行きが迫っており、いつまでも待つわけにいかなかったからだ。

かくてアフガン・ビザがないまま、9月19日の早朝にドゥシャンベ空港に降り立った。さてここからホーログまでどうやって行くか。日程が限られているから、効率的に動く必要がある。飛行機を利用したいところだが、19日の便には間に合いそうにない。10数時間かかるといはいえ、乗り合いタクシーで行くのがもっとも確実で、もっとも早いだろう。

ドゥシャンベからホーログまでの乗り合いタクシーの料金は800ソムニだった。あとで調べてわかったことだが、かなりぼられてしまった。着いたばかりで物価の水準や相場をまったく知らないうえ、運転手やその仲間数人を相手にロシア語での交渉だからどうしても不利になる。

午前10時頃に出発したタクシーは翌日の午前1時を過ぎにホーログに到着した。ドゥシャンベからホーログまでは岩肌の壮大な景色が続く。川を挟んだ向こう側はアフガニスタンだ。この絶景も昼のうちはよいが、夜になるとちょっとこわい。運転しているのは60~70歳くらいの高齢の男性ひとり。夜の暗闇の中、道を踏み外せば谷底に落ちてしまう。

ドゥシャンベからホーログまで

タクシーは私が希望した安宿のパミールロッジまで乗り付けてくれた。この宿にたどり着くまでに30分くらい右往左往したが、他の乗客からの不満や不平は聞かれなかった。8人くらいの客が乗り合わせていたが、道中は全員が家族さながらだった。一緒に食事をとり、赤ん坊や子供の世話は全員で見る。

道中(女性が抱いているのは自分の子供ではない)

真夜中だったが宿にはまだ灯りがついており、幸い空き部屋もあった。部屋に入ってベッドの横たわったのは2時過ぎだっただろうか。

翌日。まずやるべきことはアフガニスタンへのビザを入手することだ。アフガン領事館は宿から歩いて10分たらずのところにあった。金曜日なのでひょっとすると領事館が閉まっているかと案じていたが杞憂だった。

アフガン領事館

ビザは簡単に取得できた。領事館の中には入らず、正門の窓口を通じて女性の係員が対応してくれた。領事館の外に設けられた小屋の中で申請書に必要事項を記入し、入国を希望するレターを書く。これらを提出のうえ、近くの銀行で100ドルを納付すればほぼ即座にパスポートにビザが貼付される。3日後の発給でよければ料金は50ドルとのことだったが、もちろん私にはそうした時間的余裕はない。即日発行と3日後の発行で手続きに相違があるとは考えられず、おそらくエキストラの50ドルは領事館の小遣い稼ぎなのだろう。

聞くところによると、2015年に入ってから、ホーログ領事館でのビザ申請にも日本外務省(大使館)のレターが必要になったらしい。つまりホーログでのアフガン・ビザ取得の道も閉ざされたわけだ。

肝心のビザを入手できたかことから、気楽にホーログの観光を楽しむことができた。ホーログは山に囲まれた小さな町だ。規模は小さいがマーケットもある。反政府活動(麻薬を巡る縄張り争いだという見方もあるが)でたびたび銃撃戦が起こるような気配はなく、のんびりと平和で、中央アジアらしい趣があった。

ホーログ1(マーケット)

ホーログ2

アフガニスタンのイシュカシムと接するタジキスタンの町もイシュカシムと呼ばれている。そのイシュカシム行きの乗り合いタクシーの発着場を確かめてから宿に戻る。いよいよ明日は念願のアフガン入国。高まる気分と一抹の不安。

2016年7月11日月曜日

エリトリア2008 再びアスマラ、帰国

2008年12月25~28日。

翌日マサワを発ってアスマラへ戻ることにした。帰国日は28日だから、マサワにもう1泊する余裕は十分にあったのだが、昨日の経験からアスマラまでの足がなくなることを心配したのだ。いつも短期の旅行ということもあり、こと行程に関する限り、私は過剰に慎重になる傾向がある。もっとも、これまで大きなトラブルに遭遇していないのは、この慎重さのおかげだとも言える。

朝の9時過ぎに宿を出て、道を尋ねながら、バス乗り場とおぼしきところへ向かう。冬の朝だというのにマサワはすでに30℃を超えており、じっとりと汗が出てくる。マサワは世界でもっとも暑い場所のひとつということだった。

エチオピア軍の戦車の残骸が展示してある場所を通り過ぎる。残骸は5、6台はあっただろうか。さらにしばらく行くと、小さな路上マーケットに遭遇した。女性たちが並んで野菜や果物を売っている。女性たちの服装はカラフルだが、売られている人参、玉葱、トマトなどはあまり育ちがよくなく、小さかった。

戦車の残骸

路上マーケット

バス乗り場の近くにさしかったとき、私を呼ぶ声がする。昨日のタクシーの運転手だ。彼もマサワで1泊して今からアスマラへ帰るところだった。帰りは安くするのでと言うので、このタクシーでアスマラに戻ることにした。料金は忘れたが、たぶん500円以下だっただろう。運転手としては昨日ですでに元はとっているから、どんな値段でも空車で帰るよりはましと思ったのだろう。

途中、小さな村で休憩する。生きた鶏を抱えた13、4歳の少女が私に近づいてきて、鶏を食べるしぐさをする。買わないかということらしい。おいおい私は観光客だよ。生きた鶏を買ってどうしろというのか。

小さな村で休憩

タクシーはここでさらにエリトリア人の女性3人の乗客を拾い、アスマラに戻った。アスマラではKhartoum Hotelに再度投宿した。予約はしていなかったが、部屋はいくつも空いているようだった。

この日から帰国まで3日間をアスマラで過ごした。この滞在中の出来事や印象をいくつか記しておこう。

エリトリアは貧しい。これといった天然資源も産業もないうえ、エチオピアとの戦争で極限まで疲弊している。軍事支出は今でもGDPの20%を超える。これで貧しくないとすればそちらのほうが不思議だろう。だが、街並みはきれいで、道路にはほゴミがほとんど落ちていない。物乞いはいるが、アグレッシブではない。ストリートチルドレンは1組見かけただけだ。児童の就学率もそれほど低くはなさそうだ(アスマラでは数多くの制服姿をみかけた)。一見したところ「世界最貧国のひとつ」とは思えない。

貧しさの中でのこうした規律と秩序は「エリトリア人の矜恃」によって説明されることが多い。俗に言う「武士は食わねど高楊枝」だ。マサワへ行くときに出会ったイタリア人のカップルも同意見だった。アフリカのいくつかの国での滞在経験がある彼らは「(エリトリア人は)アフリカの中でもベストだ」と言う。誇りが高く、我慢するすべを知っており、勉強にも熱心らしい。

だが、1991年の独立以来一党独裁が続く抑圧的な体制がエリトリア社会の規律や秩序と関係していると見ることはできないだろうか。北朝鮮の街にゴミが落ちていないのと同じ理屈だ。エリトリアはしばしば北朝鮮と比較される。報道の自由に関しては世界最下位、北朝鮮より下にランクされたこともある。

といっても、北朝鮮に比べればエリトリアは「普通の国」だ。地方に出かけるには許可がいるものの、自由に歩き回り、行きたいところに行くことができる。現地の人と話すのに何の支障もない。タクシーに乗ったとき、「アスマラにはタクシーと写真屋が非常に多いが、どうしてだ」と運転手に尋ねたことがある。運転手は「ほかに仕事がないからだ」と自嘲気味に答えた。こうした不満の表出は北朝鮮では考えられない。タクシーの運転手とカジュアルに話すこと自体が不可能だ。

エリトリアでは英語が比較的よく通じた。この点はのちに訪れたエチオピアやソマリランドと似ている。

アスマラで印象に残ったのは金属類のリサイクル・マーケットだ。鍋や釜、工具、自動車や自転車の部品などが山のように積まれ、リサイクルのために再加工されている。過酷な環境の中、小学生くらいの子供も働いていた。

金属のリサイクル

アスマラにある唯一の中華料理店にも行ってみた。何年か前には中国人のシェフもいたが、今は現地人だけでやっているとのこと。卵スープ、チャーハン、酢豚を注文したが、中華とば別の代物だった。見かけさえ似ていない。店のマネージャーに話しかけられる。以前はアディスアベバのホテルで働いていたらしい。「日本人の客も多く泊まっていた」とのことだった。

子供たちの写真もたくさん撮った。向こうから近づいきて、写真を撮ってくれと言う。写真を撮ると「Thank you」というお礼の言葉が返ってくる。

子供1


子供2

子供3

12月28日、アスマラ空港を飛び立ち帰国の途についた。行きと同様、サウジアラビアのジェッダを経由してフランクフルトまで飛び、フランクフルトで関空行きに乗り継ぐルートだ。行きとは異なり、フランクフルトで1泊する必要はなかった。

アスマラ空港の出国審査ではちょっとしたトラブルに遭遇した。入国時に申請した現金、アスマラで両替した額、残りの手持ちの現金が整合しなかったのだ。これは入国時の申請がいい加減だったからだが、まさか出国時にここまで厳しくチェックされるとは予想していなかった。幸いなこに、30分ほど留め置かれ、「今度入国するときにはこのようなことがないように」とのお叱りを受けただけで済んだ。あとでネットで調べると、同種のトラブルで2時間くらい留め置かれたケースもあるようだ。

何枚かの音楽CDを土産に、はじめてのアフリカ旅行はこのようにして終わった。心残りは、マサワをあまりにも早く切り上げたこと。じっくりとマサワを見るにはもう1泊が必要だった。

エリトリア旅行の動画

2016年7月6日水曜日

エリトリア2008 マサワ

2008年12月24日。

朝9時ごろ、マサワ行きのバスに乗るためバスステーションへ向かう。マサワ行きのバスが到着するはずの乗り場にはすでに数人が並んでおり、私も列に加わる。

10時になってもバスはこない。やがて11時が過ぎ、12時になり、1時になる。バスは来ない。行列は長くなり、30人くらいが並んでいる。エリトリアでは列をつくって待つというのはほんとうだった。一時的に列を離れるときは自分の荷物や少し大きめの石を置いておく。

バス乗り場

バスが来ないのは大幅に間引き運転をしているためだ。当時石油価格が高騰しており、、外貨が枯渇しているエリトリアではガソリンも枯渇していた。その結果、公共交通のサービスがずたずたになっていた。

昼食をとりどころか、トイレにもいかず列の中で座って待つ。ただひとりの外国人がめずらしかったのだろう、若いエリトリア人の女性が英語で話しかけてきた。ガイドブックを見せながら、エリトリアのことなどについて話す。近くで誰かがしゃべっている声を聞き、女性は「あれはティグレ語だ」と言う。エリトリアは他民族国家だ。ティグリニャ人が55%、ティグレ人が30%を占め、その他合計9つの民族からなっている。もちろん私には民族間の相違はまったく識別できない。

そうこうするうちに欧米人のカップルがやってきた。聞けば、ローマ出身のイタリア人で、マサワに行くつもりだという。感じのよさそうなカップルだったこともあり、タクシーをシェアして一緒に行かないかと提案した。バス乗り場にたむろしているタクシーと交渉するが、かなりな高額をふっかけてきた。だがバスがいつ来るかわからない。ひょっとすれば今日中には来ないかもしれない。結局、私が半額、カップルが半額支払うことでタクシーをシェアすることにした。いくら支払ったは失念したが、日本円で3~4000円くらいだったように思う。

アスマラからマサワまではタクシーで3、4時間。アスマラは標高2300mで、マサワは紅海に面している。したがって山あいをどんどん下っていくことになる。なかなかの景観だ。

アスマラからマサワへ


イタリア人のカップルは観光客ではない。奥さんがアスマラのイタリア学校で教えており、数ヶ月前からエリトリアに滞在していた。エリトリアは戦前にイタリアの植民地であり、今でもイタリアとの関係が深い。「イタリア学校」というのはイタリア語の学校ではなく、アスマラ在住のイタリア人子弟のための学校でもない。エリトリア人がイタリアと同じ制度のもとでイタリアと同じ教育を受けるための学校だ。学校を卒業したエリトリア人はそのままイタリアの高等教育機関に進学できる。

カップルは大の日本びいきだった。ローマで開かれる日本関連の展示会やイベントにはいつも参加していたという。川端康成の「Kyoto」という小説を読んだというので、「そんな小説はない」と答えてしまった。これは失敗。確かに川端に「京都」なる作品はないが、おそらく「古都」のことだろう。欧米では「古都」がわかりやすく「Kyoto」と翻訳されて出版されていたのだろう。

マサワに着き、私は街の中心から少し離れたところに宿をとった。イタリア人のカップルはもっと安い宿を求めて街中へ出かけた。

私も少し休んでからマサワの街を散策する。「エチオピアとの戦争でほんんど廃墟と化し、見るべきところはあまり残っていない」といわれるマサワ。確かにに戦争の傷跡は今も残っている。だが、半分崩れかかった門から入った市内は港町特有の趣がある。東洋人が珍しいのか、子供たちが私の周りに集まってくる。

マサワは紅海に面している

戦争の傷跡

あるカフェの前を通ると「Are you Korean?」との声がかかる。エリトリア人相手にボードゲームをしていた東洋人の老人が声をかけてきたのだ。「いや日本人だ」と答える。

老人は日系2世の米国人O氏だった。カリフォルニアからマサワに移り住んで約10年。数年前に癌を患い片足を切断(手術は日本でしたという)、車椅子生活を余儀なくされていた。

日系2世のO氏

O氏の自宅に招かれ、夕食をごちそうになる。O氏は彼の世話をするエリトリア人の女性やその家族と暮らしていた。夕食はインジェラだった。食後にコーヒーを飲む。コーヒーはエチオピアと同様の方式に従って提供された。3杯飲むのが礼儀らしい。ここらあたりはエチオピアのコーヒーセレモニーと同じだ。エリトリアとエチオピアは幾度か戦い、今も敵対しているが、文化的には非常に近い。歌や踊りにも共通した要素が多い。

コーヒーセレモニー

O氏の話は非常に興味深かった。

氏の人生を決め、アイデンティティの核となっているのは、思春期の収容所生活らしかった。収容所時代の仲間とは今も年に1回、ラスベガスで一種の同窓会を開いている。老齢化が進む中、年々参加者が減少しているとのこと。氏の着用しているTシャツには「XX収容所XX年Anniversary」というロゴが書かれていた。

エリトリアへ来たのも、収容所時代の仲間であるDr.Satoが提唱した食用マングローブを育てるというプロジェクトのためだった。O氏は「Dr.Satoは世界的にもちょっと知られた人だ」と言っていた。私はそのときは話半分に聞いていたが、帰国後に調べると、Dr.Satoは収容所を出たあと庭師をしていたところをある学者に拾われてカリフォルニア大学を卒業、学問の世界で業績をあげ、ノーベル医学生理学賞の候補にまでなっていた。

O氏は終戦後米国の軍隊に入り、両親の故郷である福岡に駐屯した。原爆直後の広島をも訪れたという。ぺちゃんこになった廃墟の中、自転車の残骸が積み重なっている場所がある。たぶんここは自転車屋だったのだろう。溶けかかった時計が数多く残されているのは時計屋のあとだろう。

「東京にも行ったことがあるか」との問いに、O氏は「東京は好かんけん」と博多弁で答える。
氏との対話は日本語で行ったが、ときどき氏が言葉に詰まると英語に切り替えた。途中、近所に住むエリトリア人の中年男性が尋ねてきたときには会話はすべて英語になった。この近所の男性も以前カリフォルニアに住んでいたことがある。しかもO氏の家のごく近くに住んでいたらしい。といっても当時両氏は面識があったわけではない。男性が帰ったあと、O氏は「あの男は実はドラッグの取引で米国から国外追放されたのだ」と語っていた。

氏の話は興味深かったが、日もとっぷりと暮れたので宿に帰ることにした。真っ暗な中、氏の世話をしている少年が私を宿まで送ってくれた。

O氏は当時87歳。あれから8年近く、はたして今も存命かどうか。

2016年7月2日土曜日

エリトリア2008 アスマラ到着

2008年12月にエリトリアを訪れた。私にとってはじめてのアフリカ大陸。はじめてのアフリカにエリトリアというあまり聞き慣れない国を選んだのは,どうしてか。ネット上での評判に加え、彼の国の音楽に対する興味が動機として大きかった。はるか昔の「エリトリア解放戦線」の記憶が残っていたこともあるかもしれない。

エリトリアの音楽が好きになってエリトリア行きを決めたのか、それともエリトリア行きを決めてからエリトリアの音楽を聞き始めたのか、今となっては判然としない。おそらくエリトリアという国への興味からエリトリアの音楽を聞き始め、音楽に入れ込んだことからエリトリア行きの決心が固まったいうのが真相に近いだろう。

東京にはエリトリア大使館があり、ビザは郵送で簡単にとれた。問題は航空券。日本からエリトリアの首都アスマラまでの直行便はもちろんない。もっとも安いのはエジプト航空だが、カイロからアスマラまでは週に2便しかなく、カイロで何日か滞在せざるをえない。エジプトに興味がないわけではないが、タイトなスケジュールを考えればこれは避けたかった。エリトリアとエジプトという2つの未知の国を1週間余りで訪れるのはきつすぎる。

値段はエジプト航空の倍以上するが、フランクフルト発ジッダ(サウジアラビア)経由アスマラ行きのルフトハンザ便を利用する方法もあった。スケジュールからしてこちらのほうがいいだろう。はじめてのアフリカ大陸だ。値段には目をつむろう。この便も関空からはそうスムーズではなく、フランクフルトで1泊することになる。

2008年12月21日に関空を飛び立ち、フランクフルトで1泊(ナイトマーケットのクリスマスセールを見物した)。アスマラ空港に到着したのは22日の深夜だった。12時を過ぎていたから正確には23日の早朝。

空港では手持ちの現金をすべて申請することになっていた。米国ドル、ユーロ、日本円をバッグやポケット、マネーベルトに分散して収納していた私は、いちいち調べる手間を省き適当に申請しておいた。これがあとで出国するときにトラブルの原因になろうとは。エリトリアは当時(たぶん今でも)外貨の流通を厳しく規制しており、闇で両替したことがばれると外国人でも2年間の懲役が課せられるとのことだった。公式レートが実勢レートと大きく乖離しているから、こうしたコントロールが必要になるのだろう。

深夜にもかかわらず空港の外にはかなりの数のタクシーが待機していた。市内までの料金はガイドブック(Lonely PlanetとBradt)に記載されているとおりだった。タクシーはひと気のないアスマラの街に入り、夜中の1時過ぎにKhartoum Hotelに到着した。ガイドブックで目星を付けておいたホテルだ。予約はしていなかったが、部屋は空いていた。大きなツインのルームでトイレとシャワーは共用。値段はよく覚えていないが、確か日本円で1500円くらいだった。実勢レートならもっと安いだろう。Khartoumはスーダンの首都ハルツームだ。スーダンの資本が入っているホテルだと聞いたような気がするが、確かではない。

翌朝、ホテルの近くのカフェで、紅茶とパン、蜂蜜とチーズの朝食をとる。アフリカ大陸でとるはじめての食事。

エリトリアは国内のどこでも自由に旅行できる国ではない。外国人が首都のアスマラから離れるには許可証が必要になる。今回の旅行では紅海に面するアスマラ第2の都市マサワも訪れる予定だったから、まずその許可証を入手する必要がある。

許可証を発行する事務所は街の中心部にあり、Khartoum Hotelから歩いて行けた。9時ごろに手続きをしたが、許可証が発行されたのは午後2時ごろだった。できれば今日のうちにマサワに移動したかったが、バスもなく難しいとのことだったので、アスマラにもう1泊することにした。

はじめてのアスマラ、はじめてのエリトリア、はじめてのアフリカ。目に入るすべてがめずらしい。もっともエリトリアは「アフリカらしくない」というもっぱらの評判だった。街路にはゴミが落ちておらず、人々はちゃんと列をつくって待つ。確かに街はきれいだった。アフリカの他の国を訪れたことがないから、これが「アフリカらしくない」ことなのかどうかはわからなかった。

アスマラのメインストリート

物乞いもいないということだったが、これはあたっていなかった。物乞いはほぼ街角ごとに見られた。幼い子を抱えた女性の物乞いが多かった。物乞いは政府によって禁止されているとの報道も読んだことがあるが、世界最貧国の1つである経済状況では禁止しようにも禁止できないのだろう。

Institute Francaisがあったので入ってみる。ここではフランス語の講座を開催している。授業を見学したかったが、言い出しかねた。図書室で雑誌を読んでいる青年がいたので声をかける。

青年と一緒にカフェに入り、音楽の話などをしたあと、エリトリア料理のレストランに案内してもらう。エチオピアと同様、エリトリアの主食もインジェラだ。日本人にはあまり評判のよくないインジェラだが、私は特にまずいとは思わなかった。おいしいというわけでもなかった。米やパンがそれ自体としては特別においしくもなくまずくもないと同じだろう(もちろん例外的においしい米やパンも存在するが)。ビールはメニューにはあったが、提供していないとのことだった。おいおいわかってきたことだが、地元のビール工場は原料不足から生産を停止していた。中国の青島ビールなどを出しているレストランもあったが、輸入量に限りがあるので、数は少なかった。

エリトリア伝統料理のレストランの内部

青年と別れたあと、さらに街を一巡し、市場や正教の教会などを訪れる。夕暮れの街並みが美しい。再度カフェに入り、カプチーノとエクレアを注文したりもした。飲み物も食べ物も安いので、値段をあまり気にせずに注文できる。

エリトリア正教の教会

レストランで夕食としてハンバーガーを食べ、宿に戻った。明日はマサワに行く予定。

2016年6月16日木曜日

台湾2016 六日目(帰国)

5月27日。

関空行きのPeach便は高雄を13時に発つ。「あひる家」のチェックアウトは11時。チェックアウトぎりぎりまで宿にとどまり、それから高雄空港に向かえばちょうどよい。

台湾に着いてからずっと朝食はコンビニやスーパーで購入したもので済ましてきた。台湾最後の今日くらい街の食堂の朝食を試してみたい。そこで8時過ぎに宿を出て、ぶらぶらと駅の方向に歩く。朝食を提供している店を見つけた。客足もたえず、はやっていそうな店だった。揚げパンと卵焼き、豆乳を選んで、50元(175円)。コンビニで調達する朝食よりずっとよい。

台湾最後の朝食

高雄の街の見納めに、写真や動画を撮ってから宿に戻る。

高雄のトラフィック

11時にチェックアウトし、MRTで高雄空港に向かう。台湾入国時に合計4万円を現地通貨に両替していたが、だいぶ余ってしまった。余った台湾元を空港で日本円に再両替する。1万3千円戻ってきた。つまり台湾で合計2万7千を支出したことになる。1日あたり5400円。思ったより安くついた。まだすこし元が残っていたので、出発ロビーの食堂で牛肉麺と缶ビールを注文し昼食とした。

Peach機は定刻どおり高雄を発ち、6時前に関空に着いた。5泊6日の台湾旅行の終了。

11年ぶりの台湾。今回の旅で何に気付き、どう思ったか、若干の感想を記しておこう。

booking.comを通じて予約した「アヒル家」がドーミトリーにもかかわらず660元(2300円)と日本並みの値段だったため、日本を旅行する場合と同じくらいの出費を覚悟していたが、実際の物価は日本と中国本土の中間、それもかなり中国本土寄りの中間だった。宿代、交通費、食費すべてにおいてでだ。「あひる家」は台湾の水準では高かったが、高いだけの付加価値がある。掃除に時間と人手をかけており、部屋もトイレもシャワーもウルトラクリーン。各ベッドにライトとコンセントが用意されており、共有スペースには電子レンジもある。お茶も飲み放題だ。こうした付加価値をどう評価するかで「あひる家」を高いと思うかどうかが決まるだろう。

5月下旬の高雄は暑く、湿度も高かった。最初の3日間は雨が降ったり止んだり。天候はベストではなかった。だがいざというときには雨が止んでくれ、まずは満足すべきだろう。「あひる家」のスタッフに聞くと、台湾旅行のベストシーズンは11月と12月だという。

檳榔(ピンロウ)を売る店が多かったは意外だった。経済発展著しい今日の台湾では檳榔のような嗜好品は影を潜めたかと思っていたが、そうではなかった。高雄ではあまり見かけなかったが、屏東から三地門へ向かうバスの車窓からはそれこそ数十メートルおきに檳榔の店があった。過激な服装の若い女性が檳榔を売る姿は見かけなかった。法律で禁止されたのかもしれない。

高雄、台南、屏東では予備校、補修塾、語学学校の看板を頻繁に見かけた。駅前の一等地にはこの種の学校が乱立しているようだった。台湾も日本や韓国と同様に学歴社会となっているのだろう。

語学学校の看板

今回の旅行を通じ台湾もまたぜひまた訪れたい国のひとつになった。このように再訪したい国が増えるのはそれなりにいい旅をしている証拠だと自画自賛してみる。

2016年6月15日水曜日

台湾2016 五日目(高雄・台南)

5月26日。

朝方、宿の共有スペースで欧米系の若い女性を見かける。聞けばリヨン近郊出身のフランス人だとのことで、フランス語に切り替えてしばらく会話。観光客かと思ったが、そうではなく台湾在住4年で、宿のスタッフと流暢な(と私には思える)中国語で話していた。現在は台北の大学でデザイン・マネジメントを学んでいるとのこと。大学の授業はすべて英語だが、同級生のほとんどが台湾人であることから中国語を覚えたらしい。日本にはまだ来たことがないというので、ぜひ来るように勧めておいた。

さて、高雄で残された1日をどう過ごすか。宿の下にあるセブンイレブンで買ってきたカツおにぎり(カツを挟んだおにぎり)とアップルミルク(牛乳とアップルジュースのミックス)で朝食をとりながら、ガイドブックを見て検討する。

台湾は小さな島国だ。新幹線を使えば高雄から台北への日帰り旅行も可能だ。今日の行き先もなにも高雄市内に限る必要はない。高雄のすぐ近くに台南という比較的大きな都市がある。宿のスタッフに「台南はどうだろうか」と尋ねると、「台南は台湾の京都ともいえる都市で、訪れる価値がある」との答え。高雄から急行で30分、各駅停車で1時間ほど。列車の本数も多く、いつでも簡単に行ける。

というわけで、台湾最後の1日は台南行きにあてることにした。9時過ぎに宿を出て、急行で台南に着いたのは10時半ごろ。駅前のビルの電光掲示板には温度が33℃と表示されている。高雄も暑かったが、台南も暑い。メインストリートとおぼしき中山路を下っていく。途中書店があったので立ち寄る。冷房がありがたい。予想したとおり、日本の雑誌が少なくない。なぜか猫に関する雑誌が多い。そういえば猫カフェが誕生したのは台湾だった。

台南駅前

書店の中(なぜか猫関係の雑誌が多い)

かき氷の店に立ち寄り、「日式抹茶氷」なるものを注文する。他のかき氷よりちょっと高くて50元(175円)。

日式抹茶のかき氷

やがて目指している孔子廟に到着。孔子に興味があるわけではないが、ただ街をぶらぶらするのではなく、ひとつくらいは名所にも足を運んでおこうと思ったからだ。中学生や高校生の団体に加え、ちらほらと観光客もいる。毛筆で書いた書を売っていた老人が私に日本語で話しかける。一目見ただけで私が日本人だとわかるらしい。

かつて台湾の首府でもあった台南にはほかにも史跡や名所が数多くあるらしいが、暑い中を歩いて探し回るまでの好奇心はない。台南の路地裏を少しうろついてから昼食をとることにした。時刻も1時を過ぎている。

台南の路地裏

駅に近い「本家台湾咖哩」というチェーン店とおぼしきカレー屋に入る。昨日もカレーを食べ、今日もカレーというのも芸のない話だが、前を通りかかったときに女店員に呼び止められたのと、カウンターに多くの客がいたのでおいしいのではと思ったからだ。

メニューの中でもっとも高価な「総合カレー」を注文した。300元。日本円にすれば1050円ほど。日本より食費がなべて3割くらい安い台湾にしては破格の値段だ。チキンカツ、豚肉のしゃぶしゃぶ、唐揚げ、ニンニク、ネギ、生卵、挽肉がトッピングされたなんとも高カロリーなカレー。満腹感に抵抗しながら何とか食べきった。

総合カレー

このカレー屋では4、5人の若く可愛い女性が働いていたが、客が入るたびに日本語で「いらっしゃいませ」と声をかける。客が支払いを終えて出て行くときには誰かが「お客様のお帰りです」と言い、それにあわせて全員が「ありがとうございました」と唱和する。すべて日本語だ。私に向かって言うのならわかるが、台湾人の客に対しても同様だ。

 彼女たちが知っている日本語はこれだけ。食事を終えたあと、中国語で「おいしかったか」と聞かれたので、「おいしかった」と答え、つたない中国語で「あなたたちはどうして日本語で客を迎えるのか」と尋ねてみた。「この店のオーナーは日本人だから」というのが答えだった。あとでネットで調べると、本家台湾咖哩は台湾という名を冠しているものの、発祥地は名古屋らしい。

昼食後さらに街を散策する。名所旧跡はそっちのけで、暑さしのぎにデパートを覗いたり、カフェでアイスコーヒーを飲んで時間を過ごし、5時前に高雄に戻る急行に乗った。

宿に戻り、共有スペースにいた日本人女性2人と少し話す。ワーキングホリディで台北に滞在している女性とその友人ということだった。彼女たちは昨夜私が行って失望した瑞豊夜市に行くと言って宿を出て行った。私が瑞豊夜市に失望したのは実は市の定休日だったからだ。このまま終わるのもしゃくだ。そこで私も再度瑞豊夜市を訪れることにした。

巨蛋駅を降りて昨日歩いた道を再度たどっていくと、昨日とはまったく異なる賑やかな光景が展開されていた。これが本来の瑞豊夜市だ。観光客向けといわれる六合夜市よりはるかに大きい。射的や風船釣り、輪投げなどのゲーム場もある。昼に台南で食べた総合カレーのおかげで夜になっても空腹感はほとんどない。ホットドッグ(熱狗)をジャガイモでコーティングした大熱狗で夕食代わりとした。

瑞豊夜市

8時半過ぎに宿に戻り、共有スペースで缶ビールを飲む。ひょんなことで隣に座っている30歳くらいの台湾人女性と会話になった。「会話」とはいうものの、女性は日本語も英語も話せない。したがって私の入門レベルの中国語と筆談による素朴きわまりないコミュニケーションだ。この限られた手段のコミュニケーションから得られたのは次のような情報。

女性は霧台で遭遇した青年と同様、台東に住んでいる。
息子と一緒に日本のディズニーランドを訪れたことがある。日本語も英語もしゃべれないので怖かった。海外は日本のほかにインドネシアとマレーシアを訪れたことがある。
日本の食べ物で好きなのは刺身と蟹。
私の名前の中国語読みが「好聽」(耳に快い)とのことで、ちょっと気をよくした。
私のほうからは北朝鮮旅行やアフガニスタン旅行の写真を見せた。

女性とは「明天見」(See you tomorrow)と挨拶して、それぞれの部屋に戻った。明日はいよいよ帰国だ。