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2020年11月24日火曜日

Édouard Louis: Qui a tué mon père

2020年11月23日読了

著者:Édouard Louis

刊行:2018年

評価:★★★★★

1992年生まれの若手フランス人作家Édouard LouisによるQui a tué mon père(誰が私の父を殺したか)は、En finir avec Eddy Bellegueule(エディに別れを告げて)とHistoire de la violence(暴力譚)に続く彼の3つ目の作品だ。第1作も第2作もそれほど長くはないが、この3作目は80ページ余と、ことのほか短く、Romanと呼ぶのに躊躇するほどである。なにぶんにもフランス語だから、私が読了するには数日かかったが、ネイティブのフランス人なら2、3時間で読み終わるだろう。

内容は処女作のEn finir avec Eddy Bellegueuleにつながる。続編というわけではない。処女作を補完する補遺といったところか。叙述のほとんどはTu(「あなた」の親称)を使って父親に語りかける形式になっている。

作者が生まれ育ったのは北フランス工業地帯の小さな町(作品ではvillage、つまり村となっている)である。住民の多くは地元の工場で働いている。作者の父親はリセ(高校)を終えてからの5年間を南フランスで過ごす。「現実を忘れる権利」を享受する期間を「青春(jeunesse)」と呼ぶなら、南フランスでの5年間はまさにその青春を引き延ばすためのあがきでもあった。

父親は結局生まれ故郷の村に戻り、地元の工場に勤める。しかし工場で事故に遭い、背中を傷める。その後遺症も癒えない中、不景気の煽りを喰い、工場を辞める。ままならない身体のまま、やっとありついたのは道路掃除の仕事だ。毎日腰をかがめて、長時間、道路を掃いている。

久しぶりに帰郷した作者が見た父親に昔の面影はない。歩くのもやっとの疲れ切った姿。50歳になったばかりだというのに。

父親やその周辺を支配しているのはmasculinité(男らしさ)という価値観だ。男にはなによりもマッチョであることが求められる。ゲイである作者がこうした環境に別れを告げ、高等教育を受けるまでのプロセスが処女作En finir avec Eddy Bellegueuleの主題だった。

本書は父親にまつわるランダムな思い出やエピソードからなる。たとえば2004年の次のようなエピソードを紹介しておこう。

中学校で冷戦とベルリンの壁について学んだ作者。ベルリンが壁で分断されていたという事実に衝撃を受け、好奇心をおおいにかきたてられる。ヨーロッパが2つに分かれてたなんて。道の真ん中に壁が建てられ、行き来が不可能になるとは。

作者は急いで家に帰る。父親なら壁が崩壊したときには成人になっており、もっと詳しい情報が得られるはずだ。「壁を実際に見た人を知っているか、実際に壁に触った人に会ったことはあるか」などの数多くの質問を抱えて家に急ぐ。

父親の回答は漠然としていた。「そんなことがあったね。テレビで報道されているのを見た」。しつこく質問すると、父親は怒り出して怒鳴る。怒鳴るのはいつものことだが、このときの怒鳴り方はいつもとは違っていた。怒鳴り声の中に「恥辱(honte)」が混じっていたのだ。無知であることの屈辱。学校で教える歴史と父親の歴史は重ならない。

「マッチョであること」の中には学校や教師に対する反抗も含まれ、勉強は軽蔑される。教師に平手打ちを喰らわせた作者の従兄弟は、そのことでみんなから賞賛される始末だ。かくて社会的な階段を上がることをみずから拒否し、貧困が再生産される。

物語も終わりに近づいたころ、「政治」が登場してくる。シラク、サルコジ、オランド、マクロンといった歴代の大統領の名前が挙げられ、彼らの行った社会保障の減額や労働時間の延長とった政策が糾弾される。「私の父を殺した」(実際に死んでいるわけではないが)のはこうした政治家とその政策であり、社会のシステムだ。「持てる者、支配する者」にとっては政治とは「美学の問題」であり、「世界観の問題」でしかない。しかし「持たざる者、支配される者」にとっては政治は生活に直接影響する「生きるか、死ぬか」の問題なのだ。

短い小説だが、無駄な行は一行もなく、濃密な内容がぎっしりと詰まっている。ここ数年に読んだ本の中では出色、まぎれもなくナンバーワンだ。英訳や独訳は出ているが、残念ながら日本語には訳されていない。

作者のÉdouard Louisが本書について語っている動画がいくつかYoutubeにアップされている。たとえば次の動画ではLouisが英語でインタビューに答えている。

Édouard Louis and Kerry Hudson: Who Killed My Father?


フランス語でのインタビューは次の動画。

« Qui a tué mon père », le nouveau livre d'Édouard Louis





2020年9月30日水曜日

Victor Hugo: Les Misérables

2020年9月28日読了

著者:Victor Hugo

刊行:1862年

評価:★★★★☆

Kindle版(110円)

1年以上かけてようやく読み終えた。「読み終えた」というのは必ずしも正確ではない。ざっと目を通したという部分も少なからずあるからだ。ユーゴーの小説のご多分に漏れず、この作品にも本筋には直接関係しない脱線が多い。たとえば、ワーテルローの戦いの推移、フランスの隠語や俗語についての考察、パリの下水道の歴史など。しかもそれぞれ長い。ワーテルローの戦いの章の最後の数ページだけは話の展開に大きく関係してくるが、その他の脱線は字義通り脱線であり、読んでも読まなくて本書の理解には影響しない。

こうした脱線にも一応は目を通した。ただし、大部分は活字を目で追っていただけで、頭にはほとんど入らなかった。なにぶんにも古い言葉や専門用語が頻出し、いちいち調べて理解しようとすると、たいへんな手間だ。

これに反し、本筋のストーリーは非常にわかりやすい文章で書かれている。波乱に富んだ物語なので、おもしろくすいすいと読める。

波乱に富んではいるが、偶然と偶然が重なる展開で、劇画風と言えなくもない。

しかし、ユーゴーの小説の魅力は破天荒なストーリーだけでなく、登場人物の造形の見事さにもある。「93年」や「ノートルダム寺院」と同様、感情の振幅が激しい人物たちが極端から極端へと駆け抜ける。

たとえば、異常な情熱でジャン・バルジャンを追うジャベール(Javert)警部。ジャベールは「悪漢」ではない。彼独自の「法律」という論理に操られているだけだ。この論理が破綻しそうになるとき、彼自身も破綻する。

最初から最後まで小悪党として暗躍するテナルディエ(Thénardier)も重要な役を担っている。この貧弱な小男は、もともとは宿屋兼食堂の主だった。ケチで小狡くはあるが、客に愛想よく、曲がりなりの学もある。大柄で乱暴なテナルディエの妻も心に残る人物で、その図体にもかかわらず夫に盲目的に従う。この二人の悪党の間に生まれた子供たちも、それぞれの個性で際立つ。なかでも、歌を歌いながら暴動に加わる陽気なガヴローシュ (Gavroche)少年は、パリのストリートチルドレンの代名詞となっているくらいだ。

もちろん美男と美女のマリウスとコゼットも欠かせないが、正直なところ、彼らに対しては悪漢や性格破綻者などのどぎつい人物に対するような興味を覚えなかった。

レ・ミゼラブルにはじめてふれたのは小学生のころ。岩波少年文庫に収められている豊島与志雄訳を読んだ(「レ・ミゼラブル」ではなく、「ジャン・バルジャン物語」というタイトルだったかもしれない)。そのあとで映画も見た。したがって、おぼろげながらストーリーは知っているつもりだった。しかし、今回曲がりなりにもフランス語で全編を読み、少年のころの記憶や印象の訂正を余儀なくされた。私の記憶では、マリウスとコゼットが結ばれたところで話しは終わっていた。また、ジャン・バルジャンとジャベールの追跡劇が話の軸となっており、テナルディエ一家についてはほとんど覚えていなかった。

岩波少年文庫のほうは豊島与志雄の訳だから、大幅な省略はあったとしても、肝心なポイントは外していないはずだ。要するに私が覚えていなかっただけだろう。記憶といい印象といい、かくまでに頼りない。

1832年の暴動についてフランス革命の一幕と受け取っていたが、小学生という年齢を考えれば、これはやむを得ないだろう。

ともかくこの有名な長編を最後のページまで読んだことで、ホッとし、満足している。期待通りのおもしろさではあったが、ユーゴーの作品としては、3つの個性がドラマティックに衝突し絡み合う、コンパクトにまとまった「93年」のほうに軍配を上げる。

乗りかかった船だ。もうしばらくユーゴーに付き合おう。次はKindleから無料で入手できるLe Dernier jour d'un condamné(死刑囚最後の日)だ。

 

2020年9月19日土曜日

Vasily Grossman: Life and Fate


2020年9月16日読了
著者:Vasily Grossman
刊行(完成):1960年
評価:★★★★☆
Kindle版(1158円)
ロシアの作家Vasily Grossman(1905 ー 1964)の代表作Жизнь и судьбаの英訳版。邦訳もされており、「人生と運命」というタイトルで出版されている。しかし、この日本語版は全3冊からなり、合計で2万円近くする。ここは1000円ちょっとの英語版を選びたい。Kindleの電子ブックというのも英語版の利点だ。ロシア語の小説にありがちだが、登場人物の名前が長く複雑で、途中で誰のことなのかわからなくなることもまれではない。電子ブックの検索機能がありがたい所以だ。

Life and Fateは1942年から1943年にかけてのスターリングラード攻防を背景にした長編小説(Kindle版で870ページ)で、トルストイの「戦争と平和」にも比せられる。

1960年に完成したこの作品がロシアで出版されたのは1988年のこと。スターリン批判以降のソ連もこの作品を許容するほど寛容で自由な社会ではなかった。このことは逆にこの作品が秘めている力の証かもしれない。

物語はモスクワからカザンに疎開しているユダヤ系の物理学者一家を中心に展開される。主人公の母親はドイツ軍占領下のウクライナでユダヤ人狩りの犠牲となり、知人の女医も収容所に送られ、ガス室で絶命する。

理不尽な力はナチス・ドイツだけから迫ってくるのではない。ナチス・ドイツと戦うソ連の社会や軍の中でも国家の理不尽な力が個人を押し潰そうとする。スターリンとベリアの体制のもと、人々はたえず密告におびえ、粛清の危険にさらされる。ばりばりの旧ボリシェビキがある日突然逮捕される。ユダヤ人に対する隠微な攻撃も姿を現してくる。反ユダヤ主義はナチスだけの専売特許ではない。

物理学者の一家とその親族、同僚を語り手として場面は転変し、物語は多面的な広がりを見せる。ソ連の物理研究機関、スターリングラードの戦闘、ドイツ軍の捕虜収容所、ユダヤ人収容所、ソ連の政治犯収容所などのほか、包囲されたドイツ第6軍の司令官のPaulusの視点からの描写もある。ヒトラーやスターリンも姿を見せる。

このようにスターリングラードの攻防と当時のソ連社会を重層的に描こうとする作品ではあるが、私には若干の不満が残る。登場人物が概して立派すぎるのだ。知的レベルも高く、良心の葛藤に苦しみこそすれ、根っからの悪人は少ない。「彼女はバルザックとフロベールの違いすら知らない」と誰かが誰かを揶揄する場面があるが、当時のソ連社会でこうした会話が交わされるのはかなり例外的な家族だろう。

ポーランド、ドイツ、満州への侵攻時に略奪や陵辱の当事者となったソ連軍兵士もいるはずだ。こうした普通の兵士たちの苦しみと狂気をもくみ上げてこそ、戦争を総合的にとらえることができるのではなかろうか。

本書を読む前提知識を得るために、「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」(岩波新書・大木毅)に目を通した。これはこれでおもしろかったが、Life and Fateを読み進めるうえで、スターリングラード攻防に関する詳細な知識は必ずしも必要ではない(もちろんあるにこしたことはない)。他方、1937年のモスクワ裁判(スターリンによる粛清)や農業集団化とクラーク(富農)への攻撃、ユダヤ人医師団陰謀事件など、ソ連の歴史に関するおおよその知識は本書の理解に不可欠と言えよう。

2020年3月17日火曜日

フィリピン戦跡巡り 十三日目(帰国、若干の感想)

2月26日。

関空行きのエアアジア便は8時35分にマニラ空港のターミナル3を発つ。5時半にホテルをチェックアウトして、Victoria Linerのバス・ターミナルに向かう。6時にこのターミナルから空港行きのシャトル・バスが出る。

時間には余裕があるはずだったが、6時過ぎのマニラはすでに渋滞気味で、しかもターミナル3は最後の停留所だったため、少し焦った。ターミナル3でバスから降りたときには、7時を過ぎていた。

しかしエアアジアのチェックイン・カウンターにはほとんど誰も並んでおらず、ほっとする。行きの関空のカウンターが長い行列だったのといい対照だ。これもコロナウィルスの影響だろうか。

ペソがいくらか残っていたので、土産物を購入し、ホットドッグで朝食をとる。

機内は半分も埋まっていなかった(行きはほぼ満席だった)。関空には13時過ぎに到着。この時間帯にもかかわらず、空港の中は閑散としていた。

フィリピン戦跡巡りの旅はこのようにしてコロナ騒ぎがパニックの様相を呈する直前に終わった。

この旅で感じたこと、思ったことをいくつか挙げておこう。

戦跡巡りとは銘打ってみたものの、訪れたのはレイテ島、マニラ、バギオだけであり、しかもそれぞれ2、3箇所を見たにとどまる。文字通り「見た」だけであり、「足を踏み入れた」だけだ。もちろんこれは私の準備不足の結果であり、宿題をせずに出かけたツケと言えよう。

マッカーサー・レイテ上陸の像(タクロバン)

サンチャゴ要塞の門(マニラ)

といってもフィリピンの戦跡をくまなく巡るのはそう簡単ではない。沖縄に比べれば、空間的にはるかに広く、時間的にも倍以上に長く戦闘が展開された。しかもルソン島の戦いは山の中で戦われた。今でもアクセスが容易でない。タクシーをチャーターするしかないケースも多々あるだろう。事前勉強に加え、時間とお金をたっぷり用意しなければならない。

不十分とはいえ、今回の戦跡巡りが無意味だったわけではない。これまでフィリピン戦についてはほとんど何も知らなかった。100万人のフィリピン人が犠牲になり、日本軍の死者も中国大陸のそれを上回る50万近くだったという基本的な知識すらなかった。今回の旅は少しは調べてみようというきっかけをつくってくれた。おかげでフィリピン戦のおおよその流れを知ることができた。

戦跡から離れ、フィリピンについて感じたことをランダムに挙げてみる。

まずショッピングモールの多さ。大型のショッピングモールがマニラのいたるところにあり、バギオにもあった。タクロバンでもかなり大きなスーパーマーケットを見かけた。それぞれ立派なフードコートを備え、どれも賑わっていた。

フィリピン人の平均月収は3万円程度とどこかで読んだ。フードコードで食べれば1食200ペソ(420円くらい)はする。ショッピングモールを訪れるフィリピン人は一部の富裕層というわけではない。バギオで会った日本人女性は「フィリピンでも中間層が増えた」と言っていた。他方、貧富の差か拡大する一方という報道もある。フィリピンにはバナナやマンゴーなどの農産物を除き輸出産業が見当たらない。中東などで働くフィリピン人の送金があれだけの規模、あれだけの数のショッピングモールを支えているとは思えない。このへんの事情は謎のまま残った。

フィリピンの人たちが親切でフレンドリーであることは旅のブログや動画で多くの人が報告している。今回の旅ではこの点もみずからの体験を通じて確かめることができた。フィリピンはぜひまた訪問したい国のひとつになった。

その一方で、フィリピンといえば「危ない」というイメージもつきまとっている。スリや置き引き、睡眠薬強盗、両替のごまかし等々。銃社会という一面もある。

10日程度の旅行で軽々の判断はできないが、こと今回の旅行に関する限り、治安上の不安を感じたことはない。夜中にひとりで人気のない場所に出かけたりはしていないという条件付きだが。

一度だけ欺されそうになったことがある。マニラに滞在して2日目か3日目のこと、あるショッピングモール(SM Mall of Asiaだったかもしれない)をぶらぶらしていたとき、40歳くらいの男が日本語で話しかけてきた。ホテルの警備員をしており、私を知っていると言う。そのときはSogo Hotelに滞在していたので、「Sogo Hotelか」と訊くと、そうだとの答え。日本語は日本で働いていたときに覚えたと言う。

相手の言うことになんの疑いももたなかった私は、奇遇を喜び握手を求める。男は「今日は非番だ。妻と子供は向こうにいる」と遠くを指すが、誰が妻で誰が子供かは判別つかない。そのまま別れようとしたが、男は私に付いてきて「今日は子供の誕生日だ。ケーキを買ってやりたいが、給料が少なくて買ってやれない。子供のために100ペソくれないか」と言う。

この段になっても私はまだ男を疑っていなかった。「100ペソくらいなら都合してやってもいいか」とチラッと考えたくらいだ。しかし男に金を渡すことはしなかった。男を信用しなかったというより、お金を恵むという行為そのものが心にひっかかったからだ。

この話のうさんくささに気が付いたのは宿に戻ってからだ。お金を与えていたところで被害は100ペソ(210円ほど)だけだから、どうということはないが、気分は悪くなっていただろう。

ホテルの警備員を自称していたこの男、翌日もまたその翌日もSogo Hotelで顔を合わせることはなかった。あとで読んだ本によると、フィリピンでは「誕生日」という言葉に注意が必要とのことだった。

警備員といえば、その数が多いことも今回気付いたことのひとつだ。ホテル、ショッピングモール、レストラン、駅の入口、バス・ターミナルと、ちょっとしたした公共の場には必ず警備員が配置されている。大多数は男性だが、女性の警備員もいる。

警備員はフィリピンの雇用にかなり大きな割合を占めているようだ。長い労働時間に低賃金で、労働条件は劣悪と言われている。生産的な仕事ではないが、フィリピンの治安の安定化には貢献しているのかもしれない。

最後に今回の12泊の旅行に要した費用をまとめておこう。

まずエアアジアの関空・マニラ往復便航空券が3万2千円。空港到着日に5万円を両替し、さらにマニラの街中で100ドルを替えた。両替総額は約61000円になる。両替したペソはほぼ使い切った。これらに加え、マニラ・タクロバンの往復航空券(11000円)、コレヒドール島ツアーの代金(約6000円)、Grabの代金(約900円)をクレジットカードで支払った。すべて合計すると、11万900円になる。10泊のサウジアラビア旅行の約半額だ。妥当なところか。ちょっと後悔しているのは、食事を節約しすぎたこと。大半の食事をファーストフードやセブンイレブンで済ませてしまった。お金はかかっても、もう少しちゃんとしたものを食べるべきだった。


2020年3月16日月曜日

フィリピン戦跡巡り 十一、二日目(マニラ)

2月24日。

Victoria LinerのFirst Classバスは11時10分にバギオのターミナルを出発し、4時過ぎにマニラに着いた(マニラからバギオへの代金は800ペソだったが、バギオからマニラまではなぜか680ペソだった)。

バギオを出る

帰国日の26日までの2泊はOYO 501 Yuj Inn Pasayを予約していた。Victoria Linerのターミナルから歩いて10分もかからないこと、空港までも相対的に近いこと、そしてなによりシャワー・トイレ付きの個室が1080ペソ(2200円ほど)と安いことが決め手になった。

先日宿泊したSogo Hotelとも近い。部屋は狭いが、Sogo Hotelより安く、Sogo Hotelより快適だった。

OYO 501 Yuj Inn Pasayの狭い部屋

チェックイン後にホテルのまわりをぶらぶらして1日を終えた。夕食はちょっと大きめのトロトロ(ローカル食堂)で済ませた。

2月25日。

フィリピン最後の日。今日1日は特に目的を決めず、マニラをゆっくりと見て回るつもりだ。

Edsa駅に向かう途中、大通りにつながる裏道に足を踏み入れてみた。雑然とした細い路地が長く続いている。細い路地の一方の側には小さな「店」がいくつも出ており、衣服を並べたり、食べ物を売ったりしている。もう一方の側はトライシクル(3輪タクシー)の列だ。客を待っているトライシクルではなく、ただ置いてある。おそらくここのここの住民の多くがトライシクルの運転手なのだろう。

路地に入る

スラムではないが、豊かではない。「豊かではない」などという遠回しな言い方はやめよう。かなり貧しいエリアだ。マニラの貧しい人たちの日常生活に興味を惹かれ、動画に収めながら歩く。

生活がそのまま表に出ているこんな風景を撮影してひんしゅくを買うのでないか。罵倒されるのではないか、石を投げられるのではないかと、遠慮しながら撮影を開始したが、反応は逆だった。「ハロー」と声をかけてくる子供たち。ピースサインをしたり、手を振ってくれるおばさんたち。

パサイの裏通り

路上で遊んでいる子供たちの中を通ったとき、背後から「コロナウィルス」という言葉が聞こえた。明らかに私に投げかけられたものだ。ちょっと説教してやろうと、振りかえったが誰が発したのか見当がつかなかった。まあそれほど悪意があったとも思われない。

ギターと歌声が聞こえる。上半身裸の中年の男性3、4人、ビールを飲みながらギターをかき鳴らし、放吟しているのだ。。私にもビールを勧めてくる。プラスチックのコップに一杯、ぐっと飲み干した。

うちの1人が日本語をしゃべる。日本で働いていたとこのこと。日本語に切り替え、どこで働いていたのか尋ねる。名古屋や群馬など、いろいろ回っていたらしい。「どんな仕事をしていたのか」との問いには「ゲンバ」との答え。「現場」のことだ。この言葉が妙なリアリティを持っていた。それこそ日本の現場でしか学べない語彙だ。

今日は平日の火曜日。元気で陽気なのはいいが、朝の10時半から路上で宴会はどうなのか。

裏通りの子供

路上の宴会

Edsa駅近くの裏道を歩いていたつもりだったが、いつのまにかEdsa駅の隣のBaclaran駅に出ていた。

Baclaran駅界隈

Baclaran駅から高架鉄道に乗り、Pedro Gil駅で下車。近くのPaco Park & Cemetry(パコ公園・墓地)に立ち寄ってから、北に向かって半時間ほど歩き、SMショッピングモールに着く。

時刻は1時半を過ぎている。フードコートのTokyoというレストランに入り、Tonkatsu Bentoを注文する。スタンダードとアップグレードの2種類があり、アップグレードを選択。どこがアップグレードなのかよくわからなかったが、おそらくみそ汁とデザートが付いていたことがそれだろう。値段は250ペソ(520円ほど)。味は値段相応。弁当ボックスに入ってはいたが、あくまでフィリピン風の豚カツだった。

豚カツ弁当

昼食後、エルミタに向かい、マビニ通りを歩く。この界隈はマニラ随一の歓楽街のはずだが、昼間はその面影はなく、ひっそりしている。日本語の看板もちらほら。カラオケバーだろうか、「おんな」という大きな看板があるのには笑ってしまった。

「おんな」の看板

Robinsonsショッピングモールに立ち寄ってからPerdo Gil駅に向かい、宿に戻る。夕食はセブンイレブンで調達。明日のフライトは8時35分。早朝にチェックアウトしなければならない。

2020年3月14日土曜日

フィリピン戦跡巡り 八~十日目(バギオ)

2月21日~23日。

バギオについては、これまでとちょっと趣向を変えて、時系列に沿った記述ではなく、3日間の滞在を項目別にまとめてみよう。

バギオ

ルソン島北部の高地に位置するバギオはマニラに比べればずっと涼しい。2月の今、気温は17、8度でちょうどよい。朝方になると、毛布1枚では寒いほどだった。

人口は25万人とのことだが、なかなかの都会だった。メインストリートのSession Roadとそれにつながるマーケットには人通りがたえず、ショッピングモールのSM Baguioはマニラのショッピングセンター並みに賑わっている。

Session Road

街の中心にはBurnham Parkがあり、緑も豊かだ。公園、バギオ大聖堂、ショッピングモールなどのメインポイントはすべて歩いて行ける距離にある。マニラのように大きすぎることはなく、マニラのような喧噪とも無縁だ。総じて住みやすい街とみた。

宿

Share & Guesthouse Talaに3泊した。これは日本人に関係するNGOが経営するゲストハウスで、カフェ(Cafe Yagam)が併設されている。

このゲストハウスにはWebサイトから直接に予約した。日本人がらみのゲストハウスを選択したのは、バギオの戦跡に関する情報を欲しかったからだ。しかし、結果的には、戦跡に詳しそうな日本人の女性と会ったのは、23日の昼ごろで、遅きに失した。

トイレ・シャワー共同の個室で1泊1300ペソ(2800円ほど)。Talaの難点は街の中心部から遠いことだ。歩いて40分、タクシーでも10分近くかかる。周囲には店や食堂が少なく、セブンイレブンもない。期待していた日本人のオーナーや旅行者にも会えず、正直なところ選択を誤ったという気がした。

ゲストハウスTala

といってプラスの体験もなかったわけではない。バギオ2日目の22日、ゲストハウスから歩いて7、8分の「トロトロ」で遅めの朝食、あるいは早めの昼食、つまりはブランチをとった。「トロトロ」とはフィリピンのローカル食堂のことで、多くは家族経営の小規模な店だ。フィリピンの家庭料理が数種類作り置きされており、指さしで注文する。ライスとスープが付くのが普通だ。

そのトロトロはおばさん2人で切り盛りされていた。2人とも笑顔で愛想がよい。豚肉と野菜煮込みの2皿を注文。ライス、スープと併せて105ペソ(220円ほど)だった。

トロトロでブランチ

食事をしながら、おばさんたちと話す。近くのゲストハウスに宿泊していること、フィリピンは3回目だが、本格的なフィリピン旅行ははじめてであることなど。とりわけマクドナルドやKFCなどのファーストフード店でライスを提供している話題で盛り上がった。Only in the Phillipensという感想を伝えておいた。たわいもない会話だが、屈託のない温かい雰囲気が心に残っている。

23日の昼前にはじめて日本人関係者と出会った。中年の女性だ。ゲストハウスのオーナーなのか、NGPの主催者なのか、彼女の立場はよくわからなかったが、「カフェでこれからコーヒーのイベントがあるから参加しないか」との誘いを受けた。

コーヒーに興味があるわけではないが、人との出会いを求めて参加してみた。日本人の男性がコーヒーについて英語でレクチャーしている。聴衆は30人くらいはいただろうか。ほとんどがフィリピン人だが、日本人も私を含めて4人いる。レクチャーに続き、5種類のフィリピン産コーヒー、さらに5種類のコロンビアなど世界各地のコーヒーの利き酒ならぬ「利きコーヒー」が行われた。私には違いがわからず、さっぱり区別がつかなかった。

コーヒーに関する知識は深まらなかったものの、バギオに3か月の英語留学に来ている大学講師など、いろいろな日本人、フィリピン人との会話は楽しかった。これもゲストハウスTalaに滞在していたからこそ実現したことだ。

戦跡

バギオと太平洋戦争の関係については、山下大将率いる第14方面軍の司令部が置かれていたということ以外何も知らなかった。これは私の勉強不足で弁解の余地はない。だがルソン島の戦跡はその多くが山の中。日本兵が飢餓に苦しみながら敗走を重ねていたのは山の奥深くだ。戦跡を調べるといっても並大抵ではない。

それでも日米両軍が激突したバレテ峠(Ballet Pass)という地名は知っていた。マニラからはバスで5時間ということだが、バギオからならもっと近いだろう。

バレテ峠への行き方を探るため、22日にバギオの観光局を訪れようとした。しかし観光局は見つからなかった。グーグル・マップが示す観光局の場所まで行くが、それらしき建物が見当たらない。Baguio Museumは見つかったが、その並びにあるはずの観光局はない。観光局が見つかったとしても、土曜日だから閉まっていたかもしれない。

ゲストハウスTalaの日本人女性から「バレテ峠にはマニラから行ったほうがよい」と聞かされたのは23日の昼だった。バレテ峠はあきらめることにした。

話は前後するが22日、観光局を探す前に、バギオの植物園(Botanical Garden)を訪れた。この一角に第14方面軍の司令部の跡があることを知ったからだ。司令部はもともとバギオの別の場所にあったらしいが、米軍に追い詰められてここに移動したという。

植物園はゲストハウスから街の中心部へ行く途中にある。22日、トロトロで食事をしてから、歩いて植物園に向かった。15分くらいで到着。入場料は50ペソだったかもしれないが、確かでない。

司令部j跡はすぐに見つかった。植物園の中を進むと、中国庭園があり、韓国庭園があり、その奥に赤い鳥居が見える。鳥居の横には慰霊碑が建っている。鳥居をくぐると、洞穴がある。穴に入る。二手に分かれた坑道がかなり長く続いている。天井は十分に高く、腰をかがめなくても前に進める。しかし、応急のものとはいえ、ここがほんとうに司令部だったのだろうか。それらしき広い空間がまったくないのだ。

鳥居

慰霊碑


内部

土曜日ということもあり、植物園は賑わっていた。日本軍が残した洞穴に入る訪問者も少なからずいる。

翌23日にはバギオの中心部にある英霊追悼碑とその向かいの公園内の平和の塔を訪れた。多くの住民の犠牲者を出した現場に「英霊」の碑を建てるのはちょっとずうずうしいのではないだろうか。追悼碑の横には尾崎士郎の碑文があった。

英霊碑が建っている庭園を掃除していた男性がノートを差し出してくる。ノートには訪問者の氏名や国名が記されていた。私も自分の名前の横にJapanと書いておいた。

英霊碑

平和の塔

交通事情

21日、11時半にパサイのターミナルを出発したVictoria LinerのFirst Classバスはちょうど5時間かけ、4時半ごろにバギオのターミナルに到着した。バスには女性の車掌が同乗し、乗客にクラッカーと水を配った。バスの中は冷房が効き過ぎていて寒いと聞いていたが、そんなことはなく、適度な涼しさだった。

バギオではGrabは役に立たない。タクロバンのように「not available」ではないが、呼び出されるのはタクシーだけで、料金はタクシーのメーターに示された値段にGrabの手数料を加算した額になる。わざわざタクシーより高いGrabを利用する選択肢はない。

マニラとは異なり、タクシーは信頼できる。市の中心部からゲストハウスへ戻るために3回利用したが、すべてメーターを使い、毎回100ペソ(210円ほど)以内の料金だった。

バギオではトライシクルを見かけなかった。いたのかもしれないが、覚えがない。マニラやタクロバンとの違いのひとつだ。

マニラやタクロバン同様、ジプニーは庶民の移動手段として広く利用されている。ゲストハウスから中心部へ行くために2回利用した。料金は8ペソ。便利なのだろうが、旅行者が乗るには難易度が高い。どのジプニーがどこへ行くのかわかりにくく、土地をよく知っていないとどこで降りるのかも判然としない。

2020年3月11日水曜日

フィリピン戦跡巡り 七日目(コレヒドール島ツアー)

2月20日。

今日はコレヒドール島ツアーの日。戦場がそのまま残されているコレヒドール島の見学は、今回の戦跡巡りのハイライトだ。

このツアーではフェリー・ターミナルに早朝6時半にチェックインすることになっている。タクシーが拾えなければ徒歩で行くしかないと思い、5時40分ごろにホテルを出た。

杞憂だった。外はまだ暗いが、ホテルの外はすでにフル回転。タクシーやトライシクルもいっぱい走っている。せっかく早く起きたのだから、歩いてターミナルまで行く。

到着したころには夜が明けていた。ターミナル内のセブンイレブンでソーセージを1本購入して朝食代わりとする。

6時半にチェックイン。30ペソの港湾使用料を支払って乗り込んだフェリーは予定どおり7時半に出航。ツアー参加者は予想したより多く、ゆうに100人を超えている。大半はフィリピン人だが、欧米人も2、30人はいそうだ。中高年の欧米人男性と若いフィリピン人女性のカップルも少なくない。東洋人はほとんどいない。これはコロナウィルスの影響だろう。日本人は私が確認した限り3人だった。

船内での私の席の隣は4、50代の日本人男性と若いフィリピン女性だった。男性は愛知県出身で、何回もフィリピンに来ているらしい。バターン半島もタクシーをチャーターして訪れたとのこと。チャーターの代金は1日で5000ペソ(1万円ちょっと)だっという。

フェリーの中

フェリーは2時間ほどでコレヒドール島に到着した。船を降りたところに、4、5台のオープン・バスが待ち構えている。このバスに分乗して島を巡る。バスにはそれぞれフィリピン人のガイドが同乗しており、英語で説明する。

スペインに代わってフィリピンを植民地とした米国は1900年代の初頭にコレヒドール島を要塞化する。セメントは日本(浅野セメント)から輸入し、鉄筋は米国製を使ったとのこと。島は米軍の生活の場でもあり、軍事施設だけでなく、映画館やダンスホール、プールも備えていた。

島は1942年に米軍の撤退とともに日本軍の占領下におかれ、1945年2月に米軍に奪回された。米軍の猛攻撃のもと、総勢5千人の日本軍兵士が玉砕した(生存者はわずか9人ともいわれている)。その悲惨な現場を保存したのがコレヒドール島だ。

コレヒドール島ツアー

バスが出発するとすぐに廃墟や洞穴が目に入ってくる。まずマリンタ・トンネルに立ち寄る。日本軍が立てこもり、多数の戦死者を出したトンネルだ。トンネル見学はオプションだが、ほぼ全員が中に入った。

トンネルに入ると「光とサウンドのショー」が始まる。トンネル内の各壕に旗や模型、人形が配置され、ナレーション(もちろん英語)が重なる。ビデオを放映している壕もある。こうした人為的なショーより、当時のままを残しておいてくれたほうが臨場感があるのではというのが正直な感想。

マリンタ・トンネルを出る

続いて日本人による慰霊碑が建てられている丘に向かう。ここは「日本平和庭園」と呼ばれているらしく、海に向けられた大砲から少し離れて各種の慰霊碑や記念碑、観音像が見られる。「向こうに日本人の墓がある」と教えてくれたフィリピン人のカップルとしばらく話す。

慰霊碑

まだ12時になっていないが、ホテル(Corregidor Inn)でランチ・タイムとなる。ツアーには2日がかりのコースもあり、その場合はこのホテルに宿泊することになる。

ビュッフェ式のランチは期待外れだったが、ツアーの食事となればこんなものかもしれない。

廃墟を通過しながらバスはBattery Wayという砲台に着く。1942年の戦いで日本軍を震撼させた巨大な大砲がいまも残っている。

Battery Way

次にハーン砲台を見てから、長い兵舎や映画館、ダンスホールがあった広場に行く。いわば島のメイン広場といった趣だ。もちろん残っているのはすべて完全な廃墟で、当時の面影はない。太平洋戦争記念碑(Pacific War Memorial)や米国・フィリピン兵士像(Brothers in Arms)があるのもここだ。

ハーン砲台

長い兵舎

Brothers in Arms

太平洋戦争記念博物館(Pacific War Memorial Museum)にはマッカーサーのレイテ上陸、山下将軍の軍事裁判などの興味深い写真が展示してあった。

山下将軍

スペイン統治時代の灯台(もちろん再建されたものだ)に続きBattery Crockettの砲台を訪れ、最後に海岸を少し散策してからツアーは終了した。

Battery Crockett

戦争のすさまじさを物語る廃墟や残骸がこれだけ多く残されているのは驚嘆に値する。砲台や廃墟を背景に写真を撮り合っている欧米人(おそらく米人)とフィリピンの若い女性のカップル、フィリピンの家族連れ、若い女性グループなどはこれをどう受け止めているのだろうか。

私の場合は、これまで無知だった太平洋戦争時の日本とフィリピンの関係を生の形で眼前につきつけられる、そうした体験としてこのツアーはあった。

再びフェリーに乗り、ターミナルに着いたときには、予定より30分ほど遅れて5時近くになっていた。

時間があるので宿まで歩く。途中、2日前と同じくDoubleDragon Plazaに入り、Mang Inasalというチェーン店で夕食をとる。

フィリピン戦跡巡りのメイン・イベントはこうして終わった。明日はバギオへ向かう。